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第1節 真に霊的で恵みによる感情は、心に及ばされた霊的で超自然的な天来の影響や働きから生ずる

 私はこれから、こうした用語がいかなる意味であるか説明したいと思う。霊的な種々の感情とそうでない感情を見きわめる上で、それがいかなる役に立つかは、おのずと示されるであろう。----真の聖徒、すなわち、神の御霊によって聖なる者とされた人々は、新約聖書で霊的な人と呼ばれている。そして彼らが霊的であることは、彼ら独特の特徴として語られており、この点で彼らと、聖なる者とされていない他の人々との見きわめがつくとされている。これは、霊的な人々が生まれながらの人々と、あるいは肉的な人々と対置されていることからして明白である。たとえば霊的な人と生まれながらの人とは、次のように対置させられている。「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは霊的にわきまえるものだからです。霊的な人は、すべてのことをわきまえます」(Iコリ2:14、15 <英欽定訳>)。聖書から明らかなように、生まれながらの人とは、不敬虔な人、あるいは何の恵みも持たない人という意味である。たとえば使徒ユダは、聖徒の間にひそかに忍び込んできた、不敬虔な者(ユダ4)について語る際に、こう云っている。「この人たちは、御霊を持たず、……生まれつきのままの人間です」(19節)。使徒によれば、これを理由として彼らは、それまで述べてきたような邪悪なふるまい方をするのである。ここで生まれつきのままのと訳されたyucikoiという言葉は、Iコリ2:14、15で生まれながらのと訳された言葉と全く変わらない。それと同様に、同じコリント書の後段の部分で、霊的な人肉的な人と対置されている。これが先立つ節の霊的な人生まれながらの人間と同じ関係にあることは、文脈から明らかである。「さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、霊的な人に対するようには話すことができないで、肉的な人」----すなわち、はなはだしく聖められていない人*1----「に対するように話しました」[Iコリ3:1 <英欽定訳>]。したがって、もしこうした聖句の中で、生まれながらの、あるいは肉的という言葉が、聖められていないという意味で用いられているとしたら、疑いもなく、それと対置されている霊的という言葉は、聖とされた、恵みによる、という意味であるに違いない。また、聖書では聖徒たちが霊的と呼ばれているように、ある種の特性、資質、原理にも、やはり同じ形容辞が与えられている。それで、霊的な思い(ロマ8:6、7 <英欽定訳>)、霊的な知恵(コロ1:9)、霊的祝福(エペ1:3)などについて書かれているのである。

 さて、ここで云えることは、新約聖書のこうした聖句やその並行箇所における、この霊的なという形容辞は、人や物事が、人間の霊や魂と何らかの関係にあることを示しているのではない、ということである。霊や魂とは、人間の肉体すなわち物質的部分と対置される、霊的部分のことである。種々の資質は、肉体でなく魂のうちに座を占めているからといって霊的であるとは云われていない。聖書は、魂に座を占めている点にかけては霊的と呼ばれる資質に何ら引けを取らない資質のいくつかを、肉的なあるいは肉のものと呼んでいるからである。たとえば高慢や、自分を義とすること、また人が自分の知恵により頼むことを使徒は、肉のものと呼んでいる(コロ2:18)。また、何かが霊的と呼ばれるのは、それが非物質的なものと関係していたり、無形のものであるためではない。知者たちの知恵や、支配者たちの知恵は、霊に関係した非物質的なものだったが、使徒は彼らを生まれながらの人間と呼び、霊的なことについて全く無知であるとしているからである(Iコリ2章)。しかし、聖霊あるいは神の御霊とのかかわりにおいてこそ、新約聖書では、だれかが、あるいは何かが霊的であると呼ばれているのである。聖書における霊的なという形容詞は、という言葉が三位一体の第三位格の意味で用いられた場合の名詞から派生している。たとえばキリスト者が霊的な人と呼ばれているのは、彼らが御霊から生まれた者であり、彼らのうちに神の御霊が内住して聖い影響を及ぼしておられるからである。また、何らかの物事も、神の御霊に関係して霊的なものと呼ばれている。「この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、聖霊に教えられたことばを用います。霊的なものをもって霊的なことを解くのです。生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません」(IIコリ2:13、14 <英欽定訳>)。ここで、使徒その人がはっきり示しているように、霊的なこととは御霊に属することであり、聖霊に教えられたことなのである。このことは、この文脈全体を見渡すと、いやまさって明らかである。また、ロマ8:6では、肉の思いは死であり、《霊的な思い》は、いのちと平安です、と云われている<英欽定訳>。この肉の思い、また霊的な思いということで何が意味されているかは、続く9節で使徒が説明している。それによると、霊的な思いという言葉の意味は、心のうちに神の御霊が内住し、その影響を受けていることにほかならない。けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、《御霊の中にいる》のです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。同じことは、その文脈全体からも明らかである。しかし、このことの証拠を洗いざらい新約聖書からあげようとしたら、時間が足りなくなるであろう。

 また、ここで云っておかなくてはならないのは、確かに人々や物事が霊的であると呼ばれるのは、神の御霊とその影響にかかわる場合だが、通常、新約聖書の中では、必ずしも神の御霊から何らかの影響を受けているすべての者が霊的な者であるとは呼ばれていない、ということである。上にあげた引用箇所では、神の御霊の一般的な影響しか受けていない者が霊的な者と呼ばれているわけではない。すでに証明されたように、霊的な人とは、生まれながらの、肉的な、聖められていない人間と対置された、敬虔な人、という意味である。また使徒が霊的な思い(ロマ8:6 <英欽定訳>)という言葉で意味しているのが、恵みから出た思いであることははっきりしている。また、確かに生まれながらの人間も持てるような御霊の超常的な賜物のことが、御霊から出たものであるがゆえに霊的賜物と呼ばれることも時にはあるが、新約聖書の普通の言葉遣いでは、生まれながらの人は、たとえいかなる御霊の賜物を持っていようと、霊的な人と呼ばれてはいない。というのも、ガラ6:1から明らかなように、人が霊的であると呼ばれるのは、御霊の種々の賜物を持っているためではなく、御霊の種々のを持っているためなのである。「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、霊的な人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい」<英欽定訳>。柔和さは、御霊の実の一覧を示した直前の箇所で使徒が語ったばかりの徳目の1つである。したがって、新約聖書の言葉遣いにおいて霊的であると云われる資質とは、真に恵みによる、また聖徒たちに特有の資質のことなのである。

 こういうわけで、霊的な知恵と理解力について記されている箇所----たとえば、「どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように」(コロ1:9)、など----で意味されている知恵とは、恵みによる、また神の御霊の聖なるものとする影響から出た知恵のことである。というのも、疑いもなく霊的な知恵とは、さながら霊的な人生まれながらの人と対置させられているように、聖書が生まれながらの知恵と呼ぶものとは正反対のものを意味しているからである。したがって霊的な知恵とは、疑いもなく「上からの知恵」、すなわち、「第一に純真であり、次に平和、寛容、……」であるとされる知恵と同じものである(ヤコ3:17)。なぜなら使徒は、それと生まれながらの知恵を対立させているからである。「そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属……するものです」(ヤコ3:15)。----ここで「肉に属する」と訳された言葉の原語は、Iコリ2:14で「生まれながらの」と訳された言葉と同一である

 それで、生まれながらの人は、多くの聖書箇所から明らかなように*2、神の御霊の影響を多々受けていることがありえるが、それでも彼らは、聖書における意味において霊的な人ではない。また、彼らに及ぼされた神の御霊の影響に由来する種々の効果や一般恩恵や資質や感情は、霊的なものと呼ばれてはいない。その大きな違いは以下の2つのことに存している。

 1. 神の御霊は、真の聖徒たちのもとにあって、彼らをまさにご自分の永続的な住まいとして内住しておられる。また新しい性質の一原理として、あるいはいのちと行動を生み出す天来の超自然的な源泉として、彼らの心に影響を及ぼしておられる。聖書は聖霊のことを、聖徒たちを動かし、時たま影響を与えるお方としてだけでなく、彼らを宮とし、まさにご自分の住まいとし、永続的な居所として、彼らのうちに住まわれるお方であると表現している(Iコリ3:16; IIコリ6:16; ヨハ14:16、17)。また御霊は、魂の種々の機能と緊密に結び合わされたお方として表現されており、新しい性質といのちの一原理あるいは源泉にさえなっている。

 それで聖徒たちは、自らのうちに生きておられるキリストによって生きると云われるのである(ガラ2:20)。キリストはその御霊によって、彼らのうちにおられるだけでなく、彼らのうちに生きておられる。彼らはキリストのいのちによって生きている。彼らは生ける水を飲むだけでなく、この生ける水は、魂のうちで、泉、または源泉となり、霊的な、そして永遠のいのちへの水がわき出て(ヨハ4:14)、彼らのうちでいのちの原理となるのである。----この生ける水とは、福音書記者その人が説明しているように、神の御霊のことを指している(ヨハ7:38、39)。義の太陽の光は、ただ彼らの上に降り注ぐだけでなく、その光を分け与えられた彼らも輝くようにさせ、彼らを照らす太陽の小さな似姿とする。真の葡萄の木の樹液は、ただ容器に注がれるように彼らに与えられただけでなく、あたかも幹から生きた枝へと伝えられた樹液がいのちの原理となるようにして、彼らに分け与えられている。神の御霊がこのように聖徒たちに分与され、結び合わされているがために彼らは、正しくも霊的な者と名づけられ、そう呼ばれているである。

 逆に生まれながらの人々は、確かに神の御霊からさまざまに影響を受けることがあるとはいえ、そのような内的原理として御霊を分かち与えられることはないがゆえに、御霊に由来する何の名前も性格も引き出すことがない。そこに何の結びつきもない以上、自分のものとはなっていないからである。たとえば、暗褐色や黒い色のからだをした人に光が降り注いでいるとする。だが、どれほどそのからだがその光の影響を受けているとしても、それがそのからだの中で光る原理となったり、そのからだを内側から輝くものとしたりしていないがために、そのからだは、その光からまともに由来するような名前で、明的なからだとは呼ばれないであろう。そのように、神の御霊が魂の上からだけ活動していて、魂の内側における活動原理として自らを分与なさっていない場合、その魂を御霊に由来して霊的なものとは呼べない。黒いままのからだは、いくら上から光で照らされても、光を持っているとは云えない。そのように生まれながらの人々は、御霊を持っていないと呼ばれる。彼らは、生まれつきのままの、あるいは他の箇所の訳によれば、生まれながらの御霊を持たざる者なのである(ユダ19)。

 2. 聖徒たちと彼らの種々の徳が霊的なものと呼ばれるもう1つの(そして、その主要な)理由は、魂の中に生きた原理として住んでおられる神の御霊が、そこに種々の効果を生み出す際、ご自身の特有の性質で活動し、またご自分を分与なさるからである。聖さは神の御霊のご性質であって、なればこそ御霊は、聖書で聖霊と呼ばれている。天来の性質のいわば麗しさであり芳しさである聖さが、聖霊にとって特有のご性質であるのは、火にとって熱が、聖なる注ぎの油にとって芳しさがその性質であるのと変わらない。特に後者は、モーセ時代の経綸において聖霊の主要な予型であった。実際、むしろ私はこう云ってよいであろう。聖霊にとって聖さがその特有の性質であるのは、その油の芳しい香りにとって芳しさがその性質であるのと全く同じである、と。神の御霊は聖徒たちの心の中に住み、そこで、いのちの種あるいは泉のようになり、この芳しい天来の性質で活動し、ご自分を分与しておられる。御霊は、聖徒の魂を神の美とキリストの喜びとにあずからせ、その聖徒が、このように聖霊の交わり、すなわち聖霊にあずかることによって、御父および御子とも真に交わりを持てるようにしてくださる。聖徒たちの心の中にある恵みは、天来の聖さとくらべると、程度において無限に劣っていようと、同じ性質のものである。それは、太陽に照らし出されたダイヤモンドのきらめきが、太陽のきらめきとくらべて、程度においては無に等しくとも、同じ性質であるのと軌を一にしている。それでキリストは云うのである。「御霊によって生まれた者は霊です」、と(ヨハ3:6)。すなわち、聖徒たちの心の中で生まれた恵みは、御霊と同じ性質をしており、いみじくも霊的性質と呼ばれているのである。それは、肉によって生まれた者が肉であり、腐敗した性質から生まれた者が腐敗した性質であるのと同じである。

 しかし神の御霊が生まれながらの人の精神にこのようなしかたで影響を及ぼすことは、決してない。確かに御霊は、彼らにも多くのしかたで影響を及ぼすが、いかなる影響を及ぼすときも、決して、ご自分に特有の性質で彼らにご自分を分与なさるようなことはない。むろん御霊は、聖徒の精神に対しても罪人の精神に対しても、ご自分の性質に合致しないような行動は決してとられない。しかし神の御霊は、ご自分の性質に合致したしかたで人々に対して行動しつつも、彼らの精神の行為や働きの中では、ご自分に特有の性質で活動しないことも可能なのである。神の御霊は、ご自分の行動をご自身の性質に合致したものとさせつつ、その行動の効果という点では、ご自分に特有の性質でご自分を全く分与しないでいることがありうる。こういうわけで、たとえば、神の御霊は水の上を動いていたし、その行動には御霊の性質と合致しないようなものが何1つなかったが、それでも御霊は、その行動においてご自分を分与することを全くしておられなかった。その水の上での動きの中に、聖霊の特有の性質は何もふくまれていなかった。これと同じようにして御霊は、多くのしかたで人々の精神に対する活動をしつつ、無生物に対して活動をするときと変わりなく、まるでご自身を分与なさらないことがありうるのである。

 こういうわけで、異なっているのは、単に御霊とその働きを及ぼされる対象とのかかわり方だけではない。その影響や働きそのもの、また作り出された効果そのものが、この上もなく異なっているのである。それで、神の御霊が内住している人々だけが霊的と呼ばれるのではなく、御霊が彼らのうちに作り出した種々の資質や感情や経験も霊的と呼ばれているのである。このためこれらは、生まれながらの人が生まれながらの状態のまま受け取れるいかなる事がらとも、人間や悪霊がつむぎ出せるいかなる事がらとも、その性質と種類において大きく異なっているのである。これは、こうした高度な意味における霊的なみわざであって、それゆえ、他のいかなるみわざにもまして、神の御霊に独特のみわざなのである。これほど高度で、これほどすぐれたみわざはない。なぜなら、実に神がこれほどご自分を分与なさるみわざは他になく、ただの被造物が、こうした高度な意味において、これほど神にあずかることのできるわざはないからである。それでこのことが聖書で表現されるときには、聖徒たちが神のご性質にあずかる者となる(IIペテ1:4)とも、神は彼らのうちにおられ、彼らも神のうちにいる(Iヨハ4:12、15、16; 3:24)とも、キリストが彼らのうちにおられる(ヨハ17:21; ロマ8:10)とも、生ける神の宮である(IIコリ6:16)とも、キリストのいのちによつて生きる(ガラ2:20)とも、神の聖さにあずからせられる(ヘブ12:10)とも、キリストの愛が彼らの中にある(ヨハ17:26)とも、彼らの中でキリストの喜びが全うされる(ヨハ17:13)とも、神の光のうちに光を見、神の楽しみの流れを飲ませられる(詩36:8、9)とも、神と交わりを持つ(Iヨハ1:3)、あるいは(原語を直訳すれば)神と交わり、神にあずかるとも云われているのである。聖徒たちは、神の本質にあずかる者とされるわけではない。----すなわち、(一部の異端による冒涜的な言葉遣いを用いれば)神から神とされるわけでも、キリストからキリストとされるわけでもない。----むしろ彼らは、聖書の語句によれば、神の満ち満ちた豊かさにあずかる者とされるのである(エペ3:17-19; ヨハ1:16)。この豊かさとは、神の霊的な美しさと幸福とが、被造物の尺度や限度に応じて、満ち満ちているということである。満ち満ちた豊かさという言葉は、聖書の言葉遣いではそのような意味を表わしている。それゆえ、聖徒の心の中にある恵みは、神の最も輝かしいみわざであり、そこで神はご自分のご性質の美質を分与しておられるのである。これは疑いもなく、神に独特の、また、いかなる被造物の力をもはるかに凌駕したみわざである。そしてこれこそ私が、真に恵みによる種々の感情は、霊的で天来の種々の影響から生ずると云うときに、天来の影響という言葉で意味していることなのである。

 こうした霊的性質を有しているのは、真の聖徒たちだけである。他の者らは、単にこうした御霊の分与を、聖徒たち並みの高度な程度において有していないというだけではない。そうした性質のもの、そののものを、全く有していないのである。使徒ヤコブは、生まれつきの人々は御霊を持っていない、と告げている。キリストも、人には新しく生まれることが必要である、すなわち、御霊によって生まれることが必要であるとお教えになった理由として、肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です、と云っておられる(ヨハ3:6)。いかなる程度であれ、彼らのうちに神の御霊は住んでおられない。使徒が教えるように、神の御霊が住んでいる者はみな神のものだからである(ロマ8:9-11)。また、神の御霊を持っていることは、やがてその人々が永遠の資産を持てるようになる確かなしるしとして語られている。というのも、御霊はその保証だからである(IIコリ1:22; 5:5; エペ1:14)。また、御霊から出たものを何か持っているなら、それは、その人がキリストのうちにある確かなしるしであると云われている。「神は私たちに御霊のものを与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります」(Iヨハ4:13 <英欽定訳>)。だが不敬虔な人々は、聖徒たち並みに天来の性質を持っていないどころか、それにあずかる者ですらない。ということは、彼らはそれを全く有していないということである。なぜなら天来の性質にあずかる者となることは、真の聖徒たち特有の特権であると語られているからである(IIペテ1:4)。不敬虔な人々は神の聖さにあずかる者ではない(ヘブ12:10)。生まれながらの人は霊的な物事を何1つ経験していない。彼は、そうしたものとまるで縁がないあまり、それらについて全く無知な、完璧な門外漢である。こうした物事に関する話は、その人にとってはことごとく愚劣なことであって、その人はそれが何を意味しているのかがわからない。「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは霊的にわきまえるものだからです」(Iコリ2:14 <英欽定訳>)。また、同じようにキリストは、この世が神の御霊について全く知らないと云っておられる。「その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです」(ヨハ14:17)。また、生まれながらの人々のうちに聖徒たちの真の恵みと同じ性質をしたものが何1つないことを、さらに明らかにしていることがある。それは、使徒が告げるように、そうした人々のうちキリスト教信仰から最もかけ離れてしまった者らには、何の愛もなく、いかなる真のキリスト者的な愛もないことにある(Iコリ13章)。そのようにキリストも他の箇所で、思い上がったにせ宗教家であったあのパリサイ人たちに向かって、彼らのうちには神の愛がない、と叱責しておられる(ヨハ5:42)。こういうわけで生まれながらの人々は、キリストと交わること、交わりを持つこと、あるいは原語を直訳すれば彼にあずかることがないのである。それは聖徒たち特有の特権であると語られている(Iヨハ1:3、6、7; Iコリ1:8、9)。また聖書によると、恵みによる原理は、初めは魂に蒔かれた種のように、人が罪人である事実と相容れないものではあっても、現実に魂の中に存在しているのである(Iヨハ3:9)。だが生まれながらの人々について聖書は、彼らを何の霊的も、何の霊的いのちも、何の霊的実体も持たないものと云い表わしている。それで回心は、しばしば盲人の目を開くことや、死人のよみがえり、また被造物が全く新しい者とされ、生まれたばかりの子どもとなる創造のみわざにたとえられているのである。

 こうしたことから明らかなように、聖徒たちに及ぼされた種々の恵みによる影響や、彼らが経験する神の御霊の種々の効果は、全く天性を越えたものであって、人間が生まれながらの諸原理を働かせることで自らのうちに見いだすいかなるものとも完全に異なったものである。生まれながらの諸原理をいくら改善させ、向上させ、高めても、またいかなる生来の気質をもってしても、決して人をそうした影響や効果に至らせることはできない。なぜならそれらは、天性のものとも、生まれながらの人々が経験するいかなるものとも、程度や詳細において異なるばかりでなく、その種類において異なっており、はるかに凌駕する性質のものだからである。そしてこれこそ私が、恵みによる種々の感情は、超自然的な種々の影響から生ずると云うときに、超自然的なという言葉で意味していることなのである。

 ここから当然わかるのは、神の御霊の救いに至る影響を受けて、内側にこうした恵みによる働きや感情を作り出された聖徒たちの精神には、何か新しい、内的な知覚あるいは感覚がある、ということである。それは、聖なる者とされる前の彼らの精神に力を及ぼしていたいかなるものとも、全く性質や種類の異なったものである。なぜなら、もし神がその全能の御力によって何か新しいものを生み出したとしたら、またそれが、その程度や様相が新しいばかりか、その全性質において新しいもの----それ以前にあったいかなるものをいかに高め、変化させ、組み合わせようが、いかに似たようなものをつけ足そうが、全く生み出せないようなもの----であったとしたら、疑いもなくそこでは、何か全く新しいものが感じられ、知覚されるに違いない。そこには、一部の形而上学者が新しい単純観念と呼ぶものがあるのである。もし恵みが、上で述べたような意味において、完全に新しい種類の原理だとしたら、その恵みの働きもまた新しいことになる。そしてもし魂の中に、それ以前にはその魂が全く何も知らなかったような、またそれ以前にあったいかなるものを改善し組み合わせやりくりしても生み出せなかったような、新しい種類の意識的な種々の働きがあるとしたら、当然のことながら、その精神には完全に新しい種類の知覚や感覚があるはずである。ここには、新しい霊覚ともいうべきもの、あるいは、新しい種類の知覚あるいは霊的感覚の原理がある。それは、その全性質において、以前有していたいかなる種類の精神感覚とも異なったもの、さながら味覚が他のどのような感覚とも違うように異なったものである。そして真の聖徒は、この新しい精神感覚を働かせることによって、霊的で天来の事がらの中に何かを知覚するのである。それは、生まれながらの人々がそうした事がらの中に知覚するいかなるものとも完全に異なったもの、さながら蜂蜜の甘さがその蜂蜜を眺めたり触ったりするだけで得られる観念とは違っているように異なったものである。そのため、聖なる者とされた霊的な人が有する種々の霊的知覚は、ただ単に、同じ感覚の知覚が人によって異なるように、生まれながらの人々が有するすべてのものと異なっているのではない。むしろ、個々の感覚が受ける観念や感覚が、互いに異なるように異なっているのである。こういうわけで聖書は、新生における神の御霊のみわざのことをしばしば、新しい感覚を与えること、すなわち、見る目や、聞く耳を与え、耳しいの耳をあけ、生まれつきの盲人の目を開き、暗闇から光に立ち返らせることにたとえているのである。また、この霊的感覚が測り知れないほど貴く、この上なくすぐれており、これなくして他のいかなる知覚原理も私たちのいかなる精神機能も無益でむなしいものであるため、この新しい感覚を与え、そのほむべき種々の結実と効果を魂にもたらすことは、死者のよみがえりとも、新しい創造ともたとえられているのである。

 この新しい霊的感覚と、それに伴う種々の新しい性向は、決して何らかの新しい機能(faculties)ではなく、性質の新しい原理(principles)である。ここで原理という言葉を使うのは、それ以上明確な意味を持つ言葉が見あたらないためである。この性質の原理(principle of nature)という言葉で私が意味しているのは、古い性質新しい性質を問わず、性質の中に据えられた土台のことである。その土台を元として、魂の諸機能は、ある特定のしかた、ある特定の種類の働きを行なうのである。あるいはこれは、魂の諸機能をそうした特定のしかたで働かせる能力と性向を人に与える、自然な習慣、行動の土台である。それでその人は、そういうしかたでその諸機能を働かせる性質なのだ、と云われうるのである。このようにして、この新しい霊的感覚は、新しい知性の機能ではなく、同じ知性の機能を新しい種類の働きに向かわせるべく、魂の性質中に新しく据えられた土台なのである。またこのようにして、この新しい感覚に伴う、心の新しく聖い性向は、新しい意志の機能ではなく、同じ意志の機能を新しい種類の働きに向かわせるべく、魂の性質中に据えられた土台なのである。

 神の御霊が生まれながらの人々の精神上でその働きを行なう場合には常に、生まれながらの諸原理を動かすか、印象づけるか、補助するか、改善するか、何がしかの影響を及ぼすだけで、何1つ新しい霊的原理を与えはしない。たとえば神の御霊は、バラムに対してそうしたように、生まれながらの人に幻を与えるときには、ただ単に生まれながらの原理----視覚----に、直接その感覚の観念を喚起させて印象づけるだけで、何も新しい感覚を与えるわけではない。また、そこに何らかの超自然的で霊的な天来のものがあるわけでもない。もし神の御霊がある人の想像力に、夢の中で、あるいは覚醒中に、音声か形か色かによる外的な観念の感覚を何か印象づけたとしても、それは生まれながらの原理や感覚でも持てるのと同じ種類の観念を喚起しているにすぎない。それでもし神が生まれながらの人に何らかの秘密の事実を啓示するとしても、----たとえば、その人が未来に見聞きするはずのことを明かすとしても----、それは何か新しい霊的原理を注入したのでも、及ぼしたのでも、何か新しい霊的感覚の観念を与えたのでもなく、ただ単に、未来において視力や聴力が受けとるだろう観念を、超常的なしかたで印象づけたにすぎない。それで、神の御霊が罪人の心に及ぼす、より日常的な影響においても御霊は、単に生まれながらの諸原理を補助して、それらが天性でもちゃんと行なえるのと同じ働きを、より大きな程度で行なえるようにしているにすぎない。たとえば神の御霊は、幕屋の精巧な細工をさせるベツァルエルとオホリアブをお助けになったように[出31:2-6]、その一般的な諸影響を及ぼして、人間の生まれながらの才幹をお助けになることがある。政治的問題において、人間たちの生まれながらの諸能力を助けたり、彼らの勇気その他の生まれながらの資質を向上させることがある。それで神は、その御霊を七十人の長老やサウルに授けて、彼の心を変えて新しくされたと云われるのである[Iサム10:9]。神は生まれながらの人々の理性を大いに助けて、世俗の事がらあるいは信仰上の教理について論じさせ、多くの点における彼らの理解と意見を大いに明確なものとさせながら、何の霊的感覚もお与えにならないことがある。それで神は、人が生まれながらの状態でも持てるような覚醒と罪の確信を覚えているときには、ただ単に、良心という生まれながらの原理を補助して、それが本来行なっているわざを、より進んだ程度で行なうようにさせているにすぎない。良心は本来人々に善と悪を悟らせ、善悪とその報いの間にある関係を示唆するものである。神の御霊は人々の良心を補助して、このことをより大きな程度において、しかも世的な事物とその情欲との麻痺力とに抗して行なわせるのである。これら以外にも、御霊が生まれながらの種々の原理に働きかけ、補助し、動かすしかたはたくさん述べることができよう。しかし結局のところ、それは天性が動かされ、働きかけられ、向上させられたにすぎない。ここには超自然的なものや、天来なものは何もない。しかし神の御霊は、その霊的な種々の影響により、天来の超自然的な原理を新たに注入し、活性化させることを通して、神の聖徒たちの心の上に働きかけるのである。そうした原理こそ、新しい霊的な性質であり、生まれながらの人々のうちにあるあらゆるものにはるかにまさって尊く、この上なくすぐれた原理なのである。

 ここまで述べられたところから当然わかるように、霊的で恵みによるすべての感情に伴い、その源となっているのは、ある種の理解と、観念と、精神の感覚であって、それらは、生まれながらの人の精神の中にある----あるいは、ありうる----いかなるものとも、その全性質において異なっているのである。事実、測り知れないほど異なっているのである。生まれながらの人は、これを全くわきまえることができない(Iコリ2:14)。それは、さながら味覚を持たない人が蜂蜜の甘みを想像もできず、聴覚を持たない人が歌曲の旋律を想像もできず、生まれつきの盲人が虹の美しさを考え及びもできないのと同じである。

 しかしここで、このことを正しく理解するために、2つのことを述べておかなくてはならない。

 1. 一方で述べておく必要があるのは、霊的な種々の感情に属するものが、必ずしもことごとく新しく、生まれながらの人々の体験するものと似ても似つかぬものだとは限らない、ということである。ある種の事がらは、恵みによる感情にもそうでない感情にも共通している。その様相や、付帯的状況や、効果には、多くの共通点がある。たとえば、聖徒の神への愛には、生まれながらの人が自分に近しい者に対していだく愛と共通することが多々ある。神への愛によって人は神の栄誉を求め、神を喜ばせようとするようになるが、生まれながらの人がその友人に対していだく愛情も、相手の名誉を求め、相手を喜ばせようとするものである。神への愛によって人は神の御前に出て、神について考えるのを喜ぶようになり、神にならう者となること、神を喜ぶことを願い求めるが、これは人がその友人に対していだく愛情と同じである。両者に共通することとしては他にも多く言及できよう。しかしそれでも、聖徒が神の麗しさについていだく観念や、その麗しさを思い描いて感ずる喜び、すなわち、彼の愛の真髄とも精髄とも云うべきものは、聖徒に独特のもの、生まれながらの人がいだいたり、考えを及ぼせたりするいかなるものとも完全に異なったものである。また、一見共通しているように思える事がらにおいてさえ、どこかしら独特なものがある。霊的な愛も生まれながらの愛も、愛する対象への欲求を引き起こすものである。しかし、それらは同じ種類の欲求ではない。神を愛する人の霊的な欲求には、いかなる生まれながらの欲求とも全く違う、魂の感覚がある。霊的な愛も生まれながらの愛も、愛する対象への喜びを伴うものである。しかしその喜びの感覚は同じものではなく、完全に、またこの上もなく異なっている。生まれながらの人々は、霊的な種々の感情については多くのことを想像できるかもしれない。だが、そうした感情の核心、あるいは芯ともいうべきものについて、生まれながらの人は、さながら生まれついての盲人が色について想像できないのと同じくらい想像できないのである。

 良いたとえとして、ここにふたりの人がいたとする。ひとりは生まれつき味覚がなく、もうひとりはあるとする。後者は蜂蜜を愛していて、それはその甘い味を知っているからである。前者はある特定の音や色を愛している。それぞれの人のには、多くの点で共通するところがある。たとえば、それがどちらの人にも愛するものへの欲求と喜びを起こさせ、それがないと悲しみを起こさせるといったことである。しかし、蜂蜜の味を知っている人がその素晴らしさと甘みに対していだく感動は、もうひとりの人が持っている、あるいは、持つことのできるいかなるものとも完全に異なったものである。さらにこの人たちは、どちらとも、いくつかの点において同じ対象を愛していることもありうる。ひとりは美味しい果物を、その美しい色形を見るだけでなく、その甘い味を知っているために愛しているかもしれない。もうひとりは、その果物の味は全くわからないが、その美しい色のためだけに愛しているかもしれない。多くのことは、いくつかの点において、両者に共通しているように思われる。どちらにも愛と、欲求と、喜びがある。しかし、一方の人の愛と願望と喜びは、もう一方の人のそれとは完全に異なっている。生まれながらの人と霊的な人の愛の違いも、これと似たようなものである。ただし、霊的な対象の美質としてこの二種類の人々がそれぞれ知覚するもの同士の差は、味覚のある人と味覚のない人が美味しい果物に知覚するような種類の美質の差とは、それ自体で、途方もない隔たりがある、とだけは云っておかなくてはならない。これ以外の点では、それほど大きな違いはないかもしれない。すなわち、霊的な人には、天来のものの独特の美質を知覚する感覚はあるが、初めのうちそれはごく小さく、非常に不完全な程度でしかないであろう。

 2. もう一方で述べておく必要があるのは、生まれながらの人がいだく種々の信仰的な理解や感情は、自分では多くの点で非常に新しく驚きに満ちたものかもしれないが、そこで体験されているのは、新しい性質の働きとは全く似ていないということである。その人の種々の感情は非常に新しく、これまでとは全く違うありかたで、多くの新奇な様相を帯び、種々の生まれながらの感情同士が新たに働き合い、種々の考えが新たに組み合わされているかもしれない。これは何かサタンの異常に強力な影響や、何か大きな惑わしによるものかもしれない。しかしそれは、天性が異常に活性化させられている以外の何ものでもない。たとえば、ずっと田舎家に住んでいて、生まれ育った辺鄙な村の外を見たこともない貧民が、何かの冗談で、大都市の王宮の中に連れてこられ、王侯のような着衣に着飾られ、貴顕貴族らが平伏する中、王座につかせられ、額には王冠を戴かされたとしたら----また、自分は今や荘厳な君主であると信じ込まされたとしたら----、彼の考え方、また彼が経験する種々の感情は、多くの点で非常に新しく、以前にはまるで想像もしたことがないようなものであろう。しかしながら、だれがどう考えても、彼に対してなされたことは、生まれながらの原理を異常にかき立てて興奮させ、それまでも生まれつき持っていたような種類の考え方を新たに昂揚させ、あれこれ変じさせ、組み合わせただけのものでしかない。これは彼に新しい感覚が与えられたのだなどと、だれが云うだろうか?

 総じて私の思うところ、すでにはっきり明らかになったように、真に恵みによる感情はすべて御霊の種々の特別で独特の影響から生じており、その影響は、聖徒たちの魂のうちにはっきり感じとれる効果あるいは感覚を作り出していて、その効果や感覚は、生まれながらの人が体験できるいかなるものとも完全に異なるもの----程度や様相が異なるだけでなく、その全性質において異なるもの----である。それで、生まれながらの人は、個別的に同じものを経験できないだけでなく、その種類においても、この上なく異なる、はるかに劣ったものしか経験できない。彼らは決して、人間や悪霊の力が生み出せないものは経験できず、それと同じ性質を有するものは何も経験できないのである。

 私がこの件についてかなり長々と強調してきたのは、この主題をこのように理解しておくことが、如実に重大かつ有用きわまりないものだからである。それは、多種多様なまがいものの宗教的感情が入り乱れ、おそらくキリスト教会のいつの時代とも同じように、おびただしい数の人々が惑わされている今の時代に、サタンの種々の惑わしを見破るために重要であり有用である。それだけでなく、神の御霊の働きや真の恵みの性質に関する多くの教理箇条に決着をつけ、確定する上でも重要であり有用である。----さて私たちはここから、こうした事がらをこの論述の目的に沿って適用したいと思う。

 ここから明らかに見てとれるように、ある人々の想像力に及ぼされた種々の印象----すなわち、神や、キリストや、天国や、その他の、キリスト教信仰にかかわるすべてに関する想像上の観念----には、霊的なものや真の恵みの性質は全くふくまれていない。確かにこうした事がらは霊的なことに伴ったり、それと入り交じっていることもあるが、それ自体としてはこれらは、恵みによる経験のいかなる部分でもないのである。

 ここで、専門知識にうとい人々のために、想像力に及ぼされた印象、および想像上の観念という言葉の意味を説明しておこう。想像力とは精神の能力の1つで、外的な事物や外的感覚の種々の対象が目の前にない場合も----それゆえ感覚によっては知覚できない場合も----、そうしたものの知覚や観念を精神にいだかせることができる力のことをいう。この想像力(imagination)という言葉は、像(image)という言葉に由来している。なぜなら、この力によって人は、何らかの外的事物が、それ自体であれ、それに似た何かであれ、目の前には存在しないときも、自分の精神の中にその像を有することができるからである。私たちの五感----視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚----によって私たちが知覚するものは、外的な事物である。そして、人がその精神の内部にこうした事物の像を有しているのに、実際にそれを見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったり、触ったりしていない場合、それは、そうした事物の想像であって、こうした観念は想像上の観念なのである。こうした観念が精神に強力な印象を与えるとき、またその像が非常に真に迫っていて、あたかもそれを実際に目にしたり耳にしたりするかのような気がするようなとき、それは想像力に及ぼされた印象と呼ばれるのである。たとえば、色や形は外的な事物、すなわち、視覚という外的感覚の対象である。それゆえ、もしもだれかが精神に何らかの形や、色や、顔立ちのまざまざとした観念を有したり、視覚的に知覚するような光と闇の観念、あるいは紙に記された記号、たとえば書物に印刷された文字や単語などの観念などを有したりするとき、それは、私たちが時たま肉体の目で知覚する事物を想像している、すなわちそうした事物についての外的な、想像上の観念を有しているということなのである。そして私たちが音や、声や、語られた言葉の観念を有するとき、これは、外的な聴覚によって知覚される外的事物の観念を有しているということにほかならず、それもまた想像なのである。こうした観念がまざまざと感じられ、あたかもそれらが本当に耳で聞かれたかのように印象づけられるとき、これは想像上の印象を有しているということなのである。これと同様に、他の3つの嗅覚味覚触覚という感覚に属する事物の観念における事例をもあげることができよう。

 こうした事がらを有した多くの人々は、無知にも、そうしたものが霊的な悟りという性質を帯びたものであると思い込んできた。彼らは、何らかの外的な形や、美しい顔立ちの観念をまざまざといだき、これを彼らは霊的にキリストを見たのだと呼んでいる。またある人々は、何らかの外的な光の観念を強烈に印象づけられ、これを彼らは神の栄光、あるいはキリストの栄光の霊的悟りであると呼ぶ。ある人々は、十字架にかけられたキリスト、またその御傷からしたたり落ちる血潮の観念をいだき、これを彼らは十字架にかけられたキリストを、またその血による救いの道を霊視したのだと呼んでいる。ある人々は、自分たちをかきいだこうと両手を大きく広げたキリストを見て、これをキリストの恵みと愛とが十分豊かであることを悟ることと呼んでいる。ある人々は天国や、そこで御座についたキリストや、光輝く聖徒や御使いがずらりと居並ぶ姿の観念をいだき、これを彼らは、天国が自分たちの前に開かれたのを見たと呼んでいる。時としてある人々は、自分たちに微笑みかける美しい顔立ちの人物の観念をまざまざといだいて、これを彼らは自分の魂に対するキリストの愛の霊的悟りとも、キリストの愛の味わいとも呼んでいる。そして、それを根拠として彼らは、こうした事がらが霊的悟りであり、自分がそれを霊的に見たのだとみなしている。なぜなら彼らは、「自分はそれらを肉体の目ではなく、心の中で見ているのだ。目を閉じたままでも見られるからだ」、と云うからである。これと同じようにある人々は、想像力に聴覚の観念が印象づけられる。彼らは、あたかも耳に語りかけられたかのような、時には聖書の言葉を、時にはその他の言葉の観念をいだくことがあった。彼らは自分たちにキリストが慰めのことばを語っているという観念をいだくことがあった。こうした事がらを称して彼らはキリストの内的な召しを受けること、キリストの声を心で霊的に聞くこと、御霊の証しを受けること、キリストの愛の内的証言を得ること、などと呼んでいる。

 一般の、あまり思慮深くない種類の人々は、手もなくこうした事がらが霊的な事がらであると思い込んでしまう。なぜなら、霊的な事がらは目に見えないものであるため、そうしたものについて語る際、どうしても私たちは比喩的な表現を用いざるをえず、それらを指し示すのに感知できる事物の名辞を借りてこなくてはならないからである。こうして私たちは、霊的な事がらを明確に理解することをという名で呼び、物事を理解することを、そうした物事を見るという名で呼ぶのである。福音書中のキリストのことばで判断を確信し、意志を納得させることを指し示すのに私たちは、キリストの召しを霊的に聞くと云う。聖書そのものが、これと同様な云い回しに満ちている。そうした云い回しをしばしば聞いている人々、またあなたの目は開かれる必要がある、霊的な事がらを悟らされる必要がある、キリストをその栄光のうちに見る必要がある、内的な召しを受ける必要がある、などとしきりに強調されてきた人々は、無知にも、何らかの外的な悟りや想像上の光景を待ち望み、待ち受ける。そして、そうしたものを手に入れると彼らは、今こそ自分たちの目は開かれ、今こそキリストは自分たちにご自分のことを悟らせ、今こそ自分たちは神の子らとされたのだと確信しきってしまう。そしてここから彼らは、その解放感によってこの上もなく感動し、高揚させられ、多種多様な感情がたちまち荒々しく巻き起こるのである。

 しかし、この上もなく明らかなことであるが、こうした種々の観念には、何も霊的なもの天来のものがふくまれていない。ここまでで証明されたように、恵みによる経験はいずれも、霊的で天来のものである。こうした外的な種々の観念は、人が天性によっていだきうるあらゆることと、いかなる点においても、またその全性質において、いささかも異なることがない。それどころかそれらは、人間性の下等な能力とされる外的な感覚によって私たちがいだくものと同じ種類のものである。それらは単に、外的な対象の観念、外的に感じとれる種類の観念でしかない。それらは、私たちが動物たちと共通して有する生まれながらの諸原理によっていだくものと、(程度においてではなく、単に様相において異なるにすぎない)同じ種類の精神感覚でしかない。だが、もし霊的感覚のことを、私たちが種々の動物的な感覚----動物たちも私たちに劣らず完全に有しているような種々の感覚----によっていだくような種類の観念を知覚したり想像したりすることにすぎないなどと考えるとしたら、それは霊的感覚に関する低劣で、みじめな考え方である。これはキリストを、あるいは魂の中の天来の性質を、ただの動物に変えてしまうことでしかないのではなかろうか? 魂は、たとえ生まれながらのままで何1つ新しい原理がなくとも、こうした外的な観念の影響をまるで支障なく受けられるのではなかろうか? 生まれつきの人も、目の前にないものの形や色や音声について何らかの観念をいだくこと、その観念をまざまざといだくことは、新生した人にいささかも劣らずできることである。つまり、そこに超自然的なものは何もないのである。また、経験からあまねく知られているように、人はその人間性を向上させたり完成させたりすれば即、こうした真に迫る想像上の観念をまざまざといだけるようになるのではない。むしろ逆に、肉体や精神が弱い人の方が、はるかにそうした印象に影響されやすいのである*3

 真に霊的な感覚について云うと、それが精神にやってくるしかたが超常的なだけでなく、これまで示されたように、その感覚そのものが、生まれながらの状態にある人々がいだく----あるいは、いだける----いかなるものとも、完全に異なっているのである。しかしこうした外的な種々の観念について云うと、それらが精神にやってくるしかたは時として異常なものであっても、だからといってそうした観念そのものが何かましなものであることにはならない。それらはやはり、人々がその種々の感覚によっていだける種類のものと何ら違ってはいない。それらは、いささかも高度な種類のものではなく、毛ほどもましなものではない。たとえば、ある人が、十字架にかかって血を流しているキリストの外的な観念を今いだいているとしても、それは、キリストの十字架を取り囲んだ、キリストの敵のユダヤ人たちが、目を血走らせてその光景を見ていたときにいだいていた外的な観念にくらべて、それ自体としては、何らましなものではない。神の外的な輝きと栄光について人々が今いだいている想像上の観念は、荒野にいたよこしまな会衆が、シナイ山で主の外的な栄光を肉眼で見たときにいだいた観念とくらべて、何らましなものではない。あるいは、永遠の滅びに至るおびただしい数の呪われた人々が、最後の審判の日にいだく、キリストの外的な栄光の観念とくらべて、何らましなものではない。その日彼らは、いまだかつていかなる人間の想像力が思い描いたものより何万倍もまさる、キリストの外的栄光を目の当たりにし、まさに現実そのものの観念をいだくことになるのだが*4。人々がその想像の中で思い描くキリストの像は、それ自身の性質として、ローマカトリック教徒が、その教会の中で目にする美しく感動的なキリストの聖像によって思い描くようなキリスト像よりも、何かまさった種類のものであろうか? 彼らのいだく種々の感情が主としてそうした想像をもととするものであるとしたら、果たしてそれらは、そうした聖像の姿によって無知な人々が高揚させる種々の感情----しかも、往々にして豊かな感情----に何かまさるものがあるだろうか? 特にこうした聖像が、司祭たちの手管によって、動いたり、語ったり、泣いたり、その他のことをさせられるようなときの感情にまさるものがあるだろうか?*5 人々がこうした想像上の観念を受けとるしかただけでは、受け取られた観念そのものの性質は変わらない。たとえそれがどのようなしかたで受け取られたものであっても、それらはやはり外的な観念でしかなく、外的な見かけをした種々の観念にすぎず、霊的なものではない。しかり、たとえ人々が現実にそうした外的な種々の観念を、いと高き神の直接的な力によって、彼らの精神に受け取ったとしたとしても、それらは霊的なものとはならず、神の御霊の一般的なみわざ以上のものではないであろう。事実、バラムの場合は明らかにそうであった。彼は神ご自身によって、イエス・キリストについての明確な外的な表象を、あるいは観念を、まざまざと精神に印象づけられ、ヤコブから一つの星が上ることを、神の御告げを聞く者、いと高き方の知識を知る者、全能者の幻を見る者、忘我のうちにひれ伏す者として聞いた(民24:16、17 <英欽定訳>)。しかしバラムは、キリストに関する霊的な悟りは全く受けなかった。その1つの星は決して彼の心の中に上ることがなく、彼は生まれながらの人間のままでしかなかった。

 また、こうした外的な種々の観念が何も天来のもの、霊的なものをその性質として有しておらず、単に生まれながらの人々が、何の新しい原理もなしに持てるものしか有していないのと同じく、それらの性質も、神の御力の働きなど全く必要とせずに生み出されるものでしかない。すでに示されたように、真の恵みを生み出すためには、神の輝かしい御力の独特で、無比の、並びなき働きが必要とされるものだが、こうした性質の中には、悪魔の力の及ばないものは何もないように思える。種々の考えを人々に吹き込むことなど確かにサタンにとってごくたやすいことに違いない。さもなければサタンは、人を罪に誘惑することもできないであろう。だが、もしサタンが少しでも何らかの考え、あるいは観念を人に吹き込むことができるとしたら、疑いもなくサタンは、想像上の考えあるいは観念、あるいは外的な事物の観念を吹き込むことなど、手もなく行なえるに違いない*6。というのも、これらが最下等の種類の観念だからである。こうした観念を生じさせるには、肉体に印象を及ぼしたり、血気を盛んにさせたり、脳に印象を及ぼすだけでよい。経験からあまねく確かに示されているように、肉体における種々の変化は、種々の想像上の観念を精神にかき立てるものである。高熱のときや、鬱症のときなどが良い例である。これらの外的な観念は、肉体が人間の部分としては魂よりも高貴でないのと同じくらい、魂のより知的な働きに劣るものである。

 また、こうした外的様態の想像は、ただ単にその性質の中に、それらが悪魔の力の及ばないものであると推論できるものが何もないばかりではなく、悪魔がそうした観念をかき立てられること、また、しばしばかき立ててきたこともまた確実なのである。偽りを言う霊の影響にあった、古のにせ預言者たちの夢や幻の中で悪魔がかき立てたのは、外的な種々の観念であった*7。そして、この外的な種々の観念こそ、悪魔がしばしば異教徒の司祭や呪術師や魔術師の精神の中に、その幻や恍惚状態の中で、かき立ててきたものであった。また、この外的な種々の観念こそ、悪魔が、現実に目の前には存在してもいないこの世のあらゆる王国を、その栄華とともに見せたとき、人間キリスト・イエスの精神のうちにかき立てたものであった。

 そしてもしサタンが、あるいは何らかの神ならぬ存在が、外的な表象を精神に印象づける力を有しているとしたら、いかなる特定の種類の外的表象であろうと、それが天来の力の所産である何の証拠ともなりえないはずである。人の形を想像させて見せるのは、何か他の形を見せるよりも、よけいに全能の御力が必要だろうか? 脳裏に肉体の形や色を思い浮かばせるのに、何か格別に高度な力が必要だろうか? 心に人の形を思い浮かばせるのは----たとえそれが非常に美しい人間の肉体であり、その顔立ちに甘やかな微笑をたたえ、両手を広げ、手足と脇腹から血を流している姿であったとしても----、木っ端や木片の形を思い浮かばせるよりも、よけいに栄光の力が求められるのだろうか? 暗黒や暗闇を想像させられるような種類の力があれば、まばゆく明るい輝きを想像させることもできるのではないだろうか? 藁くずや、棒切れの絵を紙片や画布に描ける力の持ち主は、おそらく腕を磨きさえすれば、非常な美しさと威容ある尊厳をいだいた人間のからだを描いたり、黄金を敷きつめた、光輝に満ちた壮麗な都市や、輝かしい玉座を描くことが十分できるのではなかろうか? このように、脳裏にこれらの一方を描き出すのに必要な力は、もう一方を描き出すのに必要な力と同じ種類のものにすぎない。墨汁で紙の上に文字をしたためるのと同じ種類の力があれば、金箔の上にしたためることもできる。それと同じく、もし悪魔が何らかの種類の外的表象を空想させることができると考えるなら----そしてこのことは、この世に悪魔がいて、人間に力を及ぼしていると信ずる人々がいまだかつて疑ったことのないことである----、たとえ神ならぬ存在であっても、精神のうちのいかなる種類の外的表象や観念にも手を加えられることは決定的に明らかである

 ここからやはり当然明らかにわかるのは、こうしたいかなる現象にも、霊的で超自然的で天来のもの----真に恵みによる体験には必ずふくまれていると先に証明されたようなもの----はふくまれていない、ということである。また、確かに普通、種々の霊的体験には、ある程度は人の気質や心持ちしだいで、種々の外的な観念が伴うとはいえ、こうした観念は、血流や脈拍と同様、決してそうした霊的体験の一部ではない。また、確かに現在の状態における人間の弱さ----特に一部の人々の虚弱な体質----のため、恵みによる種々の力強い感情が、想像力の上にまざまざと種々の観念をかき立てることに間違いはないが、それでもなお、それと同じくらい確実なことは、そうした感情が、しばしば見られるように想像力に基づいたものである場合、その感情は生まれながらの、一般的なものでしかない、ということである。なぜならそれらは、霊的でない土台の上に建てられているため、恵みによる種々の感情とは全く異なってるからである。だが、恵みによる感情は、すでに証明されたように、常に霊的な天来の働きから生ずるものである。

 こうした類の想像は、しばしば人間の種々の肉的な感情をはなはだしい高みへと引き上げる*8。だが、そこには何の不思議もない。そうした想像のとりこになった者たちは、無知なくせに自信満々で、「これは、偉大なるエホバが直接自分の魂に啓示してくださった天来の顕現なのだ。それによって自分たちは、神の気高く格別ないつくしみの証しを超常的なしかたで与えられているのだ」、などと確信しているからである。

 さらに心の中の、恵みによる種々の働きや効果が、すでに述べられ証明されたような意味において霊的で超自然的な天来のものであるとすれば、やはり明らかにわかることだが、たとえ精神に対して聖書の言葉が直接示唆されることがあったとしても、そこには何1つ霊的なものはない。----このことについては、すでに触れる機会があったし、そこで云われたことだけでその証明として十分かもしれない。しかしもし読者が、種々の霊的な影響や効果の性質に関してこれまで語られたことを念頭に置くならば、そうしたことが何の霊的効果でもないことは、いやまさって明々白々となるであろう。というのも私が思うに、人並みの理解力をした人ならだれしも決して、何らかの言葉を精神にもたらすには、魂に何か天来の感覚がなくてはならないとか、何らかの音声や文字を精神にもたらすのは、神ならぬ存在には到底不可能なほどに高く、聖く、無類にすぐれた性質の効果である、などとは云わないだろうからである。

 聖書の言葉が精神に示唆されたといっても、それは、特定の音声や文字の観念が精神の中で喚起されただけのことである。ということは、それは想像力に種々の観念をかき立てる方法の一種でしかない。というのも、音声や文字は外的な事物であり、視覚や聴覚といった外的感覚の対象だからである。それゆえ、こうした種々の外的観念についてすでに云われたことから明白なように、これらは全く霊的なものではない。また、たとえ神の御霊が、何らかのおりに、こうした文字や音声を精神に示唆するとしても、それは御霊の一般的な影響にすぎず、何の特別な、すなわち恵みによる影響でもない。したがって、すでに証明されたことから当然わかるように、こうした効果を土台にした種々の感情は、決して霊的な感情でも、恵みによる感情でもないのである。----しかし、覚えておいてほしいが、要するに私はこう主張しているのである。すなわち、種々の感情をかき立て、その土台となっているものが、直観的で超常的な聖書の言葉が精神にやって来るしかたでしかない場合、そうした感情は霊的ではない、と。実際には、聖句の思い浮かんだ人が恵みによる感情をいだくことはありうるし、神の御霊がそうした聖句を用いてその種の感情をかき立てなさることもありうる。それは、そうした聖句が出現したしかたが超常的で、突然だったためではなく、その聖句にふくまれた天来の事物について霊的な感覚や味わいを感じとったためにこそ、種々の感情がかき立てられた場合が、これにあたる。その場合、人を感動させているのは、その人がその言葉から受け取った教えであり、その言葉にふくまれた、神やキリストに関する栄光ある事物の光景であって、そうした言葉が突然に、いわば神が直接彼らに語りかけたかのようにしてやって来たためではない。だが人々は、こうした土台に立ってしばしばこの上もなく感動を覚えるものである。何らかの聖書の偉大な約束を記した聖句が突然彼らの精神にやって来る。さながらその瞬間、神の口から発された言葉が彼らに語りかけたかのようにやって来る。こうして彼らは、それを神からの声とみなし、自分たちが幸いな状態にあることを神が直接啓示なさり、あれこれの偉大な事がらを約束してくださったのだ、とみなす。そしてこれこそ、彼らを感動させ、高揚させているものにほかならない。そこには何1つ、そうした感情に先立ち、その土台となっているような、聖書にふくまれた天来の事物についての新しい----あるいは霊的な----理解はなく、その聖書箇所で教えられている栄光ある物事について新しく霊的に感じとることもない。彼らが自分たちの感情の土台として有している----あるいは、有していると思い込んでいる----新しい理解は、その言葉が自分たちに語りかけられたということでしかない。その出現の突然さや、超常的なしかたからして、そう考えざるをえない、ということでしかない。それゆえこの感情は、完全に砂の上に建てられているのである。なぜなら、土台でも何でもない結論の上に建てられているからである。また、たとえ神がその言葉を彼らの精神にもたらし、彼らがそれを確かに知ったことが事実だとしても、それは霊的知識ではないであろう。そこには何の霊的な意味もないことがありえる。バラムは、神が彼に示唆した言葉が事実によって彼に示唆されたことを知っていたかもしれないが、それでも何の霊的知識も持っていなかった。そのように、聖書の聖句が神によって直接送られたのだという観念の上に建てられた感情は、何の霊的土台の上に建てられたものでもなく、むなしく、人を欺くものである。このように種々の感情をかき立てられた人々に向かって、あなたはそうした聖句にふくまれた物事の卓越性について何か新しい感覚を有していますか、と問うたなら、おそらく彼らは何のためらいもなく、はい、と答えるであろう。しかし、これは彼らが、この言葉が直接自分に語られたものだと思い込んでいる、ということでしかない。それこそ、彼らにとってそれらが甘美で、この上なくすぐれた、素晴らしいものに見える理由である。たとえば、彼らの精神に突然このような言葉がもたらされたとしよう。恐れることはありません。あなたがたの父である神は、喜んであなたがたに御国をお与えになります[ルカ12:32]。この言葉は天から直接自分に語りかけられたのだ、神は自分の父なのだ、そして自分に御国を与えてくださったのだ、と思い込んで自信満々になった彼らは、そこに大きな感動を覚え、その言葉は彼らにとって甘やかなものとなる。彼らは云う。おゝ、この言葉には何とすぐれたことがふくまれているのだろう!、と。しかし、この約束が彼らにとってすぐれていると思える理由はただ1つ、彼らがそれを自分に直接なされた約束であると考えているためにほかならない。彼らが自らのうちに有する栄光の感覚は、ことごとく自己愛から出たもの、その言葉にふくまれていると想像される自分自身の利益から出たものでしかない。決して彼らは、天の御国の聖い性質や、それをお与えになる神の霊的な栄光や、その御国をみこころのままに罪深い人間にお与えになる神のこの上ない恵みの霊的栄光について、何か感ずるところがあったがために、そこから自分の利益のことを想像したり、それらによって感動を覚えたりしたのではない。むしろ逆に彼らは、真っ先に自分たちがこうした事がらの利益にあずかることを想像し、その後でその考えによって大いに感動を覚え、それから、こうした事がらはすぐれていると認めることができるのである。ここから明らかなように、聖書が突然、超常的なしかたで精神にやって来ることこそ、事のすべての土台なのである。これは彼らが陥っているみじめな迷妄の明確な証拠にほかならない。

 多くの人々の最初の慰め、また彼らが自分たちの回心と呼ぶところのものは、このような経過をたどる。良心の覚醒と恐怖の後で、何らかの慰めに満ちた約束が彼らの精神に突然、素晴らしいしかたでやって来る。そして、それがやって来るしかたによって彼らは、それが神から自分個人に対して差し向けられたのだと結論づける。これこそ、彼らの信仰と希望と慰めの究極の土台である。ここから彼らは、その最初の励ましを得て、神を、またキリストを信頼する。なぜなら彼らの考えるところ、そのようにもたらされた聖句によって神は、自分たちを愛しておられることをすでに啓示し、自分たちに永遠のいのちをすでに約束してくださったからである。しかし、これは非常に馬鹿げたことである。というのも、キリスト教信仰の諸原理について人並みの知識があればだれでもわかるように、神がご自分の愛を人々に啓示し、彼らが種々の約束にあずかっていることをお知らせになるのは、彼らが信じたであって、信じるではないからである。彼らは信じて初めて、そうした何らかの約束に個人的に、また自分のものとして*9あずかっていることを啓示されるのである。神の御霊は、真理の霊であって虚偽の霊ではない。御霊は、信じてもいない人々の精神に聖句をもたらして、彼らがあずかってもいないような神の種々の約束に、彼らが個人的に、また自分のものとしてあずかっているなどと啓示するようなことはない。というのは、もしも神が聖書の聖句を人々の精神にもたらして、彼らに、彼らの罪は赦されたとか、彼らに御国を与えることは神のみこころであるとか、そうした類のことを啓示なさるようなことが、まず彼らが信仰を持つ前にあるとしたら、また、それがそうした信仰の土台になるとしたら、神の御霊は偽りの霊ということになるからである。恵みの契約のいかなる約束も、人がまずキリストを信じない限りは、いかなる人にも、自分のものとしては属していない。というのも、私たちは、信仰のみによって、そのようにキリストにあずかる者となり、キリストにおいて結ばれた新しい契約の種々の約束にあずかる者となるからである。それゆえ、その契約の種々の約束を、まだ信じてもいない人に、あたかも(先に言及したような意味で)すでにその人のものであるかのように適用する霊があるとしたら、それは偽りの霊にほかならず、最初からそのような約束の適用の上に建てられた信仰は、偽りの上に建っているのである。神は決して、人がご自分により頼む信仰を持つ前から、慰めに満ちた聖書の聖句を人にもたらして、ご自分の格別な愛の確証を与えたり、彼らを幸福にさせたりなさらない*10。またたとえ、ある人の精神にもたらされた聖句が、正確には約束ではなく招きであったとしても、その人が、自分の精神にその聖句がもたらされたしかたの突然さ、あるいは異常さを根拠として、自分は招かれているのだと信じているとしたら、やはりそれは真の信仰ではない。なぜならそれは、信仰の真の根拠となるものの上に建てられていないからである。真の信仰は、決してあてにならない土台の上に建てられてはいない。しかし、もし人が、特定の聖句の言葉がその精神に示唆されるのを感じ、そのときの、神から自分に語りかけられ、向けられたかのように思える出現のしかたを根拠に、それを神の直接的な力によってやって来たに違いないと決め込むとしたら、それは見事に不確かで、あてにならない思い込みである。そしてそれゆえ、信仰の根拠としては偽りの、また砂のように不安定なものである。これにより、そうした上に建てられた信仰もまた偽りとなる。人が福音の種々の祝福にあずかるよう招かれていると信ずべき唯一確実な土台は、神のことばである。神のことばが、そこで招かれた人々は招かれているのだと宣言していること、また、そう宣言しておられる神が真実で、偽りを云えないお方だということである。もしもある罪人が、ひとたび神の真実さを確信し、聖書が神のことばであると確信するなら、その人が自分は招かれているのだと確信し、満足するために必要なものは、それ以上何もない。聖書の中には、罪人たちに対する招きや、罪人のかしらに対する招き、来て福音の祝福にあずかれとの招きが満ちているからである。その人が神から新しく受けなくてはならないものは何もない。すでに神が語られたことだけで十分である。

 多くの人々の最初の慰めが、また彼らが回心と思い込んでいるものとともに生じた種々の感情が、ここまで言及されたような根拠の上に建てられているように、彼らのその後の喜びや希望やその他の感情もまた、それと同様である。人はしばしば、聖書の特定の聖句----甘やかな宣言や約束----が、彼らに示唆されるのを感じる。それらを彼らは、そのやって来るしかたを理由として、神から直接彼らにその場そのときに送られたものであると考える。これを自分の保証とし、主な根拠として彼らは、そうした聖句が自分にあてはまるのだと考え、そこに慰めを感じ、そこから確信を引き出すのである。このようにして彼らは、一種の会話が神と彼らとの間で交わされていると想像する。そして神が、時々、いわば、直接彼らに語りかけて、彼らの疑いを晴らし、彼らに対するご自分の愛を証言し、彼らに支えと備えを約束し、彼らに向かって彼らが種々の永遠の祝福にあずかっていることを明確に啓示しておられるものと想像する。こうして彼らは、しばしば意気揚々となり、一種の喜びの激発を感じ、強い確信と途方もない自信をこもごもに感ずるのである。しかしその実、こうした喜びや確信の主たる根拠は決して、こうした聖句にふくまれている、あるいは教えられている何物でもなく、それらが彼らのもとにやって来たしかたなのである。それは彼らの迷妄の確かな証拠である。神のことばの中のいかなる特定の約束も、恵みの契約のすべての約束が聖徒のものであり、彼に語りかけられているという意味以外で、個別に人とかわされたり、語りかけられたりすることはない*11。むろん、こうした約束のあるものが、他のものよりも一段とその人の状況にしっくりあてはまるということはあるであろう。また神は、その御霊によって、ある約束を他のものにまさって理解できるようにしたり、その中にふくまれた種々の祝福の尊さ、栄光、時宜にかなった適切さをより強く感じさせたりしてくださることがあるであろう。

 しかしここである人は、勢い込んで云うかもしれない。「何ですと? 聖書の約束の個別の霊的適用は、全く神の御霊によってなされないというのですか?」、と。答えよう。疑いもなく聖書の種々の招きや約束が、人々の魂に対して霊的に、また救いに至るように適用されることはある。しかし同様に確かなことだが、多くの人々はそうしたことの性質を完全に誤解しているために、自分自身の魂を大いなる罠に陥れている。これに乗じてサタンは、彼らに対しても、キリスト教信仰の伸展に対しても、神の教会に対しても、非常に大きな優位に立っているのである。聖書の約束が霊的に適用されるとき、それは決して、そうした適用が、何か外から来た代理者によって直接、想念に示唆されたり、その場そのときに語りかけられ指し示されたかのような、力強い理解によって心に打ち込まれたりすることに存しているのではない。そのような効果が及ぼされたからといって、そこに神の手があるとは証拠立てられないことは、多くの悪名高い事例によって証明されている。それは聖書の霊的適用を、卑しくおとしめる考え方である。こうした現象の性質の中には、悪魔の力が及ばないものは何1つない。というのも、その効果の性質には、神との生きた交わりを暗示するものが何1つないからである。神のことばの真に霊的な適用は、それよりもはるかに高度な性質をしている。それは、神のことばを適用して屍を生き返らせたり、石を天使に変えたりすることが悪魔の力をはるかに越えているのと同じくらい、悪魔の力を越えたことである。神のことばの霊的適用は、それを心に適用することに存している。霊的で、啓明を与え、人を聖なる者とする、種々の影響に存している。福音の招き、あるいは申し出の霊的な適用とは、人に霊的な感覚または強い好みをその魂に与えることに存している。この感覚、あるいは強い好みによって人は、申し出られた聖く天来の祝福を知覚し、これほど恵み深い申し入れをしてくださったお方の甘やかで素晴らしい恵みを悟り、そのお方がご自分の申し出を成就なさる聖なる卓越性と忠実さ、そしてその栄光ある豊かさを知り、これらを愛するようになる。このようにしてこれは、魂を導き引き寄せ、この申し出を抱かせ、また同様に、その申し出を受け取る資格が自分にあるという証拠、自分がそれに個人的にあずかっているという証拠を与えるのである。これと同じく、聖徒たちの慰めとなる、聖書の種々の約束の霊的な適用とは、彼らの精神に啓明を与えて、約束された種々の祝福の聖なる卓越性と甘やかさ、また約束したお方の聖なる卓越性と、そのお方の忠実さと豊かさを見せることに存している。このようにしてこれは、彼らの心を引き寄せて約束したお方と約束されたものを抱かせ、こうしたことを通して、はっきり感じとれるような恵みの種々の行為を与えて、自分の恵みを見させ、その約束を自分のものとする資格があることを悟らせるのである。もしもある適用が、こうした天来の感覚、および精神の啓明には全く存しておらず、否むしろ、単なる言葉がそのときその場で直接語りかけられたかのように想念に思い浮かんだことだけを土台として、人に、その約束は自分のものだと信じ込ませたことにだけ存しているとしたら、そのような適用は盲目的な適用であり、暗闇の霊に属しており、光の霊に属してはいないのである。

 人々が自分たちの種々の感情をこのようなしかたで高ぶらせているとき、そうした感情は本当は神のことばによって高ぶらされているのではない。聖書はそれらの土台ではない。彼らの種々の感情を高ぶらせているのは、彼らの精神にもたらされた聖句がふくむいかなるものでもない。むしろそれは実は、そのことばが彼らの精神に示唆される奇妙なしかたであり、そこから彼らが受け取った主張----実はその聖句にも他のどの聖句にもふくまれていない主張----、たとえばその人の罪は赦されている、とか、その特定の人に御国を与えることは御父のみこころである、などといった主張なのである。聖書を探してみると、これこれの資質を持った人々は赦されており、神に愛されている、と宣言するような主張はいくつもある。しかし、どこを探してみても、これこれの特定の人々のことを、それに先立つ資質とは全く切り離した上で、赦されているだの、神に愛されている者であるだのと宣言しているような主張は1つもない。それゆえ、そうした主張によってだれかが慰めを受け、感動しているとしても、それは異なることば、新たに偽造されたことばによってであり、聖書にふくまれている、神のいかなることばによってでもない*12。そしてこのようにして多くの人々は、むなしく感動させられ、惑わされているのである。

 また、ここまでで立証されたことから明らかなように、直観的な示唆による、種々の隠れた事実の啓示は、決して霊的なものでも天来のものでもない。少なくとも、恵みによる種々の効果や働きが霊的で天来のものである、という意味においては、そうではない。種々の隠れた事実という言葉によって私が意味しているのは、すでになされた事がらや、やがて起こり来る事がらといった、感覚ではとらえられないことか、いかなる議論によっても、その他のいかなることによっても知られえず、種々の概念が精神に直接示唆されることによってのみ知られうるような事がらのことである。このようにして、たとえば、もしも私に、来年この国がフランス艦隊によって侵略されるであろうとか、これこれの人々がそのときには回心するであろうとか、私自身がそのときには回心するであろうといった啓示が示されるとして、それが、----いま現在摂理のうちに見られる何らかのことを根拠に論じさせられるのではなく、----これらの事がらが出来するであろうと、超常的なしかたで、直観的に示唆されることによってなされるという場合、あるいは、もしも私に、この日ヨーロッパのこれこれの国と国との軍隊が戦いをしているとか、ヨーロッパのかくかくの君主がこの日回心したとか、私の隣人のひとりが同じ日に回心しているとか、その日私自身も回心しているといった啓示が示されるとして、それが、こうした種々の事実の証拠を何か手に入れることによってではなく、直観的で超常的な示唆によって、また、こうした観念の刺激が与えられたり、精神にそれらが強く印象づけられたりすることによってなされるという場合、これは直観的な示唆による隠れた事実の啓示となる。その事実が未来のことであろうと、現在のことであろうと、それは変わらない。というのも、過去と現在と未来の種々の事実は、それが私の種々の感覚および理性から隠れている限りにおいて、また、聖書で語られてもおらず、私によって直観的な示唆以外のしかたでは知られない限りにおいて、全く同じ事情にあるからである。もし私が、かくかくしかじかの革命がこの日オスマン帝国で起こるという啓示を受けたとしても、それは、12ヶ月後のこの日に、そこでそうした革命が起こるだろうと啓示された場合と、まさに同じ類の啓示でしかない。なぜなら、確かに一方は現在のこと、もう一方は未来のこととはいえ、どちらも、直観的な示唆以外のしかたによっては、私には同じように隠されているからである。サムエルがサウルに、彼が捜して歩いているあの雌ろばが見つかったこと、彼の父が雌ろばのことなどあきらめて、息子のために、どうしたらよかろうと云って、彼のことを心配していることを告げたとき、これは、やはりサムエルがサウルに、タボルの樫の木のところまで来ると、そこでベテルの神のもとに上って行く三人の人に会うであろうと告げたのと、同じ種類の啓示によっていた(Iサム10:2、3)。一方は未来のことであり、もう一方はそうではなかったが、啓示の種類は同じであった。同様に、エリシャがイスラエルの王に、アラムの王がその寝室の中で語る言葉をも告げていたとき、それは、彼が未来の多くの事がらを予言したのと同じ種類の啓示によっていたのである。

 明らかに、こうした直観的な示唆による隠れた事実の啓示は、何1つ、先に言及したような意味での、霊的で天来の働きの性質を帯びてはいない。精神に喚起された、そうした種々の観念は、確かにその喚起されるしかたは、超常的なものであっても、その観念そのものには全く何1つ、生まれながらの人々の諸観念を越えて天来のもの、この上なくすぐれた性質はない。先に示されたように、霊的な事物においては、その効果を生み出すしかたのみならず、作り出された効果もまた天来のものであって、聖なるものとされていない精神の中に存在しうるいかなるものをもはるかに越えたものなのである。さて、ただ単に種々の事実の観念をいだくことは、そうした観念を生み出したしかたを抜きに考えると、よこしまな人々の精神が感じとれるものとくらべて少しもましなものではなく、それ自体としては何の美質もない。また、いかによこしま人々であっても、その全員が現在、あるいはいずれ、過去現在未来を貫いて何よりも偉大な、また何よりも重大な事実を知ることにはなるのである。

 また、種々の事実の知覚を生み出す超常的なしかた、すなわち直観的な示唆について云えば、そこには生まれながらの人々の精神に可能なこと以外、何1つふくまれてはいない。それは、バラムその他の聖書で語られている人々の例から明白である。そしてそれゆえ、ここからわかるように、こうした種々の事実の直観的な示唆には、先に恵みによる種々の働きが霊的であると証明されたような意味においての霊的なものは、何1つ属していない。もし、そうした観念そのものの中に聖く天来のものが何1つなく、聖とされていない者の精神の中に存在しうるもののほか何も存在していないとしたら、神はそれらをその精神に直観力によって授けはしても、その精神を聖としないでいることがありえるのである。という観念の中には聖く天来の性質は何もない。だから神は、もしお望みになるなら、また実際お望みになったときには、その観念を、直感的に、また超常的なしかたで、聖なるものとされていない精神の中に喚起させることがおできになるであろう。また、やはり同じように、ある特定の人々が赦されて神に受け入れられて、天国に入る資格を与えられているという観念や知識には何1つ、聖なるものとされていない精神がいだくことのできないものはなく、最後の審判の日になったときの多くの人が実際いだくことにならないものは何1つない。それで神は、もしお望みになるなら、このことを超常的に、また直感的に、聖なるものとされていない精神に、今、示唆すること、印象づけることがおできになるのである。聖なるものとされていない精神には、そうした印象をいだくため必要とされる原理が何1つ欠けてはいない。また彼らのうちには、そうした示唆を必然的に妨げるようなものは何1つない。

 そしてもし、こうした種々の事実の示唆に伴って、それとどこかしら似かよった事実について記された聖書の聖句が、直感的に、また超常的に精神にもたらされたとしても、だからといってその働きが、霊的で天来の性質のものとなるわけではない。というのも、その聖書の言葉の示唆は、たった今立証されたように、その事実そのものの示唆以上に天来のものであるわけでないからである。そして、どちらをとっても霊的なものでない2つの効果を寄せ集めても、決して合成された効果は霊的なものにはならない。

 こういうわけで、すでに示されたことから当然わかるように、隠れた種々の事実の直感的な示唆という土台しか持っていない種々の感情は、恵みによる感情ではないのである。もっとも、そうした示唆が恵みによる種々の感情のきっかけや、その偶発的な原因になりえないわけではない。誤りや迷妄もまた、それを引き起こすことがありえるからである。しかし、それは決して恵みによる種々の感情の唯一無二の土台ではない。というのも、すでに示されたように、恵みによる感情はどれもみな、霊的で超自然的で天来の影響と働きから出た種々の効果だからである。しかし、こうした種々の啓示を唯一の土台としているような感情----しかも心揺さぶるような感情----はいくらでもある。人々はそうしたものを霊的な悟りとみなしているが、それは途方もない迷妄である。そして実はこの迷妄を源泉として、彼らの種々の感情が流れ出しているのである。

 これまで云われたことからして、ここで述べておくのがよいと思うが、多くの人々が、自分の神の子どもである御霊の証しと呼んでいるものには、霊的なものも天来のものも何もふくまれていない。その結果、その上に建てられた種々の感情はむなしく、人を欺くものである。多くの人が御霊の証しと呼んでいるのは、彼らが神の子どもとされているとか、そのため彼らの罪は赦されているとか、神は彼らに天国に入る資格をお与えになっているといった、他のいかなる方法でも知りえないような、隠れた事実の直感的な示唆以外の何物でもない。この種の知識、すなわち、ある特定の人が回心しているとか、地獄から救い出されているとか、天国に行く資格を持っているとか知ることは、それ自体としては決して天来の種類の知識ではない。この種の事実を精神に印象づけるのに必要な天来の示唆は、バラムがその精神に印象づけるに必要だったものと同程度あるだけでよい。人は別段、ことさらに高度な観念などなくとも、自分の隣人が回心しているという理解を印象づけられるのと同じようなしかたで、自分が回心しているという理解を印象づけられることができる。もしお望みになるなら神は、ある人の隣人の罪をお赦しになったこと、その隣人に天国に入る資格をお与えになったことを、人に印象づけて知らせることができるであろう。他のどんな事実を印象づけて知らせる場合にも劣らず、それを知らせて、なおかつご自分の聖さを分与なさらないことができるであろう。どれほどすぐれて重要な事実といえども、それが直感的に示唆され、印象づけられた場合、生まれながらの人の精神は、決してそれを感じとれないようなことはない。バラムは種々の重要な事実を----ことに、キリストの来臨と、その栄光の御国の設立、その格別ないつくしみを受ける霊的イスラエルの祝福された状態、また彼らの幸福な生き死にとを----その精神に印象づけられたが、恵みによる影響を何も受けなかった。しかり、ペリシテ人の王アビメレクは、神がことさらにアブラハムをいつくしんでおられるという啓示を受けとった(創20:6、7)。神はラバンに、ご自分が格別にヤコブをいつくしんでおられることを啓示なさった(創31:24; 詩105:15)。では、たとえ真に善良な人が神から、隣人あるいは自分自身に対する神のいつくしみについて、これと同じような直観的な啓示を受けったとしても、それが何か、格段に高度な種類の影響ということになるだろうか? それは、預言の賜物や、直観的な示唆による種々の啓示といった、神の御霊の一般的な影響以上の何かになるだろうか? Iコリ13:2を参照してみるがいい。また、確かに生まれながらの人が、自分は回心しているという直観的な示唆を神の御霊から受けることはありえない(なぜなら、それは偽りだからである)が、別にそれは、そうした性質の影響が、生まれながらの人には受けられないほど高度なものであるためではない。こうしたことが直観的に示唆され、かつそれが真実であったとしても、それは、他の種々の真実な事実を直観的に示唆するような影響と、何ら異なる種類のものではない。このように、この種の、こうした性質の影響は、生まれながらの人々と共通したもの以上のものではないのである。

 しかし、神からその愛し子たちに与えられた御霊の証しが、生まれながらの、まるで聖なる者とされていない人々----それゆえ地獄の子らである人々----と共通した性質しか、その影響にふくんでいないとか、これによりその賜物自体には、何の聖い性質も、何の御霊の生きた分与もない、などというのは、最低の下劣な考え方である。こうした考え方は、真の御霊の証しが有する、この上もなくすぐれた種類の働きの価値を大いにおとしめるものである*13御霊の証しと呼ばれているもの(ロマ8)は、新約聖書の他の箇所では、御霊の証印と呼ばれていて(IIコリ1:22; エペ1:13; 4:30)、これは君主たちが、その臣下のひとりを高い栄誉と尊厳の地位に昇進させる際、その格別の恩顧のしるしとして授けた勅書に添付する印形のことを暗示している。これは、君の君がその寵臣たちに証印を押すという御霊の影響が、一般的な種類のものをはるかに越えていることを示す証拠である。また、神の御霊の及ぼす数ある効果の中でも、これほど天来の性質を際立たせているものはないことを示す証拠である。確かに、これほど聖く、これほど独特で、これほど無類で、これほどはっきり神聖さを示すものは他にない。王家の印章ほど王にふさわしいものはない。これほど君主にとって神聖なものはなく、これほど彼に属するものを際立って示すものはない。玉璽というものの用途そのものが、王の権威を明確に刻印し、確証することにあるからである。これは、非常に際立った区別のしるしであり、これにより、王から発されたものや王に属するものは、他のあらゆるものから区別される。それゆえ人の心に刻印された、天地の偉大な王君の証印は、それ自体として何か気高く聖い性質を帯びており、天来の美しさと栄光との無限の源泉から分与された、この上もなくすぐれた性質をしているに違いない。隠れた事実を知らせる啓示や示唆でしかないようなものではないに違いない。その程度のものは、神の御霊の影響とはいえ、しばしば悪魔の子らでさえ受けられた類のものである。だが御霊の証印は心に及ぼされた神の御霊の効果であって、生まれながらの人々がそのままの状態である限り、何の想像もできないものである。「わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている」(黙2:17)。ここで語られているのが、他の箇所で御霊の証印と呼ばれた同じ証拠、すなわち、神の格別のいつくしみを示す同じほむべきしるしであると考えるのは、全く理にかなっている。

 いま語っているような神の御霊の影響について、多くの人々の考えを誤らせてきたのは、証しという言葉である。それが、御霊の証し[証言]と呼ばれているということである。ここから彼らは、それを御霊が心に及ぼす何らかの働き、すなわち、人々に自分が神の子どもであると論じさせるための根拠を与えることだとは考えず、それは内的で直観的な示唆であると、すなわち、あたかも神が内的に、お前はわたしの子であると、一種の隠れた声あるいは印象によって語りかけ、告げてくれるようなものであると受けとってきた。だが彼らが見落としているのは、新約聖書で証し、あるいは証言という言葉がしばしばどのような用いられ方をしているか、ということである。それは、あることが真実であると論じたり、証明したりできるような証拠を掲げることを意味している。たとえばヘブ2:4で神は、しるしと不思議とさまざまの力あるわざにより、また……聖霊が分け与えてくださる賜物によってあかしされました、と云われている。さてこうした種々の力あるわざが神の証しであると呼ばれているのは、それらが断定的な主張という性質を帯びているからではなく、種々の証拠および証明だからである。同様に使14:3には、「それでも、ふたりは長らく滞在し、主によって大胆に語った。主は、彼らの手にしるしと不思議なわざを行なわせ、御恵みのことばの証明をされた」、とある。またヨハ5:36では、「しかし、わたしにはヨハネの証言よりもすぐれた証言があります。父がわたしに成し遂げさせようとしてお与えになったわざ、すなわちわたしが行なっているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わしたことを証言しているのです」、とあり、さらにヨハ10:25では、「わたしが父の御名によって行なうわざが、わたしについて証言しています」、とある。同じように、水と血とが証しをすると云われているのは(Iヨハ5:8)、それらが何かを断定的に主張するからではなく、それらが証拠だからである。それと同じく、雨や実りの季節をもたらす神の摂理のみわざは、神の実在といつくしみ深さとの証しである。すなわち、そうした事がらの証拠である。そして聖書が御霊の証印について語るとき、それが意味する唯一のことは、----直観的な声や示唆ではなく、むしろ----神の子どもたちを見分ける天来の目印また証拠として、御霊が魂の上に残された何らかの働きあるいは効果なのである。君主の証印は、彼のまぎれもない目印であった。そしてそのように、神の証印は神の目印なのである。「私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を与えてはいけない」(黙8:3)。「この町で行なわれているすべての忌みきらうべきことのために嘆き、悲しんでいる人々の額にしるしをつけよ」(エゼ9:4)。神がその御霊によって人々の心にその証印を押されるとき、その心には御霊によって何らかの聖なる印、何らかの像が、あたかも封蝋に押された証印のように刻印されて、残るのである。そしてこの聖なる印、あるいは刻印された像こそ----それを受けた者が神の子どもであるという明確な証拠を良心に明示するものこそ----、聖書で御霊の証印と呼ばれ、御霊の証しあるいは御霊の証拠と呼ばれているものにほかならない。そしてこの、御霊によって神の子どもたちに押された目印は、神ご自身の像(かたち)なのである。それは、彼らが神の子どもたちであることを見分けさせる証拠である。彼らには、彼らの御父のかたちが、子としてくださる御霊によって心に押印されているのである。古代の証印には2つのことが彫り刻まれていた。すなわち、その証印の持ち主のおよびである。それゆえキリストは、その配偶者に向かって云われる。「私を封印のようにあなたの心臓の上に、封印のようにあなたの腕につけてください」(雅8:6)。これは、わたしの名と像を、そこに刻印しておいてほしい、と云うのと同じことである。さらに君主たちの証印には、彼らのが刻まれているのが常であった。それで、彼らがその証印と王家の目印を押したものの上には、彼らの像が残された。また君主たちには、自分たちの像をその宝石や貴石類に彫刻しておく習わしがあった。宝石の上に彫刻されたアウグストの像は、ローマ皇帝たちの証印として、キリストや使徒たちの時代に用いられていた*14。聖徒たちは、宇宙という帝国を所有しておられる偉大な主権者イエス・キリストの宝石である。そしてこの宝石たちの上には、キリストの像(かたち)が、キリストの王たる印形、すなわち聖霊によって押印されているのである。そしてこれこそ疑いもなく、聖書が御霊の証印ということで意味していることである。これは特に、それが良心----聖書では私たちの霊と呼ばれるもの----の目に曇りなく明らかに映るときに、そうである。これこそまさに、霊的で超自然的で天来の効果にほかならない。これは、それ自体で聖い性質をした、天来の性質と美しさの分与である。心にこの印を与えて残すという、こうした種類の御霊の影響は、いかなる生まれながらの人も持つことができない。たとえ直観的な示唆や啓示による御霊の証しなどというものがあるとしても、これは、その程度のものをはるかに越え、高貴で卓越したもの、天が地よりも高いように高いものであろう。これを悪魔は模造することはできない*15

 御霊の証印は、聖書で御霊の保証と呼ばれている。「神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました」(IIコリ1:22)。また、「またあなたがたも……信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです」(エペ1:13、14)。さて、保証[手付け金 <IIコリ1:22 新改訳欄外訳>]とは、後払いにすると合意された金額のうちの一部であり、しかるべき時期に支払われる総額の内金である。約束された相続財産のうち現在与えられている部分であり、やがてすべてを余すところなく所有することを示すしるしである。しかし、そのような永遠の栄光の性質を帯びた種類の神の御霊の分与とは、確かに何よりも高度で、この上もなくすぐれた種類の分与に違いない。それは、それ自体の性質として霊的で、聖く、天来の何ものかである。それゆえこれは、神の御霊の示唆による隠された事実の霊感だの啓示だのといった、多くの生まれながらの人々でも持てるような性質のいかなるものをも凌駕したものである。栄光の手付けであり、端緒であるものとは、恵みそのものでなくて何であろう? 特に、その恵みが格段に生き生きと、また明確に働いている状態でなくて何であろう? それは預言でも、異言でも、知識でもなく、さらにまさるもの、すなわち、いつまでも残る愛である。愛の世界である天国の光と甘美さと祝福との始まりとなるものである。恵みは栄光の種子である。未来の相続財産の手付けである。この魂における永遠のいのちの端緒あるいは手付けとは、霊的ないのちでなくて何であろう? そしてそれは恵みでなくて何であろう? キリストが選びの民のために買いとってくださった相続財産は、神の御霊である。それも、何か超常的な賜物を与えるお方としての御霊ではなく、心の中に生きて内住し、ご自分に特有の聖く天来の性質によって活動し、ご自分を分与なさるお方としての御霊である。御父は救い主をお与えになる、売り手であられる。御子はその買い手であり代価である。そして聖霊は、ガラ3:13、14でそれとなく云われているように、買い取られた偉大な祝福であり相続財産である。それで御霊はしばしば、福音で約束されている種々の祝福の総和として語られているのである*16。その相続財産とは、キリストがその遺言の中でご自分の弟子たちと教会に残された壮大な遺産であった(ヨハ14、15、16章)。これは、天国で与えられるはずの永遠のいのちの種々の祝福の総和である*17。御霊の生きた分与と内住を通してこそ、聖徒たちは彼らのすべての光、いのち、聖さ、美しさ、喜びを天国において持つのである。また同じ御霊の生きた分与と内住を通してこそ、聖徒たちは彼らのすべての光、いのち、聖さ、美しさ、慰めを地上において持つのである。それは、その程度において少なく分与される以外は同じことである。そして、この聖徒たちのうちの、程度において少ない御霊の生きた内住こそ、御霊の保証未来の相続財産の手付け、そして使徒が御霊の初穂と呼ぶところのものなのである(ロマ8:23)。御霊の初穂という言葉によって使徒が意味しているのは、疑いもなく、その章の前半全体を通じて、彼が御霊と呼び、肉あるいは腐敗と対置して語ってきたのと同じ、生きた恵みによる原理に違いない。それゆえ、この御霊の保証、あるいは初穂、先に御霊の証印と同じものであると示されたものは、その生きた、恵みによる、聖なるものとする影響であって、種々の事実の直観的な示唆や啓示などでは全くないのである*18

 そして実際に使徒は、御霊が私たちの霊とともに私たちが神の子どもであることを証ししてくださると云う箇所で(ロマ8:16)、自分の云わんとすることを十分明らかにしている。「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父。』と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます」。こうした使徒の言葉の端々から----また、この箇所全体から----明らかにわかるように、御霊が私たちに、私たちが神の子どもであるという証しあるいは証拠を与えてくださると云うとき、彼が念頭に置いているのは、御霊が私たちのうちに住み、私たちを導いてくださるということ、また子としてくださる御霊(あるいは子どもの御霊)として、父親に対するかのように神に対してふるわませてくださるということにほかならない。そしてそれは、愛の霊でなくて何であろうか? 使徒は2つの霊について語っている。奴隷の霊、すなわち恐怖と、子としてくださる霊、すなわちである。使徒の言葉によれば、私たちが受けたのは奴隷あるいは束縛の霊、すなわち恐怖の霊ではない。むしろ、それよりも気高く高貴な、子どもたちの霊、愛の霊、父親のもとに向かう子どものように私たちを自然に神のもとへと向かわせる霊である。これが使徒の云わんとすることの平明な意味である。奴隷の霊は恐怖によって働き、奴隷は鞭を恐れる。だが愛は、アバ、父、と呼び、私たちを神のもとへ向かわせ、私たちを子どものようにふるまわせるものである。それで、使徒が語っている御霊の証しは、何らかの囁きや直観的な示唆などとはほど遠いものであり、むしろ聖徒たちの心における神の御霊の恵みによる聖い効果、神への甘やかで子どものような愛のうちに現わされた、恐れを打ち捨てる子どもとしての性向、気質なのである。明らかに使徒が繰り返し何度も語っている御霊は、聖徒たちの心の中で、恵みによる原理として、肉あるいは腐敗に対抗しつつ内住しておられる御霊である。それを示しているのが、この箇所の直前にある言葉である。「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです」(13節)。

 実際、これは私にとっては疑問の余地のないことだが、ここで使徒が格別に関心を寄せているのは、恵みの霊、あるいは愛の霊、あるいは子どもの霊が、その最も生き生きとした活動をしている状態のことである。というのは、完全な愛、あるいは強大な愛が、お前は神の子どもであると私たちに証しするか、証拠立ててくれるのでなくては、恐れを振るい落とし、奴隷の霊から全く解放することなどできないからである。神への福音的でへりくだった愛が強く生き生きと働いているからこそ、それは、神に対する魂の関係、すなわち、神の子どもであることの明確な証拠となって、魂を深く、また直観的に満足させるのである。むろん、こうした場合の魂が、直観的な証しだけから判断し、いかなるしるしも証拠も用いないなどというのは途方もない偽りだが、それでも聖徒は、山ほどのしるしや、そうした膨大なしるしに基づいた長ったらしい理屈づけなどを全く必要としていない。また確かに、自分と神には互いに対する結びつきがあり、自分は神にいつくましまれているのだという考えは、それを伝達するもの、すなわち、神の愛なしには得られないが、そうした自分の心の結びつきを見てとるしかたは直観的なものである。この結びつきの絆、愛は、直覚的に見てとられる。聖徒は、自分の魂と神との間の結びつきをはっきり見てとり、感じとる。その強さと生き生きとしたようすからして、彼にはそれを疑うことができない。そしてここから彼は、自分が子どもであるという確証を得るのである。神と自分との間に、子どものような結びつきがあることをはっきり見てとり、そこから自分がアバ、父と呼んでいるというのに、どうして自分が神に対して子どもとしての関係にあることを疑いえようか?

 また、使徒が、御霊は私たちの霊とともに証しをしてくださるというときの、私たちの霊によって意味されているのは、私たちの良心、すなわち人間の霊と呼ばれているものである。「人間の霊は主のともしび、腹の底まで探り出す」(箴20:27 <英欽定訳>)。この霊、あるいは良心の証しについては、他の箇所にも記されている。「このことは、私たちの良心のあかしするところであって、これこそ私たちの誇りです」*(IIコリ1:12)。また、「それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです。たとい自分の心が責めてもです。なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです。愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ……ます」(Iヨハ3:19-21)。使徒パウロは、神の御霊が私たちの霊とともに証ししてくださると語るとき、別々に相並んだ、2つの独立した証しのことを意味しているのではない。むしろ私たちは、1つの証しを受けるときに、もう1つの証しも受けるのである。神の御霊が証拠をお与えになるのは、心の中に神の愛、子どもの霊を注入し、あふれるばかりに注ぎ出すことによってである。そして私たちの霊は、あるいは私たちの良心は、この証拠を受けとってこれを宣言し、喜びに至るのである。

 世に多くの害悪をもたらしているのは、こうした御霊の証しということに関する、偽りの欺瞞的な考え方にほかならない。それは人が、神からの一種の内的な声や、示唆や、宣言を与えられることによって、自分が愛され、赦され、選ばれ、その他の祝福を受けていることを、時には聖書の聖句とともに、時には聖句なしで、知らされるのだ、としている。ここから生じさせられる多くの感情は、(どれほど心震わせるようなものであっても)まがいものの、空虚なものである。恐ろしいことだが、これにより、おびただしい数の魂が永遠の破滅へと至らされてきたのではなかろうか。こういうわけで私は、この項目について長めに強調してきたのである。----しかし、ここからは、恵みによる種々の感情を示す第二の特徴に話を進めることにしたい。

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*1 肉的という言葉で使徒が意味しているのが、腐敗した、聖められていない性質であることは、次のような箇所からきわめて明白である。ロマ7:25; 8:1、4-12、13; ガラ5:16-26; コロ2:18[本文に戻る]

*2 たとえば、民24:2; Iサム10:10; 11:6; 16:14; Iコリ13:1、2、3; ヘブ6:4、5、6、その他多数。[本文に戻る]

*3 「奇矯さや奇抜さに最も富むのは、理性の薄弱な人である。子どもたちや、気が変になったような人々こそ、そうしたものを最も有している。理性の強い人は、あたかも太陽が霧やもやを追い散らすように、そうしたものを追い払うものである。しかし、恵みを及ぼされた人は理性的になればなるほど、キリスト教信仰の根拠を堅固にされ、確立され、満足させられるのである。しかり、キリスト教信仰には、最も高度で最もきよい理性がある。そして、この変化が人々に及ぼされるとき、それは理性的なしかたで進められるのである(イザ1:18; ヨハ19:9)」。フラヴェルの『苦難に対する備え』、第6章。[本文に戻る]

*4 「たとえキリストを現実に目にし、現実に眺めた人がいたとしても、それは救いに至る知識をキリストについて持つこととは違う。聖徒たちが今そこに実在するかのように直接キリストを知っていることは私も承知している。彼らは遠い距離を隔てていても他人ではない。たとえ他の人々がより直接にそれらを目の当たりにしたとしても、そのことに私は異を立てはしない。しかしもし彼らが主イエスを、あたかもこの地上におられるかのように直接に見たとしても、それでもカペナウムもそのように主を見たのである。否、そのうちの何人かは一時的には弟子であり、主に従っていさえしたのである(ヨハ6)。だがしかし、主は彼らの目から隠されていた。否、全世界は主をそのご栄光のうちにやがて見て、驚くことになるのである。だがしかし、これは救いに至る知識を主について持つことには及びもつかない。その知識は主が選民に分かち与えてくださるものである。それで、たとえあなたがまざまざと主を見ることができ、主の姿を見慣れるほどであったとしても、それでも、『私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしました』云々、と云いつつ滅びていくのである(ルカ13:26)」。シェパードの『十人のおとめの例え話』、第一部、p.197、198。[本文に戻る]

*5 「サタンは光の御使いに変装する。それでここから私たちは、ある人々が声を聞いたと聞くのである。ある人々はキリストの御血潮が自分たちにふりかかるのと、主の脇腹の傷を見たと云い、ある人々は部屋の中が大いなる光で輝いたのを見たと云い、ある人々はその夢によって素晴らしく感動したと云い、ある人々は大いなる苦悩のうちにある際に、『あなたの罪は赦されました』、という内的な証しを受け、それにより途方もない開放感と喜びに満たされ、部屋の中を躍り上がってとびはねたいほどであったと云う。おゝ、姦淫の時代よ! これは人間にとっては、ごく自然な当たり前のことである。人間たちはイエスを見たいと切に願う。目の前にしたイエスから自分に平安を与えてほしいと思う。それでローマカトリック教徒らは主の聖像を作るのである。----わざわいなるかな、このような形でしかキリストの顕現をいだくことのない者たちは」。シェパードの『十人のおとめの例え話』、第一部、p.198。[本文に戻る]

*6 「考えてみるがいい。そのような声や幻や啓示が神からのもので、サタンがこれを真似たり、偽造したりできないと決めつけることが、いかに困難かつ、しかり、不可能なことか。かれは、私たちが、ある霊を他の霊と区別できるような確かな目印を残していくことを決してしないというのに」。フラヴェルの『精神的過誤の原因と治療法』、原因14[本文に戻る]

*7 申13:1; I列22:22; イザ28:7; エゼ13:7; ゼカ13:4を参照。[本文に戻る]

*8 ジョン・スミス氏が著した、パリサイ的義の欠陥に関する論述(選集、p.370、371)には、私がここで語っているような土台の上に建てられた種類のキリスト教信仰に関する素晴らしいくだりがある。私は、その全段を書き写さないではいられない。ある種のキリスト者は、その全生活が妄想に立った旺盛な勢いでしかないと語って彼は云う。「時として彼らの内側には、彼らのキリスト教信仰がつくりものであることが、あからさまになりすぎないように、彼ら自身の考えを妨げるような、超常的な動きがかき立てられることがある。そうした動きは、一見、天来のいのちの真の働きであるかのように見えるが、その実これはことごとく、彼ら自身の自己愛が天来の事物についての何か肉的な考えに影響させられ、そこからて興奮させられて生じた勢いでしかない。私たちのキリスト教信仰には、肉的で聖ならざる精神によって解釈すると、人間の種々の肉的な欲求にとってまことに快く思われるものがいくらでもある。無代価の恵みと義認といった教理や観念、神の子らという、また天国の世継ぎという荘厳な称号、天にいる魂が永遠に浴することになる、喜びと楽しみとの尽きざる豊かな流れ、来たるべき世の、常に芳しい香りの立ち上る栄光のパラダイス、黄金を敷きつめ、星々が一面にきらめき輝いている新しいエルサレム、無数の多様な事物をふくみ、永遠に好奇心を働かせてもとめどない広大無辺の都。時として、最も肉的で地上的な人々----この世の栄華に野心を天翔けさせる人々----が、こうした事がらを思い描いてうっとりとし、あたかも来たるべき世の力にあずかったかのような恍惚感にひたることがあることを、私は疑いはしない。発狂したり取り乱した人々の魂が大いに昂揚させられるように、彼らがそうしたもので大いに昂揚させられることがあることを、疑いはしない。さながら、病のため失調した身体や、熱にうかされた頭がつむぎだす類の目まぐるしく変転する精神に妄想がとりついた場合と同じである。こうしてこれらの燃え輝く彗星たちは月を越えて、太陽よりも高く昇る。だがしかし、それは一貫した堅固さに全く欠けているために、また卑しく地上的な合金からできているために、すぐに消滅し、再び落下してしまう。外的な力によってしか支えられていないためである。彼らは、自分自身の目には、真の美徳の自然な力によって穏やかに動かされている高貴なキリスト者たちよりも、はるかに高い境地に達したかのように思われる。見たところ彼らは、天来の御霊によって真に知識を授けられ、行動を促されているかに見えるし、pleniores Deo(より神に満ちている)という点では、どれほど着実にまた不断に天国への道を歩んでいる人々よりも、はるかにすぐれているように見うけられる。さながら岩地に蒔かれた種が、良い豊穣な地に蒔かれた種よりも早く育ち、穂を伸ばしたのと同じである。また、私たちの感覚や、妄想や、情動の動きは、私たちの魂が肉体の奥深くに埋没したこの死すべき状態にある間は、多くの場合、魂のより高度な諸力----格段に繊細で、こうした動物的知覚の入り混じった部分からかけ離れた諸力----にまさって精力的で、はるかに強い印象を私たちに残すものである。そこに座を占めている一途さの激しさや活気にくらべれば、そうでない種類の、より穏やかで、より繊細な、理解に力を及ぼしてから意志と感情とを通じて優しく姿を現わすような一途さは、はるかに微弱なものでしかないように見える。しかし、いかに前者が一時は後者にまさって荒れ狂おうとも、それでも後者は、前者にまさって一貫した、より豊かで充実した実を結ぶ性質をしている。なぜなら、実のところ前者は、神および真の幸福に関する官能的で肉的な理解以外の何物からも発しておらず、はかなく消え薄れていく性質のものでしかないからである。また、はっきり感じとれる種々の力や機能が不活発になっていくにつれ、あるいは天来の光の太陽がより明々と私たちを照らし出すにつれ、こうした地上的な一途さは、私たちの台所の火のように、その熱と白熱状態を減じていくのである。しかし、真の天的な暖かみは決して消えることはない。なぜならそれは、不滅の性質を持っているからである。そしていったん人の魂の中に生きた座を占めたならば、それは魂のすべての動きをしかるべきしかたで調節し、整えるものである。さながら生き物の心臓に根付かされた天性の熱が、その下にある全身を支配し、秩序づけるのとおなじである。真のキリスト教信仰は、うまくこしらえた人工品ではない。それは決して私たちの想像力の沸騰ではないし、私たちの情動の灼熱した熱気でもない。確かに、あまりにもしばしば、真の信仰は、こうしたものと取り違えられてはいるが、それは私たちが、そそっかしい信仰理解により自分で自分の目をくらましているにすぎない。だが真のキリスト教信仰とは、人の魂にみなぎる新しい性質である。神に似た霊の心持ちであり、その何よりの証明となるのは、平静で明晰な精神や、深いへりくだり、柔和さ、自己否定、神とあらゆる真の良きものに対する普遍的な愛なのである。そこにえこひいきはなく、偽善はない。それによって私たちは神を知るよう教えられ、知った上で神を愛するように教えられ、神のうちに輝いているそのすべての完全さに至るまで自分を神にならう者とするよう教えられるのである」。[本文に戻る]

*9 (編集者注)個人的に、また自分のものとして。----これらの言葉は、意味をより明晰にするためにつけ加えてある。というのも、これが著者の意図に違いないからである。明らかに種々の約束は、授与されたものとして、また公に示された贈り物として、また申し入れとして、私たちのものである必要がある。そうした意味では、私たちは、信ずる前から、約束にあずかっているのであって、これこそ信ずる際の私たちの保証なのである。----W.[この注はエドワーズのものではなく、1834年版のジョナサン・エドワーズ全集に追加されたウィリアムズ博士によるもの][本文に戻る]

*10 ストッダード氏はその『キリストへの教導書』において、こう云っている(p.8)。「時として人は、しばらく困難の中に置かれた後で心にもたらされ種々の約束によって、大いに心が清新にさせられることがある。そして彼らは、神が彼らを受け入れてくださったのだと希望する」。また、「こうした場合、教役者は彼らにこう云ってやるがいい。神は、より頼む信仰をお与えになるまでは、決して確証させられた信仰をお与えにはならない。なぜなら神は、人がいつくしみと和解との状態に至るまでは、決してご自分の愛をお示しにはならないからだ。そして、そのいつくしみと和解との状態は、より頼む信仰によってもたらされるのだ、と。慰めに満ちた種々の聖句がやって来るのを経験するとき、人々は往々にしてそれらを神の愛の象徴であると思い込むものである。しかし人は、福音の申し出を受け入れることによってキリストのみもとに導かれるまでは、決してそのような愛の顕現にふさわしくはない。神は通常、最初に魂に恵みの申し出を受け入れさせ、その後で、彼に自分の堅固な状態をお示しになるのである」。また、p.76ではこう語っている。ある人々は、「神の御足のもとにひれ伏させられたかに見え、自分たちがキリストに近づいたとか、神が彼らにキリストを啓示して彼らの心をキリストに引き寄せてくださったとか、自分が実際にキリストを受け入れたとかいう証しをする」。だが、「このような場合、最良の道は、果たしてその人が、与えられた光によってキリストと救いが自分に差し出されたのを悟ったのかどうかを、あるいは、神が自分を愛し、自分を赦されたのを悟ったかどうかを吟味することである。なぜなら、恵みが申し入れられ、私たちがそれを受け入れることは、赦しに先立つものであり、それゆえ、はるかにまさって、それを知ることに先立つからである」。
 シェパード氏はその『十人のおとめの例え話』の第二部p.15でこう云っている。「キリストの恵みと愛(太陽の下における最も美しいもの)の真似はできるかもしれない。しかしもしあなたが、こうした見せかけの下で、神が最初から絶対的な約束を与えて、ご自分の愛を証ししておられる、と思い込もうというのであれば、用心するがいい。というのは、この見せかけの下にあなたは直観的な啓示を持ち込んでいるのかもしれず、そこから聖書を捨てるようなことにもなりかねないからである」。
 また、第一部p.66でも彼は云う。「キリストはあなたのものだろうか? しかり、それは私にもわかる。いかにしてか? 何らかの言葉か約束によってか? 否、これは迷妄である」。また、p.136では、何の堅固な根拠もなく平安を受けたという人々について彼はこう云い切っている。「主の愛の啓示で自分を満足させている者たち、何の働きも見ることも、それを望むこともない者たち」、と。そして、その直後でこう云う。「御霊の証しは、人をキリスト者とするものではなく、その証拠を示すものにすぎない。証人というものの性格が、あるものを真実にすることにではなく、それを明らかにし、証拠立てることにあるのと同じである」。またp.140で彼は、自分には偽善者とは違うことを示す御霊の証しがあると云う人々についてこう云う。「御霊の証しは、最初に区別をつけるためにあるのではない。というのは、人はまず信仰者となり、キリストのうちにあり、義と認められ、召され、聖なる者とされて初めて、御霊がそれを証しなさるからである。さもなければ御霊は不真実と偽りを証しすることになる」。[本文に戻る]

*11 シェパード氏は、その『堅固な信仰者』(ボストンにおける最新刷)のp.159において、こう云っている。「あれこれの少数の約束だけでなく、すべての約束を胸に抱きしめるがいい」。そして彼はこう問うている。「キリスト者がある約束を、増上慢でなく、自分に語りかけられたものと受けとっていいのはいかなる場合だろうか?」 彼は答える。「その規則は非常に甘美なものだが、確実である。その人があらゆる聖句をとりあげ、それを自分に対して語りかけられたものとして信じているとしたら、その場合には、その人は、ある個別の約束を大胆に受けとってよい。私の云わんとするところは、あるキリスト者が新約聖書のすべての約束をにぎりしめ、その実現をかけて神と格闘するとき、また自分の前にすべての戒めを道行く羅針盤とし、指針として置くとき、また、その人がすべての脅かしを適用して、それらの目的たるキリストへと自分をより近づけようとさせるときのことである。こうしたことは、いかなる偽善者にもできない。これは聖徒たちが行なうべきことである。そして、これによって彼らは、主が個別に彼らに語りかけられるときがわかるのである」。[本文に戻る]

*12 「あるキリスト者たちはキリストなしの働きによって安心している。忌まわしいことである。しかし、人はキリストにある者、働きによってさばかない者となった後でも、ことばを第一にしてさばくべきではない。というのも、確かにみことばの中には、人が何の働きも感ずることなく、否、絶対的な約束のようなものを何も感じないときにすら、キリストにより頼む心を起こさせるものがあるかもしれないが、確証を与えるみことばは例外なく、何らかの働き、すなわち、信ずる者は心の貧しい人は、などといった働きに対して与えられているからである。そうした働きが目に見えて初めて、そうした約束から確証が得られるのである」。シェパードの『十人のおとめの例え話』、第一部、p.86。
 「もし神がある聖徒に、その人には恵みがある、と告げるとしたら、その人はその神のことばを信ずることによってそのことを知りえよう。しかし、敬虔な人々自分には恵みがあるとわかるのは、このような方法によってではない。そうしたことは、いかなるみことばにも啓示されておらず、神の御霊もそれを特定の人々に証しすることはなさらない」。ストッダードの『救いに至る回心の性質』、p.84、85。[本文に戻る]

*13  故ストッダード師は若い頃、ある人々の意見に巡り会って、こうした、直感的示唆による御霊の証しという考え方を受け入れたらしい。しかし、その後半生に及んで、物事をより徹底的に比較考量し、また多くの経験も積んだ後になってからの彼は、完全にそうした考え方を退けた。それは彼が、救いに至る回心の性質に関して著した小論から読みとることができる(p.84)。「神の御霊が特定の人々に向かって、あなたがたは敬虔である、などと証しなさることはない。だが一部の人々は、神の御霊はある人々にはそう証しなさることが実際にあるのだと考える。そしてその根拠は、ロマ8:16の私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます、にあるという。彼らの考えによると、御霊はこのことを、その内的な証言を与えることによって啓示なさるのだという。また、一部の敬虔な人々は、自分たちがその体験をしたと考えている。しかし彼らが間違っていることは大いにありうる。実際、神の御霊が信仰の霊をこの上もなくかき立てなさるとき、また神の愛を心に注いでくださるとき、これを証言と取り違えることは容易だからである。また、それはパウロの言葉の意味ではない。御霊が物事を私たちに啓示なさるのは、私たちの目を開いて、みことばで啓示されていることを見えるようにしてくださることによってである。だが御霊が、みことばで啓示されていない新しい真理を啓示なさることはない。御霊はキリストにある神の恵みを悟らせ、それによって信仰と愛との特別な働きを引き出してくださる。それは証拠となるものである。だが御霊は、証言という方法によってお働きになることはない。もし神が私たちを助けてみことばの中にある種々の啓示を受け入れさせてくださるなら、私たちは、新たな啓示など何も受けなくとも、十分な慰めを得ることができるはずである」。[本文に戻る]

*14 チェインバーの辞書の彫刻の項目を参照されたい。[本文に戻る]

*15 シェパード氏は、人が御霊の直観的な証しによって自分の堅固な状態を知ることができるなどという概念の反証を山ほど挙げている。心の中に作り出された御霊の効果、あるいは働きを見きわめもせずに、ただ直観的な証しがありさえすれば、その人々が神の子どもたちである証拠にも証明にもなるというような考え方は、徹底的に反駁されている。『例え話』、第一部、p.134、135、137、176、177、215、216。第二部、p.168、169。
 また、その『堅固な信仰者』では、聖化こそ義認の主たる証拠であるという長大な議論がp.221以降で繰り広げられている。私には、そのごく小部分だけしか書き写すことができない。「教えてほしい。あなたは、いかにして自分が義と認められているかどうかがわかるのか。あなたは云うであろう。御霊の証言によってである、と。だが、その同じ御霊は、あなたの種々の恵みを照らし出し、あなたが聖なる者とされていることをも証しできないだろうか(Iヨハ4:13、14; Iコリ2:12)? 御霊は一方だけしかあなたに明らかにすることができず、もう一方の方は明らかにできないのだろうか? おゝ、愛する兄弟。何と悲しいことであろう。このような問いを聞くとは。また、聖化は1つの証拠となるかもしれない、などという冷たい答えを聞くとは。かもしれない! それは確実でないというのだろうか?」
 フラヴェル氏も、この直観的な啓示による御霊の証しという概念には大いに反対している。『聖餐の瞑想』の想4において彼は、御霊の証印について語ってこう云う。「信仰者に証印を押すに際して、御霊がお用いになるのは、耳に聞こえる音声や、御使いの奉仕や、直観的で超常的な啓示などではない。私たちの心に植えつけられたご自分の種々の恵みと、聖書に記されたご自分の種々の約束である。御霊は通常、この方法によって、信仰者の疑い震えおののく心を安息と慰めへと至らせてくださるのである」。また、同書において、「私たちの魂に確証が生み出されるのは、信仰の反省的な行為によってである。御霊は私たちを助けて、ご自分によってかつて私たちの心に何がなされたかを、省みることができるようにしてくださる。これによって私たちは、自分が彼を知っていることを知るのである(Iヨハ2:3)。自分が知っているということを知る、というのは反省的な行為である。だが、何か直接的行為がなされる前に、反省ということはありえない。いかなる人も、信仰という性質が注入され、生きた行為が行なわれるまでは、自分の信仰の証拠を持つことはできない。御霊が証印を押す対象とするのは、ご自分の聖なるものとする働きである」。同書の後段で彼は云う。「御霊の証印の直観的な方法はやんでしまった。いかなる人も今では、何の新しい啓示によっても、何の天からのしるし、何の声、何の超常的な霊感によっても、自分の救いに証印が押されると期待してはならない。むしろ、そのあわれみは、聖書を調べ私たち自身の心を吟味し、祈りのうちに主を待つという、神の通常の道と方法のうちに求めなくてはならない。かの博識なジェルソンが例としてあげている一人の人物は、長い間絶望の淵にあったが、ついに甘やかな確証と落ち着きに至らされたという。彼は答えて云った。それは、Non ex nova aliqua revelatione 何ら新しい啓示によってではなく、書かれたみことばに自分の理解力を服従させ、それと自分の心をくらべてみることによってでした、と。またロバーツ氏は、その小論『回心者』において、別の人物について語っている。その人は、自分の魂に対する神の愛に証印を押されること、その確証をいだくことを激しく慕い求めて、長い間、天からの声を受けようと真剣に願っていた。そして、人気のない野原を歩いているおりには、何か奇跡的な声が木々の間や、岩場から聞こえてくることを切望することもあったという。そうしたことは一度も彼には起こらなかった。しかし時が経つにつれて、より良いものが、聖書的なしかたで与えられたのである」。さらに、同書では、「この証印の方法は、世界中の他のいかなる方法にもまさるものである。というのは、奇跡的な音声や霊感においては、そこでsubesse falsum 欺きを発見する、すなわち悪魔の詐欺を見破ることは不可能だが、聖書の啓示にかなった、心の中における御霊の証しは、私たちを欺くことがありえないからである」。[本文に戻る]

*16 ルカ24:49; 使1:4; 2:38、39; ガラ3:14; エペ1:13。[本文に戻る]

*17 ヨハ7:37、38、39およびヨハ4:14を、黙21:6および22:1、17と比較されたい。[本文に戻る]

*18 「人はキリストにある者、働きによってさばかない者となった後でも、御霊によってさばくべきではない。というのも使徒は、御霊の保証を、その証印としているからである。さて、保証とは売買の対価とされた金額の一部である。天国と、その光といのちの始まりである。それによって主が自分のものであることがわからない者は、決して神が自分のものであることがわからない。おゝ、それゆえ、何の啓示のことばもなしに御霊を待ち望んだり、まず最初に何の働きも感じず見えないままに、啓示のことばを待ち望んだりしてはならない。私は主に感謝する。私はこれと違った考え方をする人々をあわれまざるをえない。キリストの羊であるなら、おゝ、さまよいだしてはならない」。シェパードの『例え話』第一部、p.86。[本文に戻る]



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