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第10節 真に恵みによる聖い種々の感情が、まがいものの感情と異なるもう1つの点は、均整と調和のとれた美しさである

 これは、地上で生きる聖徒たちの有する種々の美徳や恵みによる感情が、完璧に均整のとれたものだということではない。往々にしてそれは、多くの点で欠陥があるものである。恵みの不完全さや、適切な教えの欠如や、判断の誤りや、生まれながらの気質による特定の欠点や、間違った教育や、その他いくらでも言及できる多くの不都合によって、聖徒の美徳や感情にはしばしば欠陥が伴う。だがしかし、決して恵みによる種々の感情や、聖徒たちの有する真のキリスト教信仰の様々な部分には、まがいもののキリスト教信仰や、偽善者たちの有する偽りの恵みにほぼ例外なく見られるような、あの奇怪なちぐはぐさはない。

 聖徒たちのいだく真に聖い種々の感情には、彼らの聖化が全面的になされることから自然と生ずる結果としての調和が見られる。彼らには、キリストのかたち全体が刻印されている。彼らは古い人を脱ぎ捨て新しい人を、そのあらゆる部分と肢体とともに、欠けることなく身に着たのである。御父はそのみこころにより、キリストのうちに満ち満ちた豊かさを宿らせた。キリストのうちには、あらゆる恵みがある。この方は恵みとまことに満ちておられた。そしてキリストのものである人々は、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである(ヨハ1:14、16)。キリストにある者たちには、あらゆる恵みがある。恵みの上に恵みがある。すなわち、恵みに応ずる恵みがある。キリストにある恵みのうち、1つとして、それに応ずるかたちが信仰者たちのうちにないものはない。そのかたちは、真のかたちである。そのかたちには、原型のうちにあるのと同じ美しい調和に似たものがある。原型の個々の造作に応ずる造作があり、各部に応ずる部分がある。神の作品には均整と美がある。神がお造りになった肉体は、多くの器官によって成り立っており、すべてが美しく調和している。そのように、新しい人も様々な恵みと感情によって成り立っている。五体満足に生まれた者の体も、疾病や、弱さや、何らかの器官に受けた傷などによって、精密には調和していないかもしれない。だが、そのちぐはぐさの程度は、決して奇形児として生まれた者らのようなものではない。

 偽善者たちは、古のエフライムと同じである。かつて神はエフライムの偽善ぶりを大いに嘆いて云われた。「エフライムは生焼けのパン菓子」であって、片側は焼けているが片側は生のままである、と(ホセ7)。通常、偽善者の種々の感情には、いかなるしかたの統一性もない。彼らの多くには、いくつかの種類の信仰的な感情について、非常なかたよりが見られる。ある種の事がらには心揺さぶられるような感情をいだくが、別の事がらには全く無頓着を決め込む。聖徒には、聖い希望と聖い恐れが相伴って見られる(詩33:18; 147:11)。しかし、こうした偽善者のある者らは、満腔の自信に満ちた希望を持ちながら、全くもって畏敬や、自分の霊的状態に関する懸念や、警戒心がなく、恐れをあらかた打ち捨てているように見える。聖徒には、喜びと聖い恐れが相伴って見られる。もっとも、その喜びは、キリストが復活したあの喜ばしい朝の弟子たちのように、きわめて大きなものには違いないが。「そこで、彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ……た」(マタ28:8)*1。しかし、こうした偽善者の多くは、いかなるおののきもなしに喜んでいる。彼らの喜びは、まさしく敬虔な恐れとは対極にあるものにほかならない。

 しかし、特に聖徒と偽善者を異ならせる1つの大きな違いは、前者の喜びと慰めには、神のみこころに添った悲しみと、罪への嘆きが伴うということである。聖徒たちは、その喜びや慰めの道備えとして悲しみをいだくだけでなく、慰めを受け、その喜びが確立された後でも悲しみをいだく。これと同じことは、古の神の教会についても予言されていた。捕囚から帰還し、安息の地カナンの、乳と蜜の流れる土地に落ちついた後の彼らは、自らのもろもろの罪ゆえに嘆き、自分を厭うことになるはずであった。「わたしが、あなたがたの先祖に与えると誓った地、イスラエルの地に、あなたがたをはいらせるとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。その所であなたがたは、自分の身を汚した自分たちの行ないと、すべてのわざとを思い起こし、自分たちの行なったすべての悪のために、自分自身をいとうようになろう」(エゼ20:42、43; エゼ16:61-63も参照)。真の聖徒はこの点で幼子と似ている。彼は新しく生まれるまでは決して、神のみこころに添った悲しみを感ずることなどないが、その後では、そうした悲しみをしばしばいだく。幼子も、生まれるまでは、また暗闇の中にとどまっている間は、決して泣いたりしないが、光を見るやいなや泣き始める。そして、それ以後はしばしば泣くことになる。確かにキリストは私たちの病を負い、私たちの痛みをになうことで、私たちが罰に対する悲しみから解放され、キリストが私たちのために獲得なさった種々の慰めによって、今や甘やかに養われて生きることができるようにしてくださったが、それでも、そうした慰めに養われて生きる私たちに、悔い改めの悲しみが伴わないことにはならない。たとえば古のイスラエル人たちは、過越の小羊には必ず苦菜を添えるように命ぜられていた*2。聖書は、真の聖徒たちについて語る際には、単に罪のため悲しんだことがある者たちとしてばかりでなく、現にいま悲しんでいる者、常に変わらず悲しむ習性のある者としている。「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです」(マタ5:4)。

 偽善者の信仰的な感情は、その種類においてしばしば本質的な欠落が見られるだけでなく、同じ感情にも、その対象しだいで、奇妙なかたよりと、ちぐはぐさが見られる。----たとえば、という感情について云うと、ある者は、自分には神およびキリストへの心打ち震わせるような愛があると触れ込み、それがいかに大いなるものかをひけらかす。それは、彼らが神やキリストについて耳にしたり考えたりしたことから、大きな影響を受けているものかもしれない。しかし彼らは、人々に対しては、愛の精神や慈悲の精神などひとかけらも持たず、むしろ いがみ合いや、ねたみや、意趣返しや、そしりなどに走りがちで、事と次第によれば、自分の隣人に対する根深い恨みを、七年の二倍とまでは云わなくとも、七年間は胸中深く燃やし続け、その相手への悪意と怨恨を現実にいだきながら生きていく。また、隣人に対する扱いということにおいても彼らは、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい、という規則に、たいして厳格にも、良心的にも従おうとしていないかもしれない。「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません」(Iヨハ4:20)。それとは逆に、別の人々は、人に対する慈悲深さは非常に厚いように見受けられ、きわめて気立てが良く、それなりに気前がいいが、神への愛は全く有していない。

 また、人々への愛ということで云うと、ある人々は、特定の相手には惜しみなく情愛を注ぐが、真にキリスト者的な愛を持つ人のように、だれにでも分け隔てなく愛を注ぐようなことはさらさらない。----彼らは、特定の相手に対する親愛な情愛には満ちているが、別の人々に対しては怨恨で満ちている。彼らは自分の仲間とは固い絆で結ばれており、自分に賛成し、自分を愛し、自分を敬ってくれる者らには心を寄せるが、自分に反対し、自分を嫌う者らには牙をむく。「天におられるあなたがたの父のようになりなさい。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか」*(マタ5:45、46)。ある人々は、自分の隣人たちにはあふれるほどの情愛を示し、外国の神の子らとともにいることには陶然とさせられると触れ込むが、その舌の根も乾かぬうちに、国内にいる自分の近親の者たちには傍若無人で、粗暴な態度をとり、親類として当然果たすべき義務をまるで顧みようとしない。また、一部の人々は、罪人やキリスト教信仰への敵対者に対する大きな愛を披瀝し、----おびただしい数の人々の中から、特定の人をその対象に抜き出しては----相手の魂を案ずる懸念のあまり、苦悶のきわみに達するほどだが、その間それと同じくらい悲惨な状況にある罪人たちに対しては、奇怪なほど不釣り合いに小さな同情のほかには、分け隔てない愛を注ぐことがまるでない。これも恵みによる感情の性質とは思えない。私は、滅びゆく魂に対する憐憫が、苦悶するほどになること自体がおかしいとは決して云っていない。それに対応する他の事がらも伴っていさえすれば問題はない。また私は、真に恵みによる魂への同情が、同じくらい悲惨な人々の中にいる、ある特定の人々に向けられることがおかしいとも思わない。特に何らかのしかるべき事情があるときにはそうなって当然であろう。そうした折には、多くの事がらによって、ある特定の人に精神が引きつけられ、心を動かれることがありえる。そして疑いもなく、ある聖徒たちは、特定の人々の魂を案じて非常な苦悩に陥り、いわば彼らのための産みの苦しみをするほどとなることがあった。しかし、ある人々が、特定の時期に、だれか個別の人の魂について苦悶を覚えているように見受けられ、それがずば抜けた聖徒たちに通常見られる度合いをはるかに越えて激しいものでありながら、柔和な精神や、熱烈な愛、また博愛や、人類全般に対する同情心においては、そうした聖徒たちよりも格段に劣っているという場合は、私は云う。そうした苦悶は非常に疑わしいものである、と。なぜなら神の御霊は常に、種々の恵みと恵みによる感情とを、調和と均整のとれた美しい形でお与えになるからである。

 また、ある人々が示す愛が、人々の違いに応じて、奇怪なちぐはぐさを見せるのと同じように、彼らが、同じ人々に対して示す愛の働きらしきものにも、似たようなちぐはぐさが見受けられる。ある人々は他者に対する愛を、人間の外側に対して示し、物惜しみせずに私財を投じては、しばしば貧者に施しをするが、人々のについては何の愛も関心も寄せていない。別の人々は、人々の魂については大きな愛があるように触れ込んでいるが、相手の肉体に対しては、同情深くも愛情深くもない。魂のため大いに愛と憐憫と苦悩を示すことには何の元手もかからないが、人々の肉体にあわれみを示すには金を手放さなくてはならないからである。しかし、私たちの同胞に対する真にキリスト者的な愛は、魂と肉体の双方にわたるものであり、ここにこそ、イエス・キリストの愛と同情に似たものがあるのである。主は、人々に向かって倦むことなく福音を説教することによって、彼らの魂に対するあわれみを示し、巡り歩いて良いわざをなし、民の中のあらゆる病気、わずらいを直すことによって、彼らの肉体に対するあわれみを示された。マコ6:34以下には、キリストが人々の魂と肉体の双方に対して同時にあわれみを示しておられる素晴らしい例が見られる。「イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた」。ここには彼らの魂に対する主の同情がある。だが、それに続く記事では、彼らの肉体に対する主の同情が示されている。主は5つのパンと2匹の魚で五千人の群衆に食事をお与えになった。なぜなら彼らは、食べる物を持っていないまま、長い間歩いていたからである。だが、もしも信仰を告白するキリスト者が、他の人々に対して同じようなしかたの同情を働かせないとしたら、それが真のキリスト者的な同情ではないというしるしにほかならない。

 さらにまた、種々の感情が正しい種類のものでないことを示すのは、人々が、自分のキリスト者仲間に見られる悪い資質(たとえば、他の聖徒たちの冷たさや、生気のなさ)に大いに憤慨するようすを見せながら、それとは全く釣り合わない程度にしか、自分自身の欠陥や腐敗には心動かされない、という場合である。確かに真のキリスト者であれば、他の聖徒の冷たく、芳しからざる性質に衝撃を受け、それを大いに嘆くこともあるだろうが、それと同時に彼は、他人の心の悪よりは、ずっと自分の心の悪に衝撃を受けるものである。これこそ最も彼の目に入るものであり、これこそ彼が何にもまして目ざとく見分けて、その極悪さを見抜き、断罪するものである。自分の美徳がちっぽけなものでしかなければ自分をあわれむし、自分にふりかかるであろう災いを気に病む。そうしたあわれみや懸念の方が、他人の災いに対して当然のいだくべきあわれみや懸念よりも、はるかに大きいはずである。もし人々が小事にも達していないとしたら、決して大事には達してはいないと判断してよいであろう。

 ここで、事のついでに述べておきたいのは、一般的な原則として規定できることである。すなわち、もし人々がキリスト教信仰において高い境地に到達したかのように触れ込んでいながら、決して低い境地にも達していないという場合、それは、その触れ込みがむなしいしるしである。もし人々が、自分は単なる道徳を越えたところに達したとか、霊的天来の生活をしているなどと触れ込んでいながら、実は道徳的な人々にすらなっていないという場合、あるいは自分の心の邪悪さに大いに衝撃を受けたと触れ込んでいながら、自分の実行動における、簡単にわかるような神の戒めへの違反----より低い境地----については平然としているような場合、彼らの触れ込みはむなしい。もし彼らが神の栄光のためなら永遠に断罪されても良いというほどの心境になっていると触れ込んでいながら、自分の義務を果たすため、財産や名声や現世的な便宜を犠牲にする気が少しもないという場合、あるいは、最終的に自分は、自分の魂をキリストに全く投げかけることも恐れない、自分のすべてを神にゆだね、自分の永遠の至福については神のことばと、神の御約束の忠実さだけにより頼んでいるなどと触れ込んでいながら、それと同時に、自分の財産のごくわずかでも神にゆだねて、敬神の、また博愛の用途にささげられないほど神への信頼に欠けているという場合、私は云う。人々がこのようにしているとしたら、その触れ込みがむなしいことは明々白々である、と。旅の途中にある人が、これこれの場所はとうに過ぎたはずだと想像しているのに、実はまだそこに達していないとしたら、その人は思い誤りをしているに違いない。丘の中腹にも達していない人は、まだその天辺には到達していないのである。しかし、余談はここまでとしておこう。

 に関する種々の感情について述べたことは、他の種々の信仰的な感情にもあてはまる。本物は、それなりの均整をもって、しかるべき姿かたちに成長していくが、まがいものは通常、奇妙にちぐはぐな姿になっていくものである。種々の信仰的な願望や切望もそれと同じである。聖徒は、霊的で、いとすぐれた性質を有する事がらをまんべんなく、またある程度は、それらがどれほどすぐれたものか、どれほど重要か、どれほど必要か、どれほど自分に近い関わりがあるかに応じて、慕い求めたり、切望したりするものである。だが、まがいものの願望は、しばしばそれとは違った様相を呈する。種々のまがいものの願望は奇妙なあり方をしていて、さして重要でもないものを、それよりはるかに重要な事がらを差しおいても激しく、しゃにむに欲する。そのように、たとえばある人々は、自分が何を体験したかを他人に向かって宣言し、相手にものを教えてやりたいという猛烈な意向と、云いようもなく激越な衝動に動かされているが、真のキリスト教が、それと同じくらい、否、それよりはるかに大きなこととしている他の事がらを、それに釣り合うようなしかたで欲することは決してない。彼らは決して、密室の熱心な祈りで自分の魂を神の前に注ぎ出すことや、より神に従って生きることや、より神の栄光を現わすために生きることなどを激しく求めはしない。だが聖書の中には、言いようもない深いうめきや、慕って魂が砕かれることや、渇き求めること慕い求めること慕いあえぐことについて書かれており、こうした後者の事がらの方が、前者よりもはるかに頻繁に記されているのである。

 同じことは、憎しみ熱心についても云える。これらは、正しい原理から出ているときには、罪という罪に対して、その罪深さの度合いにそれなりに応じた形で反発するものである。「私は偽りの道をことごとく憎みます」(詩119:104; 119:128参照)。しかし、罪に対するまがいものの憎しみや熱心は、ある特定の罪だけにしか反発しない。たとえばある人々は、非常に熱心に、冒涜的な言葉や身なり自慢に反発しているようだが、自分自身は、人も知る貪欲さと、けちくささの権化である。あるいはそれは、人をなじることや、目上の者に対するねたみや、支配者に対する不穏な精神や、自分を傷つけた者らに対する根深い悪意かもしれない。まがいものの熱心は、他の人々の様々な罪に反発するが、真の熱心を有する人は、----確かに、他者が危険な不義にとらわれているときには、適切な熱心を示さないわけではないが----主として自分の有する様々な罪に対して熱心を働かせる。ある人々は、自分の内なる腐敗について大きな憎悪をいだいていると触れ込むが、しかし、実行為となっている様々な罪については、心と生活の双方において罪が含まれているにもかかわらず、それらを軽くみなし、ほとんど何の気兼ねも呵責もなしに、それを犯しているように見える。

 まがいものの種々の感情の働きには、その対象の違いに応じて、真の感情にはるかにまさるちぐはぐさが見られるのと同様、その時期の違いに応じても、大きなちぐはぐさが見られる。というのも、確かに真のキリスト者も常に同じようにしているわけではないが----むしろ、その時々によって、非常に大きな違いを示すし、いかにすぐれたキリスト者も、自分の首尾一貫性のなさを大いに恥じるべき理由があるが----、決して小羊が行く所にはどこにでもついて行く、真の童貞である者たちには、まがいものの心をした者並みの変わりやすさや、気まぐれさはない。まことに、正しい者については、主に信頼して、その心はゆるがない、とも(詩112:7)、恵みによって心を強められる、とも云われている(ヘブ13:9)。「義人は自分の道を保ち、手のきよい人は力を増し加える」(ヨブ17:9)。ユダヤ人の教会が示していた偽善の特徴としては、彼らが道をあちこち走り回るすばやい雌のらくだであったことが語られている。

 それゆえ、もし人々が発作的にしかキリスト教信仰に心を傾けなかったり、あるときは信仰的な感情が雲の高みにまで舞い上がるように見えたかと思うと突然地面に舞い戻り、全く無頓着で肉的になるというようなしかたで信仰生活を続けていたり、何か特別な時期----御霊の著しい注ぎ出しがあったり、その他の常ならぬ摂理的な経綸や、何か現実あるいは空想上の大きな恵みを受け取った時など----に限っては心揺さぶられるような感動を覚えキリスト教信仰に盛んに励むようでも、たちまちその心持ちが逆戻りして、それ以外の事がらにもっぱら心を傾け、通常はこの世の物事にしか表立った感情を動かさなかったりするという場合、それらは明らかに、その不健全さの証明である。彼らは、荒野におけるイスラエル人たちのようである。イスラエルは、紅海で神が彼らのためになさってくださったことに心打ち震わせるほど感情を高ぶらせ、神への賛美を歌ったが、たちまちエジプトの肉なべを恋しがった。また、シナイの山に着いて、神が大いなるしかたでご自分を現わすと、またしても心揺さぶられるような感情に燃え、主の仰せられたことはみな行ない、聞き従います、と云って、勢い込んで神との契約を結んだが、すぐに自分たちのために金の子牛を作った。私は云う。人々がこのような状態にある場合、それは種々の感情が不健全であるしるしである、と*3。彼らは、にわか雨が降ったときの雨水のようである。雨が続いている間は、またそのしばらく後には、小川のように滔々と流れているが、たちまちからからに乾ききってしまう。そしてまたにわか雨が降ると、再び地面を流れ出すのである。しかるに真の聖徒は、わき水から出ている流れのようである。確かににわか雨が降れば大いに増水し、渇水期には減水するかもしれないが、尽きることなく流れ続ける(「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、……水がわき出ます」(ヨハ4:14))。あるいは聖徒は、そうした流れのほとりに植わった木のようである。水分が尽きることなくその根に補給されているため、いかなる大干ばつが起こっても、常に青々としている。「主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように。その人は、水のほとりに植わった木のように、流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、いつまでも実をみのらせる」(エレ17:7、8)。多くの偽善者は彗星のようである。しばらくの間は、明々と輝く閃光とともに姿を見せているが、その動きは非常に気まぐれかつ不規則で(それゆえ、それは「さまよう星」と呼ばれている(ユダ3))、その閃光はすぐに消え失せ、長大な間隔をおいてでなければ再び現われることがない。しかし真の聖徒たちは恒星のようである。確かに昇ったり沈んだり、しばしば雲間に隠れたりするが、その軌道は揺るぎなく、常に光輝いている。偽善的な種々の感情は、風に吹き飛ばされる大気(ユダ12)のような、不自然な動きに似ている。しかし恵みによる種々の感情は、川の流れのような、ずっと自然な動きをする。確かに紆余曲折は多く、行く手に障害物が横たわっていたり、所々で進み方が緩慢になることもあるが、概して云えば、一定の筋道に添って、常に同じ方向に進み続け、最後には大洋へと至るのである。

 また、まがいものの感情には、時期の違いによって、奇妙なむらや、ちぐはぐさがあるのと同じように、しばしば、場所の違いによっても、むらや、ちぐはぐさが見られる。ある人々は、寄り集まっているときには、心揺さぶられるような感激を覚えるが、密室でじっと瞑想したり、世のすべてから離れ、ひとりきりで神に祈り、神と会話を交わしたりするときには、決してそれと釣り合うほどの感激を覚えることがない*4。真のキリスト者は、疑いもなく信仰的な交わりや、キリスト者と語り合うことを楽しみとする。また、そこに自分の心を大いに感激させるものがあることを知っている。だが彼はまた、時には、いかなる人からも離れて、ひとりきりで神と会話を交わすことも楽しむものである。さらにこれには、彼の心を引きつけ、種々の感情を引き寄せる独特の甘美さがある。真のキリスト教信仰によって人々は、人気のない場所でひとり聖い瞑想と祈りに励むことをことのほか好むようになる。イサクはそのようであった(創24:63)。また、何にもまして、イエス・キリストの場合がそうであった。いかにしばしば主については、山や寂しい場所に退かれて、御父と聖い会話を交わしておられたと記されていることか! 心揺さぶるような感情を隠すことは困難なものだが、恵みによる種々の感情は、偽りの感情よりも、はるかに内密な、隠れた性質をしている。たとえば、自分のもろもろの罪について聖徒たちがいだく、恵みによる悲しみがそうである*5。こういうわけで、後の日の栄光が始まる際に、真の悔悟者たちがいだくことになる恵みによる嘆きは、どれほど親密な相手からも隠れた、内密のものであると表現されているのである。「この地はあの氏族もこの氏族もひとり嘆く。ダビデの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。ナタンの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。レビの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。シムイの氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。残りのすべての氏族はあの氏族もこの氏族もひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く」(ゼカ12:12、13、14)。他の人々のもろもろの罪について聖徒たちがいだく悲しみも同じである。聖徒たちが、罪人たちの魂のために感ずる痛みや苦悩は、主として隠れた所におけるものである。「もし、あなたがたがこれに聞かなければ、私は隠れた所で、あなたがたの高ぶりのために泣き、涙にくれ、私の目は涙を流そう。主の群れが、とりこになるからだ」(エレ13:17)。同じことは、恵みによる喜びについても云える。聖徒たちの喜びは、この点においても、他の事がらと同じく、隠れたマナである(黙2:17)。詩篇作者は、自分のこの上もなく甘やかな慰めを、隠れていだくものであると語っている。「私のたましいが脂肪と髄に満ち足りるかのように、私のくちびるは喜びにあふれて賛美します。ああ、私は床の上であなたを思い出し、夜ふけて私はあなたを思います」(詩63:5、6)。キリストは、ご自分の花嫁をこの世から人里離れた所へと呼び出し、そこで、そのこの上もなく甘やかな愛を彼女にお与えになるのである。「さあ、私の愛する方よ。野に出て行って、ヘンナ樹の花の中で夜を過ごしましょう。……そこで私の愛をあなたにささげましょう」(雅7:11、12)。聖書に記されている聖徒たちが天来のいつくしみを受けたとき、中でも抜きんでてすぐれたものは、周囲に人がいないときに与えられた。アブラハムに対して神が、ご自分とその契約のあわれみとを際立って現わされたのは、彼がそのおびただしい一族から離れて、ひとりでいるときであった。これは、彼の生涯を丹念に読むなら、たやすくわかることである。イサクが、神からの特別の賜物であるリベカ----彼の大きな慰めとなり、彼に約束の子孫を得させてくれた女性----を与えられたのは、野をひとり歩きし、瞑想していたときであった。ヤコブが人を遠ざけ隠れた祈りをしていたときに、キリストは彼のもとにやって来られた。そこで彼はキリストと格闘し、祝福を得たのである。神がモーセに柴の中でご自分を啓示なさったのは、彼がうら寂しい砂漠で、ホレブの山にいたときであった(出3)。また、後になって神がモーセにそのご栄光を示し、モーセの生涯最高の神との交わりをお与えになったとき、彼は同じ山の上にただひとりでいた。そこに彼は四十日四十夜の間とどまって、顔の肌を輝かせながら降りてきたのである。神があの偉大な預言者エリヤとエリシャのもとに来て、彼らと自由に語り合われたのは、もっぱら彼らの回りに人がいないときであった。エリヤは、モーセと同じシナイ山で、ひとりきりでいるとき神と語り合った。また、イエス・キリストがその未来のご栄光の最高の前味をお与えになった、あの変貌のとき、主は、群衆とともにいたのでも、十二弟子とともにいたのでもなく、うら寂しい山の上に、三人のえり抜きの弟子しか連れずに退き、ご自分が死者の中からよみがえるまで、何が起こったか話してはならないとお命じになった。御使いガブリエルが、かの祝福された処女のもとに来て、聖霊が彼女の上に臨み、いと高き方の力が彼女をおおったとき、彼女はひとりきりだったように思われる。このことは世から全く隠されており、彼女の最も近しく最も親しい地上の友であり、彼女と婚約していたヨセフさえ、これについては何も知らなかった。キリストの復活という喜びに最初にあずかった女も、墓の前でキリストと出会ったときには、ひとりきりであった(ヨハ20)。また、主に愛されたあの弟子が、キリストの素晴らしい幻の数々を与えられ、教会および世に対するその未来のご経綸の数々を示されたとき、彼はパトモスの島にひとりきりであった。むろん聖徒たちが他の人々とともにいるときに、大いなる特権を受けた数々の実例もないわけではない。キリスト者同士の会話や、公同の礼拝には、聖徒たちの心を大いに活気づけ、喜ばせるものが多々ある。しかし、ここまで述べてきたことで私が示そうとしてきたのは、真の恵みはその性質上、いかにキリスト者同士のしかるべき交わりを好ましく感じていようと、それとは別に、人気のない所で神との隠れた会話を楽しむものだということである。こういうわけで、もしある人々が、大勢寄り集まるような信仰的活動には盛んに励みながら、隠れた所ではほとんど信仰的なことと無縁の生き方をしていたり、回りに人がいるときにはしばしば心揺さぶられるような感激を覚えながら、神とキリストのほか語り合う相手がいないようなときにはほとんど感動することがないというような場合、彼らのキリスト教信仰の内実は暗澹たるものと思われる。

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*1 「いやました気遣いと勤勉さとが、御霊の証印を受けた後には続く。今や魂は、墓の前にいたマリヤが恐ろしくはあったが大喜びであったように、キリストの足下にあるのである。高価な財宝をかかえて旅する者は、あらゆる茂みの陰に盗人がいないかどうか不安になるものである」。フラヴェルの『聖餐の黙想』、想4[本文に戻る]

*2 「信仰に悔い改めが伴っているとしても、その信仰は決して増上慢ではない。多くの人々は、罪がわかり、それゆえにキリストを信じ、キリストに信頼するが、そこで彼らの信仰は終わってしまう。しかし、そこにいかなる罪の告白や罪への嘆きがあるだろうか? どこに、この信仰から発した、キリストへのいやまさる愛があるだろうか? 皆無である。否、彼らの信仰こそ、そうしたものを彼らが持たない原因にほかならない。というのも彼らは、だれかがキリストは自分を赦してくださると信頼するなら、キリストはその人を赦してくださると考えるからである。それで事は落着する。まことに、この低劣な信仰、この荊のごとき信仰こそ、キリストを捕らえては、際立って大きな不悔悟と、キリストへの軽蔑によってキリストを刺したり、掻き傷をつけるものであって、ただの増上慢でしかありえない。これこそいつの日か、神のねたみの火によって焼きつくされ、滅ぼされるものである。忌むべきかな、その日が到来するまで、人を苦しませないでおくためにしか役立たない、この信仰は! あなたは、信仰によってなだめられてさえいなければ、もろもろの罪によって悲しまされているはずである。しかし、信仰に加えて、悔い改めと、罪への嘆きと、キリストにある神の恵みをますます尊重する思いが伴っている場合、また、これほど邪悪な者にも変わらぬ愛を注いでくださるキリストを思うことほど心砕くものがなく、この愛によってますます愛が高まり、ますますキリストを愛するようになる場合、また、罪がいや増すにつれて、自分の愛がいや増すことを求める場合、さらに、思うことといえば今や、いかにすれば自分は、自分のため死んでくださったお方のために生きられるかということばかりになっている場合、それがマリヤの信仰であった。泣きながらキリストの御足のもとに座り、それを自分の涙でぬらし、多く赦されたゆえに多く愛していたマリヤの信仰であった」。----シェパードの『堅固な信仰者』、p.128、129。
 「神のみこころに添った悲しみは、(とプレストン博士は、そのパウロの回心に関する講話で述べている)、それが継続するかどうかでわかる。それは途切れることがない。しかし世の悲しみは、精神の情動の1つにすぎず、うつろい行き、長続きしない。あるときには激しく、強く、表立った働きを盛んに行なうが、それは発作的にしか起こらず、すぐに途絶える。さながら鉄砲水が、一時は岸を乗り越えて激しく氾濫するが、やがて退いて行き、もとの姿に戻るのと同じである。しかし神のみこころに添った悲しみは泉に似ており、冬であれ夏であれ、雨期であれ乾期であれ、熱気のもとであれ冷気のもとであれ、朝であれ夜であれ、こんこんと湧き出ずることをやめない。そのように、この神のみこころに添った悲しみは、新生した人のうちにあって途絶えることがない。いついかなるときであれ、常にその人は罪のために悲しんでいる。この神のみこころに添った悲しみは、地球の中心にも似て、動くことなく、常にそこにある」。
 「私の確信するところ、多くの人の心は、こうした理由で、砕けることも嘆くこともないのである。その人は(あるいは)云うであろう。私は卑しい罪人ですが、キリストに信頼しています云々、と。だが、たとえ彼らが自分の罪を滅ぼしてもらうために実際キリストのもとに行くとしても、そのことによって彼らは、よりその罪の中に押し込められてしまう。というのも(彼らの言によると)、一切合切をキリストが行なってくださらなければ、私にはどうしようもないというからである。しかるに信仰によって魂は、主を思ってさらに激しく嘆くものである」。シェパードの『十人のおとめの例え話』、第2部、p.168。[本文に戻る]

*3 オーウェン博士は(著書『聖霊』第3巻2章18節において)、御霊の一般的な働きについて語って、こう云っている。「この働きは種々の感情の上に大きな働きを及ぼす。私たちはすでに、そうした働きによってかき立てられ、動かされるような、霊的な事がらに関する恐れや、悲しみ、喜び、楽しみについて、数々の例をあげてきた。しかし、そうした種々の感情そのものに対する徹底的な働きとしては、2つのことが欠けている。第一にこれは、そうした感情を固定させることがない。また第二にこれは、それらを満たすことがない。1. 私たちの種々の感情は、天的な、また霊的な事がらの上に固定されることが必要であって、真の恵みこそ、それを成し遂げるものである。「もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい」(コロ3:1、2)。霊的で永遠の事物に関する喜びや、恐れや、希望や、悲しみ、すなわち、先に言及したような働きが生み出すものは、その度合いという点のみならず、それらの存在そのものが、もろく、はかなく、不安定である。時としてそれらは、決壊寸前の濁流のようになり、人はそれらを到底迸らせずにはおれなくなるが、時としてそれらは、日照りの時の川のように、からからに干上がってしまう。時としてそれらは熱く、時としてそれらは冷たい。時としてそれらは上り調子で、時として下り坂になる。時としてすべてが天国になり、時としてすべてがこの世となる。そこには何の一貫性も、何の安定性もない。しかし真の恵みは、霊的な事物に対する種々の感情を固定させる。それらの働き方の度合いについては、非常なばらつきがありえるし、実際にある。それは、それらが恵みとその種々の手段によってどのようにかき立てられ、助けられ、補助されるか、あるいは種々の誘惑や逸脱の介入によってどのように遮られ、妨げられるかに応じて変わる。しかし、新しくされた種々の感情の一貫した傾向と意向は、霊的な事物を目指している。それは聖書が至る所で証言し、実体験により確められている通りである」。
 「一時的興奮による、ある種の愛は(とプレストン博士は云う)、神が受け入れなさらないものである。それは、人々が神のもとに出て、海の波頭にも似た、山ほどにも高い、誇大な約束を申し出るような場合を指す。彼らは思う。おゝ、自分は神のために多くのことを行なうのだ! と。しかし彼らの精神は一変する。そして彼らは、高くふくれあがったあの波頭が、しまいには水面と同じ高さまで落ちたようになってしまう。かりに、ある人があなたに非常に親切な申し出をしたとして、後であなたが彼に会ってその好意を受けようとしたとき、まるで初対面ででもあるかなような怪訝な顔つきであなたを見返したとしたら、あなたはそのような愛をどう思うであろうか? もし私たちが自分の愛を働かせたり止めたりしてばかりいるなら、神はそのような愛を重んじないであろう」。『キリストの天来の愛に関する講話』
 フラヴェル氏は、こうした不安定な信仰告白者のことを語って、こう云っている。「こうした告白者らは太陽というよりは月に似ている。光は少なく、熱は少なく、変化にだけは富んでいる。彼らは多くの人を欺き、しかり、自分自身をも欺いている。彼らは自分を堅実にし、安定させておいたであろう底荷や支えを自分のうちに欠いているのである」。『真摯さの試金石』、第2章、第2節[本文に戻る]

*4 「主は密室では無視されているが、公には敬われている。なぜなら、彼らの寝室の中には、彼らの帆を膨らませてくれるような風が吹いていないからである。それゆえ、彼らはそこでは何もしない。こういうわけで多くの人々は、情熱が感じられなくなっても、信仰の告白を保ち続けるのである。そうしていさえすれば、心が死んでいようと、生きていると呼ばれる(そして、それで十分なのである)。また、こういうわけで彼らは、自分を愛し、ほめてくれる人々のことは愛するが、そうしなくなった人々のことは見捨ててしまう。彼らは、だれか他の人の火によってのみ暖かくなる----つまり、内側に何のいのちの原理も持っていない----ので、すぐ死んでいく。これこそ、パリサイ人の水車を回す水である」。シェパードの『例え話』、第1部、p.180。
 「偽善者は、(とフラヴェル氏は云う)隠れた所を好まず、会堂を好む(マタ6:5、6)。世の喧噪から逃れて、密室で神を喜ぶことは、その飢えを満たすことも、その渇きを癒すこともない」。『真摯さの試金石』、第7章、第2節。
 エイムズ博士は、その『良心の問題』第3巻5章で、真摯な者かそうでないかは、これによってわかると語っている。「そうした人々は、人から見られていようがいまいが、同じように従順である。密室にあっても、人前と同じように、否、人前以上に従順である」。そしてその根拠としてピリ2:12およびマタ6:6をあげている。[本文に戻る]

*5 フラヴェル氏は、聖徒たちの悲しみを偽善者たちの悲しみと区別する事がらを数え上げる中で、こう云っている。「彼らが罪についていだく心痛は、他の人々にくらべると、ずっと内密なもので、ずっと人目につかない。彼らのただれは、夜に膿むのである」。『真摯さの試金石』、第5章、第5節。[本文に戻る]



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