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第12節 恵みによる種々の聖い感情は、キリスト者的な行ないによって働き、実を結ぶ

 すなわち、そうした感情に支配されている人は、ある種の影響力と力が及ぼされていて、その結果、キリスト者の種々の基準に全面的に従った行ない、またそうした基準の指し示す行ないを、自分が生涯なすべき行ない、務めとするのである。

 これは3つのことを意味している。1. この世におけるその人のふるまい、あるいは行ないが、キリスト者の種々の基準に全面的に従ったもの、そうした基準の指し示すものとなること。2. その人は、他の何にもまして聖い行ないという務めに励み、それがその人の主として携わる務め、専念する務め、この上もなく熱心かつ勤勉に追求する務めとなるため、こうしたキリスト教信仰の実践を、無二の稼業、本務としていると云えるほどであること。----そして、3. その人は、一生の間この行ないをやり通し、単にある特定の時期だけとか、日曜日や、特定の異常な時期だけとか、ある月だけ、ある年だけ、七年間に一度だけとか、ある特定の状況下においてだけ、その人の務めとするばかりでなく、これを一生の務めとし、いかなる変化をこうむろうと、いかなる試みにさらされようと、生きている限りやり通すべき務めとしていること。すべての真のキリスト者にとって、これら3つがみな必要であることは、神のことばの中で何よりも明確に、また余すところなく教えられていることである。

 1. 人は、全面的に従順になる必要がある*1。「キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。……キリストが現われたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。キリストには何の罪もありません。だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪のうちを歩みません。罪のうちを歩む者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。……。義を行なう者は、キリストが正しくあられるのと同じように正しいのです。罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です」(Iヨハ3:3以下)。「神によって生まれた者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています。……悪い者は彼に触れることができないのです」(5:18)。「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です」(ヨハ15:14)。「律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです」(ヤコ2:10)。「あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者……はみな、神の国を相続することができません」(Iコリ6:9)。「肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません」(ガラ5:19-21)。つまり、何らかの種類の悪を1つでも行なう者は神の国に入れない、ということである。「不正をする者にはわざわいが、不法を行なう者には災難が来るのではないか。神は私の道を見られないのだろうか。私の歩みをことごとく数えられないのだろうか。もし私がうそとともに歩み、この足が欺きに急いだのなら、正しいはかりで私を量るがよい。そうすれば神に私の潔白がわかるだろう。もし、私の歩みが道からそれ、私の心が自分の目に従って歩み、私の手によごれがついていたなら」云々(ヨブ31:3-7)。「もし彼が不正をせず、いのちのおきてに従って歩むなら、必ず生きる」*(エゼ33:15)。たとえからだの一器官しか腐敗していなくても、もしそれを切り落とさなければ、全身が地獄に引きずり込まれるであろう(マタ5:29、30)。サウルは神の敵アマレク人を全員殺すように命ぜられた。だが彼はアガグだけは生かしておき、それが彼の破滅となった。カレブとヨシュアが神の約束された安息にはいったのは、彼らが主に従い通したからである(民14:24; 32:11、12; 申1:36; ヨシ14:6、8、9、14)。ナアマンの偽善を明らかにしたのは、----確かに彼は自分のらい病を癒してくださった神への感謝に非常に感激したように見え、神に仕える約束をしたが----彼が1つだけ免除してほしいと願ったことであった。またヘロデは、確かにヨハネを恐れて、ヨハネに面会し、喜んでその言葉に耳を傾け、多くのことを行ないはしたが、それでも罪に定められた。1つのことだけは、すなわち、自分の愛するヘロデヤと別れることだけは、ヨハネの言葉に従おうとしなかったからである。こういうわけで人々に必要なのは、ただ普通の罪と縁を切るばかりでなく、自分の右手右目ともいうべき最愛の不義とすっぱり縁を切ること、自分に最も頑固にからみついている罪や、自分の生まれながらの意向や悪い習慣や特定の状況などから最も弱みとなっているような罪を断ち切ることである。ヨセフが、一家の愛児ベニヤミンが引き渡されるまで自分の正体を兄たちに明かそうとしなかったのと同じように、キリストも、私たちが自分の最愛の情欲と手を切るまで、また最も困難な義務----私たちが最も大きく嫌気のさすような義務----に従う気持ちになるまで、私たちに対するご自分の愛を打ち明けなさることはないであろう。

 また、重要なこととして述べておくべきだが、もし人が全面的に従順になりたければ、その従順は、単に否定的な面にしかかかわらないもの、悪い行ないを全面的に避けているだけのものであってはならない。その人は、キリスト教信仰の積極的な面にも全面的に従順でなくてはならない。何かを行なわない罪は、何かを行なう罪と同じくらい大きな、神の戒めに対する違反である。キリストがマタ25章で描き出している、左手に立つ人々は、様々なことを行なわなかった罪のために、罪に定められ、呪われて永遠の火に落ちることになっていた。おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、云々。それゆえ、人が全面的に従順で、キリスト者的な生き方をしていると云われるためには、ただ単に、盗みをせず、人を虐げず、詐欺を働かず、大酒を呑まず、居酒屋通いをせず、売春をせず、放蕩せず、夜の稼業に携わらず、猥褻行為をせず、言葉で神を冒涜せず、人を中傷せず、嘘をつかず、怒りに身を任せず、悪意を持たず、人をののしらないというだけでは決して十分ではない。その程度までは行ないながら、それ以上のことは全くしない人々を、福音に似つかわしい生き方をしていると云っては誤りである。そうするためには、その人はこれらに加えて、真面目で、信心深く、敬虔で、へりくだっていて、柔和で、人を赦し、平和を好み、礼儀正しく、弱い者に自分を合わせ、慈愛に富み、あわれみ深く、愛に満ち、慈善心に富んだ歩みと生き方をしていなくてはならない。こうした事がらがない限り、その人はキリストの種々の律法には従っていないのである。キリストとその使徒たちが、何よりも重要かつ必要なこととして、至る所で強調している種々の律法に従っていないのである。

 2. 人々を真のキリスト者であると認めるには、彼らがキリスト教信仰の務めおよび神への奉仕を、非常な熱心さと勤勉さをもって遂行し、そのことに自分のすべてを捧げ、それを自分の生涯最大の務めとしていることが必要である。キリストがご自分の民とされたすべての者は、単に良いわざを行なうだけでなく、良いわざに熱心な者たちである(テト2:14)。だれも、ふたりの主人に同時に仕えることはできない。神の真のしもべである者たちは、神への奉仕に身を捧げ、それをいわば自分の働きのすべてとし、そこに自分の全心を傾け、そこに自分の力のほとんどを注ぎ込むのである。「ただ、この一事に励んでいます」(ピリ3:13)。キリスト者たちは、その有効召命において、無為な生き方に召されたのではなく、神のぶどう畑で労働し、一生を困難で骨の折れる奉仕に費やすために召されたのである。真のキリスト者はみな、この召しに応じ----それこそ、これが有効な召命だという意味である----、キリスト者の働きを行なう。それを新約聖書は、至る所で競走や、格闘や、戦闘など、人が死に物狂いの力を尽くすのを常とする活動にたとえている。真のキリスト者はみなイエス・キリストの勇敢で忠実な兵士であり、信仰の戦いを勇敢に戦う。そうする以外に、永遠のいのちを獲得することはできないからである。空を打つような拳闘をする者は決して勝利の栄冠を得ることはない。競技場で走る人たちは、みな走っても、賞をかちとるのはただひとりである。また、途中でだらけたり、怠けたりする者は、賞を受けられるように走っているのではない。天国は激しく攻める者たちにしか奪い取れない。熱心さがなければ、いのちに至る狭い道を歩いて行けず、その先にある栄光のいのちと幸福の状態へと到達することはできない。真剣な労苦がなくては、シオンの山の急坂を登っていくことはできず、その頂上に立つ天の都にたどり着くことはできない。たゆまず刻苦しない限り私たちは、自分が泳いでいる急流をさかのぼり、その水源にある、いのちの水の泉に至ることはできない。私たちは、いつも油断せずに祈っているのでなくては、やがて不敬虔な人々の上に臨もうとしているすさまじい事がらをのがれることはできず、人の子の前に立つことができる者として数えられることはできない。私たちは、神のすべての武具を身に着け、いっさいを成し遂げて、堅く立つのでなくては、完全な敗北を避けられず、悪魔が放つ火矢によって全く滅ぼされてしまう。私たちは、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走るのでなければ、その栄冠を得ることはできない。神のしもべであると告白していながら、神に仕える道において怠慢を決め込むのは、公然たる反逆と同じくらい断罪に値する。なまけ者のしもべ悪いしもべであり、神の公然たる敵どもがいる外の暗やみに追い出されるからである(マタ25:26、30)。なまける者たちは、信仰と忍耐によって約束のものを相続する人々にならう者ではない。「そこで、私たちは、あなたがたひとりひとりが、同じ熱心さを示して、最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します。それは、あなたがたがなまけずに、信仰と忍耐によって約束のものを相続するあの人たちに、ならう者となるためです」(ヘブ6:11、12)。そして、先に天国に行ったあの雲のように多くの証人たちにならう者はみな、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、自分の前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けるのである(ヘブ12:1)。人々が、キリストの義と、自分たちのためにキリストが行なってくださったみわざとにより頼み、真にキリストを糧としていのちを得るにあたって働かせる、真の信仰に例外なく伴っているのは、キリスト者的な働きと行動とを熱心に行なおうとする精神である。このことは、古のイスラエル人が過越の小羊を食べた際のようすによって象徴されている。「あなたがたは、このようにしてそれを食べなければならない。腰の帯を引き締め、足に、くつをはき、手に杖を持ち、急いで食べなさい。これは主への過越のいけにえである」(出12:11)。

 3. あらゆる真のキリスト者は、いかに多くの試みに直面しようと、この全面的な従順さによって生きる道、勤勉で熱心に神に仕える道を生涯最後まで歩き通す。すべての真の聖徒たち、永遠のいのちを得るすべての者たちが、このようにキリスト教信仰の行ないと神に仕える道を歩み通すことは、聖書の中で数限りなく教えられており、ここでそうした教えを含む聖句を逐一列挙していたら切りがないであろう。私は一部の箇所を脚注に引用するだけにとどめておこう*2

 しかし、このように従い通す歩みのうち、何をもって聖書は、真の恵みを示す特別なしるしとして主に強調しているかというと、それは、信仰を告白する者たちが自分の種々の義務を行ない通し、いかなる試みに遭おうと、この聖い歩みに堅く立ち続けることにほかならない。

 ここで私が試みという言葉で意味しているのは、信仰を告白する者がその行路で直面するものの中でも特に、自分の義務や神への忠実さを貫き通すことを天性にとって困難にするような事物のことである。こうした事物のことを聖書は試み誘惑と呼んでいるが、どちらも同じことを意味している。こうしたものの種類は千差万別である。たとえば多くの事がらは、情欲や腐敗をはぐくみ醸成するか、かき立てて扇動するような傾向によって、義務の道を貫くことを困難にする。また多くの事がらは、人を魅惑する性質や、人を罪へと誘惑する傾向によって、義務の道を歩み通させるのを難しくする。あるいは、人々の歯止めをなしくずしにし、不義について大胆にさせようとする傾向によってそうする。また、やはり信仰を告白する人々の健全さや堅固さにとって試みとなるものは、彼らに自分の義務を辛く思わせ、彼らを義務から追い払おうとしがちなものである。たとえば、彼らの義務によって彼らがさらされる苦しみや、痛み、悪意、軽蔑、非難、物質的な財産や慰安の喪失などがそれである。もし人々が、キリスト教信仰の告白をした後で、ある程度の期間この世----これほど変転絶え間なく、悪に満ちた世界----で過ごすとしたら、その真摯さと堅固さを試みる多くのものに遭わずにいられるわけがない。そればかりか神が、その摂理的ななさりかたによって、故意に種々の試みを、信仰を告白するご自分の友たち、しもべたちにもたらされる。それは彼らの存在をはっきりと示すため、また彼らがいかなる状態にあるかについて、十分な確信を彼ら自身の良心に----また、しばしば世に対しても----明らかに示すためである。これは無数の聖書箇所から明らかである。その一部を脚注に示しておこう*3

 真の聖徒たちも、ある程度までは、何らかの種類の信仰的な後退に陥ることがありえる。特定の誘惑に裏をかかれて、罪に陥る----しかり、非常にはなはだしい罪に陥る----ことがありえる。だが彼らは決して、キリスト教信仰や神に仕えることに飽き飽きするほど落ちて行くことはない。キリスト教信仰そのものが嫌になるとか、キリスト教信仰に伴う種々の困難が嫌だとかいう理由から、常に変わらずキリスト教信仰を憎み、無視するようになるようなことはない。このことは、ガラ6:9、ロマ2:7、ヘブ10:36、イザ43:22、マラ1:13といった箇所から明々白々である。どれほど信仰的に後退しても、彼らは、全面的な従順のをもう歩まなくなるほどにはならない。すなわち、いかに困難で、いかに過酷な状況に置かれたとしても、キリスト教のあらゆる基準を遵守し、求められるあらゆる義務を行なうことが彼らのありさまでなくなるほど後退することはない*4。これは、すでに述べられた事がらから明々白々である。また彼らは決して、キリスト教信仰の務めにまさって、その他の事がらに常に変わらず携わったりするほど落ちて行くことはない。すなわち、神ならぬ何か他の物に仕えることが彼らの生き方やありさまになるほど、落ちて行くことはない。あるいは、神に仕えることを公然とやめるその本気さ、真剣さが、キリスト教信仰の務めにまだ常習的に専念し、献身しているような本気さ、真剣さと匹敵するほどになることはない。さもなければ、このキリストのことばは地に落ちてしまうことになる。だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。また、この使徒の言葉がむなしくなる。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。そして、聖徒は自分の神を取り替えても、なおかつ真の聖徒でありえることになる。さらにまた、通常、真の聖徒は決して、回心前に送っていた生き方と目立った変化がまるでないような歩みとふるまいにまで落ちて行くことはない。真に回心した人々は新しい人、新しく造られた者である。内側において新しいだけでなく、外側でも新しくされている。彼らは、霊、魂、からだにおいて、徹底的に聖なる者とされている。古い物は過ぎ去り、すべてが新しくなっている。彼らには新しい心、新しい目、新しい耳、新しい舌、新しい手、新しい足がある。すなわち、新しい生活と行ないがある。彼らは、いのちにあって新しい歩みをしており、それを生涯最後まで続ける。しかし落ちて行った人々がまざまざと示しているのは、彼らが決してキリストとともによみがえらされていなかった、ということである*5。そして特に、人々が自分で自分を回心した者であるとか、それで安全な状態にあるとかみなしていた判断そのものが彼らの失墜の主たる原因である場合、それは彼らの偽善を何よりも明らかに示すしるしである*6。そして、これを原因として彼らは、以前の種々の罪の中に落ちて行くか、別の何か新しい種類の悪の中に落ちて行く。後者の場合は、腐敗した天性が、全く抑制されないまま別の方向に流れを変えたにすぎない。たとえば、自分は回心したと考えている人々が、確かに以前のような神聖冒涜的な、下卑た生き方に立ち戻りはしないまでも、自分の味わった様々な体験や恵みや特権によってのぼせあがり、だんだんと自分を義とするような精神や、霊的に高慢な精神の気質に凝り固まって、そこから当然出てくるようなふるまい方や生き方に落ちつくような場合がこれに当たる。人々は、いかに以前の悪しき行ないから遠ざかっているように見えても、このような状態にあるなら、それだけで罪に定められるのに十分であり、彼らの後の状態は初めよりもさらに悪くなるであろう。キリストがお語りになっていた時代のユダヤ人たちは、まさにこのような状態にあったと思われるからである(マタ12:43-45)。彼らはバプテスマのヨハネの説教によって覚醒させられ、以前にたどっていたような放縦な行路からは改心させられていた。それは、さながら汚れた霊が追い出されて、家が掃除してきちんと片づけられたかのようであった。だが、神も恵みも全く欠いたまま、自分自身で満々になっていた彼らは、自分自身の義やずば抜けた聖さに途方もなく思い上がり、それに応じた偉ぶったふるまいに慣れきっていた。彼らは取税人や売春婦の罪を、パリサイ人の罪と取り替えたのである。そして、その結果、最初の悪霊よりも悪い7つの悪霊にとりつかれたのである。

 このように私は、恵みによる種々の感情がキリスト者的な行ないによって働き、実を結ぶというときの、働きとは何であり、実とは何であるかについて説明してきた。なぜ恵みによる種々の感情にこのような傾向と効果があるかという理由は、すでにこれまでこの論述の中で述べられてきた多くの事がらから明らかである。

 特にそれを明らかにしている理由は、恵みによる種々の感情が、種々の霊的な働きや影響から生ずるということに見られる。また、そうした感情が流れ出すもととなっている内的な原理が、天来のもの、神から分与されるもの、神のご性質にあずかるということ、心の中にキリストが生きておられること、そこに聖霊が、魂の種々の機能と結び合って内的な生きた原理として住み、そうした諸機能の働きにおいて、ご自分に特有のご性質で活動なさることに見られる。真の恵みにそうした活動があり、力があり、効力があることは、こうしたことから十分示されている。天来のものが強大な効力を有することは何の不思議でもない。全能の神が味方しておられるからである。もし神が心に住んでおり、心に生きて結び合わさっているとしたら、神はそのお働きの効力によってご自分が神であることをお示しになるであろう。聖徒の心の中におられるキリストは、墓におさめられた死体のような、何もできない死んだ救い主ではない。死者の中からよみがえった、生きたお方として聖徒の心という神殿に住んでおられるのである。救いに至るようなしかたでキリストがおられる心の中には、キリストが生きており、復活の際に与えられた尽きざるいのちの力によって活動しておられるからである。こうして、キリストが受けた苦難の恩恵にあずかっているあらゆる聖徒は、キリストの復活の力を知らされ、体験させられている。心に恵みをわき出させる直接の源泉たるキリストの御霊には、いのちと力と活動がみなぎりあふれている。「御霊と御力の現われ」(Iコリ2:4)。----「私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊……とによったからです」(Iテサ1:5)。----「神の国はことばにはなく、力にあるのです」(Iコリ4:20)。こういうわけで、救いに至る種々の感情は、確かに他の感情のようにけたたましくも、華々しく見えもしないことがしばしばだが、その内側には、秘められた堅固さ、いのち、強さがあって、それらが心をとらえ、我を忘れさせ、いわばとりこのようにしてしまい(IIコリ10:5)、神と聖さを求める堅忍不抜の決意を固めさせるのである。「あなたの民は、あなたの力の日に、……喜んで仕える」(詩110:3 <英欽定訳>)。またこのようにして聖い種々の感情には、ある人の人生行路を支配する力があるのである。ある彫像が、人間そっくりに見えていたとする。その姿形は美しく、しかり、一見するところ、非常に活気にあふれた、強壮な、躍動する人の形をしているかもしれない。だがしかし、いのちと力という内的な原理が欠けているため、それは何も行なわず、何も生じさせず、その見かけに相応するような何の行為も働きもそこにはない。それと同じく種々のまがいものの悟りや感情には、人の行為や行ないの源に達して、支配するだけの深みがない。岩地に落ちた種には深い土がなく、実を結ばさせるだけ深く根を張れなかった。しかし恵みによる種々の感情は、心の底まで達し、最内奥にあるいのちと活動の源をとらえる。ここにこそ、真の敬虔の力の主たる現われがあるのである。すなわち、敬虔の力とは、何にも増して行ないに効果をもたらす力があるということにほかならない。そして、この点における敬虔の効力こそ、使徒が敬虔の力 <英欽定訳> について語っているときに念頭に置いていたものである(IIテモ3:5)。というのも、使徒がそこで特に明言しているのは、一部のキリスト教信仰の告白者たちがいかにその実践をないがしろにすることで悪名高かったか、ということであり、この5節で述べているのは、このように聖からざる行ないによって彼らは、は敬虔でも、その敬虔のを否定しているのだ、ということだからである。確かに、その敬虔の力が最初にふるわれるのは魂の内側である。恵みによる種々の感情がそこで示す、はっきり感じとれるような、生き生きとした働きこそ、そうした力の最初の現われである。それでも、この力を示す第一の証拠は、聖い種々の感情の実際的な働きにある。人の意志と情欲と腐敗とを征服し、それらをいかなる誘惑や困難や反抗に遭おうと、聖さの道へと引いて行く働きにあるのである。

 さらに、恵みによる種々の感情がなぜキリスト者的な行ないによって働き、実を結ぶかという理由を示しているのはこのこと すなわち、恵みによる種々の感情の第一の客観的根拠は、天来の事物それ自体が有する、超越的にすぐれた慕わしい性質であって、そうした事物が利己心や個人的利益にとっていかなる関わりを有すると思えるか、ではない、ということである。ここから、人々がなぜ聖い種々の感情によって、その行ないを全面的に聖いものにされるかがわかる。人々がキリスト教信仰の一部にしか従わないのは、その信仰に自分のことしか求めず、神のことを求めていないからである。すなわち、キリスト教信仰それ自体が有するこの上もないすぐれた性質のためにではなく、我欲のため利用しようとしてキリスト教信仰に近づいているからである。我欲のためキリスト教信仰に近づく人は、利用する価値があると想像できる点までしか近づかないであろう。しかしキリスト教信仰それ自体のいとすぐれた、愛すべき性質のために近づく人は、その性質を有するすべてのことに近づく。キリスト教信仰をキリスト教信仰のためにいだく人は、キリスト教信仰のすべてをいだく。またこれは、なぜ人々が恵みによる種々の感情によって、キリスト教信仰を最後まで、いついかなるときにも貫き通すかをも示している。キリスト教信仰は、時が経つにつれ、人々の個人的な利益にとは、多くの点で大きく食い違ってくることがありえる。それゆえ、利己的な目論見だけでキリスト教信仰に従っている人は、時勢の変化とともに、往々にしてその信仰を捨てることになる。だが、キリスト教信仰それ自体のうちにある、この上もなくすぐれた性質は決して変わることがない。それは常に、いかなる時にも、いかなる変化がもたらされても、同じである。それは、いかなる点においても決して変化しない。

 恵みによる種々の感情がなぜ聖い行ないをもたらすかという理由をさらに明らかにしているのは、あらゆる聖い感情の根拠とも云うべきいとすぐれた性質、すなわち、それらの道徳的卓越性、あるいはそれらの聖さの美しさである。聖さのゆえに聖さを愛する愛によって人々が聖さを実践するようになり、聖さを有するあらゆることを行なうようになるとしても、何の不思議もない。聖さが、恵みによるすべての感情をかき立て、引き出し、支配する大本である以上、そうした感情がどれもみな、聖さを生じさせようとするのは当然である。人は自分の愛するものを手に入れたいと思い、それと結ばれること、それを所有することを願う。また人は自分が喜びとする美しさによって、わが身を飾りたいと願う。人は自分が喜びとするような行為を、必然的に行ないがちなのである。

 また、先に神の御霊の天来の教えおよび導きについて述べられたことも、恵みによる種々の感情に、こうした全面的な聖い行ないへ至らせようとする傾向がある理由を示している。というのも、すでに述べたように神の御霊は、ご自分のこの天来の教えと導きにおいて魂に、聖い事物----また、聖さを有するあらゆるもの----の甘やかさを味わい楽しむ自然な嗜好を与えて、それによって魂は、聖からざるあらゆるものに対する嫌悪と厭わしさを記憶にとどめ、かき立てられるからである。

 同じことをやはり示しているのは、あらゆる聖い感情の根拠たる、霊的な知識の性質について述べられたことである。そうした知識の主たる特質は、天来の事物が有する、えも云われぬ超越的にすぐれた性質を感じとり、見て取ることにある。こうした感覚があればこそ、天来の事物が他の何にもまして選びとられるべきもの、堅く守るに値するものと思われるからである。キリストの超越的な栄光を目にすることによって、真のキリスト者たちは、キリストを従うに値するお方であると見てとり、キリストに強く引きつけられる。キリストが、何を捨てても惜しくはないほど尊いお方であることを見てとるからである。その無比の慕わしさを目にすることによって彼らは、この方に服従し、この方に力を込めて熱心に仕えることに一心に打ち込み、この方のためならいかなる困難をも喜んで忍ぼうとする気持ちに徹底的に変えられるのである。また、このキリストの天来のいとすぐれたご性質を悟ることによってこそ彼らは、キリストへの忠実を守り通す者となる。というのも、それが彼らの心にあまりにも深い印象を刻み込むため、彼らにはキリストを忘れることができなくなるからである。彼らは、キリストが行く所へならどこにでもついて行くし、彼らをキリストから引き離そうとする者がいても無駄な努力でしかない。

 恵みによる種々の感情になぜこのような実際的な傾向と成果があるかという理由をさらに示しているのは、先に述べたように、こうした感情には、天来の事物が確かな現実のものであるという完全な確信が伴っているということである。当然のことながら、キリスト教信仰が現実のものであることを一度も完全に確信したことのない人は、決して自分が確信してもいないものに基づいて、信仰的な行ないを熱心に、また全面的に貫き通そうと労苦したり骨折ったりしないであろう。また、あらゆる困難や自己否定や苦難をものともしないなどということはないであろう。しかしその逆に、そうした事物が確かに真実であると完全に確信した者は、行ないの面においても、そうした事物の支配を受けざるをえないに決まっている。神のことばで啓示されている事がらの途方もなさや、他の何にもまさる無限の重要さからして、人がその真理を全く信じていながら、行ないの面でもそこから最大の影響を受けずにいることなど、人間の性質を裏切るようなものだからである。

 さらに、聖い種々の感情が行ないにおいてこのような現われと効果を及ぼす理由は、こうした感情に伴う性質の変化について先に述べたことからも示されている。性質が変わらない限り、人々の行ないが完全に変化することはないであろう。木が良いものにされない限り、実が良いものとなることはないであろう。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるはずがない。豚を洗って、しばらくの間きれいにしておくことはできるかもしれないが、性質が変わっていない以上、それはいつでも泥沼の中をころげ回るであろう。生まれながらの性質は、いかなる対抗勢力にもはるかにまさる強力な原理として行為を生み出している。しばらくの間、それを力ずくで抑えつけておくことはできるかもしれないが、最終的には、そうした抑えつけを打ち負かすであろう。さながら川の流れのように、多少の間は、堰でせき止めておくことができるかもしれないが、源流をふさぐ手立てをとらない限り、いつまでも止められたままになってはいない。それは元々の水路か、新しい水路へと流れ出すであろう。いかなる事物に基づいて肉的な人々が改心したり義の歩みをこころがけたりするようになるとしても、天性はそれよりはるかに不変で永続的なものである。生まれながらの人が自分の情欲を克服し、厳格に宗教的な生活をするようになり、謙遜深く、一心不乱に努力し、信仰熱心になったように見えたとしても、それは自然なことではなく、天性に逆らった努力、大きな石をしゃにむに上に向けて転がしていこうとするようなものにほかならない。しかし、そうした努力はしだいに弱まっていく。天性はその力を完全に温存したまま残っている。そして、それが再び力を盛り返すと、その石は下へと転がり落ちていくのである。腐敗した天性が抑制されず、その原理が人の内側に無傷で残っている限り、それがほしいままにふるまうことをやめるだろうと期待するのはむなしい。しかし、もし古い天性が本当に抑制され、新しい天的な性質が注入されたとしたら、そのときは、人々がいのちにあって新しい歩みをすること、その生涯最後に至るまで、そうし続けると期待することは当然あってよくなる。

 聖い種々の感情にこうした実際的な働きと効果がある理由は、さらに部分的には、先にそれらに伴う謙遜の精神について語られたことからも示される。謙遜とは、従順な精神に含まれる大きな特質にほかならない。高ぶった精神は反抗的だが、へりくだった精神は素直な、よく従う精神である。人々の間でも、横柄な精神をしたしもべは、決して自分の主人の意志にあらゆる点で素直に従おうとするものではないが、へりくだった精神をしたしもべについてはそれとは逆である。

 先に語られたような、恵みによる種々の感情すべてに伴う小羊のような、鳩のような精神は、(使徒がロマ13:8、9、10やガラ5:14で述べているように)、モーセの律法の第二の板の義務をすべて成就する。そして、そうした義務こそ、キリスト者的な行ないや、キリスト教の外的な行ないの大きな特質なのである。

 また、恵みによる種々の感情に、なぜ徹底した、全面的な、常に変わらぬ従順さが伴うかという理由は、真の聖徒たちの種々の感情に伴う霊の柔らかさについて先に述べられたことによっても示される。それは彼らの内側に、罪が存在するとき、鋭く激しい痛みを感じさせ、悪のように見えるものに対してすら彼らを震え上がらせるのである。

 恵みによる種々の感情から流れ出るキリスト者的な行ないがなぜ全面的で、常に変わらず、いつまでも続くかというもう1つの大きな理由は、こうした行ないが流れ出る種々の感情そのものについて述べられたことによって示される。そうした感情は、常に変わらず、いかなる面においても、いかなる種類の聖い働きにおいても、いかなる対象、いかなる状況、いかなる時期においても、均整と調和のとれた美しさを有しているものである。

 さらにまた、なぜ聖い種々の感情が、これほどの熱心さ、活発さ、一心さ、ねばり強さを聖い行ないのうちに現わし、はっきり示すかという大きな理由は、先に述べられたような、信仰的により高い境地に達したいという霊的欲求と切望にも見てとることができる。真のキリスト教信仰につき物の、そうした欲求と切望は、衰えることがなく、種々の聖い感情が増し加わるにつれて増し加わっていくからである。このようにして私たちは、すでに語られてきたような、聖い感情の特徴1つ1つによって、いかにそうした感情には、すでに説明されたようなキリスト者的な行ないに向かわせる傾向があるかを見てとるのである。

 さらに、よくよく考えてみればこの点は、信仰の真摯さと健全さとを、聖書が何に置いているか、ということによっても、さらに例証し、確証することができるであろう。聖書が至る所で真摯で健全な信仰として語っているのは、神を私たちの唯一の主、また分け前として完全に選び取ることであり、神のためにすべてを捨てることであり、神とキリストを求める不抜の決意を固め、費用を計算し、心においてイエス・キリストを信ずる信仰に近づき、その信仰に属するすべてを受け入れ、その一切の困難に喜んで応じ、あたかもキリストのためなら自分の最愛の地上的楽しみをも憎み、自分自身のいのちをも憎むかのようになること、また自分の持ち物すべてとともに自分を完全に、かつ永遠にキリストに明け渡し、何物をも手元に留めておかず、いかなる留保もしないことにほかならない。一言で云えば、真摯な信仰の最大の特質は、キリストのための自己否定という偉大な義務にあるのである。あるいは、その否定において、いわばキリストのためなら分で自分と縁を切り、絶縁すること、キリストがすべてとなるためなら自分自身を無とすることにあるのである。こうしたことを告げている聖句を脚注に引照しておくので参照されたい*7。さて確かに、キリストのためにすべてを捨てる心を持っていれば、実際にそうした機会があり、私たちが試みを受ける際に、すべてを捨て去るのがたやすくなるものである。キリストのために自分を否定する心を持っていれば、キリストと自分の利益が競り合うときも、現実に自分自身を否定することがたやすくなる。自分の持っているすべてとともに自分自身を明け渡し、手元に何も残しておかなければ、自分を全面的にキリストのものとし、キリストのみこころに従い、キリストのご目的に専心する者としてふるまうのがたやすくなる。もし私たちの心が完全にイエスを信ずる信仰に、またそれに属するすべてのものに、それに伴うすべての困難と合わせて、費用を入念に計算した上で近づくならば、実行動や実行為においても、それらに全面的に近づき、信仰の歩みの途上で実際に直面するいかなる困難をもしのぎ、忍耐と不屈さをもって最後まで持ちこたえるのがたやすくなるのである。

 心の中の恵みが聖い行ないを生み出そうとする傾向は、非常に直接的であり、そのつながりはこの上もなく自然なもの、密なもの、必然的なものである。真の恵みは不活発なものではない。天にも地にもこれほど活発な性質をしたものは他にない。それはいのちそのものであり、何よりも活発な種類のいのち、否、霊的で天来のいのちにほかならないからである。それは決して不毛なものではない。全宇宙の中で、その性質上、これほど実を結ばせる大きな傾向があるものはない。心の中の敬虔が行ないと直接的な関係にあるのは、泉が流れと、あるいは太陽の光輝く性質が太陽の発する光線と、あるいはいのちが呼吸や脈拍やその他の生の徴候と、あるいは習慣や行動原理が行動と、直接的な関係にあるのと同じである。というのも恵みは、その性質や成り立ちそのものからして、聖い行動や行ないの原理にほかならないからである。恵みが注入される神のみわざたる新生は、行ないと直接的な関係がある。それこそ新生の目的そのものであり、そのためにこそ、このみわざ全体がなされているからである。魂に生じさせられるこの大きな、また多岐にわたる変化においては、あらゆることが直接この目的を果たすために目論まれ、計画されている。「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです」(エペ2:10)。しかり、それはキリストの贖いの目的そのものである。「キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした」(テト2:14)。「キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです」(IIコリ5:15)。「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう」(ヘブ9:14)。「あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのですが、今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした」(コロ1:21、22)。「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず」(Iペテ1:18)。「われらを敵の手から救い出し、われらの生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを許される」(ルカ1:74、75)。神はしばしば聖い行ないを、かの大いなる予型的贖い----エジプトでの奴隷生活からの贖い----の目的として語っておられる。たとえば、「わたしの子を行かせて、わたしに仕えさせよ」(出4:23; 同様に、出4:23; 7:16; 8:1、20; 9:1、13; 10:3)。また、これは選びの目的であるとも宣言されている。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためで……す」(ヨハ15:16)。「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました」(エペ1:4)。「神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです」(2:10)。聖い行ないは、神がご自分の聖徒たちについてなさるすべてのことの目的である。それは、収穫こそ、農夫がその畑や葡萄園の生育について行なうすべての作業の目的であるのと全く変わらない。聖書ではそのようにしばしば語られている(マタ3:10; 13:8、23-30、38; 21:19、33、34; ルカ13:6; ヨハ15:1、2、4、5、6、8; Iコリ3:9; ヘブ6:7、8; イザ5:1-8; 雅8:11、12; イザ27:2、3)*8。それゆえ、真のキリスト者のうちにあるすべてのものは、この目的に達するために考えられ定められたものである。この聖い行ないという実こそ、あらゆる恵み、あらゆる悟り、キリスト者体験に属するあらゆる個々の事がらが、その直接的な成果として生み出そうとしているものなのである*9

 真の聖徒たちのうちにあるキリスト者的な原理や告白と、彼らの生活における実や聖い行ないとの間に、常に分かちがたい結びつきがあることを象徴していたのが、古の神殿に安置されていた金の燭台の構造である。疑いもなく、7つの枝と7つのともしび皿がついているこの金の燭台は、キリストの教会を象徴している。聖霊ご自身がこの件を疑問の余地なく明らかにしてくださった。御霊は、ゼカリヤ書4章においてはご自分の教会を7つのともしび皿のついた金の燭台によって表わし、黙示録1章においてはアジアにある7つの教会を7つの金の燭台によって表わしておられる。神殿内のこの金の燭台は、その構造全体において、あらゆる部分が節と花弁でできていた(出25:31以降; 37:17-24)。と訳された言葉は、原語では「林檎」か「ざくろ」を意味している。それは、節と花弁節と花弁で埋め尽くされていた。花のあるところには必ず林檎、あるいはざくろがあった。花と実は常に何の例外もなく結び合わされていた。花には実の素となる原理が含まれており、豊かな実がやがて生ずるであろう美しい見かけがあった。そしてそれは決して見かけ倒しではなかった。その実の原理あるいは見かけには、常に本物の実が伴うか、後に続いていた。キリストの教会もそれと同じく、心の中には、恵みによる実の原理がある。そこには、燭台の開いた花弁によって象徴された、慕わしい告白がある。そしてこの原理と告白には常に、それに応じた実が、聖い行ないのうちに伴っている。このように金の林檎と花によって構成された、金の燭台の一本一本の枝の頂点には、燃えて輝くともしびが冠されていた。というのも、聖徒たちが世の光として輝く方法は、キリスト教信仰の立派で健全な告白をするとともに、常にその告白に、それに応じた行いの実を結び合わせることだからである。まさしく私たちの救い主はそう仰っておられる。「また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタ5:15、16)。立派で美しい信仰告白、そしてそれに相伴う金の果実こそ、キリストの真の教会の慕わしい飾りである。それゆえ、林檎と花は、一に神殿の燭台の飾りであったばかりでなく、教会の予型たる神殿そのものの飾りであったことを私たちは見いだすのである。教会は生ける神の宮であると使徒は語っているが、I列6:18には、「神殿内部の杉の板には、節と花模様が浮き彫りにされており」<英欽定訳>、とある。神殿入り口に立つ柱の飾りと頂も同じ種類の模様であった。それはゆりとざくろ、すなわち、花と実とが組み合わされたものであった(I列7:18、19)。神の聖所の柱となり、決して外に出て行くことのない者たち、すなわち、決して侵入者として追い出されることのない者たちもみな、それと同じである。真の聖徒たちはみな、そのような者とされている。「勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない」(黙3:12)。

 これとほぼ同様のことが、大祭司アロンの装束であるエポデの裾飾りによっても象徴されているように思われる。その飾りとは、金の鈴とざくろであった。こうしたアロンの装束の裾が教会を----あるいは聖徒たちを(彼らはいわばキリストの装束である)----表わしていることは明白である。彼らははっきりそのようなものとして語られているからである。「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえり[裾 <英欽定訳>]にまで流れしたたる」(詩133:1、2)。アロンのエポデは、私たちの偉大な大祭司キリストの縫い目のない衣と同じことを意味している。キリストの衣に何の縫い目もなく、それが頭から織って作られていたように、エポデもまたそうであった(出39:22)。神は、その摂理によってキリストの衣が裂かれないように心を配ったのと同じように、エポデが裂けないようにも格別に心を配ってくださった(出28:32; 39:23)。このエポデの金の鈴は、その高価な材質と快い音色によって、聖徒たちが行なう健全な告白を表わし、ざくろは彼らが生じさせる実を表わしている。そしてエポデのすそ回りにあったように、鈴とざくろは常に結び合わされている。これは、何度となく、「鈴にざくろ、鈴にざくろがあった」と述べられているように(出28:34; 39:26)、真の聖徒たちにおいても同様である。彼らの健全な告白および彼らの良い実は、常に相伴っている。彼らが生活で生じさせる実は、いかなるときも、彼らの告白という快い響きに応ずるものなのである。

 さらに、まさしく同じことがキリストによっても、その花嫁の描写において語られている。「あなたの腹は、ゆりの花で囲まれた小麦の山」(雅7:2)。ここでもやはり美しい花々と、見事な実りが相伴っている。ゆりは華麗で美しい花であり、小麦は良い実である。

 キリスト者的な行ないというこの実は、真の聖徒たちのうちには常に----その機会と試みに応じて----見られるものだが、他のいかなる者のうちにも見いだされない。真のキリスト者以外のいかなる者も、ここまで説明されてきたほど全面的に自分の義務に専心し、キリスト者の務めへと献身する、従順な生き方をすることはない。聖なるものとされていない人々はみな、不正を行なう者たちである。彼らは、彼らの父である悪魔から出た者であって、彼らの父の欲望を成し遂げたいと願っている。----いかなる偽善者も、キリスト教信仰の務めをやり遂げて、旅の終わりに達するようなことはない。彼らは、信仰を告白する者たちの上に神が招き寄せるのを常となさるような試みに耐えることがなく、曲がった道にそれていく。彼らはその行ないにおいて徹底的にはキリストに忠実でなく、キリストの行く所どこにでもついて行くわけではない。何らかの場合には、相当大きなことをキリスト教信仰のため行なうことはあるかもしれず、多少の間は、神への奉仕において、この上もなく厳格に、またひたむきに専念しているように見えるかもしれないが、彼らは罪の奴隷なのである。彼らの昔からの監督がにぎっている鎖は砕かれてはいない。彼らの情欲が依然として彼らの心を牛耳っている。それゆえ、こうした主人たちに彼らは再び屈伏していくのである*10。「多くの者は、身を清め、白くし、こうして練られる。悪者どもは悪を行ない、ひとりも悟る者がいない。しかし、思慮深い人々は悟る」(ダニ12:10)。「悪者はあわれみを示されても、義を学びません。正直の地で不正をし、主のご威光を見ようともしません」(イザ26:10)。「そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない」(イザ35:8)。「主の道は平らだ。正しい者はこれを歩み、そむく者はこれにつまずく」(ホセ14:9)。「神を敬わない者の望みはどうなるであろうか。……彼は全能者を彼の喜びとするだろうか。どんな時にも神を呼ぶだろうか」(ヨブ27:8、9、10)。聖なるものとされていない人はその罪を隠し、多くの事がらにおいて、またしばらくの間は罪を断つかもしれない。だが彼が決定的に罪と縁を切り、罪に離縁状を渡す気にさせられることはないであろう。罪は彼にとってあまりにも愛しいもので、到底そんな気にはならないのである。「悪は彼の口に甘く、彼はそれを舌の裏に隠す。あるいは、これを惜しんで、捨てず、その口の中にとどめている」*(ヨブ20:12、13)。これこそ、かの門の狭さの主たるゆえんであり、いのちに至る道の狭さのゆえんである。これを理由として、肉的な人々はそこに入ろうとしない。すなわち、この道は、あらゆる不敬虔さを完全に否定し、決定的に捨て去る道であるからこそ、自己否定の道、あるいは自己放棄の道なのである。

 多くの生まれながらの人々は、種々の手段が用いられる場合、また神が彼らと争う場合に、パロがその高慢と貪欲に対して行なったようなことを自分の罪に対して行なう。これらを満足させておこうとしてパロは、神がイスラエル人を出て行かせるよう彼と争われたときにも、民を奴隷のままにとどめておいた。神の御手が彼を痛めつけ、これ以上神の御怒りを買うことに恐れを感じたとき彼は、民を出ていかせるという考えをいだき、そうすると約束した。だが彼は、一息つくと、次から次へとその約束を破った。神がエジプトを雷と稲妻で満たし、火が地に向かって走ったとき、パロは見るからに謙遜なようすで自分の罪を告白し、民を出て行かせるときっぱり決意している。「そこでパロは使いをやって、モーセとアロンを呼び寄せ、彼らに言った。『今度は、私は罪を犯した。主は正しいお方だ。私と私の民は悪者だ。主に祈ってくれ。神の雷と雹は、もうたくさんだ。私はおまえたちを行かせよう。おまえたちはもう、とどまってはならない』」(出9:27、28)。それと同じように罪人たちも、時々は雷と稲妻、また律法に対する大きな恐怖によって、へりくだりのわざに至らされたかのような、また自分のもろもろの罪と手を切ったかのようなようすを見せることがあるが、パロが民を出て行かせる気持ちになったのと同じ程度にしか、そうした罪を徹底的に捨て去る気持ちにはならない。パロは、その良心と情欲との葛藤において、なんとかして神にも仕え、自分の情欲を喜ばせもしたい----つまり、民を奴隷のままにしておくことによって満足したい----と考えていた。モーセは、イスラエルの神には仕えなくてはならない、と云い張った。パロもそれには異存がなかったが、民を手放すことなしにそうしたいと考えていた。彼は云う、「さあ、この国内でおまえたちの神にいけにえをささげよ」(出8:25)。それと同じく多くの罪人たちは、なんとかして神にも仕え、自分の情欲をも楽しみたいと願っている。モーセはパロの申し出に応ずることに反対した。なぜなら神に仕えながら、なおかつエジプト国内で、その監督のもとにとどまるということは、矛盾したこと、首尾一貫しないことだったからである。この後パロは、民が出て行くことには同意したが、さほど遠くへ行かないという条件をつけた。彼は彼らを決定的に手放したくはなかったので、手の届くところに置いておきたかったのである。多くの偽善者たちも、それと同じようなことを自分のもろもろの罪について行なう。その後パロは、男たちだけは行くことに同意したが、女たち子どもたちは後に残していけと云った(出10:8-10)。その後になって、神の御手がさらに厳しくのしかかると彼は、子どもたちも、男たちと同様に行ってもよいと同意したが、それには彼らがその家畜を後に残していくことが条件であった。彼は、彼らが自分たちの持ち物全部を持って出て行くことは望まなかった(出10:24)。罪人たちもしばしばこれと同じである。彼らは自分の罪の一部と手を切ることは望むが、全部を捨てようとはしない。彼らは、露骨な罪の行為と手を切る気にはなるが、より些細なことで自分の情欲にふけることはやめようとしない。だが私たちは、自分のあらゆる罪を、小さな罪も大きな罪もひっくるめて手放さなくてはならない。そして、そうした罪に属するすべてのものを、男も女も子どもたちも家畜も手放さなくてはならない。それらをみな出て行かせなくてはならない。その若い者も老いた者も、その羊も牛も連れて行かせ、ひづめ1つも残させてはならない。そのようにモーセは、イスラエル人についてパロに告げた。とうとうパロは、その災いが極みに達するに及んで、民をみな、そのすべての財産とともに出て行かせることに同意した。だが彼はいつまでもそうした思いを保ってはいなかった。彼はすぐに後悔し、彼らを再び追いかけてきた。なぜかというと、パロがこの民を支配し、彼らの奉仕による利益を得ることで満足させられていた、高慢や貪欲といった情欲が、彼の中では決して本当には抑制されておらず、単に力づくで押さえ込まれていたにすぎなかったからである。そしてこのようにして彼は、一度達したところから後退し、一度は神の命令に従ったかのように見えながら、救いようもなく滅ぼされた。これと同じく、人は無理矢理に不従順な生き方と縁を切って神の命令に従い、それが多少の間は全面的なものと思われることがないわけではない。だがそれは、内側の罪の原理の抑制を伴わない、ただの力ずくのものでしかないため、そうした人々はそれを貫き通さず、犬が自分の吐いたものに戻るようにもとの生き方に戻っていき、自分の上にすさまじい、取り返しのつかない滅びを招くのである。キリストの時代にも、多くのまがいものの弟子たちがいて、しばらくの間は彼に従っていたが、最後まで彼に従い通した者はただのひとりもいなかった。ある者は何らかのきっかけで、他の者は別のきっかけで後戻りし、もはやキリストとともに歩こうとはしなかった*11

 ここまで語られたことからして明々白々であるように、キリスト者的な行ない、すなわち、聖い生活は、真の、また救いに至る恵みの大きな、まぎれもないしるしである。しかし、私はさらに踏み込んで主張したい。これは、恵みを示すあらゆるしるしの中でも、主たるものである、と。これこそ、信仰告白者の真摯さを、《他の人々に対して》も、《自分自身の良心》に対しても示す証拠として主たるものなのである。

 しかしそうしたとき、これは正しい受け取り方をしなくてはならない。一体いかなる意味で、また、いかにして、キリスト者的な行ないが、恵みの最大のしるしであるのかが、きちんと理解され、認められなくてはならない。それゆえ、この件をはっきりさせるために私は、キリスト者的な行ないが、キリスト者にとって自分の、また他の人々の敬虔の真摯さを判断するために用いるべき主要なしるしであることを、これから具体的に、また明確に証明していこうと思う。それとともに、この件を正しく理解するため特に注意しておかなくてはならない点を、いくつか述べることにしたい。

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*1 「敬虔そうな口をきいていながら、よこしまな道にそれていく人は偽善者にほかならない。真に敬虔な人々は、従順の道に生きるものだからである。『幸いなことよ。全き道を行く人々、主のみおしえによって歩む人々。……まことに、彼らは不正を行なわず』(詩119:1、2、3)。『ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行なっていた』(ルカ1:6)。しかし罪の道に生きている者は猫かぶりにすぎない。そのような者はみな、最後の審判の日には、はねつけられるからである。『不法をなす者ども。わたしから離れて行け』(マタ7:23)。同じことはルカ13:27でも云われている。もし人々が不従順の道に生きているとしたら、彼らは神を愛していない。愛によって人は神の戒めを守るようにされるからである。『神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません』(Iヨハ5:3)。もし人々が不従順の道に生きているとしたら、彼らに信仰の霊はない。信仰は人を聖なる者とするからである。『わたしを信じる信仰によって……聖なるものとされた人々』(使26:18)。もし人々が不従順の道に生きているとしたら、彼らはキリストの羊ではない。彼の羊は彼の声を聞き分けるからである(ヨハ10:27)。不従順の道に生きる人々は神から生まれた者ではない。『だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません』(Iヨハ3:9)。不従順の道に生きる人々は罪の奴隷である。『罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です』(ヨハ8:34)。 ----外的な罪の生き方は、それが進んで犯す罪であれ、何かを省略する罪であれ、偽善の証拠である。----もし人々が、それと知りつつ自分の義務をないがしろにするか、それと知りつつ悪事を行なう生き方をしているとしたら、その罪が何であろうと----冒涜であれ、汚れであれ、虚言であれ、不正であれ----、それは彼らをさばくことになるであろう。----もし人々が悪意やねたみ、みだらな思い、冒涜的な考えにふけっているとしたら、そうした腐敗は、表立っては何ら破廉恥なものとして現われることはなくとも、彼らをさばくであろう。こうした想念は、腐った心の証拠である。『私たちも以前は、愚かな者であり、不従順で、迷った者であり、いろいろな欲情と快楽の奴隷になり、悪意とねたみの中に生活し、憎まれ者であり、互いに憎み合う者でした』(テト3:3)。もし人が、自分では全く意識していなくとも、悪意とねたみにふけっているとしたら、その人は偽善者である。たとえその人が自分の良心に照らしてそんなことはないと云い張っても、その人の心がそれにふけっているとしたら、その人は聖徒ではない。----ある人々は敬虔そうな口をきいているが、そうすることによって他の人々を欺いているだけでなく、(はるかに悪いことに)自分自身を欺いている。だが、彼らをさばくことになるのは、彼らが罪によって生き、そのことで不敬虔な人々と行をともにせざるをえないということである。『主は、曲がった道にそれる者どもを不法を行なう者どもとともに、連れ去られよう』(詩篇125:5)。たとえある人の態度に大きな変化が見られ、いくつかの点では改善されたとしても、1つでも悪しき生き方が残っていたとしたら、その人は不敬虔な人である。敬神のあるところには全面的な従順がある。人は様々に大きな弱さを有していても、敬虔な人であることはできる。ロトやダビデやペテロがそうであった。だがもしだれかが何らかの罪の道に生きているとしたら、単にその人の敬虔さが疑わしいものとなるだけでなく、それはその人の言葉を完全に封じる証拠となる。敬虔な人々は、神の戒めのすべてを敬っている(詩119:6)。どれほどおびただしい数の命令があろうと、1つたりとも敬っていない命令がある人は、いつの日か恥を見ることになるであろう。何か1つでも悪の道に生きている人は、神の権威に服従しておらず、その場合、反逆心をいだきつつ生きているのである。そしてそれが彼のあらゆる訴えをはぎとり、ただちに、そのあらゆる抗弁を断ち切るであろう。そして彼は最後の審判の日に断罪されるであろう。----罪の道が1つでもあれば、それだけで人を救いから除外するに足りる。たとえその人の生きている罪が小さなものでしかなく、たとえそうした人々が偽証や窃盗や酩酊や淫行の罪に問われることがなく、また、たとえ彼らがそうしたものをおぞましく感じ、おぞけをふるっているとしても、もし彼らが少しでも取引の上で弱者をしいたげたり、自分が売ろうとしている物を少しでも誇大にほめそやしたり、約束を破ったり、安息日を無益なしかたで費やしたり、密室の祈りを怠ったり、不遜な口をきいたり他人を非難したりしているとしたら、大きな罪を避けていようと何にもならない。彼らは、こうしたことを小さなことにすぎないと考える。大きな背きの罪から遠ざかっていさえすれば、神は小さなことまで取り立ててやかましく云わないだろうと考える。----しかし、まさしく神のすべての命令は天来の権威によって確立されている。人は、小銃の一発によっても、大砲の砲弾と同じように殺されるものである。小さな穴が1つ開いているだけで船は沈む。もしだれかが種々の些細な罪の中で生きているとしたら、それはその人が神に対する何の愛も持たず、神を喜ばせ、神に栄誉を帰そうとする何の真摯な心遣いも持っていないことを示している。些細な罪には、大きな罪と同じくらい人を断罪する性質がある。大きな罪ほど大きな罰には値しないかもしれないが、断罪には確実に値する。いかなる罪にも、そこには神への侮蔑がある。『だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます』(マタ5:19)。もしだれかが、これこれは大きな戒めだと云って、それを重んじ、別の戒めは小さなものだとして、それを敬わず、それを破るにまかせているとしたら、その人は滅びに向かいつつあるのである」。----ストッダードの『真摯さと偽善との判別法』。[本文に戻る]

*2 申5:29; 申32:18、19、20; I歴28:9; 詩78:7、8、10、11、35、36、37、41、42、56以降; 詩106:3、12-15; 詩125:4、5; 箴26:11; イザ64:5; エレ27:13; エゼ3:20; 18:24: 33:12、13; マタ10:22; 13:4-8、 19-23; 25:8; 24:12、13: ルカ9:62:12:35以降: 22:28; 17:32; ヨハ8:30、31; 15:6、7、8、10、16; ロマ1:7; 11:22; コロ1:22、23; ヘブ3:6、12、14: 6:11、12; 10:35以降; ヤコ1:25; 黙2:13、26; 2:10; Iテモ2:15; IIテモ4:4-8。[本文に戻る]

*3 創22:1; 出15:25; 16:4; 申8:2、15、16; 13:3; 士2:22; 3:1、4; ヨブ23:10; 詩71:10、11; エゼ3:20; ダニ12:10; ゼカ13:9; マタ8:19、20; 18:21、22; ルカ1:35; Iコリ11:19; IIコリ8:8; ヤコ1:12; Iペテ4:12; Iヨハ2:19; ヘブ11:17; 黙3:10。[本文に戻る]

*4 「1つの罪の道は、それだけで人を救いから除外するのに十分である。彼らがどれだけ大きな誘惑を受けたかは関係ない。ある人々は不義を喜んでいる。彼らはみだらな行為や、不節制な行ないを楽しみとしている。だが、それとは別に、罪を喜んではいない人々もいる。彼らは見苦しくなく罪を避けられるときには、罪を喜びはしない。何かよほど大きな必要に迫られない限り、彼らはそうしようとはしない。彼らは罪を犯すのを恐れる。罪を危険なものと考え、罪を避けようとしてそれなりの注意を払う。だが時として彼らは余儀なく罪を犯してしまう。彼らは、二進も三進も行かない状況に押し込められ、いかにして罪を避ければよいかわからなくなる。そうしないことは危険なこととなる。もしナアマンがリモンの神殿で身をかがめなければ、王は彼に対して激怒し、彼の官職を解き、彼の生命を奪うかもしれないので、ナアマンはそれに応じている(II列5:18)。----同じように、ヤロブアムはやむなくダンとベテルに子牛を2つ造った。彼は、民衆がエルサレム礼拝に上っていく限り、いつレハブアムに帰順し、自分を殺すことになるかもしれないと考えたのである。それで彼は、この窮地を脱するために何らかの便法を講じなくてはならなかった(I列12:27、28)。彼は、目に見える必要に迫られてこの邪悪な行動に走ったのである。----そのように、岩地のような心をした聴衆は、真の信仰の告白を保ちたくないわけではなかった。だが、彼らは、それができないと思うような状況に立ち至ったのである。「みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます」(マタ13:21)。同じように、アカンやゲハジの前には、一財産を手に入れる千載一遇の好機がぶらさがっていた。それから二十年生きられたとしても、そのような巡り会わせはまずありえなかった。それで彼らは余儀なく機転を利かせて、神の律法を破っているのである。彼らは財産が、自由が、生命が必要であることは云い立てているが、従順がそうであるとは云わない。もし人が通常の場合は喜んで神に従おうとしていても、非常な困難が伴うときには理由をつけて従おうとしないとしたら、その人は敬虔ではない。何の誘惑もないとき神に従うのはたいしたことではない。しかしロトはソドムで聖くしていたし、ノアは古代世界で義人であった。誘惑は人を試みはするが、強制的に罪を犯させるわけではない。そして恵みは、誘惑の日に心を確く立たせるであろう。----幸いなのは、誘惑に耐え抜く人々である(ヤコ1:12)。しかし、呪わるべきは、誘惑の日に落ちて行く人々である」。ストッダードの『真摯さと偽善との判別法』。[本文に戻る]

*5 「ここから私たちは、勢いを失って、主から離れていった人々について、いかなる判断を下すべきかを学ぶことができる。彼らはその器に一度も油を入れたことがなかった。ほんの僅かな恵みをも決して心に入れていたことがなかった。それでIヨハ2:19にはこうある。『もし私たちの仲間であったのなら、私たちといっしょにとどまっていたことでしょう』。察するにこの人々は、非常にずば抜けた、また卓越した人々だったらしく、背教者になりそうな焼き印や目印など、諸教会の目につく形では全く身に帯びていなかったようである。だが、その不健全さは彼らの背教によって全く明らかになった。そして、それだけで十分な証拠となったのである」。シェパードの『例え話』、第1部、p.226。[本文に戻る]

*6 「ある人の上昇がその下降の原因であったり、その転落を固めてしまうという場合、あるいは少なくとも、自分の腐敗を通してそれらを招いた原因である場合。例えば、ギリシャのティマイオスのように、ある人が、締まりのない、無頓着で肉的な生活を送っていたが、人からかけられた何らかの言葉か、自分で読んだ何らかの書物か、友人と交わした何らかの会話によって、彼は自分の惨めで、悲惨な状態を確信するようになり、自分自身の内側に何の良いものも恵みも見てとれなかったとする。今までの自分は欺かれていたのだと思う。だが、とうとう彼は何らかの光を手に入れる。何らかの味わいを、何らかの悲しみを、恵みの手段を用いたいという何らかの心を、何らかの慰めとあわれみと、いのちの希望を手に入れる。だがこのような状態になったまさにこのとき彼は転落する。彼は自身満々になって、そこから転落する。この上昇が、彼の転落の原因なのである。彼の光が、彼にとっては暗闇となり死となる。また形式的な知識となる。上昇することで彼は形だけの信仰に落ちて行く。またそこから神聖冒涜へと至る。そして、彼は味わっていることに満足する。彼の悲しみが彼の心から罪への悲しみを拭い去る。また彼を回復されるためのあらゆる手段が彼をかたくなにする。----そんなことが病気の時に起こったらどうなるだろうか。薬や食事が毒になるとしたら、何の回復の見込みもないであろう。ある人は今や死に至る病にかかっている。僅かに聖徒のような気分を味わっただけで彼は、その陰に何があるかを忘れてしまうのである」。シェパードの『例え話』、第1部、p.226。[本文に戻る]

*7 マタ5:29、30; 6:24; 8:19-22; 4:18-22; 10:37、38、39; 13:44、45、46; 16:24、25、26; 18:8、9; 19:21、27、28、29; ルカ5:27、28; 10:42; 12:33、34; 14:16-20、25-33; 16:13; 使4:34、35; 5:1-11; ロマ6:3-8; ガラ2:20; 6:14; ピリ3:7-10; ヤコ1:8、9、10; 4:4; Iヨハ2:15; 黙14:4; 創12:1-4; ヘブ11:8、9、10; 創22:12; ヘブ11:17; 11:24-27; 申13:6; 33:9; ルツ1:6-16; 詩45:10、11; IIサム15:19-22; 詩83:25; 詩16:5、6; 哀3:24; エレ10:16[本文に戻る]

*8 「多くのことを知っていると告白するのはたやすい。だが、いついかなる折にも、あなたの種々の感情を克服し、種々の情欲と格闘し、あなたの意志およびあなた自身に逆らうこと、これは困難である。主が私たちの生き方に望んでおられるのは、私たちが主にとって役に立つ、有益な者となることである。内側にあるものでは、主にも私たちの兄弟たちも何にもならないが、内側から流れ出た外的な従順は神の栄光を現わし、人々に善を施す。主はそれがなされることをお望みなのである。一体、私たちが植えたり水をやったりするのは、植物が樹液で満たされるようになるためでなくて何であろう? そしてその樹液の目的は、その植物が実を結ぶようになるためでなくて何であろう? ただの葉っぱや、実のならない木などに、農夫は何の関心を持つだろうか?」----プレストン博士の『教会の行動指針』より。[本文に戻る]

*9 「あらゆる恵みの目的は、心を抑制し、何らかの戒めに素直に従いやすくすることでなくて何であろう? 見よ、たとえ個別に名指されていはいなくとも、いかに多くの恵みが種々の命令について効能や効力を有していることか。そうしたあらゆる恵みの目的は、私たちを従順にすることである。たとえば、自制の目的は貞潔であり、心をして、心を整えなさいとか、淫乱、好色……の生活ではなくといった戒めに屈させることにある。兄弟に対して怒ってはならないと主がお命じになるとき、そうした柔和の目的は、また主がそれを注入なさる理由は、私たちを軽率で無分別な怒りから遠ざけることにある。信仰もそれと同じく、その目的はイエス・キリストをとらえて、私たちをして、彼を信ぜよという福音の命令に従順にならせるためである。そのように、ありとあらゆる恵みは、互いに連携して、魂を従順なものに形作り、方向づけているのである。そして、あなたの生活における従順の大きさは、あなたの心の中にある恵みの大きさと同程度であり、それ以上には上れないのである。それゆえ、自分の心に問うてみるがいい。自分は、自分の生活において、どこまで主に従っているだろうか、と。フランシス・スピラが身の回りにいた人々に与えた助言だが、彼はこう云っている。『私を見て、信仰と従順の分断に対して用心することを学ぶがいい。私は信仰による義認を教えてきたが、従順はないがしろにしてきた。それで、こうした有様になってしまったのである。私の知っている何人かの敬虔な人々が、その臨終間際に得ていた慰めは、彼らの精神の内的な行動から出たものではなかった。そうした内的活動は、それだけしか考察しなければ、誤解されやすいものである。むしろ彼らの慰めは、そうした内的活動から発していた、生活上の従順な行動から出ていた』。キリスト者はこう心がけるがいい。いかなる境遇にあろうと、いかなる立場にあろうと----それが学者であれ、職人であれ、農夫であれ、主婦であれ----、こう心がけるがいい。すなわち、いざ死に臨んだときには、自分はあらゆる事がらにおいて従順であったと思えるようにすることである。これが慰めとなるであろう」。プレストン博士の『教会の行動指針』より。[本文に戻る]

*10 「いかなる人も新生していない限り、たとえどれほど多くのことを行ない、どれほど大きなことを行なおうとも、何らかの罪のうちに生きている。隠れた罪か公然たる罪か、小さな罪か大きな罪かは関係ない。ユダは相当のことをしていたが、彼は貪欲であった。ヘロデは相当のことをしていたが、彼のヘロデヤを愛していた。どんな犬にもその犬小屋がある。どんな豚にもその餌はある。そして、どんな悪人にもその情欲があるのである」。シェパードの『真摯な回心者』、第1版、p.96。
 「世にある不健全な心はみな例外なく、魔女たちについてよく云われるように、何らかの使い魔にしゃぶりつかれている。それで彼らには、彼らの愛する何らかの情欲があるのである。彼らが決して捨てないという約束を与えた、何らかの愛するものがそこにはあるのである」。シェパードの『例え話』、第1部、p.15。
 「律法と結婚している人はみな、その裸の一部を隠す自分のいちじくの葉を持っているものである。彼の義務はみな何らかの情欲を暖めている。そこには彼が生きつつある何らかの罪がある。それは主によってあばかれても、あの若人のように手放そうとしないものか、あまりにも霊的なものであるため、一生かかっても全く目につかないようなものである。中でも最も手厳しいこの章を読み通してみるがいい。白く塗った墓(マタ23)。非の打ち所のない者であったパウロは、それでもいろいろな欲情と快楽の奴隷であった(エペ2:3; テト3:3)。そしてその理由は、律法が、あらゆる罪から離れさせる御霊の務めではないからである(IIコリ3:8、9)。いのちを与えることのできるような律法はどこにもない(ガラ3:21)。このため多くの人々は、どれほど固く決心しても、またそれを破るのである。このため人々は罪を犯しては悲しみ、もう一度祈っては、いやまさって容易に自分の罪に突き進むのである。自分を吟味してみるがいい。あなたの義には、何か生きた情欲が伴っていないだろうか? 確かに、あなたは義に嫁いだのであって、一度もキリストに嫁いではいないのである」。シェパードの『例え話』、第1部、p.19、20。
 「いかなる偽善者も、たとえキリストに近づこうとも、またしばらくの間はキリストとの交わりについての知識において成長しようとも、その間隠れた情欲といばらを有しており、それが彼の成長を上回って成長しており、結局はすべてをふさぎ、あげくの果てにはキリストと自分の情欲に手を組ませることはできないかと考えを巡らし、両者を和解させようと努めることになる」。シェパードの『例え話』、第1部、p.109。
 「----彼らの信仰は、これまで一度も罪から徹底的に引き裂かれたことがないような仲間の中にある。そしてここにこそ、狡猾きわまりない偽善者生活にひそむ最大の傷があるのである。かりにある人が、悲しみによって地獄と同じくらいどん底まで打ちひしがれていて、鎖のもとに横たわり、来たるべき恐怖を案じて震えているとする。その後その人が、息も止まらんばかりの喜びによって天国へ引き上げられたとする。地上に立った御使いのように改心し、輝くとする。だが、もしあなたが情欲から引き裂かれていなければ、また情欲が目にとまっていないか、目にとまっているとしても、それを取り除こうとするほどまでには主に従っておらず、むしろ、高慢で、頑固で、俗的で、怠惰な心持ちのまま、人々には裏表のある態度をとり、商売では人をだまし、家庭では悪鬼となりながら、教会では信者の鏡とされているというような場合、今のあなたは憐れまれるべき対象であり、かの大いなる日には恐怖の的となるであろう。というのも罪は、支配的な立場のまま残っているところでは、信仰もキリストも喜びも隷属させ、おのれに仕えさせるものだからである」。シェパードの『例え話』、第1部、p.125。
 「思うに、最良の偽善者とは、古の様々な商人たちのようなものである。彼らは商品から出る利得は尊び、是が非でも欲しがるが、船を仕立てたり、海の危険や苦難に自ら乗り出したり、自分の尊ぶ宝を取りに行くことは決してしようとしない。同じように多くの人々は、天国の宝を尊び、熱心に欲しがるが、この宝を取りに天国への難儀な航海をしたり、涙と、誘惑と、暗闇の力と、破れ口と、反対と、罪深く不信仰な心の克服と、世間の毀誉褒貶といった谷を通り過ぎたり、次から次へと襲い来る荒波をくぐり抜けていかなくてはならないこと、これは最良の偽善者たちの手にも余ることである。そしてこれにより彼らは、最後にはすべてを失うのである。そしてこれを私は、偽善者がいだく強い願いや尊重と、聖徒たちがいだくそれらとの、大きな違いの1つであると思う。----見よ、それは2つの商売、あるいは2つの店を持っている人のようである。その人は一方を手がけたり、預かったりするだけで精いっぱいであって、ついには一方を放り出し、無視するようになる。ここでもそれは変わらない。主が最良の偽善者たちを捨てておかれる怠惰とまどろみの精神は、彼らの種々の感覚をすさまじく抑圧するため、彼らは自分たちの目的を達成するためにすべての手段を有効に使うことができない。それでここから人は目的のものを願いはしても、何も持たないのである(箴13:4)」。シェパードの『例え話』、第1部、p.150、151。
 「聖書をすべて読み通してみよ。いかなる偽善者であれ、この汚名を着ていない者は決してない。不法をなす者ども(マタ7:23)」。シェパードの『例え話』、第1部、p.195。
 「肉的な人も、何か神が命じておられる良い義務をきちんと行なうことはあるし、神が禁じておられる何らかの罪を断つことはありうる。しかし、それをやり通すことが彼にはできない。非難も不名誉も身に引き受け、自分の信用を失い、自分の友を捨て、名誉や富や快楽を失うこと、これを彼は、へりくだらされない限りは決してしようとしない」。プレストン博士の『パウロの回心』。
 「同じことが人々についても云える。彼らにはへりくだりが欠けているからである。それゆえ彼らの告白彼らは行をともにせず、喜んで互いから離れて行くことになる。彼らは物事の一部は行なうが、全部は行なわない。また一部のものは手放すが、全部は手放さない。それゆえ私たちの救い主は云われる。「わたしのためにすべてを捨てない者は、わたしにふさわしい者ではありません」*(ルカ14)。わたしを他のあらゆる物にもまして尊ばないような者は、救われるにふさわしい者ではない、と。そして人はへりくだらされるまでは、キリストを尊ぶことも、キリストのためにすべてを捨てることもしようとしないものである」。前掲書。[本文に戻る]

*11 「愚かなおとめたちの有する偽りの、また一般的な恵みは、しばらくの間は輝かしい信仰告白を続けるが、その後は確実に消え去り、枯渇するであろう。それは用いられて輝き、燃えているうちに尽きてしまう。----だれよりも前向きだった人々も腐敗し、その種々の賜物も腐敗し、生活も腐敗する。----そうしたことが、多少は告白を保った後で起こる。というのも最初は、それが成長する方が腐敗してしなびるよりも早いが、後になると飽き飽きして、しなびて枯れるからである。----神の御霊は、多くの偽善者の上に臨んで、ふんだんに豊かな覚醒の恵みをお与えになる。彼らには、パラムがそうであったように、それが臨み、大水のときのように、遠くまで達して、非常に深くなり、多くの空っぽの場所を満たすのである。----確かにそれはそのように彼らの上に臨みはするが、内側に落ち着いて、そこに居を定め、自分のための永遠の家を構えることは決してない。----ここから、それは少しずつ腐敗して行き、ついには全く影も形もなくなる。降り込んだ雨水でいっぱいになった池は、自らの内側から水をわき上がらせる泉とは違い、だんだんに干上がって行き、ついにはからからになるのである」。シェパードの『例え話』、第2部、p.58、59。
 「ある人々がキリストをとらえるのは、決して悲惨さに対する恐れからでも、何らかの罪を温存しておくだけのためでもない。神が、御子の栄光にかかわる福音のほむべき光線の光と熱とを射し込ませておられるのである。それゆえ、そこには、罪に定められた、忌むべき、卑しい罪人たちへの、豊かで、惜しみない、甘やかなあわれみがある。いとも良き主よ、とその魂は云う。これほど甘やかな配剤、みことば、神、また福音があるでしょうか! と。そして、そこに安住してしまう。これが岩地のような心持ちである。みことばを聞くと喜んで受け入れ、しばらくの間は信じていた、あの岩地のような心である。そしてこれこそ、おびただしい数の人々が陥っている状況である。彼らはキリストの約束とあわれみによって大いに感激させられ、しばらくの間は無代価の恵みにすがりつく。だが、部屋にたちこめる甘い芳香のように、それは長続きしない。あるいは花々のように、古びて、しなびて、ぽとりと落ちてしまう。誘惑に遭うと、情欲や、世や、怠惰の方が、はるかにキリストや、その福音の差し出すすべてのものよりも甘やかになるのである」。シェパードの『例え話』、第2部、p.168。
 「いかなる肉的な心も例外なく、最後にはこの土壌に何らかの苦い根を芽吹かせるものである」。シェパードの『例え話』、第1部、p.195。
 「私たちは身をもって知るはずである。たとえば、この世で最良の信仰告白者たちを取り上げてみよう。彼らが主のみもとに来たこと、主に従っていることは、自分にとっても他人にとっても明らかかもしれない。だが彼らはそのうちに離れ去って行く。彼らを有効に引き寄せ、引き留めておくための御霊は一度も与えられていなかったのである」。シェパードの『例え話』、第1部、p.205。[本文に戻る]



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