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序 文

 この福音書講解の第一巻発行にあたり私は、無用の誤解を避けるため、この著作の性格と目的について少々説明しておいた方がよいであろう。

 読者の前にあるこの「講解」は、高度に学問的な批評的注解書ではない。福音書のすべての節を説明し、すべての難点と取り組み、すべての難解箇所への解決を提示し、すべての異読や異本について検討する、そのようなことをするものではない。

 またこの「講解」は、連続講解説教でもない。ブレンティウスやゴールターの注解書のように、あらゆる節に実際的な注釈を付けているわけではない。

 私は、おおよそ次のような手順に従って、この「講解」を書き上げた。まず福音書の聖句を、ほぼ12節程度で一区切りになるように分割する。それから、そのように分割した一区切りを順々に、短くわかりやすい言葉で「講解」していく。基本的にそれぞれの講解は、該当箇所の主たる意図と目的を、できるだけ手短に記述することから始める。それから、その箇所で特に目につく点を2つか3つ---時には4つ---選び出して、他の部分から際立たせ、それらの点についてのみ集中的に、平易な言葉で力強く、つとめて読者の注意をひきつけるような形で解き明かす。私の選び出した点には、教理的なものもあれば、実際的なものもある。選択のための唯一の原則は、その箇所で真に要点とされている点をつかむ、ということにあった。

 文体と文章については、ここに率直に認めておきたい。私は可能な限り平明で簡潔な書き方をするようこころがけ、かつてある神学者が「簡にして意を尽くす」と云ったような言葉を使うようにした。私はあたかも自分が、人々の関心をそらさぬように、読み聞かせている者であるかのように想定することにした。それぞれの講解を書きながら私は、「いま私は種々雑多な立場の人々に語りかけているのであり、手持ちの時間には限りがあるのだ」、と自らに云い聞かせるようにした。この一事が念頭にあったため私は、いくらでも云えたはずのことに一言もふれないまま、もっぱら救いに必要な事がらに集中するよう努力するのが常であった。二義的にしか重要でない多くのことはしいて語らず、良心に響いて忘れがたい印象を残すだろうことについて語るようにした。数は少なくとも長く記憶に残ることを語った方が、大量の真理を広く浅くまき散らして、忘却にまかせるよりはずっとよいと思ったのである。

 いくつかの箇所では、難解な部分を解説した脚注を付しておいた。注解書を一冊も持たない人が、聖書の「深遠な事がら」について諸家の意見を知りたいと思ったとき、その助けとなればよいと思ったからである。

 もちろんこれらの講解で表明された意見が、教理に関するものであれ、実践や預言に関するものであれ、万人を満足させたり、万人に受け入れられたりするだろうなどと期待することはできない。1つだけ云えることがあるとすれば、私はすべてを腹蔵なく語ったということ、また自分にとって真実と思えることは何1つ包み隠さなかったということである。私は、霊感された著者の真意であり、御霊の御思いであると心から信ずるもののほか、何も書き記さなかった。真理に到達する最善の道は、あらゆる立場の人々が何1つ隠しだてせず、自分の信ずるところをことごとく口にすることであるという、年来の信念に従ったのである。正しかろうと誤っていようと、私は自分の信ずるところを云い表わすよう努めてきた。私は、自分の所属教会[英国国教会]の三十九箇条と完璧に調和していること、またプロテスタント諸教会の全信仰告白とおおむね一致することの他いかなることもこの講解では語らなかった。私はそう確信している。古の一神学者の述べた次のような言葉は、まさに私が常に固守し従いたいと願ってきた神学そのものである。「私の認める唯一の宗教、それはキリスト教以外にない。私の認める唯一のキリスト教、それはキリストについての教理以外にない。キリストの神聖なご人格(コロ1:15)、その神聖な職務(Iテモ2:5)、その神聖な義(エレ23:6)、その神聖なる御霊(ロマ8:9)について、キリストの民全員が受け取っている教理以外にない。私の認める唯一の教役者、それはイエス・キリストを、救い主として十分な恵みと栄光を持つお方として、人々の信仰と愛に向けて推奨することを、神に召された務めと任ずるような者ら以外にない。私の認める唯一のキリスト者、それは信仰によってキリストに結び合わされ、信仰と愛によってキリストのうちにとどまり、福音的な聖潔の美しさによってイエス・キリストの御名のご栄光を高めようとする者ら以外にない。こうした思いの教役者とキリスト者こそ、長年にわたって、私の兄弟であり同伴者であったし、これからも、主の御手がいかように私を導かれようとも、そうあり続けたいと願う人々なのである」*1

 いま刊行されようとしているこの巻に、多くの不完全さと欠点が伴っていることは私の痛感するところである。私以上に、それをはっきり認めるだろう者はおそらくいないであろう。と同時に、公正を期すために云っておくべきだと思うが、この巻におさめられている講解はみな例外なく、他の人々の意見を念入りに熟考し、吟味に吟味を重ねた上で書かれたものである。私の書いた講解で扱った箇所のうちで、少なくとも以下の著者たちの見解について眺めもしなかったものはほとんどない。その著者たちとは、クリュソストモス、アウグスティヌス、テオフィロス、エウテュミオス、カルヴァン、ブレンティウス、ブツァー、ムスクールス、グァルター、ベザ、ブリンガー、ペリカーヌス、フェラス、カローヴィウス、コクツェーユス、バクスター、プール、ハモンド、ライトフット、ホール、デュ・ヴェーユ、ピスカートル、パーレウス、ヤンセン、リー、ネス、マイアー、トラップ、ヘンリー、ホウィットビ、ギル、ドッドリジ、バーキット、ケネル、ベンゲル、スコット、A・クラーク、ピアス、アダムズ、ワトソン、オルスハウゼン、オールフォード、バーンズ、シュティーアらである。私は正直に云うことができる。これらの著者たちの意見の吟味に、私は何時間も何日も何週間も費やしてきたし、彼らと私が意見を異にする場合は、彼らの見解を知らなかったためではない、と。

 聖書の注解書や講解書は現在あまりにも多いので、この講解を出版するにあたり私が特に念頭に置いてきた読者対象について二三述べておく必要があると思う。

 まず第一に私は、この著作が家庭礼拝で用いられることを願っている。家庭礼拝用の書物を求める声は高いが、その需要に見合うだけの数はいまだかつて供給されたことがないようである。

 次に私は、この著作が病人や貧困者を訪問する人々の助けとなることを願ってやまない。霊的な益を行なおうという熱意をいだいて病人や病室、そして一戸一戸の家を訪問する人々の数は、現在非常に多くなっている。そのような機会に読み聞かせることのできる適当な書物が非常に求められているということは信じてよいであろう。

 最後に、しかしこれも重要なこととして私は、この著作が静思の時に福音書を読む際の副読本として役に立つだろうと思っている。仕事や家事雑事に追われて、大部の聖書注解や講解書を読むことのできない人々は決して少なくない。そのような人には、神のみことばを読むときに、いくつか要点を指摘し、記憶させてくれるものがあれば、助けになると思われる。

 本書の出版にあたり、ここに私は心からの祈りをささげたい。願わくはこのささやかな一書が、汚れなき純粋なキリスト教を世に広め、キリストに関する知識を増し加えるために役立ち、不滅の魂の多くを神に立ち返らせ、その徳を立て上げるという栄えある働きの一助として用いられるように、と。

J・C・ライル



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*1  ロバート・トレイル「恵みの御座(Throne of Grace)」序文[本文に戻る]
 

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