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第1章1―4 聖ルカの福音書全体に対する序文

 ここに始まる聖ルカの福音書には、他の三福音書には記録されていない、貴重な教えが数多くふくまれている。たとえば、ザカリヤとエリサベツの物語----処女マリヤへの受胎告知----そして、大まかに云って最初の2つの章の中身全体である。また、ザアカイの回心や、悔い改めた強盗の回心の物語----エマオへの道行きや、いくつかの有名なたとえ話、すなわち、パリサイ人と取税人、金持ちとラザロ、放蕩息子といったたとえ話である。聖書の中でもこれらは、よく教えを受けたあらゆるキリスト者が格別に感謝の意を感じる部分である。これらについて私たちは、聖ルカの福音書に恩恵をこうむっているのである。

 私たちが今読んだ短い序文は、聖ルカの福音書の目立って特徴的な部分である。しかし詳しく調べてみると、ここには、この上もなく有益な教えが満ちていることがわかる。

 まず第一に、聖ルカが記しているのは福音書というものの性質に関する、短い、しかし貴重な概略である。彼はそれを、「私たちの間ですでに確信されている出来事についての記事」であると云う。福音書とはイエス・キリストに関する事実を物語るものなのである。

 キリスト教は事実に基づく宗教である。このことは決して見失わないようにしよう。キリスト教は最初、事実という形をとって人類の前に姿を現わした。初代教会の説教者たちが世界中を駆けめぐって宣べ伝えたのは、何か入念にこしらえあげた抽象的教義や深遠な諸原理の体系ではない。彼らがその第一の務めとしたのは、人々に種々の偉大な事実をありのままに告げることであった。彼らが罪の重みにあえぐ世界に対して告げ歩いたのは、神の御子が地上に来られたということ、また私たちのために生き、私たちのために死に、復活なさったということである。福音書とは、それが最初に世に出たときには、現代人の多くによって提示されているより、はるかに単純なものであった。それはキリストに関する史実の記録であり、それ以上でもそれ以下でもなかったのである。

 私たちは、自分の個人的な信仰生活を、より単純なものにするように心がけようではないか。私たちの信仰体系の太陽を、キリストとそのご人格とし、私たちの魂の主たる願いを、キリストに対する信仰の生活を生きること、日ごとにキリストをより良く知ることとしようではないか。それが聖パウロのキリスト教であった。「私にとっては、生きることはキリスト……です」(ピリ1:21)。

 第二に、聖ルカがここで美しく描き出しているのは、初代教会における使徒たちの真の地位である。彼は使徒たちのことを、「初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人々」と呼んでいる。

 この表現には、私たちの範とすべきへりくだりがある。ここには、あれほどしばしば教会の中に忍び込んできた人間崇拝の調子が全く欠けている。聖ルカは使徒たちにおもねるような称号を何も記していない。こうした言葉を見るとき、使徒たちのことを、その職務と私たちの主への親密さとのゆえに、偶像礼拝的な尊崇をもって語る人々には、いかなる弁解の余地もない。

 彼は使徒たちのことを「目撃者」と述べている。使徒たちは人々に、自分がその目で見、その耳で聞いたことを伝えた(Iヨハ1:1)。----彼は使徒たちのことを「みことばに仕える者」と述べている。彼らは福音のことばのしもべであった。彼らは、神の愛の知らせを罪深い世にもたらす使者となり、十字架の物語を告げ知らせることをこの上もない特権であるとみなした人々であった。

 もしキリスト教の代々の教役者らが、この使徒たちが自分のものとして主張した以上の地位や栄誉を決して要求しなかったとしたら、教会にとっても世にとっても、どんなに良かったことであろうか。しかし嘆かわしいことに実際には、叙任された聖職者たちは、絶えず自らとその職務を、全く非聖書的な立場へと高めてやまなかった。それに劣らず嘆かわしい事実は、人々が絶えずこの悪の片棒をかついで、聖職者の横暴な要求に唯々諾々と従い、単なるあなたまかせの宗教で満足してきたということである。どちらの側にも過ちがあった。私たちはこのことを忘れず、用心していようではないか。

 第三に、聖ルカは福音書の1つを書くという働きにあたる自分の資格について述べている。彼は、自分は「すべてのことを初めから綿密に調べております」、と云う。

 聖ルカがその福音書の中で伝えている知識をどこから得たか探ってみても、時間の無駄にしかなるまい。彼が私たちの主が奇蹟を行なうのをじかに見たり、主が教えておられるのをじかに聞いたりしたと考えるべき確たる理由は何1つない。彼がその知識を処女マリヤや、使徒たちのだれかから得たというのは、単なる推測や憶測にすぎない。私たちにとって十分なことは、聖ルカが神の霊感によって書いたということである。疑いもなく彼は、そうした知識を得るための通常の手段をないがしろにはしなかった。しかし聖霊は、聖書の他の記者たちの場合と全く同様に、彼をその内容の選択において導かれた。聖霊は彼に思想を授け、その並べ方を教え、文章を授け、言葉すらお授けになった。その結果、聖ルカの書いたものは「人間のことば」としてではなく、「神のことば」として読まれるべきものなのである(Iテサ2:13)。

 聖書の一語一句の十全霊感という教理を、私たちは細心の注意を払って堅く守ろうではないか。「聖霊に動かされ」て聖書を書いていた(IIペテ1:21)旧約聖書の記者の中には、小さな言葉の書き損じや過ちを犯した者もあるなどとは、決して認めないようにしようではないか。聖書を読むとき、もしある箇所を読んで理解できなければ、あるいは他の箇所と矛盾するように思われるならば、その責任は聖書にではなく、私たちの方にあるとするということを、私たちの不動の原則としようではないか。この原則を貫くと決めるとき、私たちの足は岩の上に立つことになる。だがこの原則を手放せば、私たちは流砂の上に立ち、絶えざる動揺と疑いで心を満たすことになる。

 最後に、聖ルカが私たちに教えているのは、彼がその福音書の執筆にあたって目ざしていた主たる目的である。それはテオピロが、「すでに教えを受けた事がらが正確な事実であることを、よくわかる」ようになることであった。

 ここには、口伝えの伝承や教会の声に信頼を置く者らにとって何の励ましもない。聖ルカが熟知していたこと、それは、人間の記憶力は薄弱だということ、また物事の経緯は、口伝や聞き伝えだけにゆだねられると、容易に尾鰭がつき、改変され、姿を変じていくものだ、ということであった。それゆえ彼は何をしたか。彼は慎重に「書く」ことにしたのである。

 ここには宗教的知識の普及に反対し、無知は「敬神の母」であるなどと云う人々にとって何の励ましもない。聖ルカがその友に望んでいるのは、彼が自分の信仰内容について、いかなる点においても疑いの中にとどまり続けないことである。彼が友に語っているのは、相手が「すでに教えを受けられた事がらが正確な事実であることを、よくわかって」ほしいということである。

 この箇所を閉じるにあたり私たちは、聖書を与えられたことについて感謝しようではないか。私たちは日々神をあがめよう。私たちは、人間の伝説に頼らざるをえなかったり、教職者の誤りによって惑わされたりする必要はないのである。私たちには書かれた書物があり、それは「私たちに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができる」*のである(IIテモ3:15)。

 私たちは、聖ルカの福音書を読み始めるにあたって、イエスのうちにある真理[エペ4:21]をより深く知ろうという熱心な願いと、その真理の知識を世界中に広めるため自分にできることは何でもしようという心からの決意を固めようではないか。

注記. ルカ1:1-4


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第1章5−12 ザカリヤとエリサベツの物語、神殿でザカリヤの見た幻

 聖ルカの福音書に最初に記録されているのは、ザカリヤというユダヤ人祭司の前に、突如として御使いが出現した出来事である。御使いが彼に告知したのは、奇蹟的な介入によって彼に男の子が産まれるということ、その子が昔から約束されていたメシヤの先駆けとなるということであった。神のことばがすでに明白に予言していたように、メシヤが来るときには、何者かが彼に先立って、その道を整えることになっていた(マラ3:1)。神はその知恵により、この先駆者が現われるときに、彼が祭司の家系に生まれるようにはからわれたのである。

 当時の世界において、この御使いの告知がどれほど途方もなく重要なものであったか、私たちにはほとんど想像もつかないであろう。敬虔なユダヤ人の心にとって、それは非常な喜びを伝える歓喜の知らせであったに違いない。それは、マラキの時代以来絶えてなかった、イスラエルに対する神の御告げであった。それは四百年に及ぶ長大な沈黙を破るものであった。それが信心深いイスラエル人に告げたのは、ダニエルによる預言の週がついに満たされたこと(ダニ9:25)----神のえりぬきの約束がついに果たされようとしていること----そして地のすべての国々が祝福されるという、あの「子孫」(創22:18)が到来しようとしているということであった。私たちは、自分をザカリヤの立場に置いて想像してみない限り、目の前にあるこれらの節の重さを正しく評価することはできないであろう。

 1つのこととして、この箇所で注目したいのは、ザカリヤとエリサベツの高潔な人格についてなされた証言である。彼らは、「ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行なっていた」、と語られている。

 この「正しく」という言葉は、あらゆる信者の義認のため彼らに転嫁された義と解釈しようと、信者の聖化のため彼らのうちで働く聖霊によって作り出された義と解釈しようと、大差はない。この二種類の義は決して切り離せないからである。義と認められた者のうちで聖化されない者はなく、聖化されている者のうちで義と認められていない者はない。私たちにとっては、恵みが稀少な時代であったにもかかわらずザカリヤとエリサベツには恵みがあったということ、また祭儀律法の煩雑な規定など形式的にしかこころがけないイスラエル人が大多数であった時代に、彼らがそれらを敬虔に、また良心的に遵守していたということだけで十分である。

 私たちすべてにとって大切なのは、キリスト者に対してこの聖い夫婦が指し示している模範である。私たちはみな、彼らがそうしていたように、努めて忠実に神に仕え、与えられた光の限りに従って歩もうではないか。この平易な聖書の言葉を忘れないようにしよう。「義を行なう者は……正しいのです」(Iヨハ3:7)。幸いなのは、夫婦がともに「正しい」と云われ、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように最善を尽くしている(使24:16)と云われるようなキリスト者家庭である。

 もう1つのこととして、この箇所で注目したいのは、神がザカリヤとエリサベツにお与えになった重い試練である。ここには、「彼らには子がなく」、と書いてある。現代のキリスト者には、この言葉にどれほどの重さがこめられているか、ほとんど理解できないであろう。古代のユダヤ人であれば、ここに過酷な患難という印象を感じとったに違いない。子どもがないということは、人にとって最も胸をえぐられる悲しみの1つであった(Iサム1:10)。

 神の恵みを受けているからといって、人は決して困難から免除されはしない。この聖い祭司とその妻は「正しく」はあったが、「悲運」の中にあった。キリストに仕える者はこのことを忘れないようにし、試練を思いがけないことのようにみなさないようにしよう。むしろ信じていようではないか。完璧な知恵による御手が、私たちの受ける割り当てをすべて量っておられ、神が私たちを懲らしめるときには、私たちを「ご自分の聖さにあずからせ」ようとしてそうなさるのだ、と(ヘブ12:10)。もし患難によって私たちが、キリストや、聖書や、祈りに近づけられるのなら、それはまぎれもなく祝福である。今はそう思えないかもしれない。しかし、来世で目覚めるときには、そう思えるであろう。

 別のこととして、この箇所で注目したいのは、神が来たるべきバプテスマのヨハネの誕生を告知するため用いられた手段である。ここには、「主の使いがザカリヤに現われた」*、と書いてある。

 御使いの奉仕は疑いもなく深遠な主題である。聖書の中で、いかなる箇所にもまして御使いについて頻繁に言及されているのは、私たちの主の地上における伝道活動の時期である。私たちの主の受肉および世への出生の時期ほどしばしば御使いの出現について記されている時期は他にない。こうした事態の意味するところは十分に明白である。これは教会に、メシヤはいかなる意味でも御使いではなく、人間たちの主であるばかりでなく、御使いたちの主でもあるということを教えるためであった。御使いたちが彼の到来を告知した。御使いたちが彼の誕生を布告した。御使いたちが彼の現われを喜んだ。そして、そのようにすることによって彼らは、罪人のために死ぬためやって来られたお方が、自分たちの一員ではなく、彼らにはるかにまさるお方であること、王の王、主の主であられることを明白にしたのである。

 いかなることがあろうと、御使いについて1つのことだけは決して忘れないようにしよう。彼らはキリストのみわざと、キリストが備えてくださった救いとに深い関心をいだいている。彼らは、神の御子が地上に下って、ご自分の血によって神と人との間に平和を打ち立てようとなさったとき、声を限りにほめたたえた。彼らは罪人たちが悔い改め、天におられる御父に子らが新しく生まれるとき、喜びの声をあげる。彼らは救いの世継ぎとなる者たちに仕えることを喜びとする。私たちは、地上にある間、御使いたちのようになるよう努めようではないか。----彼らのような心持ちになり、彼らと喜びを分かち合おうではないか。これこそ天国へ向けて自分を整える道である。そこに入った者たちは、「御使いたちのよう」である、と書かれている(マコ12:25)。

 最後に、この箇所で注目したいのは、御使いの出現がザカリヤの心に及ぼした効果である。ここには、彼が「不安を覚え、恐怖に襲われた」、と書かれている。

 この箇所におけるこの正しい人の経験は、類似の状況下で他の聖徒たちが経験したことと軌を一にしている。燃える柴の前におけるモーセ、ヒデケル川の岸におけるダニエル----墓の前のあの女たち、パトモス島におけるヨハネ----、彼らはみなザカリヤの恐れに似たものを示している。ザカリヤと同じく彼らは、別の世界に属するものの姿を見たとき、震え上がり、恐れおののいた。

 この恐れをどう説明したらよいだろうか? この問いに対する答えは1つしかない。この恐れの源泉は、私たちの内なる弱さと咎と腐敗の感覚にある。天の住人の姿を見るとき、私たちはいやでも自分の不完全さを思い知らされ、また生来の自分が、神の前に立つことの全くふさわしくない者であることを思い知らされる。もし御使いたちがこれほど偉大で恐るべきものであるなら、御使いたちの主は一体どのようなお方であろうか?

 私たちは神をほめたたえようではないか。神と人との間には、ひとりの偉大な仲介者、人としてのキリスト・イエスがおられるのである。彼を信ずることにより、私たちは大胆に神に近づくことができ、恐れなくさばきの日を待ち望むことができる。力ある御使いたちが地を行き巡って神の選民を集めるとき、選民が恐れを感ずる理由は全くない。彼らにとって御使いたちは、ともに仕えるしもべであり、友人なのである(黙22:9)。

 私たちは最後の日に悪人たちが感ずる恐怖を思って恐れようではないか。友好的な霊を突然目の当たりにするとき、正しい人でさえ不安に感ずるとしたら、毒麦を集めて焼くように不敬虔な者たちを集めるため御使いたちがやって来るとき、彼らはどうなるであろうか? 聖徒たちの恐れには根拠がなく、ほんの一時の間しか続かない。しかし滅びに至る者たちの恐れは、いったんかき立てられると、十二分に根拠のあるものであることがわかり、永遠に続くのである。

注記. ルカ1:5-12


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第1章13−17 御使いによるバプテスマのヨハネ誕生の告知と、彼の伝道活動の描写

 これらの節に記されているのは、ザカリヤの前に現われた御使いの言葉である。ここには、深い霊的な教えが満ちている。

 1つのこととして、ここから学べるのは、祈りは、長いこと答えが与えられないからといって、必ずしも拒絶されたわけではないということである。疑いもなくザカリヤは、子宝に恵まれるようしばしば祈ったことがあったに違いないが、どう見ても、その祈りはむなしかった。すでに老境に入った彼は、おそらくこの件を神の前で口に出すのをやめて久しかったであろうし、父親になる望みは完全に捨てていたであろう。にもかかわらず、御使いの第一声が明白に示しているのは、ザカリヤの過去の祈りは忘れられてはいなかったということである。----「あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます」。

 祈るため膝まづくときには、常にこの事実を思い出すのがよいであろう。私たちは自分の願いが無益だなどと性急に結論しないよう用心しなくてはならない。特に他人のためのとりなしの祈りについてはそうである。自分の願い事がいつ、どのような形で答えられるか指図するのは私たちの分際を越えたことである。人がいつ生まれるのが最善かをご存知のお方は、人がいつ新しく生まれるのが最善かも知っておられる。むしろ私たちは、「たゆみなく祈り」、「祈りのために身を慎み」、「いつも祈って失望しない」ようにしようではないか[コロ4:2; Iペテ4:7; ルカ18:1]。かつて、ある神の人は云っている。「効果がなかなか現われないからといって、信仰を落胆させてはならない。神はとうの昔に承諾しておられ、その承諾を私たちがまだ知らないだけかもしれないのである」。

 第二のこととして学べるのは、神の恵みを有する子ほど、真の喜びをわきあがらせる子はないということである。それは聖霊に満たされるはずの子どもであった。その父親にこう語られている。「その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます」。

 恵みこそ、わが子のためにまず第一に願うべきことである。恵みを有する子になる方が、美貌や富や栄誉や地位や有力な縁故などを持つ子になるより千倍もすぐれている。子どもたちは、恵みをいだくようになるまで、何をしでかすか決して予測できない。わが子のため私たちは生きているのがいやになり、しらが頭を悲しみながらよみに下らせることになるかもしれない。回心して初めて彼らは、現世と永遠の双方に対して備えができたことになるのである。「知恵のある子は父を喜ばせ……る」(箴10:1)。私たちは、自分の子どもたちのため何を求めるにせよ、何よりもまず彼らが、恵みの契約にあずかり、いのちの書に名を記された者になることを求めようではないか。

 第三のこととして学べるのは、真の偉大さの性質である。御使いがそのことを宣言している。彼はザカリヤに、その子は「主の御前にすぐれた者となる」、と告げているのである。

 人々の間で普通用いられる偉大さの尺度は、完全に偽りであり、惑わしに満ちている。君主や有力者たち、征服者や軍事指導者たち、政治家や哲学者たち、芸術家や著述家たち----こうした種類の人々が、世では「すぐれた者」と呼ばれている。だが、この種の偉大さは神の御使いたちの間では一顧だにされない。神のためにすぐれたことをなす人々をこそ、彼らはすぐれた者とみなす。神のためにたいして事を行なわない人々のことは、彼らもたいした者とはみなさない。彼らはあらゆる人々を、その人が最後の審判の日に立つことになるだろう立場に従って判断し、評価するのである。

 この点において私たちは、恥じることなく神の御使いたちを自分の模範としようではないか。自分と自分の子どもたちのためには、別の世でも価値を認められるような真の栄光を求めよう。それはあらゆる人に手の届く栄光である。----金持ちばかりでなく貧しい者にも----主人だけでなくしもべにも到達できる栄光である。それは権力にも誰かの引き立てにもよらず、富にも友人にもよらない。それは神の無償の賜物であって、主イエス・キリストの手からそれを求めるすべての人に与えられる。それは、キリストのみ声を聞き、彼に従うすべての者----キリストの戦いを戦い、世でキリストのみわざを行なう者が受ける相続分である。そうした者たちは、この人生ではほとんど何の栄誉も受けられないかもしれない。しかし最後の審判の日に、彼らの報いは大きいであろう。

 第四のこととして学べるのは、子どもが神の恵みを受けるのに若すぎることはないということである。ザカリヤは、彼の息子が「まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ」る、と知らされた。

 年端も行かない幼児に聖霊の働きかけを受けることはできない、と考えることほど大きな誤りはない。疑いもなく幼子の心に対する聖霊の働き方は、神秘的で理解しがたいものである。しかしそれは、人の子らに対するどのような御霊の働きもみなそうである。神の力と慈悲心に限界を設けないよう用心しようではないか。神はあわれみに富む神である。神にとって不可能なことは1つもない。

 こうしたことは、幼児洗礼との関連において覚えておこう。幼児は悔い改めも信仰も持てないからバプテスマを授けるべきではない、というのは根拠に乏しい反論である。もし幼児が聖霊に満たされることがありうるのなら、その子は確かに目に見える教会への加入を認められる資格がないとは云えまい。こうしたことは、特に幼少の子どもたちの教育においても覚えておこう。私たちは常に彼らを、神に対する責任を持ちうる者として扱うべきである。決して彼らを、幼すぎて何の信仰も持てない者などと考えてしまってはならない。もちろん私たちは、理に合わない期待をしてはならない。彼らの年齢や能力からはずれたような恵みの証拠を探し求めてはならない。しかし決して私たちが忘れてはならないのは、罪を犯せないほど幼くはない心は、神の恵みに満たされえないほど幼くもないのだ、ということである。

 これらの節から最後に学べるのは、真に偉大で、大きな成果をおさめる神の仕え人の性質である。その肖像を驚くべきしかたで提示しているのが、御使いによるバプテスマのヨハネの描写である。彼は、「心を向けさせ」る者----人々の心を無知から知識へ、無頓着さから思慮深さへ、罪から神へと向けさせる者である。----彼は、「主の前ぶれを」する者----イエス・キリストの使者となり先触れとなることを無上の喜びとする者である。----彼は、「整えられた民を主のために用意する」者である。彼はこの世から信仰者の一団を集めようと苦慮し、彼らがふさわしく整えられた者として、主の現われの日に主と会えるようにしようとする。

 このような仕え人たちのために私たちは夜も昼も祈ろうではないか。彼らは教会の真の柱たち----地の真の塩----世の真の光である。幸いなのは、そうした人々を多数有する教会であり、国家である。そのような人々がいなくては、学識も、肩書きも、寄付金も、壮麗な建物も、いかなる教会をも生かしておくことができない。魂を救うことも----みこころがなされることも----キリストが栄光を帰されることも、聖霊に満たされた人々によらなくては不可能である。

注記. ルカ1:13-17


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第1章18−25 ザカリヤの不信仰とその結果受けた罰

 私たちがこの箇所に見るのは、善良な人物のうちにおいても不信仰は力をふるうということである。ザカリヤは正しく聖い人物ではあったが、御使いの告知が信じがたいことと思われた。彼には、自分のような老人が息子を持つことなど可能とは思えなかった。彼は云っている。「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております」。

 ザカリヤのようによく教えを受けていたユダヤ人が、このような問いを発することはあってはならなかった。疑いもなく彼は旧約聖書に通じていたはずである。彼は、古の時代のイサクやサムソン、サムエルの驚異的な誕生のことを思い起こすべきであった。神には一度なされたことをもう一度行なうことがおできになること、また神には何事も不可能ではないことを思い起こすべきであった。しかし彼は、これらすべてを忘れてしまった。人間の理性と常識による理屈でしか考えられなかった。そして、信仰生活ではしばしば起こることだが、理性が働き始めるとき、信仰は働きを停止するのである。

 私たちはザカリヤの過ちを教訓としよう。これは、いかなる時代の神の民も、嘆かわしいほど陥ってきた過ちである。アブラハム、イサク、モーセ、ヒゼキヤ、ヨシャパテの物語がことごとく私たちに告げているのは、真の信仰者も時として不信仰に襲われるということである。それは、人の心に最初に忍び込んだ腐敗の1つである。人間が堕落した日、エバは神よりも悪魔を信じたのである。またこれは、聖徒を苦しめる最も根の深い罪の1つであって、これから完全に自由にされることは死ぬまでありえない。私たちは日ごとに、「主よ。私の信仰を増してください」、と祈ろうではないか。神がお告げになったことは必ず成就すると疑わないようにしよう。

 さらにこれらの節に見られるのは、神の御使いたちの特権と持ち場である。彼らは神の教会への使信を持ち来たる者たちである。彼らは神の御前で仕えることを許されている。ザカリヤに現われた天の使いは、ザカリヤの不信仰への叱責として自分がいかなる者であるか告げている。「私は神の御前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この喜びのおとずれを伝えるように遣わされているのです」。

 「ガブリエル」という名は、疑いもなくザカリヤの心をへりくだりと自己卑下で満たしたに違いない。彼は、この同じガブリエルこそ、490年前、ダニエルにあの七十週の預言をもたらし、油そそがれた者がいかに断たれるか(ダニ9:26)を告げた御使いであったことを思い出したであろう。疑いもなく彼は、神の神殿の中で平穏無事に祭司の務めを果たしている自分の悲しむべき不信仰と、エルサレムの神殿が瓦礫の山と化していた時代にバビロンで捕囚として住んでいた聖徒ダニエルの信仰とをくらべてみたに違いない。ザカリヤはその日、彼が決して忘れることのない教訓を学んだのである。

 ガブリエルが自分の職務について告げた説明によって私たちは、非常に心探らされるべきである。この強大な霊、私たちより力においても知性においてもはるかに偉大なこの霊が、「神の御前に立」ち、神のみこころを行なうことを至高の栄誉とみなしているのである。私たちは、自分の目当てとし、願いとすることを、同じ方向に向けようではないか。私たちは努めて、いつの日か神の御座の前に大胆に立ち、神の宮で昼も夜も神に仕えることができるように生きようではないか。この高貴で、聖なる立場に至るための道は、私たちの前に開かれている。キリストは、ご自分のからだと血をおささげになったことによって、その道を私たちのために奉献してくださった。願わくは私たちが、この現世の短い時を過ごす間、その道を歩くよう努力できるように。そのようにして私たちが、永遠に続く無限の時代にも、神のえり抜きの御使いたちとともに、自分の割り当ての地に立つことができるように(ダニ12:13)。

 最後にこの箇所に見られるのは、神の目にとって不信仰の罪がいかに重い罪であるかということである。ザカリヤの疑いと反問は、彼の上に重い懲らしめを招き寄せた。御使いは云っている。「あなたは、おしになって、ものが言えなくなります。私のことばを信じなかったからです」。----それは、犯された罪に格別にふさわしい懲らしめであった。信じて賛美をほとばしらせようとしなかった舌は、打たれておしにさせられた。----それは長く続く懲らしめであった。九箇月もの長きにわたってザカリヤは沈黙をしいられ、日ごとに自分が不信仰によって神に罪を犯したことを思い出させられたのである。

 神の怒りをことさらに招く罪として、不信仰の罪にまさるものはほとんどない。確かに、いかなる罪も、これほど重いさばきを人の上に呼び寄せたものはなかった。神があることをなさると請け合ってくださったのに、そんなことはできないのではないかと疑うということ、これは事実上、神の全能の御力を否定することである。----あることが起こると、神がはっきり約束してくださったのに、神は本気ではないのでないかと疑うということ、これは神を嘘つき呼ばわりすることである。----荒野におけるイスラエルの四十年間の放浪を、信仰を告白するキリスト者は決して忘れるべきではない。聖パウロの言葉は非常に厳粛である。「彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであった」(ヘブ3:19)。

 私たちは、魂を滅ぼすこの罪に対して日ごとに用心し、祈っていようではないか。この罪に妥協することによって、信仰者は内なる平安を奪われ----戦いの日に自分の手を弱くし----自分の希望を曇らせ----自分の戦車の車輪をはずしてしまう。私たちの信仰の度合に応じて、私たちがキリストの救いを楽しむ度合----試練の日における私たちの忍耐----世に対する私たちの勝利----は大きくなりも、小さくなりもする。一言で云えば、不信仰は一千もの霊的疾患の真の原因であり、ひとたび心に巣くうことを許してしまうと、癌のように広がるのである。「もし、あなたがたが信じなければ、長く立つことはできない」(イザ7:9)。私たちの罪の赦しと、神に魂が受け入れられること、----私たちのそれぞれの部署における義務と、日々の生活の試練----、これらに関わるすべてのことにおいては、この言葉を信仰生活における座右の銘としようではないか。すなわち、神のことばは黙ってみな信頼し、不信仰には警戒せよ、ということである。

注記. ルカ1:18-25


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第1章26−33 御使いがマリヤに告げた、私たちの主の母となるとの告知

 これらの節に記されているのは、かつて世界で起こったことの中でも最も驚くべき出来事----すなわち、私たちの主イエス・キリストの受肉と誕生----の告知である。この箇所を私たちは、驚異と愛と賛嘆の入り混じった思いとともに読むべきである。

 私たちが第一のこととして注意したいのは、人類の救い主が、いかにつつましく、へりくだったしかたで私たちのもとに来てくださったか、ということである。彼の降臨を告知した御使いが遣わされたのは、ガリラヤにある、ナザレという名の辺鄙な町であった。私たちの主の母となる栄誉を与えられたのは、明らかに下層階級にある女性であった。彼女の身分にしても住まいにしても、そこには世が「偉大さ」と呼ぶものを完全に欠いていた。

 ここから私たちがためらうことなく結論できるのは、こうしたはからいのすべてには賢明な摂理が働いていた、ということである。天と地のあらゆることをつかさどる全能のご計画にとって、しようと思えば、マリヤの居住地をナザレではなくエルサレムに定めておくことも、私たちの主の母親として貧しい女性ではなく、どこかの富裕な律法学者の娘を選ぶことも簡単にできたはずである。しかし、そのようにされなかったことが、良かったと思われる。メシヤの初臨は謙卑の来臨であるべきであった。その謙卑は、彼の受胎および誕生の時から、すでに始まっているべきであった。

 私たちは他人の貧しさを蔑んだりしないように、またもし神から貧しさを賜っているなら、それを恥じたりしないように用心しよう。イエスが自発的にお選びになった境遇は、常に聖い畏れをもって敬われるべきである。金持ちにおもねり、金銭を偶像とするという、現代よく見られる傾向には、注意深く抵抗し、屈さないようにしなくてはならない。巷には富に迎合する一千もの処世訓があふれているが、私たちの主の模範だけでそれらへの十分な回答となる。「主は富んでおられたのに、私たちのために貧しくなられました」*(IIコリ8:9)。

 私たちは神の御子の驚くべきへりくだりをあがめよう。万物の世継ぎであるお方が、私たちと同じ性質をお取りになっただけでなく、それを、考えうる限り最も卑しい形によってなされたのである。王として地に下り君臨するだけでもへりくだりであったろう。しかし、貧民として地に下り、蔑まれ、苦しめられ、死ぬというのは、私たちの理解を超えた、あわれみの奇蹟である。彼の愛につき動かされて、私たちは、自分のためにではなく、彼のために生きるようになろうではないか。彼の模範によって、日々この聖書の戒めを自分の良心に突きつけようではないか。「高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい」(ロマ12:16)。

 私たちが第二のこととして注意したいのは、処女マリヤのきわめて大きな特権である。御使いガブリエルが彼女に語りかけた言葉は、非常に注目すべきものである。彼は彼女に、「恵まれた方」、と呼びかけている。彼女に、「主があなたとともにおられます」、と告げている。「あなたはどの女よりも祝福された方です」、と語りかけている[28節 <新改訳聖書欄外注参照>]。

 ローマカトリック教会が処女マリヤにささげている栄誉が、彼女のほむべき息子にささげられている栄誉にほぼ劣らないほどのものであることは、よく知られた事実である。処女マリヤは、ローマカトリック教会によって正式に、「罪なくして懐胎した」と宣言されている。彼女は、ローマカトリック教徒には礼拝の対象として掲げられ、キリストご自身に劣らぬほど力強い、神と人との仲保者として、祈りをささげられている。忘れてならないのは、こうしたことすべてに対して、聖書は髪の毛一筋ほどの保証も与えていない、ということである。今私たちの前にある節に、そのような保証はない。神のみことばのいかなる部分にも、そのような保証はない。

 しかし、こうしたことを云った上で、公正を期すため認めなくてはならないのは、私たちの主の母ほど高い栄誉を授けられた女はいまだかつていない、ということである。明らかに、神が「肉において現われ」[Iテモ3:16]なさるための手段となれる女は、無数の人類の中でただひとりしかいなかった。そして明らかに処女マリヤは、そのひとりとなるという途方もない特権にあずかったのである。世の初めにおいては、ひとりの女によって、罪と死が世界にもたらされた。しかしキリストの誕生においては、ひとりの女が子どもを生むことによって、いのちと不死が明るみに出された。このひとりの女が、「恵まれた方」と呼ばれ、「祝福された方」と云われたのも不思議ではない。

 ただし、この主題に関連した1つのことを、キリスト者は決して忘れるべきではない。キリストと私たちの間には、だれにでも入れる関係が1つある。----血肉の関係よりもさらに親しい関係----悔い改めて信じるすべての人がふくまれる関係が1つあるのである。イエスは云っておられる。「神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです」。----ある日、ひとりの女が、「あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです」、と云った。しかし、どのような答えが返されただろうか? 「いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです」(マコ3:35; ルカ11:27)。

 最後にこれらの節の中で注意したいのは、マリヤに向かって御使いが告げた、私たちの主イエス・キリストに関する輝かしい描写である。この描写のあらゆる部分は、深い意味に満ちており、詳しく吟味される価値がある。

 イエスは、「すぐれた者となる」*、とガブリエルは云う。彼がいかに「すぐれた者」であられるか、その一部は私たちもすでに知っている。彼は、大いなる救いをもたらされた。彼は、ご自分をモーセよりもすぐれた預言者として示された。彼は、すぐれた大祭司である。そして彼は、やがて王として認められるとき、いやまさってすぐれたお方となる。

 イエスは、「いと高き方の子と呼ばれる」*、とガブリエルは云う。彼は、この世に来る前からそのようなお方であった。あらゆることにおいて御父と同等であり、永遠の昔から神の御子であられた。しかし彼は、そのようなお方として、教会によって知られ、認められることになった。メシヤは、ほかならぬ神ご自身として受け入れられ、礼拝されるべきであった。

 「神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります」、とガブリエルは云う。「彼はとこしえにヤコブの家を治めます」*、と。この約束の文字どおりの成就はまだ起こっていない。イスラエルはまだ集められていない。ユダヤ人はまだ、彼ら自身の土地に回復されておらず、かつて彼らが刺し通したお方を、まだ自分たちの王また神として仰ぎ見てはいない。だが、この予告の実現は遅れてはいるが、私たちは確信をもってそれを待つことができる。いつの日か、それは必ず来る。遅れることはない(ハバ2:3)。

 最後に、ガブリエルは、「その国は終わることがありません」、と云う。この方の輝かしい王国の前に、いつの日か世のあらゆる帝国は瓦解し、滅び失せる。ニネベやバビロンやエジプトやツロやカルタゴのように、それらはみないつの日か無に帰し、いと高き方の聖徒たちが御国を受けることになる。いつの日かイエスの前に、すべての者が膝をかがめ、すべての舌が、彼は主である、と告白する。彼の御国だけが永遠の国であることが明らかになり、彼の主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがない(ダニ7:14、27)。

 真のキリスト者は、しばしばこの輝かしい約束に思いをはせ、その内容によって慰めを受けるべきである。彼には、自分の主人を恥じる理由は全くない。彼は、福音のゆえにしばしば貧しく蔑まれるかもしれないが、自分が勝利を得る側にいることは確信してよい。この世の王国は、まだキリストの御国になっていない。しかし、もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない(ヘブ10:37)。そのほむべき日を、私たちは忍耐強く待ち続け、油断せず、祈っていようではないか。今は十字架を負うべき時、キリストの苦しみをともにすべき時である。だがキリストがその偉大な権威と支配をご自分のものとされる日は近づいている。その日、彼に忠実に仕えてきた者たちは十字架にかえて栄冠を受けることになるのである。

注記. ルカ1:26-33


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第1章34−38 御使いに対する処女マリヤの問いと、彼の答え

 これらの節で注目したいのは、御使いガブリエルが、いかにうやうやしく慎み深いしかたで、キリストの受肉という偉大な神秘について語っているか、ということである。処女マリヤの、「どうしてそのようなことになりえましょう」、との問いに答えた彼は、次のような尋常ならざる言葉を用いている。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます」。

 私たちは、この深遠な主題について思い巡らす際には常に、この御使いの模範にならうべきである。私たちは、常に聖なる畏敬の念をもってこの主題を扱うこととし、一部の人々が不幸にもふけってきたような、分をわきまえない無益で思弁的な憶測を巡らすことは厳に慎むようにしよう。私たちが知っておくべきなのは、「ことばは人となった」*ということ、神の御子がこの世に来られたときには真の「からだが造られた」*ということ、それは彼が「血と肉とを持つ」*ためであり、彼は「女から生まれた」、ということだけで十分である(ヨハ1:14; ヘブ10:5; 2:14; ガラ4:4)。ここで立ち止まらなくてはならない。これらすべてがどのように成し遂げられたかは、賢明にも私たちには隠されている。もし私たちがこの点を越えて詮索するなら、私たちは知識もなく云い分を述べて、摂理を暗くすることになり、御使いらも恐れて足を踏み入れない所に突進していくことになろう。真に天から下ってきた宗教には、神秘的な部分があって当然である。キリスト教のそうした神秘の1つが、受肉である。

 第二のこととして注目したいのは、受肉という偉大な神秘において、いかに顕著な地位が聖霊に与えられているか、ということである。ここには、「聖霊があなたの上に臨み」、と記されている。

 聖書の聡明な読者であれば間違いなく思い起こすであろうように、ここで聖霊に与えられている誉れは、聖書の他の箇所における教えと正確に調和している。人間の贖いという偉大なみわざのあらゆる段階において、私たちが見いだすのは、聖霊の働きが特別に言及されているということである。イエスは私たちの罪を贖うために死なれただろうか? 聖書には、「キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになった」、と書かれている(ヘブ9:14)。彼は私たちが義と認められるためによみがえられただろうか? 聖書には、彼が「御霊によって生かされ」た、と書かれている(Iペテ3:18[新改訳聖書欄外訳])。彼は、その初臨と再臨の間の時期に、ご自分の弟子たちに慰めを与えておられるだろうか? 聖書には、彼が遣わすと約束された慰め主は、「真理の御霊」である、と書かれている(ヨハ14:17)。

 私たちは注意して、神のみことばの中で聖霊が占めておられるのと同じ地位を、自分の信仰生活においても聖霊に与えようではないか。福音において信仰者が得ている恵み、与えられている特権、受けている祝福は、すべて聖霊の内的な教えのおかげだということを思い出そうではないか。三位一体の三位格それぞれのお働きは、あらゆる救われた魂の救いにとって、同等に、また余すところなく必要である。父なる神の選び、子なる神の血潮、御霊なる神の聖めは、決して私たちのキリスト教において分離されるべきではない。

 第三のこととして注目したいのは、受肉に対するすべての反論を封じるものとして、御使いガブリエルがいかに強大な原則を明らかにしているか、ということである。「神にとって不可能なことは一つもありません」。

 この偉大な原則を心から受け入れることは、私たち自身の内心の平安にとって途方もなく重要である。信仰の種々の内容に関する疑問や疑いは、しばしば人の思いに浮かんでくる。これは私たちの魂の堕落した状態から、どうしても出じざるをえないものである。私たちの信仰は、最上の状態にあっても、非常にもろい。私たちの知識は、最高の段階にあっても、弱さの暗雲が垂れ込めている。だが、疑いと不安と疑問に満ちた心の状態を打ち消すための、数ある解毒薬の中でも最も役に立つのは、まず間違いなく私たちの前にあるもの、----すなわち、神の全能の御力を完全に確信することであろう。無から世界を生じさせ、それを形作られたお方にとっては、あらゆることが可能である。主にとって難しすぎることは何1つない。

 いかなる罪も、赦されることができないほど悪逆で非道すぎるということはない。キリストの血は人をすべての罪からきよめる。----いかなる心も、変えることができないほどかたくなで邪悪すぎるということはない。石の心も肉の心にされることができる。----いかなる行ないも、信仰者にとって難しすぎるということはない。私たちは、自分を強くしてくださるキリストによって、どんなことでもできる。----いかなる試練も、耐えられないほど厳しいということはない。神の恵みは、私たちに十分である。----いかなる約束も、かなえられないほど素晴らしすぎるということはない。キリストのことばは決して滅びることがなく、彼には約束されたことを成就する力がある。----いかなる困難も、信仰者が打ち勝てないほど大きいということはない。神が私たちの味方であるのに、だれが私たちに敵対するだろうか? 山は平地となるのである。----こうした種々の原則を、絶えず思い起こすようにしていよう。ここで御使いが処方してくれたものは、測り知れぬほど貴重な治療薬である。信仰は、神の全能さという枕に頭を乗せたときほど、穏やかに、また安らかに休息できることはない。

 最後のこととして注目したいのは、処女マリヤが、自分に関する神の啓示を、いかに柔和に、また心から従順に受け入れたか、ということである。彼女は御使いに云っている。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」。

 この答えの中には、一見して認められるものより、はるかに大きな賞賛に値する恵みがふくまれている。ちょっと考えてみただけでも、この前代未聞の神秘的なしかたで私たちの主の母となることが、決して軽くないことであったことはわかる。疑いもなくそれは、遠い未来においては、非常な栄誉をもたらすことであった。しかし、その時点においては、決して小さくない危険をマリヤの評判にもたらし、決して小さくない試練をマリヤの信仰にもたらすものであった。しかし、こうした危険と試練のすべてを、聖処女は喜んで受け入れ、進んで引き受けたのである。彼女は、これ以上何の質問もしていない。これ以上何の異議も申し立てていない。ただ、自分の上に置かれた栄誉を、それに伴うあらゆる苦難と不都合とともに受け入れている。彼女は云う。「ほんとうに、私は主のはしためです」、と。

 私たちは、自分の日ごとの実際的な信仰生活において、ここで処女マリヤのうちに見られるのと同じ、ほむべき信仰の精神を働かせるようにしよう。神のみこころが明らかに示され、自分の義務の道がはっきりしている限り、現時点でどのような不都合がふりかかることになろうと、喜んでどこへでも行き、何でも行ない、何にでもなろうではないか。この箇所に対する善良なホール主教の言葉は、記憶に値するものである。「みこころを知った後でなされる神への口答えは、みな不信仰から生ずるのである。私たちの理性力と意志のすべてを、私たちの創造主のとりことし、何の反問もせずに、彼がお導きになる方向へ、盲目的に行くことほど高貴な信仰の証明はない」。

注記. ルカ1:34-38


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第1章39−45 処女マリヤのエリサベツ訪問

 この箇所で私たちが目をとめたいのは、信仰者同士が親しく交わることがいかに有益であるかということである。ここには、処女マリヤが親類のエリサベツを訪問したことが記されている。このように相会うことによって、この聖い女性たちの心がいかにわき立たせられたか、彼女たちの思いがいかに昂揚させられたかが、驚くべきしかたで語られている。この訪問がなければ、エリサベツは決してここで物語られているように聖霊に満たされることはなかったであろう。またマリヤも、決してその賛歌----現在あらゆるキリストの教会で知られている賛歌----を口にすることはなかったであろう。とある老聖徒の言葉は深く、真実である。「伝え合った幸福は二倍になる。包み隠すことによって悲嘆は増し加わり、表にあらわすことによって喜びは増し加わる」。

 私たちは常に他の信仰者との交わりを、きわめてすぐれた恵みの手段とみなすべきである。この狭き道をたどって旅しつつある私たちにとって、旅の仲間たちと互いに経験を分かち合うことは、心さわやかにさせられる小休止である。これは無意識のうちに私たちを助け、彼らを助け、互いにとっての得となる。これは、この地上で作り出しうる、天国の喜びに最も近いものである。「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる」[箴27:17]。私たちは、このことを思い出させられる必要がある。この主題が十分なほど注目されていないために、その結果として信仰者の魂が苦しんでいるのである。多くの人々は、主を恐れ、主の御名を尊ぶ者でありながら、互いに語り合うことを忘れている(マラ3:16)。まず私たちは神の御顔を求めよう。次に私たちは神の友たちの顔を求めたい。もし私たちがこのことをいやまさって行ない、自分のつきあう友人にもっと気をつけるなら、私たちは「聖霊に満たされる」とはどういう感じがするか、今よりずっと知ることが多くなるであろう。

 この箇所で私たちが目をとめたいのは、エリサベツの言葉に見られる、明確な霊的知識である。彼女が処女マリヤについて用いた表現を見ると、彼女自身が深く神によって教えられていたことがわかる。彼女はマリヤを「私の主の母」と呼んでいるのである。

 この「私の主」という言葉は、あまりにも私たちの耳になじんでいるため、その十分な意味が見失われている。この言葉には、それが語られた当時は、現在の私たちが思い浮かべるよりもはるかに大きな内容が含まれていたのである。これは、処女マリヤから生まれる子が遠い昔から約束されていたメシヤであり、ダビデが霊において「主」と預言したお方であり、神のキリストであるという、明確な宣言以下の何物でもなかった。この光に照らしてみると、この云い回しは驚くべき信仰の模範である。これは、ペテロがキリストに向かって述べた、「あなたはキリストです」、との告白に比肩しうる尊い告白である。

 私たちはこの「私の主」という言葉の深い意味を忘れることなく、この言葉を軽々しく、ぞんざいに使わないよう用心しよう。この言葉が正当にあてはまるのは、カルバリの丘で私たちの罪のため十字架にかけられたお方だけであることを考えよう。ある箇所にはこう書かれている。「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』と言うことはできません」。別の箇所にはこう書かれている。「すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられる」(Iコリ12:3; ピリ2:11)。

 最後に、これらの節で目をとめたいのは、エリサベツが信仰の恵みに対して与えている高い賞賛である。彼女は云う。「信じきった人は、何と幸いなことでしょう」。

 この聖い婦人がこのように信仰を推賞していることに驚く必要はない。疑いもなく彼女は旧約聖書によく通じていた。彼女は、信仰が成し遂げたいくつもの偉業を知っていた。あらゆる時代における神の聖徒らの歴史はみな、信仰によってあかしされた男女の記録でなくて何であろう? アベル以来の単純な筋立てはみな、贖われた罪人たちが信仰を持ち、祝福されていった物語でなくて何であろう? 信仰によって彼らは約束を喜び迎えていた。信仰によって彼らは生きた。信仰によって彼らは艱難を忍び通した。信仰によって彼らは目に見えない救い主を待ち望み、後に来るすばらしいものを待ち望んだ。信仰によって彼らは世と、肉と、悪魔と戦った。信仰によって彼らは勝利を得て、無事にわが家に帰り着いた。この敬虔な一団のひとりであることを処女マリヤは証明していたのである。エリサベツが、「信じきった人は、何と幸いなことでしょう」、と云ったのも不思議ではない。

 私たちはこの尊い信仰について、いくばくなりとも知っているだろうか? 神に選ばれた人々の信仰と、神の力を信じる信仰について、いくばくなりとも知っているだろうか(テト1:1; コロ2:12)? 私たちはそれを体験的に知るまで決して安心しないようにしよう。そして一度それを知ったなら、自分の信仰が大きく成長するように、決してうむことなく祈り続けよう。黄金に富むよりも信仰に富む方が千倍もすぐれている。黄金など、私たち全員の旅の行き先にある、目に見えない世界では何の価値もない。その世界では、父なる神と聖い御使いたちの前で信仰の真価が認められるであろう。大きな白い御座が据えられ、数々の書物が開かれ、死者が墓から召し出されて、その最終的な宣告を受けるとき、信仰がいかに価値あるものであったかがついに余すところなく知られることとなる。そのとき人々は、たとえそれ以前にさとっていなかったとしても、この言葉がいかに真実であるかをさとるであろう。「信じきった人は、何と幸いなことでしょう」。

注記. ルカ1:39-45


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第1章46−56 処女マリヤの賛歌

 これらの節にふくまれているのは、処女マリヤが、「私たちの主の母」となることを展望して歌った、有名な賛歌である。----おそらく「主の祈り」に次いで、これほどよく知られた聖書箇所はないかもしれない。英国国教会の祈祷書が使われている所であればどこでも、この賛歌が夕拝の中に組み込まれている。贖い主のあわれみを、これほど適切に表現している言葉は他になく、これはキリストの教会のあらゆる教派で、公の礼拝の一部とされるべきものである。

 第一に注意したいのは、この賛歌に示されている幅広い聖書知識である。これを読み進むうちに私たちは、詩篇に出てくる多くの表現が彷彿とするのを覚える。何よりも思い出されるのは、サムエル記にあるハンナの歌である(Iサム2:2以下)。明らかにこのほむべき処女は、聖書の多くの箇所を暗記していた。彼女は、耳で聞くか目で読むかして、旧約聖書に親しんでいた。それで彼女は、感極まって言葉が口にほとばしり出たとき、自分の感情を聖書の言葉で表出させたのである。聖霊によって感動させられ、賛美をあふれ出させられた彼女は、聖霊が過去すでに聖別し、お用いになった言葉を選んでいるのである。

 私たちは努めて、生きる限りは年々歳々、より深く聖書に通じていくようにしよう。聖書を学び、聖書を探り、聖書を調べ、聖書を黙想して、聖書を私たちのうちに豊かに住ませるようにしよう(コロ3:16)。特に、詩篇のように、古の聖徒たちの経験が書きつづられた聖書箇所に親しむように努めよう。それは私たちが神に近づく歩みをする上で、非常に役に立つであろう。そこから私たちは、自分の願いであれ感謝であれ、最良に、また最適に云い表わせるような言葉を授けられるであろう。疑いもなくそうした聖書知識に到達するには、規則正しく毎日学び続けるしか`ない。しかしそうした学びに費やされた時間は決して無駄に費やされはしない。ずっと後の日になって、それは実を結ぶであろう。

 この賛歌において第二に注意したいのは、処女マリヤの深いへりくだりである。神から選ばれて、メシヤの母親になるとの高い栄誉を与えられた彼女は、自分の「卑しさ」について語り、自分に「救い主」が必要であることを認めている。彼女は、自分が罪なく「無原罪の」人格であると自負しているかのような言葉を一言ももらしていない。むしろ逆に、彼女の用いている言葉づかいは、神の恵みによって自分のもろもろの罪を深く教えられた者、他人を救えるどころか自分の魂のため救い主を必要としている者の言葉である。私たちはこう断言してもよいと思う。ローマカトリック教会が処女マリヤにささげている栄誉を、だれよりも熱心に非難するのは、当の処女マリヤ自身にほかならないであろう、と。

 私たちは、私たちの主の母を仲保者とみなしたり、彼女に祈ったりすることは堅く拒否しつつも、彼女のこのへりくだりは見習おうではないか。彼女のように私たちは、自分を卑しい者とみなし、思い上がらないようにしよう。へりくだりはキリスト者の人格を飾る最高の恵みである。ある老聖徒がいみじくもこう述べている。「人にどれだけキリスト教が身についているかは、その人がどれだけへりくだりを身につけているかにひとしい」。これは、あらゆる恵みの中で最も人間性にふさわしい恵みである。何にもまして、これは回心したあらゆる人の手の届くところにある恵みである。すべての人が裕福であるわけではない。すべての人に学問があるわけではない。すべての人が豊かな賜物に恵まれているわけではない。すべての人が説教者ではない。しかし、すべての神の子らはへりくだりを身にまとうことができるのである。

 第三に注意したいのは、処女マリヤがいかに生き生きとした感謝をささげているかということである。それは、彼女の賛歌の前半をほぼ全面的にいろどる特徴である。彼女の「たましいは主をあがめ」ている。彼女の「霊は……神を喜びたたえ」ている。「どの時代の人々も、彼女をしあわせ者と思う」*であろう。「力ある方が、彼女に大きなことをして」*くださった。私たちには、聖いユダヤ人女性がマリヤのような立場に置かれたとき、どれほどの感情的高まりを覚えるものか、知りつくすこことはまずできないであろう。しかし私たちは、彼女が繰り返し云い表わしている賛美の言葉を読みつつ、努めてそれを想起してみるようにすべきである。

 私たちはこの点においてマリヤの足どりにならうこと、すなわち、感謝に満ちた心持ちを養うことによっても、益を受けるであろう。これこそ、あらゆる時代における神の最も傑出した聖徒たちのしるしであった。旧約聖書におけるダビデ、新約聖書における聖パウロは、その感謝の念において並々ならぬものがある。彼らの書いたものを多少とも読み進めるとき、彼らが神をほめたたえている箇所に行き当たらずにはいられない。私たちは毎朝、床から起きあがるたびに、自分が負債者であり、自分に値する分をはるかに越えたあわれみを日々与えられている者であるとの深い確信を新たにしようではないか。私たちは毎週、この世を旅しながら、身の回りを見渡し、何か神に大いに感謝すべきことがないかどうか見てみよう。私たちの心が正しく整えられていさえすれば、決してエベン・エゼルの碑を建立するのに苦労はあるまい。私たちの祈りと願いがもっと感謝の入り交じるものであれば、どんなによいことかと思う(Iサム7:12; ピリ4:6)。

 第四に注意したいのは、過去における、ご自分の民に対する神のお取り扱いについての経験的な知識を、いかに処女マリヤが身につけていたかということである。彼女は神を、「そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に及ぶ」お方と語り、----「心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろし、富む者を何も持たせないで追い返される」*お方、----「低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ」るお方であると語っている。疑いもなく彼女は、旧約聖書の歴史を思い起こしつつ語っているに違いない。彼女は、イスラエルの神がいかにパロや、カナン人や、ペリシテ人や、セナケリブや、ハマンや、ベルシャツァルをひねりつぶしたかを記憶していた。神がいかにヨセフや、モーセや、サムエルや、ダビデや、エステルや、ダニエルを高く引き上げ、ご自分のえり抜きの民が決して滅ぼしつくされないように守ってくださったかを記憶していた。そして彼女に対する神のお取り扱いのすべてにおいて、----ナザレの貧しい女に栄誉を着せ----ユダヤの国があたかも涸れきった土地となり果てたかのような時を選んでメシヤを引き起こす----、こうしたすべてにおいて、彼女はイスラエルの契約の神の手のわざを思い巡らしていた。

 真のキリスト者は常に聖書の歴史に、また個々の聖徒たちの生涯に、注意深く目を配っているべきである。私たちはしばしば「群れの足跡」を吟味しようではないか(雅1:8)。そうした学びによって私たちは、神がご自分の民をどのように扱われるかがさとられてくる。神の心は変わらない。過去において神が御民のために、また御民に対してなされたことは、今後も同じようになされると考えられる。そうした学びによって私たちは、何を期待すべきかを教えられ、何を期待する権利がないかを教えられ、打ちひしがれた心への励ましが与えられる。幸いなのは、その心にこうした知識をふんだんに蓄えている人である。それによって、そういう人は忍耐と希望に満ちた人になれる。

 最後に注意したいのは、処女マリヤが、聖書の種々の約束をいかに堅くつかんでいたかということである。彼女はその賛歌のしめくくりにあたって、神は「そのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました」、と宣言し、それは、「私たちの先祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです」、と云いきっている。これらの言葉からはっきりわかるように彼女は、神がアブラハムに語られた、「あなたによって地のすべての国民が祝福される」、との古い約束を覚えていた。そして、明らかに彼女は、来たるべき彼女の子の誕生において、この約束が成就されようとしていると考えていた。

 私たちは、この聖い女性の模範から、聖書の種々の約束を堅く握ることを学ぼうではないか。そうすることは私たちの平安にとって、この上もなく重要なことである。事実、種々の約束は、この世の荒野を旅する私たちが日ごとに食すべきマナであり、日ごとに飲むべき水である。私たちは、今でもなお、すべてのものが私たちに従わせられているのを見てはいない。キリストをも、天国をも、いのちの書をも、私たちのために備えられた住まいをも見てはいない。私たちは信仰によって歩んでおり、この信仰は約束を頼みとしている。しかしこうした約束に、私たちは全幅の信頼をもってより頼むことができる。それらは、私たちがよりかかるすべての重みを受けとめることができる。私たちはいつの日か処女マリヤのように知ることになろう。神はご自分のことばを守るお方であり、お語りになったことを必ず、時至って成し遂げられるお方である、と。

注記. ルカ1:46-56


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第1章57−66 バプテスマのヨハネの誕生

 この箇所には、ひとりの赤子が誕生した次第が記されている。ここでその誕生が物語られているのは、教会の中に燃えて輝くともしび、キリストご自身の先駆け----バプテスマのヨハネにほかならない。聖霊がこの出来事を叙述するにあたって用いている言葉は、注目に値する。ここには、「主がエリサベツに大きなあわれみをおかけになった」、と書かれている。彼女がその産みの苦しみを無事に乗り切れたのは、あわれみであった。彼女が健やかな赤子を産めたことは、あわれみであった。幸いなのは、自分の家庭のあらゆる出産をこのような光において----主の特別な「あわれみ」の機会として----受けとめている一家である。

 私たちがエリサベツの近所の人々や親族のふるまいにおいて見るのは、私たちが互いに負い合わなくてはならない親切心の驚くべき模範である。ここには、彼らが「彼女とともに喜んだ」、と書かれている。

 このエリサベツの親類たちのようなふるまいがもっと頻繁に見られるならば、このよこしまな世界においても、何といやまさる幸せがあることであろうか! 互いの喜びや悲しみに同情を寄せることは、元手はほとんどかからないが、この上もなく強大な力のある恵みである。何かの巨大な蒸気機関の車輪に注した油のように、それは些細な、取るに足らないようなものに見えるが、その実、社会を成り立たせている仕組み全体を円滑にし、うまく動かすことのできる、途方もなく重要なものなのである。祝い事や悔やみ事のあるときに語られた親切な言葉は、ほんの一言でもめったに忘れ去られることがない。良い知らせによって暖められた心、あるいは患難によって苦しめられた心は、特に感じやすくなっており、そうした心に対する同情心はしばしば黄金よりもずっと貴重なものなのである。

 キリストのしもべはこの恵みを覚えているがいい。それは、「小さなもの」と見えるし、絶えざる論争の轟音や、重大教理に関わる戦いの渦中にあっては、悲しいほどに見過ごされがちなものである。しかしそれは、荒野に置き忘れてきてはならない幕屋の釘の1つである。それは、キリスト者の性格を人々の目に美しいものとする飾りの1つである。忘れてならないのは、これは、特別な戒めによって命ぜられたことだ、ということである。「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」(ロマ12:15)。これを実行する者には、特別な祝福が天から下ると思われる。ベタニヤのマリヤとマルタを慰めに来たユダヤ人らは、イエスがかつて行なわれた中でも最大の奇蹟を目にすることになった。----何よりも、それは最も完全な模範によって私たちに命ぜられている。私たちの主は、婚礼の席に行くことも、墓の前で泣くことも躊躇なさらなかった(ヨハ2:1以下: ヨハ11:1以下)。私たちも常に、行って同じようにしようではないか。

 私たちがこの箇所のザカリヤのふるまいにおいて見るのは、患難のもたらす益の驚くべき一例である。彼は、生まれた息子に彼自身の名前をつけたがっている親類たちに抵抗している。彼は「ヨハネ」という名前に固執している。御使いガブリエルが名づけるように命じた名前である。彼がここで示しているのは、九箇月もの間、彼が口をきけなくさせられていたのは無駄ではなかった、ということである。彼はもはや信じない者ではなく、信じる者となっている。今や彼はガブリエルが彼に語った一言一句を信じており、彼の使信の一言一句に従おうとしている。

 疑うまでもなく、過去の九箇月間は、ザカリヤの魂にとって最も有益な期間であった。おそらく彼は、自分の魂について、また神について、それ以前のいかなる時にもまさって多くを学んだであろう。彼のふるまいがそれを示している。矯正は、訓練を受けた証拠である。彼は自分の不信仰を恥じていた。ヨブのように彼は云えたであろう。「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました」、と。ヒゼキヤのように彼は、主から捨て置かれたときに、自分の心にあることをことごとく知ったのである(ヨブ42:5; II歴32:31)。

 私たちは、ザカリヤがそうだったように、患難を転じて福となすよう心がけようではないか。私たちは、罪の重みにたわむ世界では困難を避けることができない。人は生まれると苦しみに会う。火花が上に飛ぶように(ヨブ5:7)。しかし困難に遭うとき私たちは、「聞け。杖に、そしてそれを定める者に」、との声に従い、その杖によって知恵を学び、神に対して心をかたくなにしないように熱心に祈ろうではないか[ミカ6:9 <英欽定訳>]。「聖められた患難は、霊の前進をもたらす」、と昔の神学者は語っている。私たちをへりくだらせ、神のみそばに私たちを追いやるような悲しみは祝福であり、まぎれもない利益である。この世で最も絶望的な人とは、苦しみに遭うとき神に背を向ける者にほかならない。ユダの王のひとりには、恐るべき証言が突きつけられている。「アッシリヤの王が彼を悩ましたとき、このアハズ王は、ますます主に対して不信の罪を犯した」(II歴28:22)。

 私たちがバプテスマのヨハネの幼年期の物語に見るのは、私たちが自分の子どもたち全員のために願い求めるべき祝福の性質である。ここには、「主の御手が彼とともにあった」、と書いてある。

 この言葉が何を意味しているか明確には語られていない。その意味を推測するよすがとなるのはただ、ヨハネの誕生前になされていた約束と、ヨハネがその一生の間送った生活だけである。しかし、疑いもなく、主の御手がヨハネとともにあったのは、彼を聖め、彼の心を新しくするためであった----彼を教えてその職務にふさわしいものとするため----彼を強めて、神の子羊の先駆けとしての働きにつかせるため----彼を励まして、人々の罪に対して容赦なくその大胆な糾弾を行なわせるため----彼を、獄中で斬首の憂き目にあうその最後の時にも慰めるためであった。私たちは、彼が母の胎の中にあるときから聖霊に満たされていたことを知っている。ではごく幼少のうちから、彼の行く手に、すでに聖霊の恵みが現われていたことを疑う必要はないであろう。少年時代も成人してからも、彼のうちには、徹底的な正義を要求する、上からの、人を従わせる力が現われていた。その力が「主の御手」であった。

 これこそ私たちが自分の子どもたちのために求めなくてはならない分け前である。それは最良の分け前、最も幸いな分け前、決して失われることがなく、墓の彼方に行っても残る唯一の分け前である。わが子が、教師や指導者らから「手塩に」かけてもらうのは悪くない。しかし、それよりはるかにまさるのは、わが子に「主の御手」が伴うことである。私たちは、わが子が有力者や財産家の引き立てを得ることになったとしたら感謝するであろう。しかし、私たちがはるかに心を配らなくてはならないのは、わが子が神のいつくしみを得るようになることである。主の御手は、ヘロデの手の千倍もまさっている。一方は柔弱で、愚昧で、頼りない。今日はちやほやしていたかと思うと、翌日には首を切るのである。もう一方の手は全能で、全知で、不変である。いったん握りしめたものは永遠に手放すことがない。神はほむべきかな。主は決してお変わりにならない。主はバプテスマのヨハネの時代にそうあられたのと、今も全く同じであられる。主は、ザカリヤの子のためになされたことを、今も私たちの息子や娘のためになすことがおできになる。しかし主は私たちの嘆願を待っておられる。もしわが子に主の御手がともにあってほしければ、私たちは熱心にそれを求めなくてはならない。

注記. ルカ1:57-66


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第1章67−80 ザカリヤの発した預言と賛歌

 この箇所で私たちの注意を引くのは、もう1つの賛歌である。私たちはすでに、私たちの主の母マリヤの感謝の歌を読んだ。今度は、バプテスマのヨハネの父ザカリヤの感謝の歌を読んでいこう。私たちはすでに、キリストの最初の来臨がダビデの家系の処女からいかなる賛美を引き出したか聞いてきた。今度は、それが年老いた祭司からいかなる賛美を引き出しているか聞いていこう。

 第一に私たちが注意すべきことは、メシヤの出現を前にした一ユダヤ人信者の心に、いかに深い感謝の念が満ちあふれているかということである。口のきけない状態が取り除かれ、話せるようになるや否や、最初にザカリヤの口から出てきたのは、神をほめたたえる言葉であった。彼は、聖パウロがその書簡のいくつかを書き始めているのと同じ表現を用いて語り出している。「ほめたたえよ。主を」[IIコリ1:3; エペ1:3参照]。

 世界のこのような時期に生きている私たちには、この善良な人物の感慨深さはほとんど理解できないであろう。私たちは彼の身になって想像してみなくてはならない。自分は旧約聖書の最古の約束----救い主の約束----の成就を見ようとしているのだ、また、その約束の実現が間近に迫りつつあるのを目の当たりにしているのだ、と。私たちは、キリストが現実に世に現われて、影や型が過ぎ去る前の時代の人々が、福音についていかにぼんやりとした、不完全な見方しかできなかったかを思い描いてみなくてはならない。そのとき私たちは、ザカリヤが「ほめたたえよ。主を」、と叫んだときの感動をいささかなりとも感じとれるかもしれない。

 残念ながらキリスト者たちは、福音の全き光に浴して生きられるという、自分の驚くべき特権について、非常に低く不適切な考えしかいだいていないのではなかろうか。私たちはおそらく、現在とくらべたユダヤ教時代の経綸のおぼろさ、薄暗さについて、ごく不十分にしか思い及ばないであろう。私たちは、キリストの受肉以前の教会がどのようなものでなくてはならなかったか、非常にあいまいにしか考えられない。私たちは目を開いて、自分の受けている恩恵の大きさをはっきり知ろうではないか。ザカリヤの模範を見習って、いやまさって感謝しようではないか。

 私たちがこの賛歌において第二に注意すべきことは、神がその数々の約束を成就なさったことを、ザカリヤがいかに重要視しているかということである。彼は、神が「その民を顧みて、贖いをな」さった、と宣言した。それは、確実に起こることを示す預言者的な語法によって、すでに実現したこととして語られている。彼がさらに宣布しているのは、その贖いの器----「救いの角」----ダビデの家系の強大な救い主のことである。それから彼は、これらすべてがなされたのは、「その聖なる預言者たちの口を通して、主が話してくださったとおり」であり、----約束された「あわれみを施し」、----「その聖なる契約を」覚え、----「われらの父アブラハムに誓われた誓いを覚えて」のことであると云い足している。

 ここから明らかなのは、旧約時代の信仰者は、神の数々の約束を大いに魂の糧としていた、ということである。彼らは、私たちよりもはるかに信仰によって歩むことを余儀なくされていた。彼らは、私たちがキリストの生涯と死と復活について知っているような偉大な事実を何1つ知らなかった。彼らが待ち望んでいた贖いは、希望の対象ではあったが、だれも目にしたことのないものであった。----そして、彼らがその希望の保証として持っていたのは、神の契約のみことばだけであった。彼らの信仰は、私たちを恥じ入らせてしかるべきである。----私たちは、一部の人々が常としているように、旧約時代の信仰者らを見下すどころか、彼らがあのような信仰に達していたことに驚嘆するのでなくてはならない。

 私たちはザカリヤがしたように、数々の約束を頼りとし、それらを堅く握りしめようではないか。神が御民の未来について語られたおことばは、過去について語られたおことばが一言一句違わずに成就したのと同じくらい確実に、一言一句違わず成就することを疑わないようにしようではないか。神の民の安全は約束によって保証されている。世と肉と悪魔は、いかなる信仰者をも決して打ち負かすことはない。----彼らが最後の日に放免されることは約束によって保証されているのである。彼らは罪に定められることなく、しみ1つない者として御父の御座の前に立つことになる。----彼らの最終的栄光は約束によって保証されているのである。彼らの救い主は、最初やって来られたのと同じくらい確実に再びやって来られる。----その聖徒らをまとめあげ、彼らの義の冠を授けるためにやって来られる。----こうした約束を私たちは確信しようではないか。これらを堅く握って、手放さないようにしようではないか。これらは決して私たちを失望させることはない。神のことばは決して廃棄されることはない。神は人間ではなく、偽りを云うことがない。私たちは、ザカリヤが決して見ることのなかった証印があらゆる約束に押されているのを見ている。私たちにはキリストの血という証印があり、それによって、神は約束なさったことを成し遂げてくださると保証されているのである。

 私たちがこの賛歌において第三に注意すべきことは、キリストの御国について、いかにザカリヤが明確な見方をしていたかということである。彼は、「敵の手から救い出」されることについて、あたかも地上の王国や、異邦人国家からの地上的な救い主について語るかのように語っている。しかし彼はそこで終わっていない。彼が宣言しているのは、メシヤの王国において彼の民が、「きよく、正しく 恐れなく、主の御前に仕える」ようになる、ということである。彼の宣言によれば、この王国はすぐそこまで来ていた。古の預言者たちは、それがいつの日か打ち立てられるだろうと予言した。だがザカリヤは、彼の息子バプテスマのヨハネの誕生において、そして間近に迫ったキリストの到来において、この王国がすぐ近くまで来ていることをさとっていた。

 このメシヤ王国の土台は、福音の宣教によって据えられた。そのとき以来主イエスは、絶えずこの邪悪な世界から臣民を集めておられる。その王国は、まだ最終的な完成に至っていない。いと高き方の聖徒らはいつの日か完全に支配することになる。福音の王国という小さな石は、まだ全土に満ちてはいない。しかし、未完成の状態であれ完成した状態であれ、その王国の臣民は常に同じ1つの性格をしている。彼らは、「恐れなく神に仕える」のである。「きよく、正しく」神に仕えるのである。

 私たちはあらゆる努力を払って熱心にこの王国に属するよう努めようではないか。今は小さく見えるとしても、これはいつの日か偉大な、栄え輝く国となる。「きよく、正しく」神に仕える人々は、いつの日か万物が彼らに従わせられるのを見ることになる。あらゆる敵が征服され、彼らはあの、義の住まう新しい天と新しい地とで永遠に王となるのである。

 私たちが最後に注目すべきことは、ザカリヤがいかに明確な教理を把握していたかということである。彼はその賛歌のしめくくりで、生まれたばかりの息子バプテスマのヨハネに語りかけている。彼の予言によれば、その幼子は、メシヤの「御前に先立って行き」、メシヤが持ち来たらそうとしている「救いの知識を与える」ことになる。----それは、すべてが恵みとあわれみによるような救い、----「罪の赦し」と、「照らし」出す光と、「平和」とを、その主たる特権とするような救いである。

 この章を読み終えるにあたり私たちは、自分がこうした3つの輝かしい特権について何を知っているか吟味してみよう。私たちは赦しについて何か知っているだろうか? 私たちは暗やみから光に立ち返らされているだろうか? 私たちは神との平和を味わい知っているだろうか? 結局のところ、これらこそキリスト教の実質なのである。これらがなければ、教会員籍があろうが聖礼典を受けようが、いかなる者の魂も救われない。これらを体験的に知るまで私たちは決して安心しないようにしよう。----あわれみと恵みが、これらを準備してくれた。あわれみと恵みが、これらをキリストの御名を呼び求めるすべての者に授けるであろう。----私たちは、御霊が私たちの霊とともに、私たちの罪が赦されたと証ししてくださるまで、決して安心しないようにしよう。----私たちが暗闇から光へ移ったと、また私たちが現実に今、狭い道を、平和の道を歩んでいることを証ししてくださるまで、決して安心しないようにしよう。

注記. ルカ1:67-80

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