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第3部.
真の恵みによる聖い感情をまぎれもなく示すしるしとは何か

序 言

 さて、これから論じたいのは、霊的で恵みから出た種々の感情は、そうでない感情と、どこが異なるかということである。----しかし、そうしたまぎれもない特徴について正面切って語り進める前に、あらかじめいくつかの点について言及しておこうと思う。それは、これから提示しようとしている種々の目印に関して、述べておくのがよいと思われることである。

 1. ここで恵みから出た感情のしるしとしてあげるものは決して、それさえあればだれでも、他人のうちにある感情が真の感情かまがいものかを確実に見きわめられるとか、自分の隣人のうちだれが真の信仰告白者でだれが偽善者であるかを決定的に判別できるとか請け合えるようなものではない。そんなことを云えば私は、これまで非難してきたような傲慢の罪を自分で犯すことになろう。確かにキリストは、すべてのキリスト者に種々の規則を与えて、彼らの安全にとって必要なだけは、自分と関わりのある信仰告白者たちを見きわめられるように、また、にせ教師やにせキリスト者によって罠に引き込まれずにすむようにしてくださった。また、やはり疑いもなく聖書の中には、教職者たちが、ゆだねられている魂に向かって、その霊的で永遠の状態にかかわる事がらについて助言したり導いたりする際に非常に有用な規則がふんだんに与えられている。だが、やはりこれも明白なことだが、神のみこころは決して私たちが、同信の信仰告白者のうちのだれが神のものであるかを確実に知りうるような規則を手にして、羊とやぎを完全にきっぱり分離することにはなかった。逆に神が意図しておられるのは、この件をご自分おひとりの大権として、ご自分の胸のうちにおさめておくことであった。したがって、いかなるキリスト者もいかなる教職者も、世の終わりに至るまで、自分でそうできるようなまぎれもないしるしを持てるとは決して期待すべきではない。なぜなら、聖書の中に見られたり、聖書から引き出されたりするしるしからは、決してキリストがその目的として意図なさった以上のことを得られると期待すべきではないからである。

 2. 恵みが非常に低調な状態にある聖徒や、神から非常に遠ざかっている聖徒----それも、その心持ちが死んだ、肉的な、非キリスト者的な状態に陥っている聖徒----が、それさえあれば、自分の堅固な状態を確実に見分けられるようなしるしがあると期待すべきではない。そうした者らが自分は堅固な状態にあると知るようなことは(すでに述べたように)、神のみこころにそぐわず、望ましいことでもない。むしろ逆に、いかなる点から見ても、彼らがそれを知らないに越したことはない。ほむべきことに神は、そうした者らがまずその病んだ心持ちと生き方から抜け出さなくては、自分の真の立場を知りえないように定めておられる。

 実のところ、現在生きているあらゆる聖徒が、強かろうと弱かろうと、悪い心持ちにあろうとなかろうと、神のみことばの中で与えられているしるしによっては、自分の堅固な状態を確実に知りえないのは、決してそうしたしるしに欠点があるためではない。なぜなら、そうした規則そのものは確実で、誤りないものであり、あらゆる聖徒は今、恵みの確かなしるしとなるものを自分のうちに有しているか、少なくともかつては有していたからである。これはいかなる恵みの働きについても、否、どれほど微小な恵みの働きについても同じである。しかし問題は、そうしたしるしを与えられた者に欠点があるために生ずる。恵みが非常に低調な状態にある聖徒、あるいは悪い心持ちにある聖徒には二重の欠点があり、そのためにその人は、望みうる最上のしるしや規則をもってしても、自分が真の恵みを有していることを確実に知ることが不可能なのである。

 第一に、調べて吟味すべき対象、あるいは性質の方にある欠点である。これは本質的な欠点ということではない。なぜなら、私はその人を真の聖徒であると考えているからである。むしろ、程度における欠点のことである。恵みが非常に小さなものである場合、それを明確に、また確実に見分けたり、見きわめたりすることはできない。私たちは、ごく微細なものの形ははっきり見分けられず、それ自体としては非常に相異なる形をしていても、その1つ1つをいちいち区別はできないものである。受胎したばかりの人間の肉体と、他の動物の肉体との間には、疑いもなく非常に大きな相違がある。しかしながら、もしそれぞれの胎児を調べてみるとしたら、その違いを見きわめることはできないであろう。その対象が不完全な状態にあるからである。しかし、それがより完全な姿に近づくにつれ、その相違は非常にはっきりしたものとなる。出生後であっても、それらが幼生である間は、正反対の性質をした生き物たちの相違でさえ、完成に近づいた状態ほどあからさまにはわからない。鳩と鴉、あるいは鳩と猛禽類の違いは、それらが卵から出てきたばかりの状態では、あまり明白ではない。しかし、育って成鳥になるにつれ、その違いはこの上もなく大きく、あからさまなものとなる。さて私が今語っているような人々の恵みは、あまりにも多くの腐敗と混じり合い、曇らされ、押し隠されているため、確実な見分けがつかなくなっているのである。私たちが前にしている種々の事がらは、それ自体としては完全に互いに見分けがつくような、まぎれもない多くの目印を帯びているのだが、もし私たちがそれらを分厚い雲越しに見るとしたら、その見分けをつけることなど不可能であろう。晴れた晩には、天空で動かない星と彗星とを見分けることはたやすい。しかしもし雲越しに見るなら、その違いを悟ることは不可能であろう。真のキリスト者たちが悪い心持ちにあるとき、その良心には罪意識が押しかぶさっている。それは恐れをもたらし、そのため確固とした希望に基づく平安と喜びが味わえなくなるのである。

 第二にに欠点がある場合もある。恵みの微弱さ、そして腐敗の優勢さは、対象を覆い隠すのと同じように、視力を衰えさせもする。魂の内側の腐敗は、霊的な事がら全般に対する視力をぼやけさせてしまうが、恵みはそうした霊的な事がらの1つなのである。罪は、一種の眼病にも似て、物事をその本来の色合いとは違って見せるようにする。あるいは、何か味覚を失わせるような病気にも似て、美味で健康によい食物とそうでない食物の味の違いを分からなくし、何もかも苦く感じさせてしまう。腐敗した肉的な心持ちにある人々の霊的感覚は、霊的な物事の判断や見きわめなど、到底行なえないほど低劣な状態にあるのである。

 こういった理由により、たとえいかなるしるしをあげても、こうした状態にある人々を心から満足させることはできないであろう。たとえどれほどすぐれた、絶対確実なしるしを明確に提示しても、そうした人々の役には立たないであろう。それは目に見えるいくつかの物をいかに見きわめるかという規則を、暗闇の中で人に云い渡すようなものである。そうした物自体は互いに非常に異なっているかもしれず、その違いは非常にはっきりと、また明確に説明できるかもしれない。にもかかわらず、当のその人が暗闇の中にいる以上、どうしても見分けはつかないはずである。こういうわけで、このような状況にある多くの人々は、むなしい労苦に励んだり、過去の体験をくよくよ考えたり、講壇から提示されるのを聞いた、あるいは書物の中で読んだ種々のしるしによって自分たちを吟味したりすることに憂き身をやつす。だが、彼らがなすべきもう1つのことがあるのである。それを怠っている限り、どのような自己吟味に、どれほど時間を費やそうと、ことごとく無駄骨折りとなるであろう。それは、呪われた物を彼らの陣営の中から運び出して焼き捨て、アカンを殺すことである。これがなされるまで、彼らは困難の中にとどまり続けるであろう。人々が腐敗を抑制し、恵みを増し加え、その恵みの働きを活性化する以外の方法で、確証を手に入れるなどというのは、神のみこころではない。確かに自己吟味は非常に有用かつ重要な義務であり、決して怠っていいものではないが、それでもそれは、聖徒が自分の堅固な状態について満足を得るための、主要な手段ではないのである。確証を手に入れる道は自己吟味よりは、行動である。使徒パウロが確証を追い求めたのは、主としてこの道によってであった。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走ることどうにかして、死者の中からの復活に達そうとすること、である[ピリ3:11-14]。また、やはり主としてこの手段によって彼は、確証を手に入れたのである。「ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません」(Iコリ9:26)。彼が賞を得るという勝利の確証を得たのは考えにふけることによってではなく、走ることによってであった。その歩調の早さこそ、その自己吟味の激しさにまして、圧倒的な勝利を得るとの彼の確証に資するところ大であった。また、あらゆる努力をして恵みにおいて成長し、信仰に徳その他を加えていくことこそ、私たちの召されたことと選ばれたこととを確かなものとし私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国にはいる恵みを豊かに加えられるための手段として、使徒ペテロが私たちに向かって命じていることである。こうしたことがなければ、私たちの目はかすみ、暗闇にいる人のようになるであろう。私たちは、自分の以前の罪が赦されたことも、未来における自分の天の相続分もはっきり見ることができない、近視眼の者ということになるであろう(IIペテ1:5-11)*1

 したがって、真の恵みとにせものを見きわめさせるすぐれた規則は、偽善者に罪を確信させる助けとなるとともに、聖徒にとっても多くの点できわめて有用であって、特に、不必要なとがめを取り除き、希望を確立させるため非常に役に立つものではあるが、それでも私は、これから提示する規則が、他の手段を併用しなくてもそれだけで、すべての聖徒に自分の堅固な状態をわからせることができるとか、聖徒らを満足させる主要な手段であるとか云うつもりは全くない。

 3. さらに、たとえ真の感情とまがいものとを区別する規則や目印を提示したとしても、すでに大きなまがいものの悟りや種々の感情によって欺かれ、まがいものの確信を固めてしまった偽善者たちの大部分が罪を確信する見込みは、現在および過去の時代の経験からして、たいして高くはない。そうした偽善者たちは、自分の知恵を買いかぶりすぎ、自分の義に目がくらんでかたくなになりすぎ(とはいえ、その義は非常に巧妙に秘匿されていて、非常な謙遜さに見せかけられているが)、快い自己過信と自己満足にひたりすぎているため、どれほど彼らの罪を確信させるような偽善の証拠を並べ立てても、大概の場合、全く何にもならないのである。彼らの状態はまことに嘆かわしく、赦されざる罪を犯した者らに次いで悲惨である。この類の人々の中には、罪の確信と悔い改めに至らせる手段の力を、いかなる者にもまして受けつけないように思える者たちがいる。しかしそれでも、すぐれた規則を提示することは、それ以外の種類の偽善者たちにとっては罪を確信させる手段となるであろう。また神は、こうした最もかたくなな偽善者にさえ罪を確信させることができるお方であり、神の恵みを枠にはめたり、神の定めの手段をないがしろにすべきではない。それだけでなくそうした規則は、真の聖徒が、真の感情とごっちゃにして考えてきた、まがいものの感情を見破るために有用であろう。また、彼らのキリスト教信仰がますますきよくされ、火で精錬された純金のようになる手段となるであろう。

 こうしたことを前提とした上で私は、いよいよこれから、真の信仰的感情をまがいもののそれと区別する事がらについて、正面切って取り上げていこうと思う。

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*1 「自分が敬虔な者かどうか知りたければ、目に見える恵みの働きを盛り返すことである」。----「目に見える恵みの働きが盛り返されればされるほど、あなたの確信は増し加わるであろう。こうした行動が盛り返されることが多ければ多いほど、あなたの確証は長続きし、確かなものとなるであろう」。----「人は、その恵みが豊かになればなるほど、その平安もまた豊かになるものである。『神と私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように』(IIペテ1:2)」----ストッダードの『真摯さと偽善との判別法に関する小論』、p.139、p.142。[本文に戻る]


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