第6節 種々の信仰的な感情の中に愛と思われるものが見られても、それは救いに至るものか否かを示す何の証拠でもない
信仰を告白するキリスト者であればだれしも、これをもって、何らかの信仰的な感情が真の、救いに至る性質を欠いている論拠にしようとは思わないであろう。しかしその一方で、キリスト者の中には、これをもって、そうした感情が、聖霊のきよめと救いに至らせる影響力から出た確実な証拠だとする人々がいる。彼らは、サタンは愛することができない、と論じ、愛という感情は、敵意と悪意を本性とする悪魔とはまるで逆のものだ、と云う。確かに、神と人に対する真のキリスト教的愛の精神ほどすぐれたもの、天的なもの、神聖なものがないことは事実である。それは、知識や預言、奇蹟、あるいは、人の異言や、御使いの異言で話すことよりも、はるかにすぐれている。これは、神の御霊の種々の恵みの中でも主位に立つ恵みであって、真のキリスト教信仰全体のいのちであり、本質であり、精髄である。また、これほど私たちを天国にふさわしい者とするものはなく、これほど地獄と悪魔に反する者とするものはない。しかし、だからといって、これにはまがいものがない、と云っては筋違いである。むしろ、何かがすぐれていればいるほど、無数のまがいものが作り出されるはずだとも云えよう。だからこそ鉄や銅などより、金や銀のまがいものの方がはるかに多いのである。ダイヤモンドやルビーの模造品は多いが、ただの石ころをせっせと偽造しようとする者などどこにいようか? 確かに物事は、すぐれた物であればあるほど、その本質的な性質と内的な価値という点で少しでも似た物を作るのは困難であるが、それでも数限りないまがいものが生み出されつつあり、見かけだけはそっくりに模倣することに、いやまさって精緻な技巧が用いられ、披瀝されるものである。こういうわけで、インチキな薬をつかまされる危険が最も高いのは、最も特効のある最高級の薬を買うときなのである。そうした薬の価値や効能に少しでも似た物を偽造するのが至難の技であり、そのまがいものなどを飲んでも効き目は皆無であるからといって、何も事情は変わらない。キリスト者の美徳や恵みについても、全くそれと同じである。サタンがその巧緻を傾けて、また、人間の欺きがちな心がもっぱら偽造しようと力を尽くすのは、人々の間で最も声名の高いものにほかならない。こういうわけで、愛と謙遜こそ、おそらくいかなる恵みにもましてまがいものの数が多いのである。これらこそ、真のキリスト者の美しさを格別に現わす美徳だからである。
しかし愛に関して云えば、聖書が明らかに示しているように、人は一種の信仰的な愛をいだいてはいても、救いに至る恵みに全く欠けていることがありえる。キリストは、信仰を告白する多くのキリスト者たちの愛は長続きせず、彼らが救いに至ることはないと語っておられる。「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます」(マタ24:12、13)。後半の言葉が如実に示しているように、前半で語られているような、その愛が最後まで耐え忍ぶことなく、冷たくなる者たちは、救われないのである。人は、神と人とに対する愛を持っているように見えることがあり、実際非常に強く激しくその種の感情をいだいているように思われるかもしれないが、それでもなお、何の恵みも持っていないことがありえるのである。明らかにこれは、あの多くのユダヤ人たちが、キリストに向かって歓呼し、食べ物も、飲み物も、眠りもなしに、昼夜を問わずキリストにつき従いながら、恵みを持っていなかったような場合にあたる。また、私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます、と云った者や、ダビデの子にホサナ、と叫んだ人々のような場合である*1。----使徒がエペ6:24でほのめかしていると思われるのは、彼の時代には、数多くの人々がキリストに対してまがいものの愛をいだいていたということである。「私たちの主イエス・キリストを朽ちぬ愛をもって愛するすべての人の上に、恵みがありますように」。「朽ちぬ」と訳された言葉は、原語では腐敗していないという意味がある。そこからわかるように使徒は、多くの人々がキリストに対して一種の愛をいだいてはいても、その愛が純粋でも霊的でもないと感じていたのである。
それと同じように、神の民に対するキリスト者の愛もまた、まがいものでありうる。聖書から明らかなように、この種の感情はどれほど強烈なものであっても、救いに至る恵みを欠いていることがある。たとえば、ガラテヤ人には使徒パウロに対する熱烈な愛があり、自分の目をえぐり出して与えたいとさえ思うほどだったが、使徒は彼らの感情が結局何にもならないのではないか、自分が彼らのために労したことは無駄だったのではないか、という恐れをもらしているのである(ガラ4:11、15)。
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*1 ストッダード氏は、その『キリストへの教導書』において、これと同様のことを述べている。すなわち、罪人たちの中には感情が激しく突き動かされるのを感じ、自分は神に対する愛の精神を見い出したと語り、今や自分は神の栄光のために生きているのだと語って、一見、救いに至る恵みに酷似した性質を示す者たちがいるという。また、時として彼らの一般的な感情は、救いに至る感情をはるかに上回って心を震わせることがあるということである。氏の考えによると、生まれながらの人々でも、神に対する偽りの感情に心を激しく刺し貫かれるあまり、たとえ滅びに断罪されても本望だとさえ思い込むことがありえるのである。p.21、65。[本文に戻る]