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第13節 キリスト者的な行ない、すなわち、聖い生活は、信仰を告白するキリスト者の真摯さを、その隣人や兄弟たちの目に対して示す現われでありしるしである

 そしてこれが、この点における恵みの主たるしるしであることは、神のことばからきわめて明白である。他人を判断する規則を私たちにどう与えるべきかを、だれよりも熟知していたキリストが、何度となく繰り返し説かれた規則は、人はその実によって見分けなくてはならない、ということであった。「あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます」(マタ7:16)。そして主は、この断言の次の節から、なぜ人々の実こそ彼らの本性を示す主たる証拠にほかならないかという種々の理由を明確に示し、最後にもう一度同じ主張をしておられる。「こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです」(20節)。さらにまた、「木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい」(12:33)。----いわば主は、こう云っておられるのである。よほど馬鹿げた者でもない限り、木が良くて実が悪いと考えたり、木とそれになる実が別々の種類をしているなどと考えはしないはずだ、なぜなら実こそ、その木の性質をまさしく示す証拠にほかならないからだ、と。この節の最後の文である、「木のよしあしはその実によって知られるからです」、で意図されている唯一のことは、木というものは、主にその実によって見分けがつくものであり、これこそ、ある木を別の木から区別する際に用いるべき、主要にして最も適切な生物学的特徴だ、ということである。ルカ6:44も同じである。「木はどれでも、その実によってわかるものです」。どこを見てもキリストは、あなたがたは、葉や花々によって木を見分けることができます、などと語ってはいない。あるいは、人はその話によって見分けることができます、とか、自分の体験をいかに巧みに話せるかによって見分けることができます、とか、それを語る際の口ぶりや物腰によって見分けることができます、とか、その語調の力強さや哀感によって見分けることができます、などと云ってはいない。あるいは、その感情のこもった話し方や、のべつまくなしに喋りまくることや、さめざめと涙を流し、情感をこめた言葉遣いをすることや、そうした話を聞く側の心にいかなる感情を引き起こすかによって見分けることができます、などと云ってはいない。そうではなく主は、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです、と云い、木のよしあしはその実によって知られます木はどれでも、その実によってわかるものです、と云っておられる。そしてキリストはこのことを、私たちが他人を判断しようとする際に相手の中に見るべき主たる証拠とせよ、と命じているだけでなく、他人が私たちを判断する際の材料として、私たちが示すべき主たる証拠とせよ、とも命じておられる。「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタ5:16)。ここでキリストは私たちに、自分の敬虔さを他人の前で明らかにせよ、と命じておられる。敬虔さは、いわば魂の中で輝く光のようなものである。キリストが命じておられるのは、この光が内側で輝くだけでなく、人々の前でそれを輝かせ、彼らがそれを見えるようにすることである。しかし、いかにしてそうすべきであったか。私たちの良い行ないによってである。キリストは決してと、人々があなたがたの良い言葉を聞くようにせよ、とも、あなたがたの良い物語を聞くようにせよ、とも、あなたがたの哀感に満ちた言葉遣いを聞くようにせよ、とも云っていない。そうではなく、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい、と云っておられる。キリストが私たちに、自分たちの光をいかにして輝かせるか、いかにして他人にその証拠を握らせるべきかという規則を与えておられる以上、疑いもなくキリストの規則こそ最善のものに違いない。使徒たちもまた、キリスト者的な行ないこそ、だれかを真のキリスト者であるとみなす際の第一の根拠としている。たとえば使徒パウロは、ヘブル書の6章でそのようにしている。その章の冒頭で使徒は、一般的な照明を際立って受けたことのある人々について語っている。彼らは、いったんは光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わった後で、堕落してしまう人々、やがてのろいを受け、ついには焼かれてしまう不毛の土地にも似た人々であった。そして、その直後の9節で彼はこう云い足している(それは彼が、こうしたいかなる一般的な照明にもまさる、救いに至る恵みを有していたヘブル人キリスト者たちに対していだいていた愛の証左であった)。「だが、愛する人たち。私たちはこのように言いますが、あなたがたについては、もっと良いことを確信しています。それは救いにつながることです」。そして彼はその次の節で、なぜ自分は彼らが良い状態にあることをそれほど確信できるのかという理由を告げている。彼の言葉によれば、それは決して彼らが、自分の魂に及ぼされた神のみわざを言葉巧みに説明していたからでも、きわめて体験的な証しをしていたからでもない。むしろそれは、彼らの行ないであり、愛の労苦にあった。「神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです」。また同じ使徒は、具体的な行動によって忠実に神に仕える人のことを、何にもましてキリストを愛しているとの、またキリストの栄誉を自分の個人的利益にまさって重んじているとの適切な証明を他人に示している人であると語っている。「だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。しかし、テモテのりっぱな働きぶり[適格性 <新改訳欄外注>]は、あなたがたの知っているところです。子が父に仕えるようにして、彼は私といっしょに福音に奉仕して来ました」(ピリ2:21、22)。使徒ヨハネも同じことを、彼がガイオを高く評価する根拠として云い表わしている(IIIヨハ3-6)。「兄弟たちがやって来ては、あなたが真理に歩んでいるその真実を証言してくれるので、私は非常に喜んでいます」。しかし、その兄弟たちはいかにしてガイオのうちにある真実を証言していたのだろうか? またいかにして使徒は、ガイオのうちにその真実があるという見きわめをつけたのだろうか? それは決してガイオが、自分のくぐってきた様々な体験について口達者に証ししていたからでも、真情あふれるようなしかたで語っていたからでも、きわめてキリスト者らしい言葉遣いをしていたからでもなかった。むしろ彼らが証言していたのは、彼が「真理に歩んでいる」ということであった。使徒はこう続けている。「あなたが真理に歩んでいるその真実を証言してくれるので、私は非常に喜んでいます。私の子どもたちが真理に歩んでいることを聞くことほど、私にとって大きな喜びはありません。愛する者よ。あなたが、旅をしているあの兄弟たちのために行なっているいろいろなことは、真実な行ないです。彼らは教会の集まりであなたの愛についてあかししました」。このように使徒は、その兄弟たちがやって来ては、彼が真理に歩んでいることを証言するとき、何についてあかししていたかを説明している。また使徒は同じ箇所で、ガイオにも、これこそ他人を判断する場合に従うべき規則である、と云っているように思われる。10節で彼は、デオテレペスという者が不遜な行ないをしており、他の人々をも自分の方に引き込もうとしていると語っている。また、11節ではガイオに向かって、そうした者に用心し、見ならわないようにせよ、と命じている。そして、そうした者らを見分けるために彼が与えた規則は、かつてキリストが与えた規則、「あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです」、とぴったり符合するものであった。使徒は云う。「愛する者よ。悪を見ならわないで、善を見ならいなさい。善を行なう者は神から出た者であり、悪を行なう者は神を見たことのない者です」。さらに云えば、使徒ヤコブもまた、人がその信仰とキリスト教とを、自分の行ないやわざによって他人に示す方法と、自分の信仰を行ないなしに、あるいは行ないによらずして示す方法とをはっきり比較しつつ、幾度となく明白に前者の方をよしとしている。「さらに、こう言う人もあるでしょう。『あなたは信仰を持っているが、私は行ないを持っています。行ないのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行ないによって、私の信仰をあなたに見せてあげます』」(ヤコ2:18)。人がその信仰を行ないなしに現わすこと、あるいは、行ないとは違った方法で現わすこととは、それを言葉で----自分の信仰を告白する言葉で----現わすことにほかならない。使徒がこう云っている通りである。「だれかが自分には信仰があると言っても、……何の役に立ちましょう」(14節)。----それゆえ、ここには、私たちの心の中にあるものを他人に示す、2つの現わし方が記されているのである。一方は私たちが云うことによって現わし、もう一方は、私たちが行なうことによって現わす。しかし使徒は何度となく、後者が最良の証拠であると示している。さて、私たちが自分について言葉で述べるすべてのこと----自分には信仰があると云うこと、自分は回心しましたと云うこと、自分がいかにして信仰を持つに至ったかを告げること、その過程でくぐってきた様々な段階や、それに伴った種々の悟りや体験について語ること----、これらはみな、やはり自分の信仰を自分が云うことで現わすことにほかならない。自分の言葉で示すことにほかならない。だが使徒が、それよりもはるかにすぐれた現わし方として語っているのは、自分の信仰を自分のすることで現わすこと、自分のわざによって示すことなのである。

 また、信仰を告白するキリスト者の真摯さを示す最良の証拠が行ないであることは、聖書がはっきり教えているだけではなく、分別が教えるところでもある。分別ある人は、他人の行為こそ、その言葉にまさって、相手の内面をはるかに雄弁に、また偽りなく伝えるものであることを知っている。これは時代と民族の違いを越えた全人類の常識だが、人の心を判断する最たる材料は、それ以外の場面で彼らがいかなる行ないをしているか、ということにほかならない。たとえば、その人は本当に臣民として忠良であるか、恋人として真実であるか、子どもとして従順であるか、しもべとして忠実であるか、という具合にである。たとえある人が、だれかを自分は心から愛しているとか、深い友情をいだいていると告白していたとしても、分別が万人に教えるところ、その人が本当に心からの友人であるかどうかを示す動かぬ証拠は、そうした告白にではなく、その人が実行動において友人であると示し、友人のためならいついかなるときも忠実を尽くし、順境にあるときも逆境にあるときも喜んで身を投げ出し、自分を否定し、相手に親切を施すためには自分が割を食っても甘んじようとするかどうかにあるのである。賢い人であれば、友情の真摯さを示す証拠としては、そうしたものの方をこそ、百万言の熱心な告白や、厳粛な宣言や、この上もなく情愛のこもった言葉による友情の表明にもはるかにまさって信頼するであろう。そして、それと全く等しい理由によって行ないは、キリストに対する友情の最良の証拠ともみなされるべきなのである。分別は、ヨハ14:21でキリストが云われたのと同じことを告げている。「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です」。こういうわけで、もし私たちが目にしているある人が、その人生行路においてキリストに従い、キリストにならっているように見え、キリストの栄誉のため大いに奮励し、自分を否定し、キリストの御国とその領土をこの世で伸展させようとしているように見受けられるような場合、分別の教えるところ、これはキリストに対する愛の証拠として、非常に大きな信用に値するものである。だが、これよりもはるかに劣るのは、単にある人がキリストを愛していると云うだけの場合や、自分の種々の内的な体験について告げるだけの場合や、自分がいかに強い愛を感じているか、いかに自分の心がこれこれの時に愛に引き寄せられたかと告げるだけで、そのふるまいにはほとんどキリストにならうことが見られないような場合である。その人は、キリストのために何か大きなことができるときにも尻込みし、キリストの御国の伸展のためには決して骨を折ろうとせず、キリストのため自分を否定するよう召されるときには必ずあれこれと弁解しがちであるように見える。それである人々は、たとえ自分の体験を証しする際に、いかに自分が世に対する嫌気が心にさしてくるのを覚えたか、いかにこれこれの時に世の空しさを見てとったか、また、そのためいかにすべてが自分にとっては無のように思えたかについて語っていたり、自分は神にすべてを捧げつくしていますと告白し、天と地がその証人ですなどと公言していたりしていても、その間、実際の行ないにおいては、この世をしゃにむに追求し、自分の手持ちのものを握りしめて離そうとせず、慈善や教会の目的のために大きな犠牲を払うことを毛嫌いし、まるで心血を注ぐかのようなようすを示すのである。しかし、それとは別種の告白をするキリスト者もいる。口数は少ないが、そのふるまいにおいては、いついかなるときも、自分の義務の道を妨げる場合には世を喜んで捨てようとしており、キリスト教信仰の伸展のため、自分の同胞に善を施すためとあらば、いつでも自由に世に別れを告げることができる。分別の教えるところ、世に嫌気がさしている心の現われとしては、後者の方がはるかに信頼できるものである。また、もしある人が、目に見えて、神の前でも人々の前でもへりくだった歩みをし、砕かれた心持ちのうかがわれる行動をとり、患難に遭っても忍耐強く神に身をゆだね、人々の間では柔和にふるまうようすをしている場合、これは非常に大きなへりくだりの証拠である。これよりもはるかに劣るのは、人が、いかに自分自身の無価値さについて痛感させられたかを告げるだけの場合、----いかに自分がちりの中に伏させられ、むなしい者とされ、自分自身の全身の汚らわしさ、厭わしさを見させられたか、などを告げるだけの場合、----だがしかし、その行動を見ていると、あたかも自分が聖徒の中で最高にして最良の者のひとりであり、町中のキリスト者の中でも当然その頂点に立つ権利があるとでもいうかのように思いみなしているような場合である。そういう人はうぬぼれが強く、依怙地で、ちょっとした反論や反問にもがまんができない。こうした場合、確かにその人の行ないのもととなっているのは、その告白ではなく、心の中の卑しい場所であると思ってよいであろう。それと同じく(これ以上何の実例もあげなくとも)、もしキリスト教信仰を告白しているある人のふるまいを見るとき、その人が、不幸に遭っている他の人々に優しい心遣いを示し、彼らの重荷を喜んでともに負い、彼らのためには自分の財を費やすこともいとわず、他の人々の魂とからだに善を施すためとあらば世でどれほど多くの不都合をこうむってもかまわないという場合、これは人々に対する愛の精神の発露として非常に信用の置けるものではなかろうか? それよりもはるかに劣るのは、人が、自分はいかに他者に対してこれこれのときに愛を感じたかと告げるだけの場合、----いかに彼らの魂をあわれに思ったか、いかに彼らのために身を切られるような思いをしたか、また、いかに自分の敵たちに対して心からの愛とあわれみを感じたかを告げるだけの場合、----それでいながら、そのふるまいにおいては、非常に利己的な精神をしていて、締まり屋で、けちくさく、すべてをひとりじめにし、隣人にはこれっぽっちも分け与えず、ことによると嫉妬深く、争いを好む性格をしているような場合である。人は、感情的に激しい痛みを覚えて、自分には大いなることを求める心があり、喜んで多くを行ない、多くを苦しもうとしているのだと思い込み、それを非常に熱を込めて、また確信をもって告白していながら、現実にはそれとほど遠い心をしていることがありえる。このようにして多くの人々は、その情愛のこもった心の痛みによって、神の栄光のためなら、たとえ自分が永遠に断罪されてもかまわない、と考える。人は移り気な種々の感情によって、容易に言葉を口に出す。また言葉は安上がりなものである。そして敬虔なふりは、言葉によって行なう方が、行動によって行なうよりも簡単なものである。だがキリスト者的な行ないには、多くの犠牲と、多くの労苦を伴う。キリスト者に求められている自己否定、いのちに至る道の狭さは、言葉にではなく行ないに存している。偽善者たちにとっては、聖徒たちのような口ぶりをすることの方が、聖徒のような行為をすることよりも、はるかに容易なのであろう。

 こうしたことから明らかなように、キリスト者的な行ないは、信仰を告白するキリスト者が真の敬虔さをいだいていることを、その隣人たちの目に対して示す最良のしるし、あるいは現われである。しかしここで、この件について誤解がないように、いくつかのことを述べておくべきであると思われる。

 第一に述べておかなくてはならないのは、聖書がキリスト者的な行ないを、他者に対して恵みの真摯さと真実さとを示す最良の証拠であると語る場合、キリスト教の信仰告白は抜きにされているのではなく、前提とされている、ということである。上で語られた種々の規則は、信仰を告白するキリスト者や、自分をキリスト者たちの交わりの一員であると表明している者たちをどう考えるべきかという指針として、また彼らの見せかけの真実さと、彼らが云い表わしている告白の真摯さを判断する基準として、キリストに従う者たちに与えられたものであって、異教徒たちや、キリスト教に鼻もひっかけない者たちの真実さをはかるための規則ではない。これは、キリストがマタイ7章で与えておられるあの大いなる規則において、これ以上ないほど明白にされている。「あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです」。ここで主が、この規則によって判断されるべき者らとしているのは、信仰を告白するキリスト者たち----否、非常に高らかに信仰の告白をしていた者たち、「羊のなりをしてやって来るにせ預言者たち」(15節)----のことなのである。同じことは、使徒ヤコブの手紙のこの箇所でも述べられている。「行ないのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行ないによって、私の信仰をあなたに見せてあげます」(2:18)。この二種類の人々----自分の信仰について、このようにそれぞれ異なる証拠をあげる人々----は、どちらとも明らかに、信仰を告白している人々であった。これは両者とも、自分が告白している信仰の証拠を示そうとしていることからわかる。また、この箇所に先立つ数節からもはっきり見てとれる通り、使徒が語っているのは、イエス・キリストへの信仰を告白する人々にほかならない。同じように、先に述べたヨハネ第三の手紙の箇所で使徒が語っているのは、如実に信仰を告白しているキリスト者たちのことである。確かにこうした規則はみな、信仰告白者たちのキリスト者的な行ないこそ、彼らの真摯さを何にもまして、最もまぎれもなく示すしるしであり、彼らの告白そのものよりもはるかに動かぬ証拠である、と語ってはいるが、そこでキリスト教信仰を告白することはあからさまに前提とされている。告白は、数ある証拠の中で、その最たるものでも、取り違えようのないものでもないが、それこそは、証拠として必須の、なくてはならないものなのである。肉体のからだを持っていることは、決して人を他の生き物から取り違えようもなく区別するものでも、人間性を示す最たる証拠でもさらさらないが、いかなる証拠にとっても必須の、なくてはならないものである。それと同じように、もしだれかが自分はキリスト者ではないと公言し、イエスが神の御子であるとも、神から遣わされた者であるとも信じようとしない場合、たとえその人の外見に現われた行ないや美徳がいかなるものであろうと、キリストおよびその使徒たちの記したこれらの規則によって、その人を真摯なキリスト者であるとみなさなくてはならないなどということは決してない。こうした規則は、キリスト教をあからさまに否定する人や、自他ともに認める理神論者や、ユダヤ人や、異教徒や、公然たる不信者については全く何の関係もない。それと同じく、これはキリスト教の告白をただ差し控えているだけの人とも何の関係もない。なぜなら、こうした規則が私たちに与えられたのは、信仰を告白するキリスト者たちを判断するだけのためだからである。果実は咲いた花に伴っていなくてはならず、百合とざくろは相伴わなくてはならない。

 しかし、ここで当然生じてくる質問があるであろう。すなわち、人はいかなる場合にキリスト教を告白していると云えるのか、あるいは、いかなる信仰告白が、正真正銘のキリスト教の告白であると呼べるのか、と。私は2つの答えを返そうと思う。

 1. 人が正真正銘のキリスト教の告白をしていると云えるためには、疑いもなく、その人がキリスト者であるために必要なすべてのことを告白していなくてはならない。すなわち、キリスト教の根幹に属する程度の事がらは告白していなくてはならない。キリスト教そのものの根幹にかかわる事がらは、何であれすべて告白することこそ、キリスト教の告白に欠かせないことである。その告白は、告白されている事がらから成り立っていなくてはならない。というのも、ある人がキリスト教を告白するということは、自分はキリスト教を会得していると宣言するのと同じだからである。それゆえ、何かが真に何かであると呼ばれるために必須のことは、その何かの宣言においても、それが真にその何かの宣言であると呼ばれるために必須である。もし私たちが、キリスト教の一部分しか受け入れず、キリスト教の根幹にかかわる部分を何か除外するとしたら、私たちが受け入れているものはキリスト教ではない。キリスト教の根幹にかかわる何かが欠けているからである。それと同じく、もし私たちが一部分しか告白せず、根幹にかかわる何かを除外しているとしたら、私たちが告白しているものはキリスト教ではない。こういうわけで、キリスト教を告白するために私たちが告白しなくてはならないことは、自分はイエスがメシヤであると信じている、ということである。それを信ずることこそ、まさにキリスト教の根幹をなしているからである。同じように私たちは、はっきり口に出して云うにせよ云わないにせよ、イエスが私たちのもろもろの罪の償いを完全につけてくださったことを初めとする、福音の根幹にかかわる種々の教理を告白しなくてはならない。こうした事がらを信ずることもまた、キリスト教の根幹をなしているからである。しかし、正統的な信仰の他にも、それと同じくらいキリスト教信仰にとって本質的な事がらはある。それゆえ、そうした事がらもやはり同様に、私たちが真にキリスト教を告白していると云われるためにはなくてはならない。こうした類の、キリスト教の根幹にかかわるものとは、私たちが自分のもろもろの罪を悔い改めること、自分自身の罪深さを確信すること、自分が神の御怒りを受けて当然のことをしてきたとはっきり感じとること、自分の唯一の救い主としてキリストを心底から受け入れ、そのキリストを何にもまして愛し、そのキリストのためなら何を捨てることもいとわず、自分自身を全く、また永遠にキリストのものとして明け渡すといったことである。こうした事がらは、福音のいかなる教理を信ずることにも劣らず、やはりキリスト教の根幹に属するものであり、それゆえ、こうした事がらを告白することもまた、キリスト教の告白に属しているのである。人が信仰を告白するキリスト者であるためには、キリスト教の恵み、あるいは美徳に属するあらゆる個々の事がらについて、明確に口に出して告白しなくてはならないというのではない。だが確かに、口に出して云うにせよ云わないにせよ、キリスト教信仰の根幹にかかわることは告白する必要がある。また、キリスト者たちがその告白において何を明白に表明するべきかについては、神のことばの種々の戒めという指針、あるいは、神の民が時折行なってきた、信仰の公的な告白という聖書の模範をたよりにしなくてはならない。

 こういうわけで、人は自分が罪を悔い改めていることを告白しなくてはならない。そのように昔の人々は、信仰告白者として信者の群れに加入する際には自分の罪を告白し、罪ゆえのへりくだりを表に示しながら進み出て行った(マタ3:6)。彼らが授けられたバプテスマは、悔い改めのバプテスマと呼ばれていた(マコ1:4)。またヨハネは、彼らにバプテスマを授けた際、彼らに向かって、「悔い改めにふさわしい実を結びなさい」(マタ3:8)、すなわち、自分の告白した悔い改めに似つかわしい実を結ぶように勧告し、そのようにするなら、必ず来る御怒りを逃れて、神の倉に麦として納められるであろうと励ましていた(マタ3:7、8-10、12)。同じことを、使徒ペテロもユダヤ人たちに云っている。「悔い改めなさい。そして……バプテスマを受けなさい」(使2:38)。ここから、悔い改めとは、バプテスマを受けようとする者たちが、目に見えるものとして示さなくてはならない資質であり、それゆえ、公に告白されなくてはならないものであることがわかる。それで、捕囚から帰還したユダヤ人たちが公に契約を結んだ際に、それは告白、すなわち、自分たちのもろもろの罪を悔い改める公の告白を伴うものであった(ネヘ9:2)。この悔い改めの告白には、自分に対する神の断罪の正しさを自分は確信するとの告白が含まれているべきである(ネヘ9:33-35およびネヘ10章を参照)。彼らはイエス・キリストに対する自分の信仰を告白すべきである。自分がキリストを自分の救い主として心底から受け入れ、堅く信頼し、その福音を喜びをもって受けとっていると告白すべきである。そのようにしてピリポは、あの宦官にバプテスマを授ける際に、宦官が心底から信じることを要求したのだった。目に見えるキリスト者として受け入れられた人々は、ペンテコステの日において始まった、かの大いなる御霊の注ぎ出しにおいて、福音を喜んで受け入れたように見受けられた。「そこで、彼のことばを喜んで受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた」(使2:41 <英欽定訳>)。彼らは、自分がキリストの義と力だけを信頼していると告白すべきである。自分はキリストを自分の唯一の主また救い主として、身も心も捧げていると告白すべきである。自分の唯一の義また分け前としてのキリストを自分は喜んでいると告白すべきである。あらゆる国々はそのように公に告白すると予言されている。「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。わたしは自分にかけて誓った。わたしの口から出ることばは正しく、取り消すことはできない。すべてのひざはわたしに向かってかがみ、すべての舌は誓い、わたしについて、『ただ、主にだけ、正義と力がある。』と言う。主に向かっていきりたつ者はみな、主のもとに来て恥じ入る。イスラエルの子孫はみな、主によって義とされ、誇る」(イザ45:22以下)。彼らは、自分を全くキリストに明け渡し、キリストを通して神に明け渡していると告白すべきである。かつてイスラエル人たちも、自分と神との契約をそのように公に認めた。「きょう、あなたは、主が、あなたの神であり、あなたは、主の道に歩み、主のおきてと、命令と、定めとを守り、御声に聞き従うと断言した」(申26:17)。彼らは、真の神を信ずる信仰を、そのあらゆる困難もろともにいだいていること、神に従順に生きる道をいささかの怠りもなく最後まで歩み通したいと心から望んでいることを告白すべきである(出19:8; 24:3、7; 申26:16-18; II列23:3; ネヘ10:28、29; 詩119:57、106)。彼らはこうした誓約において自分の心と魂のすべてが主のものであること、また永遠に主に仕えることを告白すべきであった(II歴15:12-14)。神の民が御名によって、あるいは、訳し方を変えると、御名に対してなすべきであった誓い----おそらくそれは、彼らが厳粛な契約によって神に自分を明け渡すこと、神を彼らの神として受け入れ、自分は全く神のものとして神に従い、仕えると誓うことを意味していた----は、神のイスラエルの目に見えるすべての成員がなすべき義務として語られている(申6:13; 10:20; 詩63:11; イザ19:18; 45:23、24をロマ14:11およびピリ2:10、11と比較されたい; イザ48:1、2; 45:15、16; エレ4:2; 5:7; 12:16; ホセ4:15; 10:4)。それゆえ、ある人々が、キリスト教を真摯に告白する人々として、その隣人たちからの曇りない敬意と愛とをいだかれる資格を得るためには、彼らは、上で言及したようなキリストとその使徒たちの定めた規則により目に見えて聖い生活をすることに加えて、明白に表明するか、口で云わなくともはっきりそれとわかる形で、今しがた言及したような告白をしていなくてはならない。私たちは、実によって彼らを見分ける、すなわち、彼らの実によって、彼らが自ら告白し自称する通りの者かどうかを見分けるべきであって、彼らが自称してもいない何かが彼らの中にないかどうかを、彼らの実によって見分けるべきではない。さらにまた、

 2. こうした事がらを、キリスト教信仰の正真正銘の告白と云えるような形で告白するには、また、ある人のキリスト者的な行ないがこうした規則により真実なものと認められるため必ず伴っていなくてはならないような告白をするには、その告白は(はた目から見て)理解した上でなされていなくてはならない。すなわち、彼らは、キリスト教信仰の種々の原理についてよくよく教えを受けていると同時に、自分が告白という形で表明していることの正しい趣旨を、素直に理解していると思われる人々でなくてはならない。というのも、人がいかなる音声を口から発したとしても、それは、その人がその意味を理解している以上のことは、全く何も意味したり、宣言したりするものではないからである。

 しかし、ある人の行なっている告白が、キリスト教信仰のまともな信仰告白であるとか、聖書が命じ、キリストの弟子たちが要求し、信仰告白者たちがその人を心からの愛とともに仲間に入らせるようなものであるためには、別段、その人の心の中で聖霊がたどった個々の段階や順序について逐一説明する必要はない。聖霊は、はっきり感じとれるようなしかたで、こうしたキリスト教の根幹に属する事がらを心の中に作り出してくださる。だが、聖書に先例として残されている使徒たちの手順や、初代教会の教職者やキリスト者たちの手順を見る限り、決して彼らは、他の人々をキリストにある兄弟として受け入れて、つきあおうとするにあたり、そうした説明を要求してはいない。あるいは彼らが、ある特定の道筋や順序に従って人々が種々の体験をしたかどうかを最初に吟味したなどとということは全くない。彼らが人々に求めたのは、作り出された事がらの告白であって、決してそれらを作り出したしかたの説明ではない。聖書に記されている、アダムに始まり使徒ヨハネの死に至るまでの神の教会を見ても、そこにはそのような慣習の影も形も見られない。

 私は決して、人が兄弟たちに自分の体験についてあれこれ説明することは一切必要ない、と云っているのではない。というのも、人がキリスト教の根幹にかかわるような事がらを告白するというのは、自分がそうした事がらを体験していると告白するのと同じだからである。こういうわけで、もし人々が、自分自身の全くの罪深さ、悲惨さ、無能力さ、また自分のうちにある徹底して滅びるしかない状態について、はっきり感じとれる完全な確信をもって厳粛に告白するとしたら、----すなわち、自分が神から見捨てられ、何のあわれみも得ることなく、その完全な拒絶と永遠の御怒りに直面するのが当然であること、また自分の義をもってしても、自分の内側にある何物をもってしても、神の正義を満足させたり、神のいつくしみに自分をあずからせたりするには完全に不十分であること、----自分が主イエス・キリストと、その償いと義だけに全くより頼んでいることを告白しているとしたら----、それは、自分がそうした事がらのそれぞれを体験していると告白しているのと同じなのである。もしもだれかが、自分は心底からキリストの福音を真理であると信じていること、また、自分が救い主としてのキリストを福音で示されている通りに十分にして完全にいとすぐれたお方であると全く確信し、感じとっていること、全心全霊をこめて自分の魂の隠れ家また安息としての、また自分の慰めの源としてのキリストにしがみつき、キリストに一も二もなく従っていることを告白するとしたら、また、自分が自分のもろもろの罪を悔い改め、あらゆる罪を完全に捨て去り、キリストに自分をすっかり明け渡し、キリストを自分の王として喜んで服従し、自分の身も心もことごとくキリストに捧げ、神を自分のすべて、自分の永遠の分け前として喜んで認め、決意していると告白するとしたら、この場合これは、その人がこうした事がらを体験していると云っていることでなくて何であろうか? さらに、もしもだれかが、自分は未来に天国で永遠に神を楽しむことになるとの御約束により頼んでいること、このむなしい世の楽しみをすべて捨て去り、この大いなる宝と未来の相続分のためにすべてを売り払い、神のいかなる命令にも、たとえそれがどれほど困難で、どれほど自己否定を伴うものであっても応じようとしていること、自分の全生涯を神への奉仕に捧げ尽くすことを告白するとしたら、この場合これは、自分がそこまでの体験をしているという宣言でなくて何であろうか? さらにまた、もしだれかが、自分の心は、自分を傷つけた人々への赦しや、人類一般に対する仁愛において、イエス・キリストの民を自分の民として結びついており、自分の兄弟である彼らとは切っても切れない関係にあること、彼らを愛し、彼らとともに、彼らとの交わりの中で神を礼拝し、神に奉仕し、キリストに従い、同じ神の家族とキリストの神秘的なからだの一員として、課せられた義務を喜んで果たしていく決意をしていることを告白しているとしたら、私は云う。人がこのような事がらを、神の御前でと同じように厳粛に告白するということは、自分はこうした事がらを心の中で意識しているのだ、と、あるいは実際に体験しているのだ、と告白しているのと同じなのである。

 また私は決して、人がこれこれこういう時に、あれこれの恵みの働きをこれこれの状況で体験したと口にして説明できることが、何ら自分の状態を他の人々に判断させる良い材料を提示していることにはならない、と云っているのではない。あるいは、そうした体験について、たとえしかるべき事情があろうとも、決して人を問いただしてはならない、と云っているのではない。特にそれが何か重要なことを決する場合、たとえば牧師職への叙任や認可というような、あらゆる点を満足させることが願わしく、また求められるような場合であれば、なおのことである。それは、いくつかの点で正しい判断を下すための最良の材料となりうる。とりわけ役に立つのは、それによって私たちが、その告白者は、自分の告白していることを正直に、また理解した上で語っており、ただの形式として告白しているのではないと、より確かに満足できるということである。だれかのキリスト教の告白が、ある程度まともなものとして受け入れられるためには、告白する側の告白が決して、前もってお膳立てされた形式にのっとっただけの、言葉の意味をまるで考えていない----あるいは曖昧模糊であやふやな考えでしか裏打ちされていない----決まり文句ではないこと、その人が自分の心の中にあると自覚しているものを、理解した上で正直に云い表わしたものだということが、その告白に伴う種々の状況から明確に見てとれるのでなくてはならない。さもなければ、その人の告白には何の意味もなく、たまたま無生物から発された音と同じ程度のものとしかみなしえないであろう。しかし、そうは云っても(確かに、そうした心の動きの詳細についての説明は、判断の材料として非常に役に立つものかもしれないが)、これだけは認めておかなくてはならない。すなわち、ある人が、事前に自分の教師たちからよくよく教えと導きを受けた上で信仰の告白を行ない、十分な知識があることをきちんと証明するとともに、その告白に合致するような行ないをしていることこそ、このことの最良の証拠だということである。

 また、私の考えるところ、もしある人が----そのキリスト者体験の詳しい推移や時期や状況について問いただされた際に----自分が最初いかに回心したかを明確に説明できるように思われ、また、その人に起こった事がらが、多くの真の回心者に見られるのと同じようなしかたと、それぞれの性質に見合った順序で、はっきり感じとれる形で明確に、着実に1つ1つ進んでいったと思える場合、それは如実に、その人が自分の体験の真実さについて兄弟たちに示す証拠に輝きを添えるものの1つにほかならない。

 しかし、私が非聖書的な要求であると云いたいのは、神の御霊が、はっきり感じとれるような形の、明確な順序と段階をたどって、いかに魂を最初に救いの状態に至らせてくださったかを具体的に説明することが、ある信仰告白者を真のキリスト者として、心からの愛をもって受け入れるためには必須のことであるとこだわること、またそのようにして、そうしたことを語れないからといって、人が自分のキリスト教信仰に関する証拠としてその隣人たちに対して示せる、それ以外の、はるかに重要で本質的な事がらをないがしろにすることである。

 第二に、キリスト者的な行ないが、いかに信仰を告白するキリスト者の真摯さを他の人々に知らせる最大の証拠であるかを正しく理解するためには、先に語られたような、キリスト者的な行ないがいかなるものであるかを念頭に置いておく必要がある。また、そうした行ないがどの程度、他の人々の目についているかということも考えなくてはならない。キリスト教の信仰を告白するある人が、単に、いわゆる正直で道徳的な人である(すなわち、その人格の汚点となるような、そむきや不義が特に何もない人である)ということだけでは、その告白の真摯さを示す何の大きな証拠にもならない。これは、その人の光を人々の前で輝かせていることにはならない。これは、信仰を告白するヘブル人たちの真摯さをあれほど使徒に確信させた、神の御名のために示した愛の行ないではない(ヘブ6:9、10)。その人のうちに見られるのは、単にその人が良い人かもしれないということだけである。その人の人生や生活の中には、その人が敬虔な人でないことを示す何物も見られないかもしれないが、その人が敬虔な人であることを明確に示す大きな証拠も見られない。しかし、ある人々の目に見えるふるまいには、その聖さを明らかに示すようすが見受けられるかもしれない。彼らの人生は、神に仕えることに捧げつくされているかもしれない。彼らは見るからに、イエス・キリストの模範に従い、マタイ5章、6章、7章、ロマ書12章、そしてその他多くの新約聖書の箇所にある、この上もなくすぐれた種々の規則に大きな程度においてかなっているかもしれない。彼らのようすを見ると、キリストの命令や福音の規則に従うことにおいても、神への恐れと愛を示す、律法の第一の板の義務を果たすことにおいても、人々への愛、聖徒たちへの愛、敵への愛という規則を果たすことにおいても、ほとんどむらなく、全面的に従っていると思えるかもしれない。また柔和さと赦しの規則、あわれみと博愛の規則、自分自身のことを求めるだけでなく他の人々のことも顧みるという規則、特定の人々、また広く人類全般に対して、その魂とからだに善を施すという規則、慎み深く、抑制された、質朴な生活をするという規則、舌にくつわをかけ、それを神に栄光を帰し人々を祝福するために用い、その舌に恵みのおしえがあることを示すという規則においても、そのように全面的に従っていると思えるかもしれない。彼らは、いかなる場所にあっても、いかなる時期にあっても、キリスト者として歩んでいるように見えるかもしれない。神の家においても、自宅においても、隣人たちの間においても、安息日においても、平日においても、仕事をしているときも、会話をしているときも、友人に対しても、敵に対しても、目上の者にも、目下の者にも、同輩の者にも、キリスト者として歩んでいるように見えるかもしれない。人々は、その目に見える歩みにおいて、非常に熱心に神と人への奉仕に携わり、キリスト者の務めに骨身を惜しまず献身的に励み、いかなる状況、いかなる試みが起ころうと、たゆみなく堅実にそうしているように見えるかもしれない。彼らには、自分を否定し、神とキリストのためなら、またキリスト教信仰の伸展と、兄弟たちの益となることのためなら、甘んじて苦しみを受けようとする精神が際立ってあからさまに見受けられるかもしれない。そこには、キリストを捨てるくらいなら、あるいはキリストの栄誉を何か別の物に与えるくらいなら、いかなるものを捨ててもかまわないという性向が、あからさまに見受けられるかもしれない。ある人の歩みを目にすると、明らかに、キリスト教信仰がその人の血肉となっており、その信仰に人生のあらゆる喜びと幸福をかけていることが際立ってはっきり見てとれるかもしれない。またその生活ぶりは、どこに行こうと、キリスト者的な恵みと天的な性向との甘やかな香りがただようものかもしれない。さて、キリスト教信仰を告白する者たちがこのようにふるまっている場合、ここにこそ、彼らの告白の真摯さを他の人々に示す証拠があるのである。この証拠には、他のいかなる現われも太刀打ちできない。

 疑いもなく、信仰を告白する人々が自分の真摯さの証拠を、その生き方と行ないにおいて明らかにする程度は千差万別である。それは人が、自分はどのような体験をどのような順序でくぐり抜けてきたかについて、口に出して説明する際の明瞭さ、明晰さにばらつきがあるのと変わらない。しかし、ここまで述べてきたような、行ないにおけるキリスト者精神の現われは、人がその体験の種々の段階や推移についていまだかつて口にしたことのある、いかに判然とした、いかに派手派手しい物語をも、はるかにしのぐものにほかならない。そして、ある人が行ないによって示すキリスト教信仰の告白は、概して、種々の体験を縷々述べることよりも、はるかにすぐれたものなのである。----だがしかし、

 第三に、先に述べたことに合わせて注意しておかなくてはならないことだが、世の目に映るいかなる外的な見かけも、恵みの証拠として無謬のものではない。ここまで言及されたような種々の現われは、人間の有しうる最良の証拠であり、それらによってキリスト者は、信仰を告白する者らを聖徒として真心から受け入れ、彼らを神の子らとして愛し喜ぶ義務がある。またそれらは、キリスト者の行動指針として必要とされるもの、また、彼らがこの世で果たさなくてはならないいかなる目的のために必要とされるものとしても、十分すぎるほど十分である。しかし、たとえキリスト者が、その隣人のうわべにいかなるものを見てとっていようと、それは、相手の魂の状態についての絶対的な確信を生み出せるほど十分なものではない。彼らは相手の心を見ることも、相手の外的なふるまいのすべてを見ることもできない。その多くは隠れたものであり、世の目からは隠されているからである。また、人がその外的な現われと模倣において、種々の原理をてこにして、どれほど恵みに酷似した者になりうるかは、だれにも見当がつかないからである。ただし疑いもなく、もし人々の行ないに属するものを、彼ら自身の良心が知っているのと同じくらい、他の人々も見てとることができるとしたら、それは彼らの状態の証拠として無謬のものとなりうるであろう。この点は次に記すことから明らかであると思われる。

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