注記. ルカ1:1-4

[ルカの福音書] 聖ルカについて知られていることはごく僅かである。ある人々の憶測によれば、彼は十二使徒に加えて私たちの主から遣わされた七十人の弟子(ルカ10:1)の一人であった。彼が聖パウロの伝道旅行の同行者であったこと、また彼が「医者」であったこと(コロ4:14)を疑う理由は何もないように思われる。一部の人々の考えによると、彼の職業が医者であったことは、私たちの主が種々の病を奇蹟的に癒された出来事の叙述のしかたに窺うことができ----彼が聖パウロの同行者であったことは、神の栄光や罪人に対するキリストの愛といった主題についての語り口から窺えるという。一般に認められているのは、彼の福音書が、ユダヤ人よりは異邦人の回心者を特に念頭に置いて書かれたということである。オーリゲネース、ヒエローニュムス、クリュソストモス、アンブロシウス、その他の人々の考えによれば、聖パウロはルカとその福音書を指して、「ひとりの兄弟……は、福音の働きによって……称賛されています」(IIコリ8:18)と書いたのだという。----しかしながら、それは非常に疑問である。[本文に戻る]

1節----[多くの人が……すでに試みておりますので] この「多くの人」がだれであったか私たちにはわかっていない。彼らの執筆意図がよこしまなものであったなどと云うべき理由は何1つない。聖ルカが云おうとしているのは単に、彼らは神の召命も霊感も受けずに書いたということにすぎないと思われる。また確かに彼の述べているのはマタイやマルコのことではない。アンブロシウスはこう云っている。「マタイは書こうと試みはしなかったし、マルコも、ヨハネも、ルカもそのようなことはしなかった。彼らは、神の御霊によってすべての言葉と内容を与えられるままに、何の努力もなしに始めたことを成し遂げたのである」。[本文に戻る]

 [出来事について……記事に] この文章の原文のギリシャ語を一目見ればわかるが、「について」という言葉は前置詞に解釈されなくてはならず、「〜に関して」、「〜を対象として」という意味である。[本文に戻る]

 [すでに確信されている] こう翻訳されている言葉は、アブラハムについて語られたときには、「堅く信じた」(ロマ4:21)と、福音宣教について語られたときには、「余すところなく宣べ伝えられ」(IIテモ4:17)と訳されている。ズイーツァーに引用されたテオフュラクトゥスの定義によれば、これは、「多くの議論によって十分に証明された物事」を意味するという。[本文に戻る]

2節----[みことば] ある人々はこれを、「人となっ」た「ことば」(ヨハ1:14)、主イエス・キリストのことであると考える。しかしながら、よりありそうに思えることは、これは書かれたみことば、あるいは福音のことば、ととるべきだという立場である。主イエスが、ヨハネ以外の新約聖書の記者から一度でも「ことば」と呼ばれているかどうかは判然としていない。[本文に戻る]

3節----[初めから] こう翻訳されているギリシャ語は、字義通りには「上から」という意味である。ヨハ3:31、19:11、ヤコ1:17、3:15、3:17では、そのように訳されている。ゴマールスおよびライトフットの考えによれば、これはここでもそうした意味に解されるべきであって、これはルカの霊感を主張しているのだという。その場合、この表現の意味は、「すべてのことを上から、神の霊感または教えによって正確に記録しておりますから」、となるであろう。しかし大多数の注解者は、英欽定訳聖書の翻訳者たちと意見を同じくしている。聖書の記者たちは、通常自分の霊感を主張していない。使26:5では、この言葉は、「以前から」、と訳されている。[本文に戻る]

 [順序を立てて] ここで注意しなくてはならないのは、この表現は、聖ルカが主イエスの生涯の主な出来事を、他の福音書記者たちよりも、より時間的順序に沿って記述していると云っているのではない、ということである。むしろこれが示しているのは、彼は、自分が記録するよう霊感を受けた主要な事実を系統立ててまとめ、きちんと分類した、ということである。ワトソンは述べている。「ルカはマタイやマルコよりも時間的順序は重んじず、種々の出来事の筋道を物語るより、それらを分類している。----古代の著述家が歴史を叙述するしかたとしてまれなことではない」。A・クラークは、スエトニウスによるアウグストゥス伝におけるこうした実例を挙げている。キャンベルの意見では、「順序を立てて」と翻訳された言葉は、「必ずしも時間に関係してはない。その適切な意味合いは、『雑然と、一般的に、というあり方とは対立するものとしての、区別して、個別に』、ということである」。[本文に戻る]

 [テオピロ] この人物について確かなことは何1つ分かっていない。大体の人々の意見は、彼がキリスト者となった一異邦人であり、高い役職についていて、聖ルカは、私たちには知られていない種々の賢明な理由によって、この人物に宛ててその福音書を書くよう導かれたのだ、というものである。「尊敬する……殿」という表現を見ると、彼はただの庶民ではなかったと思われる。これと同じ表現を用いて聖パウロ[およびテルトロ]は、ペリクスやフェストに話しかけている(使24:2; 26:25)。[本文に戻る]

4節----[正確な事実であること] これは、使5:23およびIテサ5:3において、それぞれ「完全」、「安全」、と翻訳されたのと同じ言葉である。[本文に戻る]

注記. ルカ1:5-12

5節----[アビヤの組] アロンの子孫には、こうした組が二十四あって、神殿の奉仕を分担していた。アビヤ、またはアビアの組は、最初の組分けがなされたときには、八番目の組であった(I歴24:10)。ホール主教はこう述べている。「連綿と続く律法的奉仕の任期は、決して途切れることのない系譜の中に持続した。見捨てられた、みじめな教会の中においてすら、個人的な継承はありうる。彼らがウリムとトンミムを失い、教理と作法との真摯さを失ってしまってから、この一事にすぐれたユダヤ人の何と少なかったことか! 彼らは正当な教えと儀式は有しながらも、キリストを十字架につけたのである。受け継がれていくまことと聖さこそ、教会を形づくり、義とするものである」。[本文に戻る]

 [彼の妻はアロンの子孫で] ワトソンはこう述べている。「それでも彼女は、ユダの部族に属するマリヤの親類であった。これは何代か前に他部族間の結婚があったことを示唆している。祭司は、イスラエルのどの部族と姻戚関係になることもできた。律法は、土地を相続する娘の結婚相手を同部族の者に限っていたが、それ以外の娘たちには何の制限も設けていない。土地に何の相続分も持たないレビ部族についても全く同様である」。[本文に戻る]

6節----[定め] こう翻訳されたギリシャ語は、旧約聖書の七十人訳では、英欽定訳で「さばき」(judgments)と翻訳された言葉を示すために用いられている。出21;1; 24:3を参照されたい。[本文に戻る]

10節----[大ぜいの民はみな、外で祈っていた] ライトフットはこの箇所についてこう述べている。「祭司が香をささげるため聖所に入ったときには、小さな鐘の音によってすべての人の注意が促され、今が祈りのときであると知らされた」(ライトフット、第12巻 p.16)。[本文に戻る]

11節----[主の使いが彼に現われて] ホール主教はこう述べている。「御使いの存在そのものは何ら新奇なことではない。新奇なのは、その出現である。彼らは常に私たちとともにいるが、めったに姿を現わすことはなく、彼らの姿を目にしたときに私たちが、その御告げを大いに恐れかしこむようにしているのである」。[本文に戻る]

注記. ルカ1:13-17

13節----[名をヨハネと] ヨハネという言葉には、「主の恵み、賜物、あるいはあわれみ」という意味がある(クルーデン)。[本文に戻る]

15節----[ぶどう酒も強い酒も飲まず] ここから明らかなのは、バプテスマのヨハネはナジル人、すなわち、特別な誓願によって主のため聖別された者であった、ということである。[本文に戻る]

17節----[エリヤの霊と力] この表現に対するテオフュラクトゥスの適切な注釈によれば、「エリヤがキリストの再臨の先駆者であるように、ヨハネもキリストの初臨の先駆者なのである」。ここで注意深く銘記しておきたいのは、ガブリエルはヨハネがエリヤそのひとであると云ってはおらず、彼が「エリヤの霊と力で」前ぶれをする、と云っているのだということである。マラキの預言の成就たるべき、エリヤの真の来臨は、おそらくは今後起こるべきことである。[本文に戻る]

 [父たちの心を子供たちに向けさせ] これは謎めいた困難な表現であり、注解者たちを大いに困惑させていると思われる。最も有望な説明は、デ・ディユによるものである。彼の意見によれば、この表現は、「子どもたちに重ねて父たちを、あるいは、子どもたちとともに父たちを(the fathers upon, or togerther with, the children)」、という意味である。----すなわち、あらゆる年齢の、またあらゆる種類の人々----親たちも子どもたちもともどもに、を指している。彼はこの見解を支持するものとして、七十人訳の出エジプト記12:8をあげている。モンターヌス、ヴァタブリュ、バラディウス、ハモンド、ワトソンも同意見をとる。ベンゲルもこの立場をとっており、これを支持するものとして、七十人訳の創世記32:11を引用している。

(訳注)とはいえ、LewisとVincentの訳による『ベンゲルの新約注解』の該当個所を見ると、このベンゲルの解釈に対するMeyerおよびDe Wetteによる反論が挿入されているので話はややこしい('Bengel's New Testament Commentary,' Kregel, 1981, Vol.1, p.383)。[本文に戻る]

注記. ルカ1:18-25

18節----[私は何によってそれを知ることができましょうか。] ザカリヤのこの問いと、処女マリヤの問い(34節)には、大きな違いがあることに注意しよう。ザカリヤの問いには、御使いが告知したこと全体に対する疑いが込められていた。マリヤの問いは、その出来事を疑う気持ちを全くふくんでおらず、ただその実現のしかたに対して向けられたものにすぎなかった。[本文に戻る]

19節----[ガブリエル] ガブリエルという言葉は、「神はわが力」、または「神の人」、または「神の力」を意味する(クルーデン)。これは、聖書の中で、御使いの名前が明確に示されている唯一の例である。ダニ10:21や12:1における「ミカエル」は、黙12:7と比較してみると、おそらく主イエスを指していると思われる。[本文に戻る]

20節----[おし] この表現を62節とくらべてみると、ザカリヤがおしになっただけでなく、耳しいにもなっていたことは、まず間違いない。さもなければ、友人たちはなぜ彼に身振りで合図する必要があっただろうか?[本文に戻る]

注記. ルカ1:26-33

27節----[この処女は、……いいなずけで] 私たちは、ここに見られる賢明な摂理を見落とさないようにしよう。私たちの主の母は、処女ではあったが、「いいなづけ」のある処女だったのである。これによって、彼女の評判は口さがない人々から守られることができた。また、彼女が弱さと必要を覚えるときに、彼女の助け手、守り手が備えられていることとなった。[本文に戻る]

28節----[恵まれた方] この言葉を「恵みに満ちた方」とするローマカトリックじみた翻訳は、英欽定訳の翻訳ほど原語の意味をよく伝えてはおらず、ずっと恥ずべき曲解に陥らせがちなものである。どのようにしても、この言葉に、「他に授けるべき恵みに満ちていた」という意味を持たせることはできない。最も正確な語義は、 英欽定訳の欄外注にある「非常に恵みを受けた者」----大きな恵みの対象とされた者----であって、他に与えるべき多くの恵みを持つ者、ということではない。「アヴェ・マリヤ(おめでとう、マリヤ)」という天使祝詞で始まる、ローマカトリックの処女マリヤに対する祈りは、不適切きわまりない聖書の曲解である。ホール主教はこう論じている。「御使いは処女に挨拶をしているのであって、彼女に祈りをささげているのではない。聖徒としての彼女に挨拶をしているのであって、女神としての彼女に祈りをささげているわけではない。私たちが、彼のしているような挨拶を彼女にかけるのは、はなはだしい増上慢である。なぜなら、今の私たちは彼がそうであったような者ではなく、今の彼女は彼女がそうであったような者ではないからである。霊であった彼が、この地上で血肉であったときの彼女に祝いを述べたとしても、血肉である私たちが、現在天で栄光ある霊となっている彼女に祝いを述べるのはふさわしくないことである。私たちがこの御使いの祝詞によって彼女に祈りをささげるとしたら、それは、この処女と、この御使いと、この挨拶の言葉に対し、ひどい不正を働くことになる」。[本文に戻る]

29節----[ひどくとまどって] このギリシャ語は、非常に強く激しいものであって、この箇所をのぞき、新約聖書の他のどこでも使われていない。[本文に戻る]

32、33節----[ダビデの王位----とこしえにヤコブの家を治め] 私たちは、これらの言葉を霊解することにより、その完全な意味を取り逃すことのないよう用心しよう。「ヤコブの家」は、全キリスト者を意味してはいない。「ダビデの王位」は、異邦人信者全員に対する救い主の職務を意味してはいない。これらの言葉の文字通りの成就は、やがて主イエスが再臨し、ユダヤ人が回心するときに起こる。ガブリエルの約束は、エレミヤ30:9と並行している。彼が語っている御国は、ダニエル7:27で予言された栄光の御国である。最終的にはキリストが再臨なさるとき、その御国の前に他のすべての国々は打ち倒されるのである。[本文に戻る]

注記. ルカ1:34-38

36節----[ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも] ここで私たちは、御使いがいかに恵み深く処女マリヤの信仰を助けているかに注目すべきである。彼は、自分のもたらした使信を受け入れる助けになるだろう事実を彼女に告げている。これこそ、神が私たちを扱うなさり方である。神は私たちの弱さを知っておられる。私たちの主もこれと似たことを行なわれた。主は、何か食べ物を持ってくるように命じ、焼いた魚および蜂の巣の蜜[英欽定訳]を召し上がることによって、ご自分の復活のからだが物理的な実体であることを弟子たちに示してくださったのである[ルカ24:41-43]。[本文に戻る]

注記. ルカ1:39-45

39節----[ユダの町] 多くの人々によって、この町はヘブロンであると考えられている。確かにヨシュア21:9-11を吟味すると、それは非常にありえることだと思われる。それは信仰者の父アブラハムが長く居を構え、サラが死んだ場所である(創13:18; 23:2)。パレスティナの地でこれほど尊ばれていた土地はほとんどない。[本文に戻る]

注記. ルカ1:46-56

47節----「わが救い主」 私たちは、処女マリヤが救いを必要とすると云い表わしていることを見落とさないようにしよう。彼女に関するローマカトリックの教理、特に無原罪懐胎の教理に対して、この賛歌に見られる彼女の言葉づかい以上に完璧な答えを見いだすことは困難であると思う。[本文に戻る]

51節----「御腕」 この表現に対するホウィットビの注釈は注目に値する。「神の偉大な力は、神の指によって表わされ、----神のさらに偉大な力は、その御手によって表わされ、----神の最も偉大な力は、その御腕によって表わされる。ぶよの現出は神の指によるものであった(出8:19)。エジプトにおける神のその他の奇蹟は、御手によるものであった(出3:20)。パロとその軍勢を紅海で滅ぼしたのは、その御腕によるものであった(出15:6)」。[本文に戻る]

注記. ルカ1:57-66

59節----[八日目に] これはレビ記12:3に従ってのことであった。もし子どもが生後八日を経ずして無割礼のまま死んだとしても、その子が救われなかったと云えるような根拠は、聖書のどこにも書いていない。類推によって私たちは、キリスト教の経綸のもとにおけるバプテスマは、幼児の救いのため絶対に必要なものではないと正当に結論できよう。儀式を欠くことではなく、儀式を侮ることこそ魂を滅ぼすのである。生まれたばかりの幼児が、こうした侮りの罪を犯しているはずがない。[本文に戻る]

62節----[身振りで] この表現からして、おそらくザカリヤは口がきけなくなっただけでなく、耳も聞こえなくなっていたと思われる。[本文に戻る]

注記. ルカ1:67-80

69節----[救いの角] ヘンリー・ヴェンはこう述べている。「動物の角は、身を守り、報復する際の武器であるとともに、その身の飾りであり美しさでもある。それゆえ、それが預言者的文体において用いられるときには、比類なく強大な帝国の権力を指す。この箇所においても、それと同じ意味に理解すべきである。この表象によって、贖い主の力のこの上もない偉大さ、および彼がその力を彼の教会に代わって片時も休まず振るい続けることが表わされているのである」。----ヴェン、「ゼカリヤの預言」への注解[本文に戻る]

70節----[その聖なる預言者たちの口を通して、主が話してくださった] ここで注目したいのは、預言者によって「神が話した」と、明確に云われていることである。預言者の言葉を読むとき、私たちは神の言葉を読んでいるのである。バーゴンは、以下のようなフッカーの文章を適切に引用している。----「彼らは、自分からはいかなる言葉も話したり、書いたりしなかった。御霊が一語一語、彼らの口に授けてくださる通りのことを云い表わしていったのである。それは、竪琴やリュートが音を出しはしても、それを手に持って、巧みに弦をつまびく者の思いのままに鳴らされているのと同じである」。[本文に戻る]

71、74節----[われらの敵] これらの「敵」が何を意味しているかは、この箇所からだけではわからない。まずありそうもないのは、この表現を霊的意味にしか受け取らず、ザカリヤが意味したのは、キリストが、信ずる御民を世と肉と悪魔から解放してくださるということでしかない、とする解釈である。これよりもはるかにありそうな立場は、ザカリヤが聖霊に満たされた際に語った預言が、全時代の先まで見通し、イエス・キリストの初臨と再臨を両方ともふくんでいる、とする解釈である。この見解をとると、「敵」という表現には、イエスが御民を今の時代に解放してくださる霊的な敵だけでなく、来たるべき再臨において、彼がその贖われた教会とイスラエルの散らされた部族とを解放してくださる文字通りの敵をもふくむことになる。[本文に戻る]

78節----[日の出] これはキリストご自身を意味しているに違いない。彼はマラキ書で「義の太陽」と呼ばれており、ペテロの手紙では「明けの明星」と、また黙示録では「輝く明けの明星」と呼ばれている(マラ4:2; IIペテ1:19; 黙22:16)。これらはみな比喩的表現であって、同じ偉大な真理、すなわち、「キリストは世の光である」ことを教えている(ヨハ8:12)。[本文に戻る]