第11節 人が種々の感情によって非常に強い確信をいだいているとしても、その感情が正しいか誤りかを示すしるしにはならない
ある人々の論によると、もしだれかが、自分は堅固な状態にあるという確証をいだき、神のいつくしみを微塵も疑えないと云うようであれば、その人は欺かれているのだという。なぜなら、何1つ欠けのない、絶対的な確証をいだくなどということは、極限的な状況----たとえば殉教のような場合----でなければ、期待すべきでないと考えるからである。しかしこれは、プロテスタントの最も高名な著者たちがローマカトリック教徒に対して主張してきた教理とは正反対であり、聖書の明々白々な証拠とも正反対である。明らかに、聖書にその生涯の詳細が記されている聖徒たちに共通して見られるのは、彼らには確証があったということである。神は、取り違えようもない、また何よりも明確なしかたで、ノアやアブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、ダニエル、その他の者らに対する、ご自分の特別ないつくしみを啓示し、証しなさった。ヨブはしばしば、想像しうる限り最大限の確信と確証をもって、自分の真摯さと公正さについて語っており、しばしば神をその証人に呼び立てて、はっきりと云っている。「私は知っている。私を贖う方は生きておられることを。この方を私は自分自身で見る。ほかの者の目ではない」*(ヨブ19:25以下)。ダビデは詩篇全巻を通じて、何のためらいもなく、また何よりも明確なしかたで、神を私の神と云っている。また神を、私の受ける分、私の相続地、私の巌また信頼の的、私の盾、救い、やぐら、などと誇っている。ヒゼキヤは神の前に出て、自分が神の御前でまことを尽くし、全き心をもって歩んだと申し立てている(II列20:3)。イエス・キリストはその死の前夜、(あたかも弟子たち、および全教会に遺言を授けるかのようにして)十一弟子に向かって行なった講話において、しばしば彼らに対する特別な、永遠の愛を、取り違えようもない、明確なことばによって宣言しておられる(ヨハ14-16)。また、来たるべき未来においては、彼らがご自分の栄光にあずかると、揺るぎない絶対的な口調で約束しておられる。そしてそれと同時に主は、彼らに向かって、ご自分がそうするのは、彼らの喜びが満たされるためだと告げておられる。「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです」(ヨハ15:11)。また、この講話全体のしめくくりにはこう記されている。「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」(ヨハ16:33)。キリストは、彼らに対することばがあからさますぎたのではないか、云い過ぎたのではないか、などと不安がってはおられない。主は決して彼らを中途半端な気分のまま放っておきたいとはお思いにならなかった。それで主は、その最後の講話を、彼らの前で祈ることによって閉じられたのである。その祈りの中で主は、ご自分の御父にその十一弟子たちについて明確な語り方をしておられる。すなわち、彼らは主を知って救われた者、主を信じた者、主のことばを受け入れ、保っている者である、と。主の宣言によれば、彼らはこの世のものではなかった。彼らのために主はご自分を聖め別たれた。そして主のみこころは、彼らが主のご栄光に包まれ、主とともにいるようになることであった。そして主が御父に向けられたことばによると、主がその祈りによってこれらのことを話されたのは、主の喜びが彼らの中で全うされるためであった(13節)。こうしたことから明らかなように、主の聖徒らが自分たちの未来の栄光について、何1つ欠けのない確証を持てるような備えを万端整えておくことは、主の意図にかなっているのである。
使徒パウロは、そのすべての書簡を通じて、全く確証させられた口調で語っている。彼は、自分の主であり、主人であり、贖い主であるキリストと自分との特別な関係を常に主張し、自分が未来の報いを受け継ぐこと、それを待ち望んでいることを口にしている。そうした箇所を数え上げれば切りがないであろう。私はほんの三、四箇所に言及することにする。「キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです」(ガラ2:20)。「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です」(ピリ1:21)。「私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信しているからです」(IIテモ1:12)。「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです」(IIテモ4:7、8)。
恵みの契約の性質からして、またその契約の種々の内容を定め、制定した神の目的であると宣言されていることからして、明らかに神は聖徒たちが、この地上で生きているうちから、永遠のいのちについての確証をいだけるように、膨大な備えをしておこうとしておられるのである。なぜならその契約においては、すべてのことが、1つ残らず神の側で確定されることになっているからである。その契約のすべては備えられ、また守られる[IIサム23:5]。その約束はみな、何1つ欠けがなく、何度となく繰り返され、幾通りものしかたで云い表わされている。その証人の数は多く、証印の数は多い。また神は、ご自分の約束を誓いをもって保証しておられる。これらすべてにおいて神が明確に示しておられる意図は、約束の相続者たちが、疑いの余地なき希望と、完全な喜びををいだき、自分たちの未来の栄光について確証を持つことである。「そこで、神は約束の相続者たちに、ご計画の変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されたのです。それは、変えることのできない二つの事がらによって、----神は、これらの事がらのゆえに、偽ることができません。----前に置かれている望みを捕えるためにのがれて来た私たちが、力強い励ましを受けるためです」(ヘブ6:17、18)。しかし、こうしたすべてのことをもってしても、もしも聖徒らが、何か異例な状況に置かれていない限りはそうした確かな約束にあずかっている保証を得られないとしたら、彼らに力強い励ましと、未来に栄光を得られる希望を与えるなどという役には全く立たないであろう。なぜなら、どれほど神の約束と誓いが確かなものだとしても、人は、そうした約束が自分個人に対してなされたものだと知るのでなければ、強い希望と慰めを受けることなどありえないからである。また、信仰者の良心を完全にするというキリストにある備えも(ヘブ9:9)、罪の咎目から自由にされるという確証を得られないとしたら、何の役にも立たない。
特に異例な状況でなくとも確証が得られることをさらに明らかにしているのは、すべてのキリスト者が、あらゆる努力をして、自分の召されたことと選ばれたことを確かなものとするよう命ぜられ、また、それをいかに行なうべきかが教えられている、ということである(IIペテ1:5-8)。また、自分のうちにキリストがおられるかどうかを認められないことは、キリスト者にとって非常に似つかわしくないこと、キリスト者として何か非難されるべき点があるしるしとして語られている。「あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか。----あなたがたがそれに不適格であれば別です」(IIコリ13:5)。そして、報いについてあやふやなままキリスト教を信ずるのは、キリスト者として非常に大きな非難に値する怠慢であることがほのめかされている。「ですから、私は……わからないような走り方はしていません」(Iコリ9:26)。さらにこれ以上つけ加えなくとも、キリスト者がキリスト教の救いの恩恵にあずかっていると自覚するのに特に異例の状況が必要ないことは明々白々である。なぜなら使徒たちは、通常いかなる手段によって、それがキリスト者たち----単に使徒たちや殉教者たちだけでなく----の知るところとなるかを告げているからである。「ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです」(Iコリ2:12)。また、「もし、私たちが神の命令を守るなら、それによって、私たちは神を知っていることがわかります」(Iヨハ2:3)。また、「それによって、私たちが神のうちにいることがわかります」(5節)。「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです」(3:14)。「それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです」(19節)。「神が私たちのうちにおられるということは、神が私たちに与えてくださった御霊によって知るのです」(24節)。(4:13、5:2、19参照。)
それゆえ、だれかが自分の救われていることに疑問を持たず、その種々の感情から地獄への恐れが全く払拭されているように見受けられるからといって、そうした人を偽善者と、またそうした感情を誤ったものだと決めつけるのは、非常に理不尽なことであると云わざるをえない。
その一方で、人が自分の状態を堅固であると確信し、自分の種々の感情が神から出たものであると確信しているからといって、彼らが聖徒であり、彼らの感情が恵みから出たものであると判断しては早計である*1。そうした人々の確信がいかに大きく強くとも、そこから確実に論ぜられることは何1つない。人は自信たっぷりに神を「私の父」と呼び、祈りにおいても、この上なく自信に満ち、親しみのこもった、なれきった調子で、「わが父よ」、「慕いまつる贖い主よ」、「いと尊き救い主よ」、「愛する主よ」、などと語りかけるのを常としているかもしれない。そういう人は、人々の前で自分の状態の堅固さについて、自信満々の口ぶりで語るかもしれない。たとえば、「私は確かに神が私の父であると知っています。天に神がおられるのを知っているのと同じくらい確かに、その方が私の神であると知っています。自分が天国に行くことはわかっています。すでに今そこにいるかのようにわかっています。私は、神が今、私の魂にご自身を現わしておられること、今私に微笑みかけておられることを知っています」、と。その人は、自分の状態はすでに十分明らかであり疑問の余地などないと云わんばかりに、自己省察や自己吟味などとは手を切り、本当はそんなに良い状態でないのではないか、とほのめかすような人があれば、たちまち鼻で笑うような態度をとるかもしれない。しかし、そうした事がらは決してその人が、本当に自分で確信している通りの者であることを示すしるしにはならないのである*2。----そうした類の横柄で、高飛車な、また過激な種類の自信、人前でそのように派手派手しく自己顕示をしようとするような自信は、真のキリスト者のいだく確証とは似ても似つかない。むしろ、そうした態度から鼻につくのは、パリサイ人の精神である。自分は聖徒である、否、この上もなく卓越した聖徒であると微塵も疑わず、他の有象無象とは全く一線を画した存在であることを平然と神に感謝してのけた、あの精神である。またキリストが彼らの盲目さと恵みを受けていない状態を暗に指摘したとき、彼らはそれを鼻であしらった。「パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。『私たちも盲目なのですか』」(ヨハ9:40)。もし彼らにあの取税人のような精神、----自分の徹底的な無価値さを感じるあまり、遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて、自らを罪人と断じていたあの精神----がもっとあったなら、彼らの自信も、キリストに頼り、期待しつつ、自分自身には何の信頼もいだかないという、へりくだった人のいだく確信とより似たものとなっていたであろうに。
生まれながらの人がいかなる心をしているか、またその心がいかなる原理のもとにあり、そこでいかなる盲目さと、欺きと、うぬぼれと、思い上がりと、自信過剰さが力をふるっているかを考えてみさえすれば、人がどれほど自分を高く評価し、どれほど自分の幸いな境遇について山のように高く強く、嵐のように激しい自信をいだくとしても、全く何の不思議もない。なぜなら、いったん良心が盲目にされ、罪の確信がもみ消され、まがいものの感情で心が高揚させられ、今述べたような原理が野放しにされたなら、そうならずに済ませるようなものがあるだろうか? それどころか、光の御使いに変装してやってきたサタンが、心楽しませるような想像を植えつけて、まがいものの喜びや慰めをかき立て、こうした原理がどこまでも押し進められたとしたら、どうなるだろうか?
このように、いったん偽善者がまがいものの希望を握りしめてしまうと、彼には、自分の希望に疑問をいだかせるようなものが何1つなくなってしまう。真の聖徒ならしばしば疑いをいだくきっかけとなるようなものを、彼は何1つ持ち合わせていない。たとえば、第一に、彼には、用心深い精神がない。確実な土台を何よりも重んじ、自己欺瞞におぞけをふるうあの精神がない。真の聖徒らがいだく慰めは、魂をより目覚めさせ、より用心深くさせ、無限に聖く義なる全知のさばき主の前に立つことがいかに大それたことかを、よりまざまざと感じさせるようになるものである。しかし、まがいものの慰めは、こうした考えを押しつぶし、すさまじく精神を麻痺させてしまう。第二に、偽善者には、真の聖徒が持っているような自分自身の盲目さ、自分自身の心の狡猾さ、自分自身の理解の乏しさに対する自覚がない。まがいものの悟りや感情で欺かれている者たちは、常に自分の光や理解について思い上がっている。第三に、悪魔は、真の聖徒たちの希望を攻撃するようには、偽善者の希望を攻撃しない。悪魔は真のキリスト者の希望にとって不倶戴天の敵である。それは単に、その希望がキリスト者の慰めを大いに高めるからばかりでなく、それが聖く天的な性質をしていて、心の中の恵みを大いに押し進め、はぐくむもの、キリスト者生活を厳格に、また勤勉に歩ませるための大いなる誘因となるからである。しかし悪魔は、偽善者の希望に敵対しようとはしない。それは偽善者のうちにあるとき、何にもまして悪魔の利益を確実にするからである。偽善者は一生の間、何の反対も受けずにその希望を保ち続けられるかもしれない。悪魔は決してその希望を乱そうとはしないであろう。しかし、真のキリスト者であれば、自分の希望が悪魔から攻撃されたことのない者はおそらくいないはずである。サタンはこの点でキリストご自身をも攻撃し、主が神の子かそうでないかを問うた。そして、しもべは主人にまさらず、弟子はその師にまさらない。弟子は、この世でいかに高い特権を受けていようと、その師のようになれたら十分である。第四に、まがいものの希望を持つ者は、聖徒とは違って、自分自身の腐敗を見ることができない。真のキリスト者は、偽善者の十倍は自分の心とその腐敗を相手にしている。その心と行ないにおけるもろもろの罪は、そのおぞましい暗黒の姿を彼の目に映じさせている。それはすさまじい光景である。そして、いかなる恵みといえども、どうしてこれほどの腐敗と隣り合わせに、あるいはこのような心の中に存在しうるのか、しばしば不思議に思われるほどである。しかし、まがいものの希望は腐敗を隠し、全面的に覆いつくすため、偽善者は自分では汚れなく、輝かしい者であるように思えるのである。
偽善者にも二種類あり、一方の者は自分のうわべの道徳性やキリスト教の外面的部分で欺かれている。その多くは、義認の教理においては公然たるアルミニウス主義者である。もう一方の者は、まがいものの悟りや心の高揚で欺かれている者である。後の方の者らは、しばしば行ないや人間自身の義をこきおろし、無代価の恵みについて盛んに云い立てるが、それと同時に、自分たちの悟りやへりくだりによる義を立て、それらによって自分を天国へと引き上げているのである。シェパード氏は、その十人のおとめに関する講解において、この二種類の偽善者のことを、律法的な偽善者と福音的な偽善者という呼び名で区別している。そして、しばしば後者の方を最悪であると語っている。また明らかに、普通は後者の方が自分たちの希望についてはるかに自信満々であり、そうした希望からひきはがすのは途方もなく困難である。そうした者がその迷妄から覚まされた例を私はほとんど知らない。そうした者らの多くがその希望の主たるよりどころとしているのは、種々の衝動や、啓示を受けたという思い込み(聖書の章句を伴うこともあれば、伴わないこともある)であって、最近多くの人々が未来の出来事に関して受けたと云っているものと同じようなものである。こうした自分の堅固な状態に関する種々の衝動を、彼らは御霊の証しと呼ぶ。これは、後述するように、御霊の証しの性質についての完全な誤解である。他の事がらに関して幻や種々の衝動を感ずる者たちは、概して自分のほしがっているもの、自分好みのものについて啓示を受けとるものである。では、そうした事がらに関心を寄せる人々が、自分自身の永遠の救いについて、同じような種類の幻や印象を感じとったとしても、何の不思議もない。そうした人々が、自分は自分の罪の赦しを受けている、自分の名前はいのちの書に記されている、自分は神から深くいつくしまれている、といった啓示を与えられたと思い込むことがないとなぜ云えるだろうか? 特に彼らが、そのような形による選びと救いの証拠を、最も確実で最も輝かしい証拠として熱心に求め、期待し、待ち望んでいるとしたら、なおさらである。さらに、そのように自分は堅固な状態にあると啓示されたと思い込んだ者が、その点で非常に深い自信を持つようになっても何の不思議もない。山ほどの実例によって知られていることだが、種々の衝動や想像上の啓示によってたぶらかされた者たちは、極度に自信満々なものである。彼らの思い込みによれば、そういった事がらを彼らに宣言されたのは偉大なるエホバなのである。エホバじきじきの証言を受けた以上、強い自信を持つことにまさる美徳はないわけである。それで彼らは、私はこれこれのことが分かっている----確実に知っている----自分のにいのちがあると知っているのと同じくらい確かに知っている、などと云い、この件に関するいかなる議論も詮索も鼻であしらうのである。また、自分が神のいとし子であるというような、心楽しく、自己愛や自尊心をくすぐる印象や衝動が、人に強い自信を与えるのは理の当然であろう。特に彼らが、その衝動や啓示によって、何にもまさる恵みの働きと思える、心打ち震わせるような感情をいだくとすれば、なおのことである。私がかつて知っていた何人かの人々は、俗的なものに対する気違いじみた欲求を持っていて、その激情にとりつかれていた。彼らはそれが実現することを熱心に願い、そのつど失望を味わった。しかしとうとう彼らは、自分の求めてきたものが手に入るという印象、あるいは啓示を受けたと思い込んだ。彼らはそれを、いと高き神からの確かな約束であるとみなし、それが彼らを愚劣きわまりないほど自信満々にしてしまい、それとは逆の方向に確信させようとするいかなる種類の議論も、彼らの期待に反するいかなる現実の出来事もかえりみなくなってしまったのである。では、自分の救いを求めつつある人が、同じように人を惑わす種々の印象によって欺かれ、同じように自信満々になりえることは確実であろう。
シェパード氏が福音的な偽善者と呼ぶ、こういった多くの人々の自信は、自分は王様だと思っているどこかの狂人の自信と似ている。彼らは、いかなる種類の理屈にも証拠にも耳を貸さず、自信を持ち続ける。そしてある意味でこれは、真に恵みから出た確証をはるかに越えて揺るぎないものである。真の確証を持ち続けるためには、魂が聖い心持ちに保たれること、恵みが生き生きと働き続けていることが欠かせない。もしあるキリスト者の内側で恵みの活動が大きく衰え、その人が生気のない心持ちに陥るなら、その人は確証を失ってしまう。しかし偽善者たちのこの自信は、罪によって小揺るぎもしない。彼らは(少なくともその一部の者たちは)、この上もなく腐敗した心持ちとよこしまな生き方を続けながら、自分の希望に関するその大胆さは保ち続けるであろう。これこそ、彼らの迷妄の動かぬ証拠である*3。
そしてここで言及せざるをえないのは、人々に向かってしばしば説き聞かされている教理のいくつかは、往々にしてなされているよりも用心深く、限定をつけて語られなくてはならない、ということである。なぜならそれらは、多くの人が理解するように理解されると、こうした偽善者たちの迷妄とまがいものの自信を大いに凝り固めてしまうからである。どのような教理かというと、キリスト者は、見るところにではなく信仰によって歩むべきであるという教えや、暗闇の中でも神に信頼することで、神にご栄光を帰すべきであるという教え、自分の経験は頼みとせず、キリストにより頼んで生きるべきであるという教え、自分の堅固な心持ちを信仰の基盤とすべきではないといった教えのことである。これらは、正しく理解されるならば、何よりも素晴らしく、実に重要な教えだが、多くの人々がしているように理解すると、腐り果てた破滅的な教えとなる。聖書の語るところ、私たちは目に見えるものによってではなく、いかなる場合も信仰によって生き、信仰によって歩むべきである。すなわち、私たちは信ずる事がらによって左右されるべきであり、目に見えない永遠の物事を考えて動くべきであって、目に見える現世的な事がらを考えて動くべきではない。肉眼では一度も見たことがなくとも啓示された物事を信ずるべきである。また、約束された物事を見たり享受したりすることがなく、それらがいかに成就されるのかわからなくとも、未来に関する約束を信ずる信仰を働かせるべきである。これは信仰と見えるものを対置させている聖書箇所をざっと見渡すだけでも、簡単に見てとれるであろう*4。しかしこの教理は、多くの人々の理解によると、キリスト者は霊的な光がなくとも堅くキリストを信じ、望みをかけなくてはならない、という意味にされている。たとえ暗闇の中にあろうと、死んだ心持ちのうちにあろうと、当面は何の霊的経験も悟りもなかろうと、そうしなくてはならない、と。確かに、このような暗闇のうちにある者たちの義務は、暗闇から光の中に出て行くこと、そして信ずることである。しかし、そうした者らが、まだ霊的な光も視力も得ていないうちから、自信をもって信じ、信頼すべきである、などというのは反聖書的なばかげた教えである。
聖書のどこを見ても、霊的にキリストを見てもいない者が、神の働きを受けてキリストを信ずる信仰を持つなどと書かれてはいない。永遠のいのちを受ける資格にあずかるようにキリストを信ずるということは、子を見て信じることなのである(ヨハ6:40)。キリストを信ずる真の信仰を働かせるには、その人が、鏡のように主の栄光を目に映し、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を受けていなくてはならない(IIコリ3:18 <英欽定訳>; 4:6)。神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光が射し込まないような思いをしている者は信じないのである(IIコリ4:4)。霊的な光を欠いたそうした信仰は、光の子ら、昼の子らの信仰ではない。暗闇の子らの増上慢である。それゆえ彼らに向かって、何の霊的な光も視力もないまま信ぜよと迫り、促すことは、暗闇の王の惑わしを広くはびこらせる助けにしかならない。人は、何がしかの霊的光がなければ信仰を働かせることができないだけでなく、自分のいだく霊的光に比例した信仰しか働かせられないのである。人は、自分が神について知っていること以上には神を信頼できないであろう。また、神の十分さと忠実さが働いているのを見ない限り、神に対する信仰を働かせ続けることはできないであろう。さらに、神への信頼を働かせることも、彼らが恵みから出た心持ちをしていない限り不可能である。死んだ、肉的な心持ちをしている人々は、疑いもなく神に信頼しなくてはならない。なぜなら、それは自分たちの悪い心持ちから抜け出して、神に立ち返ることと同じことだからである。しかし、人に向かって神に信頼せよと勧告しておきながら、彼らが恵みから出た心持ちになる前から、またそうなろうとしてもいないうちから、その希望と平安を持ち上げるのは、実質的に、恵みから出た信頼でなくとも自信をもって神を信頼するがいい、と勧めるにひとしい。だがそれは、よこしまな思い上がりでなくて何であろう? 強く活発な神への信頼をいだきながら、恵みを活発に働かせていない、あるいは、はっきりそれと感じとれるようなキリスト者的な経験をしていないなどということは、恵みの活発な働きの中に置かれていながら、恵みの働きを受けていないというのと同じくらいありえないことである。
確かに、神の民の義務は、暗闇の中にあるときも、神を信頼することである。ある意味では、たとえ暗闇の中にあり続けるときでさえ、すなわち、神の摂理的な状況が暗く見え、神が彼らを見捨ててしまったように思われ、彼らの祈りを聞いていないように見えても、神を信頼することである。暗雲が密集し、雲霞のように多くの敵が彼らを取り囲み、彼らを呑み込もうとするかに見え、摂理から出たあらゆる出来事が彼らに逆らい立つように思える。あらゆる状況が神の約束の成就を困難なものとしているように思われる。しかし目では見えなくとも神は信頼されなくてはならない。すなわち、いかに神がみことばを実現できるのか私たちにはわからなくとも、神は信頼されなくてはならない。神のおことば以外のいかなるものも、その成就の見込みを絶望的なものとしようと、信ずるとあれば、望みえないときに望みをいだかなくてはならない[ロマ4:18]。そのようにして古の族長たちは、そのようにして詩篇作者は、エレミヤは、ダニエルは、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは、そして使徒パウロは、神に栄光を帰し、暗闇の中でも神を信頼してきたのである。そうした栄えある勝利に満ちた信仰の実例を数多く記しているのがヘブル書11章である。しかしこれは、霊的視力もなく、死んだ、肉的な心持ちのまま神を信頼することとは、いかに異なっていることか!
霊的な光は、一方からは射し込んでいながら、別の方向からは射し込んでいないことがありえる。それで聖徒たちは、神を信頼し、自分の堅固な状態を知ってはいても、何らかの経験に欠けているという場合がある。たとえば彼らは、すべてを満ち足らわす神の豊かさと忠実さについて明確に認識しており、確信をもって神を信頼でき、自分が神の子どもであることを知っていながら、神の愛については、他のときよりも、はっきりとした甘やかな感覚を認められない時があるかもしれない。死の苦しみに遭っておられたときのキリストがそうであった。また聖徒たちは、神の主権と聖さと豊かさを認識し、それらによって穏やかに神に服従することができ、神の完全さに対して、この上もなく慰めに満ちた甘美な希望を働かせていながら、自分自身の堅固な状態については満足していないかもしれない。しかしこれは、自信たっぷりに神を信頼していながら、何の霊的な光も経験も持っていないことと、いかに異なっていることか!
このように、人々に向かって信仰によって生きよと強調しながら、彼らが何の経験も持たず、非常に悪い心持ちにあることを意に介さない者は、その信仰についても、非常にばかげた考え方をしている。彼らの意味する信仰とは、自分が堅固な状態にあると信ずることである。それで彼らは、自分がいかなる心持ちにあり、いかに邪悪な事がらを行なっていようと、自分の状態を疑うのを恐ろしい罪とみなすのである。なぜなら、それは不信仰という極悪の大罪だからである。そして、最良の人、最も神に最も栄誉を帰している人とは、わが身のうちに光や経験がこれっぽっちもないときにも、----すなわち、最悪の心持ち、最悪の生き方をしているときにも----この上もなく確信をいだき、揺らぐことなく、自分の堅固な状態に対するその希望を保ち続ける人とされる。なぜなら、まさにそれは、その人が強い信仰を持ち、神の栄光を現わし、望みえないときにも望みをいだいて信じているしるしだからである。しかし彼らは、いかなる聖書から信仰がそのようなものであると学んだのだろうか? 信仰とは、自分が堅固な状態にあると自信を持って信ずるであるなどと、いかなる聖書が教えているのだろうか?*5 もしこれが信仰なら、聖霊に対する赦されざる罪を犯している者すらいるとキリストから告げられていた、あのパリサイ人たちこそ、卓越した信仰の持ち主であったことになろう。だが、聖書で説かれている信仰は、人が堅固な状態へと導き入れられるための手段である。それゆえ、これは、人がすでに堅固な状態にあると信ずることと同じものではありえない。信仰の本質が、自分は堅固な状態にあると信ずることにあると考えるような人は、実質的に、信仰の本質とは、ある人が自分は信仰を持っていると信ずることにある、すなわち、自分は信じていると信じていることにある(!)、と考えているにひとしい。
確かに、人々が自分の堅固な状態を疑うときそれは、いくつかの点において、不信仰から生じてきた場合がありえる。それは、不信仰から生じたものかもしれないし、その信仰が小さすぎて、自分の堅固な状態を示す証拠が乏しすぎるため生じたものかもしれない。彼らも、もう少し信仰の活動について経験を積み、もう少し恵みの働きについて経験を積んだなら、自分の状態が堅固なものであるという、より明確な証拠を得て、その疑いは除かれるであろう。また、やはり人が自分の状態を疑うことが不信仰から生じているかもしれないと云えるのは、その人が自分に恵みのわざがなされていることを示す立派な証拠をいくら持っていても、このような自分たちが、----かくも無価値な、かくも多くの悪を行なって神の憤りをかき立ててきた自分たちが----、本当に神にいつくしみを受けている状態にあるのか、と非常に深く疑う場合である。そうした場合、彼らの疑いは不信仰から生じていると云えよう。なぜならそれが、神の恵みの無限の富や、罪人のかしらをも救うことのできるキリストの豊かさを十分感じとれず、それにより頼めないでいることから生じているからである。また、やはりそうした疑いが不信仰から生じているかもしれないと云えるのは、人が自分の状態を疑う理由が、自分に対する神の神秘的な取り扱いにある場合である。彼らには、そのような配剤と、自分に対する神のいつくしみとを調和させることができない。人によって、自分は全く約束にあずかっていないのではないかと疑う。摂理的な状況からすると、そうした約束が成就する見込みはきわめて薄く、途上の困難はあまりに多く、あまりに大きすぎると思われるからである。こうした疑いが生ずるのは神の全能の御力と、人間を無限に越えた神の知識と知恵に依存するところが欠けているためである。しかしそれでも、そうした人々の場合、彼らの不信仰、そして彼らの自分の状態への疑いは、同じものではない。一方が他方から生じているにしても、両者はひとしくはない。
人は、こうした根拠から自分の状態を疑うことについて大いに非難されるべきかもしれない。また彼らは、自分の状態の堅固さを示す証拠となるような恵みや、その現在の働きを、少ししか持っていないことについて非難されるべきかもしれない。疑いもなく人は、死んだ、肉的な心持ちにあるなら非難されるべきである。しかし、彼らがそのような心持ちにあるとき、またはっきり感じ取れるような恵みの働きを何も経験しておらず、むしろ逆に情欲と汚れた精神が優位に立っているとき、彼らは自分の状態を疑うことについて非難されるべきではない。そのような状況下にあって、聖いキリスト者的な希望が、そのきよさと強さを保ったまま生かされていることなど、事の道理として不可能である。それはさながら、ろうそくを吹き消しておきながら、室内に光を残しておこうとするようなもの、あるいは、日が沈んだ後も輝かしい陽光を残しておこうとするようなものである。かすかな経験がありはしても、現在優位に立っている情欲と腐敗によって暗くされているので、それが恵みによる確信や確証を生かし続けることは決してないであろう。一方が優勢になれば、もう一方は病み衰えるのである。幼子の頭を金槌でなぐり続けながら、その子を大きくし、強くしようなどとする者があるだろうか? また、人がそのような状況下で自分の状態を疑うことは、全く嘆くべきことにはならない。むしろ逆にそれは望ましいこと、いかなる面から見ても最上のことである。それは、神が確立なさった、賢く、あわれみ深い物事の成り立ちに合致したことである。なぜなら神は、ご自分の民に対するそのご配剤において、事をそのように成り立たせ、彼らの愛が衰えるとき、またその働きが弱くなるときには、恐れが生ずるように定めておられるからである。神の民は、罪を抑止し、魂の善を心がけるよう駆り立てられ、信仰的な用心深さと勤勉さをかき立てられるために、恐れを必要としている。しかし神の定めによれば、愛が生じて力強く働くとき、恐れは消え失せ、追い出されてしまう。なぜならそのとき彼らには、より高くよりすぐれた原理が働いていて、それが罪を防止し、義務へと駆り立てるので、恐れを必要としないからである。この恐れと愛のいずれか以外のいかなる原理も、人を良心的な者とすることはない。そしてそれゆえ、もしこれらのどちらか一方が衰えたのに、もう一方が優勢になることがなければ、神の民は、死んだ、肉的な心持ちに陥ったとき、愛が眠り込んでいるとき、実に嘆かわしいほど危険な状態になるであろう。こういうわけで神は、その知恵によって、この愛と恐れという対立する2つの原理が、天秤の両端にある2つの皿のように、一方が上がればもう一方が下がるようにお定めになったのである。光と暗闇は連綿と移り変わっていく。光が優勢になればその分だけ暗闇はなくなるし、光が衰えるなら、その分だけ暗闇が優勢になる。神の子どもの心の中もそれと同じである。神から出た愛が衰え、眠り込んでしまい、情欲が優勢になると、希望の光と喜びは消え失せ、暗い恐れが生ずる。それとは逆に、神から出た愛が優勢になり、生き生きと働くようになると、希望の輝きをもたらし、暗黒の情欲と、それに伴う恐れを追い払うのである。愛は子とされた霊*、すなわち、子どものような原理であって、それがまどろめば、人は恐れの下に置かれる。恐れとは奴隷の霊、すなわち、奴隷的な原理であって、事を全く逆の方向に押し進める。それで愛、すなわち子とされた霊が非常な高みに達すると、あらゆる恐れを追い払い、完全な確証を与えるのである。「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します」(Iヨハ4:18)。この情欲と聖い愛という2つの対立した原理は、それが優位を占める度合に比例して、恐れか愛を神の子どもたちの心にもたらす。ただしこれは、それらの自然な影響力にまかされた場合であって、何か付随的、偶発的な事情が介在するときは、完全に正比例しないこともある。そうした事情とは、肉体の病や気鬱症、教理的な無知、教育による偏見、誤った教え、偽りの行動原理、特別な誘惑、などである。
恐れが神の御霊によって締め出されるには、愛が優位に立つことによるほかない。また恐れが御霊によって保たれるのは、愛がまどんでいるときをおいてほかはない。こうなってしまうと、聖徒がいくら自己吟味しようと、過去のありったけの経験を注ぎ出そうと、決して自分の平安を確立し、確証をいだくことはできない。人がそのようなときにも確証をいだけるなどというのは、神が成り立たせておられる物事の性質とは正反対だからである。
それゆえ、死んだ心持ちのままの人々に向かって、その希望に自信を持てと促すような者たちは、神の知恵と恵み深さから出ている物事の成り立ちに真っ向から逆らっているのである。そうした人々は、見えるところに従わず、信仰によって歩むこと、暗闇の中にあっても神を信頼すること、経験を頼みとせず、キリストにより頼んで生きることなどを云い立て、自分の堅固な状態を疑ってはならない、不信仰という恐ろしい罪を犯してはならない、と警告している。しかし、えてしてこれは、途方もなく思い上がった偽善者を生み出すものである。そして、たとえいかにすさまじい邪悪さが猛威を振るい、----いかに彼らの心を支配し、いかに彼らの生き方を牛耳ろうと----、自分の状態に疑念をいだせないようにしてしまうのである。なぜなら、望みえないときに望みをいだくこと、物事がどれほど暗く見えても確信をもって神に信頼することこそ、神に栄誉を帰すことだと考えられているからである。そして、疑いもなくこのようなしかたによって、途方もなく多くの害がなされてきた。
人は、自分の種々の経験を恵みの証拠にしているというだけで、キリストを捨てたとか、経験を頼みにして生きているだとか呼ばれるいわれはない。それ以外に取り上げるべき証拠はないからである。しかし、人が経験を頼みに生きていると云わなくてはならないこともある。それは、彼らが自分の経験を義とし、神の栄光と、何にもまさるキリストの素晴らしさから目を離さないかわりに、自分にその目を向けるときである。彼らは、自分の受けた天啓や、心躍る経験、超常現象との遭遇といった類の輝かしく、麗しく見えるものをためつすがめつ眺めて心を楽しませる。彼らは自分が富んでおり、豊かな財産をもっていると考え、それと同じ理由から、自分が自分を賞賛しているように、神も自分たちを賞賛すべき者として評価しているであろうと考える。これこそ、キリストを頼みとせず、経験を頼みとして生きるあり方にほかならない。そしてこれは、キリスト教信仰に鼻もひっかけない風情の人々が犯す毒々しい不道徳さ以上に、神の御目に忌まわしいものなのである。しかしこれは、栄光ある贖い主に自分があずかっていることを示す証拠として種々の経験を用いることとは全く違う。
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*1 「おゝ、信仰告白者よ。あなたの土台を注意深く見てみるがいい。高ぶらないで、かえって恐れなさい。あなたはもしかするとキリスト教信仰のために多くのことを行ない、多くの苦しみを受けてきたかもしれない。あなたには数々の卓越した賜物と甘美な慰めがあるかもしれない。神に対する暖かな情熱と、自分の誠実さについて確かな自信があるかもしれない。これらはみな事実でありうるし、もしかすると事実かもしれない。しかしながら、それが偽りである可能性もあるのである。あなたは時として自分自身を判定し、自分のことを廉潔であると宣言してきた。しかし忘れてならないのは、最終的宣告は、まだあなたの審判者から下されていないということである。そして、もし神がもう一度あなたをより厳正なご自分のはかりで量り、メネ、テケル。あなたははかりで量られて、目方の足りないことがわかった、と仰せになったらどうなるだろうか? そのような宣告のもとにあって、あなたはいかに惑乱するであろう! Quae resplendent in conspectu hominis, sordent in conspectu Judicis。人々から高く評価されている物事は、神の目には忌まわしい。神は人が見るようには見ない。あなたの心はまがいものであって、あなたがそれに気づいていないことはありえる。しかり、それがまがいものであるにもかかわらず、あなたはその誠実さに強い自信を持っていることはありえるのである」。----フラヴェルの『真摯さの試金石』、第2章、第5節。
「偽善者の中には、聖徒らの多くよりもはるかに自信満々な者たちがある」。----ストッダードの『真摯さと偽善との判別法に関する小論』、p.128。[本文に戻る]*2 「信仰は、ある信仰者らのうちに働いて、その梢の天辺に、確証という円熟した幸いな果実を結ばせるだろうか? 見よ、きよめられていない者たちが、時としていかに強い自信と、居丈高さをもって、自分は神の恵みにあずかることを許されているのだと云いつのることか! しかり、この確証のまがいものが強すぎるあまり、彼らは、神のさばきの座に大胆に進み出て、そこでそれを弁護することすらあるのである。神の御霊は、確証させられた信仰者の心を、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びで満たしておられるだろうか? この初穂によって彼らに、信仰による天国そのものの試食あるいは前味を味わせてくださっているだろうか? 使徒が背教者のうちにも見いだされると考えているものは、何とこれによく似ていることか!」。フラヴェルの『霊化された農業』、第12章。[本文に戻る]
*3 シェパード氏はこれを、「悪のわざによって途絶されも破られもしない、思い上がった平安」、と語っている。また、こう云っている。「このような心持ちをした人は、御霊の慰めを保っているように思われるし、自分が偽善者であるなどとは夢にも思わず、主のあわれみに信頼しているかに見えるかもしれない。だが彼らが『世のさばき』をまぬがれることはできない」。『十人のおとめの例え話』、第一部、p.139。
エイムズ博士の語るところ、よこしまな人間の平安を敬虔な人間の平安と区別するのは、「よこしまな人間の平安は、自然の情からしておぞましく思えるような犯罪を避けている限り、その人間が篤信と義の義務を実践していようがいまいが存続し続けること」にある。『良心の問題』、第3巻、第7章。[本文に戻る]*4 IIコリ4:18、5:7、ヘブ11:1、8、13、17、27、29、ロマ8:24、ヨハ20:29参照。[本文に戻る]
*5 「人は、自分のことを敬虔であると信じているからといって、自分が敬虔であると知ることはできない。私たちは多くのことを信仰によって知る。信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟……る(ヘブ11:3)。信仰は目に見えないものを確信させる(ヘブ11:1)。このようにして人は、神の三位格の三位一体を知る。イエス・キリストが神の御子であることを知る。彼を信ずる者は永遠のいのちを持つことを知る。死者のよみがえりを知る。また万が一、神がある聖徒に、お前には恵みがあると告げるならば、その人は神のことばを信ずることによって、それを知ることができよう。しかし、敬虔な人々はそのようなしかたで自分は恵みを有していると知るのではない。それはみことばに啓示されてもいなければ、神の御霊がそれをある特定の人に証言するのでもない」。ストッダードの『救いに至る回心の性質』、p.83、84。[本文に戻る]