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若き日のスポルジョン

 C・H・スポルジョン自伝抜粋


 私が幼い子どもだった頃、庭には小さな花壇があり、私たちはそこに、自分の種を埋めるのが常だった。今でもよく覚えているが、自分の種を埋めた次の日、私は埋めた地面を掘り返しては、種が育っているかを確かめようとしたものである。長くて一日か二日もすれば、当然種は育っていると思い込んでいたのである。そして私は、種が地面の上に芽を出すまでには、何と長くかかるのかと思った。

 あなたは幼稚だと思うであろう。確かに幼稚なことであった。けれども私は、祈りについては、あなたにも幼稚であってほしいと思う。祈りを植えたなら、それが育っているかどうかを見に行くようであってほしい。そして、もしそれがすぐには育っていなかったとしたら――定められた時期が来るまで待てないというほど幼稚になってほしくはないが――、事あるごとに、その祈りが芽を出し始めていないかどうかを確かめに戻ろうではないか。

 もしあなたが少しでも祈りを信じているなら、神が耳を傾けてくださると期待しようではないか。期待しなければ、かなえられない。神が耳を傾けてくださると信じなければ、神は耳を傾けてくださらない。けれども、もし神のみこころを信ずるなら、神は、あなたが信ずるだけ良くしてくださる。神は、決してあなたの思いに劣るようなことでお茶を濁すようなお方ではない。神は、あなたの考える限度一杯まで近づいてくださる。そして、あなたの信仰に応じて、事をなしてくださるのである。

 学校に通っていた頃、私たちはよく石版の上に、家や、馬や、木の絵を描いたものである。今でも思い出すのは、自分が描いた家の下に「うち」と書いたり、馬の絵の下に「うま」と書いたりしたことである。それは馬を家と思ったりするような人があると困るからであった。

 それと同じように、ある人々は、首の下に「キリスト者」という札をかけておく必要があるように思われる。そうでもしないと、非キリスト者と間違えられかねないような、全く未信者同然の行ないをしているからである。

 休暇をスタンボーンの田舎で過ごす間には、色々と忘れられないような経験をしたものである。祖父はアイザック・ウォッツ作詞の賛美歌をことのほか好んでいた。そこで、私に賛美歌を暗記させようとした祖母は、1つの賛美歌を一言も間違えないで暗唱できたら、そのたびに1ペニーくれる約束をしてくれた。私には、これは楽しく簡単に金儲けができる手段だということがわかり、たてつづけにいくつも暗唱して見せたため、祖母が破産をまぬかれるためには、一曲につき値段を半ペニーに切り下げ、ついで1ファージング[1/4ペニー]に切り下げざるをえなかった。そのままでは賛美歌一曲がどこまで暴落を続けたかわからない。だが、そこへ祖父がやって来て、家中をねずみに荒らされてかなわないと云い、どうだい、1ダースねずみを殺すたびに1シリング[12ペンス]やろう、と私に云った。そのときの私は、ねずみ取り稼業の方が賛美歌暗唱よりも実入りがよいと思い、ねずみ取りにはげむようになった。しかし今では、どちらの方が私に永続的な益をもたらしたかは明らかである。どのような主題で説教するときも、私は今なお、説教の途中でその主題にふさわしい賛美歌の歌詞をすぐに引用することができるのである。賛美歌の歌詞は、私とともに長くとどまった。しかし、私が捕まえたあのねずみたちはとっくに死に絶え、ねずみを殺して稼いだシリング硬貨もとうの昔に使い果たしてしまっているのである。

 狐狩りが大好きだった私は、福音の使信を伝える者として、あるとき非常に有益な教訓を学んだ。その日私は、買い物かごを持って使いに出され、お茶を1ポンド、洋芥子を四分の1ポンド、米を3ポンド買った。ところがその帰り道、猟犬の群れが大騒ぎで駆けている姿に出くわし、これは垣根や溝を飛び越えてでも後を追わねばと感じたのである(少年の頃は、猟犬の姿を見るたびにそう感じたものである)。家に帰り着いたとき、買い物かごの中身は、お茶と洋芥子と米が入り混じった、すさまじいごたまぜになっていた。その日以来私は、自分の話す主題を内容ごとにしっかり区分し、言葉の糸で堅くゆわえておかなくてはならないことを頭に叩き込まれた。それで私は、いかに時代遅れの説教法だと云われても、第一に……、第二に……、第三に……、という説教のしかたにこだわり続けているのである。人は、芥子入りの紅茶を飲んだりしないし、何が何だかわからない、めちゃくちゃな説教に感銘を受けたりもしない。どこが頭でどこが尻尾かわからないスカイ種テリヤのような話をありがたく思うような人はいない

 私が英国国教会付属の学校に行かされたのは、十四歳のときであった。……三人の司祭が、順番で私たちに教理を教えてくれた。……そのうちの一人は立派な人で、私はこの人によって、信仰者のバプテスマという真理に初めて目が開かれたのである。私は普段、組の首席で、ある日、英国国教会の教理問答が復唱されているとき、次のような会話が交わされた。

 司祭.――君の名は何というね?
 スポルジョン.――スポルジョンです、先生。
 司祭.――違う、違う。君の名前は何だね?
 スポルジョン.――チャールズ・スポルジョンです、先生。
 司祭.――違うというに。ふざけてはいかんな。わしが聞いとるのは君の洗礼名だとわかっとろう。
 スポルジョン.――すみません、ぼくには洗礼名はないと思うのですが。
 司祭.――何と、それはどういうことだね?
 スポルジョン.――ぼくはキリスト者じゃないと思うんです。
 司祭.――では、何だね? 異教徒かね?
 スポルジョン.――いえ、先生。でも異教徒でなくとも、神の恵みを受けていないうちは本当のキリスト者とはいえないのではないでしょうか?
 司祭.――なるほど、なるほど。よかろう、君の苗字でない方の名前は何かね?
 スポルジョン.――チャールズです。
 司祭.――だれがそう名づけたのかね?
 スポルジョン.――わかりません、先生。ぼくには名づけ親がいないもので、だれがどうしてこの名前をつけたのか知らないんです。たぶん母か父ではないでしょうか。
 司祭.――ヤレヤレ。みんな笑うのをやめなさい。ま、君のまともな答えを期待したわしも悪かったわい。

 この司祭はいつも私に目をかけてくれていて、私が信仰教理について最優秀の成績をおさめたほうびに、『教会暦』という子牛皮の書物を与えてくれたことがあった。教理問答を少し進めた後で、彼は突然私の方を向いて云った。

 司祭.――スポルジョン、君は正しいしかたで洗礼を受けておらんぞ。
 スポルジョン.――ええっ、そんなことはありません、先生。祖父が居間でぼくに洗礼を授けてくれました。ぼくの祖父は牧師ですし、正しいしかたで洗礼を授けたはずです。
 司祭.――そうかな。だが、君には信仰も悔い改めもなかったんだから、洗礼を受けてはならなかったはずだ。
 スポルジョン.――だって、先生。そんなの何の関係もありませんよ。子どもはみんな生まれたら洗礼を授けられなくてはならないんです!
 司祭.――なんでそんなことがわかるね? 祈祷書によれば、洗礼を受ける前には信仰と悔い改めが必要なのではなかったかな。これは、何ぴとたりとも否定できない聖書的な教理だよ。(ここで彼は、聖書でバプテスマを受けたと語られている人はみな信仰者であることを順々に示した。それはもちろん、たやすいことであった)。さてチャールズ。来週まで宿題だ。果たして聖書が、信仰と悔い改めを洗礼前に必要な条件としているかどうかを調べてきなさい。

 私は、これは勝ちだと思った。祖父と父のふたりが牧師として執り行なった儀式が正しくないはずがないと思ったからである。しかし、私は聖書の中にそれを見いだすことができなかった。私は打ちのめされた。そして、とるべき態度を心に決めた。

 司祭.――さて、チャールズ。今はどう考えとるね?
 スポルジョン.――ええ、先生。先生は正しいと思います。でも、それなりら、正しく洗礼を受けていないのは、ぼくだけでなく先生もですよ!
 司祭.――それを君に教えたかったのだよ。だからこそ、名親を立てる必要があるのだ。つまり、信仰なしには、わしも君と同様に聖なる洗礼にあずかる資格はなかったのだが、教会は、わしの名親の約束を信仰の代わりとして受け入れたのだ。お父さんが持ち合わせのないとき、お金の代わりに約束手形をくれたなら、君は何も疑わんだろう。それは支払いの保証とみなされるのだ。正直な人なら、自分の書いた手形を尊重するだろうと思えるからな。さて、名親は普通善良な人だ。そして教会は、子どもに代わる彼らの約束を善意によって受け入れるのだ。そのとき子どもは信仰を持てんが、その子がやがて信仰を持つとの保証を受け入れるのだ。そしてその子がその約束を実現し、責任を果たすのが堅信礼の儀式というわけだ。
 スポルジョン.――でも先生。それは、随分いいかげんな約束手形だと思います。
 司祭.――君とそのことで議論している時間はない。だがわしはいいことだと思うぞ。1つだけ聞いておこう。英国国教会の司祭たるわしと、非国教徒の牧師たる君のおじいさんと、どちらが聖書を重んじているかな? 君のおじいさんは、聖書にまっこうから反して洗礼を授けておる。わしの方は違うと思うぞ。わしは、悔い改めと信仰の代わりとして、将来果たされるであろう約束を求めておるのだ。
 スポルジョン.――実際、先生の方がまだましだと思います。でも、本当のところは、信仰者しか洗礼を受けるべきではないというのが真理らしいので、どちらも間違っていると思います。先生の方がしかるべく聖書を敬っているという気はしますが。
 司祭.――では、君は自分が正しく洗礼を授けられていなかったと認めたわけだ。それなら君は、もし自分で決められることなら、君に代わって約束してくれる名親を持って、国教会に加わることを自分の義務と考えるだろうね。
 スポルジョン.――とんでもない! ぼくはもう、受けるべきでないときに一度洗礼を受けました。今度は洗礼を受けるにふさわしくなるまで待ちますよ。
 司祭.――(ほほえみながら)それは間違っとるよ。だが、君が神のみこころに従おうとしている態度は立派だと思う。神に新しい心と導きを求めなさい。さすれば次々と新しく真理が開かれて、今は君のうちに深く根ざしているように見える数々の偏見も一変するじゃろう。

 その学校を出てまもなく、神は私をキリストへの信仰に導き、神の平安と永遠のいのちを見いださせてくださった。だが私は、十二箇月間、その学校に通ったことを感謝せずにはいられない。それは英国国教会の付属校であった。それまでの私は、国教会については何も知らなかったが、そこに通ったことが、私の人生の転回点となった。それがなければ現在の私はない。周知のように国教会の教理問答には、「人が洗礼を授けられるため必要な条件は何か」、という問いがある。その答えとして教えられ、実際に私も出した答えは、「罪を捨て去る悔い改めと、この礼典において神が約束してくださったことを堅く信じる信仰」であった。私はその答えを探して聖書を調べ、悔い改めと信仰に関する限り、それが完全に正しいことを発見した。そこで私は、後にキリスト者になったときには、もちろんバプテスト派になったのである。いま私がバプテスト派としてここに立っているのは、英国国教会の教理問答のおかげというわけである。会衆派の家庭に育った私は、そのようなことは一度も考えたことがなかった。自分は幼児期にバプテスマを受けたものと思い込んでいた。それで、「洗礼を受けるための条件は?」、という問いに直面し、悔い改めと信仰が必要であると発見したとき、私は自分に向かって云ったのである。「では私はバプテスマを受けていなかったのだ。私が幼児のころ受けた滴礼は間違いだったのだ。ならば私は、神が悔い改めと信仰を歌えてくださるときに、ふさわしくバプテスマを受けることにしよう」。私は、これと同じような考えをしている人がほかにいるとは知らなかった。バプテストたちはほとんど自己宣伝をしないのか、あるいは当時はしていなかったのか、私はバプテストたちの存在を知らなかった。それで私は、メードストンのその英国国教会の学校に、その教理問答に、またそこで学んだことに感謝を覚えるのである。それ以外の問答に深い感銘を受けた覚えはないが、その問いだけには非常に感謝している。それは、その問答を書いた人々の思いもよらぬ方向へ私を導いた。しかしそれは聖書の教え、すなわち、真のバプテスマの前には悔い改めと信仰がなくてはならない、という教えに従う道へ私を導いてくれたのである。

 私が初めて神学の手ほどきを受けたのは、私が助教師を勤めていたニューマーケットの学校の老料理婦からであった。彼女は善良な老婦人で、『福音のみはた』誌をよく読んでいた。彼女が好んでいたのは実に甘美なもの、健全で堅固なカルヴァン主義教理だったが、それを熱心に自分のものとするのと同じくらい熱心に生活に生かしていた。私たちは何度も恵みの契約について議論し合い、聖徒の個人的選びや、聖徒とキリストの結合、聖徒の最終的堅忍、そしていのちに満ちた敬虔さとはどういうことかについて話し合ったものである。彼女から学んだことは、近頃の神学博士が六人がかりでも教えられないほど大きかったと思う。キリスト者の中には、信仰を魂で悟り、楽しみ、書物で得られる以上に深い信仰の知識を手にする人々がいる。もちろん、それは一生の間探り求めた結果ではあるが。そのニューマーケットの料理婦はよく練られた敬虔な婦人で、彼女によって私は、私たちが通っていた会堂の牧師から受けたよりもはるかに多くを学んだ。私は一度、「どうしてあんな所に行くの?」、と聞いたことがある。「他に礼拝しに行けるところはないからねえ」、と彼女は云った。「でも、あんな話を聞くよりは、うちにいた方がいいに決まってるよ」。「そうかもしれないわねえ」、と彼女は答えた。「でも、あたしは何も受けられないとしても礼拝に出かけるのが好きなの。めんどりがえさを探して、ごみためをつっついてるときがあるでしょう。ほとんど何も見つからないわね。でも、それはえさを探している証拠だし、えさを手に入れるための手は尽くしているということだわ。それにそうしていれば、こごえないですむでしょう」。つまりこの老婦人は、彼女の聞く貧弱な説教から何かつかもうとすることは、霊的な能力の鍛錬になり、魂を暖めてくれるので、彼女にとってそれは祝福だったというのであった。別のおりに私は、きょう聞いた説教の中にはパンくず1つ見あたらなかったけど、どう思った? と聞いたことがある。「あら、今晩はよい方でしたよ」、と彼女は答えた。「なぜって、あたしは、あの先生が何か云うたびに、『……ということではありません』、って心の中でつけ加えながら聞いてましたからね。そうしたら、本当の福音を聞いてるみたいでしたよ」。

 私の心は未開墾の荒れ地で、草ぼうぼうといった有り様であった。しかし、ある日、かの偉大な農夫がやって来て、私の魂を耕しにかかった。十頭立ての黒い馬に鋤を引かせ、それはそれは鋭い鋤刃を用い、深い深い畝を作った。十戒はその黒い馬であり、神の正義は鋤刃のように私の霊をえぐった。私は罪に定められ、破滅させられ、滅ぼされ、――失われ、無力で、望みなく、――さながら地獄の縁に立っているような思いであった。そこへ、真横からもう一度、鋤起こしがなされた。私は福音を聞きに云っても何の慰めも感じられなかったのである。福音を聞いて、その恵みにあずかりたいと思いはしても、そのような願いは話にならないように思われた。いかに甘美な神の約束にも、私は威圧感を覚え、神の脅かしには骨の随から揺さぶられた。私は祈った。しかし心は決して休まらなかった。このような状態が長い間続いた。

 こうした心を深々とえぐられる経験から、いかに豊かな収穫を刈り取ることができるかを思えば、それだけで、この厳しい課程も甘受できるはずである。……

 暗く、苦い罪意識に黒々といろどられた霊的経験は、そうした経験をくぐり抜けた人にとって非常に有益である。その杯はすさまじく苦いが、飲んでしまえば腹には甘く、以後の人生すべてが健全なものとなる。おそらく、今日のキリスト者の虚弱さは、そのほとんどが、回心前のこうした日々において、あまりにも簡単に平安や喜びに達してしまったことから生じているのではなかろうか。現代の回心者をさばこうとは思わないが、魂を涙の十字架に導き、おのれの暗黒を悟らせ、その後で初めて、自分が「雪のように白く」されたのだという確信に至らせるような形の霊的体験の方が、私たちには好ましく思われる。あまりにも多くの人々が罪を軽くみなし、それゆえ救い主をも軽くみなしている。自分の神の前に立ち、自分の罪を確信し、自らを有罪と認め、首に絞首刑の縄を巻かれた者こそ、赦されて涙し、そこで赦された自分の罪を憎み、自分をきよめてくれた血潮を流された贖い主の栄光のために生きようとする人なのである。

 私は、生まれて初めて真面目に祈ったときのことを覚えている。どんな言葉を使ったかは思い出せないが、その祈りを祈るに足るだけの言葉はあったに違いない。それまでの私の祈りは決められた形式の繰り返しであった。常にその形式を繰り返す習慣であった。しかし、とうとう本当に祈ることになったとき、私は自分が神の前に立っていることを知った。私は、心を探りきわめるエホバの神の真ん前にいたのである。そこで私は云った。「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます」。私は、王の前に出たエステルのように、恐怖に圧倒されて気が遠くなるようであった。神の威光と自分の罪深さを思い、悔悟の念で一杯になった。私が口にできたのは、ほとんど、「あゝ!」とか「おゝ!」だけであった。まともには、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」、としか云えなかった。神の威光の圧倒的な輝き、その御力の偉大さ、その正義の峻厳さ、その威厳の恐ろしさすべてに魂を消し飛ばされるようで、魂のうちで私は這いつくばった。しかし、その祈りには、真に、本当に神に近づくものがあったのである。

 ……世には、悪人の願い事など主にとって忌まわしいものだと考えて祈りをやめてしまう人がいる。悪人が祈りをささげようとするのは罪を犯すことにほかならないというのである。私も自分自身、何年もの間赦しを求め続け、それを見いだせずにいたことを思い出す。いかに魂が苦しくとも、私は何度も祈りを見合わせたことがある。そんなことをしても望みはないと思ったからである。聖霊が再び私を恵みの御座に引き寄せても、何度繰り返しても聞かれなかった過去の叫びの記憶が私に深い恐怖を植えつけていた。私は、自分が価値ない者であることを知っていたので、正義の神は私に答えを与えることができないのだと思っていた。天は青銅のように思われ、いかに真剣に祈っても私の祈りは閉め出されてしまうのだと考えていた。祈る勇気はなかった。あまりにも罪の意識が重すぎた。勇をふるって祈ってみても、それはほとんど祈りとはいえないものであった。それが聞かれるとは少しも思っていなかったからである。私は思った。「いや、それは思い上がりというものだ。神に訴えることなどできない」。それで、時おり祈りたいと思っても、私には祈れなかった。祈ろうとしても、のどが詰まるような思いで、魂はただ嘆き、切望し、あえぎ、ため息をつくことしかできなかった。

 それでも私は、幼少の頃に神が祈りを聞いてくださったときのことを思い出す。詳しい状況は覚えていない。ほんのちょっとしたことだったかもしれない。しかし、幼かった私には、ソロモンがささげたいかに素晴らしい祈りにも負けず、それは重要なことであった。神はその祈りをお聞きになり、そのようにして私の幼心には、主は神であるということが刻み込まれたのだった

 神の抑制の恵み、また幼い頃に過ごした父および祖父の家での聖い影響によって、私は他の者たちがふけっていたような外的な罪のいくつかに手を染めることからは守られていた。そして自意識に目覚める年頃になると、時には本当に自分のことを立派な若者だと考えた。自分が他の少年たちのようにずるく、不正直で、不従順な、言葉遣いの汚い者でないことを、半ば本気で誇りたい思いであった。

 しかし、ある日突然私は、手に神の律法を携えたモーセと出会った。彼に見つめられるうちに、その燃えるまなざしが私のすみからすみまで調べ上げるようであった。彼は私に「神の十のことば」、十戒を読むように命じた。それを読むうちに私は、それらがみな一緒になって、いと聖なるエホバの御目の中で私を告発し断罪するように思われてきた。そのとき私は、ダニエルのように「私の尊厳は破壊に向かい、力を失」い、パウロがこう書いた心境が理解できた。「私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです」。

 このような状態にある自分を見たとき、私には何の自己弁護も、云い訳も、情状酌量の余地も残されていなかった。私は、自分のそむきの罪を厳粛な沈黙のうちに主に告白した。しかし、自分の正しさを云い立てたり、弁明したりする言葉は何1つ云えなかった。イスラエルの聖なる方に対して犯した重い罪の数々について、自分が大きな咎を負うべきであると感じていたからである。そのとき私の魂のうちを支配していたのは、恐ろしいまでの沈黙であった。たとえそこで自分をかばうようなことを云おうとしたとしても、自ら自分を嘘つきと断罪したに違いない。私は、ヨブの言葉がまさしく自分にあてはまるように感じていた。「たとい私が雪の水で身を洗っても、灰汁で私の手をきよめても、あなたは私を墓の穴に突き落とし、私の着物は私を忌みきらいます。神は私のように人間ではないから、私は……申し入れることはできない。」。

 そして、私のすくみあがった良心に、律法の広大無辺さが思い出されてきた。古のローマ帝国では、皇帝の支配下でローマ法を破る者は全世界が1つの巨大な牢獄となると云われた。帝国の権力の及ばぬ所へ逃げることはできなかったからである。私の覚醒した良心にも、そのような思いが浮かんだ。どこへ行こうと律法は、私の思いにも言葉にも、立つにも座るにも、要求を発しているのである。私が何を行なおうと、何を行なわずにすまそうと、すべては律法の管轄下にあった。そして私は、律法が十重二十重に私を取り巻いているため、自分が常に律法を破り、常に律法に背いていることに気づいた。私は罪人以外の何者でもないと思うしかなかった。口を開けば正しくないことを語った。じっとしていればいたで、その沈黙のうちに罪があった。

 また律法はこう宣告することによって、私のすべての希望を打ち砕いてしまったように思えた。「律法の書に行なえと書かれている、すべてのことを守り行なわない者はのろわれる」。私は、自分がそうしたことを守り行なっていないことは痛いほど承知していたので、どう転んでも、自分をのろわれた者とみなさないわけにはいかなかった。ある罪を犯したことがなくとも、別の罪を犯しているなら何にもならない。私はのろわれているのである。神をけがす言葉を口にしたことがなかったとしても何になるであろう。他人のものを貪欲な思いで見たことがあるなら、律法を破ったことになるのである。鎖の環を断ち切っておいて、「私はここの環も、そこの環も切っていない」、と人は云うかもしれない。それはそうであろう。しかし、どこか1つの環を切ったなら、環を断ち切ったことになるのである。私に逃げ道はなかった。私は、神の正義の律法にそむいたのである。私は汚れた不潔な者であった。私は、「もし私が地獄に行かないとしたら、神は間違っている」、と何度も思った。私は自分で自分の裁判官となり、自ら正しいと思う刑を下していた。たとえそのとき天国へ招かれたとしても、犯した罪が許されもしないまま行けるはずがなかった。それが正しくないということは私が一番よく知っていた。それゆえ私は自分の良心に照らして自分を断罪しつつ、神を正しいとしていたのである。私は、自暴自棄にすらなることができなかった。正しくなどなるものか、良心の声など知ったことか、罪におぼれて生きてやる、と思っても、律法はこう云うのだった。「そんなことができるはずはない。罪を犯して平安になれはしない。これだけ律法のことをよく知っているお前が、どうしてそ知らぬ顔で罪を犯せるのか」、と。それゆえ律法は、ありとあらゆる点で私を悩まし、苦しめた。私は、律法によって鉄の檻に閉じ込められ、すべての脱出の道をふさがれたも同然であった。

 私を恐怖で満たした1つのことは、律法がその文字ではなく、精神で人を裁くと知ったことである。「姦淫してはならない」、と律法が云うと、私は内心、「よし、姦淫なんか一度もしたことはないぞ」、と思った。すると律法は、キリストが解釈されたように、こう云うのである。「だれでも心に情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのだ」。「盗んではならない」、と律法が云うと、私は、「よし、盗みなんか一度もしたことがないぞ」、と思ったが、他人のものを自分のものにしたいと思うだけで罪になることを知った。律法が精神によって裁くことは私を震え上がらせた。このようなおきての目を、どうしてくぐりぬけることができるだろうか。どうもがいても絶対にその網の目を逃れることはできないのである。

 続いて思い出されたのは、たとえ律法を十年、二十年、三十年のあいだ完璧に、欠け1つなく守り行なったとしても、最後の最後に違反してしまうなら、その恐るべき処罰を受けなくてはならない、ということであった。主が預言者エゼキエルに語られたことばが思い浮かんだ。「もし彼が自分の正しさに拠り頼み、不正をするなら、彼の正しい行ないは何一つ覚えられず、彼は自分の行なった不正によって死ななければならない」[エゼ33:13]。こういうわけで私は、自分が文字通り「律法の下に置かれ、閉じ込められて」いることを思い知った。それまでは、いろいろと云い逃れる道はあるものと希望をかけていた。私は生まれてすぐに「洗礼」を受けたではないか。小さい頃から礼拝に出席していたではないか。毎日主の祈りを唱えるようにしつけられたではないか。正直で、誠実で、道徳的に生きてきたではないか。それがすべて何にもならないというのだろうか。「何にもならない」、と律法は云い、その燃える刃を抜き放った。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる」[ガラ3:10]。そういうわけで、私には一瞬たりとも魂の休まるときがなかった。私に何ができただろうか。私をつかむ者には、何の情けも容赦もなかった。モーセは決して「あわれみ」について語らなかったからである。律法は「あわれみ」と何の関係もない。あわれみは他のお方の口によって、他の時代に語られるのである。しかし、信仰が現われる以前の私は、「律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした」[ガラ3:23]。

 あえて云うが、人がもし神の恵みを欠いているなら、その人の行ないは奴隷行為でしかない。そこには強制される感じがつきまとっている。これは私の確かな経験である。神の子どもたちの自由に入れられるまでの私は、教会に行ったとしても、それは義務的に行かなければならないと考えたからであった。祈ったとしても、祈りを欠かしたらその日何か不幸なことが起こるかもしれないと恐れたからであった。神のあわれみに感謝することがあっても、感謝しなければ次の恵みが受けられないかもしれないと思ったからであった。正しい行ないをしたとしても、それはやがて神からの報いを受け、天国で栄冠を勝ちとれるだろうと望んでのことであった。私はみじめな奴隷にすぎず、たきぎを割り水を汲むギブオン人でしかなかったのである![ヨシ9:27] そうしないですんだなら、私は喜んでしないですませたことであろう。自分の思い通りになったなら、決して教会になど通わず、信仰など気にもかけなかったであろう。もし好きなようにしてよいと云われたなら、私はこの世にひたって生き、サタンの道に従っていたことであろう。私は義については奴隷そのものであった。罪こそ私の自由であった。

 キリストのもとに来る前の私は、「イエスを信じさえすれば、ありのままの自分で救われる? そんな馬鹿な」、と思っていた。「何か感じなくてはならないはずだ。何かしなくてはならないはずだ」、と思っていた。実際、その頃に誓った決意の愚かさと来たらなかった。私は、良い自分になろうという決意を、しゃぼん玉のようにふくませた。確かにそれは虹色に輝く美しい玉であった。しかし、指のひとつきで、ぱちんと割れてしまうのである。そのようなものが何の役に立つであろう。永遠の望みをかけるには、お話にならないしろものである。わざで救われようとすることの何とむなしいことであろう。何という重労働、にもかかわらず何という結果の貧しさであろう。私はこの世で最低の糸つむぎ、最低のはた織り職人であった。にもかかわらず、自分の織るもので立派な衣を作れると夢見ていたのである。これは、父祖アダムと母エバが初めて罪を犯したときに手を染めた職業であった。「彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った」[創3:7]。これは一生費やされる苛烈な重労働だが、最悪なのは、このように自分の義を立てようとする者すべてに主がこう宣告しておられることである。「そのくもの巣は着物にはならず、自分の作ったもので身をおおうこともできない」[イザ59:6]。

 何をすれば救われるのか、説教者が語ってくれればいいのに。何度私はそう思ったことであろう。できることなら喜んで何でもしたはずである。「はだしで英国中を端から端まで歩け」、と云われたなら、家へ帰りもせず即座に出発し、救いを得ようとしていたであろう。もし「背中をまくって五十回鞭打ちを受けろ」、と云われたなら、前へ飛び出して行き、「はい、私はここにおります! 鞭をおとりになって、好きなだけ打ち叩いてください。それで平安と安らぎが得られ、罪を取り除けるならお安いご用です」、と云ったであろう。しかし、この世で最も簡単なこと、すなわち、十字架にかかったキリストを信じ、キリストが完成された救いを受け入れ、自分を無とし、キリストをすべてとしてより頼むこと、これだけは理解できなかった。一度は私も、人は善行によって救われると信じて、誠実で廉潔な人格を保とうと必死に努力した。しかし神の御霊が私の心を訪れたとき、「罪が生き、私は死にました」[ロマ7:9]。私が善と思っていたものは悪であるとわかり、清いと信じていた自分は汚れていることがわかった。私が発見したのは、私の行なう最高の行為でさえ罪深く、私の流す涙さえ嘆かわしく、私の祈りさえ神の赦しが必要だということであった。私は律法の行ないによって救われようとしている者であり、どのような善行を積もうと、それはただ自分が救われたいという利己的な動機から出ているがゆえに、神には受け入れられない者だということであった。

 私の若い心は、罪に対して何という戦いを挑んだことであろう。聖霊なる神が最初にいのちを吹き込んでくださったときの私は、私の罪を取り去り、大海の深みに投げ込んでくださった尊い血について何も知らなかった。しかし、このことだけは知っていた。もはや私は前と同じままではいられない、ということである。前よりも正しく、前よりもきよくならなければ安閑としてはいられない、ということである。おゝ、何といううめき、誇張なしに何と云いようもないうめきをもって、私の霊は神に叫んだことであろう。次から次へと襲い来る罪に打ち勝たせてくださいと、何と私は――貧しく無知なしかたではありながらも――神に乞い求めたことであろう。魂の敵との葛藤を、神の力によって勝ち抜かせてくださいと、何と願ったことであろう。感謝なことに、その戦いは必ずしも負け通しではなかった。しかし、罪に打ち勝ち御民を解放してくださるお方がやって来て、援軍してくださらなかったら、その戦いには敗北していたことであろう。私は長い間自分を改善しようとしたが、まるで何の足しにもならなかった。自己改善を始めたときの私は、自分のうちに悪霊が1つ住んでいることに気づいたが、自己改善をあきらめたときには、それが十の悪霊に増えていた。私は改善されるどころか、改悪されてしまったのである。今や私の心の中には自己義認の悪霊、自己信頼の悪霊、自惚れの悪霊、その他もろもろの悪霊が住みついてしまった。私が自分の家を掃ききよめている間に、私が追い出そうとした悪霊はほんのしばらく留守にしたあとで、自分よりも邪悪な七つの悪霊を引き連れて戻ってきて、また腰を落ち着けたのである。それで私は信じる努力をした。おかしな表現だが、私は信じる努力をしたのである。しかし、信じたいと思っても、自分には信じることができないとわかった。キリストの義によって天国へ行くのは、自分の義によって天国へ行くのと同じくらい難しく思え、シナイを通って行くのもカルバリを通って行くのも同じようなものではないかと思えた。私は何もできなかった。悔い改めることも、信じることもできなかった。私は絶望のあまり目の前が暗くなり、福音にもかかわらず自分は滅びに落ちるに違いない、キリストが死んでくださったとしも、私は永遠にエホバの御前から追放されるに違いないと感じた。

 もし私の力でどうにかなるものだったとしたら、私は決して救われなかったであろうと告白しなくてはならない。私に選択の余地がある限り、私は神に逆らい、反抗し、抵抗し続けていた。神が私を祈らせようとされても、私は祈らなかった。教会で説教を聞かせようとなさっても、聞こうとしなかった。たとえ聞いたとしても、また聞いて涙が頬をつたったとしても、私はそれを拭いさり、私の心を溶かそうとされる神に逆らい立った。

 選びについての説教がなされたが、嬉しくとも何とも思わなかった。律法についての説教がなされ、人間の無力さを教えられたが、信じなかった。そんなものは、昔どこかにいたキリスト者の思いつきだろう、古代どこかで作られた教義だろう、現代の自分には関係ないものだと思った。

 死と罪についての説教もなされたが、私は自分が死んだ者だとは信じなかった。自分は十分生きていると思っていたし、悔い改めることも、正しい自分になることも、だんだんにできると思っていたからである。また、力強い勧めを伴った説教もなされたが、自分のことは好きなときに自分でちゃんと、今すぐにでもできると思っていた。

 こういうわけで、私は常に自分の力により頼んでいたのである。少し心が刺されて感動させられたようなときには、罪深い楽しみで気をまぎらわそうと努め、まだ救われないようにした。

 このような状態は、神が私に効果的な一撃を与え、その抵抗不可能な神の恵みの力に屈服させられるときまで続いた。その恵みが、私の堕落した意志を征服し、神の恵みの王笏の前に私をぬかづかせたのである。

 主が私を正気に返らせたとき、私は自分が粉々に打ち砕かれるような大打撃を加えられた。そして、何と私が完全に無力な者であるかを悟ったのである。自分は御使いよりも強く、何でもできると思っていたのに、実は全く何の価値もない者でしかないことを思い知らされたのである。

 ある日曜日の朝、神が恵みによって吹雪を起こさなかったなら、私は今も暗闇と絶望のうちにいたかもしれない、と思うことがある。それは、私がある礼拝所へ向かっているときのことであった。雪のため一歩も進めなくなった私は横道にそれ、小さな原始メソジスト会堂に行き着いた。その会堂には12人から15人くらい人がいただろうか。私も、頭が痛くなるほど大声で歌うという原始メソジスト派の噂は耳にしていた。しかし、それはどうでもよいことであった。私は、どうすれば救われるのか知りたかったのである。それを教えてくれるのなら、どれだけ頭を痛くされようとかまわなかった。その朝は、牧師が来なかった。おそらく雪に閉じ込められていたのであろう。とうとう、大層やせた体つきの、靴屋か仕立屋か、そうした類の職業と思われるひとりの人が、講壇に立って説教を始めた。さて説教者が教育を受けるのは良いことだが、この人は完全な無学者であった。初めにあげた聖句から離れることは全くしなかったが、それは単に、他に何も云うことがなかったからにほかならなかった。その聖句とはこうである。

 「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ」[イザ45:22]

彼は云い違いまでしたが、それはどうでもよいことであった。この聖句には、かすかな希望があるぞと私は思った。説教者は口を切った。「みなさん。これは実に単純きわまりない聖句です。これは『見よ』と云っています。さて、見ることにさほど苦労はいりません。足を上げたり指を上げたりすることとは違います。『見る』だけのことです。見る勉強をしに大学へ行く必要はありません。どんな馬鹿でも見ることはできます。見る力を得るため一千歳の老人になる必要もありません。だれでも見ることはできます。子どもでもできます。しかし、この聖句は云います。『わたしを仰ぎ見よ』、と。そうです!」、と彼は強いエセックス訛で云った。「あなたがたの多くは自分を見ていますが、そこを見ても何の役にも立ちません。あなたがたは決して自分自身の中に慰めを見いだすことはないでしょう。ある人々は父なる神を仰ぎ見ます。いいえ、父なる神を見るのはもう少し先のことです。イエス・キリストは、『わたしを仰ぎ見よ』、と云われます。ある人は、『御霊が働かれるのを待たなくてはならない』、と云います。しかし、今のあなたにそんなことはどうでもよろしい。キリストを仰ぎ見なさい。この聖句は云います。『わたしを仰ぎ見よ』、と」。

 そしてこの善意の人は、続けてこのように云った。「わたしを仰ぎ見よ。わたしは、血の汗のしずくを流した。わたしを仰ぎ見よ。わたしは十字架にかけられた。わたしを仰ぎ見よ。わたしは死んで葬られた。わたしを仰ぎ見よ。わたしはよみがえった。わたしを仰ぎ見よ。わたしは天に昇った。わたしを仰ぎ見よ。わたしは御父の右の座についている。おゝ、あわれな罪人よ。わたしを仰ぎ見よ! わたしを仰ぎ見よ!」

 ここに至って彼は、10分かそこら話を引き延ばした後で、言葉に窮してしまった。そのとき彼が目をとめたのは、階廊の下にいた私であった。出席者があまりに少なかったためか、私が新来者であることはすぐわかったのであろう。「そこの少年。きみは大そうみじめなようすだが」。それはその通りであった。だが私は、講壇から自分の個人的な見かけについて話しかけられることには慣れていなかった。しかしながら、それは頭をがつんとなぐられるような効果的な一撃であった。「きみはこれからもずっとみじめなままだろう。この聖句に従わない限り、生きている間も、死んでからも、みじめなままだろう。しかし今従うなら、きみは救われるのだ」。そして彼は、両腕を高く上げると、原始メソジスト派にしかできないようなしかたで、こう叫んだ。「少年よ。イエス・キリストを仰ぎ見よ。見よ! 見よ! 見よ! 仰ぎ見さえすれば生きるのだ」。

 その瞬間、私は救いの道を理解した。他に何を云われたかは覚えていない。そんなことは気にもとめなかった。私はこの考えで頭が一杯になってしまっていた。青銅の蛇が高く上げられたとき、人々はそれを見さえすれば癒されたが、私も同じであった。救われるためならどんなことでも行なうつもりでいた私にとって、「見よ!」との言葉は何と甘美に響いたことであろう。おゝ、私は目もかすめとばかりに仰ぎ見た。そのときたちまち黒雲は散り去り、暗闇は消え失せ、その瞬間に太陽が射し出た。私は、その場で立ち上がり、キリストの尊い血と、キリストだけを仰ぎ見る単純な信仰とを、ありったけの熱情をこめて高らかにほめ歌いたい思いであった。……私の魂は自分を縛っていた鎖が粉々に砕け散ったのを知った。奴隷であった私が解放され、赦しを受け、キリストに受け入れられ、ねばつく泥地とぞっとするような穴ぐらから引き出され、堅い岩の上に立たされ、確かな歩みが保証されたのを感じた。

 魂の底から告白するが、私はキリストのもとに行くまで決して満ち足りたことがなかった。子どもの頃の私は、今よりもずっとみじめであった。今よりも、はるかに多くの気疲れ、気苦労、心痛があった。こんな告白は普通でないかもしれないが、それが事実、真実なのである。魂がイエスに身をゆだねた、あの素晴らしい時以来、私はつきることのない喜びと平安を味わってきた。しかしそれまでは、幼少期のあどけなさと云われるもの、少年時代の喜びや楽しみとして想像されるものすべては、私にとって魂をむなしくし、悩ませるものでしかなかった。救い主を見いだし、その愛しい御足にすがりついた、あの幸いな日を私は決して忘れないであろう。名もなく、全く人の耳目を引くこともない子どもの私が神のことばを聞き、その尊いみことばが私をキリストの十字架のもとへと導いたのである。私は跳び上がり、踊りだしたいほどであった。そのときの霊の喜びからすれば、いかに熱狂的なふるまいも場違いではなかったであろう。それ以来私は、キリスト者として多くの日々を過ごしてきたが、その最初の日にまさる高揚と、輝く歓喜を味わったことは一度もない。私は座席から飛び出して、その場にいたメソジストのだれにも負けない大声で、「われ赦されたり! 赦されたり! おゝ恵みのときよ! 血によりて罪人救われたり!」と叫ぶことができたと思う。……私は、踊るような足どりで家路についた。畑の烏たちにさえも自分の回心についてことごとく語ってやりたい、と述べたジョン・バニヤンの気持ちが私にもわかった。彼のとめどなくあふれる思いは、到底だれかに語らずにはいられないと感じられたのである。

 だれもが、自分の救われた日と時間を覚えているわけではない。しかし、リチャード・ニルが、「その日そのとき、天の竪琴は鳴り響きぬ。リチャード・ニルここに新しく生まれたれば」、と云ったことが、私にも起こったのである。その時が到来したとき、天にある恵みの時計は、私の解放の時間、瞬間に鳴り響いたのである。10時半過ぎに私はその会堂に入り、12時半過ぎには家に戻っていたが、何という変化が起こっていたことであろう。私は暗闇の中から素晴らしい光の中へ、死からいのちへと移っていたのである。ただイエスを仰ぎ見ることによって、私は絶望から解放され、心を喜びで満たされたのである。そのようすは、私を見た家人にもわかるほどで、「何か素晴らしいことが起こったようだね」、と云われた。そして私は喜んで事の次第をすべて語り聞かせた。その日、わが家には喜びがあふれた。長男が救い主を見いだし、自分の赦されたことを知ったと、家族全員が聞いたのである。このような至福とくらべれば、いかなる世の喜びも無価値であり、むなしいものにすぎない。

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