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第1章

 スポルジョン家の父祖の地

オランダ渡来のスポルジョン家――迫害によりオランダから追放される――フェリペ二世とアルバ公――沈黙のヴィレムと英雄時代――ライデン包囲戦――同国に対するスポルジョン氏の関心――1863年のオランダ説教旅行――オランダ人の特徴――スポルジョン氏の嗜好――オランダ人との共鳴――クエーカー教徒ジョブ・スポルジョン

 スポルジョン氏の家系で知りうる限り最古の人々が、オランダ系の血筋であることは、興味深い事実である。だが、それにもかかわらず、この偉大な説教者は英国人であり、英国を愛し、この上もない無私のしかたで、英国の幸福のため自分の最上の力を傾注することに満足していた。衆目の一致するところ、生前の彼は、《普遍教会》のしもべであり、世界市民たる人々のひとりであった。だが、あらゆる国民の敬意を彼が一身に集めていたとはいえ、おそらく英語民族こそは、彼を完全に理解できる唯一の人々であった。翻訳を通してでしか、その人となりに接することのできなかった外国人は、原語の装いによる彼の講話の最上の素晴らしさを、決して完璧には悟ることができなかった。

 本書の主題である人物が生まれる二世紀半以上も前に、プロテスタント教徒であった彼の先祖たちは、迫害によって母国ネーデルランド[現在のオランダ・ベルギー領]から逐われたものと思われる。それは、フェリペ二世の憎むべき統治のもとで勃発した、全国的規模の迫害であった。この狂信的な専制君主は、政治的明敏さという点では、父カール五世に及ばなかった。そして、結局のところ、この心得違いな暴君の幸運というよりは不運となったのは、その有能なしもべたちが、彼自身の見下げ果てた目当てと全く軌を一にする頑迷固陋さと気心の持ち主であったことであった。こうした者らのおかげでフェリペは、自らの帝国を滅ぼし、スペイン民族およびスペインの属国領に永続的な恩恵を授ける大きな機会を打ち捨てることになったのである。おそらくこのスペイン王は、彼の妻である、当時の英国女王メアリーの治下、スミスフィールドで死んだ殉教者たちを火刑にすべくけしかけた一派のひとりであったであろう。だが、もしこのあまりにも熱心なローマカトリック教徒がその点で英国を害したとしても、彼は、自国民の精華ともいうべき人々を追い払い、英国領に安全な隠れ家を求めさせたことにより、意図せずしてわが国に恩恵を授けたのである。スポルジョン家は、アルバ公フェルディナンド・アルバレスの手による死を逃れようと海を渡った大勢の人々と同じく、プロテスタント国民の精粋であった。1567年、二万人の傭兵軍を率いて低地帯[現ベルギー・オランダ・ルクセンブルグ領]に侵攻した、このスペイン人将軍[アルバ公]は、完全にフェリペ二世の心にかなう人物であり、その迫害政策を果断かつ精力的に実行していった。

 その英国の妻[メアリー]の死と、彼女の後を継いだプロテスタント教徒たる偉大なるエリザベス女王の登位とのすぐ後で、フェリペは、自分のフランドル所領[現在の西ベルギー・南西オランダ部・フランス北部を含む北海沿岸地域]に、不穏な空気が漂いだしたことに気づいた。これらの領国は富裕であり、富を蓄積しつつあった。宗教改革はすでに同地に深く入り込んでおり、スポルジョン家がほんの一例でしかないような多数の国民が、いったん事あらば、自分たちの信仰のため犠牲を払うこともものともしないほどに、十分な光を受けていた。しかしながら、このような臣民たちは、粘液質のフェリペ二世の気にくわなかった。彼にとって、ローマカトリック教および異端審問の護持こそは、何よりも重要なことであり、こうした事がらに対して他の見解をいだきつつある低地帯の住民たちを彼が取り扱ったしかたは、父王が彼らに対して採った穏健な政策とは著しく対照的なものであった。スペインで開かれたある会議で、フェリア公は、温和な施策を採るように進言した。だが、逆にアルバ公は、峻厳さだけが彼らの念頭にある目的を果たすはずだと断言した。そして、このアヒトフェルに王は従ったのである。この進言は、彼自身の残虐な性質と合致していた。そして、アルバに対していだく賞賛の念のあまり、王は、この有能な将軍にほぼ無制限の権力を与えた。その後何が起こったかは、歴史を知る者すべてのよく知るところである。五年少々の間に、エグモントおよびホールンというふたりの愛国者を含む一万八千人もの人々が処刑される一方で、およそ三万人もの亡命者たちが、その学芸および産業技術をかかえて、他国に逃避していった。

 これはオランダ史における英雄時代であった。そして、わが国のウィリアム三世の先祖であるオラニエ公、沈黙のヴィレムは、当時の英雄であった。記憶すべき事件の1つは、1573-74年の、パルマ公によるライデン包囲戦である。その物語は、『地理学の宝庫』の中でこのように簡潔に語られている。

 「七週間の間、その都市の中にはひとかけらのパンもなかった。馬も、猫も、犬も、あらゆる種類の草木とともに貪り食われた。だが、降伏を求めて騒ぎ立てる者らに自らの肉体を差し出した市長ピーター・アドリアンゾーン・ヴァンデルヴェルフの英雄的な模範は、彼の同胞市民を鼓舞し、最後まで持ちこたえさせた。同地を救出するに足る兵力を集めることのできなかったオラニエ公は、とうとう絶望的な決意を固め、隣接する堤防を決壊させ、海洋の水を流し込むことにした。その完全な結果が生ずるまでには、多少の時間がかかったが、ついに暴風によって押し込まれた海水が怒涛となって流れ込み、包囲軍の攻城具を呑み込み、溺死者一千人を残して、敵兵を命からがら逃走させた。早速、攻囲された場所を救出すべくあらかじめ用意されていた短艇の船団が、ロッテルダムから差し向けられ、新たに生じた海原を渡って、意気揚々と同地の城壁に達した。オラニエ公は、ライデン防衛軍の示した英雄的勇気への感謝のしるしとして、2つの報奨のうちのどちらかを選ばせることにした。――特定の税の免除か、大学の設立かである。これは彼らの永遠に残る誉れだが、同市の市民たちは後者を選び、このようにして設立された施設は、急速に欧州で最も卓越した大学となり、今もなおその盛名のあらかたを保持している。オランダには、このように英雄的な伝統があるのである。たとえその国土がひらべったく起伏に乏しいものであろうが、その国民が粘液質で、計算高い気質をしていようが関係ない」。

 スポルジョン氏は、決してオランダに対する関心を失うことがなかったし、自分の説教集その他の著作がオランダ語に訳されて広く普及していることを知って満足していた。1863年の初頭に、この英国人説教者はオランダの主要都市を歴訪した。そして、その訪問旅行中、当時のオランダ女王と会見を許されるという光栄に浴したのである。このような時、彼の脳裡には、かの十六世紀の記憶がまざまざと浮かび上がったであろう。彼は、身1つで逃亡してきた自分の血族のことを考え、後に残って1つの偉大な国の土台を据え、多くの場合そのために自分の血を流した人々のことを考えたであろう。

 たとえ起伏に乏しい土地に住んでいようが、中流階級のオランダ人の主要な特徴は、その園芸に対する愛である。そしてこれは、後代の子孫たちが、たとえ他国の居住者たちと入り交じるようになっても、しばしば示すことになる嗜好にほかならない。こうした樹木や、潅木や、花々に対する愛がスポルジョン氏の特徴であったことは、彼の習い性をよく知っていたすべての人々にとって明らかであった。彼は自分の庭園を愛していた。仕事と気苦労のあまりに倦み疲れたとき、それが常に変わらず心を清新にしてくれたからである。また、友人たちが時として遠国から彼に送ってよこしたえり抜きの植物は、美術愛好家が高価な芸術品や工芸品をいとおしむように、硝子ばりの温室の中で大切に守られていた。彼は外気を愛した。だが彼は、自分の書斎から、はりめぐらされた硝子の中の、いわば自分の内奥の庭園とも呼ぶべきものの中へ歩み入ることができたのである。

 これらすべては、現在のオランダ人の嗜好と完全に一致している。「その日暮らし以上の境遇にあるオランダ人はみな、郊外に自分の別荘を持ち、土曜日の夕方には家族とともにそこへ赴き、煙管をふかしながら、月曜日まで田園生活を営むものである」、とS・レイン氏は、著書『とある旅行家の記録』の中で語っている。同じ著者は、こう付言する。「その土地の細長い一片は、いくつかの花壇に仕切られ、1つの壇の花々は通常同じ種類の同じ色とされる。こうした咲き誇る花々のあでやかさ、――別荘を飾る白と緑の塗装面、――こうした、きらめくように麗しい夏の宿が、広い運河の傍らで陽光に輝き、陽炎の立つ中、目も彩な大小様々の意匠の花壇を配した庭地から連綿と浮かび上がっている姿、また、窓辺でくつろぐ華やかに着飾った婦人たち、敏速に行き交う、舷側を磨き上げた遊覧短艇、都市住民の全体が休日着をまとって水上で、あるいは徒歩で楽しげにしている様子、――実際、こうしたことこそ、人の目を喜ばせ、見飽きることのない夏の宵の景色をなしているのである」。

 これが幾世代もの発展を経た後の今日のオランダであり、これが十六世紀に自由をかちとろうとした苦闘に関する英雄的な記憶である。このような国にとって、さらなる栄誉の積み増しとなるものが、スポルジョン家の祖国であったという事実にほかならない。スポルジョン氏がオランダ人、それも特に同地におけるキリスト教信仰の進展に関心を持っているオランダ人と会うとき、この英国人牧師は常に、互いに共鳴し合い、気持ちが通い合うのをたちまち感じるのであった。

 このようにスポルジョン家は、宗教改革期に十分難儀を積んできたが、一世紀後のピューリタン時代にも、引き続き苦難を忍ぶことになった。チャールズ二世の治下で投獄されたジョブ・スポルジョンなる者の記録が残っている。このジョブ・スポルジョンは、ベッセの『受難史』で二度、次のように言及されている。――

 「1677年。――デダムで集会を開いた廉により、サミュエル・グルーム(集会の開催宅の主)、ジョブ・スポルジョン、その他の者らから、16ポンド15シリング6ペンスに当たる家財を没収」。
 「1683年。――7月22日、デダムのジョブ・スポルジョンその他三名は、拘引状によりチェルムズフォード監獄に収監された。彼らは、数週間後に、裁判所が開廷するまで保釈された。だが、10月3日に出廷した彼らは、今後不埒な行為に及ばぬよう保証することを求められ、それを拒否したために再投獄され、彼らのうち三名は、厳寒の冬のさなかに、十五週間も藁の上に寝ることになった。だが、四番目のジョブ・スポルジョンは横になることができないほど弱っていたため、ほとんどの間は椅子に座っていた」*1


*1 『友人』(1892年2月26日)におけるトマス・シャープの引用。

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