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第6節 恵みによる種々の感情には、福音的なへりくだりが伴う

 福音的なへりくだりとは、キリスト者が自分自身の全き足りなさ、卑しさ、厭わしさについていだく感覚と、それに応じた心持ちにほかならない。さてここで区別しておかなくてはならないのは、律法的なへりくだりと福音的なへりくだりの違いである。前者は、生まれながらの状態にある人々が、恵みによる感情を全く感じていなくとも、いだくことのできるものである。後者は、真の聖徒たちに特有のものである。前者は、神の御霊の一般的な影響から出ており、御霊が生まれながらの諸原理、特に生まれながらの良心を補助することによって出ずる。後者は、神の御霊の特別な影響から出ており、御霊が超自然的な天来の諸原理を植えつけ、働かせることによって生ずる。前者のもととなっているのは、キリスト教信仰にかかわる事物の天性的な特質や資質、特に神の天性的な完全さ、たとえばその偉大さや、恐れおおいご威光など----イスラエルの会衆が律法を授けられた際にシナイ山で明らかに示されたもの----について、より強く感じとれるように補助されている精神であり、後者のもととなっているのは、天来の事物が、その道徳的な種々の資質において示している超越的な美しさを感じとっている感覚である。前者において人々は、神の恐ろしい偉大さや天性的な完全さ、またその律法の厳格さを感じとることによって、自分がこの上もなく罪深く、咎があり、神の御怒りに直面していることを確信させられている。それは最後の審判の日に、悪人や悪霊どもがそれと同じことを感じて確信させられるのと同じである。しかし彼らは、自分自身の罪ゆえの厭わしさを見てとってはいない。罪の憎むべき性質を見てとってはいない。こうした感覚は、福音的なへりくだりにおいてのみ、神の聖さと道徳的完全さの美しさを悟ることによってこそ、与えられるのである。律法的なへりくだりにおいて人々は、自分が偉大な、恐ろしい神の前では無であること、破滅するしかないこと、自分を救う力が全く足らないことを感じさせられる。それは、最後の審判の日に悪人や悪霊どもが感じさせられるのと同じ感覚である。しかしそうした者どもには、自分を卑下し、神だけをあがめようとする性向を中心とする相応した心持ちがない。こうした性向は、福音的なへりくだりにおいて、神の聖い美しさを悟らされて心が圧倒され、その意向が変えられることによってのみ与えられるのである。律法的なへりくだりにおいても、良心は罪を確信させられる。最後の審判の日に、すべての人々の良心が完膚なきまで罪を確信させられるのと同じである。しかし、そこには何の霊的な理解もないため、意志が従わされることも、意向が変化をこうむることもない。律法的なへりくだりにおいて人々は、自分で自分を救うことに絶望させられる。福音的なへりくだりにおいて人々は、自発的に自分を否定し、見捨てるようにさせられる。前者において人は、屈服させられ、地べたにねじ伏せられる。後者において人は、進んで従わさせられ、自分から喜んで神の足下にひれ伏すようにされる。

 律法的なへりくだりの中には霊的に良いものが何もなく、真の美徳の性質を帯びたものが何1つない。だが福音的なへりくだりは、キリスト者的な恵みのこの上もない美しさの大きな部分をなしている。律法的なへりくだりは、福音的なへりくだりに至る手段として役に立つ。それは、キリスト教信仰の一般的な知識が、霊的知識に至るために必要な手段であるのと同じである。人々は律法的にへりくだらされてはいても、何の謙遜も有していないことがありえる。それは最後の審判の日に悪人が、自分に全く義がないこと、自分がどこをとっても罪深く、この上もなく咎があること、永遠の断罪を受けて当然であることを、徹底的に確信させられながら----また、自分自身の無力さを完全に感じとっていながら----、その心の高慢さはこれっぽっちもそがれていないのと変わらない。しかし、福音的なへりくだりの本質は、それ自体ではこの上もなく罪深い者でしかない被造物が、恵みの経綸のもとにあっていだくのがふさわしい謙遜のうちにあり、自分を無にほかならない者とし、全く軽蔑すべき、厭わしい者として卑下することのうちにある。またそこには、自分をほめそやそうとする性向を抑制し、自分の栄光を惜しげもなく捨て去ることが伴っている。

 これは、真のキリスト教信仰にとって、きわめて重要かつ何よりも本質的なことである。福音の枠組み全体が、また新しい契約に属するあらゆることが、また堕落した人間に対する神のあらゆるご経綸が、この効果を生み出すためのものなのである。こうした効果の欠けた人々は、口で何と告白していようが、どれほど心打ち震わせるような種々の信仰的な感情をいだいていようが、真のキリスト教信仰を全く有していない。「見よ。心のまっすぐでない者は心高ぶる。しかし、正しい人はその信仰によって生きる」(ハバ2:4)。すなわち、正しい人とは、神の義と恵みを頼りとする信仰によって生きる人であって、自分の善良さや自分のすぐれた性質を頼りとして生きてはいない。神がそのみことばの中で十二分に明らかにしておられるように、神は、ご自分の聖徒たちにこうした特質があるかないかを特に気遣い、これを伴わない何物も神には受け入れられないのである。「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる」(詩34:18)。「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」(詩51:17)。「まことに、主は高くあられるが、低い者を顧みてくださいます」(詩138:6)。「主は……へりくだる者には恵みを授ける」(箴3:34)。「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。『わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである』」(イザ57:15)。「主はこう仰せられる。『天はわたしの王座、地はわたしの足台。……わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ』」(イザ66:1、2)。「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか」(ミカ6:8)。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」(マタ5:3)。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です」(マタ18:3、4)。「まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません」(マコ10:15)。あの百人隊長は、自分がキリストを自分の屋根の下に入れる資格もない者であること、また、自分の方からキリストのもとに行く資格すらない者であることを認めていた(ルカ7)。ひとりの罪人が、どのようにしてキリストのもとにやって来たか見てみるがいい。「すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油のはいった石膏のつぼを持って来て、泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐ……った」(ルカ7:37-38)。彼女は、女性の光栄の自然な冠である髪の毛(Iコリ11:15)をも惜しげなく用いてキリストの御足をぬぐった。イエスは恵み深く彼女を受け入れ、云っておられる。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい」。あのカナン人の女は、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです」、というイエスのおことばを甘んじて受け、あたかも自分が犬と云われて当然の者であると認めるかのようにふるまった。それでキリストは彼女にこう云っておられる。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように」(マタ15:26-28)。あの放蕩息子はこう云った。「立って、父のところに行って、こう言おう。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください』」(ルカ15:18-19)。ルカ18:9以下の箇所も見てみるがいい。「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。……取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです」。「彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ」(マタ28:9)。「それゆえ、神に選ばれた者……者として、あなたがたは……謙遜……を身に着けなさい」(コロ3:12)。「わたしがあなたがたを国々の民の中から連れ出す……とき、わたしは、あなたがたをなだめのかおりとして喜んで受け入れる。……その所であなたがたは、自分の身を汚した自分たちの行ないと、すべてのわざとを思い起こし、自分たちの行なったすべての悪のために、自分自身をいとうようになろう」(エゼ20:41、43)。「わたしは……あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。……わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ……る。……あなたがたは、自分たちの悪い行ないと、良くなかったわざとを思い出し、自分たちの不義と忌みきらうべきわざをいとうようになる」(36:26、27、31)。「それは、わたしが、あなたの行なったすべての事について、あなたを赦すとき、あなたがこれを思い出して、恥を見、自分の恥のためにもう口出ししないためである。----神である主の御告げ。----」(16:63)。「それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます」(ヨブ42:6)。

 それゆえ、もし私たちが、聖書を基準にして、真のキリスト教信仰の性質を判断し、自分の信仰的な資質や状態を判断するというのであれば、こうしたへりくだりを、真のキリスト教に属する最も本質的な事がらの1つとみなすことをゆるがせにしてはならない*1。これこそ、かの大いなるキリスト者的な義務、自己否定の主たる部分である。その義務は2つのことに存する。第一に、人が自分の世的な意向を否定し、あらゆる世的な目的と楽しみとを捨て去り、放棄すること。第二に、自分の生まれながらの思い上がりを否定し、自分の誉れや誇りをなげうって、自らをむなしくすること、またそれを、心底から進んで行ない、いわば自分を放棄し、消滅させるほどになることである。こうしたことを、福音的なへりくだりにおいてキリスト者は行なう。だがその後者こそ、自己否定のうち最も難しい部分にほかならない。確かに両者は常に相伴い、片一方しかないという場合は本来決してありえないが、それでも、生まれながらの人々は後者よりは前者の面により近づきうるものである。多くの世捨て人や隠者たちが、(真の抑制は全く行なっていないまま)富や快楽やこの世にありがちな楽しみを捨ててはきたが、自分の誉れや義を放棄する人々ははるかに少なかった。彼らが自分を否定したのは決してキリストのためではなく、単に、ある情欲を売り渡しては別の情欲を楽しませようとし、獣的な情欲を売り渡しては悪魔的な情欲をほしいままにしようしたにすぎない。それで彼らは、少しもましになっておらず、むしろ彼らの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなる。彼らは黒い悪魔を一匹追い出しては、最初の悪魔よりも顔つきは美しいがたちの悪い、七匹の白い悪魔を引き入れているのである。人間が生まれながらに有している、自分を義とし、うぬぼれがちな性向は名状しがいほどに強固であって、ほとんど想像もつかないほどにすさまじいものである。それを楽しませ、満足させるためとあらば、人はいかなる難行苦行をもいとわない。それ以外の点でもっともらしく自分を否定することなら、人はいかに途方もないことをも行なってきた。ユダヤ人の間ではエッセネ派やパリサイ人たちが、信仰を告白するキリスト者の間ではローマカトリック教徒や、多くの異端信仰者や、熱狂主義者たちが、異教徒の間では多くのイスラム教徒や、ピュタゴラス学派の哲学者や、その他の人々が、途方もなく極端な行ないに励んできた。それらはみな、この霊的高慢と自分の義というモレク神にいけにえをささげるためだったのである。そして、自分たちを神の前で、また自分の同胞たちの中で、際立ってすぐれた者とするためだったのである。

 だが真のへりくだりは、いかに巧妙な偽善者が、いかに華々しい抑制を世の前で行ない、いかに心打ち震わせる信仰的な感情をいだいているかのように見せかけていても、すっぽり抜け落ちているものである。もし聖書がこのことを、真の恵みにとって何よりも本質的なものであると、これほど強調していなかったとしたら、ことによると異教徒の哲学者の多くは、真の恵みを受けていたのではないかと思われるかもしれない。それほど彼らには、多くの美徳のきらめきと、精神における大きな照明、また内なる熱情や気高さが見受けられ、まるで天来の影響の注入や、天界との交流を真に有していたかのように思えるのである*2。むろん多くの偽善者たちは、他の恵みと同様 、謙遜という恵みをも、やっきになって真似するものである。また往々にして、これほど彼らが声高に広言しているものもない。彼らは言葉においても行ないにおいても、いかに自分が謙遜であるかを喧伝するため懸命な努力に励む。しかし普通は彼らがしていることは、自分の目には非の打ち所なく見えても、下手な小細工でしかない。彼らには、へりくだった話し方やふるまい方とはどういうものかが、どうしてもわからないのである。いかに語ったり行動したりすれば、自分の言動にキリスト者的な謙遜の香りをただよわせられるかがわからないのである。その甘やかでへりくだった物腰やようすは、彼らがいかに芸をこらしても身につけられない。御霊に導かれていない彼らは、聖い謙遜に似合わしいふるまいを1つ行なおうとしても、自ずと自分の内側にある卑しい霊の活力にたよることになるからである。それゆえ彼らの多くに唯一残された道は、自分はへりくだっています、と大いに云い立て、いかに自分がこれこれのとき徹底的にへりくだらされたかを触れ回り、自分のことをさかんにけなして歩くことしかない。たとえば、私はすべての聖徒の中で一番小さな者です、私はみじめで卑しい生き物です、私はどんなあわれみにもふさわしくない者です、とか、もし神が私を見たなら! おゝ、何と私の心の邪悪なことか! 私の心は悪魔以下です! おゝ、この呪うべき心よ!、といった具合である。こうした言葉遣いをする人々は、えてして心が全く砕かれておらず、何の霊的な悲しみもなく、イエスの御足を涙でぬらした女のように泣くこともなく、神に赦されたとき、自分の恥を思い出し、それを見て、そのためもう口出ししない(エゼ16:63)ような思いもなく、ただの軽薄そうな、あるいは口元には笑いを浮かべた、あるいはパリサイ人のように気取った者たちである。彼らがそのようにへりくだっていると、また自分をそのように卑しく思っていると信ずべき材料は、単に彼らがそう云っているということだけしかない。彼らのうちにある何物にも----その態度にも行動にも----謙遜の香りがしないからである。多くの人々は、自分がいかに邪悪な者であるかさんざん云い立てているが、実は、他の人からずば抜けて輝かしい聖徒だとみなされて当然であると考えているのである。そして、もしだれかが、それとは逆のことをほのめかしたり、彼らに向かって、あなたは本当にキリスト者の鏡ですね、という意味のこと以外のことを告げたりすると、たいへんなことになる。多くの人は、自分の邪悪な心や、数々の大きな欠点や、中身のなさを口をきわめて非難し、自分のことを聖徒の中で最も卑しい者とみなしているかのように語っている。だがしかし、もしもどこかの牧師が本気でそれと同じことを個人的に彼らに向かって云ったり、残念ながらあなたの信仰はきわめて未熟で不十分なものだと思う、とか、----あなたは自分の貧困さと中身のなさを深刻に考えるべきだ、他の人々よりもあなたはずっと劣っていると思う、----などと告げたりすると、それは彼らには到底受け入れられない。彼らは自分がひどく傷つけられたと考える。そして、彼らの内側には、そうした牧師に対する根深い憎悪が植えつけられかねない。

 ある人々は、律法的な教理律法的な説教律法的な精神をそしってやまないが、自分が何をそしっているかほとんどわかっていない。律法的な精神は、彼らが思うよりもはるかにとらえどころのないものであって、彼らの目にはとまらないのである。それは彼らの心の中で潜伏し、活動し、大いにはびこっており、周知のように、彼らが最もひどくこの罪に陥るのは、まさに彼らがこれを痛烈に非難しているそのときにほかならない。人は、自分の中から自分自身と、あらゆる形の自分の義や善良さを徹底的に追い出さない限り、律法的な精神をしているのである。人が自分の義や、道徳や、聖さや、愛情や、体験や、信仰や、へりくだりや、その他もろもろを誇りにしている精神は、律法的な精神である。堕落前のアダムが律法的な精神をしていたのは、何の高慢でもなかった。彼のような状況にあった者には、自分の義をもとに神に受け入れられることを求める資格があった。しかし、堕落した罪深い被造物が律法的な精神をいだくのは、霊的高慢以外の何物でもない。逆に霊的に高慢な精神は、律法的な精神なのである。生きている人間の中で、自分の種々の体験や悟りを大したものだと思って気分を高揚させられたり、それを理由に自分でも自分がきらめいて見えるようになったりした場合に、その体験を頼りにしたり、自分の義としたりしないような者はだれひとりいない。その人がどれほどへりくだった言葉遣いをしようが、どれほど自分の種々の体験を自分に神がなさった大いなる事がらとして物語ろうが、また、たとえそれが、そうしたことをしてくださった神に栄光を帰してほしいという他の人々への呼びかけであろうが、それでも、そうした自分の体験を誇りとしている人は、まるでその体験の一部が自分の尊厳ででもあるかのように、その一端を自分のものとして横取りするのである。またその人がそれらを自分の尊厳だとみなす場合、その人は、神もそれらをそのようにみなしておられると考えないではいられない。それらに関する自分の評価に間違いはないと信じ込んでいるからである。それで、神もそれらを自分と同じようにみなしておられるに違いないと判断するのである。そして、そこから必然的にその人は、自分が自分の種々の体験を自分の有する尊厳とみなしているように、神もそれらをそうみなしておられるのだと想像する。また、自分が自分の目にきらめいて映っているのと同じように、神の目にもそう映っているのだと想像する。このようにしてその人は、自分の内側にあって、自分を神の御目に輝かせ、神に自分を推賞するものを頼りにするのである。この励ましによってその人は、祈りにおいて神の前に出る。これによってその人は、多くのことを期待するようになる。キリストは自分を愛しているのだと考え、キリストはご自分の義を自分に喜んで着せてくださろうとしているのだと考える。なぜなら、その人の考えによると、キリストはその人の種々の体験や恵みに魅了されているからである。これは、自分自身の義を相当に重く頼みにして生きることである。またそうした人々は、地獄への道をまっしぐらに突き進んでいるのである。あわれな、惑わされた、みじめな人々、自分は神の御目にきらめいて見えているはずだと考えていながら、実は神の鼻にとって煙でしかない者たち、その多くは、ソドムの最も汚れた獣よりも、また信心深いふりなど全くしていないような者よりも、はるかに神にとっては厭わしい者どもである! こうした人々がするようにすることこそ、本当の意味で、体験により頼んで生きることにほかならない。これは、種々の霊的な体験を恵みの状態を示す証拠としてのみ利用し、そのようにして、そこから希望と慰めを得ている人々とは、大違いである

 ある種の人々は実際、行ないのことを悪し様にののしり、行ないに対して信仰の方を大いに持ち上げ、自分は律法的な精神の輩とは違う、正真正銘の福音的な人間であるとさかんに云いつのり、キリストと、福音と、無代価の恵みの道とを前進させているかのようなようすを大っぴらに示している。だがその実彼らは、無代価の恵みによる福音の道にとって最大の敵であり、純粋なへりくだりによるキリスト教にとって、危険きわまりない反対者なのである*3

 世には、自分がいかに大きなへりくだりの持ち主であるかを必死に見せつけようとする人々があり、自分は律法に対して死んでいるとか、自分をむなしくしているとか意気盛んに云い立てる声は少しも珍しくない。一部の人々はきっぱりと、私は心に対する律法のみわざを徹底的に体験しました、もはや行ないからは完全に脱しています、と告白しているが、その生き方たるや、私がこれまで目にしたいかなる人々にもまして、自分を義とする精神の臭気芬々たるものである。ある人々は、自分は全く自己をむなしくしていると考え、地にひれ伏すような卑下をしていると確信しているが、その実体は、自分がいかに謙遜であるかを思って、これ以上ないほど鼻高々とし、自分が卑下の深さを天に達するほど高く評価して得々としている。彼らの謙遜は尊大で、思い上がりに満ち、自信満々で、これ見よがしで、けばけばしく、傲慢な謙遜である。見たところ霊的高慢には、人を自分の謙遜によってうぬぼれさせ、自分の謙遜ぶりをひけらかさせる性質があると思われる。----これをまざまざと示しているのが、人の子らの間における高慢の長子、聖下[ローマ教皇]と呼ばれたがる者のふるまいであ。、すなわち、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものの上に自分を高く上げる、かの不法の人は、自分を神の下僕の下僕[servus servourum Dei]と自称し、その就任式では、謙遜の見せかけとして、幾人かの貧民の足を洗うのである。

 真に自分をむなしくした、心貧しく、心の悔い砕かれた者になるとは、それとは全く別物であり、多くの人々の想像とは非常に異なった姿をしている。まことに驚くしかないのは、多くの人がこの件について、いかにひどい自己欺瞞に陥っているか、ということである。何と多くの人々が、自分はだれよりもへりくだっているのだと思い込んでいながら、実際には、だれよりも高慢で、だれよりも高ぶった態度をとっていることか! この霊的高慢と自己義ということほど、人の心の陰険さを明らかにするものはない。サタンの狡猾さが極みに達して見えるのは、この罪に関して人々をあやつるしかたである。そしておそらくその1つの理由は、この罪についてこそ、悪魔が最も年季を積んでいるからであろう。彼はそれがどのように入り込むかを知っている。その隠れた源泉がどこにあるかを知り尽くしている。それは彼自身の罪なのである。----豊かな経験は、善事においてであれ悪事においてであれ、魂を導くにあたって途方もなく有利なものである。

 しかし、いかに霊的高慢が心の奥底にひそむ不義で、大きな謙遜の衣をかぶって見えるのが通例といっても、それを(おそらく例外なしに、また確実に)見分けて識別する方法が2つある。

 第一のこととして、この疾患にかかっている人は、えてして自分と他人をくらべては、いかに自分がキリスト教信仰において高い境地に達したかを考えたがるものである。そうした人は、往々にして自分のことを、ずば抜けた聖徒であるとか、聖徒の中でも実にすぐれた者であるとか、抜きんでて素晴らしい偉大な体験の持ち主であるというふうに考える。それがその人が心ひそかに語っていることなのである。「神よ。私はほかの人々のよう……ではないことを、感謝します」(ルカ18:11)。また、「私はあなたより聖なるものになっている」(イザ65:5)。こういうわけでこうした人々は、神の民の間ででしゃばりたがり、自分の当然の権利と云わんばかりの態度で、彼らの中の、いわば上席をしめたがるのである。云ってみれば彼らは、キリストが非難しておられるような「上座を選ぶ」ことを、ひとりでに行なっているのである(ルカ14:7以下)。具体的にどういうことかというと、それは、自分から進んで、人々の間でかしらだった地位と務めを得ようとするような態度----人を指導したり、教えたり、監督したり、管理したりしたがる態度----にほかならない。彼らは、「盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自任している」(ロマ2:19、20)。彼らは、自分には当然、信仰的な問題における権威として、また教師としての務めを果たす権利があると自然に思えるのである。そして、それで彼らは、パリサイ人さながらに(マタ23:6、7)、人からラビ(先生)と呼ばれることをさりげなく好む。すなわち、人々が信仰的な問題において自分のことを敬い、自分を教師として立てて従うことを、期待しがちなのである*4

 しかし、キリスト者的な謙遜で心が支配されている人は、それとは逆の性向をしている。もし聖書を少しでも頼りにできるとしたら、そのような人は自分が信仰において達した境地を他とくらべてもつまらぬものと考え、自分を聖徒たちの中で劣った者、聖徒の中で最も小さな者のひとりとみなしがちなはずである。謙遜、すなわち、へりくだりによって人々は、他の人々を自分よりもすぐれていると思うようになるのである。「へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」(ピリ2:3)。こういうわけで彼らは、自分は末席につくべきだと考えたがり、その内なる性向によって、私たちの主の戒めに従うように導かれるのである(ルカ14:10)。彼らにとって、自分が教師の任を引き受けることなど不自然な話であって、むしろ逆に彼らは、自分などはそんな人間ではない、それには他の人々の方がずっとふさわしい、と思うものである。それはモーセやエレミヤが、あれほどずば抜けた、また深い知識を有する聖徒であったにもかかわらず、口にしたことと同じである(出3:11; エレ1:6)。彼らにとって、自分がものを教えられる側でなく、教える側に立つなどと考えるのは不自然なことなのである。彼らは、人に指図することよりも、人からものを聞き、教えを受けることに熱心である。「聞くには早く、語るにはおそ……いようにしなさい」(ヤコ1:19)。そして、いざ語るときになっても、彼らにとっては、断定口調で、偉ぶったふうに語るのは不自然なことなのである。「エフライムが震えながら語ったとき、主はイスラエルの中であがめられた。しかし、エフライムは、バアルにより罪を犯して死んだ」(ホセ13:1)。彼らは、権威者ぶったり、長のつく立場や教師になることを引き受けたりするよりは、むしろ他の人々に仕える者となる。「多くの者が教師になってはいけません」(ヤコ3:1、2)。「みな互いに謙遜を身に着けなさい」(Iペテ5:5)。「神を恐れ尊んで、互いに従いなさい」(エペ5:21 <英欽定訳>)。

 ある人々の体験は、自然と彼らに自分の体験をたいしたものだと思わせるものである。そして彼らはしばしばそうした体験のことを、非常に偉大で非凡なものであると語る。彼らは自ら進んで自分の出会った大いなることを語りたがる。この言葉は、良い意味で語られたり、意図されたりすることがないわけではない。ある意味で、救いに至るあわれみは、そのあらゆる段階において偉大な事がらである。実際、神がこの私たちのような本来犬でしかない者どもに、子どもたちのパンくずを、いかに小さな一片でも授けてくださるとしたら、それは、実に偉大なる、しかり、無限に偉大なる事がらである。そして、神がそのようなあわれみを自分に授けてくださったと思っている人がへりくだっていればいるほど、その人はそれを、こうした意味において、自分の出会った大いなることと呼ぶ気持ちになるであろう。しかし、もしも自分の出会った大いなることということで彼らが意味していることが、よくあるように、抜きんでて素晴らしい霊的体験であるとか、他の人々をはるかに越えた霊的体験であるとか、常ならぬ異常な体験をしたとかいうことである場合、自分は大いなることと出会ったと云う人は、私はずば抜けた聖徒なのだ、他の凡百の輩をはるかに越えた恵みを得ているのだ、と云っているのと寸分も違わないのである。大いなる体験をするとは、もしその体験が真実で語るに足るものであるとすれば、大いなる恵みを得るというのと同じことである。真の体験であれば、それは例外なく恵みの体験にほかならない。そして真の体験が大きなものであればあるほど、受けた恵みと聖さも大きいのである。自分のことを証しする際に、このような意味で自分の体験のことを語る人々は、他の人々から尊敬の眼差しで見られることを期待しているのである。むろん彼らは、実際には、こうしたしかたで自分の体験について語ることを自慢と呼びはしないし、それをいかなる高慢のしるしともみなさない。なぜなら彼らはこう云うからである。自分は、これが自分のしたことではなく、無償の恵みであったことを知っています。それは自分に神がなさってくださった大いなることなのです。自分は、神が自分に対して示された大いなるあわれみを認めており、それを軽んじようとは思いません、と。しかし、それはあのパリサイ人も同じであった(ルカ18)。彼は言葉では、自分を他の人々とは違う者にした栄光を神に帰していた。彼は云う。「神よ。私はほかの人々のよう……ではないことを、感謝します」*5。だが、いくら口先で、自分が他の聖徒らよりも聖い者となっていることを神の恵みのおかげであると云っていても、だからといって彼らが自分の聖さをこれほど高く評価しがちである態度が、その精神の高慢と虚栄心の証拠でないことにはならない。もし彼らがへりくだりの精神の影響下にあったとしたら、彼らが信仰において達した境地も、彼らの目にはさほど輝いたものとは見えず、彼らも自分自身の美しさをさほど素晴らしいとは思わないであろう。真に最もずば抜けた聖徒であるキリスト者たち、そしてそれゆえ、だれよりもいとすぐれた体験を有する者たち、「天の御国で一番偉い人」とは、「子どものように、自分を低くする者」である(マタ18:4)。なぜなら彼らは、自分たちを恵みにおいて小さな子どものようにしかみなさず、自分の達した境地をキリストにある幼子の達した境地としかみなさないからである。彼らは自分の愛、自分の感謝、自分の乏しい神知識の低い程度を驚き、恥じている。----モーセは、山で神と会話を交わしていたとき、そして彼の顔が他の人々の目にまばゆいほど輝いていたとき、自分の顔のはだが光を放ったのを知らなかった。ある人々は人並みすぐれた信仰告白者という名で通っており、ある人々は自分を人並みすぐれた信仰告白者であると自認するであろう。しかし、天で最もまぶしく輝く、人並みすぐれてへりくだった聖徒たちは、自分が並外れているなどとは全く告白しようとはしない。私の信ずるところ、この世には、人並みすぐれた信仰告白者である、ずば抜けた聖徒などいない。そのような聖徒は、自分のことをすべての聖徒のうちで最も小さな者と告白し、いかなる聖徒の達した境地や体験も自分のものよりは上であるとはるかに考えたがるであろう*6

 恵みの性質からして、また真の霊的光の性質からして、現在の状態にある聖徒たちは自然と、自分の恵みと善良さをちっぽけなものとみなし、自分の堕落ぶりを大きなものとみなすものである。そして、この世で最も大きな恵みと霊的光を有する者たちは、こうした性向を最も有しているのである。このことは、物事の性質と道理を冷静かつ綿密に考量し、以下のような事がらを考察する人々にとっては、きわめて明確にまた明らかに見てとれるであろう。

 小さいと呼ばれるに値するような恵みと聖さとは、それが本来あらなくてはならな姿と比較した上で小さいもののことである。そして、真に恵みを受けた人には、それがそのように小さく見えるのである。そうした人は自分の義務の基準に目を据えている。それに合致することこそ彼の目当てである。それこそ彼の魂が達そうとするものである。そして、それによってこそ彼は自分の行なうこと、行なったことを評価し、判断するのである。恵みを受けた魂、特にずば抜けた恵みを受けた魂にとって、そうあらなくてはならないものとくらべて小さいような聖さは小さく見えるのである。無限の道理があり義理があると自分には見えるものと比較して小さなものは、そう見えるのである。もし彼の聖さが彼にとってこれからはるかに隔たって見えるとしたら、それは自ずと彼の目にはつまらぬものと見え、自分には美しいとか慕わしいとかいう言葉に値するものなど全くないように見えるのである。これと似たような理由で、空腹な人は自分の前に出された食事を自然と、わずかばかりのもの、小さなもの、自分の食欲にくらべれば、まるで語るに足らないものとみなすのである。あるいは、偉大な国王の子どもが自分の父親の栄誉をねたんでいる場合、自分に人々が払う敬意を見ても、自然とその栄誉や敬意を非常に小さなもの、顧慮するに値しないもの、父親に求められる威光にくらべれば無に等しいものとみなすのである。

 真の恵みと霊的光の性質からして、人は、自分がいやまして聖くなるべき無限の理由があることを示されるものである。その人は恵みを持てば持つほど、天の神の無限にいとすぐれたご性質と栄光や、キリストのご人格の無限の尊厳や、罪人たちに対するキリストの愛の尽きせぬ長さと広さと深さと高さとを感ずる感覚を深めていくものである。そして恵みが増し加われば、その視野はより遠くへと広がってゆき、その対象の途方もない大きさに魂が呑み込まれるまでとなる。その人は、この神を愛し、人間をこれほど愛されたこの栄えある贖い主を愛することがいかに自分にとって大いにふさわしいことか、また自分がいかに僅かしか愛してこなかったことかに驚く。そしてその人は、そのように察知すればするほど、自分の恵みと愛の小ささが実に奇異なこと、不思議なことと思われてくる。そしてそれゆえ他の人々を自分よりもすぐれていると考えることがより容易になってくる。自分自身の恵みの小ささを不思議に思っているその人は、そのように奇妙なことが他の聖徒たちにも起こっているとはほとんど信じられないのである。その人にとって驚くべきなのは、いやしくも本当に神の子どもとなっている者、神の云い尽くしがたい愛という救いに至る種々の恩恵を実際に受けとっている者が、これっぽっちしか愛せないということである。その人はこれを自分だけに特有の、奇妙な例外とみなしがちになる。他のキリスト者たちについては、そのうわべしか見えないが、自分自身の内側は見えているからである。

 ここで読者はもしかすると反論するかもしれない。すなわち、神への愛は神の知識が増し加わるのに比例して実際に増し加わるのではないか。ならば、どうしてある聖徒のうちで知識が増し加わることによって、その人の愛が、自分の知識にくらべて、より小さく見えるなどということがあるのか、と。これに私は答えよう。確かに、聖徒たちのうちにある神への愛は、神の知識あるいは神を見てとることの程度に応じたものではあるが、それでもそれは、そこで見てとられたり、知られたりした対象に比例するものではない。聖徒の魂は、神の何がしかを示されて見てとることによって、見てとったものよりもはるかに多くを確信する。そこで見てとられたものは、素晴らしいものである。だが、その眺めとともにもたらされるのは、それを途方もなく越えた何か、直接には見てとられていない何かに対する強大な確信である。それでその魂は、自分がいかに少ししか愛していないか、ということと同時に、自分の無知に驚き、自分がいかに僅かしか知っていないかに驚くのである。また、その魂は、霊的な視界において目にしているものの中に、まだ視野に入っていない無限に大きなものがあることを確信するのである。それでその魂は、雲や暗闇が取り払われさえするならば、自分がいかに大きなことを見てとれるか、いかに途方もなく多くのことを知ることができるかを確信するのである。こういうわけで、その魂は、ある程度の霊的な展望を自分のものにしつつも、自分の霊的な無知と、愛の欠けを大いに嘆き、より多くの知識と、より多くの愛をこがれ求めるようになるのである。

 この世にある、ずば抜けた聖徒たちのほとんどが有する神への愛は、そのあるべき姿とくらべれば、まことにちっぽけなものである。なぜなら、現世において達成される最高の愛といえども、私たちのなすべき義務と思われるものにくらべれば、貧しく、冷たく、はるかに劣った、名指される価値もないほどのものだからである。それは以下の2つのことを合わせて考察してみれば明らかである。すなわち、1. 神が私たちに与えてくださった、神を愛すべき理由。すなわち、その無限の栄光についてなされた顕示によって、またそのことばとみわざによって、そして特に、その御子の福音によって、また御子によって罪ある人間のために神がなさってくださったことによって、私たちがいかに神を愛すべきであるか。2. こうした、神が私たちに与えてくださった神を愛すべき理由を、人の魂が、神から与えられたその諸機能によって、どこまで見てとり、理解することができるか。こうした事がらを合わせて考察した上で要求されることと比較してみれば、地上でいかにずば抜けた聖徒の愛といえども、いかに全く小さな愛であることか! そして恵みはそれを人々を確信させるものなのである。特に卓越した恵みはそうである。恵みには光の性質があり、真理を明るみに引き出すからである。こういうわけで、人は多くの恵みを持てば持つほど、他の人々をはるかに越えて、自分の愛がどれほど超絶的な高みまで登らなくてはならないかを察知するのである。また他の人々にまさって、その高みへ向けて自分がいかに少ししか登っていないかを見てとるのである。それゆえその人は、自分の愛を、自分の義務の高さ全体とくらべて評価しているので、それが驚くほど小さく低いものに見えるのである。

 そしてずば抜けた聖徒は、神を愛さなくてはならない高みについてこのような確信をいだいているため、自分の恵みの小ささを示されるばかりでなく、自分に残存している腐敗の大きさも示される。私たちは、自分にどれほど腐敗あるいは罪が残存しているか判断するには、自分を、自分の義務の基準が及ぶ高さによって測らなくてはならない。その高さと自分との隔たり全体が、罪となる。義務を果たさないことこそ罪だからである。さもなければ、私たちの義務は私たちの義務ではない。私たちが自分の義務を果たしていなければいないほど、そこには罪があるのである。罪とは、道徳的行為者が自分の義務の規律、あるいは基準に合致しないでいることにほかならない。それゆえ、罪の程度は、その基準によって判断されるべきなのである。その基準に対して不一致であればあるほど----それが欠けであろうと行き過ぎであろうと----、その分だけ罪があるのである。それゆえもし人々が、その神への愛において、義務の要求する高みの半分にも達さなかった場合、彼らはその心の中に恵みよりも腐敗の方を多く持っているのである。なぜなら、そこでは善良さの方が欠けているからである。そして、すべて欠けているものは罪だからである。罪とは、忌まわしい欠陥であって、聖徒たちにもそのようなものとして見える。特にずば抜けた聖徒たちにはそうである。キリストがそれぽっちしか愛されていないこと、それぽっちしか、その死にたもう愛ゆえに感謝されていないことは彼らにとってはこの上もなく忌まわしく見える。それは彼らの目には、憎むべき忘恩と映るのである。

 またさらに、恵みが増すことによって人は、それとは別の方向にも向かわせられる。恵みの増し加わった聖徒たちは、自分の醜さの方が自分の善良さよりも途方もなく大きなものと考えるようにさせられるのである。彼らは自分の腐敗の方が自分の善良さよりもはるかに大きいと(事実通りに)たやすく確信するばかりか、えてして、どれほど小さな罪、どれほど僅かな腐敗のうちにある醜さも、自分たちの最大の聖さのうちにあるありったけの美しさを途方もなく越えて大きなものと見えるようになるのである。というのも、いかに小さな罪であっても、無限の神に対して犯されたものであれば、そのうちに無限の憎むべき性質、あるいは無限の醜さがあるが、被造物のうちにあるいかに高貴な聖さといえども、無限の愛すべき麗しさはふくまれていないからである。それゆえ、そうした聖さにいかに愛すべき麗しさがあろうと、それは、どれほど小さな罪の醜さとくらべても無に等しいのである。いかなる罪にも、無限の醜さ、無限の憎むべき性質があることは、何よりも明々白々である。なぜなら罪の邪悪さと不義と憎むべき性質との第一の特質は、何らかの責務に対する違反にあるからである。あるいは、私たちがあるべき姿、なすべき行為、責任あることと逆のあり方をしたり、行なったりすることにあるからである。それゆえ違反された責務が大きければ大きいほど、その違背の不義や憎むべき性質もその分だけ大きくなる。しかし確かに、何かを愛すべき、あるいは何かに光栄を与えるべき私たちの責務は、相手の愛すべき麗しさや光栄ある性質に、それなりに比例したものであるに違いない。あるいは(同じことだが)、相手がどれほど私たちによって愛されたり、光栄を与えられたりするに値するか、という程度に、それなりに比例したものに違いない。私たちは、あまり愛すべきでない相手よりも、より愛すべき理由のある相手を愛さなくてはならない、より大きな責務を負っている。そしてもし、あるお方が無限に愛すべきお方であるとしたら、すなわち、私たちから無限に愛されるに値するお方であるとしたら、そのとき私たちがそのお方を愛すべき責務は無限に大きなものとなる。それゆえ、この愛と反対のいかなるものにも、無限の不義と醜さと卑しむべき性質がふくまれているのである。しかしその一方で、私たちの聖さや、神に対する愛という点について云うと、そこに無限の価値ある性質はふくまれていない。神に対する被造物の罪は、神とその被造物との隔たりに比例して、恥ずべきもの、また憎むべき性質となる。相手側が偉大であればあるほど、また、こちら側がつまらない、劣弱な者であればあるほど、その罪は重くなる。しかし、それと逆になるのが、神に対する被造物の敬意の価値である。それは、それを行なう側のつまらなさに比例して、価値あるものではなく、無価値なものとなる。神とその被造物との間の隔たりが大きければ大きいほど、その分だけ、その被造物の払う敬意は神が注意を向けたり、重んじたりする値打ちのないものとなる。優越している度合いが大きければ大きいほど、劣弱な側が優越者に敬意を払う責務は増していき、そうした敬意の欠如はより憎むべきものとなっていくが、劣弱している度合いが大きければ大きいほど、劣弱な側の敬意は価値を減じていくのである。なぜなら、自分が劣弱であればあるほど、----自分に注意を向けられる価値がなく、自分がちっぽけな者であればあるほど、----自分が捧げることのできるものの値打ちは低くなるからである。というのも、彼は、たとえ自分にできる最高の敬意を捧げるとしても、自分自身以上のものは捧げられないからである。そしてそれゆえ、彼がちっぽけであり、ちっぽけな価値しかなければ、彼の敬意にもほとんど価値はないのである。そして人は、真の恵みと霊的な光を持っていればいるほど、そのような見方をするはずであろう。彼は、自分自身が罪のため無限に醜い者と見えるようになればなるほど、それに比例して、自分の恵みにふくまれる善良さ、あるいは良い体験のことは小さく見えるようになるであろう。というのも実際、そこには何物もないからである。それは、大海に注いだ水一滴以下である。有限な者は、絶対に無限なものと釣り合いがとれないからである。しかし人は、霊的な光を持てば持つほど、この件について、物事が真実通りの姿に見えてくる。こういうわけで、何よりも明々白々なのは、真の恵みの性質上、腐敗の残存している人は、真の恵みを持てば持つほど、自分の善良さや聖さが、自分の醜さに比例して、小さく見えてくる、ということである。そしてそれは、自分の過去の醜さに比例してというだけでなく、いま自分の心のうちに現われている罪における自分の醜さ、また自分の最も高潔で最良の種々の感情、また最も輝かしい種々の体験にすら見られる忌まわしい種々の欠陥における現在の自分の醜さに比例して、そうなのである。

 私が親しく見聞した多くの人々のうちにあった、心打ち震わせるような種々の信仰的な感情や、偉大な悟り(と呼ばれているもの)の多くは、彼らの心の腐敗を押し隠し、彼らの罪がすべてなくなったかのように彼らに見せかけ、彼らを自分に残存する憎むべき悪についても何の不平もないようにしむけようとする性質をしている。(確かに彼らは、自分の過去の卑しさについては口をきわめて非とするかもしれないが)。これは、彼らの悟りが光でなく暗闇であるという動かぬ確実な証拠である。人の汚れや醜さを押し隠すのは暗闇である。だが心に射し込まされた光はそれらを悟らせ、心の隠れた襞の中までも探し出し、それを白日の下にさらけ出す。特に、神の聖さと栄光という、すべてを刺し貫き、探りきわめる光はそうである。確かに、救いに至る種々の悟りは、ある意味において、とりあえずは腐敗を押し隠すかもしれない。そうした悟りによって、腐敗の積極的な活動、たとえば悪意や、ねたみや、むさぼりや、好色や、つぶやきなどといったものは抑えられる。だがそうした悟りが腐敗を明るみに出すというのは、欠如を示すことにおいてである。すなわち、これは、心にこれっぽっちしか愛がなく、これっぽっちしか謙遜がなく、これっぽっちしか感謝がないことを明るみに出すのである。こうした欠陥は、だれよりもずば抜けた恵みの働きを有している人々には、最も憎むべきものに見える。また、聖徒たちには非常に耐えがたい重荷となり、自分の中身のなさと、厭わしい高慢と、忘恩とを嘆かせるものとなる。そして、何か1つでも腐敗の積極的な働きが生じた場合、それがいつ生じようと、また、いかにずば抜けた恵みの行為と混ざり合っていようと、それは恵みによって最大限に拡大して映し出され、うわべの見かけにはるかにまさる、凶悪で身の毛もよだつ様相を現出させられるであろう。

 ずば抜けた聖徒であればあるほど、またその魂に天国の光を持てば持つほど、自分自身のことを彼らは、天国にいる聖徒や御使いたちが、世に住む最もずば抜けた聖徒らを見るような目で見るようになるものである。道理からすれば、彼らが地上のいかにずば抜けた聖徒たちを見つめるとしても、そこに見える姿は、キリストの義によって覆われ、そのあらゆる醜さが、キリストのあふれるばかりの栄光と愛というまばゆい光輝に呑み尽くされている姿以外の何物でもないはずである。私たちがどれほど熱烈な愛と賛美を捧げていようと、それは、何のとばりもなしに神の美しさとご栄光を目の当たりにしている者たちにとって、いかなるものに見えると考えられようか? キリストの死をも辞さない愛に対して、私たちがどれほどの感謝に心打ち震わせようと、それは、キリストをありのままの姿で目にし、自分が完全に知られているのと同じように完全にキリストを知っており、死にたもうたキリストのご人格の栄光と、その死をも辞さない愛の驚異とを、何の雲も暗闇もなしに見ている者たちにとって、いかなるものに見えると考えられようか? 地のちりの上を這いずる地虫どもが、どれほど深い畏敬と謙遜の念をいだいて近づこうと、それは、そのお相手の無限のご威光を見つめている者らにとって、いかなるものとみなされるだろうか? 彼らにとってそれは、大いなるものであるとか、敬意や謙遜という名に値するものに見えるだろうか? この偉大で聖なる神から無限に隔たった者どもが有するそうしたものは、その栄光ある御前に立つ者たちにとって、いかなるものとみなされるだろうか? 地上の聖徒に到達できるいかに高い境地も、彼らにとっては非常に卑しいものに見える理由は、彼らが神の栄光の光の中に住んでおり、神のありのままのお姿を見ていることにある。そして、この点については、地上の聖徒たちも、その恵みにおいて卓越している度合いに応じて、天上にある者らと同じ思いをいだくのである。

 誤解しないでほしいが、私は決して地上の聖徒たちが、いかに大きな恵みを働かせていようと、どんな点でも、自分のことを最悪に評価するはずだと云っているのではない。多くの点において、それは全く逆である。腐敗の積極的な活動という点に関しては、恵みが最大限に働いているときの彼らは、自分のことを最も自由で最も良い状態にあると思い、恵みの働きが低下すると、最悪の状態にあると思う。また彼らは、過去の時点における自分と現在の自分とを比較して、恵みが活発に働いているときには、(確かに以前は、いま自分が目にしているほど多くの悪を見てはいなかったが)自分が以前よりも良くなっていることがわかる。また、後になって彼らがその心持ちにおいて再び沈下するときには、彼らは自分が沈んだことがわかり、自分にはまだ大きな腐敗が残存していることを示す新たな根拠を手にする。また、以前に見ていたよりも大きな邪悪さがあるという筋の通った確信をいだくようになる。そして、恵みが活発に働いていたときよりも、はるかに大きく咎を感じ、自分の罪深さを律法的に感ずることがはるかに多くなる。だがしかし、先に述べた種々の考察からして真実であり、明々白々であること、それは、神の子どもたちが、いかなるときにもまして自分の醜さについてはっきりと感じとれる形の霊的な確信をいだき、いかなるときにもまして自分の現在の邪悪さや厭わしさについて大きな、真に迫る、卑下させられるような感覚をいだくのは、彼らに真の恵みが最も活発に働いているときにほかならない。また、いかなるときにもましてそうしたときに彼らは、自分のことをキリスト者の間で劣った者とみなすようになる。そしてこのようにして、天の御国で一番偉い人、すなわち、キリストの教会の中で最もずば抜けた人とは、彼らの間において最年少の子どものように自分を低くする者なのである(マタ18:4)。

 真の聖徒は、自分にも多少は真の恵みがあることを知っているかもしれない。また先に述べて証明したように、恵みを持てば持つほど、それはよりたやすく知られるものである。だがしかし、だからといって、あるずば抜けた聖徒が、他人と自分をくらべたときに自分がずば抜けた聖徒であることを、たやすく感じとれることにはならない。----私はそれがありえないとは云わない。多くの恵みを有している人、またずば抜けた聖徒である人が、そのことを知ることはないわけではない。しかしその人が、それを知ることは困難であろう。それはその人にとってあからさまに明らかではないであろう。自分が他の人々よりもすぐれていることや、より高い体験や境地に達しているなどということは、その人に第一に浮かぶ考えではなく、簡単に立ち現われるものでもない。それは、その人が自然に思いつくことではなく、彼の視野から遠く離れている。その人がそう確信するには苦労がなくてはならない。その人が自分にそれを確信させるには、理性を縦横に働かせ、非常に厳密で念の入った議論を展開させなくてはならないであろう。また、たとえその人が、どこか他の聖徒たちの一見して如実に低い程度の恵みと、自分自身の種々の体験を比較の上できわめて厳格に考察することにより、自分が彼らよりも多くの恵みを持っていることは筋が通っていると確信したとしても、それはその人にはほとんど本当のこととは思えないであろう。その人は、さんざん苦労したあげく手に入れたその確信を、あっさり手放すことさえたやすくしてしまうであろうし、その人にとってそうした想定に立って行動することなど全くもって不自然なことと思われるであろう。それで、次のように規定することは無謬の真理であると云えるであろう。すなわち、自分が他者と比較して非常にずば抜けた聖徒であり、キリスト者的体験においてひときわ傑出した者であるとすぐに考えるような者、またそうした考えが真っ先に思い浮かび、ひとりでにそのような考えをいだいたり、自然と思いつくような者は、確実に思い違いをしており、決してずば抜けた聖徒などではなく、高慢な、また自分を義とする精神のとりことなっているのである。そして、もしそれがその人にとって常習的なことであって、その人の精神から去ることのない不断の気質であるとしたら、その人は絶対に聖徒などではない。その人は、真のキリスト者的な体験をこれっぽっちも有していない。それは神の言葉が真実であるのと同じくらい確実である。

 人が、何らかの体験によってこうした思いに立ち至り、このような効果----すなわち、そうした体験のことで非常に大きなうぬぼれをいだかせ、思いを高ぶらせるような効果----を及ぼされていると思われる場合、それがむなしく、迷妄の体験であることは確実である。そうした、いわゆる悟りとされるものによって、ひとりでにその人が、自分の素晴らしい悟りに感嘆して慢心し、自分はいまや他のほとんどのキリスト者たちよりも多くのことを目にし、知っているのだといううぬぼれでそっくり返っているとしたら、そうした悟りには、真の霊的な光の性質を帯びたものが何1つない。真の霊的知識はいかなるものであれ、知れば知るほど、人に自分の無知を痛感させるような性質をしているものである。「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです」(Iコリ8:2)。アグルは、神について偉大な悟りを得、そのご栄光とその驚倒すべきみわざとの素晴らしい高みに達したとき、神の偉大さとはかり知りがたさを認めて、それと同時に、自分の愚劣きわまりない無知を痛感した。彼は自分のことを、あらゆる聖徒の中で最も愚かであるとみなした。「確かに、私は人間の中でも最も愚かで、私には人間の悟りがない。私はまだ知恵も学ばず、聖なる方の知識も知らない。だれが天に上り、また降りて来ただろうか。だれが風をたなごころに集めただろうか。だれが水を衣のうちに包んだだろうか。だれが地のすべての限界を堅く定めただろうか。その名は何か、その子の名は何か。あなたは確かに知っているのか」*(箴30:2、3、4)。

 自分の霊的な知識に大いにうぬぼれている人について何か云えることがあるとしたら、それは、その人が自分を知恵ある者と思うということである。そしてそれゆえ、それはこの禁止命令に該当するのである。「自分を知恵のある者と思うな」(箴3:7)。「自分こそ知者だなどと思ってはいけません」(ロマ12:16)。またそれには、このような災いが予告されているのである。「ああ。おのれを知恵ある者とみなし、おのれを、悟りがある者と見せかける者たち」(イザ5:21)。このように知恵のある者たちは、この世でいかなる良いものを得られる見込みも最も少ない者どもに属している。経験からもそのことが真実であることは示されている。「自分を知恵のある者と思っている人を見ただろう。彼よりも、愚かな者のほうが、まだ望みがある」(箴26:12)。

 これに対して、ある人々は反論するかもしれない。詩篇作者は、聖い心持ちをしていたに違いないと目されるときにも、自分の知識について、それをずば抜けて大いなるものであり、他の聖徒たちよりもはるかに大きなものであると語っているではないか、と。「私は私のすべての師よりも悟りがあります。それはあなたのさとしが私の思いだからです。私は老人よりもわきまえがあります。それは、私があなたの戒めを守っているからです」(詩119:99、100)。これに対して私は2つの答えをしたい。

 (1.) 直接霊感を受けて語るか書き記すかしている預言者に、神の御霊がいかなる内容を神の教会の益のため啓示すべきかについて、私たちはいかなる抑制も課すべきではない。神の御霊が、他の人々に対して宣言させるために、そうした者に啓示したり、書きとらせたりすることの中には、隠された事がらがある。そこには、御霊の働きを受けない者が、自分ひとりでは見いだしがたいこと、しかり、見いだせないことがある。神の御霊は、その者に種々の奥義----すなわち、彼の理性を越えているであろう事がら----を啓示したり、彼に見えない遠くの場所にある事がらを啓示したり、超常的に啓示されなければ決して知ることも宣言することも不可能であったであろう未来の出来事を啓示したりすることがありえるのと同じく、ダビデが神のさとしに大いに親しむことによって受けた、この傑出した恩恵を彼に啓示することもおできになったのである。また、他の者たちの益となるように、ダビデをご自分の器としてそのことを記録させ、彼らをして同じような義務へとかり立て、知識を得るための同じ手段を用いるようにかり立てることもおできになったのである。神の御霊の超常的な影響のもとにあったダビデが、自分の傑出した知識について何と宣言していようと、そこからは何事も、神の御霊の通常の恵みによる影響の自然な傾向に関して推測することができない。ここで御霊は、神の教会の益となるはずのことを、みこころのままに直接ダビデに書き取らせておられるのである。もしそのような推測が許されるとしたら、霊感のもとにあったダビデがしばしば、この上もなくすさまじい災いを他の人々にふりかかるように祈り求めているからといって、恵みには人をしてそうした災いが他の人々の身に起こるように願わせる自然な傾向があるなどと論ずることも筋の通ったこととなってしまうであろう。

 (2.) 果たしてここでダビデが語っている知識が、霊的な知識----聖さの根本的な特質となる知識----であるかどうかは定かではない。しかしそれは、神が彼に対して示した、メシヤとその未来の王国についての、より大いなる啓示であるかもしれない。神のさとしを守っていた報いとして、彼には、他の人々にはるかにまさる明確で詳細な知識が、福音の奥義と教えについて与えられたということかもしれない。詩篇を読めば明らかにように、この点についてダビデは、彼以前の時代に生きていたいかなる人々をもはるかに凌駕していた。

 第二に、霊的高慢を示すもう1つの絶対確実なしるしは、人が自分の謙遜を高く評価しがちになることである。概してまがいものの体験には偽りの謙遜が伴う。そして、偽りの謙遜の究極の性質は、自らについて大得意になることである。人は普通、まがいものでしかない種々の信仰的な感情をいだくとき----特にそうした感情を大きく高ぶらせたとき----、自分は大きな謙遜をいだいていると考え、その結果、この点で自分は大いなる境地に達したと満足し、それを高く評価するものである。しかし、ずば抜けた恵みによる種々の感情には、(云わずにはおれないことだが)、常にそれとは正反対の傾向があり、いかなる場合にも正反対の効果がある。実際そうした感情の持ち主は、自分が深くへりくだるべきであることを非常にはっきり感じとり、そうしたへりくだりを求めて熱心に飢え渇くようになるが、自分の現在の謙遜のことは、あるいは自分がすでに達している境地のことは、ちっぽけなものとみなすものである。また、自分に残存する高慢を、大きなもの、この上もなく忌まわしいものとみなすものである。

 高慢な人がなぜ自分の謙遜を大きなものと考えがちになり、非常にへりくだった人がなぜ自分の謙遜を小さなものと考えがちになるかは、次のようなことを考察すれば、容易に見てとれるであろう。すなわち、人は、自分自身のへりくだりの度合いを判断するとき、自然と、自分の正当な高さと思いみなすもの、あるいは、自分が正当に有する尊厳と思いみなすものによって、それを測るのである。それで、ある人にとっては何のへりくだりでもないことが、別の人にとっては大きなへりくだりであることがありえる。なぜなら、それぞれの人が正当に有する栄誉や貫禄の度合いは千差万別だからである。ある大人物が身を屈めて、自分と同格の別の大人物の靴紐を解いたり、その足を洗ったりするとしたら、それは彼が自分を卑下して行なった行為と考えられるであろうし、彼も自分自身の尊厳をはっきり自覚しているだけに、自分でもそのようなものとみなすであろう。しかしもし、ある貧しい奴隷が身を屈めてどこかの偉大な君主の靴紐を解いている姿が見られたとしても、だれもこれを彼が行なったへりくだりの行為であるとか、何か大きな謙遜の度合いを示す証しなどと考えはしないであろう。また、その奴隷本人も、それをそのようなものとみなすとしたら、それは彼が、ぞっとするほど高慢で、ばかげているほどうぬぼれきっていた場合に限られるであろう。そしてもし、その奴隷がそのように行なった後で、その口ぶりや態度において、その行為における自分の卑下を、大いなるものと考えていることを示したり、自分が非常にへりくだっていることの証拠であるとして、何度となく思い巡らすとしたなら、だれしも大声で云い立てるに違いない。「自分を何様だと思っているのだ? この程度のことを深い謙遜の目印と考えるなどとは」、と。ここから決定的に明白なのは、この奴隷は、はなはだしい高慢と虚栄心でふくれあがっており、私は自分をひとかどの者だと思っている、とあからさまに口にしているも同然だということである。だが、それと負けず劣らずあからさまで確実なことは、地を這いずる、ちっぽけで、汚らわしく、おぞましい地虫どもが、神の前における自分の卑下の行為をそのようなものと思いみなし、これほど自らを卑しく無価値であると認める自分は、また、これほど自ら劣等な者であるかのようにふるまっている自分は、何と大きな謙遜を有していることか、などと考える場合である。そうした外的な行為や内的な働きが、なぜそうした人にとっては大いなる卑下に見えるかというと、その究極の理由は、その人がとんでもないうぬぼれを有しているためにほかならない。もし彼が、自分のことをもっと正しく考えていたとしたら、そうした事がらは彼にとって何とも思われず、そうしたものによる彼の謙遜は、何の顧慮にも値しないと思えるであろう。むしろ彼は、これほど無限に下劣で汚らわしい者が、神の御前でこれしか身を屈そうとしないという、自分の高慢に驚倒するであろう。彼が内心、「これは偉大なへりくだりの行為だ。私がこのように感じ、このように行なっているというのは、確かに私のうちに大きな謙遜があるというしるしに違いない」、と云うようなとき、それは、「私のように重要で偉い人間が、このようにするのは途方もない謙遜なのだ」、という意味なのである。彼は自分が今いかに身を屈しているかを考え、それを、自分が本来有する尊厳と思いみなすものの高さとくらべては、その隔たりを非常に大きなものと見るのである。それを彼は謙遜と呼び、そのようなものとして高く評価するのである。ところが真にへりくだった人、また神の前における自分の汚らわしさ、おぞましさを本当に見てとっている人の場合、その隔たりは全く逆に見える。その人が最も低く身を屈しているとき、それはその人にとっては、自分本来の立場よりも低くなったようには見えず、とてもそこまで達してはいないように見える。その人には、それでもまだ途方もなく高すぎるように見える。その人はもっと身を屈めて、そこまで達したいと願うが、そこから非常に隔たっているように見える。そしてこの隔たりをその人は高慢と呼ぶのである。それゆえその人にとっては、自分の謙遜ではなく、自分の高慢こそ大きなものと見えるのである。というのも、確かにその人は、常日頃の自分よりは大いに身を屈しているが、それでもその人にとってそれはへりだりの名に値しないように思えるのである。これほど無限に卑しく下劣な者が、常日頃より低いとはいっても、自分の正当な立場よりも途方もなく高い立場まで身を屈めたからといって、全くへりくだりとは思えないのである。かつては国王のふりをしていた下卑た奴隷が、心をはるかに低めて、貴族の立場をとるようになったとしても、それが謙遜の名に値すると思うような人はまずいないであろう。奴隷本来の身分からすれば、これでもはるかに高すぎるからである。

 いかなる人も、自分自身の謙遜の度合いを判断する際には、また他の人々が示した何らかの行為における、その謙遜の度合いを判断する際には、2つの事がらを考察する。すなわち、彼らが本来有している真の尊厳の度合いと、そうした真の尊厳をどこまで卑下させたかという度合いである。このようにして、ある人においては大いなる謙遜の証拠となりえるものが、別の人においてはほとんど、あるいは全く謙遜の証拠にならない。しかし真にへりくだったキリスト者たちは、自分自身の真の尊厳について非常に卑しい評価しかしていないため、それと比較してみれば、その尊厳をいかに卑下させようと、彼らには非常に小さく見えるのである。自分のように貧しく、汚らわしく、卑しむべき生き物が、神の御足の下にひれ伏すとしても、それは彼らにとって何ら大きな謙遜には見えないのである。

 謙遜の度合いは、卑下の度合い、および卑下すべき理由の度合いによって判断されるべきである。しかし、真にまたずば抜けてへりくだった人は、決して自分の謙遜を大いなるものとは考えない。その人が卑下すべき理由は非常に大きく、その人が卑下させた心持ちが非常に物足りないため、その人は自分の謙遜よりも、はるかに自分の高慢の方が目立って見えるのである。

 罪の確信のもとにある魂のことを知悉している人ならだれでも知っているように、そうした人は、自分の罪の確信が大いなるものであるなどとは考えたがらない。その理由は、人が自分の罪の確信の度合いを、2つの事がらを合わせ考えることによって判断するからである。すなわち、自分が咎と汚れについて感ずる感覚の度合いと、自分の真の罪深さの度合いによってそうした感覚をいだくべき理由の度合いである。一部の人々は、自分をこの世のほとんどの人々よりも罪深いと考えるが、だからといってそれが、罪の確信として大きなものであるという議論には実は全くならない。なぜなら、彼らがその通りの者であることは、だれしも知るように実際、非常にあからさまだからである。そうしたことをはっきり感じとれないとしたら、その人はまさに非常に盲目であるに違いない。しかし真に大いなる罪の確信のもとにある人は自然と、自分には他の人々にまさって大きな、咎と汚れをはっきり感じとらなくてはならない理由があると考えるものである。それゆえその人は、自分がこのことをはっきり感じとれる理由を、自分の罪の大きさにあるとし、自分の感受性の大きさにあるとはしない。罪の大きな確信のもとにある人は、自然と、自分を罪人の中でも最大の者であると考える。罪の大きな確信のもとにある人とは、まさに自分の罪に比例して大きな確信をいだく者にほかならない。しかし、真に罪の大きな確信のもとにある人は、例外なく、自分の罪の確信が自分の罪に比例して大きなものであるとは考えない。もしそう考えるとしたら、それはその人が、内心では自分のもろもろの罪を小さなものであると考えているという確実なしるしだからである。ちなみに、これこそ人々がへりくだりのみわざのもとにあるとき、その時点では、それを感じることがない主たる理由なのである。

 また罪の確信だけでなく、人々が自分の卑しさと汚らわしさについていだく確信についても、ここから同じようなことが類推される。人が自分の盲目さや無能力さについて、またキリスト者として福音的なへりくだりを働かす際に自分を人より劣ったものと感ずるすべての感覚についていだく確信についても、同じことが云えるのである。それで、これをつきつめていくと、聖徒たちは決して、自分の卑しさ、不潔さ、無能力さなどについて自分が感ずる感覚のことを、大きなものと考える気持ちにはならない。なぜならそれは、そう感ずべき理由のことを考えるとき、決して大いなるものとは見えないからである。

 ずば抜けた聖徒は、いかなることにおいても、自分がずば抜けているなどと簡単には考えない。いかなる恵みや体験を有していようと、それは人より小さなものに見える。特に自分の謙遜はそうである。キリスト者体験と真の敬虔に属するいかなるものも、これほど彼の目につかないものはない。彼は自分の謙遜を見分ける千倍も早く、自分の高慢を目ざとく見つける。それとは逆に、霊的高慢に支配され、欺かれている偽善者は、何にもまして自分の高慢には盲目であり、うわべだけの謙遜には何にもまして目ざとい。

 へりくだったキリスト者は、他の人々の高慢よりも、自分の高慢の方をはるかにたやすく見つける。彼は他人の言動を、いくらでも好意的に解釈することができ、いかなる人も自分ほど高慢であるとは考えない。しかし、高慢な偽善者は、この点で自分の兄弟の目の中のちりを見つけるのは早いのに、自分の目の中の梁はまるで目につかない。彼はやたらと他人の高慢について叫び立て、その身なりや生き方に目くじらを立て、自分自身の心のあらゆる不潔さについてそうする十倍も激しく、隣人の指輪や飾りひものことについていきりたつ。

 こうした偽善者たちの、自分の謙遜を高く評価しがちな性向から起こってくるのが、偽りの謙遜がやっきになって自らをひけらかそうとする態度である。そうした偽物の謙遜を有する人々は、自分のへりくだりについて大いに語りたがり、自分のへりくだりを美辞麗句で述べ立て、わざとらしい顔つきや、仕草や、口ぶりや、身なりの粗末さや、何かわざとらしい奇抜な様子によって、いかに自分が謙遜であるかを大いに誇示する。古のにせ預言者たちがそうであったし(ゼカ13:4)、偽善的なユダヤ人たちがそうであったし(イザ57:5)、キリストが語っておられるパリサイ人がそうであった(マタ6:16)。しかし真の謙遜はそれとは全く逆である。それを有する人々は、自分がいかに謙遜であるかを滔々と述べ立てたがりはしないし、自分の卑下の度合いについても雄弁に語りたがろうとはしない*7。それは、身なりの面でも、生き方の面でも、何ら奇をてらった粗末さをよそおって、おのれをひけらかそうとはしない。マタ6:17で言外に意図されていることに沿ってふるまう。「しかし、あなたが断食するときには、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい」。「そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えます」(コロ2:23)。また、真の謙遜は、騒々しいものでもない。それは、けたたましくも、騒がしくもない。聖書はそれを逆の性質を帯びたものであると表現している。アハブは、目に見えて謙遜になり、真の謙遜に似たものを身に帯びたときには、打ちしおれて歩いた(I列21:27)。真のへりくだりを働かせている悔悟者は、静かで、沈黙する者として描かれている。「それを負わされたなら、ひとり黙ってすわっているがよい」(哀3:28)。また、沈黙は謙遜に伴うものとされている。「もし、あなたが高ぶって、愚かなことをしたり、たくらんだりしたら、手を口に当てよ」(箴30:32)。

 このようにして私は、種々の聖い感情に伴う真の謙遜がいかなる性質のものであるかを十分つまびらかに示してきた。真の謙遜によって人が、キリスト教信仰において自分の達した境地、特に謙遜において達した境地を、他人の達した境地とくらべて、卑しいものと思いがちになることは明らかである。また私は、霊的高慢にはそれと正反対の傾向があることを示してきた。それによって人々は、こうした点で自分の達した境地を大きなものと考えがちになる。私がこうした事がらをやや長めに強調してきたのは、それが非常に重要な問題であると考えるからである。ここには、真の謙遜と、まがいものの謙遜との確かな区別が明らかにされている。また、こうした偽善者たちの性向----すなわち、自分を他人よりもましな者とみなす性向----は、神が憎悪すると宣言なさっておられるものである。これらは、神の鼻にとっては煙、一日中燃え続ける火である*(イザ65:5)。かの聖都(と呼ばれた)エルサレムの住民たちの高慢さの証しとして言及されているのは、彼らが自分たちをソドムの人々よりもはるかにすぐれていると評価していたことであった。「あなたは、高ぶっていたときには、あなたの妹ソドムを悪いうわさの種にしていたではないか」(エゼ16:56)。

 読者は決して、こうした事がらをあっさり読み流し、自分について当てはめて考えずに済ませるようなことをしてはならない。私は読者に云いたい。もしあなたも、だれかが自分を他人よりすぐれた聖徒であると考えたがるのは悪いしるしだと思うのであれば、あなた自身について割り引いて考えるような、盲目的偏見がそこに生じていないように用心するがいい。おそらく徹底的に厳密な自己吟味を行なわない限り、あなたがそうなっているかどうかはっきりさせることはできまい。もしあなたが、私には、自分ほど悪い人間はいないように思える、と結論するのだとしたら、決してそれで話を終わらせてはならない。もう一度自分を吟味し、まさにその点において----すなわち、自分で自分をそれほど卑しく考えていると思うがゆえに----、あなたは他人よりも自分をすぐれていると考えていないかどうか、見きわめてみるがいい。あなたはこの謙遜のことを高く評価しているのではなかろうか? もしあなたの答えが、いや、私は自分の謙遜のことを高く評価などしていない。私は自分が悪魔と同じくらい高慢に思われる、というものであるとしたら、もう一度吟味してみるがいい。果たして、そうした隠れ蓑の下からうぬぼれが立ち現われていないかどうか、果たして、まさにこの理由----すなわち、あなたが自分を悪魔と同じくらい高慢だと考えていること----のゆえに、あなたは自分を非常にへりくだっていると考えているのではなかろうか、と。

 このように真の謙遜を持つ人と、偽りの謙遜を持つ主は、著しく対立した自己評価を行なうものである。そして、これにより彼らは、やはり際立って異なった気質とふるまいを有するようになる。真にへりくだった人は、自分の義と聖さについて非常に卑しい評価しかしていないため、心が貧しい。心が貧しいという人は、自分のうちにあるものについて自ら感じとり察知するところが貧しく、それに応じた心持ちをしているはずだからである。それゆえ真にへりくだった人、特にずば抜けてへりくだった人は、自然と多くの点において貧しい人としてふるまうようになる。貧しい者は哀願するが、富む者は荒々しく答える[箴18:23]。貧しい人は、富んだ人々の間にあるときには、たやすく激昂したりしない。彼は常に人に譲歩したがる。他者の方が自分よりも上にあると知っているからである。また彼は威張ったり、依怙地になったりしない。彼はつらい目に遭わされても忍耐強く、人から軽蔑されることを当然と考え、それを耐え忍ぶ。人から見下されても、ほとんど見向きもされなくても、それを憎悪すべきこととは思わない。むしろ初めから下座に着こうとしている。自分から進んで長上者に栄誉を帰し、叱責を黙って受け入れる。彼はたやすく教えに屈し、自分の理解力や判断力をたいしたものだと云い立てたりしない。彼は自分の好き嫌いにこだわったり、気難しいことを云ったりせず、自己主張せずに、いやな事を受け入れる。おこがましいことをせず、横柄な態度をとりたがらず、むしろ自然に他者に従うことができる。へりくだったキリスト者もそれと全く同じである。謙遜は(かの偉大なるマストリヒトが云い表わしているように)、一種の聖なる小心さである。非常に貧しい人といえば乞食である。心の貧しい人もそれと変わらない。これこそ、恵みによる種々の感情と、まがいものの感情との間にある大きな隔たりを特徴づけるものである。前者をいだく人は、たとえ神の門前に立っていようとまだ貧しい乞食のままであり続け、無一物で貧窮している。しかし後者をいだく人は、自分を富んだ者、豊富に物を持っている者、さほど困窮してはいない者であると思い込んでいる。彼らは、自分には生きる糧として、莫大な貯えがあると自分では想像しているのである*8

 貧しい人は、その語る言葉やふるまいにおいて慎み深い。だが心の貧しい人は、それよりもはるかにまさって、確実に、例外なく、へりくだった、慎み深いふるまいを人々の間で行なうものである。いくら自分はへりくだっているとか、神の御前で幼子のようであると触れ込んでいても、その実、人々の間では傲慢で、おこがましく、生意気にふるまっているとしたら、無駄なことである。使徒が私たちに教えるところ、福音の目的は、神の御前ばかりでなく、人々の前でも、決して人を誇らせないようにすることである(ロマ4:1、2)。一部の人々は自分が大いにへりくだっていると触れ込みながら、その実、非常に傲慢で、不遜で、おこがましい態度とふるまいをしている。彼らはこの聖句を考えなくてはならない。「主よ。私の心は誇らず、私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや、奇しいことに、私は深入りしません」(詩131:1)。「主の憎むものが六つある。いや、主ご自身の忌みきらうものが七つある。高ぶる目、」云々(箴6:16、17)。また、「高ぶる目とおごる心……は罪である」(21:4)。「あなたは、……高ぶる目は低くされます」(詩18:27)。また、「高ぶる目と誇る心の者に、私は耐えられません」(詩101:5)。「愛は自慢せず、高慢になりません」(Iコリ13:4)。確かに世には、キリスト者が人々の間において身につけるべき、慕わしい慎ましさと恐れがある。それは謙遜から生じてくるものであって、それについて聖書はしばしば語っている。「説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。ただし、優しく、慎み恐れて、……弁明しなさい」(Iペテ3:15-16)。「恐れなければならない人を恐れ……なさい」(ロマ13:7)。「彼は、あなたがたがみなよく言うことを聞き、恐れおののいて、自分を迎えてくれたことを思い出して……います」(IIコリ7:15)。「奴隷たちよ。あなたがたは、……恐れおののいて……地上の主人に従いなさい」(エペ6:5)。「しもべたちよ。尊敬の心を込めて[あらゆる恐れをもって <英欽定訳>]主人に服従しなさい」(Iペテ2:18)。「それは、あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです」(Iペテ3:2)。「女も、つつましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り……なさい」(Iテモ2:9)。こうした点でキリスト者は幼子のようである。幼子は人々の前で慎ましくするものであり、人々の間で恐れと畏怖にとらわれている。

 それと同じ精神によってキリスト者はすべての人々を敬うものである。「すべての人を敬いなさい」(Iペテ2:17)。へりくだったキリスト者は、そのふるまいにおいて、単に聖徒を敬っているだけでなく、それ以外の人々をも、いかなる素行の人々であろうと----それが目に見えて罪を是認するようなものでない限り----、敬う気持ちがあるものである。たとえば、信仰者の偉大な模範であるアブラハムはヘテ人たちを敬っていた。「アブラハムは、その土地の人々におじぎをし……た」(創23:11、12)。これは、非難されるべき人々に対する、際立ってへりくだったふるまいの実例であった。彼らに非難されるべき点がることはアブラハムも承知していた。そのためにこそ彼は、決して息子の妻を彼らの間から連れてくることを自分のしもべに許さなかったのである。またそのためにこそ、ヘテ人であったエサウの妻たちは、イサクとリベカにとって悩みの種となったのである。それと同じくパウロはフェストを敬った。「フェスト閣下」(使26:25)。キリスト者的な謙遜によって人々は、目に見える教会内の悪人たちを敬うだけでなく、にせ兄弟や迫害者たちをも敬う気持ちになるものである。ヤコブは、----夜通し神と格闘し、祝福を受けとった後で----この上もなくすぐれた心持ちになっていたとき、自分のまがいものの、また迫害する兄弟を敬った。「ヤコブは、兄エサウに近づくまで、七回も地に伏しておじぎをした」*(創33:3)。また彼はエサウを[新改訳では「あなた」]と呼び、自分の全家にも同じようにエサウを敬うように命じた。

 このようにして私は、真に恵みによる謙遜によって支配された人が、いかなる心とふるまいと有するかを、できる限り正確に、聖書に沿った形で叙述しようと努めてきた。さて、このような心からこそ、種々の真に聖い感情がすべて流れ出てくるのである。キリスト者の種々の感情は、キリストの頭に注がれ、家中をかぐわしい香りで満たしたマリヤの高価な香油と同じである。それ石膏のつぼから注ぎ出された。そのように、恵みによる種々の感情はきよい心からキリストへと流れ出る。それはつぼを割って注ぎ出された(つぼが割られなければ、香油は流れることができず、その香りをふりまくことができなかった)。そのように、恵みによる種々の感情は砕かれた心から流れ出る。恵みによる種々の感情は、マグダラのマリヤのいだいていた感情にも似ている(ルカ7章末尾)。彼女も同じようにして、高価な香油を石膏のつぼからキリストに注ぎ、自分の涙でぬらし、自分の髪の毛でぬぐった御足にその香油を塗った。キリストにとってかぐわしい香りであり、キリスト者の魂を天的なかぐわしさと芳香で満たすような、恵みによる種々の感情もみな、砕かれた心の感情である。真にキリスト者的な愛は、神に対するものであれ人に対するものであれ、へりくだった、心砕かれた愛である。聖徒たちの願望は、どれほど熱心なものであっても、へりくだった願望である。彼らの希望は、へりくだった希望である。そして彼らの喜びは、たとえそれがことばに尽くすことのできない、栄えに満ちたものであるときでさえ、へりくだった、心砕かれた喜びであって、そのキリスト者をより心の貧しい者とし、より幼子のようにし、よりあらゆる面でへりくだったふるまいへと心を向かわせるものなのである。

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*1 カルヴァンは、その『キリスト教綱要』第II篇2章11節でこう云っている。「わたしは、いつも、クリュソストモスのことばを非常に好んでいる。それは『われわれの哲学の基礎はへりくだりにある』(『福音の完全さについての説教』)というものである。だが、アウグスティヌスのことばは、さらに好ましい。いわく、『[ギリシャの]修辞学者[デモステネス]は、「雄弁の第一の規則は何か」とたずねられたとき、「明快な発音だ」と答え、「第二は」と問われると、「明快な発音だ」と答え、「第三は」と問われると、「明快な発音だ」と答えた。そのように、もし、あなたがわたしに「キリスト教の規則は何か」とたずねられるならば、第一にへりくだり、第二にへりくだり、第三にへりくだり、と、いつもへりくだりを答えるであろう』」[新教出版社版、渡辺信夫訳、『キリスト教綱要II』、p.45]。[本文に戻る]

*2 「ピュタゴラス学派の人々は、ユダヤ風の神秘的知恵や、自然科学分野および多くの道徳的分野における業績によってこのように高名を馳せてはいたが、自慢や高慢から免れてはいなかった。実のところ、それは至る所で蔓延していた悪徳であり、いわば哲学者すべての通弊ではあったが、ピュタゴラス学派の間ではそれが特に顕著に見られたのである。ホルニウスはその『哲学史』第3巻2章でこのように述べている。ピュタゴラス学派の態度に慢心が見られないわけではなかかった。彼らはみな PEPIAUTOLOGOI(自分について吹聴する輩)であって、自分自身の優越性を意識し、自慢する思いで満ち満ちていた。その慢心ぶりは、ほとんどぶしつけで図々しいほどであると、かの偉大なハインシウスが『ホラティウスへの書簡』で正しくも述べている。このように実際、高慢な性質は自らの炎の火花の中を嬉々として歩きたがるものである。むろん、こうした古代の哲学者の多くが、彼ら自身の光と明晰な知力によって、またそれに加えて霊の高尚さや昂揚によって(ことによると御霊の----救いに至る特別な補助ではなくとも----通常の働きを上回る補助によって)、露骨な種類の悪徳の多くを捨てたことは事実だが、それでも彼らは例外なしに、この霊的高慢という惨めで呪われるべき深淵にどっぷり沈み込んでいた。それで実際、彼らのいかなる天性的で、道徳的で、哲学的な業績も、ただ彼らの心に巣くう、この地獄育ちの悪疫を喜ばせ、栄養を与え、強め、しつこく根深いものにしているだけなのである。しかり、彼らのうちでも最も慎み深く見える人々、たとえば、自分は何も知っていないと公言していたアカデメイア学派や、言葉においても習慣においても他の人々の高慢を大いにけなしていた犬儒学派でさえ、高慢で満ち満ちていたことは目に見えて周知の事実であった。人間の腐敗した性質に、これほど生来こびりついており、道徳的に切り離せないのが、霊的高慢という、この毒入りの根であり、泉であり、疫病なのである。これが特にはなはだしいのは、これを喜ばせるような、生まれながらの道徳的な、あるいは哲学的な卓越性がある場合である。こういうわけでオースティンは、こうした哲学的な美徳のすべてを華麗なる罪でしかないと判断したのである」。ゲイツの『異邦人の庭』、第2部B. ii.、第10章17節。[本文に戻る]

*3 「人からのものであれ、御使いからのものであれ、一見もっともらしくキリストを押し進めるような意見や教えを、必ずしも信用してはならない。それは福音的な偽善や欺瞞のせいかもしれない。自分を欺いている者は他人をも欺くであろう。羊のなりをしてやって来る者らに気をつけなさい*(マタ7:15)。キリストと御民の純真さ、純粋さ、柔和さを身につけているように見える者らに用心するがいい。彼らは、うちは貪欲な狼です。高慢で、冷酷で、他人のあらを探したがり、自分には理解もできないことをそしる者である。あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。愛する者よ。決してサタンが私たちの間に迷妄を送りたがっていないなどと考えてはならない。また、あなたはそうした迷妄が、でっちあげの臭気芬々たるローマカトリック教の嘘八百から出てくると考えているだろうか? 否、それはずっと福音的で、ずっと手の込んだたくらみによって、やって来るに違いないし、実際にやって来るであろう。今日、イエズス会士たちの間で守られている1つの規則によると、もしも策略で宗教を制圧できるのなら、決して宗教には反宗教で対抗してはならず、むしろその宗教そのものを逆転させよ、といわれる。それで福音には福音で対抗するわけである。そして見よ。諸教会が種々の行ないを弁護しているときには、新たな行ないが次々とひねり出され、こしらえ上げられたように、信仰が説教されているとき人々は、新たな自分たちの信仰をひねり出すであろう。私はこれを、信仰の教理が説教されている場合にも、それに反対しようとして語っているのではない。むしろ私は、そのことを喜んでいる。それは私が、信仰の形さえあれば、それで事足れりとしてほしいからではなく、ほとんど人々は、その信仰を確認されたり、証明されたりする必要があると思うからである。しかし私が語っているのは、そうした別の方面における危険を阻止しようとしてなのである」。シェパードの『例え話』、第1部、p.122。[本文に戻る]

*4 「ある人が有しているのが一般的な賜物であって、何の内的原理でもないことを明らかにする2つのことがある。I. その賜物によって、その人が高慢になり、コリント人がその知識によってそうなったように、自分もひとかどの者だと思っていること。それで多くの私人は、自分にも教役者になるだけの資格はあると考えるのである」。シェパードの『例え話』、第1部、p.181、182。[本文に戻る]

*5 カルヴァンは、その『キリスト教綱要』第III篇12章7節で、このパリサイ人について語って、こう述べている。「明らかにこの告白において、パリサイ人は自らのもつ義が神の賜物であることを認めている。にもかかわらず、かれは自ら義であると確信したがゆえに、神の御顔の前から、恵みを受けず、憎しみを受けたままさがって行ったのである」[新教出版社版、渡辺信夫訳、『キリスト教綱要III/1』、p.276]。[本文に戻る]

*6 ルターは、ラザフォードがその『霊的反キリストの現われ』p.143、144で引用した言葉によると、このように云っている。「キリスト者のいのちもそれと同じで、始めた者は自分では何も有していないように思われるが、捕えることができるようにと努力を重ね、前進する。それでパウロは、私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません、と云うのである。というのも、実際、信仰者にとって何が有害といって、この、自分がすでに捕らえただの、これ以上求める必要は何もないだのといった増上慢ほど有害なものはないからである。またそのために多くの者たちは後退し、霊的な安住と怠慢の中でやせ衰えるのである。ベルナールはそのように云っている。神の道で立ち止まることは、後ろに向かって行くことである、と。それでキリスト者であることを始めた者が引き続き行なわなくてはならないのは、自分がまだキリスト者ではないと考え、キリスト者になれるように、またパウロとともに、私はまだそうなってはいないが、そうなるように願う、すなわち、自分はまだ完成されたキリスト者ではなく、まだ初心者でしかない者であると云って、喜ぶことである。それゆえ、自分を完成したキリスト者であると考え、自分がいかに欠けの多い者であるかを感じとれない人は、キリスト者ではないのである。私たちは天国に達そうと努めてはいるが、まだ天国に着いたわけではない。忌まわしいのは、完全に更新されたという者、すなわち、自分をそのような者と考える者である。そうした者は疑いもなく、決して、更新され始めてはおらず、キリスト者となることがいかなることかを一度も味わい知っていないのである」。[本文に戻る]

*7 ジョーンズ氏が、新約正典に関するその秀逸な論文において述べているところ、福音書記者マルコ----聖ペテロの同伴者であり、この使徒の指示の下でその福音書を書き記したと推察される人物----は、師を否んだ後のペテロの悔い改めについて言及する際、他の福音書記者たちほど強い言葉を用いていない。彼は単に、こういう言葉を用いているだけである。それに思い当たったとき、彼は泣き出した(マコ14:72)。しかし、他の福音書記者たちは、このように云っている。彼は出て行って、激しく泣いた(マタ26:75; ルカ22:62)。[本文に戻る]

*8 「この霊によって人は常に、自分を貧しく、汚らわしく、空し手の者とみなす。----その人が何らかの知識を得て、きわめてたくみに話すことができるとき、また何らかの天的な賜物か、何らかの甘やかな恵みの注入を多少とも得て、その良心がきわめてよく静められたとき、またその人が自分の何らかの祈りに対する答えを得て、種々の甘やかな感情をいだく場合、その人は満ち足りる。そして自分の良心に安楽を得ているために、罪の下にある感覚を捨て、日ごとの呻きを捨ててしまう。そしてこれにより祈りの霊は死に絶えてしまう。その人は神の種々の儀式に対する尊敬心を失ってしまう。そんなものの必要を感じなくなる。あるいはそれらによって何の益も得られず、何のいのちも、何の力も感じられなくなる。これが一部の人々の悲惨な状況であるが、彼らはそれを知らない。しかし今や、御霊に満たされている人を、主はからっぽになさる。そしてそれがなされればなされるだけ、その人は長く生きる。それで、たとえ他の人々がその人には多くの恵みは必要ないと考えても、その人は自分を最も貧しい者とみなすのである」。シェパードの『十人のおとめの例え話』、第2部、p.132。
 「あらゆる満たしを受けた後でも、常にむなしく、飢えて、必要を感じ、さらに多くを祈り求めること」。前掲書、p.151。
 「まことに、兄弟たち。私は、自分の才幹や賜物や平安や慰めや能力や義務で満ち足りている多くのキリスト者たちの上に神の呪いが置かれているのを見るとき、ほんのひとにぎりほどの貧しい信仰者たちに対する主のあわれみの豊かさをただあがめるほかはない。主は彼らに何も持たせないばかりか、一生の間そのような状態に留めおかれるのである」。シェパードの『堅固な信仰者』、p.158、ボストンにおける最近刷。[本文に戻る]



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