第11節 もう1つの大きな、また際立って特徴的な違いは、恵みによる種々の感情は高まれば高まるほど、魂の霊的な欲求と、霊的に高い境地に達したいという切望とを強くするが、それとは逆にまがいものの感情は、自己満足しきって安閑としている、ということである*1
真の聖徒は、恵みによる愛で神を愛すれば愛するほど、ますます神を愛したくなり、ますます神に対する自分の愛の足りなさに苛立つようになる。罪を憎めば憎むほど、ますます罪を憎みたくなり、ますます罪への多大な愛が自分に残っているのを嘆くようになる。罪のために悲しめば悲しむほど、悲しみたくなる。心が砕かれれば砕かれるほど、ますます砕かれたくなる。神と聖さを渇き求めれば求めるほど、ますます求めたくなり、狂おしいほど神をあえぎ求めたくなる。恵みによる種々の感情が燃え立ち、高められるのは、火が燃え立つ場合に似ている。高まれば高まるほど、熱く燃えるようになり、燃えれば燃えるほど、激しく燃えさかろうとする。こういうわけで、聖さを求め、聖い種々の感情がいや増すことを求める霊的欲求は、ずば抜けた聖さを有する人々の方が、そうでない人々よりも強く、激しいのである。また、恵みと聖い種々の感情が最も活発に働いているときの方が、そうでないときよりも強く、激しいのである。霊的に新しく生まれた者が聖さにおいて成長したいと渇望するのは、新生児が母親の乳房をひたすら求めるのと同じくらい自然なことである。赤子は健やかであればあるほど、大いに空腹を感ずるからである。「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです」(Iペテ2:2、3)。聖徒たちがこの世でいかに豊かな祝福を受けようと、それは単に、彼らの完全な分け前である未来の栄光のごく小部分であり、前味でしかない。使徒が述べている通りである(Iコリ13:10、11)。聖徒たちがこの世でいかに抜きんでた完全な境地に達するとしても、そこには、彼らを堪能させたり、より多くを求める彼らの願望を鈍らせたりするようなものは何もない。むしろ逆にそれは、彼らをいやまさって熱心にひた走らせようとする。これは使徒の言葉から明らかである。「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、……目標を目ざして一心に走っているのです。ですから、成人である者[完全な者 <英欽定訳>]はみな、このような考え方をしましょう」(ピリ3:13-15)。
なぜこのようなことが起こるかというと、人は、聖い種々の感情を持てば持つほど、先に私が語ったような霊的趣味を豊かにいだくようになるからである。それによって人は、聖さのいとすぐれた性質を知覚し、その天来の甘やかさを味わい楽しめるようになる。また人は、恵みを持てば持つほど、この不完全な状態にある間は、自分の不完全さと空虚さ、また、あるべき姿との隔たりを、いやまして見てとるようになる。そして自分が恵みを必要とすることを、いやまして見てとるようになる。これは先に私が、福音的なへりくだりの性質について語った際に示した通りである。それだけでなく恵みは、不完全な間は、成長していく性質を帯びており、成長する状態にあるものである。これは、いかなる生物のうちにも見てとれることに等しい。生物は、未熟なうちは、また成長期にある間は、成長してやまない性質を帯びており、それが健康で、力強い状態にあればあるほど、はっきり見てとれるものである。それゆえ、いかなる真の恵みが発する叫びも、あの真の信仰が発した叫びに似たものとなるのである。「信じます。不信仰な私をお助けください」(マコ9:24)。そして真のキリスト者は、種々の霊的な悟りと感情を大いに持てば持つほど、ますます熱心に恵みを、また成長していくための霊的食物とを懇願するようになっていく。また、しかるべき手段と努力とを用いて、ますます熱心にそれを追求していく。というのも、真の、また恵みによる、聖さへの切望は、決して手をつかねて無為に過ごすだけの願望ではないからである。
しかし、ここである人々は反論するかもしれない。それがどうして、あの万人も認める原則、すなわち、霊的な喜びには魂を満ち足らわせる性質があることと矛盾しないのか、と。
答えよう。霊的な喜びに魂を満ち足らわせる性質があるとはどういうことか考えてみさえすれば、それが今しがた述べてきたこととは全く矛盾しないことが明らかになるであろう。霊的な喜びに、人を飽き飽きさせるような性質がないことは確かである。そうした喜びを----不完全な程度でしかないにせよ----少しでもいだいた人が、それ以上何も欲さなくなるようなことはないに違いない。しかし、種々の霊的な喜びには、以下のような点で、魂を満ち足らわせる性質があるのである。 1. それらは、その種類と性質において、人間の魂の性質と器と必要とに、完全に適したものである。それで、そうした喜びを見いだした人は、他のいかなる種類の喜びも願い求めなくなる。その人は、自分のいだいている種類の幸福に充足しきって、何の変化も求めず、もはや、だれかわれわれに良い目を見せてくれないものか、などと云いながらうろつき回りたいとは思わなくなる。その魂は決して飽いたり、うんざりしたりせず、むしろ、いつまでもこの幸福に没頭していようとする。しかしそれは、この幸福を幾分かでも味わった人が、同じ幸福をいやまさって願い求めることがないということではない。 2. こうした喜びが人を満ち足らわせるもう1つの点は、それらが欲求の期待に答えるということである。何かに対する欲求が高ければ、それに応じて期待も高くなる。特定の対象に向けられる欲求には、期待という性質が含まれる。この期待は、この世の喜びによって満たされることはない。人は幸福がいや増し加わることを期待するが、それは失望に終わる。しかし種々の霊的な喜びについてはそうではない。それらは期待に完全に答え、完全に満足させる。 3. 種々の霊的な喜びによる満足感や快感は永遠のものである。この世の喜びではそうはいかない。それらは、ある意味では特定の欲求を満足させるが、その欲求は満足させられることによって飽満してしまい、そこでその快感は幕を閉じる。そして、その幕切れを迎えるやいなや、人間性に根づいた、幸福一般を求める欲求が舞い戻ってくる。しかしそれは満たされないままで、それを満足させるものは何もない。つまり、ある特定の欲求を飽満させるのは、人間全体から見ればその渇き求めから奪いとって、空っぽにするだけなのである。 4. 霊的な善が満ち足らわせるというのは、そこには魂を、その度合いにおいて十分満足させるだけのものがあるからである。障害が取り除かれさえするならば、またそれを喜ぶ魂の機能がしかるべく適用されさえするならば、そこには魂を完全に満足させるものがある。ここには、魂が十分に身を伸ばすだけの余地がある。ここには無限の広がりがある。もし人が、その幸福の度合いにおいて、ここで満足させられないとしたら、その原因はその人自身にあるのである。それはその人が自分の口を十分開いていないことによるのである。
しかしこうしたことが云えるからといって、この喜びを一口味わった魂が、同じ喜びをいや増して求める欲求を全くかき立てられないということにはならない。あるいは、そうした喜びを完全に受け取る日が来るまで、その欲求が全く増し加わらないということにはならない。それはさながら、引力にひかれている物体が、引き寄せている地球に近づけば近づくほど勢いを増し、地球の中心に至るまで停止することがないのと同じである。霊的な善には、満ち足らわせる性質がある。そして、まさにその理由によってこそ、この善を味わい、その性質を知った魂は、それを渇き求め、その満ち満ちた豊かさを、また、それが完全に満たされることを渇望するのである。また人は、このいとすぐれた、比類なき、絶妙の、満ち足らわせる甘やかさを体験して知れば知るほど、ますます熱心にさらに多くを求めて飢え渇き、それは完全に至るまでやむことがない。それゆえ霊的な種々の感情は、その性質上、心を揺さぶれば揺さぶるほど、ますます恵みと聖さを求める欲求と切望とを強めるのである。
しかし、こうした喜びを初めとする種々の信仰的な感情のまがいもの、偽物の方は、それとは違っている。かつては、ある種の心揺さぶるような願望によって恵みを求めることがあったとしても、そうした感情が高まるにつれて、その願望は消え失せるか、しぼんでしまう。人は、律法的な罪の確信のもとに置かれて、大いに地獄に恐怖していた間は、心に霊的な光を受けたい、キリストを信ずる信仰を得たい、神を愛する愛を自分のものにしたいという熱心な願いをいだいていたかもしれない。だが今や、こうした種々のまがいものの感情が彼を欺き、その人に、自分は回心したのだ、自分は堅固な状態にあるのだという自信を持たせると、光や恵みを熱心に求める切望は何もなくなってしまう。というのも、彼の目的は達せられたからである。彼は自分のもろもろの罪が赦されたこと、自分が天国に行けることに自信満々である。それで満足しているのである。また、まがいものの種々の感情は特に、非常に激しく高められると、恵みや聖さを求める切望を消し去ってしまう。今やその人は、自分の目には、何も持たないあわれな被造物とは全くかけ離れた者に見える。逆に、自分は富んでいる、持ち物を増し加えている、と考え、いま達している境地ほどすぐれたものは思いもよらない。
こういうわけで、多くの人々は、自ら自分の回心と呼ぶものをいったん手に入れると、----あるいは、少なくとも、自分が回心したことに完全な自信を持たせてくれるような、心打ち震わせる種々の感情をいだいた後では----、熱心に求めることをやめてしまうのである。以前は、われながら生まれながらの状態にあると思っていたので、神とキリストを一心に求め、恵みを熱心に懇願し、種々の手段を用いて苦闘していたが、今や彼らは、あたかもすべての務めは成し遂げたと思っているかのように行動している。彼らはその最初のわざを頼りにするか、何か過去の心打ち震わせるような種々の体験を頼りにして生きている。そして、神と恵みを求めて懇願することも、苦闘することもやめてしまう*2。しかるに、真の聖徒を動かしている聖い種々の原理は、奴隷的な恐れなどよりも、はるかに力強い影響力によって彼を奮い立たせ、神と聖さを熱心に求めさせるものである。それで神を求めることは、聖徒たちをまぎれもなく示す特徴の1つとして語られているのである。また、神を求める者こそ、聖書が記す敬虔な人々の呼び名の1つなのである。「これこそ、神を求める者の一族、あなたの御顔を慕い求める人々、ヤコブである」(詩24:6)。「あなたを慕い求める者たちが、私のために卑しめられないようにしてください」(詩69:6)。「心の貧しい人たちは、見て、喜べ。神を尋ね求める者たちよ。あなたがたの心を生かせ」(32節)。また、「あなたを慕い求める人がみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが、『神をあがめよう。』と、いつも言いますように」(70:4)。また聖書は至るところで、キリスト者の求めと苦闘と労苦とを、もっぱらその回心の後になされるものと表現しており、キリスト者の回心は、単にその働きの始まりでしかないとしている。それだけでなく、新約聖書の中で云われているほとんどすべてのこと----すなわち、人々が油断せずにいること、しっかり自分自身に気を配ること、前に置かれている競走を走ること、奮闘し、苦闘すること、血肉に対してではない格闘を主権や力に対して行なうこと、戦うこと、神のすべての武具を身に着けること、立っていること、いっさいを成し遂げて堅く立つこと、前進すること、ひたむきに進むこと、絶えず祈りに励むこと、昼も夜も叫び続けること----、新約聖書にあるこうした事がらのほとんどすべては、まさしく聖徒たちについて、また聖徒たちに向かって語られているのである。こうした事がらが、回心を求めている罪人にあてはめられている場合が一箇所あるとしたら、それらが聖徒たちの高い召しによる大いなる務めとして、また彼らの遂行すべきこととして語られている場合は、その十倍もある。しかし近年、多くの人々は奇妙な反聖書的立場に陥っており、あらゆる苦闘や格闘を、自分たちが回心する前に行なうものとしている。そして、その後では、のんびり気楽に構えて、ものぐさと怠惰とを決め込もうとしている。まるで、今や自分の欠乏は補われた、自分は富んで豊かになっている、と云っているかのようである。しかし主は、飢えた者を良いもので満ち足らせるとき、富む者を何も持たせないで追い返されるお方にほかならない(ルカ1:53)。
しかし疑いもなく一部の偽善者たちは、まがいものの感情しか持っていないにもかかわらず、自分はこの審査を通過できると考えるであろう。また、喜び勇んで云うであろう。自分は、かつて達した境地などに満足したり、安閑としていようとは思いません、むしろ前進したいと願っています、私はより多くを願い、神とキリストを切望し、より聖さを願い求めています、と。しかし実は彼らの願望は、本来の意味では、聖さに対する願望ではない。聖さそのもののための願望でも、その道徳的にいとすぐれた性質や、聖い甘やかさゆえの願望でもない。単にそれは、私利私欲のための願望にほかならない。彼らがより明確な悟りを切望するのは、自分の魂の状態に、いやまさる満足を感じたいがためである。さもなければ、大きな悟りを得ると、自分はこれほど豊かに神に用いられているのだ、自分は他の人々よりも格段にすぐれた信仰者なのだ、という自己満足を味わえるからである。彼らは、神の愛を(彼らの云い方によれば)味わうことは切望しても、いやまさる神への愛をいだきたいとは、さほど思わない。あるいは彼らは、一種の、不自然な、想像上の、つくりものめいた切望をいだいているのかもしれない。なぜなら彼らは、自分はより恵みを切望しなくてはならない、さもないとそれは自分にとって不吉なしるしとなるだろう、と考えているからである。しかしこうしたことは、新しい人が自然に----また、いわば必然的に----いだく、神や聖さに対する欲求や慕い求めからは、およそかけ離れたものである。聖徒には、聖さを求めてうちに燃える願望がある。それは体温が体にとって自然なものであるように、新しく造られた者たちにとって自然なことである。そこには、神の御霊によってますます聖められたい、という慕いあえぎがある。それは生きた体にとって呼吸が自然であるのと同じくらい、聖い性質にとって自然なことである。また、聖さあるいは聖化は、いかなる神の愛やいつくしみの顕現にもまして、聖徒が真っ先に願い求めるものである。これこそ、霊的欲求の目当てたる食べ物であり、飲み物である。「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です」(ヨハ4:34)。聖書において聖徒たちの願望や、切望や、渇きのことが記されている場合、その目当てとして何にもまして頻繁に言及されているのは、義と、神の律法にほかならない。聖徒たちが純粋な、みことばの乳を慕い求めるのは、自分への神の愛を証言してもらうためというよりも、それによって成長し聖くなるためである。先に示したように、聖さこそ、霊的な趣味が真っ先に慕い求める良きものである。しかし疑いもなく霊的な趣味の主たる対象であるのと同じ甘やかさこそ、霊的な欲求がもっぱら目当てとしているものにほかならない。恵みは敬虔な人の財宝である。「主を恐れることが、その財宝である」(イザ33:6)。敬虔さこそ、その人が貪欲に求める利益である(Iテモ6:6)。偽善者たちが種々の悟りを切望するのは、そうした悟りが現在の慰めを与えてくれたり、そこに神の大きな愛の現われが含まれていたりするためであって、心を聖める影響力がそこに含まれているためではない。しかし、大きな悟りを得たいとか、神の愛を大いに味わい知りたいとか、天国に行きたいとか、死にたいとかいう、いかなる切望にもはるかにまさって、真の聖徒をまぎれもなく確実に示すしるしとなるのは、より聖い心を得ること、より聖い生活を送ることを切に求める望みにほかならない。
_________________________________________________
*1 「まことに、キリストのみわざのうち正しいものはみな、(とシェパード氏は云う)魂をして、さらに多くを切望させようとするものである」。『十人のおとめの例え話』、第1部、p.136。
さらにまた、「真の恵みは無限に循環している。人は渇望することによって受け取り、受け取ることによってさらに多くを渇望する。だが、それで御霊は、諸教会にあふれんばかりに注ぎ出されることがないのである。なぜなら人々は、自分たちの種々の一般恩恵や賜物に目がくらんで自足してしまい、それによって御霊を閉め出しているからである」。前掲書、p.182。
また、p.210ではこう云っている。「私は云う。真の恵みは、慰めを与えはするが決して満ち足らせはしない。むしろ欲求を激しくかき立て、『その恵みをさらに与えたまえ、主よ!』、と叫ばせるものである。たとえばパウロがそうであった(ピリ3:13、14)。ダビデもそうであった。貧しさの中から私はささげた云々(I歴29:3、17、18)。御霊による軽い打ち傷において、決して欺かれないための確実な方法は、何を受けても感謝するが、何をもってしても事足れりとしないことである。これこそ、御霊による軽い打ち傷を薄っぺらなものとするか、健全なものとするかの分水嶺にほかならない」。[本文に戻る]*2 「通常、まがいものの心をした人が最も勤勉に主を求めているらしく見えるのは、彼が最悪であるときであり、最も無頓着らしく見えるのは、最善のときである。それで多くの人々は、その最初の回心においては熱心に主を求めるが、後になると、いかなる感情も努力も消え失せてしまう。今や彼らは、建前の上では良くなっている。----偽善者の最終的な目的は、自分を満足させることである。だから十分満ち足りることができる。聖徒の最終的な目的は、キリストを満足させることである。それで彼は決して十分満ち足りることがないのである」。シェパードの『例え話』、第1部、p.157。
「おそらく多くの人は云うかもしれない。私のうちには何もありません、すべてがキリストのうちにあります、と。それで彼らは自分を慰め、そのようにして眠り込んでしまう。手を出すな! この箱に触れるな! 主に打ち殺されないように。そんなことのためなら、ぼろくず製のキリストでも十分役立つであろう」。前掲書、P.77。
また、p.93、94でシェパード氏は、死んだ希望をいだく人々の特徴に言及して、こう云う。「ほんのわずかな聖さと恵みがあれば自足してしまう者たち、そうした人々は、キリストが来臨し、自分たちとともにいることになるのを待ち受けてはいない。主を待ち受けている聖徒たちは、自分が望んでいるだけの聖さと恵みは有してはいないが、いささかも満足することはないからである。『キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします』(Iヨハ3:3)。----聖徒たちは、栄光ある者とされるまで、またその夫とともに立つにふさわしい者とされるまで、いかなる衣裳によっても自足することがない。----もしもある人が、それなりの信仰と恵みを得るまでは離れないが、いざそれを得ると、これこそ自分が救われている堅固なしるしであるとして自足してしまう場合、その人はキリストを待ち受けているのではない。あるいはそれは、人々が罪によって重くのしかかられていた後で、キリストに近づき、そこで慰められ、証印を押され、喜びに心満たされてしまうと、そのわざをやめてしまうような場合である。----また、人々がいかなるものによって自足しようとせず、恵みを成長させるものならいくらでもを持ちたいと願いつつも、手をこまねいて何もしないという場合である。さらには、神にすべてを行なわせようとするが、自分では自分をきよめようとせず、そのためのわざを行なおうとしない場合である」。
そしてp.109では、「この世に生きている偽善者は、ただひとりの例外もなく、自分勝手な目的のためキリストに近づいている。人は、自分の原理以上の働きは行なえないからである。さて人々は、自分の目的のために他人を利用するだけ利用すると、離れ去って、自分の得たものをかかえこむものである。偽善者がキリストに近づくのは、人が品揃え豊富な店に近づくのと似ている。彼は店中のものを買い込むようなことはしない。金をかけるのは、自分の役に立つ物だけである。通常、恐怖に襲われている人々は、その恐怖を打ち消すに足るだけのキリストしか求めない。それで彼らは、自分を持ち上げてくれるだけのキリストしか告白せず、求めないのである。また、それで彼らがキリストを求める願望はすぐ満足させられるのである。Appetitus finis est infinitus.(渇望とは果てしないものである)」。
「災いなるかな、自分の怠惰にこびるようなキリストを脳裏に描き、そのようなキリストを心に受け入れることのできる者は。主はご自分の栄光に加えられたこの悪に対して、いまだかつて人間が感じたことのないほど大きな悲嘆によって復讐なさるであろう。彼らはキリストを食べ物飲み物とするだけでなく、自分の怠惰さを包み隠す衣服としたのである。----なぜ、私たちに何ができましょう? 私たちに何ができましょう? と云うのか。----最初のアダムが罪の咎だけでなく、力も伝えているように、第二のアダムは義と強さの両方を伝えておられるのである」。前掲書、p.158。
「主が何らかの光と情愛を与え、何らかの慰めと何らかの改心を与えておられるとき、そのとき人は十分成長する。聖徒たちは神のために行なうが、肉的な心も何ごとかは行なう。しかし、ちょっとしたことで彼らは満たされ、なだめられ、そのことにより断罪される。また、それで人々は、自分に対する最初のみわざにおいては、非常に勤勉に種々の手段を用いるが、その後になると祈りをないがしろにするようになり、説教の間中眠りこけ、無頓着で、活気も生気もなくなるのである」。前掲書、p.210。
「ある人が自分に向かって、さながらあの大食漢が自分の魂に向かって、『さあ、安心せよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた』、と云ったように云うとしたら、それは恵みが欠けている1つの証拠である。そのようにあなたも悔い改めと恵みと平安を、これから先何年分もためこんだ。それで魂は安心して、ものぐさになり、怠慢になっていくのである。おゝ、もしあなたがこのような状態で死ぬとしたら、今晩あなたの魂は取り去られて地獄へ行くであろう」。前掲書、p.227。[本文に戻る]
HOME | TOP | 目次 | BACK | NEXT