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第1章1―17 キリストの系図

 新約聖書はここからはじまる。聖書は、常に真剣で厳粛な思いをもって読むようにしたい。この書物におさめられているのは、「人間のことばではなく神のことば」である。この書物の言葉は、すべて聖霊の霊感によって書かれたのである(Iテサ2:13)。

 私たちは、神が私たちに聖書を与えてくださったことを日々感謝するようにしたい。聖書を読んでわかるという人は、たとえ社会の最下層にいようと、ギリシャやローマのあらゆる哲学者を合わせたよりも、真の信仰についてはるかに多くを知っているのである。

 私たちは、聖書をいただいているという重い責任を決して忘れないようにしたい。最後の審判の日、私たちは自分の持っていた光に応じてさばかれる。多く与えられた者からは多くが求められる。

 私たちは、敬虔な思いをもって聖書を勤勉に読むようにしたい。そこに見いだされるすべてのことを信じ、実行に移そうという誠実な決意を胸にいだきつつ、読み進めよう。この書物をどう扱うかは決して軽い問題ではない。何よりも私たちは、聖書を読む前には、必ず聖霊によるさとしを祈り求めることにしよう。ただ聖霊だけが、私たちの心に真理の適用を与え、読んだ内容から益を受けさせることができるのである。

 新約聖書は、主イエス・キリストの生と死と復活の物語からはじまる。聖書の中で、これほど重要な部分はない。またこれほど綿密に、完全に語られている部分もない。4つの異なる福音書が、キリストの行ないと死を物語っている。四度私たちは、キリストのみわざとみことばの尊い記事を読むことができる。なんと感謝なことであろうか。キリストを知ることは永遠のいのちである。キリストを信じることは神との平和を持つことである。キリストに従うことは、真のキリスト者たることである。キリストとともにあることが、天国そのものであろう。私たちは、主イエス・キリストについて、どれほど知っても決して十分ということはない。

 マタイの福音書は、長い名前の羅列からはじまる。16節もかけて、アブラハムからダビデまで、そしてダビデからイエスがお生まれになった一家に至るまでの家系がたどられている。決してこの箇所を無益なものと思ってはならない。神がつくられたもので役に立たないものはない。どれほど小さな蛾も、どれほどちっぽけな昆虫も、何か良い働きを及ぼしている。聖書に無益な部分はない。すべての言葉が霊感されている。最初は無益に見える章や節は、すべて何か良い目的のために与えられている。これら16の節を注意深く調べるならば、確実に有益な教えを学びとることができる。

 この名前の羅列からまず第一に学べるのは、神は常に約束をお守りになるということである。神は、「アブラハムの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受ける」と約束された。神はダビデの家系から救い主をお立てになると約束された(創12:3、イザ11:1)。この16の節は、イエスがダビデの子孫であること、アブラハムの子孫であること、すなわち神の約束が成就したことを証明している。考えのない不敬虔な人々は、この教えを覚えて、恐れの心を抱くべきである。人が何と考えようと、神はその約束を守られる。もし悔い改めなければ、人は滅びをまぬがれない。真のキリスト者は、この教えを覚えて、慰めを得るべきである。天におられる彼らの父は、ご自分のすべての約束に忠実な方である。御父はキリストを信ずる者をみな救うと語られた。語られた以上、それは確実に成し遂げられる。「神は人間ではなく、偽りを言うことがない」。「彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができない」(民23:19、IIテモ2:13)。

 この名前の羅列から学べるもう1つのことは、人間の性質の罪深さと腐敗ぶりである。この名簿の中に、敬虔な親から生まれた邪悪で不敬虔な息子が何人いるか注目してみるとよい。レハベアム、ヨラム、アモン、エコニヤの名は、私たちをへりくだらせる教訓とすべきである。彼らはみな篤信の親から生まれた。しかし彼らはみな邪悪な者であった。恵みは家系によっては伝わらない。私たちを神の子とするには、良き模範や良き忠告以上の何かが必要である。新しく生まれる者らは、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれるのである(ヨハ1:13)。信仰を持っている両親は、自分の子どもたちが御霊によって生まれるように日夜祈るべきである。

 この名前の羅列から最後に学べるのは、私たちの主イエス・キリストのあわれみと慈悲の大きさである。人間性がどれほど腐敗し、どれほど汚れきっているか考えてみよう。そして主にとって「人間と同じようになられ」(ピリ2:7)、女からお生まれになることが、どれほど下落することであったか考えてみよう。この名簿の中には、恥ずべき、悲しい歴史を思い出させる名前がある。聖書では、他のどこにも出てこないような名前がある。しかし、それらすべての最後にくるのが主イエス・キリストの名前なのである。主は永遠の神であられるにもかかわらず、罪人に救いを差し出すため、ご自分を卑しくして人間となられた。「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました」(IIコリ8:9)。

 私たちは常に感謝の思いをもってこの名簿を読むべきである。ここに私たちは、人間の性質をもつ者のうち、キリストの慈悲と同情にあずかれない者は誰一人いないことを見る。私たちは、マタイが名を挙げたある人々のようにどす黒い大きな罪を犯してきたかもしれない。しかし、もし悔い改めて福音を信ずるなら、決してその罪によって天国から締め出されることはない。主イエスが、ここで読んだような名前をふくむ家系の女から生まれることを恥となさらなかった以上、私たちは、主が私たちを兄弟と呼び、永遠のいのちを与えることを恥となさるなどとと考える必要はないであろう。


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第1章18―25 キリストの受肉と御名

 この箇所は、最初に2つの偉大な真理を告げている。ここでは、主イエス・キリストがどのように私たちの性質をとられ、人となられたかが告げられている。また、主の誕生が奇跡的なものであったことが告げられている。主の母マリヤは処女だったのである。

 これらは非常に神秘的な問題である。これらは私たちのはかり知りえない深淵である。私たちの理解しえない真理である。私たちは、自分のはかない理性を越えた事柄を解明しようなどと思わないようにしよう。ただ敬虔に信ずるだけでよしとし、理解できない事柄について思弁を巡らすようなことがないようにしよう。世界を造られた方に不可能なことはないと知るだけで十分である。私たちは使徒信条のこの言葉に安心して安んじてよい。「イエス・キリスト……は聖霊によって宿り、処女マリヤより生まれ」た。

 ここで私たちは、この箇所に記されたヨセフの行動に注目しよう。これは敬虔な知恵と、他者に対する優しい思いやりとの美しい実例である。彼は自分のいいなずけの妻に「恥ずべきこと」を見た。しかし彼は何ひとつ早まった行動を取ろうとはしなかった。彼は、自分のなすべき義務がはっきりするまで忍耐強く待った。彼がこの問題を、祈りによって神の御前に持ち出したことは、まず間違いない。「信じる者は、あわてることがない」(イザ28:16)。

 ヨセフの忍耐は豊かに報われた。彼は、自分を悩ます問題について、神から直接の解答を受け、たちまちすべての恐れから解放されたのである。神に仕えることは何と幸いなことであろう。心からの祈りによって神に心配事をゆだねた者で、神に失望されられた者がいたであろうか。「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」(箴3:6)。

 ここで私たちは、私たちの主に与えられた2つの名前に注目しよう。1つは「イエス」、もう1つは「インマヌエル」である。1つは主の職務を述べ、1つは主のご性質を述べている。両方とも非常に深い意味がある。

 イエスという名は「救い主」という意味で、旧約聖書のヨシュアと同じ名である。私たちの主にこの名が与えられているのは、「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる」からである。これが主の特別な職務である。主は、ご自分の血潮で彼らを洗うことにより、彼らを罪の咎から救ってくださる。主は、彼らの心にきよめる御霊を宿らせることにより、彼らを罪の支配から救ってくださる。主は、この世から彼らをご自分とともにある安息へと引き上げられるとき、内に住む罪から彼らを救ってくださる。主は、最後の日彼らに栄光のからだを与えられるとき、彼らを罪の結果からことごとく救い出される。キリストの民こそは幸いな民、聖なる民である! 彼らは悲しみや試練や戦いからは救い出されない。しかし、永遠に「罪から救われて」いるのである。彼らはキリストの血潮により咎を洗いきよめられている。キリストの御霊により天国へはいるにふさわしい者とさせられている。これが救いである! 罪にしがみつく者は、まだ救われていないのである。

 「イエス」とは、重い心を抱く罪人にとって非常に心励まされる名前である。王の王、主の主であられる方は、当然、何かもっと雄大で豪壮な称号を自分のものとできたであろう。しかし彼はそうなさらなかった。この世の支配者たちはしばしば自分を大王だの、征服者だの、無敵王だの、至高者だのと呼ぶ。しかし神の御子は、ご自分を「救い主」と呼んで満足された。救いを願う魂は、キリストを通して大胆に、確信をもって御父に近づくことができる。あわれみを示すことが彼の職務であり、喜びなのである。「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである」(ヨハ3:17)。

 イエスとは、信者にとって特に甘美で尊い御名である。この御名は、王侯貴顕の恩顧に何のありがたみもないときにも、しばしば慰めとなり力となる。金銭では買えないもの、すなわち内なる平安を与えてくれる。これは、倦み疲れた良心に安らぎを与え、重い心に安息をもたらしてきた名である。ソロモンの雅歌は、多くの人々の経験を歌って云う。「あなたの名は注がれる香油のよう」(雅歌1:3)。単に神のあわれみや善意にぼんやりたよるのではなく、「イエス」にたよる者こそは幸いである。

 「インマヌエル」という名前は、聖書の中にはほとんど出てこない。しかしこの名には、「イエス」という名にまさるとも劣らぬ深い意味がある。これが私たちの主の名として与えられたのは、彼の神-人なる性質のためである。「人となられた神」としての性質のためである。これは、「私たちとともにおられる神」を意味する。

 私たちの主イエス・キリストのご人格のうちには、神性と人性との二性質が結び合わされていた。私たちはこのことを明確に理解しておくようにしよう。これは決して忘れてはならない点である。非常に重要な点である。私たちは心の中でゆるぎない確信を持つようにしよう。私たちの救い主は完全に人であると同時に完全に神であり、完全に神であると同時に完全に人である。この偉大な根本真理を見失うと、たちまち恐るべき異端に走ることとなる。インマヌエルという名が、この真理を理解する鍵である。イエスは「私たちとともにおられる神」である。彼は、罪こそ犯されなかったが、すべての点において私たちと同じ性質を持っておられた。確かにイエスは人間の血肉において「私たちとともにおられ」た。しかし同時に彼は、神そのひとであられた。

 福音書を読むとき私たちは、しばしば私たちの救い主が、私たちと同じように、肉体の疲れ、飢え、渇きを覚え、涙を流し、うめき、痛みを感じられたことを見いだす。これらすべてにおいて私たちは「」なるキリスト・イエスを見る。処女マリヤから誕生されたとき彼がとられた性質を見る。

 しかし私たちは、同じ福音書の中で、私たちの救い主が人々の心と思いを知っておられたこと、悪霊を支配し、みことば1つで大いなる奇蹟を行なうことができたこと、御使いによって仕えられたこと、ひとりの弟子から「私の神」と呼ばれて何の異議も唱えられなかったこと、ご自身「アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです」、「わたしと父とは1つです」と云われたことをも見いだすのである。これらすべてにおいて私たちは「永遠の神」を見る。ここに見られる神は、「万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です。アーメン」(ロマ9:5)。

 もし自分の信仰と希望に強い基盤がほしければ、私たちは私たちの救い主の神性を常に目にとめておかなくてはならない。私たちがその血に信頼するよう招かれているこの方こそ全能の神である。天地の間にあるどのような主権も力も、彼の手から私たちを奪い去ることはできない。もし私たちがイエスにある真の信者であるなら、心を騒がせたり、恐れたりする必要はない。

 もし苦しみと試練の中で甘美な慰めがほしければ、私たちは私たちの救い主の人性を常に目にとめておかなくてはならない。彼は、人なるキリスト・イエスである。処女マリヤの胸に抱かれたみどりごである。人の心を知っておられる方である。私たちの弱さに同情できるお方である。ご自身、サタンの誘惑を経験されたお方である。彼は飢えを忍ばれた。涙を流された。痛みを感じられた。私たちは、どのような悲しみにあるときも、無制限に彼に信頼することができる。彼は私たちをさげすみはしない。祈りにおいて私たちは、自分の心のありったけを、大胆に、彼の御前に注ぎ出すことができる。彼はご自分の民に同情できる方である。

 これらの考えが私たちの思いに染みとおるようにしようではないか。新約聖書の最初の章にふくまれた、心励ます真理の数々のゆえに神をほめたたえようではないか。ここで私たちは、「ご自分の民をその罪から救ってくださる方」のことを教えられている。しかし、それですべてではない。マタイ1章は、この救い主が「インマヌエル」であることを教えてくれている。彼は神ご自身であり、同時に、私たちとともにおられる神、すなわち、私たち自身と同じ人間の肉体をとって現われた神であることを教えてくれる。これは喜ばしい知らせである。まことに、これは良い知らせである。信仰によって、感謝をもって、これらの真理を心の糧としようではないか。

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