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第7章

 ニューマーケットにて

実生活の開始――ニューマーケットの過去と現在――スウィンデル氏の私立学校――J・D・エヴェレット教授の回想――マッティングリー氏の思い出――不信心への誘惑――バプテスト派の見解を採る――アイラムにおけるバプテスマ――キリスト教の働きに従事する――写真帳に決まって書く言葉

 1849年8月17日の朝、若きスポルジョンはコルチェスターの実家を離れてニューマーケットに向かった。これは彼が親元を離れてひとりで実社会に踏み出す最初の一歩ともいうべきものであったため、スポルジョン夫人は目的地まで息子に付き添い、万事遺漏なく快適に整っているかをその目で確かめた。この若者は、十五歳にもなっていなかったが、ニューマーケットのスウィンデル氏の私立学校で、助教師として働くようにとの指名を受け入れ、その報酬として自分の勉学、特にギリシャ語の教育を続ける恩典を受けることになったのである。

 ニューマーケットの町は、それ自体としては、スポルジョンが進んで住まいに選びたがるような場所ではなく、むしろ、その回心以来、彼をとりわけ特徴づけていた好みや抱負からすると、避けてしかるべき場所であった。だが、下宿先はキリスト者家庭であったため、そうした性に合わない環境がはなはだしく彼に悪影響を及ぼすことはないはずであった。当時のニューマーケットは現在と変わらず、――英国本島における競馬の中心地であった。そこには英国競馬倶楽部の本部があり、その近郊には競走馬の調教所が林立していた。競馬競技の発祥は、エリザベス女王の時代に始まると云われる。その頃、スペイン無敵艦隊が壊滅した際[1588]に生き残った何頭かのスペイン産の駿馬が、この町に連れて来られたのだという。何はともあれニューマーケットは、十七世紀初頭には上流社会の人々が好んで集まる場所になった。ジェームズ一世はそこに自分のために宮殿を建て、それを狩猟屋敷と呼んだ。後にこれは、彼の孫のチャールズ二世によって改築された。その地所の一部、およびこの建物の一部分を用いて、独立派の会堂が建てられたのは、スポルジョンがこの町を離れて何年か後のことである。この町は、ローマ軍駐屯地の1つであり、古代の遺跡が今も発掘されることがある。競馬が開催されるのは毎年七度で、この土地を囲む一般的環境を見ると、競馬こそ同地の主要産業であるかのように見える。

 ニューマーケットのスウィンデル氏の私立学校で、スポルジョン氏が年季契約の生徒となったとき、J・D・エヴェレット氏(学芸協会会員)――現在はベルファストのクイーンズカレッジ在職中――も同校に奉職していた。エヴェレット氏は、この少年教師よりも三年ほど年長で、ふたりはすぐに意気投合した。以下の回想は『キリスト教世界』に同教授が寄せたものである。――

 「1849年の夏、十八歳にもなっていなかった私はニューマーケットへ行き、スウィンデル氏の経営していた学校の補助教師になりました。スウィンデル氏は父の古い友人で、同校では弟のベレーとジョンが生徒として学んでいたのです。そこには助教師がもうふたりいましたが、私の到着後ほどなくして両名ともいなくなってしまい、私は一週間かそこら、たったひとりの助教師として過ごしました。その後で私の負担を軽くしてくれたのは、年季契約の生徒としてやってきた十五歳の少年でした。それがチャールズ・スポルジョンだったのです。それから三箇月の間、私たちは仕事を分担し合いました。私たちは同じ家に下宿し、同じ寝室をふたりで使い、散歩をともにし、同じ立場の悩みを語り合う、大の親友になりました。

 「彼はどちらかというと小柄で、きゃしゃな方でした。青白いが、ふっくらした顔つきで、焦茶色の目と髪をし、快活できびきびとしたようすの、ひっきりなしに言葉が口から出てくるという子でした。筋骨隆々という型ではなく、クリケットや他の運動競技には興味を示さず、道で牛の群れに出くわすとおっかなびっくりという態でした。

 「彼は、強いピューリタン的傾向のある家で良く仕込まれており、当時の中流階級学校で教えられていたような主題によく通じていました。ギリシャ語の知識はさほどでもありませんでしたが、ラテン語の方は、辞書も引かずにウェルギリウスの『アイネーイス』の大意がとれるほどよく知っており、代数も大好きでした。大きな方程式の問題集(おそらくブランド著のもの)を持っていて、その中のほぼ全問を解くことができました。手に負えなかった二、三問は、私が鼻高々に解いてやりました。頭の回転が早く、どんな種類の学問も易々とこなしていました。そして、父親の会計事務所で経験したという話から判断する限り、実業人としても優秀でした。人を見る目があり、その人物判断は鋭く真実をついていました。冗談が大好きで、熱心で、勤勉で、几帳面なほど良心的でした」。

 エヴェレット教授は、当時速記でつけていた日記の中の言葉も引用している。ある日の記述は以下の通りである。――

 「10月9日、火曜日。――ベレー他、四人の子たちを連れて競馬を見に行く。見たのはチェザーレヴィチ、ニューマーケットでも最も有名な競馬だ。三十一頭の馬が出走した。他にももう四競馬を見た。全く堪能した気分だが、いくらでも見ていたい気がした。スポルジョン君は行かなかった。行くのは悪いことと考えていたからだ」。

 このように私たちは、この若き教師が、この世の汚れに染まらないよう自分をきよく守っているのを見るのである。彼はまた、キリスト者生活において目立った進歩を遂げつつもあった。より高貴なものをめざすその努力において刺激となっていたのは、校長の家にいた、ひとりのキリスト者家政婦であった。彼女は、戒めと模範によって、ありとあらゆるしかたで、この若者を励ました。すでに言及したその回想において、エヴェレット教授はこの立派な婦人についてこう語っている。――

 「彼の神学的見解が初めどのように発達したかについては、すでに公表されていることに、多少つけ加えることができるでしょう。スウィンデル氏の家には、ひとりの信心深い年寄りの召使いがいました。――大きくて、恰幅のいい婦人で、私や他の家人全員には、『まかない』で通っていました。彼女は強い宗教的感情の持ち主で、敬虔なカルヴァン主義者でした。スポルジョンは、深い宗教的確信のもとにあったとき、彼女と会話を交わし、天来の真理に関する彼女の意見に深く感銘を受けたことがありました。彼はそれを私に説明し、彼一流の簡潔なしかたで、自分に神学を教えてくれたのは『まかない』だったよ、と説明したものです。この事実に言及したからといって、彼の信頼を裏切ったことにはならないでしょう。ひとりの偉人が、いかに卑しい出所からでも喜んで学ぼうとしていたことは、その追憶にとって決して不面目になるものではありません」。

 スウィンデル氏は、この教授[エヴェレット]がその「まかない」、あるいは学校の家政婦について語っているすべてのことを保証している。また彼は、スポルジョン氏がこの老いた召使いのことを、彼の最初に出版された著書『聖徒とその救い主』の中で言及していることに注目している。それとは別の機会に、この大説教者はこう告白していた。「何年も前に私は、自分が必要とするあらゆる神学を、ひとりの老婦人から得た。彼女は私が助教師をしていた学校で炊事をしていた。それ以来、それよりも新しい種類の神学を身につけたいと欲したことは、私には一度もない」。

 [サフォーク州]サッドベリーのグレートコーナード街在住のロバート・マッティングリー氏も、同じ雑誌上で、この善良な婦人について興味深い情報を寄せている。――

 「二十五年ほど前に、私はメアリー・キングという名の人と知り合いになりました。当時彼女は、イプスウィッチの聖マーガレッツ教会に面した長屋に住んでおり、近所のベテスダ厳格バプテスト教会の会員でした。忠実なカルヴァン主義者で、論理的で、頭脳明晰で、素晴らしい聖書知識の持ち主でした。私はしばしば彼女の口から、若い頃のスポルジョンと彼女が交わした会話について聞いたことがあります。それは彼がその驚異的な人気の絶頂に達していた頃でしたから、当然彼女は、それを少なからず得意にしていました。エヴェレット教授によれば、彼女は『まかない』として知られていたということですが、彼女は、常に自分のことを『家政婦』と云っていました。スポルジョン氏と彼女のやりとりが、家庭内で全く普通に行なわれていたように思われるので、おそらく彼女は、ただの召使い以上の立場を占めていたのでしょう。彼女と知り合ううちに私は、彼女がそのなけなしの収入(どこから得ていたかは覚えていませんが)をすべて、あるいは、ほぼすべて使い果たしてしまったことを知りました。私がスポルジョン氏に手紙を書いてその事実を知らせたところ、即座に彼からの返事を受け取りました。その中で彼は、私の手紙に感謝していると云い、自分の古い友に真情のこもった挨拶をし、いかにも彼らしい寛大さで五ポンドの小切手を同封して、私には、それを彼女の差し迫った必要に充当し、毎週五シリング[=1/4ポンド]を彼女に支給し、すべてのお金は大むね私の良いと思うしかたで使うようにと依頼していました。私はその通りにし、折にふれスポルジョン氏に報告し、手元の資金が底をついたときには常に新しく小切手を受け取りました。こうしたことが、ほぼ三年後に彼女が死ぬまで続いたのです」。

 このニューマーケット時代、若きスポルジョンがその経験によって学んだのは、キリスト者生活が真剣な戦いだということ、狭い門から続く狭い道には、不用心な若者の足にとって数々の罠と落とし穴があるということであった。彼は、脇道が原の危険についても、落胆の沼の恐怖についても、身をもって学んだ。その後何年も経ってから、スポルジョン氏がエクセター公会堂において行なったある説教の中で、自由思想家や彼らの不信仰に言及しつつ告白するところ、彼自身、懐疑主義への誘惑に陥ったことがあったという。彼は、考えてもぞっとするような忌まわしい時期に、信仰の錨を上げ、狂気の航海に乗り出しながら、《理性》に向かって自分の案内人になるよう頼んだ。このように始まった航海は大時化となったが短いもので、そこで学びとられた教訓は決して忘れ去られることがなかった。不信心がいかにくわせものであるかを、彼はその目で見てとったのである。彼はまた、自分がいかに身の毛もよだつようなものから摂理的に脱出したかも、身にしみて悟った。もしだれかが彼にその道をもう一度行くよう招いたとしたら、彼は否と云ったであろう。というのも彼は、そうした海域に自ら踏み入ったことがあり、そうした危険を冒すいかなる航海者の前にも、何が待ち受けているかを、個人的に承知していたからである。

 ニューマーケットのその私立学校の経営者スウィンデル氏はバプテスト派であったが、この友と接触するようになったことによって、スポルジョン氏が特定バプテスト派の意見をいだくよう導かれたのかどうかは定かでない。ジョン・スポルジョン夫妻は、老ジェームズ・スポルジョンと同じく独立派であったが、自分の子どもたちには自主的に聖書を読んでほしいと考えており、彼らがこうした件については自分自身で決定することを望んでいた。そして、彼らが良心的である限り、ふたりの息子がバプテスマに関して自分たちとは違った考え方をしていることは、両親にとって決して苛立ちの種ではなかった。

 浸礼による成人のバプテスマこそ、聖書がこの典礼の執行様式として唯一是認しているものであると心で完全に確信するようになったスポルジョン氏は、バプテスマを受けて、バプテスト教会の会員になりたいと願うようになった。彼は、自分の住んでいた地域の近くを見回したとき、加入を申し出たいと思うような会衆の牧師を、八マイル離れたアイラムにいた、ひとりの牧師以外に見つけることができなかった。アイラムは、フェン地方にある人口二千人強の土地であった。十八世紀の後半以来、その地方のバプテスト派の人々は、ラーク川の渡し場で、定期的に野外バプテスマ式を行なうのが常であった。村から半マイルほど離れた渡し場そのものは、閑静な、森に囲まれた場所で、老アイザク・ウォールトン[1593-1683。英国の随筆家。『釣魚大全』の著者]が気慰めと黙想を結び合わせることのできる隠遁所として愛したであろうような所であった。だが、人々がそこでバプテスマを授けられるときには、大勢の見物人が引き寄せられるのだった。1850年5月3日、自分の母の誕生日に、スポルジョン氏は早朝に起床し、ひとりきりの時間を少し過ごした後で、八マイル歩いてアイラムに行き、当時その場所に定住していた故W・W・キャントロー牧師により、他数名の人々ともにバプテスマを授けられた。1888年に建設された教員宿舎が建てられたのは、このように近くの川でスポルジョン氏に浸礼を授けた人物を記念してであり、その建物の記念碑には、その興味深い出来事が記録されている。

 スポルジョン氏はアイラムの会衆に加わらなかったと思われる。というのも、八マイルの距離によってその人々から隔てられていたために、彼が彼らの礼拝や、聖餐式や、キリスト教奉仕に参加するには、相当の不便を忍ばざるをえなかったからである。しかしながら、その日以来この若きキリスト者は、人生にただ1つの目的しか持たなかった。――神の栄光および同胞の人々の益を押し進めることである。もちろん彼は、世における自分の運命が非凡なものになるなどとは全く考えていなかった。だが彼はすでに、平凡な事がらをすら、可能な限り最上のしかたで行ないたいと願っていた。彼はキリスト者であることにいかなる責任が伴うかを鋭く察知した。そして彼がその頃いだいていた諸教理は、彼にとって最後まで大切なものであり続けた。そうした教理は、彼の祖父や父が彼の前で説教していたものと同一であった。時の経過とともに、こうした教理を提示する彼の方法は、いくつかの点で変わってきたかもしれないが、その偉大な諸真理そのものから彼は決してそれることがなかった。後年ロンドンにおいて彼は、しばしば写真帳への揮毫を所望されたが、何と書こうか迷うことは一度もなかった。私の信ずるところ、この大説教家の不変の習慣であったのは、クーパーのよく知られた詩の一節を書くことであった。それは、彼自身の生涯の事業の特徴をも浮き彫りにしている。――

   「血潮したたる みきずの流れを
     信仰により 仰ぎ見しより
    贖いの愛こそ わが調べとなりぬ
     今より後も 死ぬるときまで」

 その回想の中で、J・D・エヴェレット教授は当時のスポルジョンについてこう語っている。

 「彼は、自分の感心する雄弁な言葉について驚異的な記憶力を持っており、ふたりで長い散歩に出たときなどは、かつて聞いたことのある野外演説のさわりを、私に向かって、嬉々として、長々と述べ立てました。それは彼が、コルチェスターの定期市で、会衆派の教役者デーヴィッズ氏によって語られるのを何度か聞いたものでした。明らかに彼の想像力は、そうした礼拝によって大きな感銘を受けていたに違いありません。そうした機会の折々には、彼の父が賛美歌の文句の読唱者として選ばれることがあったそうです。それはその声の大きさのためでした。――この特質は、一家伝来のもののように思われるでしょうが、その当時の私の若い友人には、まだ現われていませんでした。また私は、彼が、バニヤンの『溢れる恩寵』から、長い箇所を暗唱して云うのも聞いたことがあります。

 「彼は、一緒にいるのが楽しくなるような仲間でした。朗らかで、思いやりが深く、人の話をよく聞き、自分もよく話をしました。また、そこらによくいるような、型にはまった、ありきたりの性格ではなく、独特の強烈な個性を持ってました。

 「その学校は、熱病の発生のため通常の時期よりも早めに休暇に入り、私は再びそこに戻ることがありませんでした。しかし私たちは、その後も何年かは、折にふれて手紙を交わし合いました。彼はスウィンデル氏のもとにもう一年かそこらとどまり、その後で別の学校に移りました。それは、彼自身の古い友人が、ケンブリッジで開いていた学校でした」。

 そこで私たちは、これからケンブリッジへと、この若き教師を追っていくことにしよう。

ケンブリッジシア、ラーク川のアイラムの渡し場。1850年5月3日、スポルジョンはバプテスマを受けるためにこの場所まで八マイル歩いて行った。


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