HOME | TOP | 目次 | BACK | NEXT

----

第9章

地元説教者としてのスポルジョン氏

十九世紀前半の終結――大博覧会――スポルジョン氏とリーディング氏――教皇の攻勢:『反キリストとその子ら』――少年説教者の将来性――「信徒説教者の会」の掘り出し物――説教の働きにおける不屈さ――現存するケンブリッジの友人たちの回想――「ホートンの粉屋」とスポルジョン氏――ジェームズ・A・スポルジョン氏の思い出

 十九世紀前半の終結は、わが国の国民史において、ことのほか重要な時期であった。そしてそれは、私たちがこれまで、数えで十七になるまでの歩みを辿ってきた、この偉大な人物の生涯においてもそうであった。1850年が暮れつつある頃のことを覚えているほど年の行った人々であれば思い出すであろうが、多くの事がらについては、概して明るい前途が開けているように思われていた。だが、そうした展望は決して実現することがなかった。ハイドパークでは、大勢の労働者が[1851年の]大博覧会のためにかり出され、妖精めいた、巨大な硝子張りの宮殿を建築していた。その博覧会は、浅はかにも、普遍的な友愛の新時代を実現するか、その幕開けへ至らせるものと期待されていた。楽天的な人々は、この類を見ない工芸展覧会によって、世界の国々に広く文明開化の影響が及ぼされるであろうと、野放図な期待をいだいていた。愛国者たちは、ついに黄金時代が始まりつつあると考えた。荒廃と疲弊を招いた数々の戦争の時期の後で、今や、少なくとも文明諸国に関する限りは、普遍的平和の時代がやって来たのである。社会改革者たちも、この大博覧会が、空前の明るい未来を約束するものと考えていた。キリスト教の宣教師たちでさえ、ロンドンで催されるはずのこの驚異的な祭典が、福音を進展させる踏み台になるだろうと思っていた。もしもあらゆる人種、あらゆる国家の人々が一同に会するとしたら、きっと彼らは、万人が心と魂を合わせて世界共通の至福のために協同して働くことこそ、万人が益を受ける道であるとの教訓を学びとるに違いなかった。

 若きスポルジョン氏と、彼の誠実な友人であり教師である人物[リーディング氏]は、こうした事がらに関心をいだき、それらについて語り合ったであろう。彼らは、未来の展望について、それぞれの意見を互いに述べ合い、多くの人々があれほど自信たっぷりに予言していた、ばら色の未来について推測し合ったであろう。ただし、熱烈な福音主義者であった彼らは、ふたりとも、前途の見通しについて楽観的にすぎる感情に押し流されることはなかったと思ってよいに違いない。芸術も、科学も、産業も、それなりに有益なものではある。国家の安寧のためには、それらがあらゆる合法的な手段によって推進される必要がある。だが、それらは決して、福音だけがもたらしうる改革を生じさせると期待することはできない。手元にあるいくつかの決定的な証拠によれば、問題のこの時期、あるいはその前後に、スポルジョン氏は、生起しつつある出来事に強い関心を示していた。だが、明らかに政治よりも、また社会改革すらよりも、キリスト教信仰に属する問題の方が、彼に影響を及ぼしていた。例えば1850年は、歴史上、《教皇の攻勢》として知られるものの時期であった。ローマ教皇がこの国を複数の司教管区に区分し、それらを所有すべき自らの代理者を任命したとき、世論は激昂し、大衆の意を汲んだ議会は、国王の認可なく司教の称号を名乗ることに、特定の罰則を付加する条例を通過させた。日刊紙や週刊誌による報道に加えて、このような危機につきものの書物や小論が山ほど出版された。もちろんスポルジョン氏は、その傑出した祖先に似合わしく、熱心なプロテスタント側の支持者であった。彼は、ノッティンガムのモーリー家の一員によって賞金つきで募集された、ローマカトリック教に関する論文に応募し、『反キリストとその子ら』という、いまだ未刊行の小論を書き上げた。従ってこの作品は、《教皇の攻勢》と、それが今世紀中葉に引き起こした異様な興奮とを思い起こさせるよすがとなっている。

 しかし、より個人的な問題に目を向けると、ケンブリッジの指導教員リーディング氏の閑静な自宅には、それとはもう少し異なる興奮も起こっていたと想像できよう。彼の若き生徒兼助教師[スポルジョン]が帰ってきて、自分がいかに策略にひっかかり、意に反して説教せざるをえなくなったかを告げたからである。リーディング氏もまた、リチャード・ニルの場合のように、自分の若き友のうちに、未来の人気説教者を見てとっていた。というのも、この教師は、スポルジョン氏が、年齢相応を超えた学力を有しているのと同じく、平均をはるかに上回る才幹の持ち主であると見抜くだけの洞察力があったからである。リーディング氏は、自分の家に住まわせている若者が、大学入試など軽々と通過できることをよく承知していた。ただ非国教徒である彼には、いかなる大学の門戸も閉ざされていただけの話である。この教師は、大志をいだく青年をいつ、また、いかにして励ますかを知っていた人物であったように思われる。決まり切った日常の仕事以外に、日曜学校での教務や、小論文などの執筆、そして方々の農家で話をすることには、潜在的な諸力を大いに発達させ、引き出すものがあった。

 時おり全学年の子どもたちに語りかけることのある日曜学校教師としてさえ、スポルジョン氏の話は、ある程度の注目を集めていた。だが、説教をするようになってみると彼は、その働きが次第に好きになってくることに気づいた。まもなく、ヴィンター「主教」と他の「ケンブリッジの紳士たち」は、このような志願者の奉仕を確保したことによって、「信徒説教者の会」の声望に少なからず寄与する、掘り出し物を見つけたことを悟ったに違いない。

 まことに彼は、幼少期から、その諸力の発達しつつある青年期に至るまで、自分でも思いもよらぬ道のりによって導かれ、これから踏み越えて行かざるをえなくなる道のりが、今の彼の前に大きく、また明らかに開かれたのである。過去の経験を思うと、感謝が自然と呼び起こされるようであった。彼は、一歩一歩、摂理的なしかたで進歩を遂げてきて、自分の最も愛する奉仕が、今まさに、その生涯の働きとなろうとしていたからである。彼がすでに説教者として示し始めていた熱情も、それ自体、成功の前兆であった。いざ乗り出してみると彼は、自分の働きに特別な喜びを覚えるばかりでなく、その熱心さにおいても、失望や困難に直面した際の不屈さにおいても、「信徒説教者の会」の会員すべての鏡であった。ケンブリッジシアのこうした平地を横切る徒歩の旅行者にとって、しばしば相伴って生ずる風と雨とは悩みの種だが、それらも決して彼の朗らかな気分を追い散らしたり、伝道者としての熱烈さを冷ましたりすることはできなかった。彼が説教していた村人たちでさえ、この若きアポロにつきものであった熱情の何がしかを感じとっていたに違いない。というのも彼は、暴風の晩に村に着いた場合、悪天候によって自分の会衆が戸外に出て来そうもないと思うと、彼らの家々を訪ねて、これから説教が行なわれることを思い起こさせて歩いたからである。防水合羽で身を守り、頑丈な杖と角灯を手にした、この「信徒説教者の会」の使節は、村から村へと渡り歩いた*1。そして、その後何年も経って、その少年伝道者がメトロポリタン・タバナクルの牧師におさまったとき、数多くの人々が、こうした初期の小さな事がらがなされていた時代を懐かしげに思い出したのだった。

 今から数年前の1875年、私の友である故エドワード・クレッセルは、当時ハンティングドンシアのホートンで、会衆派教会の牧師をしていたが、私のために、この時期のスポルジョン氏の経歴に関連する、いくつかの挿話を収集してくれた。それらは、彼がいかに少年説教者と呼ばれてしかるべきであったかを示している。ひとりの紳士がクレッセル氏に告げたところ、彼は二十六年前、スポルジョン氏によってサマーシャムで執り行われた礼拝に出席していた。そのとき、数えで十七の若者であった説教者は、上衣と、幅広の折り曲げ襟を身につけており、そのときの聖句は、「恐れるな。虫けらのヤコブ」(イザ41:14)であった。その会堂は、老年の教役者が司式する会堂であり、この尊ぶべき牧師の声音と、若き雄弁家の声色の対比には驚くべきものがあったという。近隣にいた一部の人々がはっきり見てとったところ、この説教者は、少年ではあるかもしれないが、新しい方式を講壇に持ち込みつつあり、いかにも力強く、独創的な説教者となる見込みを漂わせていた。カルヴァン主義バプテスト派に属する、ひとりの老人は、ありきたりの教役者には簡単に感心しないたちだったが、スポルジョン氏の説教を聞くとすぐに、万障繰り合わせても、その説教を何度も何度も聞くようになった。

 ひとりの婦人は、スポルジョン氏がホートンの会衆派会堂で説教したときのことを覚えていた。そのとき、この若き説教者は、故ポットー・ブラウン氏の訪問説教者であった。――この機会のことは、この偉大な説教者も、その生涯最後に至るまで、まざまざと記憶していた。彼がそのとき行なった講話は、非常に深い印象を与えることを目指してなされたものであった。だがそれは、寄宿学校の男子生徒のような見かけの説教者から聞こうとは、だれひとり期待していなかった内容であり、むしろ、年季を積んだ神の人が行なう類の説教であった。このような状況下にあっては、ほとんど無理からぬことながら、「ホートンの粉屋」と呼ばれたブラウン氏は、自分の訪問説教者が、他人の説教を得々と自分のものであるかのように云い繕っているのだと思い込んだ。その村の学校教師もまた、この説教者の並々ならぬ力量に非常に感銘を受けた。残念なことに、この種の事がらの多くは、機会がある間に収集されなかった。ケンブリッジ周辺の村々で四十年ほど前に行なわれていた、スポルジョン氏によるごく初期の礼拝について覚えている人々は、今では、彼ら自身、急速に幽明境を異にしつつある。

 1892年5月5日に、ジェームズ・A・スポルジョン氏は、牧師学校の福音主義連盟の会長として語った講演の中で、自分の兄の幼少時代について興味深い発言をしている。

 彼によると、コルチェスターの実家は、キリスト教国の中で出会いうる、いかなる家庭にも劣らぬ敬虔な家庭であり、ジョン・スポルジョン夫人こそ、あらゆる善良さの開始点であった。ある「伝記」の中に記された面白い言明によると、チャールズ・スポルジョンが生後十八箇月でスタンボーンに送られたのは、彼が「十七人兄弟のひとり」であったからであった。だが、彼が最初に生まれた子であったので、それは到底事実にはそぐわない。彼が両親と再び同じ屋根の下で暮らすようになったのは、五歳から六歳の間であり、それ以後スタンボーンに行くのは休暇期間中だけであった。スタンボーンの家庭もまた、この上もなく敬虔な種類の家庭であり、老ジェームズ・スポルジョンは熱情あふれる福音の説教者で、大音声の持ち主であった。彼のことはまだよく記憶されている。そして、この連盟会長[J・A・スポルジョン]の告白するところ、彼が冗談について最初に得た観念は、自分の祖父から引き出されたものであった。ある日、一団の友人たちが寄り集まっていたとき、ある人がこう云った。「スポルジョン先生、先生はどのくらいの重さがありますか?」 「そうさな、それは何をもって量るかによるよ」、と古強者の説教者は答えた。「はかりの上に立ったときのわしは、目方が足りんだろうが、講壇に立ったときのわしについては、随分と重ったるいという話じゃ」。この説明は最初、この幼い聞き手にはほとんど理解できなかったが、たちまち彼は、もっと年の行った人々とともに思わず腹を抱えて笑っていたのである。このようにして、神学的信念についても、一般的な習癖についても、妥協を知らぬピューリタンでありながら、この老牧師は、彼のより卓越した孫[チャールズ]が後年披瀝するようになるのと同じしかたで、面白おかしい話に興ずることができたのである。

 ジェームズ・スポルジョン氏は、祖母であるスタンボーンの牧師夫人のことも覚えている。彼女は、子どもたちに対する気だての良さで際立っていた。あるとき、お腹をこわしやすい幼児だったジェームズ師がスタンボーンを訪れたとき、彼は決して練り粉菓子を食べないようにと、母親から云いつけられてきた。これは、子どもたちが楽しそうにしていないと自分までどうかしそうになってしまう、善良な祖母を相当に面食らわせるものであった。老婦人は、コルチェスターからの指示にまっこうから逆らったように見られたくはなかったが、孫息子に、どの食料棚の中を見れば焼き洋菓子がたっぷり見つかるかこっそり耳打ちした上で、あとは好き勝手にまかせた。だが彼は、すぐに間違いがなされたことを思い知った。母のいましめの方が祖母の甘やかしよりもありがたいものだったのである。

 ジェームズ・スポルジョン氏によると、彼の兄はスタンボーンで非常に多くのものを得たが、それにもかかわらず、主たる恩恵は、コルチェスターの実家の良い影響にこうむっていた。ジョン・スポルジョン氏がその息子たちに授けたほどの良い教育を与えることができたのは、素晴らしいことであると考えられている。彼らには、授けうる限りの最上のものが与えられ、今なお大事にされている教科書は、その働きが徹底的になされた証拠である。弟の方は兎だの何だのを飼育していたが、兄は本の虫であった。彼には「納屋のようにだだっ広い」精神があり、彼は、思い出しうる限りの昔から、教師となり始めていた。また彼は、比肩する者がほとんどおらず、しのぐ者がひとりもいないほどの進歩を示した。

 ジェームズ・スポルジョン氏はさらに、自分の兄が説教し始めた頃のことを記憶している。というのも、この弟は、兄を実家の軽装馬車に乗せて、指定された説教場所まで送っていくのが常だったからである。コルチェスターのスポルジョン家は、説教者たちのたまり場となり、そこでは休息と軽食が得られた。その最初期の講話を行なっている頃のチャールズは、弟の目には、驚異的な説教者に映っていた。彼の説教には、まれに見る種類の油注ぎが伴っており、田舎の人々に及ぼされた印象は、後に都会でなされた場合と同じくらい深甚なものであった。彼は、人が完全に成熟した説教者として一躍講壇に立つこともあるという驚異的な実例であった。確かに後年には、より深みと霊性が伴っていたかもしれないが、その天賦の才質は初めから変わらなかった。後の時期には、みことばとその意味の解き明かしがより多く伴うようになったが、ジェームズ・スポルジョン氏の云うところ、弟として覚えている最も古い時期こそ、最も輝かしい、最良の思い出であった。彼は、兄がウォータービーチに行ったことや、そこでいかなる印象が及ぼされたか、また、コルチェスターの家庭内でいかなる驚きがいだかれたかを覚えている。スポルジョン氏は神によって作られ、神によって派遣された人物であった。――彼はその時代に遣わされており、彼の記憶は、全く混じりけのない喜びと幸福の思い出となった。


*1 「『信徒説教者の会』の働きがなされていた地区は、十三の村からなっていた。気づくと、この少年説教者は、常に、これらの村の1つか2つでその新しい役目を果たしていた。彼の職務の場は時には農家か納屋であり、あるいは、時たま起こったように、野外で礼拝が執り行われた」。――とある同時代人による『人格の特徴』、1860年、第二巻、p.89。[本文に戻る]


----

HOME | TOP | 目次 | BACK | NEXT