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第3節 真に聖い種々の感情の主たる土台は、天来の事物の道徳的卓越性にある。あるいは、天来の事物をその道徳的卓越性の美しさと甘やかさのゆえに愛することこそ、あらゆる聖い感情の源である

 ここで、専門用語にうとい読者のために私は、「天来の事物の道徳的卓越性」という云い回しの意味を説明しておこう。----この道徳的という言葉は、人が道徳道徳的なふるまいについて語る際のような、一般的な語義に沿って理解されてはならない。いわゆる道徳律----特に十戒の第二の板----の定める種々の義務に則った外的行為という意味に取ってはならない。またこれは、生来の種々の原理----内的で霊的な天来のものとは対極にある----から発した、見かけだけの種々の美徳とみなすべきでもない。多くの異教徒たちの正直さや正義感、寛大さ、気立ての良さ、公徳心は、真のキリスト者たちの聖い信仰や愛、謙遜、敬虔さと区別されて、道徳的美徳と呼ばれるが、この箇所における道徳という言葉は、そのように理解されるべきではない。

 これを正しく理解するには、神学者たちが普通、道徳的な善悪と天性的な善悪を区別していることを知っておかなくてはならない。道徳的な悪ということで彼らが意味しているのは、罪の悪、あるいは、義務に背き、そうあってしかるべき正しいことに逆らうという悪、である。天性的な悪ということで彼らが意味しているのは、義務そのものに反抗する悪ではなく、義務に従う従わないということとは全く切り離された、純粋に天性に反する悪を意味している。それで、痛みや苦悩、恥辱などといった苦しみの悪は、天性的な悪と呼ばれるのである。これらは、悪人や悪霊にとっても、善人や御使いにとってと同じく、純粋に天性に反する事がらである。ある子どもが奇形であったり、生まれつき痴愚であったりした場合、それは天性的な悪ではあるが、道徳的な悪ではない。なぜならそれは、の悪そのものに伴う性質ではないからである。一方、道徳的な悪ということで神学者たちが罪、すなわち正しいことに反するものを意味しているのと同じく、道徳的な善ということでは、罪に反するものを意味している。云わば道徳的善とは、意志や選択する力を持っている存在が、自発的な行為者として、自らにふさわしいあり方をしたり、行動したりすることである。そして明らかに、ふさわしいこととは、この上もなくしっくりくることや、適切なこと、愛すべきことに違いない。ところが彼らが天性的な善ということで意味しているのは、聖潔や美徳とは全く異なる種類の善、すなわち、天性を満足させて、気に入らせるような善である。この場合の天性は、聖いとか汚れているといった資質とは全く切り離された、いかなる正邪の基準、尺度とも無関係に考えられたものである。

 楽しみは天性的な善である。栄誉も、強さもそうである。思弁的な知識や、人間的な学識や、知恵深さもまたそうである。このように、人間の天性的な善と道徳的な善との間には、区別が設けられるべきである。また、天の御使いたちの天性的な善と道徳的な善との間もそうである。御使いたちの卓抜な知力や、偉大な力、また彼らが神の国の偉大な使者として置かれている栄誉ある境遇----それによって彼らが王座とも主権とも支配とも権威とも呼ばれているところのもの----は、彼らの天性的な善である。しかし彼らの完璧な聖さや、栄光ある善良さ、彼らのきよく燃え上がるような神への愛、聖徒たちへの愛、自分たち同士への愛は、彼らの道徳的な善なのである。これと同じように神学者たちは、神の天性的な完全さと道徳的な完全さとの間にも区別を設けている。神の道徳的な完全さということで彼らは、道徳的な行為者としての神が働かせている種々の属性、すなわち、神の心と意志とを善なるものとし、正しくし、無限にふさわしく、愛すべきものとしている種々の属性を意味している。たとえば神の義しさ、真実さ、忠実さ、いつくしみ、すなわち、一言で云えば、神の聖さである。神の天性的な善ということで彼らが意味しているのは、神の偉大さが存しているような種々の属性、たとえば神の力、神の知識、神がとこしえからとこしえまで存在しておられること、神の遍在、神の崇高にして恐れおおいご威光などである。

 知性を持つ自発的存在の道徳的卓越性は、より直接的には、または意志にその座がある。知性ある存在の意志が真に正しく愛すべきものであるとき、彼は道徳的に善であり、すぐれているのである。----この道徳的卓越性こそ、それが真実な実質あるものである場合、聖さなのである。したがって、聖さの中には、知性ある存在の有するあらゆる真の道徳的卓越性が含まれている。いかなる真の美徳も、真の聖さでないものはない。聖さには、善人の有するあらゆる真の美徳が含まれている。その神への愛、その恵みによる人々への愛、その正義感、その博愛、その深い慈悲心、その恵みによる柔和さと穏和さ、そして他のあらゆるキリスト教的美徳は、その人の聖さに属している。それと同じく神の聖さは、「聖さ」という言葉のより広い意味----それが聖書で神について用いられる際の、普遍的ではなくとも普通の意味----において、神性の道徳的卓越性と同じことなのである。それが、神の道徳的な完全さのすべてを、その義しさも忠実さもいつくしみも何もかも含んでいるのである。聖い人々において、彼らのキリスト教的な慈愛とあわれみが彼らの聖さに属しているのと同じように、神の慈愛とあわれみもまた、神の聖さに属しているのである。人間における聖さは、神の聖さのかたちでしかない。ならば確かに、かたちに属している美徳よりも大きな美徳が、かたちの元となった原型には属しているに違いない。何かから派生した聖さの中にあるものの方が、その源泉たる、何からも派生していない聖さの中にあるものよりも大きいなどということがあろうか?

 このように考えていくと、神の属性には2つの種類がある----神の聖さということで云い尽くせる、種々の道徳的な属性と、その力強さや知識といった、神の偉大さが存している種々の天性的な属性とがある----ことになるが、それと同じように、人間の内側にある神のかたちにも二種類あるのである。1つは、その人の聖さという、道徳的な、あるいは霊的な神のかたち、すなわち、神の道徳的卓越性のかたちであり(これが、堕落によって失われたかたちである)、もう1つは、天性的な神のかたちであって、理性や知力を初めとする、種々の天性の能力や、被造世界に及ぼしているその支配力からなる、神の天性的な種々の属性のかたちである。ここまで云われてきたことに鑑みれば、天来の事物をその道徳的卓越性のゆえに愛する愛こそ、あらゆる聖い感情の源であると云うとき、私が何を意図しているかは簡単に理解できるであろう。

 前節ですでに示されたように、すべての聖い感情の第一の客観的根拠は、天来の事物が、それ自体の性質において示している、えも云われぬすぐれた性質である。いま私はさらに話を進めて、より具体的に語ろうと思う。あらゆる聖い感情の第一の客観的根拠となるような種類のすぐれた性質とは、その聖さである、と。聖い種々の感情を働かせている聖い人々は、天来の事物を、まず第一に、それらの聖さゆえに愛するのである。彼らが神を愛するのは、何よりもまず、神の聖さ、すなわち道徳的な完全さの美しさゆえである。それらが、それ自体として、えも云われず慕わしいものであるためである。むろん、恵みによる種々の感情を働かせている聖徒たちが神を愛するのは、神の聖さだけのためではない。彼らの目には、神のすべての属性が慕わしく栄えあるものに映る。彼らは神性のあらゆる完全さを喜びとする。神の無限の偉大さ、力、知識、そして恐るべきご威光を思い巡らすことは彼らにとって快い。しかし彼らが神の聖さゆえに神を愛するということこそ、彼らの愛にとって、何よりも根本的で、本質的な部分なのである。これこそ、神への真の愛の出発点である。ここからこそ、天来の事物に対する他のあらゆる聖い愛も流れ出ているのである。神の種々の道徳的な属性の美しさゆえに神を愛する愛は、必然的に、神のすべての属性ゆえに神を喜ぶ喜びを引き起こす。というのも、神の種々の道徳的な属性は、神の種々の天性的な属性なしにはありえないからである。無限の聖さは、まず無限の知恵、また無限の偉大さを前提として初めて成り立つ。また神のすべての属性は、いわば互いにそれぞれを含み合っているのである。

 すべての知性ある存在の真の美しさと愛すべき麗しさは、まず第一に、また最も本質的な部分として、その道徳的な卓越性あるいは聖さに存している。ここにこそ、御使いたちの愛すべき麗しさが存しているのであって、これがなければ、そのいかなる天性的な完全さをもってしても、彼らは少しも悪霊どもより愛すべき者ではないであろう。道徳的卓越性のほかに、知性ある存在をすぐれた者とする自立した理由は1つもない。これこそ、彼らの種々の天性的な完全さや資質を美しく思わせるもの、否むしろ、それらの美しさそのものなのである。こう云ってよければ、道徳的卓越性は、種々の天性的に卓越した性質を卓越させる性質なのである。種々の天性的な資質がすぐれたものかそうでないかのは、それらが道徳的卓越性に結びついているか否かによって決まる。強さや知識だけあって聖さがない者は、愛すべき存在ではなく、ことさらに憎むべき者となるが、聖さとそれらが結びつくと、いやまさって愛すべき存在となる。たとえば、選ばれた御使いたちは、彼らの強さや知識のゆえに、ことさらに栄えあるものとなっている。なぜなら、彼らのこうした天性的な完全さが、彼らの道徳的完全さによって聖なるものとされているからである。しかし、悪霊どもがいかに力強く、いかに大きな天性の知力を有していようと、それ分だけ彼らが愛すべき存在となるわけではない。実際彼らは、その分だけ恐るべき存在になるのであって、その分だけ慕わしくはならない。むしろ逆に、その分だけ憎むべき者となる。知性ある被造物の聖さは、その種々の天性的な完全さすべての美しさである。そして神も、----神性を有する存在を人間的に思い描くところによれば----それと同じなのである。聖さは、神性の美しさの格別なかたちである。そういうわけでしばしば聖書では、聖なる美について記されているのである(詩29:2; 96:9; 110:3 <英欽定訳>)。これこそ、神の他のすべての属性を栄えある愛すべきものとしているものである。神の知恵に栄光があるのは、それが聖い知恵であって、邪悪な狡猾さではないからである。神のご威光が愛すべきものであり、ただ単にすさまじく、ぞっとするだけのものとなっていないのは、それが聖いご威光だからである。神が不変のお方であることに栄光が伴うのは、それが聖い不変さであって、よこしまな融通のきかない強情さではないからである。

 それゆえ必然的に、神の愛すべき麗しさを見てとるには、ここが出発点とならざるをえないはずである。神への真の愛は、神の聖さを喜ぶことから始まり、それ以外のいかなる属性を喜ぶことからも始まるはずがない。というのも、他のいかなる属性も、これなしには決して真に愛すべきものではなく、(人間的に神を思い描くところによれば)ここから愛すべき麗しさを引き出さない限り、そのようなものとはなりえないからである。それゆえ、他の種々の属性が、その真の愛すべき麗しさによって愛すべきものとみなされるようになるには、それ以前に、この聖さが見てとられなくては不可能である。また、神性のいかなる完全さも、真の愛で愛されるには、それ以前に、この聖さが愛されなくては不可能である。もしも、神のあらゆる完全さの真の愛すべき麗しさが、神の聖さの愛すべき麗しさから生じているのだとしたら、神のあらゆる完全さを真に愛する愛は、神の聖さを愛する愛から生じているのである。神の聖さの栄光を見てとれない者らは、神のあわれみや恵みの真の栄光を何1つ見てとることはできない。彼らは、こうした種々の属性の栄光を何1つ、それ自体として神のご性質のすぐれた部分である、と見てとるようなことはない。たとえ彼らがそれらによって影響されたり、それらを愛するようなことがあったとしても、それは自分の利益を考えてのことである。というのも、広義の意味で神の聖さに含まれてもおらず、神の道徳的な完全さの一部でもないような属性が、神のご性質の、それ自体としていとすぐれた部分になっているはずがないからである。

 神性の美しさが、主として神の聖さに存しているように、あらゆる天来の事物の美しさもそれと同じである。聖徒たちの美しさは、彼らが聖徒であること、あるいは聖なる者たちであることにこそ存している。彼らのうちにある神の道徳的なかたちこそ、彼らの美しさであって、それが彼らの聖さなのである。天国の御使いたちの美しさと輝かしさは、彼らが聖なる御使いであって、悪霊どもではないことに存している(ダニ4:13、17、23; マタ25:31; マコ8:38; 使10:22; 黙14:10)。他のあらゆる宗教にまさるキリスト教信仰の美しさは、それが聖い宗教であることに存している。神のことばのこの上なくすぐれた美質は、それが聖いことばであることに存している。「あなたのみことばは、非常にきよいもので、あなたのしもべは、それを愛しています」(詩119:140 <英欽定訳>)。「私は、すべてのことについて、あなたの戒めを正しいとします。私は偽りの道をことごとく憎みます」(128節)。「あなたの仰せられるさとしは、なんと正しく、なんと真実なことでしょう」(138節)。そして、「私の舌はあなたのみことばを歌うようにしてください。あなたの仰せはことごとく正しいから」(172節)。また、「主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。主への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い」(詩19:7-10)。主イエスの慕わしさと美しさは、主が万人よりすぐれ、全く愛すべきお方であることに存している。すなわち、主が神の聖者*(使3:14)であり、神の聖なる子であり(使4:27 <英欽定訳>)、聖なる方、真実な方(黙3:7)であることに存している。主の人性のあらゆる霊的な美しさ----主の柔和さ、へりくだり、忍耐、敬虔さ、神への愛、人々への愛、卑しく不道徳な者たちへのいたわり、不幸な者たちへの同情その他----はすべて、主の聖さということに要約される。そして主の神性の美しさ----主の人性の美しさがそのかたちとして反映していたもの----もまた、第一には、主の聖さに存しているのである。福音の栄光を主として成り立たせているのは、これが聖なる福音であり、神とイエス・キリストの聖なる美しさを際立って輝かしく放射していることにある。その種々の教理の霊的な美しさを成り立たせているのは、それらが聖い教理であり、敬虔にかなう教え[Iテモ6:3]であることにある。イエス・キリストによる救いの道の美しさを成り立たせているのは、それが聖い道であることにある。そして天国の栄光を主として成り立たせているのは、それが聖なる都であり、聖なるエルサレムであり、神の聖なる輝かしい御住まい(イザ63:15)であることにある。黙示録の最後の2章で叙述されているような、新しいエルサレムのあらゆる美しさは、このことを様々なしかたで表現したものにほかならない(黙21:2、10、11、18、21、27; 22:1、3参照)。

 それゆえ、主としてこうした類のすぐれた性質のゆえをもって、聖徒たちはこれらすべての事物を愛するのである。たとえば彼らが神のことばを愛するのは、それが非常にきよいからであるこのゆえをもって彼らは聖徒たちを愛するのである。また、主としてこのゆえをもって天国は彼らにとって愛すべき場所であり、神のそうした聖なる住まいは彼らの目に慕わしく映るのである。このゆえをもって彼らは神を愛する。また、第一にはこのゆえをもって彼らはキリストを愛し、彼らの心は福音の種々の教理を喜びとし、そこに啓示された救いの道に文句もなしに快く従うのである*1

 恵みによる感情をまぎれもなく示す最初の特徴に関する節で述べたように、新生した者には、新しい超自然的な感覚----ある種の天来の霊的味覚----が与えられている。これは、さながら味覚が五感の中の他のどのような感覚とも全く異なっているように、そのあらゆる性質において、以前から精神内にあった他のいかなる種類の感覚とも異なったものである。また、真の聖徒たちが、この新しい精神感覚を働かせることによって、霊的で天来の事物のうちに知覚するものは、生まれながらの人々がそうした事がらの中に知覚するいかなるものとも完全に異なったもの、さながら蜂蜜の甘さがその蜂蜜を眺めたり触ったりするだけで得られる観念とは違っているように異なったものである。さて、聖潔の美しさは、この霊的感覚によって知覚されるものであって、生まれながらの人々がそれらのうちに知覚するいかなるものとも全く異なったものである。あるいは、この種の美しさは、この霊的感覚の直接的な対象たる資質である。これこそ、この霊的味覚の正当な対象たる甘さなのである。聖書はしばしば聖潔の美しさと甘やかさを、霊的味覚と霊的欲求の主要な対象として表現している。これこそ、イエス・キリストの聖い魂にとって、甘やかな食物であった。「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。……わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です」(ヨハ4:32、34)。聖書のいかなる箇所にもまして、敬虔な信仰者の真実で真摯な心に、いかなる性質と証拠があるかを十分に、また詳細にわたって強調し、叙述しているのは詩篇119篇である。その最初の数節で、詩篇作者は自分の意図を宣言し、それ以後ずっとその意図から目を離さず、最後までその意図を追求している。聖さといういとすぐれた性質は、霊的な味覚および喜びの直接的な対象として叙述されている。神の律法、すなわち、神のご性質の聖さの主要な表現であり放射であり、被造物に対するその聖さの規定であるところのものは、終始、恵みによる性質が愛し、満足し、喜びとする主要な対象として表現されている。それは神の戒めを金よりも、純金よりも尊び、それにとって神の戒めは、蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。そしてそれは先に述べたように、それらの聖さを理由としてなのである。同じ詩篇作者の宣言によれば、これこそ霊的な味覚が神の律法のうちに味わい楽しむ甘さである。「主のみおしえは完全で、……主の仰せはきよくて、……主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、……主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い」*(詩19:7-10)。

 聖い愛には聖い対象がある。愛の聖さを特に成り立たせているのは、それが聖なるものを、その聖さゆえに愛する愛だということである。それで、その対象の聖さこそ、その愛を固めたり、終わらせたりする特質なのである。聖い性質は、それ自身の性質に最も合致するものを主として愛するに違いない。だが、他のいかなるものにまして聖い性質に合致するのは、聖さでしかありえない。というのも、あるものの性質に合致するものとして、そのもの自身にまさるものはありえないからである。これと同じように、神とキリスト、神のことば、そして他の天来の事物の聖い性質は、何にもまして、聖徒たちの聖い性質に合致するに違いない。

 さらに、聖い性質が聖い事物を愛するのは、特に罪深い性質がそれらに敵意をいだく原因となるものを理由にしているはずである。だが、罪深い性質が聖い事物に向かって敵意をいだく主たる原因は、それらの聖さにある。このためにこそ、肉的な精神は神に対して、律法に対して、神の民に対して、敵意をいだくのである。さて、これは単に、正反対の原因から正反対の結果へ、正反対の性質から正反対の傾向へという具合に、反対のものから論じているにすぎない。私たちも知るように、聖さは邪悪さとは真っ向から対立する性質である。それゆえ、邪悪さはその性質からして主として聖さに反抗し、聖さを憎む。それと同じく聖さの性質は主として聖さを助長し、喜びとするに違いない。

 天国における聖徒たちおよび御使いたちの聖い性質は(天国では、その真の傾向が最も良く現わされているはずである)、まだ第一に、天来の事物の聖さに引きつけられている。これこそ、あの輝かしく燃えるセラフィムを主として引きつけている天来の美しさである。おのおのが「互いに呼びかわして言っていた。『聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ』」(イザ6:3)。「彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、常にいまし、後に来られる方』」(黙4:8)。栄化された聖徒たちも同じである。「主よ。だれかあなたを恐れず、御名をほめたたえない者があるでしょうか。ただあなただけが、聖なる方です」(黙15:4)。

 そして聖書は地上の聖徒たちを、まず第一にこのゆえをもって神をあがめる者たちと表現している。彼らが神のすべての属性を賞賛し、たたえているのは、それらが神の聖さからその愛すべき麗しさを引き出しているか、それらが神の聖さの一部であるためである。こうして、彼らが御力のゆえに神を賛美するときには、神の聖さこそ彼らを引きつける美しさなのである。「新しい歌を主に歌え。主は、奇しいわざをなさった。その右の御手と、その聖なる御腕とが、主に勝利をもたらしたのだ」(詩98:1)。また、彼らが神の正義と、恐れおおいご威光とを賛美するときも、それと同じである。「主はシオンにおいて、大いなる方。主はすべての国々の民の上に高くいます。国々の民よ。大いなる、おそれおおい御名をほめたたえよ。主はである」(詩99:2、3)。「われらの神、主をあがめよ。その足台のもとにひれ伏せ。主はである」(5節)。「あなたは、彼らにとって赦しの神であられた。しかし、彼らのしわざに対してはそれに報いる方であった。われらの神、主をあがめよ。その聖なる山に向かって、ひれ伏せ。われらの神、主はである」(8、9節)。彼らが神を、そのあわれみと真実さのゆえに賛美するときも、同じである。「光は、正しい者のために、種のように蒔かれている。喜びは、心の直ぐな人のために。正しい者たち。主にあって喜べ。その聖なる御名に感謝せよ」(詩92:11、12)。「主のように聖なる方はありません。あなたに並ぶ者はないからです。私たちの神のような岩はありません」(Iサム2:2)。

 それゆえ、これによって、だれでも自分の種々の感情を----特に、その愛と喜びを----試すことができるであろう。様々な被造物の性質の違いを、際立って明確に示すのは、それらがいかなる物事を自分だけが味わい楽しむ善とするかによってである。ある者が喜びとするものを他の者は忌み嫌う。真の聖徒たちと生まれながらの人々との間には、そうした違いがある。生まれながらの人々には、聖い事物の何が良くて、どこがすぐれているのか全く感じられない。少なくとも、それらの聖さのゆえには、感じられない。彼らには、そうした種類のものを良いと感ずる味覚がなく、それがわからないと云ってよい。それは彼らから完全に隠されている。しかし聖徒たちには、それが神の全能の力によって悟らされているのである。彼らには、それを知覚できる超自然的な感覚が与えられているのである。これこそ彼らの心を魅了し、すべての事がらにまさって彼らを喜ばせるものである。これは、天にあり地にある真の聖徒たちの心にとって、何よりも慕わしく甘やかなものである。他のすべてにまさって彼らの魂を誘引し、引きつけるものである。そして、ここにこそ、すべての事がらにまさって、彼らは自分のこの世と別の世における幸福をかけるのである。これによってあなたは、神とイエス・キリストと神のことばと神の民とに対するあなたの愛を吟味することができるであろう。これによってあなたは、天国に対するあなたの切望を吟味することができるであろう。果たしてそうした切望が、この種の美しさに対するえも云われぬ喜びから出たものかどうか、自分の利益とそれらとのからみを想像するところから第一に発していないかどうか、それらから見込まれる利益づくのものでないかどうかを吟味することができるであろう。世に心震わせるような種々の感情や、はた目には大きく心を揺さぶっているような愛、熱狂的な喜びは多々あるが、その多くには、この聖い風味が全く属していないのである。

 中でも特に吟味してよいのは、神の恵みと愛とに伴う栄光を、あなたがいかに悟ったか、また、それらからあなたにいかなる種々の感情が生じているか、である。神の恵みが愛すべきものと思われるしかたには二種類ある。1つは、私にとってbonum utileである、すなわちためになる善であるもの、私の利益にとって大いに役に立つもの、つまり私の自己愛にとって好都合なものとしてであり、もう1つは、それ自体としてbonum formosumである、すなわち美しい善であるもの、また神性の道徳的で霊的にすぐれた性質の一部としてである。後者の意味においてこそ真の聖徒たちは、神の無代価の恵みによって心を感激させられ、愛を魅了されるのである。

 このように人々は、一見したところ、神の天性的な完全さを大いに感じとって、それらによって大いに感激しているか、神の道徳的な完全さの美しさに存してはいなくとも、何らかの神認識か神感覚を得ているかのように見うけられるが、それは決して確かな恵みの証拠ではない。たとえ人が、神の崇高な偉大さや恐れおおいご威光を大いに感じとっていたとしても、それは単に神の天性的な完全さであって、人はそれを見てとっても、神の道徳的な完全さの美しさについては全くの盲目であり、この天来の甘やかさを味わい楽しむ霊的味覚は、全く持っていないのである。

 恵みによる感情をまぎれもなく示す最初の目印に関する箇所ですでに示されたように、霊的なものとは、その性質において、恵みを持たない人々が、恵みを持たない状態のままで得ることのできる、いかなるものと全く異なっている。しかし、恵みを全く持たない人々も、神の偉大さや、その全能の力、そして崇高なご威光については、明確に見てとり、非常に心を揺さぶり、感動させるような感覚をいだくことがありうる。というのも、これは、神の霊的な知識を失った悪霊どもでも有している知識だからである。神を霊的に知るとは、神の道徳的な完全さの慕わしさを感じとることにある。悪霊どもは、その種の美しさを味わい楽しむことが完璧に欠けているが、神の天性的な栄光や、その崇高な偉大さとご威光については、非常に大きな知識を有している。これを彼らは見つめて、それゆえ神の前で震えおののいているのである。最後の審判の日には、この神の栄光を、すべての者が見ることになる。神は知性を有するすべての存在に、御使いにも悪霊にも聖徒にも罪人にも、それをお見せになる。キリストは、御父の栄光を帯びてやって来て、すべての目が彼を見るそのとき、その無限の偉大さと崇高なご威光を、何者も抵抗できない光の中で、あらゆる者に対して明らかにお示しになる。そのとき彼らは山に向かって、「われわれの上に倒れかかってくれ。御座にある方の御顔から、私たちをかくまってくれ」、と云うことになる。神は、ご自分の敵たちすべてにこれを見させ、永劫にわたって、この明々白々な心動かす光景のもとに彼らを生かし続けさせなさる。神はしばしば、神の敵たちに、こうした意味でご自分を知らせようとする不変のご目的を宣言し、彼らを糾弾する脅かしに付加してしばしば、彼らは、わたしが主であることを知ろう、と云っておられる。しかり、神は、あらゆる人がこの点で神の栄光を見るようになると誓われた。「わたしが真実に生きている以上、主の栄光は全地に満ちる」(民14:21 <英欽定訳>)。そしてこの種の神の現われは非常にしばしば聖書では、この世における神の敵たちの眼前でなされる、あるいは、なされることになっていると語られている*2。この現われこそ、シナイ山で神が、あのよこしまな会衆の眼前でご自分についてなされたことである。それで彼らは心を深く動かされ、宿営にいた全員が恐れて震え上がった。よこしまな者たちや悪霊どもは、神の栄光に属するあらゆることを目にし、身に迫って感じとることになるが、唯一、神の道徳的な完全さの美しさだけは例外である。彼らは神の無限の偉大さ、ご威光、力を見ることになり、神の全知と永遠性と普遍性を完全に確信することになり、神の道徳的な種々の属性そのものに属するあらゆることすら見てとることになるが、それらの美しさと慕わしさだけは見ることがない。彼らは神が完璧に正しく、義にして、真実であられること、神が聖なる神であり、悪を見るにはきよすぎる目を持ち、不義に目を留めることすらできないことを見てとり、知ることになる。また彼らは、神の無限の慈愛と聖徒たちに対する無代価の恵みとの素晴らしい現われとを見てとることになる。彼らの目から何物も隠されることはないが、こうした道徳的な種々の属性の美しさ、また、そこから生ずる他の属性の美しさだけは例外である。そしてそれと同じく、生まれながらの人々は、この世にある間も、神に属するあらゆることについて非常に心動かすような感覚を有することがありうるが、このことだけは例外である。ネブカデネザルは、神の無限の慈愛と崇高なご威光について非常に心動かされるような感覚を得た。神の至高にして絶対の支配と、神の抵抗しがたい力、また、その卓越した主権を感じとって非常に心を動かされた。彼は自分が、また地上のあらゆる住人が、神の前では無に等しいことを見てとり、自らの良心の中で、神の正義を堅く確信し、神の大いなる慈愛を感じとって心動かされた(ダニ4:1-3、34、35、37)。そして、ダリヨスが神の完全さについて感じた感覚もまた、ネブカデネザルのそれと非常によく似たものであったと思われる(ダニ6:25以降)。しかし聖徒たちや御使いたちは、神の聖さの美しさを目にしていて、それを見てとることによってのみ、人々の心は和らげられ、へりくだらされ、この世に嫌気をいだき、神に引き寄せられ、現実に変化させられるのである。神の崇高な偉大さを見ることは、人々のを圧倒し、人々に耐えきれないほどのものかもしれない。しかし、神の道徳的な美しさが隠されているとしたら、の敵意は無傷のままその力を保ち続けるであろう。いかなる愛も燃え立たせられることはなく、意志は全く屈服することなく強情を張り続けるであろう。これに対して、神の道徳的で霊的な栄光の輝きが最初に心に射し込んでくると、何物も抵抗できないような力をもって、そうしたあらゆる効果を生み出すのである。

 生まれながらの人々が神の崇高な偉大さについて有しうる感覚は、彼らに様々なしかたで影響を与えることがあるであろう。それは彼らに恐怖を与えるだけでなく、彼らを昂揚させ、彼らの喜びと賛美の念を高めることもありうる。これは、天性の種々の原理から出た影響だけによって、神から何らかの度外れたあわれみを受けとった場合、あるいは受けとったと思い込んだ場合の自然な効果であろう。すでに示されたように、人は何らかの慈愛を受けとると、天性の諸原理の影響によって、神への感謝の念と賛美とで心を感激させられるものである。だがもし人が、それと同時に、神の無限の偉大さについて感ずるところがあったとしたら、当然これは、その人の感謝の念や賛美をいやまして高めるに違いない。これほど卑しい者にも慈愛が示されたと感ずる以上、それが道理である。人々の間から追われて獣とともに住んだ後で回復されたネブカデネザルには、その度外れたあわれみといつくしみにおける神の偉大さを感ずることにより、こうした効果が及ぼされた。神のこの上もなくすぐれた偉大さを感じて彼は、その感謝の念を非常に高められている。それで彼は、高尚きわまりない言葉づかいで、神をあがめ、神をたたえ、世界中の人々に向かって、自分とともにそうするよう求めているのである。もし生まれながらの人が、神の無限の偉大さとご威光によって大いに心動かされるのと同時に、この偉大な神が自分のその子どもとも格別なお気に入りともして、その至高の愛における永遠の栄光を自分に約束してくださったのだ、という強固な思い込みをいだくとしたら、これは自然の道理として、その人の喜びと賛美とを途方もなく高めるのではなかろうか。

 したがって、現在あまりにも人々の間でもてはやされているような体験が、実はこういった類の、神の偉大さや、崇高なご威光、また天性的な完全さを悟りながらも、決して神の聖く愛すべきご威光は真に見てとることがないというものであることに疑問の余地はない。そして、この件について理性と聖書が宣言していることは、経験によって山ほど確証されている。おびただしい数の人々が、神の偉大さや崇高なご威光によって圧倒されたように見えながら、キリスト者的な精神や気質からも、好ましく思える行ないの実からも、まるではるかに隔たっているのである。否、彼らの種々の悟りは、真に霊的な種々の悟りの働きとは正反対のしかたで作用しているのである。

 これは決して、神の偉大さと天性的な種々の属性を感じとることが有益であり、必要であることを否定するものではない。というのも、先に述べたようにこれは、神の聖さの美しさを明らかに示される経験の中に含まれているからである。確かにそれは、これを越えた何かではあるが、これを前提としているのである。大きなものが小さなものを前提としているのと同じことである。また、たとえ生まれながらの人々にも神の天性的な完全さが感じとれるとしても、疑いもなく、こうした体験は彼らよりも聖徒たちにおいて、より頻繁に、またより普通にあることである。恵みによって人々は、こうした事がらを、生まれながらの人々よりもすぐれたしかたで見てとることができる。また神の天性的な種々の属性を見てとれるだけでなく、そうした属性の美しさをも見てとれる。そうした美しさは(人間的なしかたで神を思い描くところによれば)神の聖さから引き出されているのである。

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*1 「キリストに正しく近づくためには、罪の苦々しさを味わい、罪を悪の極みとして知ることもまた不可欠である。さもなければ人は決して、キリストにあり、キリストに発する聖さを善の極みとして、そのゆえをもってキリストに近づくことはないであろう。というのも、すでに告げたように、キリストご自身のゆえに正しくキリストに近づくとは、キリストの聖さゆえにキリストに近づくことだからである。娼婦のような心をした者に聞いてみるがいい。キリストのご人格の何がそれほど美しいのか、と。彼が、キリストの御国と、キリストの義と、キリストのすべてのみわざを見渡した後で、それらを美しいと思うのは、単にそれらが彼にとって好都合であり、彼に慰安を与えてくれるからにすぎない。だが、おとめの心をした者に聞いてみるがいい。彼は自分の幸福をすべてのうちに見るであろうが、主を慕わしいお方にしているのは主の聖さであって、彼のうちにあって彼をも聖くしているものである。結婚の場合と同じように、個人的な美しさこそ心を引き寄せるものである。そして、ここから道理と思われるのは、小さな恵みのゆえに兄弟を愛する者は、キリストをいやまさって愛するであろう、ということである」。シェパードの『例え話』、第一部、p.84。[本文に戻る]

*2 出9:16; 14:18; 15:16; 詩66:3; 46:10 その他の無数の箇所参照。[本文に戻る]



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