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序 文

 読者が今手にしている本は、すでに二巻が上梓されている「福音書講解」の続巻である。

 この著作の一般的な意図については、マタイ福音書講解の序文で詳細に説明しておいたので、その点についてさらに語る必要はないであろう。ここでは単に、私が最初に自らに課した3つの目的を厳守するよう注意してきたとだけ云っておきたい。私が書こうと努めてきたのは、キリスト者の家長が家庭礼拝を導く助けとなるもの----分教区の訪問者が病人や字の読めない人々に対して読本とできるもの----蔵書を持つ余裕や時間にゆとりのない人々が個人的に聖書を読む際の副読本となるもの----である。この三種類の人々を私は常に念頭に置いてきた。彼らの必要を満たすことだけを絶えず目ざしてきた。彼らにとってふさわしくないと思われることは、いかなるものも努めて避けるようにしてきた。

 ただし読者は、1つ重要な点において、本書が先に刊行した二冊と違っていることに気づくであろう。私が云っているのは、それぞれの聖書箇所を講解した後に付した説明的な注記のことである。この注記のあまりのおびただしさを見て、人によってはこれが、本書の中で不自然なほどの分量を占めていると思うかもしれない。しかしながら大多数の読者は、こうした注記がこれほどの場所をとるだけの価値はあると考えてくれると思う。

 これらの注記の性格について二三付言しておくことも場違いではないであろう。私が何を目的としてこうした注記を書いてきたか、ここに喜んで説明したい。

 1. 私の第一の目的は、難解な箇所に光を投ずることであった。私は、自分があらゆる難解箇所の吟味に努めてきたと曇りない良心をもって云うことができる。私は、どれほど困惑させられるような表現や聖句があっても、決して逃げも隠れもしなかった。個々の困難な箇所については、手に入る限りの資料を集めるよう努力し、それを簡潔で明快な形で読者に提示するように努めた。むろん私は、一瞬たりとも自分があらゆる疑問を解き明かしたなどと云うつもりはない。聖ルカの福音書に見られる困難の多くが解決不能のまま残っていることは痛感している。しかし私は決して困難な箇所の論議から尻込みしたことはなかったと正直に云うことができる。私は人から、「この人が注解したのは簡単な所だけで、難解な箇所は手つかずのまま残したのだ」、などと決して云われないようにしようと決意していたのである。

 2. 私の第二の目的は、ギリシャ語を理解できない読者を助けることであった。英訳聖書には様々な理由により、さほど原典のギリシャ語の字義通りには訳されていない言葉があるが、そういう場合は、字義通りの意味を指摘するように努めた。また、多くの箇所で英訳聖書の翻訳者たちは、1つのギリシャ語に対して複数の訳語をあてているが、そうした訳語の差異についても注釈した。ここで一言云っておきたいのは、そのようにしているからといって私は、決して私たちの欽定訳聖書を非難したいわけではない、ということである。私は、欽定訳を改訂しようという運動にいかなる賛意も表してはいない。見落としてならないことは、聖書の翻訳をよく用いられるものにしようとすれば、平易な文体に訳さなくてはならず、ギリシャ語の表現を過度に字義通りに読ませると、英国人の耳には非常に耳障りに響く、ということである。英欽定訳聖書に欠点や弱点や欠陥があることは、私も十分に認める。しかし、現今なされているような改訳の試訳を読んだ後では、果たしてそれが現在の訳を改善することになるかどうか、私は深刻な疑問を感ずると告白したい。私にとって賢明な道と思われるのは、「やぶへびになるようなことはするな」、ということである。

 3. 私の第三の目的は、考察中の主題に光を投げかけるような文章を定評ある著述家から引用すること、また特定の点について参考となるかもしれない著述家の名前をあげて、潤沢な蔵書を持ち、時間にゆとりのある人々の助けとすることであった。云うまでもなく、注記におけるこの部分は、いくらでも簡単に増やしていくことができ、私も喜んで増やしていきたい部分であった。実際、本書が読み切れない分量になるのではないかという恐れさえなければ、実際に挙げたよりも多くの引用を挙げていたに違いない。しかし私が思い出したのは、私たちは一刻を争う時代に生きているということ、またいまだかつて現代ほど「大冊は大悪に通ずる」ということわざが真実な時代はないということであった。

 4. こうした注記を私が書き記した最後の目的は、現存する偽りの教理や異端と、あらゆる場合に戦い、そうした偽説、異端に対して聖句が与えてくれる答えを指摘することであった。私は決して、ソッツィーニ主義者や新学説神学者、ローマカトリック主義者、半ローマカトリック主義者に面と向かってそのあからさまな矛盾点を暴露することから尻込みしはしなかった。私は「論争的」だと思われるのを恐れて口ごもるようなことはしなかった。自分の意見について何1つ包み隠さなかった。私は、自分が聖書の一言一句の十全霊感を信じていること、また通常、プロテスタントの福音主義的な立場と呼ばれる見解を徹底的に固守していることとを何のためらいもなく公言した。もちろん、このような主義に立って書かれた聖書の注記が万人を満足させられるなどと期待することはできない。----しかし、そうした注記がその主義に立って書かれていることを、私は一瞬も隠し立てしようとは思わない。

 ただし私は、ある一点においてだけは、いかなる意見も示さないように注意した。それは現在やかましく議論が交わされている、異なる読み方の問題、種々の写本の権威の問題、新約聖書の最上のギリシャ語本文の問題である。これは、私が足を踏み入れようとは思わない分野である。この主題について決定的な意見を下せるだけの資料は存在していないように思われる。やがていつの日か、現存する写本の精密な校訂作業が、ヴァチカン写本も含めてすべて終了する日が来るかもしれない。敬虔な思いの聖書学者たちからなる、十分な資格を持つ調査員たちが、相反する読み方の優劣を比較考量し、最終的に議論の余地なく真実で正確なギリシャ語聖書の本文を確定してくれる時が来るかもしれない。しかし、その時がいまだ至っていないことは確かであり、それが実現する日が果たして来るかどうか私には大きな疑いがある*1それまでの間は、私は、スティーヴンズのよく知られた紀元1550年版の、スコールフィールド版を使うことで満足していると率直に認めたい。私はその欠点を知らないわけではないが、それに代わって他の本文を「公認本文」とみなすべきだという主張が徹底的に証明されたとは思えないのである*2

 最後に述べておきたいことは、こうした注記を書き上げるために私は、講解本文の場合と同じく、自分の手に入る限りの、古代から現代に至るまでのあらゆる注解者たちの著作を勤勉に活用したということである。そうした注解者たちの一覧を以下に挙げるが、これは一部の読者にとって興味深いものであろう。また、聖ルカの福音書に注解を施した著述家たちの名前を知りたい人々の役に立つであろう。

 この一覧を挙げる私の動機は誤解されないだろうと思いたい。私がここで唯一示したいと願っているのは、私の聖ルカの福音書講解が、他の人々の労作について無知なまま書かれはしなかったということ、また私が彼らと意見を異にする場合は、彼らの見解を知らなかったためではないということである。その、私が参照した著述家の名前は以下の通りである。

 1. 教父たち----アンブロシウス、テオフュラクトゥス、エウテュミオス、アウグスティヌスの新約聖書説教、そしてコーデリウスの聖書注釈集。

 2. 外国語圏のプロテスタント注解者たち----カルヴァン、ブレンティウス、ブツァー、ブリンガー、ベザ、ペリカーヌス、グァルター、ケムニティウス、フラーウィウス、イリーリクス、ピスカートル、コクツェーユス、デ・ディユ、カローヴィウス、アレーティウス、ショットゲン、ベンゲル、ハインシウス、オルスハウゼン、シュティーア。

 3. 外国語圏のローマカトリック注解者たち----ヤンセン、バラディウス、マルドナトゥス、コルネリウス・ア・ラピーデ、ケネル、ステラ、クラーリウス、ノウァーリヌス。

 4. 英語圏の注解者たち----トラップ、マイアー、カートライト、ライトフット、バクスター、ネス、リー、ハモンド、プールの綱要および注解、ヘンリー、ホウィットビ、バーキット、ギル、ピアス、スコット、A・クラーク、バーンズ、デイヴィドスン、オールフォード、ワーズワース、フォード、ワトソン、バーゴン、メイジャー。

 これらの著述家の多くを比較して、それぞれの優劣について注釈するのはたやすいであろう。いつか将来の時点で、そういう試みをすることになるかもしれない。云うまでもないことだが、彼らの多くは、多くの点で途方もなく誤った意見をいだいていた。私も、上に挙げた注解書のすべてを用いることを勧めはしない。とりあえずは、こう述べるだけで良しとしておこう。すなわち、これらの注解書を読みながら私はしばしば、暗闇を予想した所に光を見いだして驚き、光を予想したところに暗闇を見いだして驚いた、ということである。また私は、聖書に関する最上の注解書のいくつかは、それほど人に知られていないということも発見した。

 本書の出版にあたり、私は心からの祈りをささげたい。願わくは、ご聖霊がこの書を祝福し、神がこの書をご自分の栄光のため、また多くの魂の益のためにお用いになるように、と。本書における、そして私のすべての著作における主たる願いは、主イエス・キリストをほめたたえ、主の麗しさと栄光を人々の前に示し、地の上で悔い改めと信仰と聖潔とを押し進めることである。もし本書がこうした目的を果たすのであれば、本書のために費やした労苦は十二分に報われたことになろう。

 私の強く確信するところ、現代において私たちに必要なのは、より敬虔に、心を深く探る聖書の学びである。ほとんどのキリスト者は、聖書を読むとき、表面な意味を越えては何もさとることがない。----私たちに必要なのは、より明確なキリストの知識である。生ける人格として、生ける祭司として、生ける医者として、生ける友として、神の御座の右についておられる生ける弁護者として、そして今にも再び来ようとしている生ける救い主としてのキリストを、より明確に知ることが必要である。ほとんどのキリスト者が知っているキリスト教は、キリスト教教理の形骸でしかない。----こうした2つのことを私は決して忘れたくないと思う。もし私がこの終わりの時代に、キリストと聖書とをより誉れあるものにできたなら、私は心から感謝し、満足するであろう。

J・C・ライル

1858年8月



*1 私は非常な関心をもって、トレゲルズ博士が約束しているギリシャ語新約聖書の版を待ち望んでおり、そこに多くの期待をかけている。[本文に戻る]

*2 ここで語られている主題につまびらかでない読者のために一言述べておくと、時として大いに取りざたされる「異なる読み方」には、結局のところ、ごくごく微小な重要性しかない。これらはしばしば、何か小さな言葉や冠詞の追加や削除に関することであって、ある箇所の意味にいささかも影響するものではない。現存する異なる読み方の全部をもってしても、新約聖書全体におけるただ1つの教理、ただ1つの戒めにも影響を与えない、と云っても過言ではない。[本文に戻る]

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