HOME | TOP | 目次 | BACK

第14節 キリスト者的な行ないは、その人自身の良心に対して恵みをまぎれもなく示す確かな証拠である

 このことはIヨハ2:3から明々白々である。「私たちが神の命令を守るなら、それによって、私たちは神を知っていることがわかります」。また私たちは、自分自身の良い行為について良心が証言するので、自分の敬虔さを確証できると語られている。「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ない(原語では ERGW <わざ>)と真実をもって愛そうではありませんか。それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです」(Iヨハ3:18、19)。また使徒パウロは(ヘブル書6章で)、キリスト者となったヘブル人たちの愛による行ないのことを、この上もない証拠として語っている。その証拠によって、ひとりパウロだけが、彼らにはいかなる一般的照明にもまさる何かがあると完全に確信させられただけでなく、彼ら自身もまた、自分たちの希望について最高の確証が与えられたのである。「だが、愛する人たち。私たちはこのように言いますが、あなたがたについては、もっと良いことを確信しています。それは救いにつながることです。神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。そこで、私たちは、あなたがたひとりひとりが、同じ熱心さを示して、最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します」(ヘブ6:9以降)。同じように、使徒がガラテヤ人に向かって自分たちのふるまい、あるいは行ないを吟味するよう指示しているのは、彼らが自分自身の幸いな状態を覚えて喜ぶためであった。「おのおの自分の行ないをよく調べてみなさい。そうすれば、ほかの人のことでではなく、自分のことで喜べるでしょう」*(ガラ6:4)。また、詩篇作者はこう云っている。「私はあなたのすべての仰せを見ているなら、恥じることがないでしょう」(詩119:6 <英欽定訳>)。すなわち、大胆になり、確証をいだき、自分の希望に堅く立てるでしょう、と。私たちの救い主が仰せになったことばも、全く同じである。「良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです」(マタ7:19、20)。確かにキリストがこのように語られた第一の目的は、私たちが他の人々を判断すべき規則とするためであった。だが、次節以降のことばを見るとはっきりわかるように、主はこのことを、私たちが自分を判断すべき規則とすることも望んでおられるのである。「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。……』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。……また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます」。後ほど私は、これと同じことを示す他のいくつかの聖句についても言及したいと思う。

 しかし、この問題についての理解をより明確なものとするために、第一に私が示したいのは、聖書がキリスト者的な行ない----良いわざを行なうこと----キリストの戒めを守ること----を、私たち自身の良心に対して私たちが真のキリスト者であると示す確かなしるしであると断言するとき、それはいかなる意味か、ということである。また、第二に私が証明したいのは、人が自分の敬虔さの真摯さを知るよすがとなるすべての証拠の中でも、これこそその最たるものだ、ということである。

 第一に示したいのは、聖書がキリスト者的な行ない----キリストの戒めを守ること----を、私たち自身の良心に対して確かに私たちは真のキリスト者であると示すしるしであると断言するとき、それはいかなる意味か、ということである。

 そしてここで私が述べたいのは、こうした場合に聖書が語っている良いわざ----良い実----キリストの戒めを守ること----とは、まともに考える限り、決してただの外的なことや、肉体の動作や行動に関わるだけの、行為する側の目的や意図、また理性や意志の動きと無関係なものではありえない、ということである。というのも、もし人間の行動をそのようなものと考えるとしたら、それは、柱時計が正常に動くという程度にしか、良い働きや従順な行為であるとは云えなくなるからである。否、それは人間の行動とすら全く云えなくなるであろう。そのように考えられた肉体の行動は、従順な行為でも、不従順な行為でもなく、ひきつけを起こした肉体の動作も同然のものでしかない。しかし、ここで語られている従順や実とは、人間による従順、人間が結ぶ実なのである。それゆえ、これは、肉体の行為であるのみならず、魂の従順----魂の行為と行ないをその主たる特質とするもの----でもある。むろん私は別段、こうした場合に聖書が語っている恵みによるわざや、実や、行ないといった表現には、心の内的な敬虔さや聖さの一切合切が----原理と実践、また精神と行ないの双方において----含まれている、などと考えているわけではない。もしそうだとすると、恵みによる何らかの原理が心にあるしるしとして与えられた、こうした事がらの中に、それと同じものがそれ自体のしるしとして与えられていることになり、根と実の間に何の区別もなくなるだろうからである。聖書が語っているのは、魂の行なう恵みによる働きや、聖い行為のことだけであり、それを聖い原理や堅固な状態のしるしとして記しているのである。それと同じく、聖書が語っているのは、内的な恵みの働きの一切合切ではなく、その実際的な働き、すなわち、魂の働きや、内的な聖さの発揮の中でも、そこに従順の要素を含んでいるような行為のことである。あるいは、精神の発揮や、恵みの行為の中でも、いわゆる意志の命令的な行為----すなわち、魂によって何かが指示され、命令され、現実の行ないとされるような行為----の中で始まり、終わりを迎えるようなものである。

 ここで、さらに理解を明確なものとするため私は、恵みの働きには2つの種類があると述べたい。 1. まず、ある人々が内在的な行為と呼ぶものがある。それは、恵みの働きのうち、魂の内側にとどまるもの、----魂の内側で始まり、終わりを迎えるもの、----外的に行なわれるべき何物とも、あるいは現実の行ないとして実現される何物とも、直接的な関わりは持たないものである。たとえばそれは、聖徒たちが黙想においてしばしば行なうような恵みの働きである。心の中におけるそうした働きは、(すべての恵みの働きがそうであるように)、間接的なしかたでは行ないを助長するものではあろうが、直接的には、精神の思念を越えた何物にも結びついたり、帰結したりしない。 2. 恵みの行為の中には、より厳密な意味において実践的な、あるいは実効性のある働きと呼ばれるものがある。なぜならそれらは、何かがなされることに直接的に関わっているからである。それらは、外的な行動を指示するという、意志の指揮的な行為において発揮される恵みのことである。たとえば、ある聖徒が、愛という恵みを発揮して、キリストの弟子に一杯の水を与えるときがそうであり、キリストへの至高の愛という働きに直結して、迫害を耐え忍んでも自分の義務を果たそうとするときがそうである。ここで発揮されている恵みは、外的な行動に効果を及ぼしている。こうした種々の恵みの働きが実践的なものであり、良い行ないを生み出しているのは、単にそれらが生み出す性質をしているためばかりでなく(なぜなら、真の恵みの種々の働きには、みなそうした性質があるからである)、生み出している行為そのものだからである。これは、まさしく恵みの働きが意志行為に及ぼされたものであり、まさしく魂が行なうところのものにほかならない。そして魂こそ、ほかならぬこの行ないの直接の行為者なのである。肉体が動作するのは、魂と肉体の結び合いの法則の結果である。その法則は神によって(魂によってではなく)定められ、保持されている。何らかの良いわざを実行するとき発揮される魂の行為、また恵みの働きは、そこに魂が関わっている限りにおいて----あるいは、それが魂の良いわざである限りにおいて----、良いわざそのものである。意志の様々な決定は、ドッドリジ博士が述べているように、それらがまさしく私たちの決定である限りにおいて、現実の私たちの行動にほかならない*1。魂のこの行ないには、行為者たる魂が目指し、意図したことが含まれている。というのも、私たちは、ぜんまい仕掛けの彫像が正義のわざや施しを行なっている動きを見て、その彫像にキリストへの従順の行為があるなどとみなすべきでないだけでなく、たとえ人間の自発的行為が、外的には、また物理的にはキリストの命令に合致していたとしても、その人がキリストやキリストの何らかの命令について一度も聞いたことがなかったり、自分の行為においてキリストの命令に全く思いを馳せることがなかったとしたら、それをキリストへの従順と呼びはしないだろうからである。----もしここで語られている従順の種々の行為および種々の良い実が、単なる肉体の動作ではなく、魂の様々な行為であるとするなら、その行動には、その行動がなされた目的や、その時点において魂が神に対して抱いていた敬意その他の、精神における霊の働きがみな取り入れられていなくてはならない。さもないとそれらは、決して自己を否定する行為でも、神への従順でも、神に対する奉仕でもなく、何か別のものだからである。多くの殉教者たちは、こうした実効性のある恵みの働きが、ひときわ身近に迫る体験をしてきた。また、真の聖徒たちであれば誰しも、このような恵みの行為に彩られた生き方をしているものである。彼らはみな、種々の恵みによるわざで満ちた人生を送っており、その人生にとって、こうした現実に働く恵みの発揮は、いのちであり、魂だからである。そしてこうしたものこそ、神が主として目をとめてくださる従順と実なのである。神は肉体よりも魂に目をとめなさる。人間性の成り立ちにおいては、魂こそ上に立つ部分だからである。神が人の従順と行ないに目をとめておられるとき、神はその魂の行ないに目をとめておられる。魂こそ神の御目においては、その人そのものなのである。「主は人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る」[Iサム16:7 <英欽定訳>]。

 それで、従順と良いわざと良い実のことを聖書が、私たち自身の良心に対して恵みの真の原理を示す確かな証拠であると語るとき、それらはこのようなものとして受け取られるべきなのである。すなわち、肉体の種々の行動に先立ち、それらを支配するものたる、魂の従順と行ないを含むものとしてである。むろん、聖書が行ないについて、私たちの真のキリスト教信仰を他人に対して示す最たる証拠として語っているときなら、そこで意味されているのは、私たちの行ないの中でも他人の目にふれるもの、すなわち、私たちの外的な行動の方である。しかし、行ないのことが私たちの真のキリスト教信仰を私たち自身の良心に対して示す確かなしるしであるとされるとき、そこで意味されているのは、私たちの行ないの中でも私たち自身の良心の目にふれるものである。すなわち、単に私たちの肉体の動作だけでなく、その動作を指示し、命ずるように魂が力をふるい、働くことにほかならない。それは、肉体の行為よりもはるかに直接的に、また緊密に、私たち自身の良心が目の当たりにしていることである。そして、これが聖書の意図であることは、事の性質、および道理からして明白であるばかりか、聖書そのものからもはっきり示されている。たとえばそれは、キリストが山上の説教のしめくくりに仰せになったことから明らかである。そこで主は、ご自分のそうしたことばを行なうこと、あるいは実践することこそ、信仰を告白する者たちが真の弟子であるかどうかを示す大きなしるしであると語っておられる。主は、それを持たない人々を、砂の上に家を建てた人にたとえ、それを持っている人々を、岩の上に家を建てた人にたとえておられる。ここで主が顧慮しておられるのは、単なる外的なふるまいだけでなく、そのふるまいの中にある内的な精神の働きである。これは、それに先立って主が何と云われたかに注目してみれば、はっきりしている。「心の貧しい者は幸いです。悲しむ者は幸いです。柔和な者は幸いです。義に飢え渇いている者は幸いです。あわれみ深い者は幸いです。心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。兄弟に向かって理由なく腹を立てる者は……。だれでも情欲をいだいて女を見る者は……。自分の敵を愛し……なさい。自分のいのちのことで……心配したりしてはいけません」*。こうしたことば、および、こうした類の他の箇所では、種々の内的な働きのことが言外に含まれている。キリストがこのように云われたときも事情は変わらない。「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です」(ヨハ14:21)。明らかに主が、1つの同じ講話の中で何度も繰り返すほどに特別な関心をいだいておられた戒め(それを主は、ことさらにわたしの戒めと呼んでおられる)、それは、主が彼らを愛したように、彼らも互いに愛し合うことである(ヨハ13:34、35; 15.10、12、13、14参照)。しかしこの戒めが主として考慮しているのは、確かに行ないにおいて発揮されるとはいえ、精神あるいは心の働きの方である。同じように使徒ヨハネが、「もし、私たちが神の命令を守るなら、それによって、私たちは神を知っていることがわかります」(Iヨハ2:3)、と云うとき、そこで主として考慮されているのもこれと同じ戒めである。これは以下に続く箇所からはっきりしている(7-11節; IIヨハ5、6)。また、聖書が私たちに、最後の審判の日に人々は彼らの行ないに応じて審かれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受ける、と告げるとき、それは単に外的な行為としてのみ理解されるべきではない。さもなければ、なぜ神はあれほどしばしば、心と思いを探っては、その行ないに応じてひとりひとりに報いるお方として語られているのだろうか? 「こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行ないに応じてひとりひとりに報いよう」(黙2:23)。「わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれその生き方により、行ないの結ぶ実によって報いる」(エレ17:10)。しかしもし、この生き方や、行ないの結ぶ実ということで意味されているのが、その人の肉体の行動でしかなかったとしたら、それらを知るためになぜ心を探り、思いを調べることが必要なのだろうか? ヒゼキヤは病にかかったとき、自分が神のいつくしみを受ける権利を有する証拠として、自分の行ないを申し立てたが、それは単に彼の外的な行動のみならず、彼の心の中にあるものをも含んでいた。「ああ、主よ。どうか思い出してください。私が、まことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩んできたことを」*(イザ38:3)。

 とはいえ、確かに聖書が真摯さのしるしとして語っているこの大いなる証拠にとって、内的なものはこの上もなく重要ではあるが、それでもそこには、外的なものが含まれ、意図されている。それは、意志が肉体の行動を指示し、命令を下す働きにおいて、実際に恵みが力をふるうことから生ずる外的な部分、働きにほかならない。そして、これによって、一部の人々が云い立てているような主張は、事実上ことごとく断ち切られる。こうした人々は、外的にはよこしまな生き方をしていながら、自分には敬虔さの証拠があると自負している。だが、そうした敬虔さの際立った証拠たる魂の内的な働きや行ないは、外的な行為に命令を下す意志の行為をその主たる特質としているのである。そして、だれしも知るように、意志が命令を下すこうした行為と、肉体的器官の行動とは別個に切り離されたものではない。天性の不変の法則により、それらは魂と肉体が結び合わされている限りは結びついており、種々の器官は、魂の命令する動作を行なえないほど損なわれてはいないからである。こういうわけで、よほど常軌を逸した人間でもない限り、決してだれも、自分の意志は公の礼拝に行くことを自分に命じていたのだが、自分の足は自分を居酒屋、あるいは売春宿へ連れて行ったのだ、とか、自分の意志は手持ちのこれこれの金額をあわれな乞食に施すように命じていたのだが、それと同時に、自分の手はそれを与えようとせず、堅く握りしめていたのだ、などと云い立てはしない。

 第二に、私が示そうと思うのは、ここまで説明してきたような意味でのキリスト者的な行ないは、信仰を告白する者が救いに至る真摯さを有していることを、その人自身の良心に対して示す証拠の中でも最たるものだ、ということである。これにくらべれば、回心の際に、いかに最初の罪の確信や、光や、慰めがもたらされたかなど、はるかに格が落ちる証拠でしかない。あるいは、黙想のうちに終始する、いかなる内在的な悟りも、いかなる恵みの働きも、これにくらべれば、はるかに劣るものである*2。このことは、以下のような種々の議論によって証明される。

 議論1. 理性が明らかに示すところ、人々が、好きなことを何でも思うままにしてよいという状況に置かれた際に、実際の行ないとして何をするかを試すような物事こそ、彼らが心の中では何を本当に好んでいるかを正しく量る目安である。すでに述べられたように、キリスト教信仰における真摯さの主たる特質は、神を心の中の最高位に置き、神を他のいかなるものにもまさって選び、キリストのためにすべてを売り払う、といったことにある。----しかし、人がいかなる行動をとるかこそ、その人の心が好んでいるもののしかるべき目安である。たとえば、神と他の物事が競い立ち、いわばある人の前で、一方には神が示され、もう一方にはその人のこの世的な利益か快楽が示されるようなとき、そうした場合にその人がいかにふるまうか----現実にはどちらにすがりつき、どちらを捨てるか----こそ、その人が好んでいるもののしかるべき目安なのである。信仰者の真摯さの主たる特質は、心の中ですべてをキリストのために捨てることである。だが、心の中ですべてをキリストのために捨てるとは、すべてをキリストのために捨てる覚悟があるということと寸分も変わらない。ある人がキリストのためにすべてを捨てる覚悟があるかどうかを正しく量る目安は、キリストと他の物事が競い立つとき、その人が現実に、実行動において、一方にすがりつき、もう一方を捨てざるをえない場合にほかならない。心においてキリストのためにすべてを捨てるということは、そのように召されたときには、すべてをキリストのために捨てる覚悟があるというのと寸分も変わらない。だが、召されたときにはキリストのためにすべてを捨てる覚悟があるということを私たち自身にとって、また他人にとって、何よりも明らかに証明するのは、そのように召されるとき、あるいはいま現在召されている限りにおいて、実際にそのようにすることである。心においてキリストに従っているとは、キリストに従う覚悟があるということである。心においてキリストのために自分自身を否定するとは、事実として、キリストのために自分自身を否定する覚悟があるというのと同じことである。ある人が、自分の意のままにできる自由さえあれば、何かを行なう覚悟があるという証明として最たるもの、最も適切なものとは、その人がそれを行なうことである。ある人が、語るのも沈黙を守るのも自由でありさえすれば語る覚悟があることを何にもまして適切に示す証拠とは、その人が語ることである。ある人が、歩くのもじっと座っているのも自由でありさえすれば、歩く覚悟があることを適切に示す証明は、その人が歩くことである。敬虔さを敬虔さたらしめるものは、神のみこころを行なおうと意図する心ではなく、それを行なう心なのである。荒野におけるイスラエル人たちに、その前者はあった。彼らについてはこう書かれている。「『あなたが近づいて行き、私たちの神、主が仰せになることをみな聞き、私たちの神、主があなたにお告げになることをみな、私たちに告げてくださいますように。私たちは聞いて、行ないます。』 主はあなたがたが私に話していたとき、あなたがたのことばの声を聞かれて、主は私に仰せられた。『わたしはこの民があなたに話していることばの声を聞いた。彼らの言ったことは、みな、もっともである。どうか、彼らのがこのようであって、いつまでも、わたしを恐れ、わたしのすべての命令を守るように。そうして、彼らも、その子孫も、永久にしあわせになるように!』」(申5:27-19)。彼らは、神の命令を守りたいと《意図する》心があること、また、そうした意図を熱心にいだいていることは明らかに示した。だが神が明らかにしておられるように、これは神がお求めになっていたものからはほど遠かった。神が求めておられたのは、真の敬虔さの主たる特質であるもの、すなわち、実際にその命令を守る心だったのである。

 それゆえ、一部の人々が行なっている主張は、途方もなくばかげた、滑稽とすら云えるものである。すなわち、自分に良い心はあると主張していながら、よこしまな生き方をしていたり、その行ないにおいて全面的な聖さの実を結んでいない人々のことである。というのも、彼らが何物にもまさって神を愛していないことは、事実によって証明されているからである。あからさまな事実と経験に対して反論するのは愚の骨頂である。罪の道に生きていながら、自分は天国に行くのだと自分にへつらっている人々、あるいは、聖い生き方や行ないをしてもいないのに、死後、自分は聖い人として受け入れられるのだと期待しているような人々は、自分たちの審き主の目をごまかせるとでもいうかのように行動しているのである。そうしたことを念頭に置いて、使徒はこう云っている。「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」(ガラ6:7)。あたかも、こう云っているかののようである。「自分を欺いてはならない。もしあなたが現世で御霊のために蒔いていないとしたら、死後に永遠のいのちを刈り取れるなどと期待するのは、あだな望みである。神があなたによってたぶらかされるだろうなどと考えても無駄である。神が実質のかわりに影をつかまされたり、ご自分の期待する良い実のかわりに、うつろな見せかけをつかまされたりすることはない。あなたが云い立てていることと正反対のものが、神の眼前で、あなたの生活の中にあからさまに現われている限り、そのようなことになはならない」、と。聖書では時として、「侮る」という言葉がこのようなしかたで用いられている。たとえば、デリラはサムソンにこう云っている。まあ、あなたは私を侮って、うそをつきました(士16:10、13 <英欽定訳>)。すなわち、「あなたは私を惑わして、私をたぶらかそうとしました。私が、本当のことではなく、中身のない見せかけで簡単にたぶらかされるとでもいうかのように」、と。同じようにロトも、婿たちに向かって、神がその場所を滅ぼすだろうと告げたとき、彼の婿たちには、彼は侮る者のように思われた(創19:14 <英欽定訳>)。すなわち、彼らは、まるで自分たちが何でも軽々しく信じ込む馬鹿ででもあるかのように、舅からからかわれているのだと思ったのである。しかし、燃える炎のような目をした、私たちの審き主は、聖い生活をしていない者のいかなる申し立てによっても侮られたり、惑わされたりなさらない。たとえその御名によって人々が預言をし、奇蹟を行ない、山を動かすほどの信仰を発揮し、悪霊どもを追い出し、またいかに彼らの信仰的な感情が心打ち震わせるようなものであったとしても、いかに彼らが恵みに酷似したものを有していようと、いかに彼らが、人知の限りを尽くしても探り当ても探し出しもできないような暗く深い隠れ家にひそんでいても、もし彼らが不正を行なう者あるいは不法を行なう者であるなら、彼らはその偽善を自分たちの審き主から隠しおおせることはできない。「不法を行なう者どもが身を隠せるような、やみもなく、暗黒もない」(ヨブ34:22)。賢明な君主であれば、決して口先と行動がちぐはぐな家臣によって侮られはしないであろう。ある家臣が、自分は忠義を尽くしてきましたと申し立て、私はわが君に対して真心からの愛を感じており、これこれの時にはその愛で心が揺さぶられ、わが君を思う愛情があふれんばかりでしたと口にし、それを理由に、主君からその無二の親友のひとりとして受け入れられ、褒美をいただけるのは当然顔で伺候したとしても、それまでのその家臣の生活が主君に対する反逆に彩られ、王位を狙うどこかの馬の骨につき従い、時にふれ主君に対する反乱を引き起こしてきたようなものであったとしたら、いかなる君主が黙っているだろうか? あるいは、ある従僕が、自分はご主人様に対して心の中で心揺さぶられるような愛と尊敬を感じています、ご主人様の素晴らしさとご親切に感じ入っておりますと云っていながら、それと同時に主人に従いもせず、仕えもしないというような場合、いかなる主人が、うかうかと騙されたり、つけこまれたりするだろうか?

 議論II. 理性の示すところ、人生行路で出来する物事のうち、人々が他の事物にまさって神を好んでいるかどうかを実行動において試すような物事は、彼らのの真摯さを示すしかるべき目安であるが、それと同じように、聖書もまた、そうした物事は信仰告白者の真摯さをしかるべく示す目安であると記している。聖書を開くと、そうした物事が、試みあるいは誘惑というしかるべき名前で呼ばれている。どちらの言葉も同じ意味を示している。----人々が他の事物にまさって神を好んでいるかどうかを実行動において試すような物事とは、キリスト教信仰に伴う種々の困難である。あるいは、義務の実行を困難にし、神への愛以外の種々の原理にとって厄介きわまりないような出来事である。なぜなら、そうした事がらにおいて、神と他の事物の双方が人々の前に並べられ、彼らに現実の、また実践的な選択を迫り、両方とも持つことを許さないように追いつめ、どちらかを捨てざるをえなくさせるからである。そしてこうした物事は、聖書全体を通じて試みあるいは試練という名前で呼ばれている*3。そして、これらがそうした名前で呼ばれているのは、これによって信仰を告白する者たちが試され、彼らがいかなる種類の者であるか----彼らが本当に自分で告白し、そう見せかけている通りの者であるかどうか----が証明されるからである。また、これらにおいて神への至高の愛があるかどうかが、実地と事実という試験にさらされるからである。それらはまさしく、人々が神にすがりつく徹底的な心の性向を有しているか否かを、経験によって真に確定し、証明するものである。「あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか……を知るためであった」(申8:2)。「わたしもまた、ヨシュアが死んだとき残していた国民を、彼らの前から一つも追い払わない。彼らの先祖たちが主の道を守って歩んだように、彼らもそれを守って歩むかどうか、これらの国民によってイスラエルを試みるためである」(士2:21、22)。これと同じことは士3:1、4にも出16:4にも記されている。また、聖書がこうしたキリスト教信仰における種々の困難を誘惑、あるいは試練という名で呼ぶとき、その言葉は、彼らの信仰の試験あるいは実証のことを意味している。「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです」(ヤコ1:2、3)。「いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、信仰の試練は……金よりも尊いのであって」云々(Iペテ1:6、7)。同じように使徒パウロも、自分の財を手放して貧者に与えるという高価な義務のことを、キリスト者たちの愛の真実を証明するものと語っている(IIコリ8:8)。また、信仰に伴う種々の困難は、聖書の中でしばしば、炉が金銀を正当に精錬するのと同じしかたで、信仰告白者たちを精錬するものであるとされている。「神よ。まことに、あなたは私たちを調べ、銀を精練するように、私たちを練られました。あなたは私たちを網に引き入れ、私たちの腰に重荷を着けられました」(詩66:10、11)。「わたしは、その三分の一を火の中に入れ、銀を練るように彼らを練り、金をためすように彼らをためす」(ゼカ12:9)。金のような色と見かけをしているものは、炉の中に入れられ、それが本当に見た通りのものかどうか、本物の金かどうかを試される。そのように、信仰に伴う種々の困難が試練と呼ばれるのは、それらが、聖徒であるとの告白と見かけをしているものたちを、本当に見かけ通りの、真の聖徒かどうかを試すからである。もし真の金を炉に入れるなら、その偉大な価値と貴重さがわかるようになる。それと同じように、真のキリスト者の種々の美徳の真実さと、測り知れない価値とは、こうした試練のもとにあって現わされるのである。「信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、……称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります」(Iペテ1:7)。真の純金はいささかも目方を失わずに炉から出て来る。そのように、真の聖徒たちが試されるとき、彼らは金のように出て来るのである(ヨブ23:10)。キリストが真の恵みをまがいものの恵みから見分けなさるのは、それが火で精練された金であることによる(黙3:17、18)。そういうわけで、こうした物事が聖書で試みと呼ばれているのは、明らかに、主としてそれらが信仰告白者の真摯さを試す、あるいは証明するからである。そして、いま述べたことから明らかなように、それらこそ、まさしく何にもまして彼らの真摯さを量る試練、あるいは証明なのである。聖書の中で普通に用いられる際の試みという言葉そのものが、その人の真摯さの実証であると同様、信仰告白者の義務の道に出来する困難を意味している以上そうである。もし真摯さの試みが、信仰に伴うこうした種々の困難の正しい名前であるなら、疑いもなく、そうした困難は、真摯さを試すものとして、しかるべき、卓越したものであろう。聖霊によって何かであると呼ばれているものは、疑いもなく卓越してそうであるからである。神が何らかの事物を名づける際、その名前のもととなるのは、そうした事物の性質として卓越したものにほかならない。では、もしこれがそうなら、----すなわち、こうした事がらが、信仰を告白する人々の真摯さの試み、証明、実証としてしかるべき、卓越しているものだとするなら、----確かにそうした試み、あるいは実証の結果は(すなわち、そのような試みのもとにあった人々のふるまい、あるいは行ないは)、彼らの真摯さをまさしく示す、卓越した証拠なのである。というのも、それらが試みと、あるいは証明と呼ばれるのは、その結果についてのみであり、その効果が卓越してその証明、あるいは証拠だからである。そしてこれこそ、こうした試みのもとにある人々の良心にとって、最高にして、最もしかるべき証明、証拠である。というのも、神がこうした物事人を試み、試練に遭わせて、彼らの心のうちにあるものを知り、彼らがその命令を守るかどうかを知ると云われるとき、私たちは決してそれが、神ご自身の知識のためであるとか、神が彼らの真摯さの証拠を自ら手に入れるためであると理解すべきではなく(なぜなら、神は物事を知るために何の試みも必要としないからである)、むしろ、主として彼らを確信させるため、また彼らの良心に対して証拠を示して見せるためであると理解すべきだからである*4。このようにして、神が荒野で出会わせた種々の困難、カナンにいる敵たちによる種々の困難によってイスラエルを試し、彼らの心のうちに何があるか、また彼らがその命令を守るかどうか知ろうとしたと云われるとき、それは、彼ら自身にそれを悟らせるためであり、自分の心のうちに何があるかを彼ら自身に悟らせるためであったと理解しなくてはならない。それで、神がアブラハムに向かって、わが子を捧げよという困難な命令を与えて彼を試練に遭わせて試みたとき、それは彼が神を恐れているかどうかを、神が知って満足するためではなく、アブラハム自身に大きな満足と慰めを得させ、神から彼が受けているいつくしみをいやまして明確に示すためであった。アブラハムがこの試練のもとで忠実な者であると証明された後で、神は彼にこう云っておられる。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。ここに明らかに言外で云われているように、この試練のもとでアブラハムが実際に行なったこの恵みの働きにおいて、彼の恵みが真実なものであるという証拠は、それ以前に示されたものにはるかにまさって明確に示された。それはまた、アブラハムの良心に対して、この上もなく大きな証拠であった。なぜなら神ご自身が、それをそのようなものとしてアブラハムにお告げになり、アブラハムの慰めと喜びとしてくださったからである。また、神が彼に云われたことは、彼が自分の審き主なるお方の前で正しい者であることを彼の良心に対して示す、何よりも大きな証拠となるようなものであった。ここから私が云っていることは証明される。すなわち、種々の試みのもとにおける聖い行ないは、信仰を告白する人々の真摯さを彼ら自身の良心に対して示すこの上もない証拠なのである。そして私たちの見るところ、キリストはしばしば、これと同じ手段をとって、ご自分に対する友誼を表明する人々の良心にその罪を確信させ、彼らの真実の姿を見せつけておられる。これこそキリストがあの富める若者に対しておとりになった手段であった(マタ19:16以降)。彼はキリストに対して大きな敬意を払っているように見えた。彼はキリストの前に膝まづき、キリストを良い先生 <英欽定訳> と呼び、種々の戒めを遺漏なく守っていると告白した。しかしキリストは彼を試すために、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。その上で、自分の十字架を負って、わたしについて来なさい*、とお命じになり、あなたは天に宝を積むことになります、と告げられた。同じようにしてキリストは別の者を試された(マタ8:20)。その人はだれよりもキリストを尊重しているという告白をしていた。彼は云っている。先生。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります、と。だがキリストは、たちどころに彼の友誼を試してみるため、彼に向かって、狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません、と告げておられる。そして、このようにキリストは今も、信仰を告白する弟子たち一般を、ご自分の摂理の運びによって試すことを常としておられる。それで、いかなる種類の土地に蒔かれた種も----それが岩地に落ちようが、いばらの中に落ちようが、良い地に落ちようが----、最初に芽生えたときには、どれもみな同じように見えるが、太陽が熱風を伴って上って来るとき、それは試されて、おのおのの違いがはっきり明るみに出されるのである。

 それゆえ、これらが私たちを試すために神のお用いになる物事であると知った以上、私たちもまた、正しい判断を下すためには、それと同じ物事によって自分を試すのが最も確かな道に違いない。こうした試みは神がよりよく知るためのものではなく、私たちがよりよく知るためのものなのである。それゆえ私たちは、これらによって自分の内実を知らなくてはならない。私たちの金を見分ける確実な方法は、それを神の炉の中で吟味することである。神がその炉でそれをお試しになるのはまさにその、その真実の姿を私たちが見てとれるようにするという目的のためなのである。ある建物がしっかり建っているかどうかを知りたければ、私たちは風が吹きつのるときのその建物に目を注がなくてはならない。もし麦のような姿をして見えるものが本当に中身まで麦か、それとも殻かを知りたければ、私たちはそれがあおぎ分けられるところを観察しなくてはならない。ある杖がしっかりしているか、見かけ倒しの腐った棒かを知りたければ、私たちは人がそれによりかかり、全体重がかけられたときに観察していなくてはならない。もし私たちが自分を正確に量りたければ、神のお定めになった秤によって量らなくてはならない*5。私たちの行ないという方途におけるこうした種々の試練は、いわば、私たちの心が量られる秤のようなものである。あるいはキリストと世が----キリストとその競争者たちが----、私たちの心の中でどれだけ評価され、尊重されているかを量る、または、両者が天秤皿のそれぞれに載せられて、どちらが下に下がるかを見きわめる秤のようなものである。ある人が至らされた道の分岐点が、一方はキリストに至る道、もう一方は自分の種々の情欲に至る道であるとき、その人がどちらの道を行こうとするかを如実にすること、----いわば、キリストとこの世の間に立ち、キリストを右手に、この世を左手にしたとき、一方に行こうとするなら、もう一方から離れなくてはならないという状態、----これこそ、まさにキリストとこの世とを、秤の相対する天秤皿にそれぞれ載せることにほかならない。そして、その人が一方へ進み、他方から離れることは、片方の皿が沈み、もう片方が上がることにほかならない。それゆえ、神の摂理による種々の試練のもとにある人の行ないは、相対する天秤皿に別々のものを載せた秤の動きが、より重い方がどちらであるかをまさしく示し、実証するのと同じくらい正当に、その人の心で何が優勢な意向であるかを示す実証であり証拠なのである。

 議論III. 聖い行ないが、これまで説明してきたような意味において、恵みの真実さをキリスト者たちの良心に対して示す最高の種類の証拠であるとするもう1つの議論は、聖書によれば、行ないにおいてこそ、恵みが全うされる、あるいは完成される、と語られている、ということである。使徒ヤコブはそのように云っている。「あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行ないとともに働いたのであり、信仰は行ないによって全うされ」----あるいは、完成され----「たのです」(ヤコ2:22)。同じように神の愛は、その命令を守ることによって全うされる、あるいは、完成されると云われている。「神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません。しかし、みことばを守っている者なら、その人のうちには、確かに神の愛が全うされているのです」(Iヨハ2:4、5)。そして使徒が特に関心を払っているキリストの命令とは、兄弟たちに対して愛の行ないを示すという点に関わるものである。これは続く数節から明らかである。さらに神の愛は、それと同じ意味において、全うされると云われている。「もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです」(Iヨハ4:12)。ここで疑いもなく使徒は、やはり直前の章で説明したのと同じようなしかたで、互いに愛し合うことに関心を払っている。その章で彼は、互いに愛し合うことを、神の愛のしるしであると語っている。「世の富を持ちながら、……あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか」(17、18節)。このように、行ないをもって愛することにより、神の愛が私たちのうちに《全うされる》、と使徒は云うのである。恵みが、聖い行ないによって全うされる、あるいは完成される、と云われるのは、行ないにおいて恵みは、しかるべきその結果に至らされ、その原理の目的たる働きへと至らされるからである。恵みの目当てとするもの、意図するところが達成され、その作用が完了し、完結するからである。木は、その種が土地に植えられただけでは全うされていない。その種が生長を始め、根を張り、芽生えただけでは全うされていない。あるいは、地面から幹を伸ばし、葉を茂らせ、花を咲かせただけでは全うされていない。だが、それが良く熟したを結んだときに初めて、木は全うされる。そこに至って、木はその目的を達成し、その意図は完成に至るのである。木に属するすべてのものが完全なものとされ、しかるべきその結果へと至らされるのは、においてである。恵みとその種々の実際的な働きもそれと同じである。恵みはそのわざ、あるいは実において全うされる、あるいは完成される、と云われているが、それは罪について云われているのと同じ云い方である。「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると[全うされると <英欽定訳>]死を生みます」(ヤコ1:15)。ここには3つの段階がある。第一に、その原理あるいは習性としての罪、心の中の情欲の実体である。次に、ここではそれが身ごもっている。その主たる特徴は、精神の中におけるその内在的な働きである。そして最後に、ここでは身ごもらされたものが実際に実を結び、邪悪なわざ、また行ないとなっている。そしてこれを使徒は、罪が全うされると、あるいは完成されると呼んでいるのである。というのも、原語におけるこの言葉は、先にあげた箇所で全うされると翻訳された言葉と同一だからである。

 さて、もし恵みがこのようにその実において完全なものとされるとしたら、もしこうした種々の実際的な恵みの働きにおいてこそ、恵みがそのしかるべき結果また目的に至らされ、こうした働きにおいてこそ、恵みの意図と目当てと作用とに属するすべてのものが完了させられ、完結するとするとしたら、確かにこうした種々の働きは、他のいかなる働きにもまさる、恵みの最高の証拠であるに違いない。確かに、いかなる原理も、そのしかるべき性質および目当てを最も良く、また最も完全な形で現わしているのは、その最も完成した働き、あるいはその性質が最も完全に発揮され、その目当てが、そのしかるべき結果と目的において、最も十分にかなえられ、完結するような物事のうちにあるに違いない。もし私たちが何かのしかるべき性質を見たければ、また、それと他の事物との十分な見きわめをつけたければ、その何かの完成した形を見るべきであろう。使徒ヤコブは、信仰は行ないによって全うされる、と云い、このことを起点にして、行ないこそは信仰の最たる証拠であると証明している。行ないという証拠において、信仰を告白する者たちの真摯さは正しいものと認められるのである(ヤコ2)。また使徒ヨハネは、何度となく私たちに、愛はキリストの命令を守ることにおいて全うされると告げた後で、「全き愛は恐れを締め出します」、と述べている(Iヨハ4:18)。これは、(少なくとも部分的には)こうした意味において完全なものにされた愛、直前の章で彼が云ったことに一致する愛のことを意味している。「行ないを伴う愛によって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、……心を安らかにされるのです」(Iヨハ3:18、19)。

 議論IV. 聖い行ないこそ、私たちが、自分と他人の双方の真摯さを判断する際に用いなくてはならない主要な証拠であることを明らかにしているもう1つのことは、この証拠こそ他の何物にもまさって聖書で強調されている、ということである。普通に聖書に親しんでいる人ならだれでも、ほんの少し注意深く観察してみるだけで、これが真の敬虔さの特徴として、聖書全体の中で----創世記の冒頭から黙示録の末尾に至るまで----他の何よりも十倍も強調されていることが、明らかにわかるであろう。そして、キリストとその使徒たちが明白に、またはっきり意図して、真の敬虔さに伴う種々のしるしを規定している新約聖書においては、ほとんどこのことだけが強調されている。そこを見るとキリストとその使徒たちは、こうした事がらを、キリスト教信仰の種々の偉大な教えについて説き聞かせる中で、単に長々と羅列しているだけではない。むろん彼らは、そうした教えにおいて、真の敬虔さがいかなる性質のものでなくてはならないかを示し、その性質やしるしがいかなる筋道によって導き出されるべきかを示している----時には、敬虔さに属する事がらについて数多くの言及をしている----が、それにとどまらず彼らは、しばしば、はっきりと意図的に、信仰告白者がいかなるしるしや目印によって試されるべきかについて語り、自分たちの与えるしるしによって自分自身を試すよう、キリスト者たちに向かって要求している。そのようなとき彼らは、決まって次のような文句で切り出している。「これによってあなたがたは、あなたがたが神を知っていることがわかります。そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。このことを持っている者は、堅固な土台の上に建てているのです。このことを持たない者は、砂の上に建てているのです。これによって私たちは心を安んじられるのです。キリストを愛する者こそその人です」、云々。しかしキリストが、あるいはその使徒たちが、このようなしかたで敬虔さのしるしを与えている場合(そしてそうした箇所は少なくないが)、例外なく彼らは、キリスト者的な行ないをほとんど唯一無二のものとして強調している。実際、こうした箇所の多くにおいて、兄弟を愛することが敬虔さのしるしとして語られている。そして(先にも述べたように)、ありとあらゆる徳高い愛情や性向の中でも、私たちが互いに愛し合うことほどしばしば、真の恵みのしるしとして明白に語られているものはない。しかし、そのようにするとき聖書ははっきり、この愛とは行ないにおいて、あるいは愛のわざにおいて働き、現わされるものである、としている。そのように使徒ヨハネは(彼こそ、他のいかなる者にもまさって兄弟愛を敬虔さのしるしとして強調している使徒だが)、この上もなく明確にそれを説明している。「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。……世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです」(Iヨハ3:14以降)。互いに対する私たちの愛を、このように聖書が、敬虔さの大きなしるしとして強調しているとき、私たちは、そのことを、人々が互いに感じている愛情の内在的な働きと解するべきではない。むしろそれは、律法の第二の板に書かれているすべての義務を魂が行なうことと解するべきである。新約聖書が幾度となく私たちに告げているすべてのことを、互いに愛し合うことはうちに含んでいるのである(ロマ13:8、10; ガラ5:14; マタ22:39、40)。それで、新約聖書がはっきりと意図的に種々の敬虔さのしるしを挙げている箇所のうち、聖い行ない、あるいはキリストの命令を守ることが目印として強調されていないような箇所は、どこを探してみても、ただの1つもない。これは、敬虔さに伴うあらゆる証拠の中でも、それが最たるものであることを示す無敵の議論である。さもないと私たちは、キリストもその使徒たちも、それらのしるしとして私たちですら選べたようなものも選べないほど無知であったとみなさなくてはならなくなる。しかしもし私たちがキリストのことばを私たちの規則とするのであれば、疑いもなく、信仰者が自分を試すべき目印として、キリストとその使徒たちがその最たるものとして規定している目印をこそ私たちは特に受け入れ、自分を試す際、主として用いなくてはならない*6。そして確かに、キリストとその使徒たちが与えた規則の中でも彼らが主として強調しているような事がらは、教役者たちも、自分の与える規則の中で主として強調しなくてはならない。聖書がほとんど強調してもいない事がらについては大いに強調し、聖書が大いに強調している事がらについてはほとんど強調しないのは、危険なことである。なぜならそれは神の道からはずれ、非聖書的なしかたで、自分について判断し、他人を導くことになるからである。神は、どの方向に魂を導き、指導すれば最も安全で最善であるかを知っておられた。神がある事がらについてこれほど強調なさったのは、それらを強調することが必要であるとご存じだったからである。他の事がらをさほど顧みなかったのは、賢明なる神として、そうした目安を重んじることが私たちにとって最善ではないとご存じだったからである。安息日が人のために作られたように、聖書も人のために作られた。そして聖書は、私たちの益となり、得となるように、無限の知恵によってあつらえられているのである。それゆえ私たちは、聖書をあらゆる事がらにおいて----信仰について考える際にも、自分自身について考える際にも----自分の手引きとするべきである。そして、もし私たちが聖書が重視していないことを大々的に持ち上げたり、聖書が重視していることを軽視したりするなら、私たちはキリスト教信仰について奇怪な考えをいだくようになるであろう。また、(少なくとも間接的に、また次第次第に)私たちは、正しい規則から、また自分についての正しい見方から全く離れ去り、迷妄と偽善に凝り固まってしまうであろう。

 議論V. キリスト者的な行ないは、神のことば平易に語るところ、真の恵みを、他人に対してばかりでなく、その人自身の良心に対しても示す主たる証拠である。それは、他の種々のしるしにまさってしばしば語られ、強調されているばかりでなく、それが語られている多くの箇所において、あらゆる証拠の中で最たるものとされている。これは、時として用いられる言葉の端々から明らかである。もし神が、敬虔さのしるしに関する私たちの疑いを解くために、天から今お語りになるとしたら、また、ある特定のしるしをお与えになり、それによっていかなる人も自分が真実に敬虔な者かそうでないかがわかるようにしてくださるとしたら、しかも、そのしるしが、いわば、「これこれの資質あるいは目印を持っている人がいるなら、それこそ真の聖徒たる者だ。それこそ、その人だ。これによって、あなたがたは知ることができる。これこそ、だれが聖徒であり、だれが罪人であるかを如実に示すことだ。このような人々こそ真の聖徒である」、というほど強烈なものであるとしたら、それが真の敬虔さを際立ってまぎれもなく示す特別な特徴として与えられたことには疑問の余地がないとされて当然ではないだろうか? しかしこれは、私が語っているような恵みのしるしについて、まさに云えることなのである。何度となく神は、そのみことばの中でキリスト者的な行ないのことを、まさにそのようなしかたで云い表わされた。たとえばヨハ14章がそうである。「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です」。このことをキリストが弟子たちに告げておられるのは、彼らが他人を判断する手引きとしてというよりは、この文脈のあらゆる言葉が指し示しているように、ご自分が離れて行かれた後の彼らが、これを自分自身に当てはめて、自分自身の慰めとするためである。そして、ちなみにここで私が述べておきたいのは、キリストがこのことを云い表わされた口調が尋常ならざるほど強かったという点だけでなく、キリストはこのことをこの文脈の中で驚くほど強く繰り返して語っておられる、ということである。「もしあなたがたがわたしを愛するなら、わたしの戒めを守りなさい」(15節 <英欽定訳>)。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります」(23節)。そして、「わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません」(24節)。また、次の章でも幾度となく語っておられる。「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな……刈り込みをなさいます」(2節)。「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです」(8節)。「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です」(14節)。この目印は、ヨハ8:31でも、やはり同じくらいきっぱりと断定されている。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です」。さらにまた、「もし、私たちが神の命令を守るなら、それによって、私たちは神を知っていることがわかります」(Iヨハ2:3)。また、「みことばを守っている者なら、その人のうちには、確かに神の愛が全うされているのです。それによって、私たちが神のうちにいることがわかります」(5節)。また、「私たちは、……行ないと真実をもって愛そうではありませんか。それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知……るのです」(Iヨハ3:18、19)。それによって、と翻訳された言葉は、より原語を文字通りに訳せば、さらに強い云い方になっていたであろう。《このことをもって》私たちは知るのです、と。----そして、それと同じ章において、聖い行ないは、いかに明々白々に、神の子どもたちと悪魔の子どもたちとをまぎれもなく区別する大きな特徴として語られていることか。「そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします」(10節)。そのこととは、こうしたあらゆる文脈において見られる、聖い行ないとよこしまな行ないのことを語っている。たとえば、「キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします」(3節)。「だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪のうちを歩みません。罪のうちを歩む者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。子どもたちよ。だれにも惑わされてはいけません。義を行なう者は、キリストが正しくあられるのと同じように正しいのです。罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です。……だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。……義を行なわない者はだれも、神から出た者ではありません」(6-10節)。また、それと同じような強調はIIヨハ6でもなされている。「愛とは、御父の命令に従って歩むこと……です」。すなわち、(私たちが理解したに違いないように)、これこそ、愛のしかるべき証拠です。Iヨハ5:3もそれと変わらない。「神を愛するとは、神の命令を守ることです」。そのように使徒ヤコブも、真実なきよい宗教のしかるべき証拠について語る際にこう云っている。「父なる神の御前できよく汚れのない宗教とは、このこと、すなわち、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです」(ヤコ1:27 <英欽定訳>)。旧約聖書の中でも、同じことについては、これと似た強調的な表現が用いられている。「こうして、神は人に仰せられた。『見よ。主を恐れること、これが知恵である。悪から離れることは悟りである。』」(ヨブ28:28)。「あなたの父は飲み食いしたが、公義と正義を行なったではないか。……彼はしいたげられた人、貧しい人の訴えをさばき、……それが、わたしを知ることではなかったのか。----主の御告げ。----」(エレ22:15、16)。「来なさい。子たちよ。私に聞きなさい。主を恐れることを教えよう。……あなたの舌に悪口を言わせず、くちびるに欺きを語らせるな。悪を離れ、善を行なえ。平和を求め、それを追い求めよ」(詩34:11以降)。「主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。正しく歩み、義を行ない、心の中の真実を語る人。」云々(詩15冒頭)。「だれが、主の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。手がきよく、心がきよらかな者」、云々(詩24:3、4)。「幸いなことよ。全き道を行く人々、主のみおしえによって歩む人々」(詩119:1)。「私はあなたのすべての仰せを見ているなら、恥じることがないでしょう」(6節 <英欽定訳>)。「主を恐れることは悪を憎むことである」(箴8:13)。

 聖書が、偽善や心の不健全さを示すしるしについて用いる種々の表現の中でも、抜きんでて強調されているのは、汚れた行ないに関するものにほかならない。たとえば、「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」(ガラ6:7)。「だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、……はみな、神の国を相続することができません」(Iコリ6:9、10)。「あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者……はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。むなしいことばに、だまされてはいけません」(エペ5:5、6)。「子どもたちよ。だれにも惑わされてはいけません。義を行なう者は、キリストが正しくあられるのと同じように正しいのです。罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です」(Iヨハ3:7、8)。「神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません」(2:4)。また、「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません」(1:6)。「自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです」(ヤコ1:26)。「もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです」(3:14、15)。「主は、曲がった道にそれる者どもを不法を行なう者どもとともに、連れ去られよう」(詩125:5)。「そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない」(イザ35:8)。「しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行なう者は、決して都にはいれない」(黙21:27)。そして、多くの箇所でこう云われている。「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け」

 議論VI. 聖い行ないこそ、信仰告白者の真摯さを、世に対してばかりでなく彼ら自身の良心に対しても示す最たるしるしである。これを明白にしているもう1つのことは、これが、来世における神の審きの座の前で用いられる最大の証拠だということである。神の審きでは、聖い行ないを基準として量刑がなされ、キリスト教信仰を告白するあらゆる者の状態が変えようもなく決定されるのである。未来の審きでは、信仰告白者たちの公判が行なわれる。そして種々の証拠が、その判決を下すために用いられる。というのも、神が未来に行なう人間の審き----彼らの永遠の報いを決するための審き----において、人々の心の状態を問いただし、判別し、判決を下すのは、神ご自身が内心で行なうことではないからである。むしろそれは、判決の宣言を行なうものであって、その目的は、決して神が判決を書き上げることにではなく、神の判決を、また、その正しさを、人々自身の良心に対しても世に対しても、鮮明にすることにある。それゆえ最後の審判の日は、神の正しいさばきの《現われる》日と呼ばれているのである(ロマ2:5)。そして未来において神が人々を裁き判決を下す目的は----個々人がその審きに関わる部分に関する限りにおいて----、特に神の正しい審きを、その人自身の良心に対して、明確に現わすことにある*7。それゆえ、確かに神は真実をご自身に対して明らかにするためには何の媒介も必要としないにもかかわらず、未来において神が人々を審く際には、種々の証拠が並べ立てられるのである。そして疑いもなく、彼らの裁判において用いられる証拠は、その審きの目的に最もふさわしいものであろう。すなわち、神の正しい審きを、この世に対してばかりでなく、その人自身の良心に対しても現わすという目的にうってつけのものであろう。しかし、聖書が至るところで告げているように、この審き主が、こうした目的のためにその裁判で用いる最大の証拠、あらゆる人に対して、取り消せない判決を下す基準となる最大の証拠は、この世における人々のわざ、あるいは行ないなのである。「また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。……死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた」(黙20:12)。同じように、「海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた」(13節)。「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです」(IIコリ5:10)。それと同じく、聖書全体を通じて最も詳細な最後の審判の日の描写をする際にキリストは、人々の行ないを唯一の証拠として未来の審きが下されるとしておられる*8。ということは、この審き主は決して、人々の種々の体験の受け方を吟味したり、個々人にその回心のしかたを物語らせたりすることはなく、むしろその人のわざを、その人の正体を示す証拠として引き出し、その人が暗闇で行なったことを明るみに出すのである。「神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ」(伝12:14)。未来に信仰告白者たちが審かれる裁判において、神が取り集めて彼ら自身と、世に対して明らかに現わすであろう証拠とは、現世で神が彼らの実体を如実にするため用いておられるのと全く同一の証拠であろう。すなわち、神の摂理を通してもたらされる種々の誘惑や試練において、キリストと他の事物とが、現実に真っ向から競い合う場合に、人がいかに行なうかということであろう。そのとき神は、ご自分の正しい審きを現わすために、目に見える秤で、信仰を告白する者たちを量られるであろう。それは、神が人々をいま量っているのと同じ、すでに述べたような秤であろう。

 こうしたことから確実に推論できるように、人々のわざ(上で説明したような意味での)こそ、彼らが自分自身を試さなくてはならない最高の証拠なのである。私たちが自分の至高の審き主の前に立つことになるとき、その審き主が主として用いることになるものにこそ、私たちは自分自身を判断する際に主として目をとめなくてはならない*9。もしもこの来世における審き主が、いかなるしかたで、また何を証拠として、私たちを取り調べるかが啓示されていなかったとしたら、このように云う者が出てくることは想像に難くない。「おゝ、かの最後の決定的な審判において、神がいかなるしるしを主として求め、強要なさるかが何とかわからないものか! あゝ、神が、ご自分に受け入れられようと願う者全員に提示を求めるものは何なのか。神が宣告を下す基準とするものは何なのかを知りたい。そのときに失格しないと確実にわかるような証拠は何なのか。いま特に求めなくてはならない証拠は何なのかを知りたい」、と。だが、神がこれほど平易に、また至る所で、何がこの証拠であるかを啓示しておられる以上、賢明にふるまおうとするあらゆる者は、これをこの上なく重要なものとみなすべきである。

 さて、ここまで述べられたすべてのことから、すでに明々白々になったと思うが、キリスト者的な行ないは、信仰を告白する者たちが有する恵みによる真摯さを、彼ら自身に対しても他の人々に対しても示す、最もしかるべき証拠であって、恵みを示すあらゆる目印の中でも最たるもの、しるし中のしるし、証拠中の証拠、他のあらゆるしるしに証印を押す、最終的なしるしである。----私が本当に欲しているのは、「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です」(ヨハ14:21)、というような、私の至高の審き主のことばに照らしても、あなたは大丈夫です、と太鼓判を押してくれるような良心の証言である。それにくらべれば、たとえこの一千年の間に生を受けた、いかに賢く、いかに健全で、いかに老巧な神学者たちが、私の回心のしかたについて、いかに精密かつ決定的に私の種々の体験を吟味し、その上で、いかに判断を下し、いかに保証してくれたとしても、たいした価値はない。むろん、こうした表に現われ出る働きの他にも、恵みには、聖徒たちがその黙想において有するような、彼らにとって非常に満足の行く恵みの働きはいくらでもあるであろう。だがしかし、キリスト者的な行ないこそは、最も主要な、最もしかるべき証拠にほかならない。ある木がいちじくの木であるという歴とした証拠はいくつかあるであろう。だが、それがいちじくの木であることを示す最高にして、最もしかるべき証拠は、それがいちじくの実を結ぶということである。むろんある人が、私の語っているようなこの最大の証拠によって確証を得る機会を持つ前から、その最初の回心において、恵みの状態について堅い確証をいだくことはありえるであろう。----たとえばある人が、どこか遠い国で、自分に途方もない財宝が与えられると耳にしたとする。それを受け取れる条件はただ1つ、その財宝をありがたく思い、今の国で所有している財産すべてを進んで手放した上で、その国を目指して旅立ち、途中の岩山や荒れ地を乗り越えて、その財宝を受け取れる所まで行くことだとする。さて、そのことを聞いたとたんにその人が、堅い確証を感じ、そうした条件にかなうほどその財宝を尊ぶということはありえるかもしれない。その人は、一抹の疑念も感じず、その財宝を目指して出立しようという意欲を感じるかもしれない。だがしかし、だからといって、それを求めてその人が実際に出立することが、他人に対してだけでなく、その人自身に対してもその人の意欲を示す最高にして最もしかるべき証拠でなくなるわけではない。ただし、この場合、その人自身に対する証拠としては、その人の外的な行動や、その旅における肉体の動作が、それ自体としてだけ考えられているのではなく、その人自身の内側にある、その人をかりたてているものや、その人が目指している目当てに関する、その人の精神や意識の動きも、そこには含まれている。さもないと、その人の肉体的な動作は、その人がその財宝を尊んでいるということを自分自身に示す何の証拠でもない。こういう意味でキリスト者的な行ないは、かのすばらしい値うちの真珠、畑に隠された宝を救いに至るように重んじていることを示す、最もしかるべき証拠なのである。

 キリスト者的な行ないが、しるし中のしるしであるという意味は、それが、敬虔さを示す他のあらゆるしるしを確証する、最終的な、最大の証拠だということである。神の御霊のありとあらゆる恵みの中で、キリスト者的な行ないがその真実さを示す最もしかるべき証拠となっていないようなものは1つもない。私たちのからだの諸器官や、私たちの使うあらゆる用具について、それが信頼できる有用なものであることをしかるべく証明するには、それらを用いるしかない。それと同じように、私たちの種々の恵みも(私たちの手足や仕事道具に何ら劣らず、実際に用いられるために与えられており)、それらをしかるべく試し、証明するには、それらの行ないにおける働きを見なくてはならない。私たちが用いるほとんどの事物は、ある程度の圧力と、緊張と、振動と、衝突の中に置かれて初めて、私たちにとって役に立つ物となり、使える物であることが証明されたことになる。たとえば、弓や、剣や、斧や、鋸や、綱や、鎖や、杖や、足や、歯などがそうである。そして、あまりにもか弱くて、私たちの求める緊張や圧力のもとに置かれたとき、持ちこたえられないような物は、無用の長物にほかならない。精神のあらゆる美徳もそれと同じである。それらをしかるべく試し、証明するには、神がその摂理の運びにおいて、私たちの上にもたらされる誘惑や試練のもとでそれらが働かされるのを見ること、また、天性の諸原理にとって厳しい緊張をしいるような務めにさらされた場合にどうなるかを見ることである。

 行ないこそ、救いに至る真の神知識があるという、しかるべき証明である。これは、すでに言及した使徒の言葉から明らかである。「私たちが神の命令を守るなら、それによって、私たちは神を知っていることがわかります」[Iヨハ2:3]。私たちは、「神を知っていると口で云っていても、もし行ないで否定する」*のであれば、それはむなしい(テト1:16)。またもし私たちが「神を知っていながら、その神を神としてあがめ」ないなら、私たちの知識は、私たちを断罪するだけで、私たちを救いはしないであろう(ロマ1:21)。人を救い、人を祝福するような知識の大きな特徴は、それが実践的なものだということである。「あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行なうときに、あなたがたは祝福されるのです」(ヨハ13:17)。「悪から離れることは悟りである」(ヨブ28:28)。

 聖い行ないこそ、悔い改めのしかるべき証拠である。ヨハネが現われ、罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマを説いたとき、ユダヤ人たちは自分の罪を告白しつつ彼のもとに来て、悔い改めを告白した。そのときヨハネは、彼らの悔い改めが真実なものであるという、しかるべき証拠を得るための、またそれを表に現わすための、正しい道を彼らに指し示して、こう云った。「悔い改めにふさわしい実を結びなさい」(マタ3:8)。これは使徒パウロが行なっていたことと全く変わらなかった。使26:20を参照されたい。赦しとあわれみが約束されているのは、常にこの、自分の罪を捨てるという、真の悔い改めの証拠を有する者なのである(箴28:13; イザ55:7; その他多数の箇所)。

 聖い行ないこそ、救いに至る信仰のしかるべき証拠である。使徒ヤコブは明白に、行ないのことを、信仰の正しさを証しするもの、あるいは(同じことだが)信仰を告白する者たちの正しさを証しし、彼らの告白の真摯さを立証して明白にするものであると語っている。その証しは、単に世に対してだけでなく、彼ら自身の良心に対してもなされる。これは、彼がアブラハムについてあげた例を見れば明らかである(ヤコ2:21-24)。そして20節と26節において彼は、信仰の実践的な、また実際に働く性質のことを、信仰にとっていのちそのものであり、魂であると語っている。それは、人の肉体にとって活動という性質や特徴が、そのいのちであり、魂であるのと変わらない。もしそうだとすると、行ないこそは、真の信仰を死んだ信仰から区別する、いのち、また魂を示すしかるべき証拠なのである。というのも、行ないは、実践的な性質を示す最もしかるべき証拠にほかならず、働きは、働く性質を示す最もしかるべき証拠にほかならないからである。

 行ないこそ、救いに至るように真理を信じていることを示す最良の証拠である。信仰を告白するキリスト者が真実に歩んでいることは、その人に真理があることを示す、しかるべき証拠であると語られている。「兄弟たちがやって来ては、あなたが真理に歩んでいるその真実を証言してくれるので、私は非常に喜んでいます」(IIIヨハ3)。

 行ないこそ、ある人が真にキリストのもとに来ていること、またキリストを受け入れていること、キリストに応じていることを示す、最もしかるべき証拠である。真に、救いに至るようにキリストのもとに来るとは、(キリストがしばしば教えているように)すべてを捨ててキリストのもとに来るということである。そして、先に述べたように、心の中でキリストのためにすべてを捨てるとは、現実にすべてを捨てる覚悟があるというのと同じことである。しかし、現実にすべてを捨てる覚悟があることを示す、しかるべき証拠は、実際、現実に、召されればすべてを捨てることにほかならない。ある君主が、遠国にいる女性に求婚したとする。どうかあなたの民と、あなたの父の家を捨てて、私のもとに来て、私の花嫁になってほしい、と云ったとする。その王の求婚を彼女が心の中で承諾した場合、それをしかるべく示す証拠は、彼女が現実に自分の民と、父の家とを捨てて、彼のもとに行くことである。このことによって、王の求婚を彼女が承諾したことは全うされる。それと同じ意味で使徒ヤコブは、信仰は行ないによって全うされる、と云っているのである*10。キリストは、ご自分のもとに来ることを条件に、永遠のいのちを約束なさった。だが、その来ることとは、あの、「永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか」、と尋ねた青年に指示したようなものであった。キリストは彼に命じた。「帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そのうえで、わたしについて来なさい」、と。もしこの青年が心の中でこの誘いに同意していたとしたら、(また、そのことにより心の中でキリストのもとに来ていたとしたら)、そのしかるべき証拠は、彼がそれを行なうことであったはずである。そして、そのことにより、彼がキリストのもとに来たことは全うされたはずであった。キリストが、収税所に座って、その世俗的な利得の真っ直中にあった取税人レビを召されたとき、レビの心が、わたしについて来よとの彼の救い主の招きに応じたことを如実に示し、全うしたのは、彼が実際に、何もかも捨てて、立ち上がって主に従ったことにほかならない(ルカ5:27、28)。キリストと他の事物が私たちの前に並べられ、実際に片方をすがりつき、片方を捨てなくてはならないという場合に、実際にキリストにすがりつくことこそ、実際にキリストを受け入れるということである。それは、乞食が自分の手を伸ばして差し出された贈り物を受け取ることが、その贈り物を彼が実際に受け入れていることであるのと全く変わらない。しかり。行ないにおいてキリストにすがりつこうという魂の行為は、それ自体、魂が最も完全な形でキリストのもとに来ているということなのである。

 行ないこそ、救いにおいてキリストにより頼んでいることを示す最もしかるべき証拠である。より頼むという言葉のしかるべき意味合いは、日常会話においても聖書においても、その普通の用法においては、ある人の精神が、他の人に十分な力と忠実さがあることを信用して大胆にさせられ、励まされて、実際に何らかの危険を冒すこと、あるいは何かをすることである。それゆえ、その人がより頼んでいることを示すしかるべき証拠は、その人が何かをすることで冒す危険である。何かを頼んで何らかの危険を冒していると云われる人が、それを頼みにしては何も行なわないとか、そうした頼みを持っていない場合と全く異ならないような行ない方しかしていない、などということは、しかるべき意味においてはありえない。というのも、ある人が別の人を頼りにして何らかの危険を冒すとは、その人が、その頼みをもとに何かを行なうことであり、その何かとは、その頼みがなかったなら行なわなかったような、わが身を危地にさらすように見えることだからである。それゆえ、キリストが永遠のいのちを与えるに十分な力と忠実さをお持ちであることを頼みにして、キリスト者的な行ないという種々の困難と恐ろしげな危険とを引き受けることによってこそ、ある人は、キリストにわが身を賭けていると、また、幸福といのちについてキリストにより頼んでいると云われるのである。彼らが頼みにしているのは、「わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします」、というような約束である(マタ10:39)。それで彼らは、キリストが十分な力を持った真実なお方であることを頼みに、すべてを投げうって、自分のすべてを危険にさらすのである。そしてこれこそ、キリストに対して救いに至る信仰を働かせるという点で、キリストにより頼むという聖書的な概念にほかならない。そのようにして信仰者たちの父アブラハムは、キリストにより頼み、信仰によって故郷を捨てた。それは神が彼と結ばれた恵みの契約を信頼してそうしたのである(ヘブ11:8、9)。やはりそのようにして、「信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました」(ヘブ11:23以降)。そのように、信仰によって、他の人々は自らを危険にさらし、石で打たれのこぎりで引かれ剣で切り殺されあざけられ、むちで打たれ、さらに鎖につながれ、牢に入れられるめに遭うことを耐え忍び、羊ややぎの皮を着て歩き回り、乏しくなり、悩まされ、苦しめられた。また、こうした意味において使徒パウロは、キリストにより頼み、キリストに自分を賭けて、自分の身を、また自分のすべての利益を、贖い主の豊かな力と忠実さを頼みにして、大きな迫害とすべてを失う苦しみとの中で、危険にさらしていた。「そのために、私はこのような苦しみにも会っています。しかし、私はそれを恥とは思っていません。というのは、私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信しているからです」(IIテモ1:12)。

 ある人が、遠国の王からの言伝を受け取ったとする。そして、それは、その人を国の世継ぎとしようと思うが、その条件として、この知らせを受け取るや否や、自分の生国も友人たちも捨て、この世で有するすべてのものも捨てて、この言葉だけを頼りにその国へ赴かなくてはならない、というものだったとする。そのようにするときその人は、自分の身も、この世で有するすべてのものも危険にさらしていると云えるであろう。しかしもしその人が、ただじっと座り込んだままで、約束された恩恵を心待ちにし、そのことを考えて内心ほくそえんでいるだけだったとしたら、その人はしかるべき意味で、そのことのために自分を危険にさらしているとは云えない。その場合その人は何の危険も冒していない。そんな知らせを受け取らなかった場合と、全く変わらないようなこと----すべてが失敗したとしても痛くもかゆくもないようなこと----しか行なっていない。それで、もしある人が、自分が未来の世について聞いたことを信用して、また、いのちと不滅について福音の告げることを頼みにして、すべてを捨てるか、あるいは、少なくとも機会がある限り、自分の永遠の利益のためにあらゆるものを全く二の次にするかしている場合、その人は----その人だけが----しかるべき意味において、福音の告げることに立って自分を危険にさらしていると云えるであろう。そしてこれが、救いのためキリストに真により頼んでいることを示す、しかるべき証拠なのである。

 行ないこそ、神と人との双方に対する恵みによる愛のしかるべき証拠である。このことをはっきり教えている聖句は、これまでにも何度となく言及しているので、それらを一々ここで繰り返す必要はないであろう。

 行ないこそ、謙遜のしかるべき証拠である。神が求めておられる心の謙遜を表に出し、あからさまに現わすようなものこそ、謙遜のしかるべき表現であり、現われであるとみなすべきであろう。だが、それはへりくだって歩むことなのである。「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか」(ミカ6:8)。

 これはまた、真に神を恐れる心のしかるべき証拠でもある。「主を恐れることは悪を憎むことである」(箴8:13)。「来なさい。子たちよ。私に聞きなさい。主を恐れることを教えよう。……あなたの舌に悪口を言わせず、くちびるに欺きを語らせるな。悪を離れ、善を行なえ。平和を求め、それを追い求めよ」(詩34:11以降)。「主を恐れて、悪から離れよ」(箴3:7)。「主を恐れることによって、人は悪を離れる」(箴16:6)。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも……いないのだが」(ヨブ1:8)。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも……いない。彼はなお、自分の誠実を堅く保っている。おまえは、わたしをそそのかして……彼を滅ぼそうとしたが」(ヨブ2:3)。「罪は悪者の心の中に語りかける。彼の目の前には、神に対する恐れがない」(詩36:1)。

 それと同じく、行ないこそ、受けた恩恵に従ってそのお返しをするということにおいて、真に感謝している心のしかるべき証拠である。「主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか」(詩116:12)。「ところが、ヒゼキヤは、自分に与えられた恵みにしたがって報いようとせず」(II歴32:25)。詩篇50篇を見ると、私たちの誓いを神に果たすこと、また私たちの生活を正しくすることこそが、真に感謝する心のしかるべき表明であり証拠であると語られているように見える。「感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き方に果たせ」(14節)。「感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。その道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう」(23節)。

 恵みによる種々の願望や切望のしかるべき証拠、およびそれらをまがいもののむなしい願望や切望から区別するものは、それらがバラムのそれのように怠惰な望みではなく、行ないにおいて実際に働き、人をかき立てて、熱心にまた徹底的に、その望みとするものを求めさせることにある。「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている」(詩27:4)。「神よ。あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。水のない、砂漠の衰え果てた地で、私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。……あなたの力と栄光を見るために」(詩63:1、2)。「私のたましいは、あなたにすがり……ます」(8節)。「私を引き寄せてください。私たちはあなたのあとから急いでまいります」(雅1:4)。

 行ないこそ、恵みによる希望のしかるべき証拠である。「キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします」(Iヨハ3:3)。キリスト者として歩む中で、いかなる困難や試練に遭おうとも、忍耐をもって善を行ない続けることは、しばしば、キリスト者的な希望を示す、しかるべき表現であり実であると言及されている。「絶えず、私たちの父なる神の御前に、あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、……望みの忍耐を思い起こしています」(Iテサ1:3)。「ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。従順な子どもとなり」、云々(Iペテ1:13、14)。「私はあなたの救いを待ち望んでいます。主よ。私はあなたの仰せを行なっています」(詩119:166)。「彼らが神に望みをかけ、神のみわざを忘れず、その仰せを守るためである」(詩78:7 <英欽定訳>)。

 朗らかに自分の義務を果たすこと、あるいは神のみこころを行なうことは、真に聖い喜びがあるという、しかるべき証拠である。「あなたは迎えてくださいます。喜んで正義を行なう者……を」(イザ64:5)。「私は、あなたのさとしを永遠のゆずりとして受け継ぎました。これこそ、私の心の喜びです。私は、あなたのおきてを行なうことに、心を傾けます。いつまでも、終わりまでも」(詩119:111、112)。「私は、あなたのさとしの道を、どんな宝よりも、楽しんでいます」(14節)。「(愛は)不正を喜ばずに真理を喜びます」(Iコリ13:6)。「彼らの満ちあふれる喜びは、……あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです」(IIコリ8:2)。

 行ないは、キリスト者的な剛毅さのしかるべき証拠でもある。兵士の勇敢さを試すのは、ぬくぬくと暖かな炉端ではなく、戦場においてである(Iコリ9:25、26; IIテモ2:3-5)。

 また、聖い行ないという実が、恵みの真実さを示す最たる証拠であるのと同じように、種々の体験がある人の行ないに及ぼす影響の程度は、その人の体験がどれだけ霊的な、天来のものであるかを示す、最も確かな証拠である。人々が自分の有する大きな悟りや、大きな愛や喜びについて、いかに大口を叩いていても、それらは、彼らの行ないにどれだけ影響を及ぼしているかに応じて受け取るべきである。むろん、だからといって、生来の気質の違いを斟酌してはならないというのではない。しかし、それにもかかわらず、やはり恵みの程度を量るには、行ないにどれだけの効果が及ぼされたかを見るのが一番である。というのも、いかに生まれつき難しい気質の人においても、そうでない人と同じくらい恵みの果たす効果は大きく、恵みによる変化は著しいからである。たとえ、そうした気質の人が同じ程度の恵みを受けたときに、他の人ほど上機嫌にふるまうことはできなくとも、その回心前の状態との格差は、同じくらい大きいであろう。なぜなら、気立て良く生まれついた人の場合は、回心前からして、それほど気難しくふるまってはいなかったからである。

 このようにして私が、一切合切の証拠をあげて云い表わそうとしてきたこと、それは、キリスト者的な行ないこそ、救いに至る恵みを示すあらゆる証拠の中でも最たるものだ、ということである。だが私は、この論述をしめくる前に、2つの反論に答える形で、手短に云っておきたいことがある。この項目について云われたことに対して、もしかするとそうした反論をする人があるかもしれない。

 反論1. ある人々は勢い込んで云うであろう。これは、善良な人々の間で大いに受け入れられている意見と正反対のように見える。彼らによれば、信仰告白者が自分の状態を判断するため主として用いるべきなのは、自分の内的な体験であって、種々の霊的な体験こそ、真の恵みを示す主たる証拠と云われているではないか、と。

 答えよう。信仰告白者が主として自分たちの状態をその体験によって判断すべきだということは、疑いもなく正しい意見であり、正当にも善良な人々の間で大いに受け入れられている意見である。しかし、これまで語られてきたことが、その意見と全く正反対であるといっては大間違いである。キリスト者に対して恵みを示す最たるしるしが、先に説明されたような意味での、キリスト者的な行ない----キリスト者的な行ないの正しい観念として示されたこと----であることは、キリスト者的な体験が恵みの最たる証拠であることと、全く矛盾してはいない。キリスト者的な行ない、あるいは聖い行ないとは、霊的な行ないである。そしてそれは、いかにして動くか、いつ動くか、なぜ動くかもわきまえない、肉体の動作ではない。むしろ、人のうちにおける霊的な行ないとは、霊と肉体とが協同して行なう行ないなのである。あるいは、ある霊が、自分に結び合わされた----そして創造主から自分に支配権が与えられている----肉体をあやつり、指揮し、行動させるような行ないなのである。それゆえ、聖い行ないにおける主要な事がらとなるのは、肉体の動作を指揮し、支配するという、精神の聖い行為なのである。そして、その肉体の動作がキリスト者的な行ないに属するとみなされるのは、単に二義的なことなのである。それは、魂の種々の行為に依存し、その結果として生ずるものだからである。キリスト者たちが自覚している恵みの種々の働きは、彼らが自分たちの内側で体験するものである。そして、それゆえ、ここにこそ、キリスト者的な体験が存するのである。そして、このキリスト者的な体験は、肉体のふるまいをつかさどる部分に直接関わる、意志における恵みの実際の働きにも、他の種々の働きに劣らず存しているのである。こうした内的な働きは、キリスト者的な体験の一部として何ら劣るものではない。なぜなら、それには外的なふるまいが直結しているからである。神に対する強い愛の行為は、霊的な体験として何ら劣ってはいない。なぜならそれは、神の栄誉と栄光を大いに高めるために、自己を否定するか、外的に身を切るような何らかの行動を直接生み出すような行為だからである。

 キリスト者的な体験と行ないのことを、あたかも2つの、すっぱり全く切り離されたものであるかのように語るのは、理由もなしに、無思慮な区別立てをすることである。確かに、キリスト者的な体験のすべてが、しかるべき意味で行ないと呼ばれることはない。だが、キリスト者的な行ないはすべて、しかるべき意味において、体験なのである。そして、それらの間に区別を設けるのは、筋の通らないことであるばかりか、非聖書的なことなのである。聖い行ないは、キリスト者的な体験の一種あるいは一部である。そして、理性と聖書の双方がそれを、そうした体験の中でも最たるもの、最も重要な、また最もまぎれもない部分であるとしている。エレ22:15、16がそうである。「あなたの父は飲み食いしたが、公義と正義を行なったではないか。……彼はしいたげられた人、貧しい人の訴えをさば……(い)た。それが、わたしを知ることではなかったのか。----主の御告げ。----」。私たちが内的に神に親しむことは、確かに体験的なキリスト教信仰の最高峰に属する。しかし、このことを神は、聖い行ないに見られるような体験に、主として存するとしておられるのである。それで、神への愛や、神への恐れといった恵みの働きは、体験的なキリスト教信仰の一部であるが、これらを聖書は、先に言及したような聖句において、主として行ないに存するものであるとしている。----「神を愛するとは、神の命令を守ることです」(Iヨハ5:3)。「愛とは、御父の命令に従って歩むこと……です」(IIヨハ6)。「来なさい。子たちよ。私に聞きなさい。主を恐れることを教えよう。……悪を離れ、善を行なえ」(詩34:11以降)。これらと同様の体験を受けることによってヒゼキヤは、その病床における主たる慰めを得ていた。彼は云う。「ああ、主よ。どうか思い出してください。私が、まことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩(んで)……きたことを」[II列20:3]。また、こうした云い回しを詩篇作書は、119篇その他の箇所で主として強調している。こうした種々の体験を使徒パウロは大いに強調している。たとえば、「私が御子の福音を宣べ伝えつつ霊をもって仕えている神があかししてくださることですが」(ロマ1:9)。「私たちがこの世の中で、……神の恵みによって行動していることは、私たちの良心のあかしするところであって、これこそ私たちの誇りです」(IIコリ1:12)。「『私は信じた。それゆえに語った。』と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るのです」(4:13)。「確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます」(5:7)。「キリストの愛が私たちを強いているからです」(14節 <英欽定訳>)。「あらゆることにおいて、自分を神のしもべとして推薦しているのです。すなわち非常な忍耐と、悩みと、苦しみと、嘆きの中で、……労役にも、徹夜にも、断食にも、また、純潔と知識と、寛容と親切と、聖霊と偽りのない愛と、……神の力とにより、……推薦しているのです」(6:4-7)。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、……神の御子を信じる信仰によっているのです」(ガラ2:20)。「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得……る、という望みがあるからです」(ピリ3:7、8)。「このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています」(コロ1:29)。「私たちは……私たちの神によって、激しい苦闘の中でも大胆に神の福音をあなたがたに語りました」(Iテサ2:2)。「このようにあなたがたを思う心から、ただ神の福音だけではなく、私たち自身のいのちまでも、喜んであなたがたに与えたいと思ったのです。なぜなら、あなたがたは私たちの愛する者となったからです。兄弟たち。あなたがたは、私たちの労苦と苦闘を覚えているでしょう。私たちは……昼も夜も働き……ました。また、……あなたがたに対して、私たちが敬虔に、正しく、また責められるところがないようにふるまったことは、あなたがたがあかしし、神もあかししてくださることです」(8-10節)。そして、こうした種々の体験を主たる慰めとして、ほむべき使徒は殉教の道をたどろうとしていた。「私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました」(IIテモ4:6、7)。

 また、キリスト者的な種々の体験は、その最も重要な、また最もまぎれもない部分が霊的な行ないに存しているだけでなく、霊的な行ないを主たる特質としているような恵みの働きの性質ほど、体験的なキリスト教信仰という名をもって呼ばれるのにふさわしいものはない。というのも、試みの時---すなわち、私たちがキリストと自分の種々の情欲とのどちらに現実にすがりつくか神が証明しようとなさる時----に、恵みの働きが力強く働くことが証明されるような体験こそ、私たちの敬虔さの真実さと力とを量るしかるべき実験だからである。その実験によってこそ、敬虔さの、勝利に満ちた力と効力----しかるべき効果を生み出し、定められた目的を成し遂げる力と効力----は、実体験によって見定められるのである。しかるべきキリスト者的な体験とは、聖徒たちが、自分たちに神のみこころを行なう心があるかどうか、またキリストのために他の事物を捨てる心があるかどうかを、現実の体験試みによって目にする機会を与えられるような場合にほかならない。種々の意見や観念を事実によって試験する哲学が実験哲学と呼ばれるように、種々の信仰的な感情や意図を同じような試験に賦すもののことは、しかるべき意味において、体験的なキリスト教信仰と呼ばれるのである。

 世の中には、内的な体験を伴わない、形だけの信仰的行ないというものがある。それは、神にとっての価値は無である。だが世の中には、体験と呼ばれていながら何の行ないもなく、キリスト者的なふるまいを伴いも、生じさせもしないものがある。これは無よりも悪い。多くの人々は、キリスト者的な体験について、また霊的な悟りについて、非常に誤った考え方をしているように思われる。ある人が試みを受ける時に、神を神として扱うような心があるとわかり、そうした実体験の中でも望ましい性向をしていることがわかる場合には、それは最もしかるべき、また最もまぎれもない体験といって間違いない。また、そのようなときにその人が、天来の事物を感じとり、そうした事物の真実さと重要さとこの上なくすぐれた性質とをわきまえることによって、心と手がつかさどられ、支配され、統御されるような場合には、それは何にもましてすぐれた霊的な光であり、最もまぎれもない悟りにほかならない。キリスト教信仰は、その大きな部分が種々の聖い感情に存しているが、そうした感情の働きの中でも真のキリスト教信仰を最もまぎれもなく示すのは、こうした実践的な働きなのである。地上の友人同士の友情は、その大きな部分が感情に存している。だがしかし、そうした強い感情の働きのうちでも、相手のためなら実際に火水をもくぐり抜けさせるようなものこそ、真の友情を示す最高の証拠なのである。

 これまで語られてきたことには、健全な神学者によって主張されていることに反するようなものは何1つない。彼らの云うところ、恵みの確かな証拠は恵みの種々の行為のほかにない、とされるが、だからといって、こうした、行ないにおいて効力を有するような、実際に働き実を結ぶ行為、種々の恵みの働きが、最高の証拠でないことにはならないからである。同様に、こうした行為や働きが数多くあり、それぞれが、ありとあらゆる種類のさまざまな試みのもとで、連続して生じているときに、1つの行為が別の行為を確証して、その証拠がやはり高まらないことにはならない。ある人が、一度でも隣人の姿を見かけたことがあるとすれば、それは隣人が存在していることを示す歴とした証拠かもしれない。だが、相手を毎日のように目にし、様々な状況の下で、折にふれ会話を交わすことによって、その証拠は確固たるものとなるのである。弟子たちも、復活後のキリストを初めて目にしたときには、主が生きておられるという歴とした証拠を得たはずだが、四十日にもわたって主と言葉を交わすことによって、また主が数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを示されたことによって、さらにいやまさる証拠を得たのである*11

 御霊の証し、あるいは保証の主たる特質は、心の中における神の御霊の効果であり、そこに恵みの種々の働きが植えつけられることであり、つまりは経験である。そして疑いもなく、この御霊の保証こそ、子とされたことについて聖徒たちが有しうる最高の種類の証拠にほかならない。しかし、行ないにおけるこうした恵みの種々の働きにおいてこそ神は、最も顕著な、最も抜きんでて明白なしかたで、証言をなさり、確証をなさるのである。キリスト教会の経験から、この上もなくはっきりした事実であるとわかっている通り、通常の場合は、キリストがその御霊によって、ご自分の聖徒たちにその子たる身分を示す証拠として与える、最大にして、最も喜ばしいものは、私たちが語ってきたような、種々の試みのもとにあって実際に働く恵みの種々の働きである。これを如実に示しているのが、多くの殉教者たちの得ていた不動の確証と言葉に尽くすことのできない喜びである。これは、Iペテ4:14でこう記されている通りである。「もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです」。また、「私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます」(ロマ5:2、3)。さらにこれは、使徒パウロがしばしばその試みにおいて経験したと宣言している通りである。使徒ペテロは、冒頭の聖句において、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びについて語っているが、これは彼の宛先のキリスト者たちが経験していたことであった。文脈からわかるようにペテロは、彼らが迫害のもとで見いだしていたことを念頭に置いている。このようにキリストが、試みのもとにあってもご自分にすがりつく聖徒たちに対して、その友として、またその救い主として、ご自身を顕現なさることを示していると思われるのが、あの古のシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴが炉の中に投げ入れられたときに、主が彼らのもとに来られて、ご自分を現わされたことである。そして、使徒がロマ8:15-17において、御霊の証しについて語っているとき、彼が最もはっきり念頭に置いていたのは、キリスト者たちが、迫害に苦しむ中でも、その神への愛という働きによって受け取る体験にほかならない。これは文脈からはっきりしている。彼は、直前の数節で、苦しみの中にあるローマ人キリスト者たちに向かって、彼らのからだは罪のゆえに死んでいても、彼らはいのちへと生き返らされるのだ、と励ましている。しかし、これを特にいやまさってはっきりさせているのが、それに続く節、18節である。「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます」。ということは、使徒がこの章の残り全体で云っていることにおいて、彼が明らかに念頭に置いているのは、彼らの迫害のことなのである。それと同じように、使徒が神から自分に与えられた御霊の保証について語るとき(IIコリ5:5)、そこで念頭に置いているのは、文脈から明らかに示されるように、彼の大きな試練と苦しみにおいて与えられたものにほかならない。そして、かの「勝利を得る者に与えられる白い石、新しい名」の約束(黙2:17)から明らかなように、キリストは、迫害の時代にキリスト者たちが試みに遭い、そこで勝利を得ることによって獲得する利益に対して、格別な関心を寄せておられる。これは同じ章の13節や、アジアにある7つの教会に宛てたこの書簡の他の多くの箇所から明らかである。

 反論2. やはりある人々は、キリスト者的な行ないが恵みの真実さを示す最たる証拠であるという、ここまで語られたことに対して、勢い込んで反対するかもしれない。それは、律法的な教理である、と。また、これは行ないをキリスト教信仰の中でとてつもなく重要なものに持ち上げることによって、わざを称揚し、人々に自分自身がすることを過大評価させるあまり、無代価の恵みの栄光を減じさせ、信仰のみによる義認という偉大な福音の教理と、何かしら矛盾するように見受けられる、と。

 しかしこの反論は、全く理にかなわないものである。聖い行ないが神の恵みのしるしである、と云うことが、どうして神の恵みが無代価であることと矛盾することになるだろうか? 神のいつくしみが無代価であることと矛盾するのは、私たちのわざが、そうしたいつくしみの代価である、と云うことであって、それがそのしるしである、と云うことではない。確かに、乞食が自分の手の中にある金銭を、それを与えてくれた人のいつくしみ深さのしるしとみなすことは、そのいつくしみ深さが無代価であることといかなる点においても矛盾することにはならない。自分の手に金銭を持っていることが、何らかの恩恵の代価であるとすることこそ、与え主の無代価のいつくしみ深さと矛盾するのである。罪人たちに対する神の恵みが無代価であるという観念が、福音で啓示され、教えられているからといって、私たちのうちにある、いかに聖く、慕わしい資質あるいは行為も、その恵みのや、そのしるしではない、ということにはならない。それは単に、私たちの有する何らかの資質あるいは行為にいかなる価値あるいは慕わしさがあろうと、それで私たちにその恵みを受ける資格ができるわけではない、というだけのことである。無代価の恵みということによって云えるのは、そのいつくしみ深さが、無価値で何の愛すべき性質もない者に示されたということ、授けられた恩恵が大いにいとすぐれたものであり、それを受ける側にいかにすぐれた性質があろうと、その代価にはなっていないということ、そのいつくしみ深さが発するのも、流れ出るのも、良きものの豊かな源泉なる神のご性質の豊かさからであり、それを引き出す側のいかなる慕わしさからでもないということである。そして、(聖書で教えられている通りのこの教理によれば)わざによらない義認ということで考えられているのは、私たちのわざに伴ういかなる価値も、愛すべき麗しさも、あるいは私たちのうちにあって、何らかの点で神に受け入れられるいかなるものも、罪の咎との釣り合いは取れず、罪人たちをいのちの世継ぎとして受け入れさせるための取り柄にはならない、ということである。このようにして私たちは、私たちの義によってではなく、ただキリストの義によってのみ義と認められる。そして、この件において、わざが信仰と対比させられているとき、また私たちは信仰によって義と認められるのであって、わざによるのではないと云われるとき、そこで意味されているのは、私たちのわざの価値や慕わしさ、あるいは私たちのうちにある何かが、キリストとその種々の恩恵にあずかる資格を私たちに与えているのではなく、むしろ私たちがこの恩恵にあずかれるのはただ信仰による、すなわち、私たちの魂がキリストを受け入れることによる、キリストにすがり、キリストに応ずることによっている、ということである。しかし、私たちのうちにあるいかなるものの価値や慕わしさも、キリストの恵みにあずかる資格を私たちに与えたり、もたらしたりしないからといって、私たちのうちにあるいかなるものも、キリストの恵みにあずかっているしるしにはならない、という論法は成り立たない。

 もしも無代価の恵み、および信仰のみによる義認という教理が、聖い行ないは恵みのしるしとして重要である、と云うことと矛盾するとしたら、そうした教理は、私たちのうちにあるいかなるものを恵みのしるしとして重要視することとも、同じくらい矛盾することになる。聖さも、私たちのうちにあるいかなる恵みも、いかなる体験も、そうなる。というのも、こうしたものの何かをもとにして私たちが義と認められると云うのは、聖い行ないをそのようなものであると云うのと同じくらい、無代価の恵みや信仰のみによる義認という教理に反することだからである。聖いわざというのも、聖い資質というのも同じことである。救いを受ける資格が人に与えられるのは、彼らの聖い資質の何らかの愛すべき麗しさのゆえによるということは、彼らのわざの聖さのゆえにそれが与えられるべきだというのと同じくらい、福音の恵みが無代価であることと矛盾するのである。人がキリストの恵みとその種々の恩恵にあずからされるのは、その人の真の聖さの愛すべき麗しさゆえであるべきだ、その人の、更新されて、聖められた、天的な心の慕わしさゆえであるべきだ、その人の神への愛ゆえであるべきだ、聖霊にある喜びの体験ゆえであるべきだ、自分をむなしくする精神のゆえであるべきだ、キリストを何にもましてあがめる精神のゆえであるべきだ、キリストにすべての栄光をささげる精神のゆえであるべきだ、キリストに一途に献身する心のゆえであるべきだ、などと云うことは、無代価の恵みという福音の教理と矛盾している。私は云う。キリストの種々の恩恵にあずかる資格は、こうしたいずれかのものの愛すべき麗しさを顧慮して与えられるべきだとか、これらのいずれかが義認という件における私たちのとなるべきだなどということは、無代価の恵みという福音の教理と矛盾している、と。だがしかし、だからといって、こうした事がらが、キリストの恵みにあずかっている証拠として重要でない、ということにはならない。同じことが、聖い行為やわざについても云える。私たちがわざによっては義と認められないからといって種々のわざを軽んずるのは、信仰のすべて、恵みと聖さのすべて、しかり、真の福音的な聖さのすべて、恵みによる種々の体験のすべてを軽んずることと同然である。というのも、聖書が私たちはわざによっては義と認められないと云うときには、すべてが含まれているからである。この場合のわざという言葉では、私たち自身の義、信仰、聖さ、私たちのうちにあるあらゆるものの一切合切が意味されている。私たちが行ない、意識するすべてのこと、すべての外的な行為、すべての内的な恵みの働き、すべての体験、キリスト教信仰のいのちと力と本質そのものに関わる、聖く天的なすべてのこと、キリストとその使徒たちが、人々の心と生き方に最も大きな結果を生じさせるものとして、その説教の中で主として強調し、押し進めようと力を尽くしたすべての偉大な事がら、そして、ありとあらゆる種類の良い性向と、働きと資質とのすべて、また、私たちの聖さの一部として考えられた場合の信仰そのものでさえもが、このすべてということで意味されている。というのも、私たちはこうしたもののいずれによっても義と認められないからである。そのようなことがあるとしたら、私たちは、聖書的な意味においては、わざによって義と認められることになる。それゆえ、もしもこれらのいずれかを、キリストの恵みにあずかっている証拠としてきわめて重要なものであると強調することが、律法的な教えでも、わざによらない義認という福音的な教理に反する教えでもないというのであれば、聖い行ないの重要性を強調することもそれと全く同断であろう。もしも聖い行ないを、私たちにキリストの種々の恩恵にあずかる資格を与えるもの、私たちを義と認めさせるものであると考えるとしたら、それは律法的であろう。しかし、聖い行ないのことを、信仰者の真摯さのしかるべき証拠たるもの、それが真正なものであると示すものであると考えるのは、律法的ではない。使徒ヤコブは、こうした意味で、私たちの父アブラハムは行ないによって義と認められた、と云うことを律法的であるとは考えなかったのである。聖書を書きとらせた御霊は、こうした関連において、聖い行ないが非常に重要であり、絶対に必要であるとすることを、恵みが無代価であることと矛盾するとはお考えにならなかったのである。というのも、聖書は通常それらを合わせて教えているからである。たとえば、黙21で神は云っておられる。「わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる」(6節)。そして、その直後の節で、こう云い足しておられる。「勝利を得る者は、これらのものを相続する」。さながら、キリスト者としての競走と戦いにおいて優秀であることが、その約束の条件ででもあるかのようにである。それと同じく、その次の章でもキリストは云っておられる。「彼の戒めを行なって、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は、幸いである」(14節 <英欽定訳>)。そして、15節では、偽りを行なう者は外に出されると宣言しておられる。にもかかわらず、その直後にある2つの節でキリストは、非常に厳粛きわまりないしかたで、あらゆる者に向かって、来ていのちの水を無代価で飲むように招いておられる。「『わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。』 御霊も花嫁も言う。『来てください。』 これを聞く者は、『来てください。』と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい」。黙3:20、21も同様である。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」。しかし、その次の言葉ではこう云われている。「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう」。そして、マタ11のあの偉大な招きのことば、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」、においてキリストは、続く言葉でこう云っておられるのである。「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます」、と。さながら、キリストに仕えるという荷を担うこと、キリストの模範にならうことが、約束された安息を得るため必要であるというかのようにである。また、罪人たちに対して、無代価の恵みを受けよという、あの偉大な招きも同様である。「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え」(イザ55)。ここにおいてすら、同じ招きに続く箇所で、罪人がその悪しき行ないを捨てることが、あわれみを得るために必要なこととして語られている。「悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから」(7節)。そのように、罪人たちの義認における天来の恵みの豊かさは、聖い行ないを必要とするものとして述べられている。「『洗え。身をきよめよ。わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。悪事を働くのをやめよ。善をなすことを習い、公正を求め、しいたげる者を正し、みなしごのために正しいさばきをなし、やもめのために弁護せよ。』 『さあ、来たれ。論じ合おう。』 と主は仰せられる。『たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる』」(イザ1:16以降)。そして、箴9における、あの知恵の厳粛な招きにおいて、そこにいかに豊かなものがたくわえられているか、いかにすべての備えができたか、いかに家が建てられ、いけにえがほふられ、葡萄酒に混ぜ物がなされ、食卓が整えられ、使者たちが招待客を招きに遣わされたかが語られた後で、私たちには無代価で招きがなされている。「『わきまえのない者はだれでも、ここに来なさい。と。また、思慮に欠けた(すなわち、全く義を持たない)者に言う。『わたしの食事を食べに来なさい。わたしの混ぜ合わせたぶどう酒を飲み……なさい』」。しかし、返す刀でこう告げられているのである。「わきまえのないことを捨てて、生きなさい。悟りのある道を、まっすぐ歩みなさい」(4-6節)。さながら、罪を捨てること、聖さの道を歩むことが、いのちに至るためには必要である、と云うかのようにである。そのように、恵みが無代価であることと、聖い行ないが必要であることとは、聖書がこのように両者を結び合わせていることからもわかるように、矛盾ではない。また、行ないにおける信仰の種々の働きと効果とが、信仰の最たるしるしとみなされることは、決して信仰の栄誉と重要さを減ずるものではない。活動と動作がいのちの最たるしるしであるとみなされるからといって、いのちの重要さが減るわけではないのと全く同じである。

 こういうわけで、聖い行ないが真摯さの主要なしるしとして重要であるとして、ここまで語られたことには、何ら律法的なものはない。何ら、福音の恵みが無代価の、主権的なものであることを傷つけるようなものはない。律法のわざによらない、信仰のみによる義認という福音の教理と衝突するようなものは、全く何もない。かの《仲保者》の栄光および、私たちが彼の義により頼んでいることを減じさせかねないようなものは、全く何もない。何ら私たちの救いという件において信仰が有する特別な大権を侵害するようなものはない。決して神の栄光とそのあわれみを損ない、人間を称揚するようなものはなく、人間が神に依存する者、神に負い目のある者であることをいささかも見失わせるようなものはない。それで、もしだれかがすでに説明されたような聖い行ないの重要性に対して反対するというのであれば、それは、わざという言葉の文字と響きに対する、無分別な嫌悪の念から出たものでしかないに違いない。なぜなら、世界中のどこを探しても、それを嫌悪すべき理由などないからである。この言葉を嫌悪すべきだというのであれば、聖さや、敬虔さ恵み信仰深さ体験信仰そのものといった言葉をも、全く同じくらい嫌悪すべきことになるであろう。これらのいずれかによって義とされるということは、新しい契約の道にとっては、聖い行ないによって義とされるのと同じくらい、律法的なことであり、矛盾することだからである*12

 キリスト教信仰にとって非常に有害なことに、一部の人々は、人がキリストの恵みにあずかっている証拠の中でも最も重要なこととして聖書が非常に強調していることを、こうした事がらに重きを置くのは律法的であるとか、古い契約の道であるとか考えることによって、ほとんど強調していない。行ないに現わされた恵みの種々の働きや、実際に生きて働く活動とをないがしろにし、ただ黙想中の悟りや、良心と恵みが内在的に働くしかたについてだけしかほとんど強調しないこと、----しかも、こうした事がらを見分けるのに、哲学や体験から出た、玄妙な判断力や、精密な識別力により頼むこと----、これは著しい害を及ぼしている。聖書が最も明確に言及し、最もしばしば強調しているような敬虔さのしるしにまさって健全な、またそれ以上のしるしを求めても、それは無駄なことである。聖書よりも自分の方が正確なしるしを規定することができるなどと云い立てる人々----あるいは、自分の方が、自らの超常的な体験により、あるいは物事の性質に関する洞察により、偽善者をより徹底的に見つけ出し、察知できるような、より判然とした目印を規定することができる、などと云い立てる人々----は、自分自身の精神と、他人の精神とを暗くするのに洗練されているだけである。彼らの洗練された、玄妙な識別法は、神の御目にとっては、洗練された痴愚でしかなく、小賢しい迷妄でしかない。これにあてはまる言葉をアグルが語っている。「神のことばは、すべて純粋。神は拠り頼む者の盾。神のことばにつけ足しをしてはならない。神が、あなたを責めないように、あなたがまやかし者とされないように」(箴30:5、6)。人の心に関する私たちの知恵や識別力は、たいしてあてにならない。魂の性質や、人の心の深みのうち、私たちの目にとまるのはほんの一部である。何ら超自然的な影響力を受けなくとも、ある人の感情が動かされるしかたはいくらでもある。種々の感情をわき上がらせる天性の泉は、多種多様であり、人の目から隠されている。しばしば多くのことが、種々の感情に相乗的な影響を及ぼす。想像力や、生来の気質、教育、神の御霊の一般的影響、人を感激させるような種々の状況の驚くような符合、人々の思いが流れていく中でまれに生ずる偶然の一致、これらに加えて、目に見えない、悪意を持った諸霊による巧緻な誘導などがある。私たちがこの迷宮と迷路の中を無事にくぐり抜けるためには、いかなる哲学や経験も決して十分ではないであろう。それにはただ、神がそのことばにおいて与えてくださった手がかりに忠実に従うしかない。神には神の理由がおありになって、ある事がらを他にまさって強調し、それらを私たちが自分を試すべき事がらとしてはっきり規定しておられるのである。それは、こうした事がらが他の事がらよりも人を惑わす要素が少なく、私たちがあまり欺かれずにすむはずであることをご存じだからかもしれない。神は私たちの性質も、ご自分の行なわれる働きの性格もしかたも、最もよく知っておられる。また、私たちの安全にとって最良の道を知っておられる。神は、ご自分の教会の相異なる種々の状態について、個々の人々の相異なる気質について、ご自分の種々の働きの千差万別のありようについて、いかなる酌量をしなくてはならないかをご存じである。また、天性がいかに恵みに酷似しうるものか、天性がいかに恵みと混じり合いうるものか、ただの想像からいかなる種々の感情が生じうるか、ただの想像がいかに霊的な照明と混じり合いうるものか、神はご存じである。それゆえ私たちは、知恵をもって行動したければ、神の御手からそのみわざを取り上げるようなことはせず、神に従うべきであり、自分を判断する際には、神が私たちに指示しておられる通りの点を強調すべきである。そうしない場合、私たちが混乱したり、うろたえさせられたり、致命的な迷妄に陥ったとしても何の不思議もない。しかしもし私たちが、キリストと、その使徒たちと、預言者たちが主として強調している事がらを主として見つめること----すなわち、自分自身と他の人々とを、主として恵みの実践的な働きと効果に着目しつつ判断し、他の事がらをもないがしろにしないこと----から外れなければ、多くの幸いな結果に至ることであろう。これは何にもまして、思い違いをしている偽善者たちに罪を確信させ、いのちに至る狭く細い道に一度も心から徹底的に従ったことのない人々が迷妄に陥るのを防ぐであろう。これは私たちを、種々の体験のあり方や筋道が千変万化であるために生じてくる、数えきれないほどの困惑から救い出すであろう。それは、信仰告白者たちが人生の厳しさを無視することを大いに防ぎ、彼らをして大いにキリスト者としての歩みに打ち込ませ、熱心にさせることができるであろう。また、自分のキリスト教信仰について示そうとする場合、それを自分の慕わしく、まぎれもないふるまいによって示す人の方が、自分の種々の体験について口をきわめてまくしたてることによって示す人よりも多くなるであろう。そうなったときに、私たちが活発なキリスト教信仰を有する人とみなすのは、神と自分の世代に仕えることにおいて活発にふるまっている人々となることであろう。そして、舌先だけでいっぱしの口をきき、自分の心がいかに聖く、いかに抜きんでた動きや働きをしているかを世間に吹聴するしかないような人々は、重んじられなくなることであろう。そうなったときに、キリスト者の親友同士は、自分たちの種々の経験や慰めを、よりキリスト者的な謙遜と慎み深さにふさわしいしかたで、また、より相手の益になるようなしかたで語り合うようになるであろう。彼らの舌は、ほむべき使徒の思慮深い模範にならって、実行動の伴わない大言壮語をしないようになるであろう(IIコリ12:6)。霊的高慢を生むような多くの機会は断ち切られ、悪魔の出入りする大きな扉が閉ざされるであろう。そして、体験的で、力強いキリスト教信仰に対する、主たるつまづきの石の非常に多くが取り除かれるであろう。そのようなしかたでキリスト教信仰が宣言され、明示されるとき、それは、----傍観者たちをかたくなにし、不信仰と無神論を大いに押し進めるかわりに----何にもまして人々に、キリスト教信仰には本物があると確信させ、その良心にキリスト教信仰がいかに重要なものか、いかに何にもましてすぐれたものであるかを確信させることによって、彼らを大いに覚醒させ、彼らの心を勝ちとるであろう。このようにして、信仰を告白する者たちの光は人々の前で輝きわたり、他の人々が彼らの良い行ないを見て、天におられる彼らの父をあがめるようになるであろう!

宗教感情論[完]

_________________________________________________

*1 救いの聖書的教義、説教I、p.11。[本文に戻る]

*2 「キリストの愛された弟子であり、その腹心の友であったヨハネを見るがいい。彼は真理なるお方を知る油注ぎを受けており、彼には自分が神を知っていることがわかっていた*(Iヨハ2:3)。しかし、いかにして彼はそのことがわかったのだろうか? 彼は思い違いをしているかもしれない。(憂鬱質の空想力によっていかに奇怪な思い込みが生ずることか。正直な人々は脳が弱いと云われ、決して神の隠された深みを見ないとみなされている通りである)。何が彼の最終的な証明だったのだろうか? 私たちが神の命令を守るなら、である」。シェパードの『例え話』、第一部、p.131。
 「人は、自分が現在主イエスと結び合わされていることを、わざによって知ることができる。神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり(Iヨハ2:4)。----しかり。それは否定的な意味では正しい。だが、人はこのことによって肯定的に主と自分の結合を知ることができるだろうか? 間違いなくわかるだろうか? 答え。多くの人々は、自分は主を知っており、愛していると云っていた。だが、真にそうであったのは、みことばを守っている者だけであった(5節)。----おゝ、みことばの何と甘美なことか! あらゆる戒めにおいて主にすがりつくのは天国であり、何らかの戒めにおいて主から離れるのは死である。それによって、私たちが神のうちにいることがわかります。もしも、御使いに向かって、どうしてあなたがたは自分が悪霊ではないとわかるのか、と訊ねることができたとしたら、彼らは答えるであろう。主のみこころが私たちの意志だからです、と」。シェパードの『例え話』、第一部、p.134。
 「もしその問いが、主イエスはだれを愛するか? というものであるなら、あなたは答えを求めて天に昇る必要はなく、みことばはあなたの近くにある。キリストを愛する人々である。この人々とはだれか? 主の戒めを守る人々である」。シェパードの『例え話』、第一部、p.138。
 「あなたは、キリストが天で御座についておられることを望みながら、その恵みのみわざによって自分の情欲が抑制され、それにより自分の心が支配されてほしいとは思わないのだろうか? ならばあなたはキリストの御国を蔑んでいるのである。あなたはキリストの血潮による赦しを求めていながら、決してその血潮の効力と目的があなたを洗いきよめ、しみなどのない者とすることを願っていないのだろうか? ならばあなたは、キリストの祭司職と血潮を蔑んでいるのである。あなたはキリストがあなたのために働くことを望んでいながら、あなたはキリストのみわざを行ない、キリストのために実を結ぶことを望まないのだろうか? ならばあなたは、キリストの誉れを蔑んでいるのである(ヨハ15:8)。もし私が偽善者を発見するとしたら、あるいはまがいものの心を発見するとしたら、こう私は云うであろう。キリストをほめそやしながら、キリストのわざは忌み嫌うような者こそそれだ、と」。シェパードの『例え話』、第一部、p.140。[本文に戻る]

*3 IIコリ8:2; ヘブ11:36; Iペテ1:7; 4:12; 創22:1; 申8:2、16; 13:3; 出15:35; 16:4; 士2:22; 3:1、4; 詩66:10、11; ダニ12:10; 黙3:10; ヨブ23:10; ゼカ13:2; ヤコ1:12; 黙2:10; ルカ8:13; 使20:19; ヤコ1:2、3; Iペテ1:5[本文に戻る]

*4 「私がカルヴァンと同じように確信するところ、人々が受けるいくつかの試練はみな、彼ら自身に対して、また世に対して、彼らがまがいものでしかないことを知らせ、また聖徒たちについては、彼ら自身に自分は聖徒であるとよりよく知らせるためのものである。----患難が試練を生み出し、試練が希望を生み出す*(ロマ5:5)。箴17:3。もしそれが重みに持ちこたえられるかどうか知りたければ、試してみればよい」。----シェパードの『例え話』、第一部、p.191。[本文に戻る]

*5 シブス博士は、その『いたんだ葦』でこう云っている。「キリストが何らかの世俗的な損失や利得と競い合うような形でやって来る際、そうした特定の場合に、心がキリストの方に傾くならば、それは真実なしるしである。というのも恵みの力を何にもまして真実に試すのは、私たちの利害に最もかかわる、そうした特定の場合だからである。なぜなら、そこで私たちの腐敗は最も内圧を高めるからである。キリストがあの福音書の中の若者の急所をつかれたとき、彼はご自分の弟子をひとり失ってしまったのであった」。
 フラヴェル氏は試みのもとにある聖い行ないのことを、恵みの最大の証拠であると云っている。「いかなる人も、自分がどのような人間であるか、自分の恵みが真実なものかまがいものであるかを云えるようになる前には、まずそれらが金にとって火がそうであるような物事によって試練を受け、吟味されていなくてはならない」。『真摯さの試金石』、第4章、第1節。また、義務を果たすために受けなくてはならない種々の大きな困難や苦しみの中でも、人が世俗的な性質をした最愛のものを手放すか、自分の義務を捨てるかしなくてはならないような場合について彼はこう語っている。「こうした類の種々の苦しみによって、まがいものの、また腐っている心が発見されることに疑問の余地はない。それは、これこそ金滓から金を分離するという、まさにその用途と目的のため神がお定めになった火であることを考えてもわかる。こう書かれている通りである。『愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく』(Iペテ4:12)。----すなわち、神の摂理がそれらを許し、定めている意図と目当ては、まさにあなたがたを試みることなのである。こういうわけで、聖書では迫害の時期のことを(同様の考え方により)試みの時、あるいは試練の時と呼んでいる(黙3:10)。というのも、そうした時期に信仰告白者たちは隅々までふるい分けられ、心の最奥にある原理まで探られるからである。これこそ、『その日が来る。かまどのように燃えながら。その日……すべて悪を行なう者は、わらとなる』(マラ4:1)、という日である。というのも、その日、人の心の大勢を占めている関心は白日の下にさらされ、それ以上隠しておくことはできなくなるに違いないからである。『ふたりの主人に仕えることはできません』、とキリストは云っておられる(ルカ16:13)。人は、多くの主人をかかえていても、その主人たちが同じことを命じていたり、それぞれの序列がはっきりした命令を下されたりするのであれば、多くの主人に仕えることができるかもしれない。しかし、もしその主人たちの命令がぶつかりあい、干渉し合うものであるなら、ふたりの主人に仕えることはできない。そして、そのようなものこそ、苦しみの時におけるキリストの命令と肉の命令なのである。----そのように二者の利害は真っ向から対立するようになる。そして、ほんの少し辛抱して待っていれば、どちらが大勢を占めているかは見分けがつく。一匹の犬が、同じ道を歩いていく二人の人の後についていく場合、そのままではどちらが犬の主人かはわからないが、もうしばらくして、二人の道が分かれるところにやって来れば、たちまち犬の主人がどちらだったかは明らかになる。この場合もそれと同じである」。前掲書、第8章、第3節。また、別の章でも彼はこう云っている。「おびただしい数の人々に思い違いをさせ、滅びに至らせるもととなるのは、見せかけだけの、試みを受けていない恵みに頼ることである。これが、ラオデキヤの信仰告白者たちのみじめな状態であった。彼らは自分たちが富んでいると思っていたが、実は貧しかった。光るものすべてが金ではない。彼らの金(と自分で思い込んでいたもの)は、一度も火の中で試されたことがなかった。もしある人の全財産が、何か貴重な宝石、たとえば高価な金剛石一個に込められているとしたら、いかにその人は、それが鎚で痛打してもびくともしないか、水晶玉のように砕け散るかを徹底的に試されることを望むことであろう!」 前掲書、第10章、第3節。また、同じ箇所では、「救いの種々の約束がなされたのは、試みを受けた恵みに対してであって、その試みを耐え抜く恵みだけに対してである」。
 「神はあなたを試みるであろう。神が試みを与える時がある。そして、そうした時が送られる理由はただ1つ、だれが金滓で、だれが金であるかを明らかにするためにほかならない。そして神の試練の主たる目的は、私が今あなたに強く訴えようとしているこの真理を見いだすことにある。ある人々には心底まで徹底した働きがあり、今や試練はアブラハムの場合がそうだったように、その真実を明らかにする(ヘブ11:17)。ある人々には、うわべだけの働きしかなく、サウルの場合のように、試練の中で失墜する。そして、上っ面だけの働きでしかなかったことを露呈する。というのも、これこそ神が発される問いだからである。それは徹底的なものか否か? ええ、と肉的な心は答え、はい、と恵みによる心は答える。こういうわけで、いざ試練がやってきたときに人々がどのようにふるまうかは、奇妙な見物である」。シェパードの『例え話』、第一部、p.191。
 「試練の時の中には、人々を試みて、その真の姿を明らかにするものがある」。シェパードの『例え話』、第二部、p.60。[本文に戻る]

*6 プレストン博士は云う。「これは確かな規則だが、聖書が多くの言葉を重ねているもののことを、私たちは大いに思い巡らすべきである。また聖霊が最も強く力説していることを、私たちは最も尊ぶべきである」。----『教会の行動指針』。[本文に戻る]

*7 これを明らかにする箇所として、マタ18:31以降; 20:8-15; 22:11、12、13; 25:19-30、35以降、がある。[本文に戻る]

*8 マタ25章後半を参照。また、ロマ2:6-13; エレ17:10; ヨブ34:11; 箴24:12; エレ32:19; 黙22:12; マタ16:27; 黙2:23; エゼ33:20; Iペテ1:17も参照されたい。[本文に戻る]

*9 「神がご自分の行なう審きの目安とし、あらゆる人を審く基準としておられるものこそ、あらゆる人が自分自身を判断すべき確かな基準である。最後の審判の日に私たちを審くことになるものこそ、現在私たちが自分自身にあてはめてみるべき確かな目安である。さて神は、私たちの服従とわざによって私たちをお審きになる。神はあらゆる人に、そのわざに応じた報いをお与えになるであろう」。プレストン博士の『教会の行動指針』。[本文に戻る]

*10 「私たちが本当にキリストを受け入れたことは、私たちの行動とわざによって表わされる。『もし同意して、服従するなら、あなたがたは、この国の良い物を食べることができる』*(イザ1:19)。すなわち、もしあなたがたが、エホバを自分の主なる王として受け入れることに同意するなら、もしあなたがたが同意を示すなら、それが第一のことである。だが、それだけでは十分でない。しかしもしあなたがたが服従しもするなら。精神の内的な行為のうちにある同意、真実さは、あなたがたの服従のうちに見られ、あなたがたの生き方の行為のうちに見られるであろう。もし同意して、服従するなら、あなたがたは、この国の良い物を食べることができる。すなわち、あなたがたは神がお持ちの、あなたがたに適切なものすべてを手に入れることができる。というのも、そのときあなたがたは、まことに神にとつぎ、神の良きものすべてにあずかれるからである」。プレストン博士の『教会の行動指針』。[本文に戻る]

*11 「こうした目に見える恵みの働きが新たにされればされるほど、あなたは確信を深めるであろう。こうした行為の数々が新たにされればされるほど、あなたの確証は永続的なもの、確固たるものになるであろう。そうした目に見える恵みの働きを確証させられている人も、後になると、すぐに自分が間違っていたのではないかという疑いにかられるかもしれない。しかし、そうした種々の行為が繰り返し何度も何度も新たにされるとき、その人は自分の堅固な状態についてより安定し、より確立されていくようになる。もしある人が何かを一度見れば、それはその人に確信を持たせる。だがもし後になって、自分は見間違いをしたのではないかと不安になるようなときに、もう一度それを見てみれば、見間違いをしたのでないことはより確かになる。ある人が、何かの本の中で1つの文章を読み、そのときには、その文章の意味について確信しているとする。しかし何箇月かしてから、別の人がその人に、それは思い違いだと力説したために、自分でもそれが疑わしくなってしまったとする。だが、その人がもう一度その本を手に取り、その箇所を再読するなら、一切の疑念は振り払われるであろう。人々の恵みが豊かになればなるほど、彼らの平安も豊かになるものである。『神と私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように』(IIペテ1:2)」。ストッダードの『真摯さと偽善との判別法』。[本文に戻る]

*12 「あなたは、自分はキリストを知っています、と云う。キリストの愛と好意を自分は受けています、キリストは自分の罪のためのなだめの供え物です、と云う。だが、いかにしてあなたにそれがわかるのか? 『神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり』(Iヨハ2:4)。その通りです、とある者らは答えるであろう。キリストの命令を守らない者は、そのことにより、キリストを知ってはおらず、キリストに結び合わされてはいないという確かな証拠を有しています。けれども、もし私たちがキリストの命令を守っているなら、それは私たちがキリストを知っており、キリストに結び合わされているという何らかの証拠となるでしょうか?、と。しかり、確かに、と使徒は云っている。『もし、私たちが神の命令を守るなら、それによって、私たちは神を知っていることがわかります』。さらにまた、『それによって、私たちが神のうちにいることがわかります』(5節)。これ以上に明らかなことがあるだろうか? これを、わざの契約にとらわれた考えだ、などと云うことの、いかに虚ろなことであろう?----おゝ、愛する者よ。聖潔はことによると1つの証拠となるかもしれない、などというような疑念や、冷淡な答えを聞くのは悲しいことである。かもしれない? それは確実なことではないのだろうか? まぎれもなく、それを否定するのは、いつくしみを給うという神ご自身の約束が確かな証拠ではない、と明言し、つまるところ、神の約束が嘘っぱちであり、偽りであると明言するのと同じくらい悪いことである。----私たちの救い主は、決して律法的な説教者ではなかったが、内在的な恵みを有する人々が幸いな者であることを、8つか9つの約束によって明確に宣言し、つまりは、その幸いさを証ししておられる(マタ5:3、4以降)」。----シェパードの『堅固な信仰者』、p.221、222、223。[本文に戻る]



HOME | TOP | 目次 | BACK