第5節 真に恵みによる種々の感情には、天来の事物が確かな現実のものであるという確信が伴う
このことは、本論述の土台として据えた聖句で暗示されていると思われる。あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども《信じており》、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。恵みにあるすべての人には、福音で教えられている大いなる事がらが真実であるという、がっしりとした、揺るぎなく、完全な、また実際に働く確信がある。そうした人々はもはや、どっちつかずによろめいてはいない。今や福音の教える大いなる種々の教理は、疑わしい教えではなくなっている。おそらくは正しいだろうが、議論の余地がないわけではない問題などではなくなっている。彼らにとってそれは、いかなる疑問や異論も差し挟めない、すでに決着のついた、確定した問題である。それで彼らは、この真理に自分のすべてをかけることも恐れはしない。彼らの確信は実際に働く確信である。そのため、福音で教えられている、大いなる、霊的で、神秘的で、目に見えない事がらは、確かな現実の事物としての影響力を彼らの上にふるっている。それらは彼らの心の中で、現実の事物としての重みと力を有している。そして、それに応じて彼らの種々の感情を左右し、彼らが人生を歩む間、彼らを支配する。キリストが神の御子であり、世の救い主であることについて、またキリストがご自分と御父と来たるべき世に関して啓示された、大いなる事がらについて、単に彼らは、こうしたことがほぼ間違なく真実だろうという意見をいだいているのではない。それで、他のはっきりしない思弁的な問題の多くでしているように、とりあえず同意しているのではない。彼らは、それが本当に真実であることを見てとっているのである。彼らは目が開かれて、本当にイエスがキリストであり、生ける神の御子であることを見てとっているのである。またキリストが啓示なさった事がら----神の永遠の目的とご計画、人間の堕落した状態、来世で聖徒たちのために用意されている栄光ある永遠の事物----についても、真実その通りであることを見てとっているのである。それゆえこうした事がらは、彼らにとって大きな重みを持っており、彼らの心に圧倒的な力をふるい、その無限の重要性にそれなりに応じた形で、彼らの行動に影響を与えているのである。
真のキリスト者ならだれでも、こうした種類の確信を有していることは、いくらでも聖書から示すことができる。多くの箇所のうち、そのいくつかに言及してみよう。「『あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。』 シモン・ペテロが答えて言った。『あなたは、生ける神の御子キリストです。』 するとイエスは、彼に答えて言われた。『バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは……天にいますわたしの父です』」(マタ16:15-17)。「あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています」(ヨハ6:68、69)。「わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました。……いま彼らは、あなたがわたしに下さったものはみな、あなたから出ていることを知っています。それは、あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました」(ヨハ17:6-8)。「もしあなたが心底から信じるならば、よいのです」(使8:37 <新改訳欄外訳>)。「私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されています……死は私たちのうちに働き、……『私は信じた。それゆえに語った。』と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るのです。それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです」(IIコリ4:11-14)。「ですから、私たちは勇気を失いません」(16節)。「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます」、云々(18節)。また、「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています」(IIコリ5:1)。「そういうわけで、私たちはいつも心強いのです。ただし、私たちが肉体にいる間は、主から離れているということも知っています。確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています」(6-8節)。「そのために、私はこのような苦しみにも会っています。しかし、私はそれを恥とは思っていません。というのは、私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信しているからです」(IIテモ1:12)。「もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです」(ヘブ3:6)。また、ヘブ11:1の、「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」、および11章全体がそうである。「神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、今そのあかしをしています。だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています」(Iヨハ4:13-16)。「なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか」(Iヨハ5:4、5)。それゆえ、真に恵みによる種々の感情には、福音の宣言が真実であると確信し得心すること、また、そうした宣言が確かに現実のものであると見てとることが伴うのである。
多くの信仰的な感情には、こうした確信に満ちた判断が全く伴っていない。一部の人々が天来の悟りと呼ぶところの種々の察知や観念は、心を感動させるものではあっても、確信させるものではない。確かに、しばらくの間は彼らも、以前よりはキリスト教信仰が真実であると確信しているように見え、キリストのことばを聞いて一度は信じた人々のように、熱心に同意して見せるかもしれないが、彼らには決して、完全な、実際に働く確信がないのである。この点で彼らには、大きな永続的変化は全く生じていない。たとえば、以前は福音の教える大いなる事がらがまるで目にとまらなかったのに、今ではそうした事がらが、確かに現実のものとして新しく目に映り、以前とは全く違った見方で見えるというような変化は何も生じていない。多くの人々は、種々の信仰的な感情によってこの上もなく昂揚させられたあまり、自分は回心したのだと考えているが、決して以前にまして福音の真理を確信しているようには見えない。少なくともそこには、何の著しい変化も見られない。彼らは、福音が啓示する、尽きせぬ永遠の事物を、まざまざと確信するような影響や力を身に受けて生きてはいない。もし受けているとしたら、現在のような生き方はしていられないはずである。彼らの感情には完全な確信に満ちた精神が伴っていないので、彼らは全くあてにならない。いかに華々しく、けたたましいようすを見せていようと、それは燃える麻くずか、茨のはぜる音か、岩地からすぐに勢いよく生え出た芽のようなもので、根もなく、土が深くもないため、そのいのちを保つことができないのである。
心打ち震わせるような種々の感情を覚え、自分の堅固な状態を自信満々に得心している人々は、無知ゆえに、神のことばの真理を見てとったと自ら称するような体験をしているが、真実はそれとはほど遠い。彼らは、何らかの聖句が突如、異常なしかたで精神にやって来て、お前の罪が赦されているとか、神はお前を愛しているのだ、と直接宣言する(と自分で思う)のを感ずる。ことによると、そうした意味のことを語っている聖句が次から次へとやって来るかもしれない。そして彼らは、これは真理だ、と確信するのである。自分の罪は本当に赦されたのだ、神は自分を本当に愛しているのだ、とうぬぼれるのである。----彼らは、これは間違いない、と云う。そして聖書の言葉が彼らに示唆されたり、そうした意味で、神から直接の語りかけを受けたと思うと、喜び勇んで叫ぶのである。本当だ、本当だ! これは確かなことだ! 神のことばは本当だ!、と。そして、自分は「神のことばが真実であると見てとった」、と云う。だが実は彼らの信仰は、どこをとっても、自分が堅固な状態にあるのだという強い確信でしかなく、それゆえにこそ、こうした、自分が堅固な状態にあると告げてくれる(と自分では考える)言葉が真実であるに違いないと自信を持っているにすぎない。聖書は(先に示したように)、いかなる言葉によっても、ある人に向かって直接的に----すなわち、結果によって知る以外のいかなる方法によっても----その人が堅固な状態にあることを宣言してはいない。だからこれは、神のことばが真実であると見てとることではなく、幻想を見ているにすぎず、全くの迷妄なのである。神のことばの真実さを真に見てとるとは、福音の真理を見てとることである。すなわち、神のことばにふくまれている栄光ある教理----神に関する教え、イエス・キリストに関する教え、キリストによる救いの道に関する教え、またキリストがお入りになり、信ずるすべての者のために獲得なさった栄光の世界に関する教え----を見てとることである。これこれの特定の人が真のキリスト者であるとか、天国に行けるといった類の啓示を受けることではない。したがって、このような意味において神のことばを真実に得心することから生じていないような種々の確信は、真の確信ではなく、迷妄が元となっている。それゆえに、そうした感情自体、人を欺く、むなしいものなのである。
では、もし人々がいだく種々の信仰的な感情が、本当にキリスト教信仰の真理を強く得心するところから生じていたとしたらどうだろうか? それでも彼らの感情は、それが筋の通った得心や確信でない限り、何らましなものではない。筋の通った確信ということで私が意味しているのは、真の証拠に基づいた確信である。健全な理由であるところのものに基づいた確信、正当な根拠に基づいた確信である。人々は、たとえキリスト教信仰を真理であると強く得心することがあるとしても、その得心が全く証拠の上に築かれたものでなく、ただの教育の成果であるとか、他者の意見により頼んだものであることがありうる。それは、多くのイスラム教徒が、自分の親も隣人も国もイスラム教を信じているからといって、イスラム教を真理であると強く得心しているのと変わらない。イスラム教を信じているイスラム教徒がいだいているのと寸分同じ根拠の上に築かれているような、キリスト教信仰の真実さに対する信仰心は、イスラム教徒と同じ種類の信仰心である。また、信ずる対象がより良いものだからといって、その信仰心そのものがより良い種類のものであることにはならない。信じられているものがたまたま真理ではあっても、その信仰心はこの真理から生まれたものではなく、教育の成果だからである。それで、こうした確信がイスラム教徒の確信に何らまさるものでないのと同様に、そこから流れ出る種々の感情もまた、それ自体としては、イスラム教徒たちの信仰的な感情に何らまさってはいない。
しかし、かりにある人々がキリスト教の教理を信ずる信仰心が、単なる教育の成果ではなく、真実、種々の理由づけや議論から出たものであるとしても、必然的にそうした人々の種々の感情が真に恵みによるものであるということにはならないであろう。そのためには、彼らの感情を生じさせるもととなっている信仰心が筋の通ったものであるだけでなく、霊的な信仰心、あるいは霊的な確信でなくてはならないからである。だれしも疑わない事実だと思うが、生まれながらの人々の中にも、キリスト教信仰の証明として持ち出される種々の合理的な証拠や議論によって、それが真理であるという判断に、一種の同意をする者たちがいるものである。疑いもなくユダは、自分の見聞きしたことによって、イエスがメシヤであると考えた。しかし彼は、その間ずっと一個の悪魔であった。それと同じく、ヨハ2:23-25には、こう記されている。「多くの人々が、イエスの行なわれたしるしを見て、御名を信じた」。しかし彼らのうちに全くあてにできるものがなかったことをキリストは知っておられた。それと同じく魔術師シモンは、数々の奇蹟としるしが行なわれるのを見て信じたが、まだ、「苦い胆汁と不義のきずなの中にいる」者であり続けていた(使13:13、23)。そしてもし生まれながらの人々の中にそうした信仰心、あるいは判断の同意があるとしたら、疑いもなく、その同意あるいは信仰心からは、種々の信仰的な感情が生じうるであろう。それで聖書の中には、しばらくは信じていて、非常に感激させられ、みことばをすぐに喜んで受け入れる者たちのことが書かれているのである[マタ13:20; ルカ8:13]。
明らかに、世には真理を霊的に確信するということがある。霊的な者たち、新しく生まれた者たち、神の御霊を有する者たち、神の御霊の内住を受けて、御霊を自分の生きた原理としているという、聖い交わりのうちにある者たちに特有の信仰心というものがある。それゆえ、そうした人々の確信は、単に良い行ないを伴っているということだけで、生まれながらの人々がいだいている確信と異なっているのではなく、その信仰心そのものにおいても異なっているのである。その判断における同意や確信は、霊的な人々に特有の種類のものであって、生まれながらの人々には完全に欠けたものである。もし聖書の中に何か1つ明らかなことがあるとしたら、これこそそれである。「彼らは……あなたがわたしを遣わされたことを信じました」(ヨハ17:8)。「神に選ばれた人々の信仰と、敬虔にふさわしい真理の知識とのために」(テト1:1)。「あなたがたがわたしを愛し、また、わたしを神から出て来た者と信じたので、父ご自身があなたがたを愛しておられるからです」(ヨハ16:27)。「だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます」(Iヨハ4:15)。「イエスが神の御子であると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです」*(Iヨハ5:1)。「神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています」(Iヨハ5:10)。
いかなることが判断の霊的な確信であるかは、すでに前節で霊的な理解力という項目として語られたことから、おのずと導き出されるであろう。その判断の確信のもととなるのは、理性の受けた照明である。物事の正しい察知に基づいて、それらに正しい判断を下すことである。それゆえ、ここから当然わかるように、福音で教えられている偉大な事がらを霊的に確信するとは、そうした事がらを精神で霊的に察知することによって生じた確信をいだくことにほかならない。このことは聖書からも明白である。聖書はしばしば、救いに至る信仰心----福音の提示する事がらを現実の天来のものと信じる信仰心----のことを、精神を啓明する神の御霊から発したものと表現している。だからこそ、そうした事がらの性質は正しく察知されるのである。いわば御霊は、それらの覆いを取り去り、それらをはっきり現わすことによって、精神が、それらのあるがままの姿を見えるようにするのである。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、子がだれであるかは、父のほかには知る者がありません。また父がだれであるかは、子と、子が父を現わそうと心に定めた人たちのほかは、だれも知る者がありません」(ルカ10:21、22 <英欽定訳>)。「事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです」(ヨハ6:40)。ここから明らかなように、真の信仰は、キリストを霊的に見てとることから生じているのである。また、「わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました。----いま彼らは、あなたがわたしに下さったものはみな、あなたから出ていることを知っています。それは、あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました」(ヨハ17:6-8)。キリストが弟子たちに神の御名を明らかにしたとは----あるいは、彼らに天来の事物を真に察知させたとは----、それによって彼らにキリストの教えが神から出たものであることを知らせ、キリストご自身が神から遣わされたことを知らせることだったのである。「シモン・ペテロが答えて言った。『あなたは、生ける神の御子キリストです。』するとイエスは、彼に答えて言われた。『バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です』」(マタ16:16、17)。「神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています」(Iヨハ5:10)。「私は……先祖からの伝承に人一倍熱心でした。けれども、生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった方が、異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき、私はすぐに、人には相談せず」(ガラ1:14-16)。
もしそれが、福音で示されている事がらを現実にある、天性のものと信ずる霊的な確信----そうした事がらの霊的な理解から生ずる確信----だとしたら、すでに私はそれがいかなるものかを明らかにしたはずである。簡単に云うとそれは、そうした事がらが有する、天来の、えも云われぬ、聖い、この上もなくすぐれた性質と美しさに存している。ということは、福音の教える偉大な事がらが天来の真理であると霊的に確信した精神においては、そこに示されている天来のいとすぐれた性質と栄光とを直接的に、あるいは間接的に感じとるか、見てとることから、そうした確信が生じているのである。これは、すでに語られたことから当然云えることである。聖書はそのことをきわめて平易に、また明確に語っている。「それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々のばあいに、おおいが掛かっているのです。そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです。『光が、やみの中から輝き出よ。』と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです」(IIコリ4:3-6)この箇所の前置きとなっている、前章最後の節も合わせ読まれたい。「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を目に映しながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」[3:18 <英欽定訳>]。ここから何にもまして明々白々なように、使徒はここで、福音を信ずる、救いに至る信仰心を生じさせるのは、福音が示す事がらの天来の栄光を目に映せるように啓明された精神であると語っているのである。さて、福音で私たちに示されている事がらの天来の栄光と無比の美しさとを、このように見てとること、あるいは感じとることによって、精神は、自ずからそれらが天来のものであることを2通りのしかたで確信するようになる。第一には、直接的に確信するようになり、第二には、それよりも間接的な、また遠回しなしかたで確信するようになる。
I. この天来の栄光を見てとることによって精神は、こうした事がらが天来のものであることを直接的に確信する。この栄光は、それ自体が、直接的で、明確な、すべてを打ち従える証拠だからである。特に、この栄光が明確に悟られたときや、この超自然的な感覚が豊かに与えられたときがそうである。
このように、自分の判断を、直接的に確信させられ、確証された人----福音の種々の真理が天来のものであることを、それらの天来の光を明確に見てとることによって確信した人々----には、筋の通った確信がある。その人の確証は全く理にかなったものである。なぜなら天来の事物の天来の栄光と美しさは、それ自体、それらが天来のものであるという、現実の一証拠であり、何にもまして直接的で強い証拠だからである。天から出た事物の、天来の、超越的な、えも云われぬ栄光を真に見てとる人は、それらが天来のものであることを、いわば直覚的に知るのである。それらが天来のものであることを、ただ単に論ずるだけでなく、見てとるのである。それらの中に、天から出たものの主たる特質を見てとるのである。人が造った物や、その他のもののあらゆる栄光とは、途方もなくかけ離れた、云いつくせぬほど異なっているこの栄光にこそ、天来の事物が真に天来の事物たるゆえんがあるからである。神が神であり、他のあらゆる存在と異なっており、それらをはるかに越えて高みにあるお方であられる主たる理由は、その天来の美しさ----他のあらゆる美しさとは無限に異なる美しさ----である。それゆえ、天来の事物のうちにこの栄光の刻印を見てとる人々は、それらのうちに天から出た性質を見てとるのである。神を見てとるのである。そして、それらが天来のものであることを見てとるのである。なぜならその人々は、神がこの上もなく真実に神たるゆえんを、まさにそれらのうちに見てとるからである。このようにして、ある人は、福音で示された事がらが天から出たものであることを、一種直覚的に知ることができるのである。むろん、何の議論も推論もなしに福音の種々の教えが神から出ていると判断するわけではない。だがそこには、くだくだしい議論をいくつも重ねる必要は何もない。その議論は1つあればよく、その証拠は直接的なものである。その精神は、たった1つの段階を踏むだけで福音が真実であると了解する。そしてその段階とは、その天来の栄光なのである。
もしも信仰を告白するキリスト者の中に、そのようなことはありえないと云うような者がいたなら、それは非常に奇異なことであろう。天来の事物にこの上もなくすぐれた性質があることと、また、それが他のすべてを超越し、他の何にふくまれているものとも極めて異なっていることとを認めるなら、それを見てとった者が、たちどころにそれを明白に見分けるに違いないことも、当然認められるはずである。理にかなった考え方をする限り、天から出た事物----至高の実在なるお方に属している事物----が、人間から出た事物と途方もなく異なっていることに疑問の余地はない。それらの中には、神に似た、気高く、栄えある、この上もなくすぐれた性質がある。それは、人間から出た事物とはあまりにも異なっており、その差異は言語に絶するものである。それゆえ、もしそれが見てとられたなら、いかなる人も、それらの正体、すなわち、それらが天来のものであることを、何にもまして確信し、満足することができるのである。疑いもなく、天の神がお持ちの栄光と、そのこの上もなくすぐれたご性質とは、他のあらゆる存在からこのお方を無限に異ならせているものであって、それらが見てとられるや否や、このお方であることがわかる。ということは、神が神であることをまぎれもなく示すこのいとすぐれたご性質を、神がご自分を啓示するためにお定めになった事物のうちに現わすことができないとか、そうした事物の中にこのまぎれもないすぐれたご性質を明確に見てとることができない、などと云うのは、全く筋の通らない話であろう。世には、だれが見ても一目瞭然に、事の主体あるいは創始者をはっきりわからせるような、天性のいとすぐれた性質というものがある。知的な人物の弁舌は、幼子のおしゃべりといかに途方もなく異なっていることか! また、ホメーロスや、キケロや、ミルトンや、ロックや、アディソンその他の、非凡な天稟の持ち主たちの弁舌は、凡百の知的な人々のそれと、何と際立って異なっていることか! そうした弁舌に見られる、すぐれた精神性の現われには、いかなる程度においても限りがない。しかし、神の種々の天性的な完全さが、神がご自分を啓示しておられる種々の現われのうちに示されている姿は、疑いもなく、地虫同士が優劣を示しあっている姿などをはるかに越えて、名状しがたいほど明白に際立ったものであろう。人間を、また人間の手のわざをよく知っている者ならだれでも、太陽を目にするとき、それが決して人間の手のわざではないことがわかるはずである。また、キリストが世の終わりに、御父の栄光に包まれてやって来られるとき、その姿は言語を絶した天来の輝きを放っていて、当然、地の住民たちは----その最も頑迷な不信者たちでさえ----、そこに現われたお方が天から来た人物であることについていかなる疑問もいだかないであろうと考えるべきである。しかし何にもまして、天の神の道徳的かつ霊的な栄光(すなわち、天来の性質に固有の美しさ)の現われには、自らが何物かを示す証拠が伴っており、心に確証を与えることになるのである。このようにして弟子たちは、イエスが神の御子である確証を受けた。なぜなら彼らは、「この方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」からである(ヨハ1:14)。キリストが弟子たちの前で、変貌した姿を見せて、彼らの肉眼に外的な栄光----すなわち、霊的栄光の甘やかで、見事な象徴、また似姿たるもの----を現わすと同時に、彼らの精神にその霊的な栄光そのものを現わされたとき、そうした現われは、完璧に、また確たる理由をもって、彼らに彼の神性の確証を与えるほどのものであった。それは、彼らのうちのひとりが、この件についてこう云っていることからも明らかである。「私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。『これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。』私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです」(IIペテ1:16-18)。使徒がその山を聖なる山と呼んでいるのは、その場所においてキリストが彼らの精神に現わしたもの、また彼らが特に強い印象を受け陶然とさせられたものが、彼の聖さの栄光、あるいは彼の道徳的卓越性の美しさだったからである。あるいは、これを見た別のひとりの言葉によれば、「恵みとまことに満ちたご栄光」だったからである。
さて、天の神のこの際立った栄光を最も輝かしく現わしているのは、福音で私たちに示されている事がらである。そこで教えられている種々の教理や、そこで語られている言葉や、そこで啓示されている天来のご計画や、行為や、みわざである。こうした事がらは、いまだかつて世に対して示された神の道徳的完全さの栄光の中でも、最も明確で、最も見事な、際立った表われであり顕われである。だがもし、そのように自らが何物であるかを証し立てているような際立った天来の栄光が、福音の中に現わされているとしたら、当然、それを見てとることはありえると考えるべきである。一体何が、それを見てとれる可能性までを妨げるというのだろうか? 現にそれを見てとっていない者たちがいるからといって、それを見てとることはできない、などという論理は通らない。確かにそうした者たちは現世に属する物事においては目端の利く人々であるかもしれないが、もしもそのように言語を絶して際立った、自らを何物か証し立てるような、いとすぐれた性質が福音の中にあるとしたら、当然、そうした性質は、神の御霊の特別な影響と啓明によらなければ識別できないと考えるべきである。非凡な天稟を有する著者の作品に接したとき、そのどこに際立ってこの上もなくすぐれた性質があるかを識別するには、並外れて強力な精神がなくてはならない。節穴も同然の目をした人々が読むと無味乾燥な欠点としか思えないミルトンの一節は、識別力においても趣味においてもまさる人々の目には、無比のすぐれた性質をしているものである。ではもし神が著者であるような書物があるとしたら、当然至極、その神のことばの際立った栄光は、人々がその心の罪と腐敗----すなわち、いかなる物にもまして人々を神格に敵対させ、天来の種々の完全さが有する道徳的栄光の主たる特質であるようなものを感じとる感覚や味わいについて心を鈍く愚かなものとするもの----によって、そうした書物の美しさを識別する眼力を奪われてしまうような性質をしていると考えるべきである。それゆえ、人々がそれらを見てとるには、ただ神が彼らを啓明してくださり、聖い趣味を回復させてくださることによって、天来の美しさを識別し、味わい楽しめるようにしてくださるときだけなのである。
このように天来の事物の霊的ないとすぐれた性質や美しさを感じとる感覚によって精神は、福音が真実であることを直接的に確信させられもする。福音の中で宣言されている最も重要な事がらの非常に多くは、生まれながらの人々の目には隠されている。それらが真実であることは、実質的に、このいとすぐれた性質に存しているか、その性質を直接の根拠とした、その性質の帰結であるため、このいとすぐれた性質が見てとられるや否や、そうした事がらが真実であることも見てとられるのである。心の目が開かれて、天来の事物の有する聖い美しさと愛すべき麗しさが目に映じ出すと、たちまちそれらを根拠とした、おびただしい数の福音の最も重要な教理(生まれながらの人々にとってはことごとく奇妙で謎めいて見えるもの)の真実であることが見てとれるようになるのである。たとえば、神のことばがすさまじい罪の悪質さについて宣言していることは、このことによって真実であると思われる。聖さの超越的な美しさを識別している目は、そこに、罪のすさまじい厭わしさを見ざるをえないからである。真の道徳的な善の甘やかさを味わい楽しんでいる趣味は、道徳的な悪の苦々しさを味わうからである。さらに、こうしたことを通して人は、自らの罪深さと忌まわしさを見てとる。その人には今やこの性質の対象を識別する感覚があるからである。また、自分が以前は見てとっていなかった、神のことばが人類のすさまじい罪深さに対して下している宣言の真実さを見てとっているからである。さらにその人は、今や自分の心のぞっとするような腐敗と、自分の性質の絶望的な堕落を新しいしかたで見てとっている。その人の魂には今や、そうした病の意味を感じとれるような新しい感覚が与えられているからである。これがその人に、人間の性質の腐敗や、その原罪、その破滅的な状態、その救い主の必要、そして、その心を新しくし、その性質を変えさせる大能の神の力についての聖書の啓示が真実であることを示すのである。人は、聖さが有する真のいとすぐれた性質を見てとることによって、理性と聖書の双方が天の神のうちにあると示しているすべての事物の栄光を見てとる。それらの栄光の土台は、そうしたいとすぐれた聖さにあると示されているからである。さらにそれによって人は、神の栄光あるいとすぐれた性質や威光、神があらゆる善の源泉であられること、被造物の唯一の幸福であることなどについて聖書が下しているすべての宣言の真実さを見てとる。さらにこれは、かくも栄光ある神に逆らう罪の邪悪さについて聖書が教えていることの真実さを精神に示す。罪の当然の報いとして啓示された、あのぞっとするような罰について聖書が教えていることの真実さも示す。また、これほど無限に邪悪で憎むべきことのために自分が何らかの償いをしたり、十分な贖いをすることは絶対に不可能であるとの教えが真実であることも示す。さらに、罪のために無限に尊い贖いをささげるべき救い主の必要について聖書が啓示していることの真実さも示す。この霊的美しさを感ずる感覚によって魂は、キリストのご人格について福音が啓示している事がらの栄光を見てとれるようになる。福音が主のことば、わざ、行ない、生涯として示していることによって現わされた、そのご人格のこの上もない美しさと尊厳を見てとれるようになる。さらにこのように主のご人格の無比の威光を察知することによって、福音がその血と義の価値について宣言していること、主が私たちのためにささげられたいけにえの無限の卓越性と、私たちの罪を贖い、私たちを神に推奨するために、そのいけにえが十分であるとの教えの真実さも示される。さらにこのようにして神の御霊は、キリストによる救いの道を明らかにする。魂は、この道のふさわしさと適切さを見てとる。聖書が示すこのような救いを編み出した驚嘆すべき知恵と、それが私たちの種々の必要に完全に答えることを見てとる。真に天来の美しさを感じとれる感覚が与えられたとき魂は、福音のご計画のあらゆる部分の美しさを識別する。さらにこれは魂に、人間の主たる幸福が、聖い働きと喜び、また天国という状態における言葉に尽くせぬ栄光に存すると宣言しているみことばの真実さを示す。旧約聖書の預言書、そして使徒たちの書いた書物がメシヤ王国の栄光について宣言していることは、今やすべてはっきりわかる。聖書が私たちの義務の理由と根拠について教えていることもまた、はっきりわかる。聖書で啓示されているこうした事がらすべて、また他にも言及できるであろう多くの事がらの真実さは、ただ、これまで語られてきたような、天来の美しさを味わい知る霊的な趣味によってのみ魂に現わされるのである。それまでは、こうした事がらは隠されているのである。
そしてこうしたことすべての他に、聖書が体験的なキリスト教信仰について語っているあらゆることの真実さは、これによって知られる。それらは今や体験できているからである。さらにこれによって魂は、私たちが自分の心を知るにもまさって、人の心をよく知っているお方、また美徳と聖さの性質を完全に熟知しているお方が聖書の著者であることを確信する。そして、以前は知らなかったような、また生まれながらの目で見えるものをはるかに越えたような、福音で教えられた素晴らしく栄光ある真理の世界が、今では明確に、輝かしく眼前に開かれていることによって、魂には抗いようのない力強い影響がもたらされ、福音が天来のものであることを得心させられるのである。
これまで語られたようなしかたの内的な証拠によって----すなわち、福音の栄光を見ることによって----福音が真実であるとの筋の通った堅固な得心と確信に至るのでない限り、無教養な者や歴史に通じていない者が、福音の真実さについて、少しでも実際に働く完全な確信を得ることは全くの不可能である。むろん、こうした内的証拠を持たなくとも、それが大いにありうることだと見てとれはするかもしれない。人によっては、学識者や歴史家の告げることを大いに信用するのは道理にかなったことかもしれない。そして学識者や歴史家たちは彼らに向かって、キリスト教信仰が真実であることは非常に見込みの高い、合理的なことのようだと述べ立てるかもしれない。これと同じ意見をいだかないのは非常に筋の通らないことだとすら云うかもしれない。しかし、その教えのためなら全財産を売り払おうと、すべてを失おうと、いかに激しく長い責め苦に受ける危険にさらされようと、全く意に介さないほどの確信に満ち、恐れをものともしないようになったり、その教えのためなら世を足でふみにじり、すべてのことをちりあくたとみなすほど大胆になったりするような確証を与える、明確で、明白な確信をいだくには、歴史から引き出せるような証拠だけでは到底十分とは云えない。世界の歴史について大まかにでも通じていない人々、あるいは、代々にわたる歴史の連続について何の観念も持っていない人々が、歴史から引き出せるような、キリスト教の真実さを支持する種々の議論の力だけで、現実に自分のすべてをキリスト教にかけるようになるなどというのは不可能である。学識者たちが何を云おうと、彼らの精神には無数の疑いが残るであろう。彼らは、その信仰を大きく揺さぶるような何らかの試練に遭って困窮すると、たちどころに云うであろう。「なぜ私はこれこれだと云い切れるるのだろうか? どうして私は、これらの歴史がいつ書かれたのかわかるのだろうか? 学のある人たちは私に、当時こうした歴史はそうしたものであると証明されたと云う。だが、その時そうした証明がなされたことが、どうして私にわかるだろうか? 彼らは私に、これらの事実を信ずべき理由は、それと同じくらいの間隔をおいて物語られたいかなる問題にも劣らぬほどあると云う。だが、どうして私は、それらの時代について物語られた他の諸事実がそもそも存在していたなどということがわかるのだろうか?」、と。歴史的事件の連続についても、代々にわたる人類の状態についても、いささかも概観できないという人々は、遠い過去の時代の種々の事実がなぜ真実であると考えられるのか、歴史からはその明確な証拠を見てとれない。むしろ、際限のない疑いと疑念がいつまでも残り続けるであろう。
しかし、福音は学識者だけのために与えられたものではない。聖書が書かれた対象のうち、百人中九十九人とは云わぬまでも、少なくとも二十人中十九人は、学識者が用いるような種々の議論によっては、聖書の天来の権威について確かな、あるいは実際に働く確信をいだけないような人々なのである。もしも異教の中で育てられた人々が、キリスト教の真実さについて明確で確かな確信をいだくために必要なことが、先進国の種々の歴史について学んだり通じたりして、そうした種類の議論の力を明確に見てとれるようになることだとしたら、それは彼らにとって福音の証拠を途方もなく厄介なものとし、彼らの間における福音の伝播を無限に困難なものとしてしまうであろう。もしこれ以外の方法では、キリストのためすべてを売り払っても辞さないほど十分にキリスト教の真実さを示す証拠に達することができないとしたら、近年になってキリスト教の教えを受けたいという願いを表明したフーサトニック族インディアンやその他の者たちの状況は、まことに惨めなものとなるであろう。
御民のために神が備えてくださった福音の真実さを示す証拠が、せいぜいもっともらしい証拠どまりである、などと考えるのは筋の通らないことである。神は、細心の注意を払って、恵みの契約におけるご自分の忠実さを示す証拠----何よりも確信させ、何よりも確証を与え、何よりも満足させる、おびただしい数の証拠----を彼らのためにふんだんに備え、また与えておられる。神は、ダビデが語っているように、萬具(よろず)備わりて鞏固なる契約を立ててくださった[IIサム23:5 <英欽定訳>]。したがって、それと同時に神が、これが神の契約であること、またこれらが神の約束であることについて、あるいは----同じことであるが----キリスト教信仰が真実であること、福音が神のことばであることについて、大いなる明確な証拠が不足しないように、物事をきちんと整えなさった、と考えるのは理にかなったことである。さもなければ、神がその契約においてご自分が忠実であられることを、ご自分の誓いによって、またありとあらゆるしかたで証印と誓約によって確かであるとして与えた、かの大いなる種々の確証はむなしいものとなるであろう。というのも、それが神の契約であるという証拠は、こうした他の種々の確証の力と効果がことごとく立ちも倒れもする独特の土台だからである。したがって私たちは、疑いもなく、このように考え、結論してよいであろう。すなわち、神は、この契約とこれらの約束が神のものであるということを、単なるもっともらしさをはるかに越えて示すような種類の証拠を与えておられる、と。そのことの確証となる何らかの根拠が提示されているのだ、と。それは、私たちがそれらに盲目でさえなければ、歴史や伝承その他から出たいかなる議論をもしのぐ得心を与えるようなもの、また、いかに歴史に通じていない無学な人々にもつかめるようなものなのだ、と。しかり、それは、人類が何らかの問題について有しうる最高にして最も完全な確証となる、確かな根拠である、と。またそれは、使徒が用いているこの絶大な表現に合致したものである、と。「私たちは……全き信仰をもって……近づこうではありませんか」(ヘブ10:22)。また、「それは、この人たちが心に励ましを受け、愛によって結び合わされ、理解をもって豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを真に知るようになるためです」(コロ2:2)。こうした最も偉大な事がらについては、また私たちにとって最も重要な真理については、当然、最も偉大な証拠が神から与えられている、と考えるべきである。それゆえ私たちは、賢くあろうとするなら、また合理的な行動をしようというなら、このことについて確固たる、疑いの余地ない、完全な確証を得たいという願望を心底からいだくのが当然であろう。しかし確かに、そのような確証は、福音のもとで生きている大多数の人々が、古代の伝承や歴史や古文書などから引き出した議論によって到達すべきものではない。
そしてもし私たちが事実と経験に赴くならば、真摯なキリスト者であり、キリストのためならすべてを売り払うことも辞さない心をしている人々のうち、百人中ひとりでも、このようなしかたによって福音が真実であるとの確信を手に入れた、と考えなくてはならない理由はこれっぽっちもない。もし私たちが、宗教改革以後、福音の真実さを確信してキリストのため殉教していったおびただしい数の人々、また途方もない苦しみを朗らかに耐え忍んできたおびただしい数の人々の物語を読むならば、また彼らの状況と事情を考察するならば、このようなしかたによって、その確証を伴った得心を手に入れたと考えうる根拠が少しでもあるような人々の、いかに少ないことか! あるいは、こうした議論から、これほど全き強い確証を受けることが、実際に理にかなったしかたとして可能であった人々の、いかに少ないことか! 彼らの多くはか弱い女子どもであり、その大部分は無学な人々であった。その多くはローマカトリック教の無知と暗黒の中で育てられ、そこからつい最近抜け出したばかりであった。また彼らが生き、また死んでいったのは、そうした、キリスト教の真実さを古代や歴史から証明する議論など、非常に不完全にしか掘り下げられていないような時代であった。そして実際、学識者たち自身によってさえ、これらの議論が明確に、確信を持たせるような光の中で提示されるようになったのは、ごく最近のことでしかない。また、それがなされて以来、真のキリスト教信仰について教育を受けた者たちの中で、これほど徹底的な信仰者が少なかった時代はない。こうした議論が最大の便益のもとで扱われている現代ほど、不信心がはびこっている時代はいまだかつてなかった。
イエス・キリストの真の殉教者たちは、単にキリストの福音が真実であるという強い意見をいだく者であるばかりでなく、その真実さを見てとっている者たちである。殉教者、あるいは証人(聖書における殉教者たちの呼び名)という名前が暗示する通りである。あることについて、自分はそれが真実であるという意見に強く傾いています、などと宣言するだけの者たちを、そのことが真実である証人などと呼んでよかろうはずがない。正当な証人とは、自分の主張が真実であることをこの目で見たと証言でき、実際に証言している者たちのほかにいない。「わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししている」(ヨハ3:11)。「私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです」(ヨハ1:34)。「私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、今そのあかしをしています」(Iヨハ4:14)。「私たちの先祖の神は、あなたにみこころを知らせ、義なる方を見させ、その方の口から御声を聞かせようとお定めになったのです。あなたはその方のために、すべての人に対して、あなたの見たこと、聞いたことの証人とされるのですから」(使22:14、15)。しかしイエス・キリストの真の殉教者たちは、彼の証人たちと呼ばれているのである。そして、非常な苦難のもとにあってもその聖いふるまいによって、望んでいる事がらを《保証し》、目に見えないものを《確信させる》信仰を宣言するすべての聖徒たちは、証人と呼ばれているのである(ヘブ11:1; 12:1)。彼らは、その告白と行動によって、福音が真実であり、天来のものであるとの確証が自分にあると宣言している。その心の目が開かれて福音の天来の性質が見えるようになっているためである。あるいは、福音の中に、その無比の、言語を絶する、この上もなくすぐれた、真に天来の栄光が輝いているのが目に映じているためである。その栄光こそ、全くまぎれもなく、自らが何物かを証し立てて、確信を与えるものなのである。それで彼らは、そこに神を見たと、また、それが真実天来のものであることを見てとったと、真に云うことができるのである。そして、そのように証人としての口ぶりで語ることができるのである。彼らは、福音は天来のものであると自分は思いますと云えるだけでなく、福音は天来のものです、と自分の証言として公言することができる。それがその通りであることをその目で見たからである。疑いもなくペテロとヨハネとヤコブは、あの山の上でキリストのいとすぐれた栄光を見た後で、山を下りたときには、証人の言葉づかいでいつでも喜んで、イエスは神の御子である、と語ったであろうし、自ら進んでそう云ったであろう。ペテロが、私たちは目撃者なのです、と云っている通りである(IIペテ1:16)。そしてそのように、あらゆる国民は、最後の審判の日にキリストの栄光を見つめるとき、自ら進んでそれと同じことを何の否やもなく云うであろう。確かに、そこで普遍的に見てとられるであろうものは、キリストの天性的な栄光にすぎず、キリストの、いやまさって際立った道徳的、霊的な栄光ではないであろうが。
しかしそれでも、ここで注意しておかなくてはならないことがある。すなわち、福音の天来の栄光を霊的に見てとった人々の中にも、信仰の強さにおいては多種多様な程度の差があるのと同じく、この栄光をいかに明確に見てとっているかについても、多種多様な程度の差がある、ということである。だが、救いに至る真の信仰のうち、あるいは、福音が真実であるとする判断の真の霊的な確信のうち、その内的証拠のこうした現われを、いささかの程度も有していないようなものは1つもない。ほむべき神の福音は、ある人々が考えるように、聞き手の側で証拠を探さなくてはどうにもならないようなものではない。それは、その最高にして、何よりも正当な証拠を自らのうちに有しているのである。とはいえ、種々の外的な議論は大いに役に立つことがありえるので、それらをないがしろにするべきではない。むしろ高く評価し尊ぶべきである。というのも、それらは不信者を覚醒させ、彼らを真剣な考察に至らせ、真の聖徒たちの信仰を確立させるのに大いに役立ちうるからである。しかり、それらはある点においては、人々のうちに救いに至る信仰を生み出させる助けとなることがありえる。とはいえ、これまで語られたことが真実であることに変わりはなく、判断の霊的な確信とは、天来の事物の霊的な美しさおよび栄光を察知するところから生ずるもの以外にありえない。というのも、すでに述べられたように、このように察知し、見てとることには、福音の真理を2つのしかたで----直接的にか、間接的に----精神に確信させる傾向があるからである。----それがこのことを直接的に行なうすべについてはすでに述べたので、私は、ここで次に進んで、
II. この天来の栄光を見てとることがいかにして精神に、より間接的に、キリスト教の真実さを確信させるものかを述べることとしよう。
第一に、これは天来の事物の真実さに対して心がいだく偏見を取り除くことによってなされる。それにより精神は、指し示される種々の理由の力に心を閉ざさなくなる。人の精神は、生まれながらに福音の種々の教理に対する敵意で満ちている。これは、それらの真実さを証明しようとする議論にとって不利なことであり、それらが精神に及ぼす力を殺いでしまう。しかし、ある人がキリスト教の諸教理が有する天来のいとすぐれた性質を悟ったとき、それはその敵意を消滅させ、種々の偏見を取り除き、その理性を聖なるものとし、それを開かれた、自由なものとする。これによってこそ、精神を確信させようとする種々の議論の力には、途方もない違いが生まれる。これによってこそ、キリストの幾多の奇蹟が弟子たちを確信させようとした際の効果と、律法学者やパリサイ人たちを確信させようとした際の効果との途方もない違いが生まれたのである。それは、弟子たちの理性がより強力だったのでも、より向上させられたのでもない。彼らの理性は聖なるものとされ、キリストとその教えのこの上もなくすぐれた性質を感ずる感覚によって、律法学者やパリサイ人たちを盲目にしていた種々の偏見を取り除かれたのである。
第二に、それは理性の障害物を取り除くだけでなく、積極的に理性を助ける。それは思弁的な種々の観念をさえ、より活発なものとする。その種の対象に対して精神の注意力を増し加え、引きつける。そうした注意力によって精神は、それらのより明確な姿を見ることができ、より明確にその相互関係を見てとれるようになる。それなしでは曖昧模糊としている種々の観念そのものが、こうしたことを通して光で照らし出され、より強く印象づけられるので、精神はそれらをよりよく判断できるのである。さながらそれは、陽光がさんさんと照りつけている中で地面の上にある物体を見つめる人の方が、星明かりや夕暮れのぼんやりとした光のもとでそれを見る人よりも、数段まさって、その真の形や相互関係を識別し、それらを創り出した天来の知恵と腕前との証拠を見てとることができるのと同じである。
これまで語られたことは、ある程度、天来の事物が現実にある真実なものであると霊的に確信することにいかなる性質があるかを示すのに役立つであろう。また、これにより、真に恵みによる種々の感情を他のものと区別する助けとなるであろう。恵みによる種々の感情は常にこうした判断の確信を伴っているからである。しかし、この項目をしめくくる前に、この件について一部の人々が犯している思い違いをいくつか述べておく必要があるであろう。時として、真理を霊的に、また救いに至るように信ずる信仰心とみなされていながら、その実それとは非常に異なっているものがいくつかある。それに留意しておく必要があるであろう。
1. 世には、神の御霊の一般的な啓明によって、多少なりとも、キリスト教信仰の偉大な事がらが真実であると確信するような人々がいる。キリスト教信仰に関わる事がらのうち、天性的な部分に関して、より生き生きと、はっきり感じとれるような察知----生まれながらの人々でも、覚醒させられ、一般的な照明を受ければ持てるような察知----がなされることにより、ある程度は、このように啓明される前にいだいていた思いにまさって、真理を確信するということがあるであろう。というのも、これによって彼らは、聖書の中で神の天性的な完全さについてなされている種々の現われを見てとるからである。たとえばそれは、神の偉大さ、力、恐るべき威光である。これらは、ひとりの偉大で恐れおおい神のことばであると、精神を確信させることになる。神のことばとみわざのうちにあって、神の御霊の一般的な影響により彼らにもまざまざと感じとれるような、その偉大さと威光との現われから、彼らは、事実この世にはひとりの非常に偉大な、目に見えない存在のことばとみわざがあるという、大いに偉大な確信をいだくことがありえる。そして、生まれながらの人々でも持てるような、神の偉大さに関する生き生きとした察知によって彼らは、そのような神に対する罪がもたらす大いなる咎めと、罪に対するこの神の御怒りのすさまじさとをはっきり感じとるようなことがままある。そして、これによって彼らは、より容易に、またより十分に、聖書が来世について、またそこで罪人たちに加えられるの極限の悲惨さについて啓示していることを信じるようになるものである。また、これと同じく人々は、時として、一般的な証明において与えられる、キリスト教信仰の事がらにふくまれる、大いなる天性的な善を感ずる感覚によって、キリスト教信仰が真実であると信じやすくなることがあるであろう。こうした事がらはわかっていながら、人は、それでもキリスト教信仰の道徳的で聖いいとすぐれた性質の美しさと愛すべき麗しさについては、全く感じとっておらず、それゆえ、それらの真実さについていかなる霊的確信も有していないことがありえる。しかしそれでも、そのような確信は時として救いに至る確信と取り違えられることがあり、それらから流れ出ている種々の感情が救いに至る感情と取り違えられることがある。
2. 一部の人々の想像力に、幻によって及ぼされた種々の異常な印象、および種々の直観的で強烈な衝動や示唆、あたかも目の前に何かが現出し、耳に何かが語りかけられたかのように思える体験は、目に見えない事がらの真実さについて、強力な得心を生み出すことがありえるし、しばしば生み出している。そうした事がらは、一般的な傾向として最終的には、人々を神のことばから遠ざけ、福音を退けさせ、不信仰と無神論を確立するものだが、それでも一時的には、聖書の中で啓示されている何らかの事がらの真実さに対する確信に満ちた得心を生み出すことがありえるし、しばしば生み出している。しかしながら、彼らの確信は迷妄を土台としており、そのため何の価値もない。たとえば、ある人が何らかの目に見えない動作主によって、輝かしい光の姿や、大いなる外的な威光と美しさをもって玉座に腰かけている人が、大いなる力と精力を伴った、何らかの尋常ならざる言葉を発している栄光の姿を、想像力の上に直観的に、また強烈に印象づけられたとする。そのような働きかけを受けた人は、それ以来、自分が体験したことにより、また自分が体験したこの異常な効果に自分自身は何の関与もしていないことをよく知っているがために、世には目に見えない種々の動作主、霊的な種々の存在がいるのだと確信するかもしれない。また彼は、自分が見聞きしたのはキリストであるとも確信するかもしれない。また、このことによって彼は、キリストは存在しており、自分が見たように、天の御座について支配しておられるのだ、とも確信するかもしれない。また、自分が聞いたキリストのことばは真実なのだ、と確信するかもしれない。それは、さながらローマカトリック教徒の嘘っぱちの奇跡が、無知な、心の迷った人々の精神の中に、新約聖書で宣言されている多くの事がらが真実であるという強い得心を一時的に生み出しているのと同じようなしかたかもしれない。このようにして、ローマカトリック教会にあるキリスト像が、何か異例の機会に、司祭たちの手管によって、泣いたり、新鮮な血を流したり、動いたり、これこれの言葉を発すかのように見せかけられると、民衆は、これはキリストご自身によってなされた奇蹟だと本当に得心させられるかもしれない。また、そこから、キリストはおられるのだ、キリストの死や苦しみや復活や昇天や現在世界を支配しておられることについて自分たちが聞かされてきたことは本当だったのだ、と確信するかもしれない。この奇蹟を、こうしたことすべての確かな証拠として、また、それらの目に見える証拠の一種として考えることができるからである。これが、こうした嘘っぱちの驚異の一時的な影響かもしれない。これらの一般的な傾向は、イエス・キリストが人となって来られたことを確信させるものではなく、最終的には無神論を押し進めるものではあるが。サタンと魔女たちとの間にある交霊でさえ、また彼女らがしばしば経験するサタンの直接的な力でさえ、キリスト教信仰のいくつかの教理が真実であることを確信させがちなものではある。特に、サドカイ派の教義に反して、目に見えない世界、霊たちの世界が現実に存在するという教理については、そうである。サタンの種々の影響は、人を迷妄に押しやるのが普通である。だがしかし、彼はその嘘に何がしかの真実を混ぜ合わせて、その嘘がそう簡単には見破られないようにするのであろう。
おびただしい数の人々が、偽りの信仰によって惑わされているのは、彼らの想像力に及ぼされた、今言及したようなしかたによる種々の印象のためである。彼らは、自分は神がいることを知っている、なぜなら神を見たからだ、と云う。キリストが神の御子であることを知っている、なぜならキリストをその栄光のうちに見たからだ。キリストが罪人のために死んだことを知っている、なぜならキリストが十字架にかかり傷から血を流しているのを見たからだ。天国と地獄があることを知っている、なぜなら地獄に堕ちた魂の悲惨さを見、天国における聖徒や御使いたちの栄光を見たからだ、と云う(彼らが云っているのは、何らかの外的な表象が、彼らの想像力の上に強烈に及ぼされた、ということである)。また彼らは、自分は聖書が神のことばであり、これこれの約束が特に神のことばであると知っている、なぜならそれらを神が自分に向けて語りかけるのを聞いたからだ、それらは、自分では何も手を下していないのに、自分の精神に突如として直接神からやって来たのだ、と云うのである。
3. 人々は、その真理を信ずる信仰心が大いに増し加わったかに見えるが、その実、その信仰心の土台がそうした真理にあずかる自分の利益を得心しただけということがある。彼らはまず最初に、何らかの手段か手管によって、もしキリストなるものや天国なるものが実在するとしたら、それは自分たちのものだという自信をいだく。そして、これによって彼らは、それらが真実であれば好ましいと思うような偏見をいだくようになる。彼らがキリスト教信仰の偉大で栄光ある事がらについて耳にするとき、彼らは、こうした事がらはみな自分たちに属しているのだという観念をもって聞く。彼らは、それらが真実であることが自分たちの利益にとって大いにためになることだとみなす。人間の利益と意向が、いかに強い影響をその判断に及ぼすかは明々白々である。生まれながらの人々は、もし天国なるものや地獄なるものがあるとして、自分が前者にではなく後者に属していると考えている間は、天国や地獄などというものがあることを得心するのは一苦労であろう。しかし、その人が地獄は単に他の人々が行くべき場所で、自分はそこに属していないと得心させられるなら、そのときには彼はたやすく地獄の実在を認め、それから逃れるための手段をないがしろにする他の人々の無思慮さ、愚鈍さを口を極めて非難するであろう。そして、自分は神の子どもであり、神は自分に天国を約束してくれたのだと自信満々となるであろう。彼は、天国の実在を信ずる信仰において力強く見え、それを否定する不信心に対して熱烈な敵意を燃やすであろう。しかし私は、恵みによる種々の感情をまぎれもなく示す別のしるしに話を進めることにしよう。
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