HOME | TOP | 目次 | BACK | NEXT

----

第8章

 ケンブリッジ:最初の説教

ケンブリッジ居住――新たな熱情とともにキリスト教の働きに携わる――リーディング氏――ケンブリッジに対するロバート・ホールの意見――ロビンソン氏在任中の教会内の波乱――スポルジョン氏の時代のようす――スポルジョン氏と「信徒説教者の会」――地元の説教者たちが村々で行なっていた奉仕――スポルジョン氏、農家説教者としての経歴を開始する――ヴィンター「主教」の計略――道行き――会衆に及ぼした効果――スポルジョン氏と「ケンブリッジの紳士たち」

 スポルジョン氏のニューマーケット在住は、ほぼ一年間にしか及ばなかった。自分のものと云える時間がたっぷりあったため、彼は自分の勉強をそれなりに進めつつも、その間ずっと、引き受けられる限りのキリスト教の働きに熱心に励んでいた。日曜学校の働きや、生徒全体に話をすることや、小冊子の配布などにおいて、有益な奉仕には事欠かなかった。そしてこの若者は、自分の手がなすべきことを見いだした際には、それが何であれ常に力を尽くして行なった。

 この若い教師がニューマーケットを1850年に離れたとき、彼はケンブリッジに行って住むことになった。かの大きな競馬の町[ニューマーケット]における彼の状況がそれなりに心地よいものではあったとはいえ、大学の至近距離で生活するようになった今、おそらく物事は、より一層彼の好みに合うものとなったであろう。ニューマーケットの学校では、この年季契約の生徒は、その一家の長スウィンデル氏のうちに友を見いだしていた。そこではエヴェレット氏がほぼ同年輩の仲間であった。また、献身的なキリスト者の家政婦が、この若き友人に一生の間影響を及ぼすことになる助言を与えてくれた。しかしながら、ケンブリッジでスポルジョン氏は、再度リーディング氏と関わり合うことになった。氏は、彼が最初コルチェスターで出会った学識ある教師であり、おそらくはリチャード・ニルに次いで、その年若い友の精神の傾向と、天才の片鱗とを、だれにもまして理解していたはずである。このような人物の指導に浴すのは、やはり決して小さな恩恵ではなかった。メトロポリタン・タバナクルの牧師[スポルジョン]は、一生の間、彼から受けた恩義を忘れなかった。

 スポルジョン氏は、地誌学にも幾分か興味を持っていた。ケンブリッジのような町では、彼の好奇心を満足させるものが数多くあったに違いない。そして、この点において彼は、かの熱烈な自然愛好者ロバート・ホールとは好対照をなすであろう。ロバート・ホールはかつてこう述べたことがある。「私は常々、ケンブリッジの友人たちが、あのような田舎に満足しているのを見るたびに云ったものである。『ここに聖徒の信仰と忍耐がある!』、と。私の信仰と忍耐は、あのような土地では持ちこたえられない。わが友人たちのたゆまぬ親切さを加えても、その事情に変わりはない」。一世紀前には高名を博していた、この講壇上の雄弁家は、この偉大な大学町の欠陥については、それよりもさらに歯に衣着せない意見を有していた。「これは、情けないほどに平板な土地である。情けないほどに平板な」、と彼は述べたことがある。「イーリーは十二マイルほど離れているが、ケンブリッジからそこへ至る道は、標高が十二インチも上下しないのである。そして、それは大して興味深いことではない」。また彼はこう付言している。「私がケンブリッジに来る前には、懸賞詩歌や、他の空想文学の類の中で、『カム川の水辺』だの、『甘やかにたゆたう流れ』だの何だのについて読んでいた。だが当地に着いたとき私はいたく失望した。キングズカレッジの橋を渡るために、その川を初めて見たとき、私は思わず悲鳴を上げたものである。『何てこった、この流れときたら、土左衛門でも浮かんできそうなどぶ水じゃないか』、と。そして、残念ながら、その印象は今に至るまで変わってはいない。これは、快活な心にとっては衝撃的な場所である。あなたは、そのように感じていなければよいと思う。それは自殺行為の最たるものにほかならない」。

 こうした、ケンブリッジに関する風変わりな意見を引用したのは、それを口にした偉大で善良な人物[ホール]が、ここでスポルジョン氏が会員となった教会および会衆の、かつての牧師だったからである。その会衆は、この時期には、ケンブリッジとその近隣において、キリスト教的な働きを大々的に押し進めつつあった。だが、以前にはその人々が、ソッツィーニ主義の波によって全く不毛な群れになりかねなかった時期もあった。「いのちの泉にましますイエスよ」という有名な賛美歌[聖歌273番]の作者である、かの有名なロバート・ロビンソンが、以前この教会の牧師であった。だが不幸にも彼は、かつては魂を揺り動かす力とともに宣べ伝えていた聖書の真実さに対する信仰の錨を上げてしまった。「説教者としては魅惑的、仲間としては愉快、自分の種々の意見を徐々に浸透させていくことにかけてはねばり強く熟達していた彼の影響力は、大いなるものならざるをえなかった」、とオリンサス・グレゴリー博士は云っている。さらに同じ筆者はこう付言している。「彼は正統的な意見の告白からは、かなり急速に離れ去り、ソッツィーニ主義へではなく、それをはるかに越えて、不信心の瀬戸際にまで行き着いてしまっていた。少なくとも、それこそ彼がプリーストリ博士に対して実質的に宣言したことであった。彼は、プ博士が自分をそのすさまじい深淵に落ちないよう保ってくれたことに対して感謝したからである。むなしい思弁が、知識と、信仰と、経験に取って代わった。罪の告白と祈りは、彼が執り行なう公の礼拝の中にはめったに含まれることがなく、説教前に彼が長々と繰り出す言葉は、そのほとんどが賛美と頌栄に終始していた。そしてその結果、会衆はその様相を一変させ、堕落してしまい、知的階級に属する人々の間では、二三の例外を除き、『キリストの霊を最もよく示す者ではなく、最も議論に秀でた者こそ、最良のキリスト者とみなされるようになった』。しかしながら、貧しい方の会員層の大多数はその毒を免れており、当時の古参執事であった故フォスター氏ともうひとりの執事に喜んで協力する気になっていた。ふたりは、自分たちにふりかかった悪をともどもに嘆いていた。キリスト教信仰にとって根本的なもの――それゆえ教会の一致の基礎をなすもの――と自分たちがみなす教理を心から慕っていた彼らは、ロビンソン氏の辞任を要求するという非常手段の検討を、教会全体に呼びかける準備をしていた。そうした手段を不必要にしたのは、バーミンガムのプリーストリ博士の講壇で説教した直後におけるロビンソンの突然死であった」。

 この教会のこうした暗い出来事は、スポルジョン氏が関わり合うようになったときには、遠い記憶にすぎなくなっていた。牧師であるロフ氏が死んだ直後で、後任のロビンソン氏はまだ着任していなかった。だが今世紀の中頃、この人々は非常に活発なキリスト教会となっていた。彼らは数々の働きを保っており、特に良い奉仕の手段となっていたのが、「信徒説教者の会」であった。同会は、この大学町の周辺の村々にその奉仕者を派遣していた。若きスポルジョンが聖アンドルーズ街の会衆と関わりを持つようになったとき、まさか彼は、やがて自ら設立することになる牧師学校で教育されたひとりの学生が、いつの日かその教役者となるなどとは思いもしなかったであろう。しかし、実際そうなるのである。というのも、その人々の間で長年にわたって定住したT・グレアム・ターン氏は、1872年に同校でその神学課を修了したからである。

 ケンブリッジにまだ住んでいるジョージ・アプソープ氏は、スポルジョン氏がこの大学町にやって来た最初から最後まで、彼のことを知っており、親切にも私に詳しい話を送ってくれた。

 日曜学校でアプソープ氏は、スポルジョン氏の隣の組を受け持っており、このように云っている。「私は何度も、自分の子たちを教えながら彼の話に耳を傾けていたものです」。ごく数人の友人たちは、このニューマーケットから出てきたばかりの若者に非常に高い関心を寄せ、そのひとりであるウィリアムソンという名の人物は、当時、聖アンドルーズ街教会の執事であったが、若きスポルジョン氏についてこう宣言してはばからなかった。「やがて彼は、必ずや英国で最も偉大な人物のひとりになるだろう」。しかしながら、こうした熱烈な賞賛者たちの数は八人から九人を超えなかったように思われる。というのも、アプソープ氏はこう付言しているからである。「友人たちの大多数は、どちらかというと彼のことを嫌っていました。私たちには彼の大胆さとも熱心さとも思えたものは、彼らには、くちばしの黄色いひよっこの差し出がましさに見えたのです」。さて、この新参者が、いつの日か多大な影響力をふるうだろうことを見てとった人々の間には、やはり執事であったヴィンター氏がいた。設立後二十五年を数える「信徒説教者の会」の会員の中にあって、その仕切り役となっていた彼は、当然のことながら、その奉仕に徴募できる新しい人材を常に探し求めていた。ヴィンター氏は仕立屋を職業にしていて、何年か前までは、1836年に没した、かの献身的な国立教会の使徒チャールズ・シメオンの会衆の会員であった。ヴィンター氏は非常に温厚な、どことなく剽軽なところのある、非常に尊敬されていた人である。彼にはチャールズとロバートという兄弟があり、ふたりともやはり熱心なキリスト者生活を送っていた。前者はウェスレー派の間で柱石と称されており、後者も監督派の間で同じくらい用いられていた。もちろん、聖アンドルーズ街会堂のヴィンター氏の注意を最初に引きつけたのは、日曜学校におけるスポルジョン氏の働きであった。というのも、ある若者が、教師や子どもたちの集会で前に立ち、これほど力強く語ることができるとすれば、信徒説教者に求められる務めも、同じくらい立派に果たせるだろうことは明らかだからである。

 ケンブリッジにはもうひとり、ウォッツ氏という、メトロポリタン・タバナクルの亡牧師[スポルジョン]の古い友人であった人物がいる。ある日曜日、主の晩餐の後でスポルジョン氏は、ウォッツ氏の後についてきて、彼と近づきになりたい希望を云い表わした。彼はウォッツ氏に、スコットの注解書を貸してほしいと申し入れ、それが許されると、ふたりは一緒にお茶を飲み、それ以後、最も親密な種類の友情が始まり、それはこの説教者の死まで続いたのである。教会記録簿には、スポルジョン氏がウォータービーチの教会の牧師職を引き受けた事実を記入した個所がある。

 スポルジョン氏は、週日の間は、その友リーディング氏のもとで学びつつ、年少の少年たちの方を自分で教えていたが、安息日には、このように熱烈にキリスト教の働きに携わっていた。しばらくの間、彼の努力は日曜学校や、貧困地区における小冊子配布といったことにしか注がれていなかった。だが、そうした状況は長続きしなかった。彼はすでに、大いに用いられつつある「信徒説教者の会」の働きに、大きな関心をいだくようになっていたのである。また、有能な志願者が常に探し求められているときに、公の話をする特別な天分を授けられていると思われる日曜学校教師が、奉仕者として徴募されるのを免れることはありそうもなかった。

 前世紀[十八世紀]における信仰復興以来、いわゆる信徒説教は、非国教徒の間で非常にもてはやされるようになっていた。そして、スポルジョン氏はその生涯を通じて、今や国中の村々や町々で普通のこととなっている1つの習慣を奨励し普及させるために、自分の持てる限りの力を尽くした。その習慣とは、公の話をする賜物を有する青年たちに、農家での礼拝を行わせることである。こうした礼拝は、労働者やその他の人々から相当高く支持されており、平均すればかなり高い出席率が見込める。そこから及ぼされる良い影響力は、総じて見ると非常に大きなものである。というのも、民度がどれだけ向上しているかは、英国の状況を他国のそれと比較して初めて適切に見積もれるからである。そしてわが国では、聖書や信仰良書を国中に広めている信仰書籍行商人たちすら、行く先々で、本を売るだけでなく、説教者となることが当てにされているのである。さらに、現代の最もすぐれた教役者たちの何人かが、小作農の人々の農家で説教者としての経歴を開始したことも事実である。この種の活発な奉仕によって、一日中、労苦と焼けるような暑さの何がしかをすでに辛抱してきた青年たちは、常にスポルジョン氏に厚遇される切符を携えていた。そのような候補者だけが、牧師学校への入学を許可される資格を持っていた。この施設は決して、親類から文学的才能があると云われた小利口な青年や、自分は世間で人に指図する立場につくべきだと考えた青年などを訓練するためのものではなかった。同校は当初から、すでに説教者となっていた人々を励まし、支援することを意図していたのである。

 スポルジョン氏が講壇におけるその偉大な経歴を開始したのは、まさに農家説教者としてであった。彼が最初にケンブリッジの聖アンドルーズ街の会衆と関わり合うようになったとき、すでに「信徒説教者の会」は、活発な働き人を数多く擁する一団であった。――天性の監督者であったジェームズ・ヴィンター氏は、親しみをこめてヴィンター「主教」として知られていた。この暖かな心をした古強者の温厚な性格とキリスト者的な熱心に対して、後年のスポルジョン氏は惜しみない証言をしていた。ヴィンター氏は、自分でも説教をし、ある程度の好評を博していたらしい。だが彼は、常時、より若い志願者たちを励まして、奉仕に繰り入れていた人物であった。

 1850年のある土曜日の午前に、ヴィンター「主教」は、リーディング氏宅を訪い、スポルジョン氏に頼み事をした。もしよければ翌日、説教に不慣れなひとりの若者と一緒にテヴァーシャムまで歩いて行ってはくれまいか、というのである。そのような誘いには、何ら否やはありえなかった。スポルジョン氏自身は、日曜学校で何度も話をしたことがあったが、純然たる説教をしようとするほど思い上がったことは一度もなかった。もし彼の友の「主教」が、あけすけに説教依頼をしたとしたら、この若き教師は、たちまちそのような誘いから尻込みしたであろう。しかしながら、礼拝を別の人が執り行ない、その人に付き添うのであれば、愉快な経験となるはずであった。

 翌日の夕方、お茶の後でスポルジョン氏は、自分よりやや年長の青年に同行して、ニューマーケット街道沿いに出発した。――彼らの目的地のテヴァーシャムは、三マイル離れたチェスタトン地区にある、六十戸もない村であった。朗らかな調子の会話が続いた後で、年下の若者は同行者に向かって、説教の時が良く支えられるといいですね、と無邪気に語りかけた。そこで誤解は幕切れを迎えた。その善良な兄弟は、説教をするつもりなど全くなかった。今まで一度もそのような芸当を試みたことはなかった。「信徒説教者の会」の会員ですらなかった。彼がやってきた唯一の目的は、テヴァーシャムに割り当てられた説教者に付き添うことであった! ここに明白になったのは、ヴィンター「主教」の云った、説教にあまり慣れていない若者とは、スポルジョン氏自身にほかならない、ということであった。臆病なほど繊細な、このリーディング氏の助教師は、自分が説教をするということを考えると、たとえそれが農家においてであれ、気が遠くなるような気がしたが、避けようのない事態に勇敢に直面した。同行者の方は善意から、このような場合には前に日曜学校でした話の焼き直しをすれば十分だろう、といった助言をしてくれたが、それすら意に介さなかった。それは、これほど初期の時期にあってさえ、スポルジョン氏のやり方ではなかった。彼は、いわばその経歴のとば口に立ったばかりであったが、この事実は将来にとって吉兆であった。彼はすぐさま、自分が説教しなくてはならなければ最善を尽くそう、と決心した。そして、たとえそのために新しい内容を練らなくてはならないとしても、その試練にひるみはすまいと決意した。まだ心許なさから来る恐れに満ちてはいたが、彼は考えをまとめ始め、ほどなくしてふたりは、礼拝が持たれるはずの農家に到着した。そこでは会衆が彼らを待ち受けており、この熱心な顔つきをした少年が、年長の同行者を差し置いて説教壇の前に位置を占めたときには、疑いもなく少なからぬ数の人々が驚いたに違いない。賛美歌と、聖書朗読と、祈りの後で、今まさに処女説教を行おうとしている説教者は、その日の主題聖句を告げた。――かの偉大な使徒のよく知られた言葉である。――「したがって、より頼んでいるあなたがたには尊いものです」[Iペテ2:7]。自分の最初の説教がどのくらい長く続いたか、スポルジョン氏は全然覚えていなかったが、ニューマーケット街道を行く間に彼を苦しめていた恐れは全く感ずることがなかった。キリストのみわざと、御民にとっての救い主の尊さという、なじみ深い話をすることは、十六歳でしかないこの若き弟子にとって、実は不慣れなことではなかった。彼のよく通る声と、平易な言葉遣いは、人々をとりこにせずにはおかなかった。彼らは、自分たちの聞いたことによって徳を建て上げられただけでなく、心を暖められた。むろん、この慎ましい会衆のただひとりといえども、今世紀最大の説教者となる人物が、自分たちの間で沈黙を破ったのだとは思いもしなかったに違いないが。

 それと同時に、そこには、この少年説教者の立派なふるまいに多かれ少なかれ驚かされた人々がいた。その代表格は、ひとりの老婦人であった。彼女は説教が終わったとき、こう叫んだのである。「何てごりっぱなこと。あなた年はいくつになるの?」 こうした、型にはまらないやり方に、後年のスポルジョン氏であれば好意を示したかもしれないが、そのときはまだ慣れておらず、彼はたしなめるような調子で答えた。「礼拝が終わるまで、そのような質問は控えなくてはなりません」。そして、先へ進んで最後の賛美歌を告げた。祝祷が唱えられ、人々が解散し出した後で、先に説教者の年齢を尋ねた愛すべき婦人は、なおも、自分は好奇心が満たされないまま帰っていくつもりはないという所を示した。おいくつなの? よろしい、六十歳にはなっていません。「そうでしょうとも。十六にもなってないわよね!」、と老婦人は云い張った。彼女はこの若者の年齢を知りたがっただけでなく、彼がもう一度やって来る約束をするように求めた。これに対して彼は、もしも本部の長上者たちが問題なく認可してくれさえすれば、そうするのにやぶさかではないと答えた。

 新天地を開いたこの若者は、前途にある自分の能力に何がしかの自信を感じていたかもしれない。だが彼は、この点についてケンブリッジの紳士たちが何と云うかについて、それほど確信が持てなかったであろう。例えばヴィンター「主教」は、十六歳の小僧っ子が、その指導者や兄弟たちの正式な認可も得ないうちに信徒説教者としてふるまったことを聞いたら、何と云うだろうか? まもなくロンドンや、英国の数々の大都市で、その覚醒の声を聞こえさせるはずのこの若者は、そのときはまだ小心な素人であり、自分の長上者たちに対して、際立って慎ましい敬意を有していた。「ケンブリッジの紳士たち」は、まだこの青二才が完全な畏怖を覚える大人物たちであった。だが、自分自身をつまらぬ者と考えつつ、自分の長上者たちをしかるべく重んじているのは有望なしるしであった。しかし、子ども時代の日々は終わりを告げていた。年齢という点では少年にすぎなかったにせよ、チャールズ・ハッドン・スポルジョンはこれ以後、一人前の男の仕事――それどころか、同輩たちの中で巨人として立つ者だけに成し遂げうる仕事――を引き受けなくてはならなくなるのである。

テヴァーシャムにある草ぶき屋根の農家。ここでスポルジョンは、数名の農場労働者たちとその妻たちに向かって、その最初の説教を行なった。


HOME | TOP | 目次 | BACK | NEXT