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第2節 恵みによる種々の感情の第一の客観的根拠は、天来の事物それ自体が有する、超越的にすぐれた慕わしい性質であって、そうした事物が利己心や個人的利益にとっていかなる関わりを有すると思えるか、ではない

 私は云う。天来の事物のえも云われぬすぐれた性質こそ、真の聖徒たちがいだく種々の霊的感情の第一の、あるいは主たる、最初の客観的土台である、と。天来の事物と聖徒たちの関わりは----あるいは、そうした事物と彼らの特定の利益との関わりは----、必ずしも、恵みによる種々の感情に全く影響を及ぼさないわけではないと思うからである。これは、副次的な、後追い的な影響を、真に聖く霊的な感情に及ぼしうるし、実際に及ぼしている。この点については、追って示したいと思う。

 先に述べたように、愛という感情は、あらゆる感情の源泉と云える。特にキリスト者の愛は、恵みによる感情すべての源泉である。さて、真の聖徒が神を愛し、イエス・キリストを愛し、神のことば、みわざ、なさりかた、その他を愛する主たる理由は、こうした事がらが有する天来の美質であって、決して、それらのうちにあると想定される自分の分け前とか、それらから受け取ったと、あるいは今後受け取るだろうと思える何らかの恩恵が主たる理由ではない。

 ある人々によると、あらゆる愛は自己愛から生ずると云う。そして、自然の道理として人は、自分自身への愛を根拠としていなければ、神をも、他のいかなるものをも愛することはできない、と云う。しかし私はへりくだりつつ云いたいが、それは思慮の足りない考えだと思う。そうした人々の議論によると、神を愛したり、神の栄光を願い求めたり、神を喜ぶことを慕い求める人は、だれしも、こうした事がらを自分自身の幸福として願い求めているのである。神の栄光、そして神の完全さを喜ぶことは、自分にとって好ましい事がら、自分の幸せを増す事がらとみなされる。その人は、それらを自分の幸福と込みにして考え、自分を楽しみと喜びで満たし、それゆえ幸せにしてくれるはずのものとして、それらを願い求めているのである。それでこうした人々の言によると、人は自己愛から、あるいは自分自身の幸福を願う心から、神の栄光の現わされることを願い求めたり、神の栄えある完全さを目にし、それを楽しみたいと願い求めたりするのである。しかしその場合こうした人々は、もう少し考えを進めて、こう問わなくてはなるまい。その人は、いかにして神の栄光の現わされることや、神の完全さを見つめり楽しんだりすることを自分の幸福とみなすようになったのか、と。疑いもなく、神の栄光や、神の完全さを注視することがその人にとって好ましいものとなった後なら、人は自分自身の幸福を願い求める以上、それらを願い求めるであろう。しかし、いかにしてこうした事がらが、その人にとって好ましいものとなったのだろうか? その人が、神の栄光を現わすことその他を自分の最高の幸福とまで思いみなすようになったのはなぜだろうか? それは愛の実ではないだろうか? 人はまず神を愛することによって、あるいはその心を神に結びつけることによって初めて、神のためになることが自分のためにもなることであるとみなすようになり、神の栄光を現わし神を喜ぶことを自分の幸福として願い求めるようになるのである。人はその心を愛によって神に結びつけた後で、またその結果として、神の栄光と神を喜ぶこととを自分自身の幸福として願い求めているのだから、この幸福を願い求める心こそ、その人の愛の原因であり土台であるに違いない、などと論ずるのは、父が子を生んだからには、子が父を生んだに違いないと論ずるのと同様、まるで筋の通らない話である。もしも、人が神を愛するようになった後でそこから生じた結果として、自分自身の幸福を愛する思いそのものが神の栄光を現わし、神を喜びたいという願いを引き起こすのだとしたら、決してこの自己愛の働きそのものは、その人の神に対する愛に先立つとか、その人の神への愛が自己愛から生じた結果であるなどということにはなるまい。むしろ何か他のもの、自己愛とは全く独立した別のものこそ、その原因であろう。すなわち、彼の精神のものの見方や、彼の心の趣味にもたらされた変化こそ、その原因であろう。その変化によって人は、神のご性質それ自体のうちにある美しさと栄光とえも云われぬ美質を理解するようになるのであろう。これこそ、人の心を最初に神に引き寄せ、その心を神に結びつけた原因であろう。その時点のその人には、わが身の利益や幸福についての考慮など毛ほどもないであろう。たとえその人が、その後では、またその結果としては、自分の利益や幸福を必然的に神のうちに求めるようになるにせよ。

 むろん世には、自己愛だけからしか生じていないような愛や愛情を人や事物にいだくということはある。相手と自分との間にあることが初めからわかっている何らかの関わりや、相手からすでに受けた、あるいはこれから受けるとあてこんでいる何らかの恩恵こそ、そうした愛のまぎれもない第一の土台である。そうした土台があって初めてその人は、愛するもののうちにある性質や種々の資質を、美しく慕わしいものとして、好ましく思ったり、心楽しんだりするのである。ある人が他者をいとしく思う心のきっかけとなったのが、相手のうちに見られる資質や特性それ自体であって、それが愛すべきものと思われたことにあった場合、そうした愛の生じ方は決して、他者から何か贈り物を受けたことをきっかけに生じた愛の場合----たとえば裁判官が自分に賄賂を贈った者を愛し、いつくしむような場合----と同じではない。あるいは、自分と相手との間にあると思われる関わりをきっかけに生じた愛----たとえば人がわが子を愛するような場合----と同じではない。後者のように生じた他者への愛は、まぎれもなく自己愛からしか生じていないのである

 神やイエス・キリストに対するこういった類の、自己愛からしか生じていないような愛情は、真の恵みによる愛や、霊的な愛ではありえない。というのも自己愛という原理は、全く生来のものであり、悪霊どもの心にも、御使いたちの心にも、等しく存在しており、それゆえ、そうした自己愛からそのまま生み出されたようなものは何1つ、先に述べたような意味では、超自然的なものでも、天来のものでもないに違いないからである*1。キリストはこの種の愛について、それはよこしまな人々の愛にいささかもまさるものではないと、はっきり語っておられる。「自分を愛する者を愛したからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、自分を愛する者を愛しています」(ルカ6:32)。また悪魔自身も知るように、神への欲得ずくの敬意----すでに受けとった利益か、受けとることをあてこんでいる利益(同じことだが)に基づいた敬意----は、神の御前では無価値である。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたは彼と、その家……との回りに、垣を巡らしたではありませんか」云々(ヨブ1:9、10)。もしこの告発が真実だったとしたら、決して神は、暗にその議論の正しさを認め、それが本当かどうか試したりなさらなかったに違いない。ヨブを試練に遭わせ、ヨブの神への敬意が、つまるところは欲得ずくのものだったかどうか明らかにしようとはなさらなかったに違いない。それで彼の敬意の純粋さはその点にかけて試されたのである。

 よほど理不尽な考え方をしない限り、明らかに、神への真の愛の第一の土台は、神を神ご自身として愛すべき方、愛されるに値する方としているもの、すなわち、そのご性質のえも云われぬ麗しさである。これこそ神を慕わしい方としている主たる理由にほかならない。ある人を、あるいは何らかの被造物を愛すべきものとする主たる理由は、それらのこの上なくすぐれた美質である。それと同じく、神を愛すべき方にしている主たる理由、また疑いもなく真の愛の主たる根拠に違いないものは、神のこの上なくすぐれた美質なのである。神のご性質、あるいは神性は、無限にすぐれた美質である。しかり、それは無限の美、輝き、栄光そのものである。しかし、このいとすぐれて愛すべきご性質への真の愛であるとされながら、その真の麗しさをよってもって建つべき土台としていないものなどありえようか? 美と輝きを真に愛するといいながら、そうする理由が、その美と輝きではないなどということがありえようか? それ自体として無限に価値ある尊いものを真に重んずるといいながら、そうする理由が、その価値の高さや尊さではないなどということがありえようか? この天来のご性質が、それ自体として、このように無限にすぐれていることこそ、あらゆる点にかけて、神のうちにある良きものすべての真の根拠である。しかし、神を真に愛するといいながら、そうする理由が、神のうちにある良きもの、望ましいものすべての土台である、神のいとすぐれた美質ではないなどという人がいるだろうか? もしもある人が神に対していだく愛情の第一の土台が、自分にとって神が益をもたらす方であることだとしたら、それはその第一歩から誤っている。そういう人が神を尊重する理由は、天来の良きものの流れの最末端が自分たちに関わり、自分たちの利益に役立つというためだけでしかない。そして彼らは、最初からある良きものにして、すべての良きもの、ありとあらゆる愛すべき麗しさの真の源泉たる、神のご性質の無限の栄光については、全く顧慮しないのである。

 自己愛という生来の原理は、たとえ天来の性質の美と栄光を全く見てとることがなくとも、神とキリストに対して大きな愛情をいだく土台となりえる。世には、生来のものでしかないような、一種の感謝がある。感謝は、怒りと同じく、生来の感情の1つである。そして自己愛から怒りが生ずるのとごく似たしかたで、自己愛から感謝が生ずることがある。人々のうちに怒りという感情がかき立てられるのは、その人が、自分の自己愛に逆らうような何かが他者のうちにあることに反感を持つ、あるいは反対するからである。感謝という感情は、ある人が、他者から愛されたり、満足させられたりすることを、あるいは、自分の自己愛にとって好都合な何かが他者のうちにあることを好ましく思うことにほかならない。それで世には、真の、ふさわしい愛を伴わないような、一種の感謝がありえるのである。それは、世には憎しみを伴わないような怒りがある----たとえば、親がわが子に対して怒りを覚えるとき、子を怒るのと同時に、強い愛情を覚え続けてはいる----ような場合と事情は変わらない。こういった感謝についてキリストは、罪人たちでさえ、自分を愛する者を愛しています、と宣言しておられる(ルカ6)。当時の最も肉的で放埒な人種の中に数えられていた取税人たちですら、同じことをしている、と(マタ5:46)。これこそ、贈賄が不正な裁判官たちにうちに醸成している原理であり、畜生ですら発揮している原理である。犬も、自分に優しくしてくれる主人のことは愛するであろう。そして私たちが無数の実例によって目にしているように、生来の性質しかなくとも、それで十分人々のうちに感謝をかき立てることはできるのである。親切にされれば、それだけで、他者への感謝の念で感激することができるのである。場合によっては、敵意を感じ続けている相手にすら感謝を覚えることはありえる。たとえばサウルは、自分のいのちを奪おうとしなかったダビデに、一再ならず非常に感激し、感謝の念にわれを忘れさえした。だがそれでも彼は、ダビデに対する敵意を変わらずいだき続けていた。そして人は、生来の性質しかなくとも、他者に対してそのように感激するのと同様に、神に対して感激することもある。人に対して働くのと同じ自己愛が、神に対して働けない理由は何1つない。また、そうした例は聖書の中でふんだんに示されている。事実イスラエル人たちは、紅海のほとりで主への賛美を歌ったが、すぐに、みわざを忘れた[詩106:12-13]。アラム人ナアマンは、自分のらい病が奇蹟的に癒されたことに非常に感激した。それ以後の彼の心は、自分を癒してくれた神を礼拝したい思いで夢中になったが、それも自分の俗的な利益をだいなしにしかねない場合は例外であった。同じようにネブカデネザルは、野の獣とともに住んだ後で、自分に理性と王国を回復してくれた神のいつくしみによって非常に感激した。

 このように感謝は生来の原理であるが、感謝を知らない忘恩という原理は、はるかに忌まわしく、憎むべきものである。なぜならそこに示されているのは、人間性のややましな原理をも抑圧し、押さえ込むという、悪がすさまじくはびこった姿だからである。多くの異教徒らのはなはだしい邪悪さの証拠として言及されているもの、それは彼らが情け知らずの者であることである(ロマ1:31)。しかし、感謝の欠如、あるいは情け知らずであることが、はなはだしい悪徳の証拠であるからといって、必ずしも感謝や情けがありさえすれば、それが美徳、すなわち救いに至る恵みの証拠であるということにはならない。

 自己愛は、生来の感謝の働きだけしかなくとも、多くの面で、一種の神への愛の源泉となることがある。どうしたわけか人間にしみついている神概念の中には、一種の愛を生じさせかねないような偽ったものがある。たとえば、神がいつくしみとあわれみの具現だけでしかなく、不正に報いる裁き主などでは全くないかのように考えたり、そうしたいつくしみを働かせるのが神の義務であって、自由で主権的な働きではないように考えたり、そのいつくしみがあたかも、人間自身のうちにある何ものかに左右されざるをえず、否応なしに働かなくてはならないと考えたりするような概念である。こうした根拠に立った人々は、自分たちの想像でこしらえあげた「神」のことは愛するかもしれないが、天上で支配しておられるような神を愛そうなどとは毛ほども思うまい。

 さらに、自己愛によつて人々が神への一種の愛情を覚えさせられることがあるのは、自分と神との関係がいかなる状態にあるかについて、はなはだしく感受性が欠落している場合、また良心に罪の確信が欠けているため、自分がいかにすさまじく神の怒りをかき立ててきたか感じとれない場合である。そうした人々は、神に刃向かうものとしての罪がいかに憎むべきものであるか、また神の聖なるご性質がいかに罪に対して激しく反発するかについて、まるで無感覚である。自分に好都合な神を精神の中にこしらえあげ、神のことを自分たちと同じような者、自分たちをひいきし、自分たちの意に添う者と考えているため、彼らは神のことを非常に好ましく思い、神に対して一種の愛を感じる。その実、真の神のことは、これっぽっちも愛していないのである。また人々は、神から何か尋常ならざる外的な恩恵をこうむると、その自己愛によって、種々の感情を神に向かって大いに動かすことがある。ナアマンや、ネブカデネザルや、紅海のほとりのイスラエル人たちが良い例である。

 また、やはり心震わせるような神への感情を人々に生じさせることがあり、実際にしばしば生じさせるもととなっているのは、自分たちは神にいつくしまれ、愛されているのだ、という思い込みであり、それを第一の土台として神を愛することである。ある人々は、地獄への恐怖によって浮き足立ち、非常な苦悩を味わった後で突如、自分の想像に浮かんだ何らかの印象によって、あるいは聖書の聖句を伴ったり伴わなかったりする直観的な示唆その他の手段によって、神がこの自分を愛しており、自分の罪を赦しており、自分を神の子どもとしておられると思い込む。そして、これをきっかけにして彼らは、種々の感情を神やイエス・キリストに対して寄せるようになる。またその後、これを土台として彼らは、神のうちにある多くの事がらを愛すべきものとみなし、キリストをこの上もなくすぐれたお方と思いみなすようになることがある。また、こうした人々に向かって、あなたは神を神ご自身として愛すべき慕わしいお方だと思いますか、と問うたなら、その人は勢い込んで、「思います」、と答えるかもしれない。しかしその実、よくよく吟味してみると、この神への前向きな思い込みは、彼らが神から受けたと想像した、途方もない無限の恩恵への返礼としていだかれたものでしかないのである。彼らが神を神ご自身として愛すべき方と認める理由はただ1つ、神が彼らを赦し、受け入れ、この世の何にもまして愛し、その無限の力と知恵のありったけを傾けて彼らを選び、高貴にし、称揚し、彼らが神にしてほしいと望む何もかもを彼らのために行なってくださっているがためにほかならない。いったんこのような考えに凝り固まってしまうと、神とキリストを愛すべき栄光あるお方として認め、あがめたり、たたえたりするのはたやすいことである。彼らがキリストを愛すべきお方、世界一素晴らしいお方として、たやすく認めるとしても、その前に、自分は主に愛されていると信じ込んでしまっているからには、何の不思議もない。彼らの信ずるところ、キリストは宇宙の主であるにもかかわらず、彼らへの愛のとりことなり、彼らに心を奪われ、彼らをその隣人たちのほぼだれよりもはるかにまさって尊び、永遠の昔から彼らを愛し、彼らのために死に、彼らを永遠の栄光のうちにあってご自分とともに天国で支配させることにしているのである。肉的な人々がこのような状態に至った場合、彼らの種々の情欲そのものが、キリストを愛すべき方と思わせるであろう。高慢そのものが、彼らの呼ぶところの「キリスト」をひいき目に見させるであろう。利己的で高慢な人間は、おのずと、自分の利益に大いに貢献し、自分の野心を満足させるものを愛すべきものと呼ぶのが常である。

 そして、この種の人々は始めた通りのしかたで、続けていくのである。彼らの種々の感情が折にふれ高まるのは、主としてこの自己愛の土台に立ってであり、神が自分を愛しているとの思い込みに立ってである。多くの人は、神との交わりについて誤った概念をいだいている。あたかもそれが、人間の想像力に直観的に及ぼされた種々の衝動や暗示によって、また外的な表象によって行なわれるかのように考えている。そうした事がらを彼らは、自分たちへの神の偉大な愛の現われであると受けとり、自分が他の人々よりも、はるかに高く評価されている証拠だとみなす。そのようにして彼らの種々の感情は、何度も繰り返し高められていくのである。

 これに対して、聖徒たちのうちにある真の聖い愛は、全く違ったしかたで生ずる。彼らは決して、神が自分を愛していることを見てとった後で初めて、神が愛すべき方であることを見てとるのではない。むしろ彼らが最初に見てとるのは、神が愛すべき方であり、キリストがこの上もなくすぐれた、栄光あるお方であるということである。彼らの心はまずこの光景のとりことなり、時として、ここから彼らの愛の働きが始まり こうした光景から主として生ずるのが常である。そしてその後で初めて彼らは、その結果として、神の愛を、また自分たちに対する大いなるいつくしみを見てとるのである*2。聖徒たちの種々の感情はに端を発する。そして自己愛とこうした感情との関わりは、その結果として、間接的に生じたものでしかない。それとは逆に、まがいものの感情は、自己に端を発し、神のいとすぐれた美質を認めたり、それに感動したりするのは、結果的なこと、従属的なことでしかない。真の聖徒の愛において、神は最底辺にある土台である。神のご性質のいとすぐれた美質を愛する愛こそ、それ以後生ずるあらゆる感情の土台であって、ここで自己愛ははしためとしてしか関わっていない。それとは逆に、偽善者は、自分自身を第一の土台としてすべての根底に置き、神をその上部構造として据える。そして、彼が神のご栄光そのものを認めることでさえ、それが自分の私的な利益にどう関わるかで左右されるのである。

 人は自己愛の影響によって、自分個人に対する神の慈愛に感動させられるだけではなく、共同体の一部としての彼らに及ぼされた慈愛に感動することもある。人は、自己愛という生来の原理さえあれば、他に何もなくとも、自分の属する国家の利益を気遣うものである。たとえば、現在の戦争において自己愛は、生まれながらの人々に、私たちの国家の成功を喜ばせ、損害を悲しませるであろう。自分が集合体の一員としてそこに関わっているためである。同じ生来の原理は、人類世界にすら拡張できるものであり、もし地球上の住民の得ている利益が、他の惑星上の住民----そのようなものがいるかどうか、またそれがいかなる状態にあるかを知っていればだが----のそれにまさっているとしたら、それは人を感動させるであろう。そのようにこの原理によって人々は、人類が堕落した御使いたちにまさって大きな恩恵を受けていることに感動することがある。ご自分の御子をお与えになり、堕落した人間に代わって死なせるという、神の驚嘆すべきいつくしみに感動することがある。人間のため、かくも大きな事がらを忍んでくださったキリストの信じがたいほどの愛に感動することがある。神が私たちのため天国に備えてくださっているはずの偉大な栄光に感動することがある。それらが自分に関わることであり、自分が利益をこうむり、またかくも大きな恩恵を受ける側の者であるとわかっているので、個人的な恩恵の場合と同じく、ここでも人々は、同じ生来の感謝の原理によって影響を及ぼされることがあるのである。

 しかし、このように云うからといって決して、神へのいかなる感謝も単に生来のものであるとか、霊的な感謝----聖く天来の感情である感謝----などというものはないということにはならない。ここから云えるのはせいぜい、世には単に生来のものでしかない感謝というものがあること、また人々が神に対して種々の感情をいだく唯一の、あるいは主たる理由が自分の受けた恩恵でしかないとき、彼らの感情は生来の感謝の働きでしかない、ということである。疑いもなく世には、恵みによる感謝というものがあり、それは生まれながらの人々が働かせているようなあらゆる感謝とは全く異なったものである。その違いは以下のような点にある。

 1. 神の慈愛を受けた者が、神に対して真の感謝、真の感謝の念を生じさせるとき、その土台となるのは、すでに据えられた、神ご自身がどういうお方であるかを知って神を愛する愛である。ところが生来の感謝には、そのように前もって据えられた土台が何1つない。受けた慈愛によって感謝に満ちた感情を神に対していだくという、恵みによる心の動きは常に、すでに心の中にたくわえられていた愛の発露にほかならない。その愛をまず最初に植えつけたのは、ほかならぬ神ご自身のこの上なくすぐれた美質であって、ここから種々の感情が、神の慈愛を感ずるたびに流れ出していくのである。神の栄光を見てとり、それによって心を圧倒され、それがために神に対する、えも云われぬ愛のとりことなった聖徒は、その結果、柔らかな心にされていて、慈愛を受けるとたやすく感動させられるのである。ダビデに対するサウルの場合のように、人は、ある他者に無情な思いを感じているにもかかわらず、何か桁外れの恩義によって感謝の念が動かされることがある。しかしこれは、人が、前々から高く評価し愛していた親友に対していだく感謝の念とは違う種類のものである。自己愛は、恵みによる感謝から全く排除されているわけではない。聖徒たちが神を愛するのは、彼らに対する慈愛のためである。「私は主を愛する。主は私の声、私の願いを聞いてくださるから」(詩116:1)。しかし、それとは別のものも含まれている。別の愛が道備えをし、こうした種々の感謝に満ちた感情の土台を据えているのである。

 2. 恵みによる感謝の念をいだく人々が、神の慈愛と無償の恵みという属性に感動するのは、ただ単に、自分がその当事者であるとか、それが自分の利益に関わっているからばかりでなく、それが神のご性質の栄光と美しさの一部だからである。こうした、贖いのみわざにより明らかに示され、イエス・キリストの御顔に輝き出ている、神の驚異に満ちた比類なき恵みこそ、それ自体として、無限に栄光があり、御使いたちの目にもそう映っているものである。それは、神のご性質の道徳的完全さと美しさの大きな部分である。これは、私たちに対して働こうが働くまいが、栄光に満ちたものであろう。そして、これについて恵みによる感謝の念を働かせる聖徒は、これをそのようなものと見てとり、そのようなものとして喜ぶのである。しかり、その人は、このことに利害関係があればこそ、いやまさって思いを深く巡らし、心を傾け、感情の高まりを覚えるのである。ここで自己愛は、より高い原理に従属するはしためとして、黙想を導き、喜びと愛を高める助けをしている。彼らに対する神の慈愛は、彼らの前に置かれた鏡であり、そこに、いつくしみという美しい神の属性が映し出されるのである。その属性の働きと表われは、こうした手段によって、彼らに近づけられ、彼らの目の前に差し出されるのである。こういうわけで、神への聖い感謝において、私たちが神の慈愛に感激する第一の土台は、それと私たちの利益との利害関係にはない。むしろそれは、神ご自身のうちにあるこの上なくすぐれた美質ゆえに神を愛する愛という形で、前々から心の中に据えられていたのである。それが心を柔らかくし、私たちに対する神の慈愛からそのような印象を受けやすくさせるのである。また、いま現在働いている感情の唯一の、あるいは主たる客観的根拠は、決して私たち自身の利益や、私たちが受けた恩恵にあるのはなく、むしろ、神のご性質の美しさの一部としての神の慈愛にこそあるのである。しかしながら、その愛すべき属性が、私たちの目の前に直接、私たちに対する働きという形で現わされたとき、それは、精神がその美しさに注意を向ける絶好の機会である。そしてこれは、感情を高める役に立てるのである。

 ことによると、ある人は、ここまで云われてきたすべてのことに対する反論として、「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです」、という聖句を持ち出すかもしれない(Iヨハ4:19)。ここには、真の聖徒たちに対する神の愛こそ、彼らが神に対していだく愛の第一の土台であることが暗示されているではないか、と。これに答えて私はこう述べたい。この言葉によって使徒が意図しているのは、ここで私たちに対する神の愛を賛美することである。私たちが全く神を愛していない時にも、私たちを愛してくださった神をたたえることである。これは、この節および後に続く2つの節を、9、10、11節とくらべてみれば、だれにでも明らかなことである。そして、私たちが神に対して何の愛もいだいていなかった時に、神が私たちを愛してくださったことを証明するため使徒は、選民に対する神の愛こそ、神に対する彼らの愛の根拠であると論じているのである。これは3つの方法でなされている。1. 神に対する聖徒たちの愛は、彼らに対する神の愛の結果であり、その愛の賜物である。神が彼らに、神に対する愛の精神をお与えになったのは、彼らを永遠の昔から愛しておられたからである。ご自分の選民に対する神の愛こそ、彼らの新生および彼らの贖い全体の土台なのである。2. 神が贖いのみわざにおいて、罪深い人間たちに対する素晴らしい愛を、イエス・キリストによって働かせ、また悟らせなさっているのは、神がその栄光ある道徳的完全さを、御使いと人間の双方に対して現わすための主たる手段である。またそれは、御使いと人間の双方が神に対していだく愛の、主たる客観的根拠の1つでもある。これは、これまで云われたことと首尾一貫したことである。3. ひとりの人が回心することによって悟られる、ある特定の選民ひとりに対する神の愛は、その人に神の道徳的完全さとご栄光を大いに現わすものであって、聖い感謝、これまで述べられたことと合致する感謝をひき起こす、ふさわしい機会となる。これらの点に鑑みると、聖徒たちが、まず神から愛されたがゆえに神を愛するのは、この箇所における使徒の議論の目的に全くかなうことである。だから、聖徒たちのうちに霊的で恵みによる愛を主として生じさせているのは、天来の事物のこの上もない美質であって、それと自分の利益の間に何か関わりがあると思えるためではない、という主張への有効な反論は何もここからは引き出せない。

 そしてこれは、聖徒たちのについてと同じく、彼らの喜び、また霊的楽しみについても云えることである。その第一の土台は決して、天来の事物における彼らの利益を考えることにではなく、こうした事物の、それ自体としての、天来の聖い美しさを思い巡らすのを彼らの精神が楽しむことに主として存している。そしてこれこそ、まさに偽善者の喜びと、真の聖徒の喜びとの主たる違いなのである。前者の喜びは自分自身のためのものであり、利己心が彼の喜びの第一の土台であるが、後者はを喜びとする。偽善者がその精神の喜びとも楽しみともしているのは、何よりもまず、自分自身の特権であり、自分が到達したと、あるいは到達するものと思い込んでいる幸福である。真の聖徒たちが、その精神の第一の喜びとも楽しみともしているのは、神の事がらの栄光ある慕わしいご性質についていだく種々の甘やかな観念である。これが彼らのあらゆる楽しみの源泉であり、彼らの嬉しさすべての精髄なのである。これこそ彼らの喜び中の喜びである。この、天来の事物の美しく喜ばしい性質を見てとることによって彼らがいだく、甘やかで、魅惑的な楽しみこそ、その後で彼らが、それらが自分たちのものであると考えることによっていだく喜びの土台なのである。しかし、偽善者たちの種々の感情のよりどころは、それとは逆の順序になっている。彼らが最初に喜びとし、昂揚させられるものは、彼らが神のお気に入りであるということである。そしてそこから、それを根拠として、彼らにとって神が多少は愛すべき方と思われるようになるのである。

 真の聖徒が神に対していだく喜びの第一の土台は、神ご自身の完全さである。そして彼がキリストに対していだく楽しみの第一の土台は、キリストご自身の美しさである。キリストを彼は、キリストご自身として、万人よりもすぐれたお方、すべてがいとしく思われるお方とみなす。キリストによる救いの道は、その人にとって楽しみの道である。そこに天来の完全さが甘やかに、また見事に現わされているからである。福音の聖い種々の教理は、神を高めて人間を卑しめ、聖潔を尊び押し進めて、罪を大いに辱めて妨げ、無代価の主権的な愛を明らかにするものだが、こうしたことがその人の目には、こうした事がらにおける自分の利益について何ら思い至る以前から栄えあるものと見え、自分の趣味にとって甘美に思われるのである。むろん聖徒たちは神にある自分たちの利益を喜びとするし、キリストが自分たちのものであることを喜びとする。彼らには、そのようにする大きな理由がある。しかしこれは、彼らの喜びの第一の源泉ではない。彼らは神を、神ご自身として栄光あり、この上もなくすぐれたお方として、まず最初に喜び、その後で、これほど栄光ある神が自分たちのものであることを、二次的に喜ぶのである。彼らは最初に、キリストのいとすぐれた美質と、その恵みのいとすぐれた美質と、キリストによる恵みの美しさとを見ることにより、最初にその心を満たされており、その後で彼らは、これほどこの上もなくすぐれた救い主と、これほどこの上もなくすぐれた恵みとが自分たちのものであることに、二次的な喜びを覚えるのである*3。しかし、真の聖徒たちの上部構造こそ偽善者たちの土台である。彼らは、福音と、御子を遣わす神の大いなる愛と、て罪人を愛していのちを捨てたキリストの愛と、聖徒たちのためにキリストが獲得し、約束した大いなる事物といった素晴らしい教えを聞くときには、またそれらが雄弁に述べられるのを聞くときには、それを非常な歓喜をもって聞き、聞いたことで心を高揚させられるかもしれない。しかし彼らの喜びを吟味するなら、そこに見いだされる土台はせいぜい、彼らがこれらの事がらを自分たちのものとしてみなしていること、これらすべてが彼らを昂揚させること、彼らがキリストの偉大な愛について聞くことを愛していること、それがある者らを他の者らにまさって大きく特別扱いする愛であること、でしかないであろう。というのも、自己愛によって彼らは、自分が他人よりも秀でていることを好ましく思うからである。このように、自分は堅固な状態にあると自信満々になっている彼らが、そうした教理に接して気分がよくなり、神とキリストが彼らをいかに重んじているかを聞くのを、この上もない喜びとするのも不思議ではない。だから彼らの喜びは、実は自分自身を喜んでいるのであって、神を喜んでいるのではない。

 そして自然の流れとして偽善者たちは、その喜びと高揚感を覚える際には、自分に目を注ぎ続けるのが常である。自ら霊的悟りと呼ぶものを受けた彼らが夢中になるのは、自分自身の種々の体験であって、神の栄光でも、キリストの美しさでもない。彼らは自分のことだけを四六時中考える。これは何と素晴らしい体験なのだろう! これは何と偉大な悟りだろう! 私は何と驚くべきことと遭遇したことか! そしてそのようにして彼らは、自分の種々の体験を、キリストと、その美しさと豊かさの代わりにしてしまう。キリスト・イエスを喜ぶかわりに彼らは、自分たちの不思議な種々の体験を喜ぶ。福音で提示されている事がらにつきものの、甘やかで、さわやかな、愛すべき美点を見ることで魂を養い、その食物を与えるかわりに彼らは、それらを、いわば横道ででもあるかのようにみなす。彼らが熱心に思い巡らす対象は、彼らの体験なのである。そして彼らは絶えず自分の魂を、また利己的な原理を、自分の種々の悟りをためつすがめつ眺めることによって養い、食物を与えているのである。彼らは、自分の悟りから、悟られたキリストからよりも多くの慰めを得ている。これこそ、種々の体験や心持ちを糧として生きるという真の意味である。また、私たちがそれらを自分の堅固な状態の証拠として用いない理由である。これは非常によく見受けられることだが、種々の証拠を拒絶する者たちの中には、上の真の意味による、体験にたよって生きることで最も悪名高い者たちがある。

 偽善者たちの種々の感情は、往々にしてこのような経過をたどって生ずる。まず最初に彼らは、自分の想像力に及ぼされた何らかの印象、あるいは衝動によって大いに感激し、それを、神の愛および彼らの幸福を示す直観的な示唆、あるいは神からの証しであると受けとる。そのとき何らかの聖句が伴うにせよ伴わないにせよ、彼らは、自分が何らかの点で高い特権を受けているものとのぼせあがり、ここから心震わせるような種々の感情が生ずるのである。彼らは、その感情をたかぶらせると、そうした心震わせるような種々の感情を見て、それを大いなる素晴らしい体験と呼ぶ。そして彼らは、神がそうした感情を大いに喜んでいるものと思い込む。これがさらに彼らに影響を及ぼし、彼らは自分の種々の感情によっても感動させられる。このようにして彼らの感情はとめどもなく高まって行き、ついに彼らは、時として完全に呑み込まれてしまうのである。またそこには、うぬぼれと、粗雑な情熱も生ずる。だがこれらすべては、砂上の楼閣のように、想像力と自己愛と高慢の上に建てられたものでしかない。

 また、そうした人々の考えについて云えることは、彼らの話し方についても云える。というのも、心に満ちていることを口が話すからである。彼らの心震わせるような種々の感情において彼らが注視しているのが自分たちの種々の体験の美しさであり、彼らの到達したものの偉大さであるのと同じように、彼らが休むことなく云い立てるのも、自分たち自身についてである。真の聖徒が大きな霊的感情のもとにあるとき、その心に満ちあふれ、言葉となって語らずにいられないことは、神についであり、神の栄光ある完全さとみわざ、キリストの慕わしい素晴らしさ、福音のもたらす栄えある事がらについてである。しかし偽善者たちが心震わされるとき語るのは、悟られたものよりも、その悟りそのものである。彼らは自分が受けた素晴らしい悟りについていくらでも語りたがる。自分がいかに、自分への神の愛について確信を持っているか、自分の状態がいかに安泰であるか、天国に行けることに自分がいかに自信があるか、などと。

 真の聖徒が神とキリストの甘やかな栄光を楽しみ、真に悟りえたとき、その精神は、われを忘れて、自分の見ているもののとりことなり、引きつけられてしまうため、そのときには、自分のことなど、また自分が到達したもののことなど全く見ようともしない。いま思い巡らしている魅惑的な対象から目を離して、自分の体験を思い巡らし、自分自身のことを考えて、これはいかに高い到達であろう、今や自分は他の人々にいかにすごい話を聞かせてやれるに違いないことか、といった思いに時を費やすなどというのは、彼にとって耐えがたい損失である! そのときの彼の精神の楽しさや甘やかさもまた決して、自分の状態の安泰さや、自分自身の資質、体験、状況について、彼がいかなる考慮を巡らしたかを主たる理由として生じているのではない。むしろそれは、彼が、われを忘れて直接目にしている対象たるものの、天来のえも云われぬ美しさから生じている。それこそ彼の精神を甘やかに楽しませ、堅くとらえているものなのである。

 偽善者たちの愛と喜びがことごとく自己愛に端を発しているのと同じく、彼らの他の種々の感情----彼らの罪に対する悲しみ、彼らのへりくだりと服従、彼らのキリスト教的な切望や熱心----もまた同様である。あらゆるものが、いわば前払いで支払われている。彼らの自己愛は、神がこれほど彼らを高く評価し、彼らを何にもまして高く引き上げてくれたと想像することに、強い満足を感じているのである。天性がいかに腐敗していようと、もしもそこに、自分は今や天国で最も優遇されるお気に入りのひとりであるとか、神は罪の陥っていた自分をこれほどまでに守りいつくしんでくださったとかいう概念が浮かぶとしたら、この想像上の神、自分たちにとって最高に都合の良い神を愛することなどたやすいであろう。また、それと同じくらい、その神をあがめ、その神に服従し、その神のために荒々しく情熱を傾けることもたやすいであろう。多くの人々の心震わせるような種々の感情はみな、自分たちが卓抜した聖徒であるという想像の上に建てられている。彼らの自分自身に対する評価を無に帰したとしたら、また彼らに、自分は聖徒たちの下等な部類の者でしかないと考えさせることができたなら(それでも自分は真の聖徒であると考えることはやめないであろうが)、彼らの心震わせるような種々の感情はぺしゃんこになってしまうであろう。もし彼らがほんの少しでも自分の心の罪深さや邪悪さを見てとることができたなら、また自分の最良の義務や最良の感情のただ中にすら奇怪な醜さがあるのを見てとれたなら、それは彼らの種々の感情を雲散霧消させてしまうであろう。なぜならそれらは利己心の上に建てられているので、自分の本性が明らかになるとともに消失してしまうのである。しかし、真の恵みによる種々の感情について云えば、それらはその土台を神とイエス・キリストに置いているので、自分自身を悟り、自分自身の奇怪な醜さを悟り、自分の体験のうそ寒さを悟ったとしても、それは彼らの種々の感情をきよめこそすれ、消失させるようなことはなく、いくつかの点では、それらをより甘やかにし、より高めさえするのである。

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*1 「世にはキリストに対する生来の愛というものがある。自分に利益をもたらし、自分の目的に好都合なお方として感ずる愛である。だが、主ご自身に対する霊的な愛というものもあり、そこでは主おひとりがあがめられる」。シェパードの『十人のおとめの例え話』、第一部、p.25。[本文に戻る]

*2 「むろん人は、信じた後になってキリストを見てとることもある。キリストを、その愛その他のご属性において見てとるということがある。しかし、私の語る、最初にキリストを見てとるということは、信仰の第二の行為に先立つものなのである。そしてこれは直覚的なこと、あるいは、彼の真の姿、そのご栄光におけるありのままのお姿で見ることである」。シェパードの『十人のおとめの例え話』、第一部、p.74。[本文に戻る]

*3 オーウェン博士は著書『聖霊』において、御霊の一般的な働きについてこう語っている(p.199)。「このみわざの効果を最初に受けるのは精神であるが、いくらこうした効果が精神に及ぼされても、そこで啓示された物事の愛すべき霊的な性質といとすぐれた美質によって楽しみと、充足感と、満足を覚えさせるまでには至らない。救いに至る照明の真の性質は、霊的な事物に対する直覚的な洞察力と考察を精神に与え、それら自身の霊的性質によって、それらを精神にしっくり感じさせ、精神を喜ばせ、満足させ、そうしたものと同じ性質に変じさせ、そうしたものと同じ型にはめ、そうしたもののうちに安らわせることにあるのである(ロマ6:17; 12:2; Iコリ2:13、14; IIコリ3:18; 4:6)。これは、私たちがこれまで強調してきた働きによっては、達せられない。というのも、霊的な事物についての悟りが、そこでいかに精神に及ぼされようと、精神は決して、直覚的で、直接の、霊的な、この上なくすぐれた美質をそうした事物のうちに見てとれないからである。それが見てとるのは、ただ単に、それらがもたらす何らかの恩恵か利得にすぎない。それは決して、キリストの御顔に輝く神の栄光(IIコリ4:6)と呼ばれる、イエス・キリストによる神の恵みの奥義についての霊的洞察を与えて、それを最初に直接目にした魂が、それ自体として、そこにあるものを尊び、喜び、是認し、そこから霊的慰めと清新さを見てとれるようにするようなことはない。むしろ、それが伝達する光や知識によってもたらされるのは、あわれみと救いの道として、人が好ましいと思う効果である」。[本文に戻る]



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