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第10章

 ウォータービーチに落ちつく

ウォータービーチの過去と現在――ウィンフォールド農場とデニー修道院――説教された教理――旧式の会堂――よりすぐれた奉仕のための準備期間――若き説教者の学びの方法――彼の純真な性格――老執事の思い出――その会堂におけるスポルジョン氏の最初の説教――その後の彼の話の特徴――老教役者を叱責する――「講壇から吠えた最もこしゃくな犬」

 事の自然な成り行きとして、スポルジョン氏のような説教者の光を枡の下に長い間隠しておくことは不可能であった。あるいは、言葉を換えれば、彼は、単にケンブリッジの「信徒説教者の会」の使節としてあちこち巡り歩くだけの働きを長期間続けることはできなかった。スポルジョン氏が時おり自分の学生たちに云い云いしていたように、木の天辺には常に候補者の入る余地があるのである。根元の方でいかに多くの群衆が押し合いへし合いしていても関係ない。これは、いかなる意味においても、ウォータービーチが最高の立場を意味するものとみなされるべきだったということではない。だが、それは、自らに面目を、他の人々に利益を施しつつある前途有為の人物が、幸先の良い出だしを切れる場所にほかならなかった。その会衆は、ケンブリッジシアで富み栄えつつある村には、まことに典型的なものであった。また、たとえその人々が、自分たちの牧師を支えるために年間四十ポンド少々しか工面していなかったという伝説が事実だとしても、それはおそらく、彼らの側にある何らかの無思慮さとか、親切心の欠けから出たものではなく、長年の慣習を守ろうとしてのことであったろう。十九世紀の中頃に、英国の農村部でごく一般的にいだかれていた考え方によれば、福音の説教者は、その現実的な必要において最も質素な種類の生き方をすべきであった。事実を云えば、ある牧師の収入は金銭だけから成り立っていたのではなく、人々は彼に多種多様な贈り物を持っていったのである。

 ウォータービーチそのものは古くからあった土地であり、スポルジョン氏が最初にそこに行ったとき、彼は、聖ヨハネに奉献された国立教会の教会堂が、興味深い建物であることに気づいた。と同時にそこには、十七世紀までさかのぼる私設救貧院や慈善学校があった。確かにロバート・ホールから嫌悪の言葉を引き出して当然なほど起伏に乏しくはあったが、その周辺部は、ある点では魅力があった。気候は温暖で、それに加えて考古学者の関心を引くものがいくつかあった。サミュエル・ルイス氏は、その『英国地誌事典』において、こう述べている。――「1160年前後に、イーリーの修道院に付属する小修道院がエルメナイという小島に設立されたが、ほどなくして、やはりこの教区内のデニーへと移設された。翌世紀の間それは、当時ウォータービーチの地主屋敷を所有していたテンプル騎士団員によって領有されていた。1293年、聖クララ童貞会修道女たちのための修道院が創設された。……1338年、同修道会は、テンプル騎士団がすでに廃止されていたため、デニーにあった彼らの修道院へと移転された。その解散時、そこには二十五名の修道女がいて、その地所の年間代価は172ポンドと評価された。現在、その修道院の建物と付属地は長い間、農地として貸し付けされており、修道院の食堂だったものは納屋に改造されている」。

 こうした事がらに言及すべき理由は、いま述べたような中世英国の遺物が、スポルジョン氏自身のまれにみる関心の対象であったからである。ロンドンでの、ほぼ四十年にわたる牧会活動の間に、彼は自分が若き日に働いたその場所をしばしば訪れた。スポルジョン氏は、ウォータービーチのウィンフォールド農場を何度も訪れ、その魅力的な地所を訪れる人々はデニー修道院の遺跡を検分できるのである。何年もの間ウィンフォールド農場は、その「孤児院用地」を有しており、小麦粉や、馬鈴薯などからなる、その全収穫は、規則正しく[スポルジョン設立の]ストックウェル孤児院へと、収容児たちへの贈り物として送り届けられていた。その事実1つを取ってみても、スポルジョン氏をその場所に引きつけるのにまず十分であったであろう。孤児たちという彼の大家族に対して親切であった人々は、彼自身に対して親切であるとみなされたからである。

 スポルジョン氏が最初にウォータービーチの村や村人たちと知り合ったのは、ケンブリッジの「信徒説教者の会」の一員として旅をする間のことであったと思われる。彼は一度もその場所に家を構えることはなかった。だが彼は、同地に数多くの友人たちができたため、その牧会活動の間、訪問するたびに彼を歓待してくれる家には事欠かなかったと信ずべき理由がある。その村人たちは、暖かい心をした共同体で、この若き説教者の奉仕に、この上もない心からの感謝の意をすぐさま示すようになった。彼が説教した数々の教理は、彼ら自身が愛し、自分たちの希望の土台としていた教理であった。また、そうした教理は、その村にあったバプテスト派の講壇から、幾多の世代を越えて発されてきた教えと同一のものであった。要するに、ウォータービーチは、スタンボーンそのものと同じくらい、ピューリタン思想の砦だったのである。そして、それこそ、かのエセックス州の老牧師の孫[スポルジョン]が、たちどころにその会衆に心安いものを感じた理由であった。この少年説教者とその会衆を結びつけた強く優美な絆は、決して断たれることがなかった。初期の時代に、それはエデンの園であった。後年になると、それは、この雄弁家が気分転換と疲れ休めのために喜んで待避してくる、閑静な安息所となった。

 スポルジョン氏が最初にウォータービーチの友人たちと関係を持つようになった今世紀の中頃には、現在の私たちが過去の時代と結びつけて考えるような数々の習慣は、まだまだすたれてはいなかった。ケンブリッジを通る鉄道が開通するのは、数年も先のことだった。今や英国の最も豊かな地域にさえ、明らかに見られる数多くの農業不振のしるしは、当時は、いかに観察力の鋭い旅行者の心も悲しませることがなかった。いずこを見ても、豊穣さと静かな進展の証拠が見てとられた。汽車から降り立てば、広漠たる天空の円蓋が――さながら海洋の真上にいるかのように――広がり、訪問者に自分が広大な平原に立っていることを思い起こさせるのだった。だが、その土地は滋味豊かで、人々は裕福であった。喧噪と、煤煙に満ちた大気とから、しばしの間隙を求めて逃れ来るロンドンっ子にとって、この爽快な空気と質朴な魅力には抗しがたいものがあった。古風な趣きのある、四角い会堂そのものは、二段になった窓がなければ、麦束の堆積か、屋根をかけた乾草の山に間違えられかねなかった。奇妙な形をしたその窓によって、十分な量の光が聖所の中に射し込むらしかった。この村の中にあるその他の物事は、この堂々たる対象と非常に調和していて、おそらくウォータービーチは、一世紀前に、メソジスト信仰復興の説教者たちがこの地方で福音を宣べ伝えた際に彼らを迎えたものと、ほぼ変わらない外観を呈していたであろう。

 このような場所と、このような共同体のもとへ、その経歴の中でもこのように興味深い時期にやって来たことは、スポルジョン氏の経験における、摂理的な状況とみなさなくてはならない。もしこの若き伝道者が、ケンブリッジの「信徒説教者の会」から直接ロンドンに出ていったとしても、疑いもなく彼は、即座に成功をおさめたであろう。だが、そのように急にすぎる突然の変転は、きわめて難儀なものとなっていたはずである。後に異様な人気を博したときも、それは十分に唐突であった。だが、ウォータービーチで得た経験の後で、また、その近隣の町々や村々を巡回している間に、この少年説教者は、ある程度は、ロンドンで彼を待ち受けていた、より疲労困憊させる労働に伴う試練への備えができていた。ウォータービーチでなされた奉仕は、彼に欠くべからざる適切な備えをさせ、彼の力を強める期間であった。この説教者はすでに、自分をロンドンで待ち構えていた人気の、いわばひな形を見てとっていたのである。彼が牧師となった小さな旧式の会堂は、福音のすべてが伸び伸びと説き明かされるのを聞きにやって来る人数を、到底収容しきれるようなものではなかった。また、他の場所でも、人々がスポルジョン氏の講壇の特徴になじんでいくにつれ、彼が何らかの記念日か、特別の機会に説教を執り行なう際には、群衆が引き寄せられるようになった。それゆえ、この時期の全体は、腕試しの期間であると同時に、来たるべき将来に控える、偉大で無比の生涯の事業のための準備期間であった。というのも、もしこの説教者を形成していた地金が、ウォータービーチにおいて、信用できる品質の響きを鳴り渡らせていなかったとしたら、それは、まもなくロンドンでさらされることになるような過酷な試練に、決して耐えられなかっただろうからである。

 スポルジョン氏は、ウォータービーチでの働きに着手したとき、十七歳になるやならずであったが、必要な素地は徹底的に身につけていた。彼は、自分にとって実際に役に立つ物事を学び終えていただけでなく、やがて自分に益をもたらすはずの勉強の習慣も身につけていた。彼は、有益に読書するしかたをすでに知っており、一度読んだ良書の内容は二度と忘れなかった。それは彼自身の説明によると、書物の中にある物事を微細に分析していくという方法である。これは、彼をよく知る人々にとっては、いかにもうなづけるやり方であった。要するに彼の知識は、すでにその年頃の説教者としては考えられないほど広い範囲に及んでいたのである。彼の最初期の説教には、ただの線香花火的な才知のひらめきなど、薬にしたくてもない。在郷の聴衆たちの間にさえ、修辞的な花火細工と、まぎれもない真正の雄弁とを難なく区別できる人々がいた。そうした人々の目に映ったのは、ひとりの天才説教者の出現であった。だが、それだけだったとしたら、そこに及ぼされた印象は、あれほど深甚なものとはならなかったであろう。ウォータービーチ教会の成熟した年齢の会員たちを主として驚愕させたのは、その牧会責任を引き受けた十七歳の若者の、キリスト者経験の深みであった。たとえ彼が、祖父であるスタンボーンの牧師の指図通りに語っていたとしても、これほどこの特徴が際立つことはありえなかったに違いない。彼の経験は明らかに、キリスト者の歩みをはるかに進んで行った者のそれであった。おそらくこれには、幾分か不都合が伴ったであろう。ある人々は、この説教者の正直さを疑わずにいられなかったからである。鋭敏な観察者からしてみれば、この講壇上の少年が口にしているのは彼自身の説教であるはずがなく、むしろ、当の少年がまことにしばしば言及したり引用したりしていた、深い知識と経験を有するピューリタンの賢者たちのだれかれの言葉に違いないと思われた。その一方で、この説教者の様子には、多くの人々がその正直さと真剣さの証拠として受け入れることのできるものが伴っていたに違いない。彼は、人を騙そうとしているとは思えない、開けっぴろげな顔をしていた。その素行はみな、彼の純真な性質を証しするものと思えた。こういうわけで、一般の民衆が彼の云うことを喜んで聞いている一方で、一般の民衆でない人々は、この若き説教者のことを、説明を要する不思議な事象とみなしていた。「このスポルジョンとは何者なのか?」、はロンドンの詮索好きな人々のお決まりの質問の1つとなる前から、ケンブリッジシアで相当しばしば問われていたのである。そして、後年にロンドンでそうなったのと同じく、その質問に対する答えは、概して、その答えを返す人々の、好意的あるいは非好意的な予断によって色づけられていた。スポルジョン氏の初期の時代を回顧して、ある著者はこう云っている。

 「一般大衆こそ世論の真の導き手である、という逆説には一理ある。いずれにせよ彼らは、近頃われわれの元を去って、今や現代最高の説教者であると広く喧伝されている、ひとりの偉大な人物に関しては、確かにそうであることを証明した。聖ポール大寺院の学識ある主教座聖堂参事会員の説教も、『タイムズ』紙や『スタンダード』紙の社説も、ウォータービーチの小さな会堂から、恐れおののきながら首都に上京してきた、この少年説教者を歓迎しはしなかった。スポルジョンが講壇の雄弁術において打ち鳴らした新しい調子は、洗練された人々には、耳障りな不協和音に聞こえた。しかしそれは、ケンブリッジシアの粗野な農民たちや、卑しい職人たちにとっては妙なる音楽だったのであり、時間の経過とともに、身分の高い人々もそれと同じ意見をいだくようになっていったのである。一般大衆は彼の云うことを喜んで聞いていたが、ロンドンの貴顕淑女たちは、散々に嘲ったり馬鹿にしたりした上で、ようやく彼にも耳を傾けようという気になった。かりにウォータービーチの善良な人々が、その説教者を選ぶ際に、当時の多くの人々がしかるべき態度とみなしたように、自分たちの判断に自信を持たなかったとしたら、どうなっていただろうか? かりに彼らが、世の指導者たち――例えば国立教会の主教か、卓越した学識者か、自分たちの教派の年功を積んだ教役者たち――のもとに赴き、この少年説教者の話を聞いて、その品定めをしてほしいと頼んだとしたら、どうなっていただろうか? この善良な人々は、このような者を選ぼうなどと夢見た軽率さに対して、いかなる評価を受け取ったことか! 彼らは、彼の極端な若さや、不適切な学歴や、経験の欠如や、ことによると彼の講壇上における増上慢や、言葉遣いの野卑さについてすら、たっぷりと聞かされたことであろう。そして、もしもウォータービーチの内情が、一般人が賢人の助言に留意するという、理想的な完全さによって処理されていたとしたら、この偉大な説教者の経歴は、蕾のうちに摘み取られ、彼は他の無数の人々と同じくだれからも注目されないまま、その生涯を終えたかもしれない。幸いにもウォータービーチの人々は、だれからも邪魔されずに自分たちで選択を下すことができた。天才の種は芽を出すことが許され、ほどなくして、この有望な植物は、ロンドンの、もう少し主立った集団の注意を引いた。そのようにして一歩ずつ、この大衆の秘蔵っ子は、その道を勝ちとり、ついにはエクセター公会堂や、サリーガーデン音楽堂や、メトロポリタン・タバナクルでおさめた成功が、ロンドン中の語り草となり、世界中に鳴り響くようになったのである」*1

 一度ならず私は、ウォータービーチを訪れたことがある。それは、可能であれば、スポルジョン氏の初期の時代について個人的に回想できる人々から情報を得るためであった。その教会の、かなり年配の執事のはっきりした言葉によると、最初この若き牧師は、その説教を聞いたあらゆる人を驚愕させたという。この善良な人物は、そうした忘れられない日々について熱を込めて語った。だが、彼を主として感心させたと思われるのは、この少年説教者が、年配の、あるいは成熟したキリスト者の経験を有しているらしい事実であった。それは、まるでこの説教者が、自分の働きのために一瞬にして全く熟成したかのように思えた。先に述べたように、他の人々もそれと同じことを見てとり、それは通常のしかたでは説明のつかない不可思議な出来事であった。それは全く例外的な性格をしていたからである。その初期の時代にスポルジョン氏と友人であったひとりの人が、念入りに考えた意見として云うところ、この牧師は、若年のうちに自分の働きのために完全な素地を身につけたのであり、他の人々のように若年から熟年にかけて進歩していくことは決してなかった。事の性質上、そのようなことはありえないが、このような意見は、成人に達する前のこの説教者が、その友人たちによって、いかに深いキリスト者知識と経験を有しているとみなされていたかを示している。

 スポルジョン氏の時代に、ウォータービーチ教会で執事をしていたロバート・コウ氏は、こうした人々の中でも全く典型的な人物であった。そして彼は、メトロポリタン・タバナクルの牧師と一生続く友情を保った。この御仁とその細君は、私が知り合ったときには、近年の習慣よりは昔の時代のあり方に愛着を感じていた。そして彼らは、過去に彼らの小さな会堂と関係していた偉大な人について喜んで物語ることができた。この善良な執事は、しばしばロンドンに招待されたが、ニューイントンの大会衆[メトロポリタン・タバナクル]の中に実際に立ち現われたのは、その聖餐卓のための新しい細口瓶を贈るという約束によって、なかば引きずられるようにしてであった。その瓶が、それまで使われていた普通の葡萄酒瓶に取って代わることになっていたのである。コウ氏は、このケンブリッジから来た若き信徒説教者が、青白い、心許なげな顔つきでウォータービーチの講壇に立つのを最初に見てから四半世紀後に、自らロンドンを訪れ、ナイチンゲール小路で歓待された後で、切望していた細口瓶を生まれ故郷の村に持ち帰ってきたのであった。

 ウォータービーチにおけるスポルジョン氏の初期の日々に関するコウ氏の思い出は、非常に興味深いものであるばかりか、説教者が年弱であるからといって、その能力に不利な結論を下そうという人々への警告とみなされてよい。コウ執事がその古い会堂で最初にスポルジョン氏に出会ったとき、彼は自分の新しい友人が、あまりにも蒼白で、あまりにも若いために、説教者としては取るに足らぬ人物だと考えた。だが、相手がいかなる声の持ち主か、また、いかなることを語れるかを発見したとき、彼は、ただ賛嘆と驚愕に包まれたまま、座って耳を傾けることしかできなかった。さらに、初期の説教のいくつかは、長く記憶にとどまるほど深い印象を残した。その説教者は、信仰者の輝かしい特権の説き明かしにわれを忘れることもあったが、彼が口にする罪への非難と、悔い改めない者の末路の描写はすさまじい警告であった。その当時の彼は、決然たるカルヴァン主義者として語っていたが、もう少し年を重ねると、より柔らかな云い回しも使えるようになった。

 ウォータービーチの近隣には、彼の初期の日々に関する多くの逸話が流布しているが、その真正性については多少困難がある。彼は喫煙を始めたとき、激しいむかつきのため非常に苦しんだと語られている。かと思うと、それは否定され、彼の最初の「教区委員」[陶製の長煙管の綽名]は一度も彼に面倒をかけたことがなかったと云われる。しかしながら、このように些細な事がらについては、詮議だてすることもないであろう。

 その教会[ケンブリッジの]にスポルジョン氏が最初に加入したとき、多くの善良で謹厳な人々は彼を理解できず、その結果、彼らの目にとって彼は、無骨で、図々しく、不遜にすら映った。聞き及ぶところ、ひとりの人は、あるとき祈祷会の指導者に驚きを表明したことがあったという。なぜなら、相手が「あの無作法な若造に祈るよう求めた」からである。さらに私が聞いた話によると、[ケンブリッジの]教会に加わった頃のスポルジョン氏は、ある集会が終わったときに、主要な会員のひとりのもとに行き、心を込めて、お元気ですかと語りかけたという。その人は驚いた表情を浮かべると、きわめて丁重にではあるが、自分は、質問してきた相手のことを知っていないようだと告白した。「ぼくのことを知らないですって! ならば、いま知るべきです。ぼくはあなたと、三週間も続けて主の晩餐で隣に座っていたんです、ぼくのことは知ってしかるべきでしょう!」、というのが答えであった。今や相手が若きスポルジョン氏であることは明らかであった。「では、ひょっとして私のうちへお茶を一服しに来ませんか」、と次の言葉が出た。「それこそぼくがしようとしていることですよ」、というのが答えであった。

 それらはまた、冒険の日々でもあった。その多くは相当に興味深いもので、一度などこの説教者は、自分の人生の、ほとんどどの一日の中にも、三巻本の小説を満たすほどの材料が詰まっている、と云わざるをえないほどであった。以下に述べる愉快な事件の詳細は、数年前に私が最初に世に発表したものである。その事実は、クラパムにあるその書斎に座っていたスポルジョン氏自身から与えられたものであった。そのときスポルジョン氏は、体が弱り果てていたあまり、働くことができなかった。そのような折に彼は、体が痛んでさえいなければ、決まってこうした古き良き時代の思い出で、自分の友人たちを面白がらせるのを楽しんでいたように思われる。その時代とは、彼がその青年期の力と清新さのもとにあって、人生を十二分に楽しむことができ、その人生行路の果てにある、ロンドンでの牧師職の重荷がまだその影を肩に落としていなかった頃のことである。

 1852年、彼はすでに並外れた人気を博する説教者となっていた。たとえ年齢的にはほんの青二才でしかなく、その教役者としての立場も非常に小さな村の牧師職のそれでしかなく、その聖職給は一週間あたり1ポンド以下であったが、何の関係もなかった。この若き牧師は、その異常な名声によって、遠隔地にある友人たちから、種々の記念日や特別の機会に説教するように依頼されるようになった。ことによると一度も彼の顔を見たことのない人々が依頼してくることすらあった。そうした人々の中に、ひとりの高齢の人物がいた。彼の会堂はあまり遠く離れてはおらず、彼自身は、非の打ち所ないほど上品ではあったが、無味乾燥な正統信仰に立っていた。その礼拝式の日は非常に重要なものとなるはずであった。なぜなら、多くの献金が見込めたからである。ついにその時がやって来て、実際にスポルジョン氏がその場に姿を現わしたとき、スポルジョン氏は心から自分の八十歳代の兄弟に挨拶をした。だが老人は、自分の少年訪問者がその記念説教をするためにやって来たと云うのを聞くまで、ほとんど自分の目が信じられなかった。その健康状態について丁重に尋ねられたとき、年寄りは突然答えた。「わしは、お前を見てからまともな気分がせんわ!」 それから彼は、自分の記念日の浮沈について大いに思い乱れながら、部屋の中を行きつ戻りつし始めた。そして、ぶつぶつ口にしていた独白の中で、母親の乳の跡を口のまわりにつけたまま田舎を説教して回っている小僧どもについて、あれこれ文句を云った。その記念礼拝のためには、すでに大群衆が集まっていた。だが老牧師は最初、その会堂の中で、会衆から見える席に着くのをなかば恥じていた。

 スポルジョン氏は、このような仕打ちを受けて心くじけるような人物ではなかった。だが、その一方で、時にかなった叱責を与える機会を逃すこともしなかった。彼はすでに、その生涯最後まで守ることになる習慣を守り行なうようになっていた。それは、説教の前に読まれる聖書箇所に、説明的な注釈を加えることである。そのときがスポルジョン氏の好機であった。そこで彼は、ソロモンが白髪に伴う栄誉について述べた言葉を読み、いかにも彼らしい注釈をつけ加えた。「しらがは光栄の冠」[箴16:31]。これは常にそうだろうか? この賢人は、あだやおろそかに異を立てるべき権威ではない。だが、ソロモンであろうとなかろうと、例外なくそう云えるとは思えない。というのも、ある白髪頭にくっついていた舌は、説教しにやってきた少年に向かって礼儀正しく語ることができなかったからである。「もし、それが正義の道に見いだされるならば」<英欽定訳>。もちろん、これは事情を変えてしまう。結局ソロモンは正しいのである。というのも、老人は、正しい道に立っていることが見いだされない限り、赤毛をしていようが白髪をしていようが変わりないからである。今や自分の隠れ場所から出てきた老教役者は、その叱責が筋の通ったものであることをたちまち見てとった。彼は明らかに礼を欠く振る舞いをした。ならば、何かあっぱれな償いをすることこそ恰好が良いというものであろう。それで、この八十歳代の牧師は、少年説教者が講壇から降りてくると、その背中をぴしゃりと叩くと同時に云ったのである。「お前は、講壇から吠えた最もこしゃくな犬だわい!」 このようにして彼は、この巡回説教者が、「こしゃくな若造」と呼ばれるようになるきっかけを作ったのであろう。その頃の彼は時たま、そう呼ばれることがあった。

ウォータービーチにあるバプテスト派の会堂。十七歳のスポルジョンはこの教会の牧師となり、ほどなくしておびただしい数の聴衆が集まるようになった。


*1  『デイリークロニクル』紙、1892年4月14日付け。[本文に戻る]


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