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第8節 真に恵みによる種々の感情と、まがいものの、人を欺く感情との違いは、それが、キリストのうちに見られるような愛、柔和、穏和、赦し、あわれみの精神を自然と生み出し、押し進めることにある

 このことを示す証拠は聖書の中に山ほどある。もし私たちが、キリスト教の性質と、福音本来の精神とを、神のことばによって判断するとしたら、その精神は、ことさらにキリスト者精神と呼ばれてよいものとなるであろう。すなわち、キリスト者の心の、まぎれもない真の性向とみなされるものとなるであろう。あるときキリストの弟子の中のある者らが、無思慮と弱さのゆえに、そうした精神にそぐわないようなことを口にしたことがあったが、そのときキリストは彼らに、あなたがたは自分がどのような精神のあり方の者であるかわかっていないのです(ルカ9:55 <英欽定訳>)、と告げて、私がいま語っている精神が、主を信ずる信仰と主の御国との本来の精神であることを言外に仰せられた。キリストの真の弟子たる者はみな、この精神を自分のうちに有している。そればかりでなく、彼らはこの精神者である。それは、彼らを所有し、支配している精神であって、彼らの真の、また本来の性格と云える精神である。これを如実に示しているのが、かの賢人が(明らかにこのような精神を念頭に置いて)述べていることである。「この上なくすぐれた精神を持つ人は英知のある者」(箴17:27 <英欽定訳>)。また、キリストが真に幸いな人々----あわれみを受けることができ、神の子らとなり、世継ぎとなる人々----の有する資質や気質について逐一述べられた箇所であげておられることである。「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです」(マタ5)。そして、この精神が神に選ばれた者たちに格別な性格であることは、コロ3:12、13から明々白々である。「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、……互いに赦し合いなさい」。使徒は、彼がキリスト教の中で何よりもすぐれた、欠くべからざるものであるとする気質や性向----それがなければ何人も真のキリスト者たりえず、いかなる輝かしい信仰告白や賜物も無に等しいという精神、すなわち、彼がと呼ぶもの----について論ずる中で、このように述べている。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず」(Iコリ13:4、5)。また、同じ使徒は、真のキリスト者的な恵みのまぎれもない目印や実を個々に明言している箇所で、主としてこのような気質と精神に属する事がらを強調している。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」(ガラ5:22、23)。また、使徒ヤコブも、真の恵み、すなわち、上からの知恵について述べる中で、同じことを云っている。彼は、これと正反対の精神を有する他の人々に対して、あなたがたは自分を欺いてはならない----そして、真理に逆らって偽りを云い、キリスト者でもない自分をキリスト者であるなどと告白してはならない----、とはっきり宣言している。「しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行ないがあるからです。しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです」(ヤコ3:14-17)。

 実際、心の聖さに関わることは、1つ残らず真のキリスト教の性質およびキリスト者の性格に属するものである。しかし、いくつかの特定の恵みに見られる聖さの精神は、ことのほかキリスト者精神あるいはキリスト者的な気質と呼ばれてよいであろう。その慕わしい資質および美徳の中には、福音の本質およびキリスト教信仰の告白に、他のものにまして似合わしいものがある。なぜなら、それらのうちには、キリスト教の啓示の一大主題たる、イエス・キリストによる贖いのみわざにおいて、神がことのほか際立って明らかにし、栄光を与えた天来の種々の属性と特に似合わしいものがあるからである。また、そこには、イエス・キリストがその贖いのみわざにおいて私たちに向かって働かされた、素晴らしいしかたの美徳の数々、およびキリストがそこで私たちに示したほむべき模範と、特に似合わしいものもある。さらに、この種の資質は、贖いのわざが特に向かっている方向および目的に格別に似合わしいものである。その贖いのわざで私たちが受け取る種々の恩恵、その贖いのわざが私たちを至らせる、神および他のキリスト者に対する関係に、こうした資質は格別に似合わしいのである。そして、こうした美徳とは、キリスト者の性格とされるものに属する、謙遜や、柔和、愛、寛容、あわれみでなくて何であろう?

 こうした事がらは、特にイエス・キリスト----キリスト教会の偉大なかしら----ご自身の性格であると語られている。それらは、旧約聖書の種々の預言でそのように語られている。たとえば、マタ21:5ではこのような引用がなされている。「シオンの娘に伝えなさい。『見よ。あなたの王が、あなたのところにお見えになる。柔和で、ろばの背に乗って、それも、荷物を運ぶろばの子に乗って』」。キリストご自身もそれらについてそのように語っておられる。「わたしは心優しく、へりくだっているから、……わたしから学びなさい」(マタ11:29)。同じことを現わしているのが、聖書が非常にしばしばキリストの呼び名としている名前、すなわち、《小羊》である。そして、こうした事がらが特にキリストの性格であるのと同じく、これらは特にキリスト者たちの性格でもある。キリスト者たちはキリストに似た者である。全般的にそのような性格をしていない者は決してキリスト者の名に値しない。「新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ……るのです」(コロ3:10)。真のキリスト者はみな、「鏡のように主の栄光を反映させながら、……主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」(IIコリ3:18)。選ばれた者はみな、「御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです」(ロマ8:29)。「私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです。土で造られた者はみな、この土で造られた者に似ており、天からの者はみな、この天から出た者に似ているのです」*(Iコリ15:47-49)。キリストは恵みに満ちておられる。そしてキリスト者はみなキリストの満ち満ちた豊かさを受け、恵みに恵みを受けている。すなわち、キリスト者の内側には、キリストの恵みに対応する恵みがあるのである。封蝋と証印との間にあるのと同じような対応があるのである。両者の性格は一致している。両者には同じ種類の種々の恵み、同じ精神と気質がある。キリストの性格に属しているのと同じ事がらが、キリスト者の性格にも属している。キリストのご性格のうち、特別のしかたでその主たる特質となっている性向は、キリストのかたちにおいても、特別なしかたで、その主たる特質となっている。義の太陽の光を反射させて輝いているキリスト者たちは、同じ種類の輝きと、同じ穏和で、甘やかで、快い光線によって輝いている。霊的な神殿内にある、天からの火によって灯された燭台たちは、同じ種類の炎によって燃えている。枝は株や根と同じ性質をしており、同じ樹液が流れ、同じ種類の実を結ぶ。肢体には、かしらと同じ種類のいのちがある。キリスト者がキリストと同じ気質や精神をしていない方が不思議であろう。彼らは彼の骨肉であり、しかり、一つ霊となっており(Iコリ6:17)、そのようなものとして生きているのである。もはや彼らが生きているのではなく、キリストが彼らのうちに生きておられるのである。キリスト者精神は、キリストがご自分の民の魂に刻印した、キリストの目印である。彼らの額に押された、キリストの像と銘が刻まれた、キリストの証印である。キリスト者はキリストに従う者である。彼らは、あのキリストの召しに従順に従っているからである。「わたしのところに来なさい。……わたしは心優しく、へりくだっているから、……わたしから学びなさい」(マタ11:28、29)。彼らは小羊としてのキリストにつき従っている。「彼らは、小羊が行く所には、どこにでもついて行く」(黙14:4)。真のキリスト者は、いわばキリストの柔和で穏和で愛に満ちた気質を身にまとっているのである。というのも、キリストにある者はみな、キリストをその身に着たからである[ガラ3:27参照]。そしてこの点において、教会は太陽を身にまとっているのである。キリストから転嫁された義をまとうことによってだけでなく、その種々の恵みで飾られることによっても、そうである(ロマ13:14)。大牧者キリストご自身が小羊であり、信仰者もまた小羊である。群れ全体が小羊である。「わたしの小羊を飼いなさい」(ヨハ21:15)。「わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に小羊を送り出すようなものです」(ルカ10:3)。キリストが悪魔の力から教会を贖い出したことは、古のダビデが、獅子や熊の口から小羊を救い出したことによって象徴されている。

 こうした美徳がキリスト者精神----すなわち、キリストおよび彼の肢体の中で働いている精神----の根本的な性質であることを明らかに示しているのは、こそ、それを表現するために神がお選びになった象徴、あるいは表象であった、ということである。何かの表象として最適なものとは、その何かが有する最も際立った性質を、最も適切に表現するものにほかならない。キリストが御父から油注ぎを受けたとき、キリストの上に下られた御霊は、鳩のように下られた。鳩は、人も知るように、柔和と無垢と平和と愛の表象である。しかし、教会のかしらの上に下られたのと同じ御霊は、その肢体にも下ってこられる。「神は……御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました」(ガラ4:6)。また、「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません」(ロマ8:9)。かしらであれ肢体であれ、キリストという神秘的なからだ全体には1つの霊しか宿っていない(Iコリ6:17; エペ4:4)。キリストは、その弟子たちにご自分の御霊を吹きかけてくださる(ヨハ20:22)。キリストが、ご自分の上に鳩のように下ってきた聖霊によって油注がれたように、キリスト者たちにも、「聖なる方からの注ぎの油がある」(Iヨハ2:20、27)。彼らは同じ油を注がれている。それは、同じ「頭の上にそそがれたとうとい油、衣のえりにまで流れしたたる」油である。そしてそれは、その両者にとって平和と愛の霊として注がれている。「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる」(詩133:1、2)。アロンの衣の上にしたたった油には、その頭の上に注がれた油と同じ、無比のかぐわしい芳香を有していた。同じ香り高い香料の香りがしていた。キリスト者の種々の感情、またキリスト者のふるまいは、キリストのかぐわしい油の香気から流れ出したものである。教会は、鳩のような気質と性向があるがために、鳩のような目をしていると語られているのである。「ああ、わが愛する者。あなたはなんと美しいことよ。なんと美しいことよ。あなたの目は鳩のようだ」(雅1:15)。また、「ああ、わが愛する者。あなたはなんと美しいことよ。なんと美しいことよ。あなたの目は、顔おおいのうしろで鳩のようだ」(雅4:1)。同じことはキリストについても云われている。「その目は、……鳩のようです」(雅5:12)。そして教会はしばしば鳩にたとえられている。「岩の裂け目……にいる私の鳩よ」(雅2:14)。----「わが愛する者よ。戸をあけておくれ。私の鳩よ」(5:2)。また、「汚れのないもの、私の鳩はただひとり」(6:9)。「あなたの山鳩のいのちを獣に引き渡さないでください」(詩74:19)。ノアが箱舟から放った鳩----足を休める場所が見あたらず、帰って来た鳩----は、真の聖徒の予型である。

 柔和さは聖徒たちの性格の大きな部分を占めているため、聖書では柔和な者敬虔な者とが同義語として用いられている。それで詩37:10、11では、悪者と柔和な人が、悪者と敬虔な者とでもいうかのように対比させられているのである。「ただしばらくの間だけで、悪者はいなくなる。……しかし、柔和な人は地を受け継ごう」<英欽定訳>。同じように、「主は柔和な者をささえ、悪者を地面に引き降ろす」(詩147:6 <英欽定訳>)。

 疑いもなく、主としてこれを大きな理由としてキリストは、ご自分の弟子たちすべてのことを、天国の世継ぎではあっても、子どもたちと表現しておられるのである。「子どもたちを許してやりなさい。邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。天の御国はこのような者たちの国なのです」(マタ19:14)。「わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません」(マタ10:42)。「わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、」云々(マタ18:6)。「あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい」(10節)。「この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません」(14節)。「子どもたちよ。わたしはいましばらくの間、あなたがたといっしょにいます」(ヨハ13:33)。小さな子どもは純真であり、無垢である。彼らは世にとんでもない害を及ぼしたりしない。人は幼子をこわがる必要などない。彼らの怒りは長続きせず、彼らは人への恨みつらみを溜め込んだりせず、根深い悪意をしつこくいだいたりしない。そのようにキリスト者たちも、悪事においては幼子のようである(Iコリ14:20)。小さな子どもたちは陰険でも、人を騙すこともなく、率直で、単純である。彼らは作り話やごまかしをひねり出す手管に長けてはいない。わざとらしい見せかけをつくろうことなどに無縁である。彼らは人の云うことをよく聞き、従順であり、依怙地になることも、意地を張ることもない。自分の考えに頼ることをせず、両親や、もっと物事に通じた人々の教えを頼りとする。それゆえ、ここにこそ、《小羊》につき従う者たちにうってつけの、生き生きとした表象があるのである。このように人が小さな子どもたちに似た者となることは、ただ単に非常に立派なこと、キリスト者たちが目当てとすべきこと、また並々ならぬ進歩を遂げた少数の人々が達すべき境地ではなく、キリスト者の全般的な性格であり、天の御国に入るためには絶対に必要なものである。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません」(マタ18:3)。「まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません」(マコ10:15)。

 しかしここである人々は勢い込んで云うかもしれない。キリスト者には、不屈さや、キリストのために雄々しくふるまうことや、キリスト者の戦いにおいて勇敢な兵士となることや、キリストと御民の敵たちに向かって雄々しく反対を表明することなどがあるのではないか、と。

 これに対して私は答えよう。疑いもなく、そのようなものはある。キリスト者生活のすべてを戦いにたとえるのは正しい。最もずば抜けたキリスト者とは、最も勇敢な兵士であり、キリスト者としての最も大きな不屈さを身につけた人である。また、神の民の義務は、キリストの御国を転覆させようとしたり、キリスト教信仰の不為を図ろうとする企図や物事に対して、断固として精力的な反対をすることである。だがしかし、多くの人々は、このキリスト者的な不屈さの性質について、大きな思い誤りをしているように思われる。それは、獣じみた猛々しさや、肉食獣の雄々しさとは全くかけ離れたものなのである。真のキリスト者的な不屈さがその第一の特質とするのは、恵みにより、2つのことにおいて、精神の強さを発揮することにある。1つは、精神の種々の悪しき情動と感情とを制御し、抑えること。もう1つは、罪深い恐れにも、敵たちの反対にも妨げられることなく、種々の良き感情や性向を断固として、また伸び伸びと発揮し、追求することである。しかし、このキリスト者的な強さと不屈さを発揮することによって抑えられ、従わせられる種々の情動こそ、まさに、キリストのためとされる、まがいものの雄々しさにおいて、精力的に、また荒々しく発揮されている情動にほかならない。そして真の不屈さにおいて精力的に発揮されている種々の感情は、そうでない感情と真っ向から対立している。確かにキリスト者的な不屈さは、私たちの外側にある種々の敵たちに反抗し、それらを打破することのうちにも見られるが、それにはるかにまさって、私たちの内側にある種々の敵たちに抵抗し、それらを抑えることのうちに見られるのである。なぜなら、それらは私たちにとって最悪最強の敵であり、私たちに立ちまさることが最も大きいからである。イエス・キリストの勇敢な兵士の強さを何にもまして現わすもの、それは、この邪悪で理不尽な世にあって、いかなる嵐や、危害や、予想外の事態や、驚くような行為や出来事のただ中にあろうとも、断固として自分の精神の聖く平静な柔和さ、甘やかさ、情け深さを保つことにある。聖書が暗示していると思われるのは、真の不屈さが主としてここに存している、ということである。「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる」(箴16:32)。

 神の敵との戦いにおいて発揮すべき聖い不屈さがいかなるものであるかを、確実に正しく判断する最良の方法は、私たちの偉大な指揮官であり模範である、神の全軍の《将》に目を向け、この方が、その主たる争闘において、どこでその不屈さと雄々しさを現わされたかを見てとることである。こうした敵たちとの間にいまだかつて交わされた、また今後交わされることになる中でも最大の戦闘にあって、最初から最後まで孤立無援で戦っておられた際の、この方の姿を眺めるがいい。いかにして彼がその不屈さを最大限にまで発揮しておられたか、いかにして、天の全軍勢が永遠に賛美と凱歌をもってほめたたえることになる、かの栄光の勝利を得られたかを見てみるがいい。その最後の苦しみのうちにあったイエス・キリストを見つめるがいい。そのとき彼の地上と地獄の敵たちは、ほえたける獅子の群れのように四方から彼を取り囲み、その最も熾烈な攻撃を彼にしかけていた。疑いもなくここで私たちが目にするのは、神の御国を樹立するために戦う、聖い戦士であり闘士であるお方の不屈さが、その絶頂に達して光彩陸離と輝いている姿である。それは、この《将》のもとで戦う兵士たちが範とするにふさわしい模範に違いない。しかし、いかにして彼はそのとき、その聖い雄々しさと勇ましさをお示しになったのだろうか? 決して何か烈火のごとき情動を発揮することによってではなかった。決して激越な荒々しい言葉によってではなかった。反対者たちの我慢のならない邪悪さを、猛々しく糾弾すること----簡単に云えば、やられただけ、やり返すこと----によってではなかった。それは、苦しめられても痛めつけられても口を開かないこと、ほふり場に引かれて行く小羊のように引かれていくこと、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように口を開かないことによってであった。自分の残酷な敵たちのことを、何をしているか自分ではわかっていないのです、と云って、彼らを赦してくださるように御父に祈ることによってであった。他者の血は流さず、不動の忍耐と愛をもって、ご自分の血を流すことによってであった。実際、彼の弟子のひとりで、自分にはキリストのための雄々しさがあると空威張りし、師を否むくらいなら死んだ方がましだと自信満々に云い張っていた者は、剣でキリストの前後左右に打ちかかり始めたが、キリストは穏やかに彼を叱責し、彼が傷つけた者を癒しておられる。そして、そのときほどキリストの忍耐、柔和、愛、赦しが、輝かしく現わされたことはなかった。そのときほど彼が《小羊》に見えたことはなく、そのときほど彼がその鳩のような精神をお示しになったことはなかった。それゆえ、もしキリストに従う者たちのだれかが、いかに苛烈で、理不尽で、邪悪な反抗のただ中にあっても、その小羊のような謙遜と、穏和と、優しさと、鳩のような無垢と、愛と、甘やかさを保ち続けているのを目にすることがあるなら、私たちは、ここにはイエス・キリストの勇敢な兵士がいると判断してよいであろう。

 人々が激昂し粗暴になり、辛辣で憎々しげな情動を発揮しているとき、そこで示されているのは、強さや不屈さではなく、弱さにほかならない。Iコリ3章の冒頭にはこうある。「さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。……あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか」。

 キリストのための雄々しさであるかのように見せかけられているものの中には、高慢以上のいかなる原理からも生じていないものがある。人は高慢から、あえて自分を世の嫌われ者とし、世の不興を買うようなことがある。霊的高慢というものの性質上、人々は際立った者、並外れた者になりたがるからである。それで人はえてして、肉的であると自分が呼ぶ者たちにわざわざ敵対し、自分たちの仲間の間で、自分がいやまさってほめそやされるようにするのである。キリストのための真の雄々しさは、分け隔てのないものであって、友人たちの不興であれ敵たちの不興であれ、いずれをも、ものともしない。それで彼らは、キリストを捨てるよりはすべてを捨てることを選ぶであろう。キリストを怒らせるよりは、あらゆる立場の人々を怒らせ、あらゆる者から見下されることを選ぶであろう。このため、人が自分と同じ立場に属する人々からのさげすみをも甘んじて受けようとするかどうかがわかるような義務の方が、人がその反対者たちの非難を進んで身に受けようとするかどうかよりも、その人のキリストのための雄々しさを正当に見きわめさせるものである。使徒は異教徒やユダヤ人からばかりでなく、キリスト者からの栄誉も求めようとはしなかった。Iテサ2:6で宣言している通りである*1。キリストのために雄々しく生きる人とは、そのあふれるほどのキリスト者的な不屈さによって、必要とあらば、自分の犯した過ちを公に告白することも辞さず、反対者たちの前で、いわば膝まづくことすらできる人のことである。こうした事がらの方が、聖い雄々しさを示す証拠としては、反対者たちに決然と、また断固として対立することよりもはるかに上である。

 ある人々は、キリストのための真の雄々しさの性質について大きな思い誤りをしているのと同じく、キリスト者的な熱心についても同じくらい思い誤りをしている。実際それは炎ではあるが、甘やかな炎である。あるいはむしろ、甘やかな炎に伴う熱と白熱である。その熱を発する炎は、天来の愛、すなわち、キリスト者的な愛の炎にほかならず、この愛は、人および御使いの心の中にありえる、いかなるものにもまして、甘やかで、情け深いものだからである。熱心はこの炎の白熱である。それは、その対象となる善に向けて熱烈に、また精力的に向かっていく。そしてその結果、それとは反対の、またその妨げとなる悪に反して対抗する。実際そこには反抗があり、精力的な反抗がある。熱心にはそれがつきものである。だがそれは、物事に対するものであって、人格に対するものではない。人々の人格に対する苦々しさは、決して真の熱心の一部ではなく、それとは逆のものである。真の熱心は熱くなればなるほど、また高まれば高まるほど、人をそうした苦々しさから遠ざけ、悪人と善人の双方に対する愛を豊かにさせるものなのである。それは、その究極的な性質および本質においては、キリスト者的な愛の白熱にほかならない。そして、その中に、いかなる物事に対する反抗があるかというと、まず第一に、また主として、この熱心を有する人自身のうちにある悪しき物事に対する反抗である。自分自身の心に巣くっている、神と聖さとに逆らう敵どもへの反抗である(というのも、これらは最も彼の目に入り、最も彼が相手にしなくてはならないものだからである)。そして、第二のこととしてのみ、他の人々の種々の罪に対する反抗があるのである。それゆえ、真のキリスト者的な熱心の中には何1つ、柔和と優しさと愛の精神に反するものはない。先に語られたような、小さな子どもや、小羊や、鳩の精神に反するものはない。むしろ、完全にそれと似合わしく、それを押し進める傾向にあるものがある。

 しかし私がこのキリスト者精神について格別に云いたいことは、それが赦しあわれみという3つの事がらとして働くときのことである。聖書はこれら1つ1つが絶対に必要であると、きわめてあからさまに明示しており、いかなるキリスト者の気質および性格にも属するものとしている。赦しの精神----すなわち、受けた害悪を見のがし、赦す性向----は、必要なものである。キリストは私たちにそれを、消極的な証拠、積極的な証拠の双方として与えておられる。主が私たちに明確に教えておられるところ、もし私たちがそのような精神の者であるなら、それは私たちが自分でも赦され、いつくしまれている状態のうちにあるというしるしである。だが、もし私たちがそのような精神の者でなければ、私たちは神に赦されてはいない。主は私たちが常にそれを念頭に置いておくように、格別な注意を払っておられるように思われる。「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。……もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません」(マタ6:12、14、15)。キリストは同じことを別の折にも云い表わしておられ(マコ11:25、26)、マタ18:22以下に記されたたとえでは、主人に対して一万タラントの借りがあったしもべが、自分に百デナリの借りのあったしもべ仲間を赦そうとしなかった結果、獄吏に引き渡されたことが語られている。そのたとえの適用としてキリストはこう云っておられる。「あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです」(35節)。

 また、真の聖徒たちがみな、愛に満ち、情け深く、慈悲深い気質の者たちであることは、聖書が至る所できわめて平易に語っていることである。それがなければ私たちは、使徒が私たちに告げているように、たとえ人や御使いの異言で語ろうと、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じである。たとえ預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていようと、この精神がなければ、何の値うちもない。いかなる単一の美徳、あるいは精神の性向といえども、これほどしばしば、またこれほど明確に、新約聖書で真のキリスト者を知るために規定された目印として強調されているものはない。これはしばしば、すべての人がキリストの弟子たちをまぎれもなく見分け、弟子たちも自分自身をまぎれもなく見分けることのできる、格別なしるしとして述べられている。また、消極的な証拠としても、積極的な証拠としても規定されている。キリストは愛の律法のことを、ことさらにわたしの戒めと呼んでおられる。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハ13:34)。また、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです」(15:12)。また、「あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです」(17節)。さらに、「もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです」(13:35)。また、(引き続き、ご自分の戒めと呼ぶものについて特に言及しつつ)、「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です」(14:21)。主に愛されたあの弟子[ヨハネ]は、自分でもこの甘やかな気質を大いに有しており、このことをその書簡の中で何度となく強調している。使徒の中でも、この弟子ほど、信仰告白者が自分をためすべき、恵みの種々のしるしを明確に規定している者はいない。そして、そのしるしの中でも、彼がほとんど何にもまして強調しているのは、キリスト者的な愛の精神であり、それに相応する行ないである。「光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいるのです。兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、つまずくことがありません」(Iヨハ2:9、10)。「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです」(3:14)。「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです」(18、19節)。「神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。神の命令を守る者は神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます。神が私たちのうちにおられるということは、神が私たちに与えてくださった御霊によって知るのです」(23、24節)。「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです」(4:7、8)。「いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにお……ることがわかります」(12、13節)。「神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます」(16節)。「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません」(20節)。

 また、聖書がこれ以上ないほど平易に示しているように、真の聖徒たる者は例外なく、自分の貧しく、窮乏した、苦しめられつつある同胞をあわれみ助けの手を差し出そうとする性向の者にほかならない。「正しい者は、情け深くて人に施す」(詩37:21)。「その人はいつも情け深く人に貸す」(26節)。「善良な人は情け深く、人には貸す」(詩112:5 <英欽定訳>)。「彼は貧しい人々に惜しみなく分け与えた」(9節)。「貧しい者をあわれむ者は造り主を敬う」(箴14:31)。「正しい人は人に与えて惜しまない」(箴21:26)。「彼はしいたげられた人、貧しい人の訴えをさばき、そのとき、彼は幸福だった。それが、わたしを知ることではなかったのか。----主の御告げ」(エレ22:16)。「父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話を……することです」(ヤコ1:27)。「わたしはあわれみを喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ」(ホセ6:6 <英欽定訳>)。「あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです」(マタ5:7)。「こうは言っても、私は命令するのではありません。ただ、他の人々の熱心さをもって、あなたがた自身の愛の真実を確かめたいのです」(IIコリ8:8)。「あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。……だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、『安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。』と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう」(ヤコ2:13-16)。「世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう」(Iヨハ3:17)。キリストが、最後の審判の日について私たちに描写なさった箇所(マタ25)----聖書全体の中で最も詳細に語られている箇所----で述べておられるのは、その日、人々は、あわれみ深い精神と行動の者であったか否かによって審きが下される、ということであった。その日に何が起こるか、このように描写なさったキリストの目的は、明らかに、ご自分に従う者たち全員にこう理解させることにある。すなわち、これが彼らの精神と行動になっていなかったならば、彼らがその日キリストによって受け入れられ、ご自分のものであると認められる望みは全くないのだ、と。私たちが見るところ、聖書の中で正しい人あわれみ深い人とは、同義の云い回しである。「義人が滅びても心に留める者はなく、あわれみ深い人が取り去られても、心を向ける者もいない。まことに、義人はわざわいから取り去られる」(イザ57:1 <英欽定訳>)。

 このように、私たちが見るところ、聖書が何度となく、きわめて詳細にわたって、明確な証拠をもって告げているように、真に恵みから出ている者は、イエス・キリストの子羊のような、鳩のような御霊の支配を受けており、これこそ本質的に、また何にもまして、福音の救いに至る恵みの性質、かつ真のキリスト教本来の精神なのである。それゆえ私たちは、疑いもなくこう結論できるであろう。すなわち、真にキリスト者的な種々の感情はみな、こうした精神を伴う。また、これこそ真のキリスト者たちの恐れと希望、悲しみと喜び、確信と熱心とが自然に生じさせるあり方である、と。

 誤解してほしくないが、私は真のキリスト者がそれとは逆の精神を全く残していないとか、いかなる場合にも決してそうした精神にそぐわないような悪しきふるまいに及ぶことはない、と云っているのではない。しかし私がいま断言したいのは、----また、聖書に少しでも値うちがあることを否定するのでない限り、常に断言し続けたいのは----、キリスト者のうちにあって、真のキリスト教に属するものはみな、こうしたあり方に至らせようとするもの、このようなしかたで働くものだということである。また、地上に住むいかなる真のキリスト者も、もっぱらこうした精神によって支配されており、この精神から出た呼び名を冠されてしかるべき人々、まさにこの精神を本来の性格としてる人々だということである。それゆえ、それと逆の性格やふるまいをしている人々が、いかにまことしやかに種々の照明や悟りを得た体験談をしていても、それだけで、あなたは回心しています、と請け合ったりしてはならない。そのような権限を、決してキリストは、教職者にもそれ以外の者にも与えていない。そのようなことをする人は、自分の知恵をキリストの知恵よりも高いものとし、キリストが、すべての人にご自分の弟子を見分けさせるものであると明言なさった規則に逆らって判断しているのである。一部の人々は、何らかのうつろいやすい照明や印象を信仰の拠り所として重視し(これは、そうした照明や印象を自ら受けつつある人々に特によく見られる)、精神や気質の方はほとんど気にも留めないことによって、キリスト教信仰の姿を大きくひずませて、聖書で明確に叙述されたキリスト教のあり方とは全く異なる、あれやこれやのキリスト教概念を作り出しているのである。だが聖書が認める真のキリスト教とは、決して浅ましく、利己的で、怒りっぽく、争いを好む精神のものではない。気難しくて、薄情で、度量が狭くて、些細なことにもすぐ腹を立て、恨みがましいが、真のキリスト者、などというものほど矛盾したものはない。私たちは人々を、種々の規則に従わせるようにしなくてはならない。規則を人々に従わせてはならない。神のことばの種々の規則をねじまげたあげくに、自分や隣人のだれかれに過誤を信じ込ませて、全く役に立たないものとしてしまってはならない。

 確かに、人々の生まれながらの気質については、多少目こぼしをしなくてはならない。だが、かつては狼であり蛇であった者たちが、回心した後になっても、その霊にも精神にも、何ら著しい変化が見られないなどということを決して認めてはならない。真の回心がもたらす変化は常に、その人の、かつてはだれの目にも明らかだった悪しき点において、何にもまして著しく明らかになるものである。恵みには、ここまで語られてきた精神と相反するような種々の罪を押さえつけ、抑制するように仕向ける大きな力があり、それは恵みが酩酊や好色を抑制せずにはおかないのと何ら変わらず行なわれることである。否、むしろ聖書は、福音の恵みが作り出す変化が、特に前者の種類の変更に現わされると表現している。「狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである」(イザ11:6-9)。同じことはイザ65:25でも語られている。それに応じて私たちが見いだすのは、キリスト教会の初代の時期には、回心者たちはこの点で著しく変えられたということである。「私たちも以前は、愚かな者であり、不従順で、迷った者であり、いろいろな欲情と快楽の奴隷になり、悪意とねたみの中に生活し、憎まれ者であり、互いに憎み合う者でした。しかし、私たちの救い主なる神のいつくしみと人への愛とが現われたとき、神は、……聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました」(テト3:3以下)。また、「あなたがたも、以前、そのようなものの中に生きていたときは、そのような歩み方をしていました。しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい」(コロ3:7、8)。

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*1 シェパード氏は、人々の喝采を好む偽善者たちについて語る中で、こう云っている。「これにより人々は、自分の友人たちを捨て、世の嘲笑を無視する。他のところで声望を得られるからである。敬虔な人々の敬愛を受け続けるためなら、彼らは多くの苦しみを忍ぶであろう」。『十人のおとめの例え話』、第1部、p.180。[本文に戻る]



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