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第9節 恵みによる種々の感情は心を和らげ、キリスト者的な霊の柔らかさを伴う

 まがいものの種々の感情は、目新しいうちは、いかに人々の心を溶かすかのように見えても、最終的には心をかたくなにするものである。ある種の情動を好む性向は身につくかもしれない。自己中心や、うぬぼれや、他人に剣突を食わす態度といったものを含む情動にかられることが、いやまさって多くなることはあるかもしれない。しかし、まがいものの感情は、結局は、それらに伴う迷妄によって、えてして精神を麻痺させ、心の柔らかさの特質となるような種々の感情に対して精神を閉ざさせてしまう。しまいにそうした人々は、精神の持ちようが固まってしまい、自分の現在や過去の罪によって心動かされることはめったになくなり、今後犯しかねない罪についても、良心的に身を処すことがほとんどなくなってしまう。そうした人々は、神のことばの警告や戒めによってであれ、神の摂理的な懲らしめによってであれ、たいして心動かされなくなる。自分の心持ちについても、個々のふるまいのしかたや傾向についても、あまり気に留めなくなる。物事の罪深さを見抜く力はにぶくなり、かつて律法的な覚醒と地獄への恐怖のもとにあった頃には、少しでも悪と思われるものはみな恐れていたのに、そうしたことがなくなってしまう。今や彼らは、様々な印象や感情の体験を積んできている。そうした自分を買いかぶり、もはや安全な状態にあると思い込んでいる彼らは、七面倒くさくて不自由な義務などまるで無視して生きながら、以前よりもはるかに気楽に過ごしていられる。----もはや困難な命令には、のろのろとしか、また適当に手を抜いた形でしか従わない。自分の種々の欠陥やそむきの罪を眼前に突きつけられて不安に陥ることもない。彼らは、最大限の配慮を払って厳格に日々の歩みを律することについても、図に乗って自分だけは例外だとし、今では誘惑や種々の情欲の声にころりと屈してしまう。また、公の礼拝においても個人的な礼拝においても、聖なる神の御前に出る際には、はるかにぞんざいな態度になっている。かつて律法的な罪の確信のもとにあったときには、キリスト教信仰について苦慮し、多くのことで自分を否定していたかもしれない。だが今や、もはや地獄落ちの危険を脱したと考える彼らは、十字架の重荷のあらかたをふり捨て、難儀な義務を次から次へと放り出し、いよいよ安逸と種々の情欲にうつつを抜かしているのである。

 このような人々は、キリストを自分の罪からの救い主として抱きしめるかわりに、自分の罪の救い主としてキリストに信頼しているのである。自分の霊的な敵どもからの隠れ家としてキリストのもとに逃れていくかわりに、自分の霊的な敵どもを神から守る者としてキリストを利用し、そうした者どもを強めて神に歯向かわせているのである。彼らはキリストを罪のしもべとし、悪魔の大いなる従者とし手先とし、悪魔の利を図る者、この世の何にもましてエホバに激しく逆らう者としている。それは彼らが安心して、何の恐れもなく神に罪を犯せるようになるためであり、神がいかに厳粛な警告を発そうが、いかに恐ろしく脅かそうが、実質的には何の制約も受けずに済むようになるためである。彼らがキリストにより頼むのは、自分たちにもろもろの罪を静かに楽しむにまかせ、神の不興から自分たちを守る楯となってくれるお方としてである。彼らが神のもとに近づき、神の子らの憩うみ胸にしがみつくときも、彼らは衣の裾に隠した致命的な武器で神と戦っているのである*1。しかしながら、こうした人々の中には、そのようなことをするそばから、神への愛や、神のいつくしみについて受けた確証や、神の愛の甘やかさを味わう大きな喜びについて、見事な告白をしている者もいる。

 こうしたしかたでキリストに信頼していた人々のことをユダは、聖徒たちの間にひそかに忍び込んで来た者たちと語るのである。彼らは聖徒たちの間にいるが、実は、「不敬虔な者であり……神の恵みを放縦に変えて」いた(ユダ4)。こうした人々こそ、自分の正しさにより頼む者たちである。そして、神の約束によれば、正しい人は必ず生きる、あるいは確実に救われるのだと云って、厚顔にも不正をする者たちである。そうした者らを神は脅かしておられる。「わたしが正しい人に、『あなたは必ず生きる。』と言っても、もし彼が自分の正しさに拠り頼み、不正をするなら、彼の正しい行ないは何一つ覚えられず、彼は自分の行なった不正によって死ななければならない」(エゼ33:13)。

 恵みによる種々の感情は、全く逆の傾向をしており、石の心をますます肉の心に変えていく。聖い愛と希望は、心を変える原理としては、奴隷的な地獄への恐れなどより、はるかに効き目があるものである。それらは心を柔らかくし、罪に----すなわち、神の不興を招き、神を怒らせるであろうあらゆることに----恐れおののく思いで満たす。また、細心の用心深さと注意深さと厳格さをもって歩ませるようにする。恵みによる種々の感情のもととなるのは、先に述べたように、悔い改めた心、あるいは(原語を直訳すれば)傷んだ心----神のみこころに添った悲しみによって傷つけられ、砕かれた心である。あたかも傷ついた肉が軟らかくなり、破けやすくなるのと同じように、そうした悲しみは心を柔らかくするのである。神のみこころに添った悲しみには、利己的な種々の原理から出た、ただの律法的な悲しみをはるかに越えて心を柔らかくする大きな影響力がある。

 真のキリスト者の心の柔らかさは、私たちの救い主の優雅なおことばによれば、小さな子どもにたとえられている。幼子の肉は非常に柔らかい。新しく生まれた者の心もそれと同じである。また、やはりこれを象徴しているのは、預言者の指示によってヨルダン川で体を洗ったナアマンが、らい病を癒された際に起こったことである。これは疑いもなく、新生という洗盤で魂が更新されることを示す予型であった。II列5:14にはこう書かれている。「ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようにな……った」。幼子はそのからだが柔らかいだけでなく、その精神も柔らかい。幼子はたやすく心を動かされ、すぐに感動し、人の云うことによく従うが、霊的な事がらにおけるキリスト者も同じである。幼子は同情心に動かされやすく、泣く者とともに泣くことができ、困っている人を見ると放っておけないが、キリスト者もそれと同じである(ヨハ11:35; ロマ12;15; Iコリ12:26)。幼子は親切にされるとすぐに心を開くが、キリスト者もそれと同じである。幼子はちょっと悪いことが起こっても悲しみに心満たされ、心溶かされ、泣き崩れるが、罪の悪に関してはキリスト者の心もそれと同じくらい柔らかい。幼子は、悪漢のような見かけの者を目にしたり、傷つけられそうになるとすぐに怯えるが、キリスト者もそれと同じく、道徳的な悪のように見えるものを目にしたり、魂を傷つけそうなものを目にすると、たちまち恐れを感ずる。幼子は敵や獰猛な獣に出会うと、自分の力により頼んだりせず、両親のもとに逃げて行くが、聖徒たちも霊的な敵たちと戦いを交わす際には、自分の力を頼みとはせず、隠れ家なるキリストのもとに逃げて行く。幼子は、危険な場所では悪い目に遭うのを恐れ、暗がりを怖がり、ひとりぼっちにされたり、家から遠く離れると不安になるが、聖徒も自分の霊的危険をひしひしと感じやすく、自分の霊的祝福を失うまいと用心を怠らず、前にある道の見通しがはっきりしない場合には恐れに満ち、ひとり残され、神から遠く離れているときには不安になる。「幸いなことよ。いつも主を恐れている人は。しかし心をかたくなにする人はわざわいに陥る」(箴28:14)。幼子は目上の人々を恐れ、その怒りにおののき、その不機嫌な顔や厳しい言葉に身震いするが、神の前における真の聖徒もそれと同じである。「私の肉は、あなたへの恐れで、震えています。私はあなたのさばきを恐れています」(詩119:120)。「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ」(イザ66:2)。「主のことばにおののく者たちよ。主のことばを聞け」(5節)。「イスラエルの神のことばを恐れている者はみな、私のところに集まって来た」(エズ9:4)。「主の勧告と、私たちの神の命令を恐れる人々の勧告に従って」(10:3)。幼子は目上の人々に慎み恐れつつ近づくが、聖徒たちも聖い畏怖と畏敬をもって神に近づく。「神の威厳はあなたがたを震え上がらせないだろうか。その恐れがあなたがたを襲わないだろうか」(ヨブ13:11)。聖い恐れは、真に敬虔な性質の大きな部分を占めており、聖書の中でそれを云い表わす最も頻繁な呼び名は神に対する恐れである。

 こういうわけで、恵みによる種々の感情によって人は決して、不遜にも、僭越にも、騒々しく喋り散らす者にもならず、むしろ震えながら語る者となる。「エフライムが震えながら語ったとき、主はイスラエルの中であがめられた。しかし、エフライムは、バアルにより罪を犯して死んだ」(ホセ13:1)。これにより彼らは、神と人とに対する、そのあらゆるふるまいにおいて、一種の聖い恐れを身にまとうようになる。詩2:11、Iペテ3:15、IIコリ7:15、エペ6:5、Iペテ3:2、ロマ11:20に示されている通りである。

 しかし、世には祈りにおける、また神礼拝の種々の義務における、聖い大胆さというものがあるのではないだろうか? 疑いもなく、そうしたものはあるし、それは主としてずば抜けた聖徒たち、大きな信仰と愛を有する人々のうちに見られるものである。しかし、この聖い大胆さは、確かに不和奴隷根性と相反するものではあっても、決して畏敬に相反するものではない。聖い大胆さは、道徳的な隔たりや、疎遠から生じるような性向、また奴隷のそれのように関係上の疎外感から生じた性向は、打ち消したり、減らしたりする。だがそれは、決して私たちが無限に劣っているとされる天性的な隔たりから生ずる性向を打ち消したり、減らしたりはしない。貧しく罪深い、地を這う地虫どもが、神と自分たちとの正しい姿を見てとった場合、たとえいかなる大胆さをいだこうとも、しみ1つない栄光に輝く天の御使いに劣る恐れや畏敬をもって神に近づく気持ちにはならないであろう。その御使いたちは、自分の顔を神の御座のまえでおおっているのである(イザ6.1以下)。リベカは(そのイサクとの結婚における、ほとんどすべての状況において、明白にキリストの花嫁、教会の大いなる予型を示しているが)、イサクに出会ったとき、乗っていたらくだから降り、ベールを取って身をおおった。彼女は、彼の花嫁となり、彼とともにいるために連れて来られた、近親中の、最も身内に属する者であったにもかかわらず、そうした*2。かの大預言者エリヤは、神との聖い親密さをあれほど大いに有していたにもかかわらず、神とことのほか近づいたとき、すなわち、あの山の上で神と会話を交わしたときには、その顔を自分の外套でおおった。それは決して彼が、激しい大風や、地震や、によって、何か奴隷的な恐れを感じておののいたからではなく、それらがことごとく途絶えた後に、神が彼に友として、かすかな細い声で語りかけときであった。「火のあとに、かすかな細い声があった。エリヤはこれを聞くと、すぐに外套で顔をおお……った」(I列19:12、13)。また、神が顔と顔を合わせて、さながら人がその友と顔を合わせて語るかのようにお語りになったモーセ、神との親密さを許されていた点では、いかなる預言者よりも傑出していたモーセは、もっともみそば近くに置かれたとき、----すなわち、神が後にエリヤと語られた同じ山でそのご栄光を見せてくださったとき----「モーセは急いで地にひざまずき、伏し拝んだ」*(出34:8)。ある人々のうちには、偉大なるエホバに近づく態度としては最もふさわしからざる、最もがまんならない不遜さが見られる。----それは、聖い大胆さの物まねであり、ずば抜けた関係の深さと親密さのひけらかしであり、----万が一、彼らが神と自分たちとの間にある隔たりを見てとっていたとしたら、考えただけでも、恐怖と惑乱のうちに、身を無に縮こまらせていたに違いないであろうような不遜さにほかならない。彼らは、あのパリサイ人のようである。だが、もし自分の邪悪さを見てとっていたとしたら彼らは、あの取税人が、「遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』」、そのようにふるまっていたであろう。私たちのように罪深い被造物たちにふさわしいのは、聖い神に近づくにあたって、(たとえ信仰によって、恐怖なく近づくにしても)、悔悟と、悔い改めて恥じる思いと、まともに顔も上げられない心をいだくことである。古の予言によれば、これこそ教会がその地上における最高の特権に至るとき、すなわち、後の日のその栄光に至って、神からその契約によるあわれみを啓示されることによって、著しい慰めを受けるときに、いだくべき性向である。「わたしは、……あなたととこしえの契約を立てる。……あなたは自分の行ないを思い出し、恥じることになろう。わたしがあなたとの契約を新たにするとき、あなたは、わたしが主であることを知ろう。それは、わたしが、あなたの行なったすべての事について、あなたを赦すとき、あなたがこれを思い出して、恥を見、自分の恥のためにもう口出ししないためである。----神である主の御告げ。----」(エゼ16:60以下)。ルカ7章に記されている女は、ずば抜けた聖徒であり、恐れを締め出すほどの愛を有していたが、(キリストご自身が証言なさっているように)キリストに受け入れられるしかたで近づいたときには、へりくだった慎みと、畏敬と、恥をもってやって来た。彼女はキリストのもとで泣きながら、あたかも御顔を前にする資格などないかのように、うしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらして洗ったのであった。

 なぜ恵みによる種々の感情にこうした傾向の精神が伴うかというと、その1つの理由は、真の恵みが、良心における罪の確信を押し進めるものだからである。人々は、何らかの恵みを有する以前に、ある程度は良心における罪の確信をいだくのが常である。そして、その後、真に回心すると、真の悔い改め、喜び、そして信ずることによる平安をいだく。これによって恐怖は消え失せていくが、種々の罪の確信は消えない。むしろそれらは増し加わっていく。恵みは人の良心を麻痺させはしない。むしろそれをより鋭敏にし、より容易に、かつ徹底的に、罪深いものの罪深さを見きわめさせ、罪の憎むべきぞっとするような性質に対する確信を大きく受け入れさせる。良心は、よりまざまざと、また、より深く罪の感覚を受けやすくなり、人は自分自身の罪深さ、また自分の心の邪悪さをより確信させられる。結果的に、恵みによって人は、より自分の心を用心深く守るようになるのである。恵みは魂に、それが御霊の律法的なみわざのもとにあったとき確信させられたのと同じ罪に関する事がらについて、より深く、より健全な確信を与える。すなわち、神のみこころと律法とご栄光とに対する、罪の反逆の大きさと、罪に対する神の憎悪とご不興の大きさ、また罪の招く、当然の報いたる恐ろしい罰とを、より確信させる。それだけでなく、恵みは魂に、罪に関してさらに深いことを確信させる。それは、律法的な罪の確信のもとにしかなかったときには、全く目にしなかったようなことである。それは、罪の無限に憎むべき性質と、それゆえのその恐ろしさにほかならない。そしてこれによって心は、罪に関して柔らかくされる。あたかも、ダビデがサウルの上着のすそを切り取ったことについて痛めた心のようにである。真に悔い改めた者の心は、火傷に懲りてなますを吹く小児に似ている。これに対して、偽りの悔い改めと、まがいものの慰めや喜びを有する者は、急激に熱せられて冷却された鉄に似ている。それは以前よりもはるかに硬くなる。まがいものの回心は、良心における罪の確信を消し去る。そしてそのようにして、律法のみわざのもとにあって明らかに見えていた良心的な細心深さを取り除くか、大いに減少させてしまうのである。

 恵みによる感情はみな、このキリスト者的な心の柔らかさを押し進める傾向がある。神のみこころに添った悲しみだけでなく、恵みによる喜びにも、そのような働きがある。「恐れつつ主に仕えよ。おののきつつ喜べ」(詩2:11)。同じことは、恵みによる希望についても云える。「見よ。主の目は主を恐れる者に注がれる。その恵みを待ち望む者に」(詩33:18)。しかり、いかに強い確信と確証に満ちた希望にも、それが真に恵みによるものである限り、こうした傾向がある。聖い希望が高まれば高まるほど、このキリスト者的な柔らかさはいやまさるものである。奴隷的な怯えを聖い確証によって追い払うにつれて、畏敬に満ちた恐れが増し加わるのが常である。将来の罰における神の不興を恐れる思いが小さくなっていくにつれて、神のご不興そのものを恐れる思いが増し加わっていく。地獄への恐れが減れば減るほど、罪への恐れが増し加わる。人は自分の永遠の状態に戦々恐々とする思いが失われるにつれて、自分の心を用心怠りなく守ろうとする思いと、自分の心の強さや、知恵や、ゆるぎなさや、忠実さなどに対する不信が増し加わっていく。天性的な悪を不安に思うことが----主に信頼して、その心はゆるがないため、悪い知らせを恐れなくなることにより----少なくなればなるほど、道徳的な悪、すなわち罪の悪の現われを恐れがちになっていく。その人は、聖い大胆さを持てば持つほど、自己を頼む気持ち、図々しい傲慢な不遜さは少なくなり、慎み深さが増していく。地獄から救い出されたことを他の人々にまさって確信しているだけに、その人は、そのうら寂しさをいやまさって感じとっている。その人は、他の人々よりも信仰を揺るがされることは少ないが、厳粛な種々の警告や、神の渋面や、他の人々の災難には、いやまさって心動かされることが多い。その人には、だれよりも堅固な慰めがあるが、だれよりも柔らかな心がある。他の人々よりも富んでいるが、心はだれよりも貧しい。その人は最も高く、最も強い聖徒だが、彼らの間でも最も小さく、最も心柔らかな子どもなのである。

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*1 「こうした人々は、信じはしても、福音および主イエスを用いようとしない偽善者たちである。こうした人々について書かれている箇所こそユダ3にほかならない。そこで、ある人々は恵みを放縦に変えたと云われている。というのも、人間の心のはなはだしい邪悪さを明らかに示すのは、律法のみならず主イエスの栄光の福音によってすら、人間はその内側にありとあらゆる不義を作り出せるということにあるからである。これは、回心の最初のみわざのもとにある人々の場合には、珍しくも何ともないことである。おゝ、そこでは恵みとキリストを求めて泣き叫びながら、後になると気ままになり、律法を平然と破りつつ生活し、その生きざまの裏づけを福音から借りてくるのである」。----シェパードの『例え話』、第1部、p.126。
 また、p.232でもシェパード氏は、このような偽善者たちについて語っている。「(彼らは)、同じ巣に入れられた異種の卵のように、正直な人々が住んでいるところで卵からかえる。幼いうちには、その巣を離れず、主とみことばの糧を求めて口を大きく開き、鳴き立てることで生きている。しかし、その翼が大きく育って、何がしかの感情や、知識や、あわれみの希望を手にすると、それによってかたくなになり、神のもとから飛び去ってしまう」。そして云う。「神の恵みによって悪化する、そのような人が善たりえようか?」と。
 さらに、第2部p.167ではこう述べている。「人々が平安な時にキリストのもとに逃れてくる場合、それは、そのようにすることによって、より大きな良心の平安を得て、もろもろの罪を温存できるようにするためである。つまり人は、単に悲惨な状況だけではなく罪によってもキリストのもとに逃れ来るのである。罪を滅ぼし断ち切るためではなく、平安のうちに自分のもろもろの中で保っていられるようになるためである。そのとき人々は、うわべだけの信仰でキリストをとらえたと云えるであろう。----多くの人は、心ひそかにこう云っているのである。『あゝ、とりあえずは罪と、平安と、静かな良心を持つことができさえすれば、また神があわれみ深くも後でそれを赦してくれさえすればいいのだが』、と。こういうわけで彼は、(本人の言葉によれば)キリストにある神のあわれみだけにより頼んでいるのである。また、それこそ今、その人をかたくなにし、盲目にし、安心感を持たせ、その信仰をいかなる説教にもびくともしないようにし、何物にもぎょっとさせられないようにしているのである。----そうした信仰さえなければ、彼らも絶望するだろうが、これが彼らのよりどころとなっているのである。そして、今の彼らは、たとえ精神に動揺を感じても、それは悪魔が自分を動揺させているのだと考え、キリストと信仰とを罪からのきよめ主とするかわりに、罪の保護者としているのである。これは途方もなくすさまじい悪である。古の人々がいけにえを放縦に変えたように、恵みを放縦に変えるのである。それと同じくこうした人々は、キリストのかげで罪を犯そうとする。そのかげが居心地良く甘いからである(ミカ3:11)。彼らには陰険で狡猾な目的があった。そこにこそ、人の罪は存しているからである。だが彼らは主によりかかっている。----両替人たちが神殿内に来たとき、あなたがたはそれを強盗の巣にした。強盗たちは追跡されると巣や洞窟に逃げ込む。そこなら彼らはあらゆる追手や勢子の声をものともせずに安楽にしていられる。それと同じである。しかしキリストは彼らをむちで追い出された。そのように人々は、良心の叫びや恐れによって追われるとき、キリストをその巣として逃げ込むが、それは聖徒としてではない。そこで祈って、自分の罪の生活を嘆くためではない。むしろ自分の罪を温存するためである。これは下劣なことである。このような者を主が受け入れなさるだろうか?」[本文に戻る]

*2 エイムズ博士は、その『良心の問題』第3巻4章で、神礼拝における聖い慎み深さを、真の謙遜を示す1つのしるしであると語っている。[本文に戻る]



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