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第12節 人が種々の信仰的な感情について非常に感動的な証しをするとしても、その感情の性質について確かなことは何も結論できない

 真の聖徒らも、敬虔な人とそうでない人を確実に区別できるような、見分ける霊は持っていない。確かに彼らは、真のキリスト教信仰が魂の内側でいかなる働きをするかを体験的に知ってはいるが、それが他人の心の中で働いているかどうかは、手でふれることも目で見ることもできないからである*1他者について人の目に映るものはみな、うわべの現われや見かけでしかない。しかし聖書がはっきり示唆するように、そうしたしかたで人の内側を判別するのは、よくて不確かで、欺きがちなやり方である。主は「人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る」(Iサム16:7)。「この方は……その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず」(イザ11:3)*2。人々の状態を性急に、また独断的にこうだと決めつけるような者らは普通、魂の問題を扱う判定者としてはお粗末きわまりなく、助言者としては危険な者たちである。そうした者らは、こうした重大な問題における自分の卓抜な識別力や判断力を鼻にかけ、自分には何もかもお見通しで、いかなる場合も自分の判断はぴたりと当たると云わんばかりだが、実は、次の三者のうちのいずれかであることを暴露しているのである。すなわち彼らは、魂を扱う経験をほとんど積んでいないか、判断力が非常に貧弱であるか、途方もない高慢と自負心の持ち主であって、自分自身についてもまるで無知なのである。賢明で老練な人々は、こうした問題にあたっては用心に用心を重ねて事を進めるであろう。

 他者のうちに、いかにも敬虔そうなようすが多々見られる場合は、彼らを心からの愛情をもって受け入れ、キリスト・イエスにある兄弟として遇するのが聖徒の義務である。とはいえ、どれほどすぐれた人も欺かれることがないわけではない。相手が非常に見込みのある、際立って優良な者と思われ、その健気さを愛しく感じ、愛着を覚えると、欺かれてしまうことがある。これまでも神の教会においては、際立って優良な信仰告白者たちが卓越した聖徒として迎え入れられながら、落伍していなくなるということが何度となく起こってきた*3。またそれは、すでに述べられたような、全く恵みを持たない人々にもいかなることが現われうるかを考えてみれば、何も不思議なことはない。たとえ、そうしたもっともらしいしるしをすべて一身に具備した人がいようと、その心の中に火花1つほどの恵みすらないことも全く問題なくありえる。彼らは多種多様な信仰的感情を兼ね備えているかもしれない。神への真の愛に酷似した、一種の愛情を神に対して有しているかもしれない。兄弟たちに対する一種の愛を有しているかもしれない。はた目には、神の完全さやそのみわざに対する崇敬の念や、罪に対する悲しみや、信仰的な願望や、キリスト教信仰の進展と魂の益を求める情熱とそっくりなものを有しているかもしれない。こうした種々の感情は、良心における激しい覚醒や罪の確信の後で生じたものかもしれない。そしてそこには、まぎれもなくへりくだりのわざのように見えるものがあるかもしれない。そうしたにせの愛や喜び、その他の感情が立ち現われてくる順序は、真の回心者のいだく聖い感情が通常現われてくるのと全く同じ順序と思えるかもしれない。そしてこうした信仰的な感情は、心を大きく打ち震わせ、滂沱たる涙を流させ、しかり、そうした感情を味わいつつある人々を圧倒し、神の事がらについて愛を込めて、また熱烈に、そして流暢な口調で語らせ、四六時中そのような状態であり続けさせるかもしれない。彼らは、聖書の多くの甘美な章句と、尊い約束が心に押し迫り、強い印象を与えるのを感じとったかもしれない。そして、そうした種々の感情によって彼らは、その口をもって、燃えるような熱情とともに神をたたえ、神に栄光を帰し、また他の人々に神を賛美するよう熱烈に呼びかけ、自分の無価値さを声高にけなし、無代価の恵みを激賞してやまなくなるかもしれない。さらにそうした感情によって彼らは、祈りや、説教を聞くことや、賛美や、集会出席などといった、キリスト教の外的な義務に大いに励むようになるかもしれない。またこうした事がらには、キリスト者の有する確証がその極みに達したかのような、いかにも聖徒がわしの翼に乗って、あらゆる暗闇と疑いを乗り越えて高く舞うようなようすに酷似したものが伴っているかもしれない。しかし私の思うところ、すでにはっきり示されたように、こうした事がらすべてが見られても、神の御霊の一般的な影響と、サタンの惑わし、そして邪悪で欺きがちな心以上の何物もそこにはない、ということはありえるのである。これに加えて、こうしたことすべてには、生まれつきの優美な気質や、健全なキリスト教の教理知識、聖徒たちが行なうのを常とする感情表現や体験的な証しの言葉遣いに慣れ親しんでいること、また聞き手の好みや考え方に自分の言葉や語り方を合わせるという生来の能力とずるさ、また良い教育により身についた上品な物云いと素行などが伴うことがありえるとも云えよう。それゆえ、表に現われたようすや見かけという点で、偽善者と真の聖徒は、いかに瓜二つとなりえることであろう! 疑いもなく、こうした羊とやぎを過たずに分離できる力は、すべての心を探りきわめる、全知の神の栄えある大権にほかならない。では、だれが神の前で真摯で廉潔な者で、だれがそうでないかを判別し見分けることができるなどと云うのは、貧しく、誤りがちで、暗愚な定命の存在にとって何と不当なうぬぼれであり傲慢であろうか。

 多くの人々から非常に重きを置かれ、真に敬虔な人を判別するしるしになるとみなされていると思われるのは、ある人の話がもっともらしく聞こえるだけでなく、その体験を証しする際の語り口や、話し方によって、その話に感情移入できる場合である。すなわち、自分も体験したのと同じようなことを相手が語っていると感じ、相手から聞かされたことに熱い感動と喜びを覚え、その相手に対する愛が押し迫るのを感ずる場合である。しかし、こうした事がらは、多くの人々が想像するほど確実なものでも、磐石の信頼を寄せられる根拠でもない。真の聖徒は大いに聖潔を喜ぶ。それは彼の目に最も美しいものである。また彼にとって、滅びつつある貧しい魂を新しくして救いに至らせ、聖くし、幸せにする神のみわざは、この上もなく栄えある働きである。それゆえ彼が、他の人の魂でもこのみわざがなされたという、まことしやかな話を聞き、その人の中にいかにもそれらしい聖潔のしるしを見るとき、心が感動し、非常に深い愛情にひたるとしても不思議はない。そうした好ましいしるしが真の内実を伴っているかいないかは、二の次である。そしてもしその相手が、真の聖徒が種々の感情を表現するのに通常用いるのと同じ言葉を用いたり、他の人々が体験してきたのと同じような順序で多くの事がらを語り継いでいったり、確証に満ちたようすで、のびのびと、また大胆に物語る場合、その人の体験も自分自身の体験と同じだと考える人があったとしても無理はない。またこれに加えて、もしその人が、自分の証しを愛情に満ちた調子で語り、何にもまして、あのガラテヤ人たちが使徒パウロに寄せたような愛情を示している場合、こうした事がらは自然と聞き手の心を和らげ、引き寄せるような、力強い影響をもたらすであろう。ダビデの口ぶりを見ると、かつて彼はアヒトフェルの話に感じ入り、ひとたびはその話に快く耳を傾け、大いにそれを喜びとしたようである。そしてそれゆえ、失脚した際の彼の驚きと失望はことのほか大きかったのである。それはほとんど彼にとって耐え難いものであった。「まことに、私をそしる者が敵ではありません。それなら私は忍べたでしょう。……そうではなくて、おまえが。私の同輩、私の友、私の親友のおまえが。私たちは、いっしょに仲良く語り合い、神の家に群れといっしょに歩いて行ったのに」(詩55:12-14)

 キリスト教信仰を告白する人々、特に神の御霊が充溢して注がれる時期にそうする人々は、春の花に似ている*4。果樹という果樹が満開の花を咲かせ、あたり一面が目に麗しく、豊作を約束しているように見える。だがしかし、その大半は全く何にもならない。ほどなくして多くの花は、しおれて枝から落ち、木の下で腐ってしまう。実際それらも、しばらくの間は、他の花と同じくらい美しく咲き誇っていたのである。そればかりか、さわやかな、香ばしい芳香を放っていたのである。それで私たちは、やがて果実になって現われる効力を内に秘めているのはどの花であるか、何も確実に決することはできない。見分けることはできない。どの花の内側に、やがて実を結べる内実と強さがあるか、またどの花が、他の花が暑い夏の日差しで干からびていく間も、その日差しによって完熟させられていくか、見分けはつけられない。後に現われる熟れた果実こそ、私たちが判断すべき基準である。新しい回心者たちもこれと変わらない。確かに、信仰的な話をしつつ自分は回心したと告白する人々は、麗しく見え、かぐわしい香を放ち、聖徒たちの目から見ても感情のこもった話し方をしているかもしれない。聖徒らは彼らの語り口を好ましく思い、そこに神から出た香を感じとったと想像するかもしれない。だがそれでも、すべては無に帰すことがありえるのである。

 実に奇妙なことだが、人はめったにキリストの与えた規則や指針だけで満足することがなく、自分勝手に作り出した種々の規則をあてはめたがるものである。そうした別の規則の方が賢明とも、より良いものとも思われるらしい。私の知る限り、キリストがかつてお与えになった指針や勧告の中で最も平明なものは、私たちが他の人々の真摯さを判断する際の基準としてお与えになった規則、すなわち、木は主としてその実によって判断すべきである、ということである。にもかかわらず、この規則だけで十分ではないようなのである。これとは別の方法を見つけ出そうとする者、そちらの方がより明確に識別でき、より確実であると想像する者は跡を絶たない。だが、人間の知恵をキリストの知恵よりも上に置くという、この傲岸さによってもたらされてきた結果は、痛ましく、また有害なものであった。私の信ずるところ、多くの聖徒たちは、この点でキリストのことばに立つ道から大きくはずれてきている。そして彼らの一部は、正道に立ち返らせようとするむちと(こう云ってよければ)さそりによる打擲を受けてきた。しかし近年になって立ち現われ、また現在も見受けられる多くの事がらによって私たちは、こう確信してよいであろう。すなわち、この道から最も遠く離れ去った多くの者たち、----すなわち、だれよりもはなはだしく自分の識別力を鼻にかけ、だれよりも独断的に、まただれよりも性急に人の魂の状態を決めつけたがるような人々----は、通常、真のキリスト教信仰について全く無知な偽善者たちであった、と

 麦と毒麦のたとえでは、こう云われている。「麦が芽生え、やがて実ったとき、毒麦も現われた」(マタ13:26)。これはフラヴェル氏も云うように*5、あたかも、その時までは、毒麦は麦と区別がつかず、見分けることができなかった、と云うかのような書き方である。同氏がヒエローニュムスの所見としている言及によれば、麦と毒麦はあまりにも似すぎていて、麦の苗が穂となるまでは、二者を見分けることは至難のわざである。そしてフラヴェル氏は云い足している。とあらば、「麦と毒麦との違いを区別することが、いかに困難なことであろうか。にもかかわらず、判断力のすぐれた人には、それらの識別も不可能ではないであろう。だが、いかに鋭く、洞察力に富んだ人の目をもってしても、特別恩恵と一般恩恵の違いを見分けることは、はるかに困難である。なぜなら、救いに至る恵みとして聖徒に伴ういかなるものも、そのにせものが偽善者たちのうちに見られるからである。そうした者らの内側には本物と似通った働きがなされており、どれほど霊的で思慮分別に富んだ人の目も簡単にごまかして、あたかも救いに至らせ、人をきよめる霊の純粋な効果であるかのような思い違いをさせることがありえるのである」。

 麦と毒麦とを見分けるしるしが穂、あるいは実であるのと同じく、真のシボレテこそ、ヨルダン川の渡し場に立つ審判者が、ヨルダンを渡って真のカナンに渡って良い者と、渡し場で切り殺されなくてはならない者とを見分けるために用いるものである[士12:5-6]。なぜなら、シボレテというヘブル語は、穀物の穂を意味しているからである。そしてもしかすると、エフタの友人たちが口にした、より完全な発音のシボレテは、中に実の入った成熟した穂のことを意味していて、エフタの対型たるキリストの友人たちの結ぶ実を象徴しているのかもしれない。また、彼の敵であったエフライム人たちが口にした、より貧弱な発音は、彼らのからっぽの穂を意味し、偽善者たちによる、実質も実も伴わない見せかけの信仰を象徴しているのかもしれない。これは私たちが聖書の中でふんだんに教えられている教理と合致している。すなわち、死からいのちに移った者を見きわめ、天のカナンに入る権利を持っているか、切り殺されるべきでないかを判断するために立てられているお方は、あらゆる人をその行ないに応じてさばく、ということである。

 これと同じことを教えていると思われるのが、らい病の見分け方として祭司に与えられた規則である。多くの場合に祭司は、人の外観をどれほど綿密に検査しても、らい病にかかっているか、きよいかの見きわめはできず、はっきりしたことを知るには、自分のもとに現われた人を隔離しておき、二週間にわたって七日ごとに、外観の経過を観察しなくてはならなかった。そして判定を下す際には、祭司は自分の見た斑点から生えている毛、すなわち、患部が結ばせた実ともいうべきものによって見きわめるべきであった[レビ13]。

 さてここで私は、この項目を閉じる前にもう一言、一部の人々が最近さかんに云い立てている奇妙な考え方について述べておきたい。そうした人々の言によると、他の人々が堅固な状態にあるかどうかは確実にわかる----天から直接啓示されたかのように確実にわかる----のだと云う。なぜなら、その相手に向かって、自分の内側から尋常ならざるしかたで愛があふれ出してくるからだ、と。彼らの議論は、およそ次のような筋道をたどる。すなわち、その愛は非常に明確で強いものであって、それをひしひしと感ずる自分には、それが確実に真のキリスト者的な愛であるとわかる。もしそれが真にキリスト者的な愛だとしたら、当然、その創出者は神の御霊に違いない。そして、その神の御霊が----すなわち、他の人が神の子どもであるか否かを確実に知っており、真理の御霊であられるお方が----、自分たちに常ならぬ影響を与えて、そうした人を神の子どもとして愛するように、自分たちの愛を異様なしかたであふれ出させておられるからには、必やこの、だれをも欺くことのない無謬の御霊は、その人が神の子どもであると知っておられるに違いない、と。しかし、こうした人々の論理が誤っていることは、こう考えてみればわかるであろう。すなわち、私たちがキリスト者としてなすべき義務、また神が明確にキリスト者に要求しておられる責務は、神の子らであると考えられる者たちを、また、そうでないと考えるべき理由が何1つ見あたらない者たちを、神の子らとして愛することではないだろうか。たとえ、人の心を探りきわめるお方である神はご自分の子でないと知っている者たちであっても、そうすべきではないだろうか、と。もしこれがキリスト者としてなすべき義務だとすれば、それは良いことであり、そうせずにいることは罪である。したがって神の御霊は、そうした愛の創出者であると云えよう。また確かに神の御霊は偽りの霊ではないから、そのような場合、人が自分の義務を行なうのを助け、罪を犯さないように守ってくださると云えよう。しかしここでこうした人々が自分たちの主張の論拠としているは、自分の愛がそうした相手に向かってあふれ出る際の、異常な程度や、特別なしかたなのである。神の御霊は、もし相手が神の子どもでないことをご存じだったなら、そうした愛を決して起こさせなかったであろう、というのである。しかし、だとすると私は彼らに問いたい。キリスト者は、自分の見る限りどこから見ても神の子らであると考えざるをえない人々のことはみな、非常に大きな程度において愛すべき義務があるのではないだろうか。たとえ神が自分には見えない部分を見ておられ、彼らが神の子らでないとご存じであったとしても、愛すべき義務があるのではないだろうか、と。人間には、愛によって神の子らであるとみなさざるをえないあらゆる人々を、常にもまさる熱烈な愛によって愛する義務がある。私たちには、人として可能な究極の愛によってキリストを愛さなくてはならないのと同じく、そのキリストの肢体であるほどキリストに親密で、価値ある人々を、この上もなく熱烈な愛情、キリストが私たちを愛されたような愛をもって愛すべき義務がある。したがって、もしそのように彼らを愛さなければ、それは私たちの罪となる。私たちが神に祈るべきなのは、神がその御霊によって私たちを罪から守り、私たちの義務を行なわせてくださることである。そして、もし神の御霊が私たちの祈りに答えて、ある特定の場合に私たちが自分の義務を行なえるようにしてくださるならば、そこには何の偽りもないのではなかろうか? もし御霊にそのようなことができないとしたら、神の御霊には、御民がその義務を行なうのを助けられない場合がある、ということにならざるをえない。御霊が偽りの霊とならなくてはそうできない、というのであれば当然そうなる。しかし確かに神は、何者にもまさる主権者であって、お望みのときに、またみこころにかなうあらゆるおりに、私たちが自分の義務を果たせるようにすることがおできになる。人々が他の人を神の子どもであると考え、その相手に対するこの上もなく慕わしい愛を神が彼らからあふれ出させる場合、神には、そうした人についての彼らの意見が正しいかそうでないかを啓示するよりも、違った目的があるのであろう。神は、彼らがその義務を果たせるようにし、彼らを罪というおぞましく底知れぬ邪悪からお守りになるという、あわれみ深い目的を持っておられるのではなかろうか? また人は、そうした場合に限り、神は自分たちにその種のあわれみをかけてはならない、などと云うだろうか? もし私が家から離れているときに、だれかから、留守中のご自宅が焼失しましたが、ご家族は全員、不思議なしかたで炎から逃れました、と云われたならば、また、話を聞く限り、あらゆる点から見てその物語は非常に信憑性が高いと思われる場合、私は、たとえ実はその物語が真実でなかったとしても、神に非常に大きな感謝を感じないでいいだろうか? 感じずにいたら罪になるのではなかろうか? そして、このような機会においても神は主権者であられ、そうお望みになるなら、私が、常にもはるかにまさる程度において、自分の義務を果たせるようになさりながらも、ご自身には、偽りを確証した虚偽者であるとの非難を招かずにそう行なえるのではなかろうか?

 この上もなく明々白々なことだが、思い違いは、恵みから出た働きのきっかけとなることがあり、その結果、神の御霊の恵み深い影響力を受ける契機となりえる。「食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです」(ロマ14:6)。使徒が語っているのは、間違いに基づいた、必要もない良心のとがめによって、律法的に汚れた食事をとることを避けていた人々のことである。ここから非常に明白なように、たとえ誤った判断や誤った行為がきっかけになっていたとしても、真に恵みから出た働き、すなわち主のための心遣い、また特に、真の感謝が生ずることはありえるのである。そしてその結果、何らかの誤りがきっかけではあっても、無謬の神の御霊から出た真に聖い種々の働きがもたらされることがありえるのである。だとすると、そうした場合に、神の御霊がどの程度までこの聖い働きをもたらせるものか、私たちが決めつけるなどということは不遜というほかないであろう。

 自分から流れ出る愛によって他者の状態は確実に見きわめられる、というこの考え方は、理性にも聖書にも基づいていないばかりか、非聖書的であり、聖書に記された種々の規則に反するものでもある。聖書は、----他者の状態をそのように判断する方法について一言も述べておらず----、もっぱら他者のうちに見られるによって判断せよと私たちに命じている。聖書の種々の教理が平明に教えているように、私たちには、他者が神に対してどのような状態にあるかわからない。「わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている」(黙2:17)。また、「人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです」(ロマ2:29)。この、その誉れは、人からではなく、神から来るものです、という最後の表現において使徒が考えていたのは、ある人が人目に隠れたユダヤ人かそうでないかを判断する十分な力は人間にはない、ということである。人目につくユダヤ人かそうでないかは、人目につくしるしを見れば、人間でも簡単に判断できたであろうが、その内側の状態について決定的なことを云えるのは、ただ神おひとりにのみ属しているのである。このことは同じ使徒の次のような云い回しによっても確証されている。「ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです」(Iコリ4:5)。これに先立つ2つの節で使徒はこう云っている。「しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です」。このことは別の箇所でも確証されている。ロマ書2章で使徒が特にその舌鋒を向けている相手は、自分自身の聖さにうぬぼれ、神を誇り、みこころを知り、なすべきことが何であるかをわきまえられる----あるいは、(18節の欄外訳にあるように)種々の事がらを判別できる----、自分の識別力に自信たっぷりな人々だったからである。彼らは、「盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自任している」者たちで、他人をさばくことを買って出るような者たちであった(1節および17-18節を参照)。

 そして、他者か敬虔な人かどうかは確実にわかるなどと想像する人々の考えの、何と傲慢きわまりないことか! 考えてもみよ、かの偉大な使徒ペテロですら、シルワノについて、私の認めている忠実な兄弟としか述べていないのである!(Iペテ5:12) このシルワノは、非常に卓越したキリストの仕え人、伝道者、当時の神の教会における指導的人物として有名であったと思われ、使徒たちの親密な同行者であったというのに(IIコリ1:19; Iテサ1:1; IIテモ1:1)。

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*1 「人は自分が回心したことはわかるかもしれないが、他の人々が回心したかどうかは不確かにしかわからない。なぜなら、だれも他の人の心をのぞき込んで、そこでなされている恵みのみわざを見ることはできないからである」。ストッダードの『救いに至る回心』、第15章冒頭。[本文に戻る]

*2 ストッダード氏は述べている。「目に見えるしるしはみな、回心者にも非回心者にも共通して見られるものである。種々の経験についてなされる証しも、そうしたものの中にはいる」。『博識な人々への訴え』、p.75。
 「おゝ、人の目にとって、もみがらと麦とを見分けることの何と困難なことか! やがて神からきよいと認められる、いかに多くの廉潔な心に非難が浴びせかけられていることか! やがて神から罪と定められる、いかに多くのまがいものの心に賛意が表されていることか! 人には普通、確定的な証拠など全く見られず、それらしい徴候しかないものである。そこから他の人の状態について引き出せるのは、せいぜい臆断でしかない。だから、この人はこうだと独断的に決めつけるような者らは、廉潔な人々を不当に取り扱う一方で、よこしまな人々に赦罪を与え、義と認めていかねない。実際、ここまで語られたことを思うと、この件において幾多の危険な間違いがしばしば犯されてきたことも不思議ではない」。フラヴェルの『霊化された農業』、第12章。[本文に戻る]

*3 「気を悪くしてはならない。たとえ、レバノン杉の大木が倒れ、星々が天から落ち、信仰を公言していた者らが死んで腐っていっても。彼らがみなそうした者だと考えてはならない。選民が堕落すると考えてはならない。まことに、彼らの中には、その堕落を見させられると、さながらアルミニウス主義者のように、真に聖められた人でも堕落し果てることがありうるのだ、と考えたくなるような者らがいる。だが、彼らは……もともと私たちの仲間ではなかったのである(Iヨハ2:19)。私がこのように語るのは、主が揺さぶっておられるからである。また私は、大々的な背教が起こることも見越している。というのも神は、その友たちすべてを、キリスト教世界全域にわたって、試しておられるからである。かつてドイツでは、いかなる信仰告白があったことか! そして、このようなことをだれが考えられただろう? 密かに隠されていたものを公然と明らかにすることを喜ばれる主が剣を送られるや、彼らは倒れるのである」。シェパードの『例え話』第一部、p.118、119。
 「聖徒たちはあなたに賛意を表するかもしれないが、神はあなたを罪に定める。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる(黙3:1)。人々は云うかもしれない。ここには真のナタナエルがいる、と。だが神は云うかもしれない。ここには自分のことをくだくだと喋るパリサイ人がいる、と。読者よ、あなたはユダやデマスのことを聞いたことがあるはずである。アナニヤやサッピラのこと、またヒメナオやピレトのことを聞いたことがあるはずである。いずれも、一度は有名な信仰者として高名をはせた者たちであった。そしてあなたは、彼らがどのような末路を迎えたかを聞いたはずである」。フラヴェルの『真摯さの試金石』、第2章、第5節。[本文に戻る]

*4 神の御霊が充溢して注がれ、キリスト教信仰を復興させ、見るからに素晴らしい様相を呈させ、続々と回心者を生み出させる時期のことを、聖書は、まさにこのこと、すなわち、春の季節にたとえている。それは、諸天の温暖な影響力が木々に花々を咲かせる時のことである(雅2:11、12)。[本文に戻る]

*5 『霊化された農業』、第12章。[本文に戻る]



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