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第2章

 生まれと血筋

英国における種々の変化――1834年の英国の状況――困苦の時代―― 一般大衆の無知と退廃――ケルヴェドンにおけるスポルジョン家――同地の歴史的記憶――コルチェスターへの転居――ジョン・スポルジョン氏の牧会活動の地トールズベリー ――スタンボーン

 スポルジョン氏は、その五十七年というさして長からぬ生涯の間に、多くの変化がもたらされたのを目にした。1834年、彼の両親が、新婚早々の若夫婦としてケルヴェドンに所帯を持ったとき、世間の風向きは明るくはなく、むしろ陰鬱なものであった。四人のジョージ王たちが没入した、数々の打ち続く散々な戦争は、避けがたい反動を引き起こしており、貿易は沈滞し、農業は不振に陥っていた。農民たちは、その日その日をかつかつに暮らすにも難渋していた。というのも、作物の値段は下がっているのに、地方税その他の物入りは、大々的に増加していたからである。政界や教界においては、ただならぬ騒擾が持ち上がっていた。というのも、選挙法改正法案[1832]が、それに過大な望みをかけていた人々の期待に全くそぐわないものであることがわかったために、宗教上の平等や、様々な悪弊の廃止を求める声が大きくあがりつつあったからである。私たちが理解するような、現代の慈善事業は、いまだ端緒についていなかった。一般大衆の大多数は、無知と退廃の状態にあった。町々には多少なりとも慈善学校があり、そうした学校を有する村も、点在していないわけではなかった。だが、国民教育の計画を実施する責任が政府にあるなどということを信ずる者は、まだひとりもいなかった。アシュレー卿は、すでに労働者および被抑圧階級のための戦いを開始していたが、その努力に加担すべき一般の同情と友人たちを欠いていたため、はかばかしい進歩を遂げていなかった。

 ジョン・スポルジョン氏がジャーヴィス嬢と結婚してケルヴェドンに居を構えたとき、彼が住まいとして選んだのは、非常に典型的なエセックス州の村であった。それは大きな村ではなく、現人口はおそらく二千人を越えてはいないであろう。これまでのところ、観光客の好餌となってはいないものの――来たるべき将来にはどうなるかわからないが――、それは交通の便のよい場所にあり、地誌学者にとっては多少とも興味深い、二三の歴史的な記憶が伴っている。1834年6月19日にチャールズ・ハッドン・スポルジョンが生まれた小さな昔風の家屋を訪ねた後で、観光客たちは、あちこちをぶらぶら歩き回り、遠い過去に、そこで繰り広げられた別の出来事に思いを馳せるであろう。古の時代、この荘園は、証聖王エドワード[1002?-66]の世襲財産であった。だが、現在、遠い時代に荘園であったものは、2つに分けられており、一方はロンドン司教管区に付属していると思われ、もう一方はフィーリクス屋敷の主のものである。その庭からは、ブラックウォーター川の流れる谷間がのぞく、非常に美しい景色を見渡すことができる。何世紀も前に、英国を侵略した北欧人は、この豊かな土地を選んで定着した。そして、十一世紀初頭のデーン人大虐殺は、ケルヴェドンを皮切りに始まったといわれる。現在のロチェスター地区主教は、この偉大な説教者[スポルジョン]の葬儀に参加した人だが、同地の聖職禄の授与権者である。その教会には尖塔と、初期英国様式の柱列と迫持、それに後代の身廊屋根があり、それらすべてに、教会関係の考古学者たちは何かしら関心を惹くものを見いだすであろう。

ケルヴェドンのスポルジョン氏の生家。現在は《麦束亭》。

 跡継ぎの息子の誕生後――その息子に彼らは叔父にちなんでハッドンと名付けた――、ジョン・スポルジョン夫妻はケルヴェドンに長くとどまらなかった。1835年の4月前後に、彼らはその村の自宅を引き払い、コルチェスターに定住することにした。コルチェスターの方が、彼らの仕事のためには好都合であり、そこには彼らの親類も何人か住んでいたらしい。こういうわけで、チャールズとジェームズのスポルジョン兄弟が、そろってケルヴェドンの学校に通った――そして、それぞれ《大ちゃん》《小ちゃん》と呼ばれていた――という、しばしば繰り返される話には根も葉もない。チャールズは、両親がコルチェスターに引っ越したときには一歳にもなっておらず、満一歳になるとすぐに、スタンボーンの祖父母と暮らすべく送り出されたからである。

 ハッドンという名前が一家の中に入り込んだ次第は、以下の通りである。スタンボーンの牧師[チャールズの祖父]の父親は、乾酪仲買人だったが、その運転資本は十分なものではなかった。だが彼は常に、友人である同輩執事のハッドン氏から貸し付けてもらうことができた。寛大さの鏡のような人物ではあったが、ハッドン氏には奇矯なところがあり、その風変わりなやり方に注意を払わなくては、決して彼の好意を受け続けることはできなかった。彼はその友人のため、一度に五百ポンドも用立てることがあった。だが、利息は一銭も受け取ろうとしなかったものの、合意した返済日に借金が返されない場合、いかなる弁解も受け入れようとはしなかったのである。メトロポリタン・タバナクルの亡牧師[スポルジョン]の曾祖父は、自分の気前の良い同輩執事の気に障るようなことは何1つすまいと注意していた。それで彼は、自分の気遣いの現われとして、わが子のひとりにハッドンという名をつけたのである。そうこうするうちに、未来の大説教家の母親は、息子をチャールズ・ハッドンと呼ぶようになった。実際、スポルジョン氏は自分の父母のそれぞれの兄弟にちなんで名付けられたのである。――チャールズ・パーカー・ジャーヴィスと、ハッドン・ラドキン・スポルジョンである。現在のメトロポリタン・タバナクルの牧師であるJ・A・スポルジョン師[スポルジョンの弟]は、私への私信でこう教えてくれている。「ハッドンの家は今は米国にいて、敬愛する父と手紙のやりとりをしています。彼らはまだ、『ハッドン屋敷』のことを、家産から失われてはいても、正当に自分たちのものだと考えています」。

 コルチェスターに住んでいる間に、ジョン・スポルジョン氏は、トールズベリーの、とある集会の牧師となり、そこで日曜ごとに説教するようになった。トールズベリーは、ブラックウォーター川の支流沿いにある町である。同教区には数千エーカーもの水路や小湾があり、このために、また、その塩水性の牧草地と、牡蛎網漁とにより、余所では見られない独特の特徴があった。トールズベリーにおけるジョン・スポルジョン氏の奉仕は数年続いた。すなわち、彼の子どもたちが、九マイルの距離を日曜ごとに通う父親に同行できるくらい大きくなるまで続いた。その間、チャールズ少年はスタンボーンにとどまり、あたりを走り回ったり、早熟児ぶりを発揮するようになっていた。後に同地は、彼がその休暇を好んで過ごす土地となる。

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