HOME | TOP | 目次 | BACK | NEXT

----

第11章

ウォータービーチにおける進歩

高まり行く人気――1852年のステップニー神学校――奇異な不運――ミッドサマー広場での声――神学校に行かない決心――いくつかの回想――ウィリアム・ジェイとジョン・エーンジェル・ジェームズ――カルヴァン主義者かアルミニウス主義者か?――貧しい牧師とその衣服――子どもたちの祈り――エヴェレット教授の思い出――教師としてのスポルジョン氏に関するエドワード・イングル氏の回想――「教皇じじい」――学校での宣教大会――将来の偉大さに関する数々の予言――1853年の手紙

 後に真摯な友人となったロバート・コウ氏の場合のように、少なからぬ人々が思わずその若さを軽んじたくなったかもしれないが、スポルジョン氏は、ウォータービーチにいる間、多くの外部の人々から心からの励ましを受けることになった。こうした初期の時代にその村を訪れ、その集会所で説教した人々の中に、故コーニーリアス・エルヴンがいた。[サフォーク州]ベリーセントエドマンズに生まれたエルヴンは、同町で五十年もの間、牧師としての働きに身をささげた人物である。エルヴン氏は巨大な身長の持ち主で、駅伝乗合馬車で旅行するときには二人分の料金を請求されたという。この御仁がウォータービーチを訪れたとき、彼は少年説教者が桁違いの才幹を有していることに注目していたらしく、その働きを励ますと同時に、いくつかの常識的な、父親らしい忠告を与えてくれようとした。そうした助言は感謝とともに受け取られ、実践に移された。何年か後に、エルヴン氏が年老いて副牧師を必要とするようになったとき、スポルジョン氏は彼に、牧師学校で訓練を受けた最良の説教者のひとり――ウィリアム・カフ氏――を推薦した。その後カフ氏は彼のためにショアディッチ・タバナクルを建て、今はその牧師となっている。エルヴン氏は、ロンドンに出てきたスポルジョン氏の初期の時代に、その進歩を見守り、その若き友のためにニューパーク街会堂で説教したこともある。

 ウォータービーチにある小さな旧式会堂の牧師が長足の進歩を遂げ、全く異様なほどの人気を博しつつある間に、こうした事態の推移にこの上もない関心を寄せて観察していたのは、当然のことながら、コルチェスターのジョン・スポルジョン夫妻と、スタンボーンの老牧師であった。その注目の的について、初めのうちはいかなる心許なさがいだかれていたにせよ、今やチャールズがその生涯の事業を見いだしたことははっきりしていた。特に父親は、自分の息子が、その将来に待ち受けている奉仕にとって、可能な限り最上の訓練を受けるべきであると、ことのほか気をもむようになった。チャールズは良質の学校教育を享受してきたが、今度は、それに神学的訓練を加えることが不可欠であった。それには、その目的のために設立された専門学校に行くしかない。ウォータービーチでの働きは、しばらく棚上げにするしかないであろう。この若き牧師は神学校に行かなくてはならない。

 その当時、ステップニー[ロンドン東部のテムズ川北岸地区]にあったバプテスト派の神学校は、すでに設立後、四十年から五十年を経ていた。だが、1810年の創設時には半農村地帯的な環境に取り囲まれていたとはいえ、今やその一帯は、ロンドン東端部の、典型的に陰気な地域になっている。同校の校長はジョーゼフ・アンガス博士であった。この古強者の教育者は今なお、1856年にステップニーの学生たちが移転した先のリージェンツパーク・カレッジで同じ職務を担っている。息子がバプテスト派になった以上、ジョン・スポルジョン氏の見るところ、ステップニー神学校こそ、より完全な神学教育という欠けを満たす場所であった。

 ジョン・スポルジョン氏は、この件について長い間、また熱心に息子と論じ合い、その結果、ステップニーの教官であるアンガス博士と、若きウォータービーチの説教者――その頃はケンブリッジシアの巡回伝道者と呼ばれていたかもしれない――が会見する手筈が整えられた。会見の場所は、この大学町の有名な出版業者[マクミラン氏]の自宅ということになり、この博士と推薦学生とは、指定通りの時刻に到着した。だが、両者は同じ家にいたにもかかわらず、会わず仕舞いになる運命であったらしい。マクミラン氏の女中は、明らかに気働きがある型の女性ではなかった。いずれにせよ彼女は、ほぼ時を同じくして到着した謹厳な教授と、丸顔の若者が、互いに相手に用事があるとは全く理解していなかった。彼女はこの博士をある応接間に通し、その戸を閉じた。続いて、若きスポルジョン氏を二番目の応接間に通し、その戸を閉じた。それから、おそらく、このようにつまらない状況についてはまるっきり忘れ果てて、この午前中の訪問者たちをどちらとも、平和な物思いにふけらせておくままにした。ロンドンでの所用があったアンガス博士は、とうとう鉄道駅へと急いで去らなくてはならなかった。そして、もはや待ちきれないと感じたスポルジョン氏が呼び鈴を鳴らしたときには、出てきた下男から、博士はもうお帰りになりました、と告げられたのである。

 初めは、こうした事態になったからといって、決して神学校に行く考えを放棄しなくてはならないと示された気がしたわけではなかった。神学校への入学申込は書面でも行なうことができたし、そうしたやり方でも同じくらい初期の目的を達成することはできる。そこでスポルジョン氏は、同校の委員会に手紙を送り、自分の希望をかなえてくれるよう依頼しようと決心した。しかし、人は計画するが、神が成否を決するのである。ウォータービーチの牧師やその祖父がいだいていたような強固に清教徒的な心情をいだいている人々は、自分たちの目にとって、人工の教役者としか見えないものに対して、常に強い反対をしてきた。もしもある人が本当に福音を宣べ伝えるべく神から召されたとしたら、その人には主の力によって出て行かせ、後はその人の成功を祈るべきである。逆に、もしある人が、自分はこの手に自分の運命を握っているのだ、自分で自分をみことばの教役者にすることができるのだ、などと考えているとしたら、霊感されたこの警告によって、その増上慢を押し止めるべきである。「何事か。おまえがわたしのおきてを語り、わたしの契約を口にのせるとは」[詩50:16]

 おそらく、この世のいかなる人にもまして迷信にとらわれることがなかったのはスポルジョン氏であった。だが、いわゆる第六感や虫の知らせといったものは、彼にとってそれなりの意味を有していたかもしれない。それは、物事をすべて理詰めで説明しようなどとは決してしない、他の多くの人々にとっても同様である。彼の世界には、この世の哲学で夢見られるよりも、ずっと奇妙なことがあったのである。

 一見したところ不慮の災難によって、ステップニーの教授と会見しそこねた日の後半に、スポルジョン氏は奇妙な体験をした。それは、おそらく彼の以後の全生涯に影響を及ぼしたと思われる経験である。「信徒説教者の会」の働きに対する彼の献身は、まだ熱烈に燃えており、いつものようにその日の夕べも、ある村で説教を行なう予約が入っていた。ケンブリッジから北東に1マイルほど離れたところにあるチェスタトンには、古代の城跡が含まれている。だが、それは今では、この大学町で商売に携わる裕福な人々の快適な家々が立ち並ぶ郊外住宅地である。さて、この場所の近くにあるミッドサマー広場を、若き説教者があれこれ考えごとをしつつ横切っているとき、ある聖書の言葉が脳裏に浮かんだ。それは、雲の切れ目を通して、天から直接、実際の声が聞こえてきたかと思えるほど強烈な体験であった。――「《あなたは、自分のために大きなことを求めるのか。求めるな!》[エレ45:5]

 この言葉が、物思いにふけりながら、村落説教の約束を果たしにミッドサマー広場を横切りつつあった若き牧師の精神に、いかなるしかたで思い浮かんだにせよ、彼の生涯には転換点が訪れたのである。彼はどこにいたのか? 何が彼の目当てだったのか? 彼の心が本当に求めていたのは何だったのか? 彼は、まるで人生行路の途中で急停止させられたように感じ、真剣な自己吟味を迫られた。このような時に若きキリスト者が自問するであろう、心探る質問の数々は、十分に明白であると思われる。彼は、自分の主の奉仕に対して自らを無制限にささげてきただろうか? 利己的な目的をかけらもいだかないことによって、自分の真摯さを証ししていただろうか? もし神が自分を福音説教の働きに召しておられるとしたら、また、労苦すべき場を与えてくださっているとしたら、そこから離れて、何年もロンドンの神学校に引きこもって過ごすことが正当化できるだろうか? 貧しくとも暖かな心をしたウォータービーチの人々が彼に求めていることを、ことごとく無視すべきだろうか? もし主がその働き人を任命されたとしたら、主はその奉仕のために必要な、その人の素地を完全に仕上げてくださるのではないだろうか?

 このような類の質問がこの説教者の脳裏に浮かんだであろう。そして、それらに対する答えを求める中で、神学教育に関する彼の決意は、永久に固まった。明らかに彼は、いま携わっている働きに召されており、それを離れることはすまい。それゆえ、神学校で訓練を受けて、さらなる恩典を受けようという考えは放棄されなくてはならないであろう。神学校に行こうとするとき、多くの人々は大きなことを求めてきた。疑いもなく非常に多くの人々が、規定の学びから大きな益を引き出してきたに違いない。だが彼個人は、それらを求めてはならないのである。

 ジョン・スポルジョン夫妻は、物事をこのような角度からは見なかった。というのも、より世間を知っている彼らの経験からすると、徹底的な神学訓練が受けられる機会は、何のためらいなく身を投ずべき摂理的な入り口だったからである。父親は、この件について長いこと熱心に息子と論じ合った。だが、このように異様な状況下で到達された若き説教者の決心を揺るがすことは不可能だった。実際には彼は、これほど善良な親に不服従でありたくはなかった。もし「お前は行くべきだ」との命令が頭ごなしに下されたとしたら、彼は義務としてそれに服したであろう。だが、自分の自由な選択としては決して学校に行こうとはしなかった。トールズベリーの牧師は息子が間違いを犯そうとしていると考えたが、それに譲ることが父親としての義務だと考えた。ことによると彼は、結局、物事は自分の目に映る通りのことが正しいとは限らない、すべては神の賢き摂理が解きほぐされていく中で明らかになるだろう、と考えたのかもしれない。いずれにせよ、いかなる説得もウォータービーチの若き牧師の耳には全く効き目がなく、どれほど強力な議論も無駄だった。父親が神学校教育を得させようとして持ち出すいかなる理由も、あのミッドサマー広場であれほど神秘的に示唆された言葉――「あなたは、自分のために大きなことを求めるのか。求めるな」――によって反論されたからである。これがスポルジョン氏が一度も神学校に行かなかった事の顛末である。

 若き牧師は、幸福な満ち足りた気分で、ウォータービーチにある自分の小さな持ち場に戻っていった。彼は神の導きについて何の疑念をいだいておらず、自分の人生行路が広々と開かれたことは、実際、道の途上のつまずきの石が取り除かれたにひとしかった。ある村での牧師職という展望が、ひとりの牧師にとってこれほど心を鼓舞するものに見えたことはいまだかつてなかった。古い独創的な草ぶき屋根の会堂には、なおも群衆が押し寄せつつあった。回心が数多く起こったあまり、ウォータービーチそのものが、幾多の改善のしるしを目に見えて示すようになった。一方、この牧師の奉仕はなおも、特別の、また記念的な式典のために方々で求められていた。彼の踏み行く一歩一歩は、自分のいる所にとどまり続けることによって、自分は正しいことをしたのだという確信を彼に固めさせた。

 時としてスポルジョン氏は、こうした初期の時代の逸話や回想で、友人たちを楽しませることがあった。そして、1880年12月の第一週、その日のキリスト教紙の数紙に見られるように、そうした機会の1つが訪れた。そのとき言及されたのは、ウォータービーチでは、野外の近隣の川でバプテスマ式が行われていたという事実であった。それは、すでに物語られたような、スポルジョン氏が浸礼を受けたアイラムでの場合と同様であった。しかしながら、この儀式を執り行なう、こうした原始的なやり方には、不都合もあった。そして、雨降りの日には、それはことのほか辛いものとなることがあった。ある忘れられない折のその日は、かの立派な大男コーニーリアス・エルヴンが奉仕を申し出ていたが、ひどい大雨になった。そして、ベリーセントエドマンズの牧師は、全身がずぶ濡れになるという見込みに、はなはだしい不安を覚えだした。その大きな理由は、彼は着替えを全く持ってきておらず、だれかから借りるということになっても、彼の間に合うほど大きなものは、四十マイル四方の中に一着もなかったからである。

 あらゆる年代の、あらゆる境遇にある大勢の人々を惹きつける、魅力的な説教を行なえることがわかったスポルジョン氏ではあったが、若き初心者として、彼自身、当時の主立った教職者たちの働きには大きな関心を感じていた。彼は、かの尊ぶべきバースのウィリアム・ジェイがケンブリッジを訪れたとき、その説教をわざわざ聞きに行き、それ以後は常に、感謝とともに彼のことを思い出すようになった。その主題聖句すら決して忘れられなかった。――「ただ、キリストの福音にふさわしく生活しなさい」[ピリ1:27]。また彼は、ジョン・エーンジェル・ジェームズの話を聞きにバーミンガムまで旅行することもいとわなかった。そのときジェームズは、「あなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです」[コロ2:10]、との言葉から、大いに賞賛された講話を行なった。ジェームズ氏は、彼の若き友[スポルジョン]ほど熱烈なカルヴァン主義者ではなかったし、自分の説教が常に受け入れられるものであるとも考えていなかった。しかしながら彼は、威厳と素朴さを兼ね備えた人物であった。

 スポルジョン氏が初期の時代に各地を説教して回った際には、数多くの珍しい経験をした。それで、ハーフォードシアのとある有名な町で彼は、立場の異なる人々がそれぞれの偏見をもって見るところ、一個の闖入者であった。その土地には、いくつかの会堂があったが、彼は、ある会堂にとってはカルヴァン主義者でありすぎ、別の会堂にとってはアルミニウス主義者でありすぎた。しかしながら、とうとう彼は、第三の会堂の講壇に認め入れられた。その会衆の牧師が受けていた固定給は、農場労働者ひとりの賃金とほぼ同額であり、その小さな家を訪問する人は、彼からの歓待を受けることにいささか心許なさを感じかねなかった。後にスポルジョン氏はこう云っている。「私は、自分の招待主が非常に擦り切れた毛織外套を来ていることに気づいた。それで、説教の終わる頃、会衆に向かってこう語った。『さて私は、最善を尽くしてあなたがたに説教してきた。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい[マタ10:8]。この土地の教役者は、少し新しい着物を必要としているように思える。私は半ソヴリン[10シリング金貨]を出し、下にいる私の友も同じようにするであろう。献金皿が、あなたがたの献金のために戸口ごとに置かれるはずである』。この努力はうまくいった。礼拝の後で、その貧しい牧師は云った。自分の《主人》は常に生計の糧を与えてくださっていましたが、そろそろ次の新しい服はどこからやって来るのだろうかと思い始めていたところでしたよ、と」。

 スポルジョン氏は、その町で、それと同じ日に経験した、もう1つの事件についても語っていた。彼は、一団の子どもたちに向かって、たとえ彼らが回心する前でさえも、神は彼らの祈りを聞いてくださる、と語って、一部の厳格なカルヴァン主義者たちの神経を逆なでにしたのである。一部の「極端な」意見を有する信仰告白者たちの見るところ、これは危険きわまりないアルミニウス主義の匂いがするものであった。そこで、こうした人々が寄ってたかって深刻な面もちで詰問を始めた。高飛車に問われた質問は、悪人の祈りは主にとって忌み嫌うべきものではないのか、ということであった。だが、そのとき、ひとりの赤い袖無し外套がひどく目立つ老婦人が、「あなたがたはこのお若い方と何について争ってらっしゃるの?」、と尋ねた。「いったい、あなたがたは聖書の何をわかってらっしゃるのかしら?」、と彼女は多少激しくつけ加えた。「あなたがたは、神様が回心していない人たちの祈りを聞いてくださらないと云いますが、神様は烏の子が鳴くときそれを聞いてくださるという箇所を読んだことがありませんの?――烏の子は何の恵みも持っていませんのよ。もし神様が鳥の鳴き声を聞いてくださるのなら、ご自分のかたちに造られた人間の叫びを聞いてくださらないなんて、どうして考えられるでしょう?」 それで事は決したようである。また、議論を続けるよりも、さっさと立ち去る方が好都合だということもわかった。

 ウォータービーチから来た若き牧師が折にふれ訪問するように求められるほど奥地の田舎には、多くの奇矯な類の人種が見受けられた。――彼らは、いかにも想像されて当然であるように、その機知で時代に忘れがたい印象を刻み込んだ、奇抜な清教徒の英雄らのまぎれもない子孫たちであった。例えば、四十年間ただの羊飼いとして近隣の農夫たちに仕えてきた後で、キリストの囲いに属する群れの世話をするという、より重い責任の伴う奉仕を引き受けた献身的な古強者のことを考えてみるがいい。習慣の力は強大なもので、このような人物が、自分の人生の大半そうであったようなものから、まるっきり毛色の異なる人物になることはほとんど不可能であった。それで、彼にとって非常に自然な告白であったのは、自分の二番目の群れは、最初の群よりもずっと羊っぽい[内気でおどおどしている]、と宣言することであった。

 [前述の]J・D・エヴェレット教授は、この時期について、いくつかの興味深い事実を告げている。――彼は云う。「1852年前後に、私はある高等学校に勤めていました(ロンドン近郊のトッターリッジにある、ソーロウグッド氏の私立高校)。もうひとり助教師の空きができたので私は、ソーロウグッド氏の許可を得た上で、古い友人スポルジョンに、こちらに来て勤めてみないかと手紙を書きました。彼は、はっきり決断するまで数日考えさせてくれと答えを寄こしてから、後で断りの返事をくれました。その主たる理由は、当時の彼の立場と合わせて行なっていた伝道的な働きを放棄するには忍びないから、というのです。彼がそのときか、その後の手紙で記すところ、彼はそれまでの十二箇月の間、三百回以上も説教しており、ウォータービーチの会堂は満員になっていたばかりでなく、開いた窓越しに外で耳を傾ける人々でひしめいているとのことでした」。

 こうした近隣の町々や村々における説教の務めは、若き巡回伝道者に大きな満足を与えていたらしく思われる。そしてそれらは、一見そうと思われるように、彼の負担を増大させるどころか、むしろ週日の間ケンブリッジのリーディング氏の学校で教師として受け持っていた務めを軽くしていたらしい。それは幸福で実り豊かな日々であった。また、その頃、学業に励んでいた生徒たちの何名かは今も存命しており、自分たちがこうした教師らのもとで過ごしていた学校時代の陽気な思い出を語れるのである。

 こういうわけで、今はウィリンガムに在住しているが、当時はそのケンブリッジの学校の生徒であった私の友人エドワード・イングル氏は、1852年のスポルジョン氏について、私にいくつかの個人的な回想を書き送ってくれている。

 1892年5月23日付けの私信の中で、イングル氏はこう述べている。「私は、神の摂理によって、学生時代に彼の教授を受けることができたのを光栄に思っています。ケンブリッジシアにあるチャールズ・リーディング氏の私立学校での彼の立場について言及した新聞記事によって、私は愉快な学びと友情の記憶を新たにさせられました。私の信ずるところ、少年であった私たちも、後に彼の学生たちが感じたのと同じように、彼を愛するように惹きつけられ、その魅力のとりこになっていました」。

 四十年前を追憶する中で、イングル氏が思い起こせたのは、この若き教師が――自分自身、高校生並みの年齢でしかなかったが――、すでに強烈な個性を示していたということである。その個性は、彼と関わりを持つようになった男子たちに強い影響を及ぼさずにはおかなかった。それと同時に、スポルジョンの個性の中には、青年時代の溌剌さと、多血質の気質とからなる魅力的な特性のすべてが備わっていた。1852年、彼は十八歳になっていて、リーディング氏とその家政婦と同居していた。学校やその付属施設は、住居とは全く別になっていた。

 ある日の午後、イングル少年は、ことのほか早く学校にやって来た。疑いもなく授業の前に少し遊びたかったからに違いない。まさにその瞬間、スポルジョン氏が家からひょっこり出てきた。そして、この若き教師は、いかにも彼らしい、親切で気さくなしかたで自分の生徒を捕まえては、こう云った。「ちょっと来いよ、イングル。ぼくが教皇じじいについて何を書いているか見せてやろう」。それでふたりは学校に入り、この素人評論家は、自分の机の中から『反キリストとその子ら』*1と題された草稿を引っ張り出した。それは、ポプラーの牧師ジョージ・スミスが推賞しはしたが、審査員としては、その著者にアーサー・モーリー氏の賞を授与しなかったという、あの草稿であった。かつての生徒の語るところ、スポルジョン氏は「そのページをほれぼれとめくり」、フェリペ二世の手先から受難の憂き目に遭わされた先祖にふさわしい語気の強さで、「あの教皇じじいを、その椅子から引きずり下ろせたらどんなにいいか!」、と云った。イングル氏が今もまざまざと覚えているように、その当時、彼の若き教師の感情を何にもまさって激発させるのは、教皇性の非聖書的な主張と教えの数々を思い出すときであった。

 彼から教わっていた少年たちにとって、スポルジョン氏の精神は、途方もなく規模の大きな物事で占められているように思えた。いずれにせよ、彼の学級の知的限界を越えた物事で占められているように思えた。この若き教師は、非常に暖かな心の持ち主としても知られていた。そして、彼の目にも、声の広がりの中にも、彼とともに生活したり学んだりしていた者たちを早くから魅了していたものがある一方で、イングル氏が私に請け合ったところ、「ぱっと見で眺める人にとって、彼のtout-ensemble(全体的効果)は非常に異様なものでした」。こざっぱりとしていて、気持ちよくしていられさえすれば、若きスポルジョンは全く身なりに気を遣わなかった。上着の裁ち方が、昔風に見えるか当世風に見えるかなどには何の関心もなかった。少年たちの考えでは、彼らの教師は疑いもなく、男子学級を受け持っている青年としては、奇妙な風采をしていた。しかし、それにもかかわらず、彼らが彼のうちに見てとっていたすべては、彼らの信頼を固め、彼らの賞賛をかき立てることに役立つばかりだった。彼はいくつかの点で風変わりだったかもしれないが、教育という真剣な業務に携わる段になると、いま手元にある職務以外のすべてのことはたちまち忘れ去られた。この、どこかしら奇妙な風采の若き教師が、英国史の感動的な一幕を読み上げるか、ミルトンの傑作の1ページを朗読するか、少年たちに理解できるようなしかたで天文学や、自然地理学や、他の何らかの科学について説明をし始めるが早いか、たちまち生徒たちはその注意を吸い寄せられ、退屈きわまりない決まり切った授業時間が、またたくまに抵抗しがたい魅力をまとうのだった。そのすべてをいやまさって効果的にしていたことに、この教師は、決して自分の年頃に似合わないだろうような、勿体ぶったようすをしようとしなかった。後年のスポルジョン氏が、現代最高の説教者として格づけられたときに、その陽気なしかたで、「私は尊崇すべき紳士などではありませんよ」、と云っていたのと全く同じように、ケンブリッジでの彼は、少年たちの間にいる若者であった。こういうわけでイングル氏はこうも云っているのである。「私たちは、たいそう愉快に過ごすのが常でした。スポルジョンは、私の知っているだれにも負けずに、心から大笑いする人でした」。

 あるとき、ひとりの生徒が、たった四文字の単語の綴りを度忘れしてしまい、「すいません、先生。ヨーク(York)の綴りは、Y O R K ですか、Y E A O R K ですか?」、と助け舟を求めて、爆笑の渦を引き起こした。スポルジョン氏は、Y E A を強調して発音し、その言葉の書き順はその生徒の示唆した通りになすべきであるとの断固たる意見を――あたかも何らかの新発見がなされたかのように――表明した。それから彼は、紙に YEAORK と書くと、質問者に手渡し、その単語がいかに珍妙に見えるかを示した。すると、その子も笑いに加わらざるをえなくなった。

 別の日に、植物学の時間があったとき、「十字形の植物」に関する言及がなされた。スポルジョン氏は、「十字形の植物とは何だろうか? それはどんな形をしているのかな?」、と尋ねた。少年たちが、ぼーっとした物わかりの悪さを見せて何も答えないでいると、その教師はたちまちこう命じた。「じゃあ、君たちは、外の遊技場か庭園に出て行って、十字形の植物を見つけたら、ぼくのところに持ってきたまえ」。もちろん若き植物学者たちは、戸外でのこの休憩によって爽快な気分転換を味わった。そのひとりは、ある植物の上に十字の形をした花が咲いているのを発見することができた。それから、その植物の学名、つまりラテン語名の学習が続いた。だが、その時間のしめくくりには、キリストの十字架についての、短く真剣な言及がなされた。

 ウィリンガム在住の私の友人[イングル氏]が胸を張って証言するところ、スポルジョン氏の学級に属していた少年たちは、聖書通読の時間がやって来るときには、ちゃんと話を聞くように注意される必要が全くなかったという。少年たちは、しばしば聖書を無味乾燥な本だとみなすものだが、その聖書の授業は、異様に関心を引くような清新さで行なわれたのである。かつての彼の生徒が述べるところ、「スポルジョンには、何の浮かない、陰気くさい顔も、何の堅苦しさもありませんでした。こうした授業の間、彼はきわめて飾り気なく、楽しげでした」。その授業を行なう間、この若き教師は、単に生き生きとした活気に富むばかりでなく、霊感された書物に立ち現われる古の人物たちについて、まるで個人的な知己ででもあるかのように語った。あるときのことは、今でも記憶されている。――その時間には、預言者エリヤが、万軍の主とバアルのどちらが真の神か、火をもって決するよう人々に挑戦している箇所が含まれていた。カルメル山上の一大決戦のようすが、迫真の素晴らしさで少年たちの前に描き出された。その場にいる全員にとって、この若者は、ほとんどその目でその光景を見た生き証人であるように思えた。

 別の機会には、その組でイザヤ55章を読まなくてはならなかったとき、スポルジョン氏は、これは聖書の至宝の1つであると告げ、彼らに、この箇所を暗記してみたくはないかと、問いかけた。そして、全員がそうしたのである。少年たちにとって明らかだったのは、彼らの教師が、自ら《福音的預言者による福音書》と呼ぶことになる書物を、まれに見る喜びとともに読んだことである。むろん、この生徒たちが、彼らの指導者の熱情を完全に理解していたとは到底思われないが。詩篇の中には、もう1つ、ことのほか彼が詳しく物語るのを愛しているように思われた箇所があった。というのも、その中に彼は、人間的見地から眺めた、神のご性質の素晴らしい啓示を見てとったからである。「東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される」[詩103:12]*2

 しかしながら、いやでも注意を引いたのは授業だけではなかった。ウォータービーチでの通常の働きに加えて、この若き教師が今なお、ケンブリッジの「信徒説教者の会」の一員であったことを忘れてはならない。こういうわけで、休暇に入る直前の、ある暗い、じめじめした冬の日の午後、部屋の扉が開き、自分でもおかしげな見かけであると思ったのか朗らかに笑いながら入ってきた人は、フェンズでの巡回説教用の装束をまとった若きスポルジョン氏にほかならなかった。防水合羽で完全に身を包んだこの助教師は、雨の道に準備万端整ったその姿をリーディング氏と子どもたちに見せるだけのために顔を出したのである。「さてと、では、主の戦いをしに行ってきます」、と彼は云い、さほど遠くはない村で予約されていた説教を行ないに出ていった。

 受け持ちの少年たちには、可能な限り最上の道徳的、宗教的影響を及ぼそうとこころがけてはいたものの、それと同時にスポルジョン氏は、彼らの才能を伸ばすことにも気を遣っていた。そして彼がことのほか熱心だったのは、人前で話す能力を引き出すこと、あるいは、少しでもそうした才能を見せた者たちを励ますことであった。彼はいついかなるときも、生まれつきの欠点は大目に見てやり、あふれるような同情心で満ちていた。だが、このような教師と歩調を合わせるのは、生徒たちにとって必ずしも常に容易ではなかった。

 例えば、彼はあるとき、「今度いつか、学校の中で小集会を開くことにしよう」、と云い出した。そして、少年たちは、彼が自分の云ったことを必ず実行すると思い知っていたので、この新種の娯楽のもくろみに、やや戦々兢々となった。ごく小さな催しとはいえ、あらゆる手順が町の公的集会のそれと同じようになされた。スポルジョン氏と何人かの少年たちは聴衆になることになった。主題は海外宣教の進展についてであった。正式な資格のある少年が議長に選出されることになり、弁士たちが、しかるべき発言をするはずであった。エドワード・イングル氏は、自分の学校時代の、この楽しい事件を生き生きと覚えている。

 やがて当日の晩がやって来て、こうした場にふさわしい用意が教室の中で整えられ、卓子と椅子を載せた演壇が設けられた。やがて行なうべき集会の司会者のためには、適切な座席があり、聞き手のためには木製の長い腰掛けがあった。たまたま選任された議長は、年の割に小柄であったが、頭の回転が速い少年だったので、期待された役割において、自分には面目を、他の者らには益を施すであろうと思われていた。しかしながら、その議長も、彼を支持するはずだった者らも、いざ平静で毅然とした様子を保つべきときが来ると、極度にあがってしまった。議長は、はた目から見ても膝をがくがくさせており、彼が起立したとき、それは海外宣教について適切な言葉を手短に述べるためではなく、どうか自分をこの職務から辞任させてくれと必死で要請するためであった。彼がそう語るや否や、状況はたちまち彼の請願に利するように一転した。ただしそれは、だれにも全く予期できない、全く歓迎されざるしかたで起こった。一瞬にして、その小さな演壇のすべてががらがらと崩れ落ち、議長と卓子、指名弁士たちとその座席が突然、入り乱れて判然としない様相を呈したのである。一堂は混乱と恐怖に包まれた。スポルジョン氏自身、恐れに打たれたように見えたが、やがて、ありがたいことに、だれひとりひどい怪我をした者はなく、ほとんど何の損害もなかったことがわかった。

 スポルジョン氏がその若き友人たちの救出を完了したときには、心からの笑いがそこら中で起こった。それから、その構造物をより堅牢なしかたで再度組み立てるという、より真剣な仕事が着手された。演壇が再度組み立てられると、今度はより度胸のすわった議長が選出され、その集会は参加した全員に満足がいくようなしかたで進んだ。当然ながら少年たちは、こうした成り行きに気落ちしていたが、これに懲りずに、今度はもっと上手にやってみるようにとの励ましを受けた。この若き教師は、こうした場合、肩を親切に叩き、激励の言葉をかけてやることが、いかに大切かをよく知っていたのである。そして少年たちは、自分たちのつたない手際をこれほど高く評価してくれた人物を喜ばせたいと切望するようになったからこそ、もっと上手に行なおうという気になったのであった。

 このような歩みを続けている間にスポルジョン氏は、時折、彼のうちに何かより偉大なものに発展する兆しを見たと考える人々に出会うことがあった。ひとり、またひとりと、その時には必ずしも容易に理解できなかったはずの未来について意見を述べる友が起こるのだった。やがて、そうした意見は、それをはるかに越えて実現することになる。時として学識ある人々や、教会での経験や世故にたけた人々が彼と関係を持つことがあったが、彼らは、彼が桁違いの賜物を有していることを見てとった。折にふれ、このような評言が決まって聞かれた。「あのスポルジョンは、いつの日か素晴らしい人物になるだろう。彼には何か素晴らしいものがある」、と。彼と同居していた人々は、この確信を共有しており、未来で待ち受けるその傑出した将来について、可能であれば、いやまさって確信していた。これは、リーディング氏とその家政婦に云えることであった。ふたりとも、その家を来訪する多くの人々と同じく、自分たちの若き友人の性格と能力に深い感銘を受けていたからである。特にひとりの訪問客が宣言したところ、その人は、この若き教師である巡回説教者には偉大な将来が約束されており、彼が神のために大いなるわざを数多くなすであろうとの抗しがたい確信をいだいたという。また、ある人などは、この初期の時代に、その炯眼によって、このように驚愕すべき預言を行なった。――「この若者は、第二のルターのようにやがて英国を揺り動かすことになるだろう!」

 その少年期にスポルジョン氏と関係があったエドワード・イングル氏は、当然ながら自分のかつての教師がロンドンで進歩していく様子を、ひとかたならぬ関心を持って見守った。彼と顔を合わせ、彼から説教を聞くのは、最大の満足の1つと目されるようになった。1874年のある忘れがたい機会に、私自身、スポルジョン氏と同行してウィリンガムに行くという特権にあずかった。そのとき彼は、新しい会堂――彼の義理の弟である故ジャクソン氏がかつて建てたもの――の建設資金を訴えるために、野外で大群衆に向かって説教した。上述の、ケンブリッジの男子生徒たちに関する色々な事実を教えてくれたイングル氏は、この催しのことを生き生きと覚えている。その折に関する話は、やがてしかるべき箇所に現われるであろう。

 この若き牧師がこのようにケンブリッジに住んでいた期間中の、1853年も押し詰まる頃や、彼が初めてロンドンに上京した時期に近い頃の彼の家はユニオン通り九番地であり、アパー・パーク街六十番地にも住んでいたように見受けられる。彼の牧師給は当時、週1ポンドにも満たなかったが、ウォータービーチにいる彼の信徒たちが彼に多くの贈り物を持って来る一方、彼は、今なお彼をこれほど懐かしく覚えている少年たちを教えることによって何がしかの収入を得ていた。それは、幸福と進歩の時期であっただけでなく、より辛苦の伴う奉仕への準備期間であった。

 ある宗教紙が、以下の広告を再録しているが、これはこの時期におけるスポルジョン氏の活動にやや光を投じている。――

         「ケンブリッジ市、アッパー・パーク街六十番地。
 「C・H・スポルジョン氏。生徒募集。人数、七、八人。授業開始、降誕祭以降。昼間。格安の授業料で懇切に指導。普通課程は算術、代数学、幾何学、求積法。文法、作文。古代および現代史。地理学、博物学、天文学、聖書学、絵画。ラテン語、ギリシャ語、希望によりフランス語。授業料、年五ポンド」。

 1891年の後半に持たれた、スポルジョン氏の健康回復を求める祈祷集会の1つを導いている間に、当時メトロポリタン・タバナクルの副牧師をしていたストット氏は、ウォータービーチの若き牧師が自分の働きと展望に言及している一通の手紙を読み上げた。それは、これほど初期の時代においてすら彼を特徴づけていた純真さと暖かい心をこめて綴られている。その内容は以下の通りであった。――

 「親愛なる叔父さん、
    「この時期に叔父さんに手紙を書くことにした理由はいくつかあります。ぼくたちは10月19日にバプテスマ式を行なうことになっています。そしてぼくは、自分の叔父がその《主》に水の中まで従っていくのを見て、とても喜ぶことでしょう。こういうことを云うのは、少しおっかなびっくりですが。というのも、ぼくがそれを過大に重要視していると非難する人がでかねないからです。人の口に戸は立てられません。それも、ぼくの《主》のためなら耐えられます。……さて、一週間スタンボーンと近隣の村々に行って説教を行なうことについてですが、できる限り叔父さんの意向に沿って行なうことにします。安息日ではなく、週日の間は毎日ということで。こちらでのぼくには、それなりの働きの場がありますが、もしできれば、もっと多くを行ないたいのです。この畑は大きく、働き人はみな全力を挙げて働かなくてはなりません。ぼくは、よく自分が中国か、インドか、アフリカにいたら、どんなによいかと思います。そうすれば、一日中、説教して、説教して、説教していられることでしょう。説教しながら死ぬのは甘やかなことでしょう。しかし、ぼくにはもっと聖霊が大きく必要です。ぼくは御霊の天来の精力を十分感じていません。――否、半分も十分感じていません。……もし叔父さんが、他に都合のいい場所を用意できなければ、スタンボーンで二回、夜の説教を行なってもかまいませんよ。そして、そうした礼拝の後に健全で、徹底的に燃やされる祈祷会を持ちたいと思います。……ぼくは、あらゆる信仰者と一致して暮らしたいと願っています。カルヴァン主義者とも、アルミニウス主義者とも、国教徒とも、独立派とも、ウェスレー派とも。確かに彼らが不安定だとは堅く信じていますが、彼らと口論することによって、彼らにつっかい棒をしてやるほど彼らのことを好んでいるわけではないのです。……敬具。
                       「C・スポルジョン
 「ケンブリッジ市、ユニオン通り九番地、
             「1853年9月27日」


*1 私は、以下の文章がこの小論についての言及だと思うが、見るとわかるように、ホッダー氏は、この懸賞論文が実際に行なわれる数年前に書かれたものだと考えている。だが、その賞金は、サミュエル・モーリー氏によってではなく、その従兄弟のアーサーによって提供されたのである。
 「サミュエル・モーリーとシャフツベリー卿は、スポルジョン氏の友人であり賞賛者であり、両人とも彼の影響力の範囲が増大していくのを熱心に見守っていた。スポルジョン氏はその少年時代からこの商人博愛家を知っており、一生の間彼を愛していた。スポルジョン氏は、十歳の少年であったとき、『教皇制について』の懸賞論文に応募した。優勝はのがしたものの、彼の小論は非常に出来がよかったため、モーレー氏は別に3ポンドの賞金を彼に授与することにした。――それは少年の目には一財産と思われた」。――エドウィン・ホッダー著、『サミュエル・モーリー伝』、p.235。[本文に戻る]

*2 この箇所は、後年のスポルジョン氏が、思い巡らすと常に心揺り動かされる箇所であったように思われる。例えば、――
 「私が初めて彼の説教を聞いたとき、彼は、『主は、あなたのすべての咎を赦し』という箇所[詩103:3]から説教した。その説教は、その直截さ、単純さ、真剣さにおいて尋常ならざるものだった。彼は、『東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される』、という箇所を引用して、こう云った。『この言明の何と輝かしいことか! たとえこれが、南が北から遠く離れているように離れていると云ったとしても、それは途方もない距離であったであろう。だが、否、それは、東が西から遠く離れているように離れた、無限の距離なのである』。最初の一言から最後の一言に至るまで、彼は聴衆の注意をつかんで離さず、簡単には拭い去ることのできない印象を残した。私は、いまだかつて、これほどこの世に没入しつつ、この世から超絶した人を、ひとりも見たことがないと思う。彼は自分の働きが人々の間にあると感じている。そして、彼の現世における関わり合いは地に対するものであるが、それでも彼の国籍は、市民権は、天にあるのである」。――J・B・ガウ、『スポルジョンと影』、p.296。[本文に戻る]


HOME | TOP | 目次 | BACK | NEXT