第7節 恵みによる種々の感情をそれ以外の感情と区別するもう1つのことは、それが性質の変化を伴うということである
恵みによる種々の感情はみな、先に示したように、魂の霊的理解から生ずる。この霊的理解によって魂は、自らに悟らされた天来の事物に、この上もなくすぐれた性質と栄光があることを知るのである。しかし、種々の霊的な悟りはみな、性質に変化をもたらすものでもある。そうした悟りは、単に魂の現在の働きや感覚や心持ちを変化させるだけでなく、魂の性質そのものを変化させるほどの力と効力を有しているのである。「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」(IIコリ3:18)。このような力は、まさしく天来のものであり、ことに御霊なる主に特有のものである。他の力も、人々の現在の心持ちや感情に大きな変化をもたらすことはあるかもしれない。しかし創造主の力だけしか、性質を変えることはできない。また、天来の超自然的な悟りや照明以外のいかなる悟りや照明も、こうした超自然的な効果を生み出すことはない。しかし真に天来のものである悟りには、例外なくこうした効果が伴う。魂はこうした悟りによって深い影響を受ける。性質が変化するほどの影響を受ける。
それこそ、魂が回心するときに生ずる種々の感情に伴うことである。回心について記している聖書の表現はみな、性質が変化することを言外にはっきり云い表わしている。たとえばそれは、新しく生まれること、新しく造られた者となること、死人の中からよみがえること、心の霊において新しくされること、罪に死に、義のために生きること、古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着ること、新しい親木につがれること、天来の種を心に植えつけられること、神のご性質にあずかる者となること、などと云われる。
それゆえ、もしだれかが自分は回心のみわざを体験したと思っていながら、その内側に、何ら大きな、著しい、永続的な変化が見られないとしたら、その人が自分の受けた影響について何と考え、どう云いつのろうと、それはむなしい*1。回心とは(もし少しでも聖書が信頼できるというなら)、人を罪から神へと向き直らせる、大いなる全人的変化である。人は回心する前にも、罪を抑制させられるかもしれない。しかし回心したとき初めて、その人の心と性質そのものが罪から聖潔へと向き直らされ、それ以後のその人は聖い人となり、罪の敵となるほどなのである。それゆえ、もしある人が、その最初の回心とみなすものによって心打ち震わせるような種々の感情を覚えたとして、その後しばらくしても、それ以前からその人について目についていた悪い資質や悪癖について、内側に何も大きな著しい変化が見られないとしたら、----また、その人の日常の生き方が、もっぱら従来と同じ種類の性向によって支配されており、同じ事がらがその人の性格に属しているように見え、今までと変わりなく利己的で、肉的で、愚かで、強情で、キリスト者らしからぬ、道徳的に芳しくない様子に見えるとしたら----、それは、いかに輝かしい体験の物語がその人の信仰の真実さについて聞かされようと、それがにせものであると示す大きな証拠である。というのも、キリスト・イエスにあって大事なのは、決して割礼を受けているか受けていないか、鼻高々と告白するか遠慮がちに告白するか、雄弁に語るか訥弁で語るかではなく、新しい創造だからである。また、もしある人のうちに多少の間は非常に大きな変化が見られたとしても、それが永続的なものでなく、後になってからあからさまに旧来の習慣に立ち戻るようなら、その人の性質は何も変化していなかったと思われる。性質は永続的なものだからである。豚を洗いきよめることはできるかもしれないが、豚的な性質はなくなりはしない。鳩を汚すことはできるかもしれないが、その潔癖な性質はなくならない*2。
確かに、回心によっても完全には根絶されることのない、生まれながらの気質については、ある程度の目こぼしをしなくてはならない。人は、その生まれながらの体質により、回心前に最も引き込まれることの多かった種類の罪には、回心以後も最も陥りやすいことがありえる。だがしかし、回心はこうした罪についてさえも、大きな変化をもたらすものである。確かに恵みは、不完全なうちは、生まれながらの悪い気質を根こぎにすることはないが、それでもそれを矯正できる大きな力と効力を有している。回心によって創り出される変化は、全人的な変化である。恵みは人を、その人のうちにあるありとあらゆる罪深い点に関して変化させる。古い人は脱ぎ捨てられ、新しい人が身に着られる。その人は全面的に聖なる者とされる。その人は新しく造られた者となり、古いものは過ぎ去り、すべてが新しくなっている。体質上の罪であれそうでない罪であれ、すべての罪が抑制されている。もしある人が、その回心前には、その生まれながらの体質によって好色や酩酊や悪意に引き込まれやすかったとしても、回心の恵みによってその人には、こうした悪い性向に関して大きな変化が生ずるであろう。それでその人は、いかにこうした罪に陥る大きな危険のうちにまだあるとしても、それらはその人をもはや支配してはいない。また、それらはもはやその人の正当な性格ではない。しかり、真の悔い改めは、特にある点においては、ある人を自分自身の不義に立ち向かわせるものである。かつてはその人が最も犯していたその罪に、その人が主として神に恥辱を与えていたその罪に、立ち向かわせるものである。他のもろもろの罪を捨てても、自分が主として陥りがちなその不義を保ち続ける者は、神の敵アマレク人と戦うために送り出されたサウルと異ならない。彼は、だれひとり生かしておいてはならず、上の者も下の者も完全に絶ち滅ぼせとの厳格な命令を受けていたのに、アマレクの民を打っただけで、その王は生かしておいたのである。
ある人々が愚かにも論じ立てているところ、自分たちの種々の悟りや感情が失せ去ってしまったとき、自分たちが何のいのちも感覚もないまま残される、すなわち、以前から有していたものを越えたいかなるものもないまま残されるのは、それらの真実さの証しだという。彼らはこれを、自分たちの体験したものが全く神から出ており、自分たち自身から出てはいない証拠であると考える。なぜなら(彼らが云うには)、神が離れて行くとき、すべてがなくなり、彼らには何も見えず何も感じられず、以前の自分たちよりもいささかもましになっていないからである。確かに、聖徒の心の中にあるすべての恵みと善良さが全く神から出ていること、また彼らが全面的に、かつ直接的に、それらについて神に依存していることはまぎれもなく真実である。だがしかし、こうした人々の間違いは、神が救いに至る恵みを魂に分け与える際に、いかなるしかたでご自分とご自分の聖霊とを分与なさるか、という点にある。神はその御霊を魂の諸機能に結び合わせる形でお与えになり、性質の一原理というしかたでそこに住まわせなさるのである。それで魂は、恵みを授けられる際には、新しい性質を授けられるのである。しかし性質は永続的なものである。恵みの働きはみな全くキリストから発している。だがそれは、生きた代行者がいのちのない物体を動かしたり、かきまぜたりしつつ、その間、相手はやはり生気のないまま、というような形で発しているのではない。魂には、それに分かち与えられたいのちがあるため、それは、キリストの力を通して、自らに内在する生きた性質を有しているのである。救いに至るかたちでキリストがおられる魂の中には、そこでキリストが生きておられるのである。キリストは単に魂の外側に生きていて、魂を荒々しく動かしているのではなく、魂の中に生きているので、魂もまた生きたものなのである。魂の中の恵みは、日光の中に差し出された鏡に映る光が太陽から発しているのと同じくらい、キリストから発している。しかし、これは、魂に恵みが分与されるしかたを部分的にしか表現していない。なぜなら、その鏡は以前と同じままで、全く性質が変化していないため、それまで通り何の光る性質も有していないからである。しかし、聖徒の魂が義の太陽[キリスト]から光を受け取るしかたは、その性質が変化するようなもの、それが本質的に光輝くようなものとなるようなものなのである。その太陽が聖徒の中で輝くだけでなく、聖徒たちもまた小さな太陽となり、自分たちの光の源泉の性質にあずかる者となるのである。この点において、彼らが光を引き出しているしかたは、反射する鏡のそれというよりは、幕屋における燭台のそれに近い。すなわち、確かにそれらは天から下った火によって灯されたものではあるが、そのときから、それら自身も燃えて輝くものとなったのである。聖徒たちは、単にいのちの水の源泉から流れ出ている水を飲むだけでなく、この水は彼らのうちで泉となり、そこから湧き出し、彼らから流れ出るようになるのである(ヨハ4:14; 7:38、39)。恵みは、植えつけられた種にたとえられている。それは地の中にあるだけでなく、地をつかむものである。そこに根を張り、そこで成長し、そこで永続的ないのちと性質の原理となるものなのである。
最初の回心における種々の霊的な悟りや感情と同じことは、それ以後に経験する、その種のあらゆる照明や感情についても云える。それらはみな変化をもたらすものである。それらの中には、最初の回心における場合と同じような天来の力と勢力がある。そして、それらはやはり心の奥底にまで達して、それらが与えられた程度に比例して、魂の根源的な性質に影響を与え、変化を及ぼすのである。そして魂の性質は、生きている限り、それらによって変えられ続け、変化を押し進められ、栄光において完成に至らされる。こういうわけで聖徒たちの心における恵みのみわざの進展を聖書は、絶えざる性質の変換と革新として表現しているのである。そのように使徒は、ローマにいた信者たち、神に愛されている人々、召された聖徒たち----神の贖いのあわれみを受けている者たち----に、心の一新によって自分を変えなさい、と勧めている。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。……この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、……心の一新によって自分を変えなさい」(ロマ12:1、2; 1:7とも比較)。そのように使徒は、エペソにいる、キリスト・イエスにある忠実な聖徒たち(エペ1:1)----かつては「自分の罪過と罪との中に死んでいた」が、今や「生かされ……よみがえらされ……キリストとともに天の所にすわらされ……良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られ」た者、「以前は遠く離れていたが、今ではキリストの血によって近い者とされ」た者、「もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族となっている」者、「ともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなる」者----に宛てた手紙で、こう告げている。すなわち、「私は絶えずあなたがたのために祈っています。神が、キリストを知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださるように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の全能の力の働きによって信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知る(あるいは、体験する)ことができるように、と。神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせました」*(エペ1:16以下)。ここで使徒が念頭に置いているのは、魂を変換させ、更新する神の栄光ある御力とみわざにほかならない。これはその直後の箇所により、まぎれもなく明らかである。そのように使徒は、同じエペソの人々に向かって勧めている。「人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、また彼らが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきこと」*、と(エペ4:22、23、24)。
世にある心を打ち震わせるような感情の中には、永続的な効果を全く人に及ぼさないように見える種類のものがある。それらは突如として消え去る。すると彼らは、その情緒的な絶頂と、うわべ上の恍惚境から、一転して、全く死んだような、何の感覚も活動も欠けた状態に至るのである。しかし、恵みによる種々の心打ち震わせるような感情が、そうした起こり方をしないことは確かである*3。それらは、天来の事物の甘やかな香気と風味を人の心に残していき、神と聖さに対する魂の好みをより強めていく。モーセの顔が輝いていたのは、山の上で神と常ならぬ形の会話を交わしていた間だけでなく、山から下りた後も輝き続けた。人々がキリストと常ならぬ形で会話を交わした後では、彼らには、はっきり感じとれるその効果が残るのである。彼らの性向と心持ちには、著しく目立つ何かかがある。そしてもし私たちがそれに目を留めて、その原因をたどるならば、それは彼らがイエスとともにいたからだ、とわかって来るであろう(使4:13)。
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*1 「私は、魂の全体がキリストのもとに来たかどうかは、良心の突然の呵責よりも、内側の性癖によって判断したい。というのも魂の全体は、情愛のこもった表現や行為によってキリストのもとに引き寄せられることがありえるが、こうした性癖と、種々の感情の変化がなくては、不健全だからである」。----シェパードの『例え話』、第1部、p.203。[本文に戻る]
*2 「魂は水のようなものである。冷たさが全くなくなっても、本来の冷たい原理はまだ残っている。あなたは種々の情欲の燃える炎を取り除くことはできるかもしれないが、性質のどす黒さを取り除くことはできない。罪の力があるところでは、たとえ良心が安逸な状態から恐怖へ変化しようと、たとえ生活が俗悪なものから品行方正なものに変化しようと、たとえこの世の有様から世の汚れを逃れようとするあり方へと変化しようと、たとえ種々の情欲を互いに取り替えようと、否、たとえそれらを一時の間消し去ろうと、いかに類いまれな偽善者の内側においても、その性質は決して変化することはない」。----シェパードの『例え話』、第1部、p.194。[本文に戻る]
*3 「あなたは聖霊が、バラムに臨んだときのように、直接的な活動によって人に臨んだ後、その人から去っていき、その人には何も残らないなどと考えているのだろうか?」----シェパードの『例え話』、第1部、p.126。[本文に戻る]
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