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第7節 人が、多種多様な信仰的感情を相伴って有しているとしても、それだけでは、恵みから出た感情を有しているか否かを決するに十分ではない

 確かにまがいもののキリスト教信仰は、往々にして不具的で、奇怪で、真のキリスト教信仰に見られるべき、どこをとっても欠けのない、均整のとれたようすをしていないとはいえ、そこには種々雑多なまがいものの感情がひしめいていることがあり、さながら恵みから出た種々の感情にそっくりの様相を呈することがないわけではない。

 明らかに、恵みから出たあらゆる種類の感情には、そのまがいものが存在する。神への愛や、兄弟愛のまがいものについては、ちょうど上で述べた通りである。同じように、罪に対する敬虔な悲しみのそれは、パロや、サウロや、アハブや、荒野のイスラエル人らに見られる*1。また、神への恐れのそれは、神を恐れ、同時に自分たちの神々にも仕えていたサマリヤ人や(II列17:32、33 <英欽定訳>)、詩66:3に書かれているような神の敵どもが、偉大な御力のために、御前にへつらい服する、あるいはヘブル語による直訳のように、彼にうそを云う、すなわち、にせの崇敬と服従をささげることのうちに見られる。同じく、恵みから出た感謝のそれは、紅海のほとりで主への賛美を歌ったイスラエル人たちや(詩106:12)、そのらい病から奇蹟的に癒された後のシリヤ人ナアマンのうちに見られる(II列5:15以下)。

 同じように霊的な喜びのそれは、岩地のような心や(マタ13:20)、特にバプテスマのヨハネに耳を傾けていた多くの聴衆のうちに見られる(ヨハ5:35)。また熱心のそれは、エフーや(II列10:6)、回心する前のパウロや(ガラ1:14; ピリ3:6)、信じようとしなかったユダヤ人たちのうちに見られる(使22:3; ロマ10:2)。それと同じく、恵みを持っていない人々も、信仰的な願望を真剣にいだくことがありうる。それはあのバラムが、世界の他のいかなる民とも異なる、神の民の幸いな状態を幻視したときに表明したような願望のことである(民23:9、10)。こうした人々は、パリサイ人たちがそうであったように、永遠のいのちへの強い希望をいだくこともありうる。

 だが、いまだ生まれながらの状態にある人が、いかなる種類の信仰的感情の贋物をもいだくことができる以上、人々がそうした贋物を数多く合わせ持つことができないという道理は何1つない。また事実として人の目に映ることも、そうしたことが非常にしばしば起きていることをふんだんに証ししている。種々のまがいものの感情が非常に昂揚するとき、通常その多くは相伴って現われる。ラザロの復活という大奇蹟の後で、キリストとともにエルサレムに入城した大群衆は、多くの信仰的な感情によって、同時に激しく心を動かされていたように見える。彼らは賛嘆の念に満ちていたように見える。そこにはに強く心打ち震わせられているようすも見られた。また、心揺さぶるような畏敬の念も、彼らがその上着をキリストの歩を運ぶ地面に敷いたことのうちに見られた。彼らはキリストに向かって、彼がなしてきた数々の偉大な良きわざのゆえに、大きな感謝の念を表わし、彼の救いのゆえに大声で彼をほめたたえている。また、イエスが今にも神の国を打ち立てるかと思い込んでいた彼らは、その御国の到来について真剣な願望を表わしていた。また彼らは、それがすぐにでも現われることを期待して、そこに大きな希望をかけ、期待をふくらませていた。このようにして彼らは喜びに満ち、その喜びに鼓舞されて歓声をあげ、彼らの立てる物音で町中が鳴りどよめくほどとなったのである。また、彼らの示した熱心と熱意も非常に大きなものであった。彼らはイエスにつき従い、今この過越という大きな祭の時に、イエスがその御国をいささかの遅滞もなく打ち立てられるように手助けしようとしていた。

 1つの感情が非常に昂揚させられるとき、なぜ他の感情もかき立てられるかは、種々の感情の性質からして、簡単に説明がつく。これは特に、そこで昂揚させられた感情が、あのホサナと叫んだ大群衆に見られたような、まがいもののである場合に云えることである。という感情は、自然と他の多くの感情を引き起こす。なぜなら、上で述べたように、愛は感情の中でも主位に立つものであり、いわばあらゆる感情の源泉だからである。たとえば、ある人が、ある程度の期間にわたって、地獄への恐れから心の激しい動揺と恐怖を覚えていたとしよう。彼の心は、苦悩とすさまじい怯えとによって弱り果て、今にも絶望する寸前だったとしよう。ところが突如として彼が、何らかのサタンの惑わしによって、神は自分を赦してくださったのだ、その尊い愛の対象として自分を受け入れておられるのだ、そして自分に永遠のいのちを約束しておられるのだ、と堅く信じ込まされたとする。さらにまた、これが何らかの幻か、突然彼の内側にかき立てられた強力な心像によってなされ、それは彼に向かって微笑みかける美しい顔立ちの人物、----血潮のしたたり落ちる両手を大きく広げた人物、----彼がキリストであると考える人物の幻か心像であったが、それ以外には何も、キリストの霊的で神聖な卓越性や、彼の豊かさ、また福音において啓示された救いの道について悟らせるような理解の啓明が伴っていなかったとする。あるいは、何らかの声か言葉が、まるで彼に語りかけたかのようにやって来て、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」、とか、「恐れることはありません。父である神は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです」、とか聞こえ、彼がそれを、たちまち神が自分に語りかけたものとして受け取るが、彼の方ではそれ以前にキリストを受け入れることも、キリストに心を近づけることもしていなかったとする。では、こうしたことがあったとした場合、このような人の精神の中には、いかに多種多様な情動が、一挙に自然と押し寄せてくることであろう! 単なる天性の原理からしても、簡単に説明がつくことだが、こうした場合に人の心は、喜びにわれを忘れ、天にも昇る気持ちとなり、自分をかくも恐るべき破滅の瀬戸際から救出し、かくも大きな親愛の情によって格別な愛の対象として受け入れてくれた----と彼が考える----想像上の神あるいは贖い主に対する熱烈な感情に満たされるものなのである。今や彼が賛嘆と感謝の念に満たされ、口を開いては自分の経験したことを語り出して、それが止まらなくなるとしても、何の不思議があろうか? 当然彼は、しばらくの間はそれ以外のほとんど何も考えたり語ったりしなくなり、自分のためにこれほどのことをしてくれた神を賛美し、他の人々にも自分とともに喜んでくれるように呼びかけ、晴れ晴れとした顔つきになり、声高に語るようになるであろう。このように解放される前には、どれほど神の義に対する不服で満ち満ちていたとしても、今や彼にとって神に服従すること、自分の無価値さを認めること、自分をさんざんにけなすこと、神の前で非常にへりくだった態度をとること、子羊のようにおとなしく御足のもとに伏し、自分の無価値さを告白しつつ、なぜ私なのですか? なぜ私なのですか?と叫ぶことは容易なことであろう。こういうわけでサウロは、神が自分を王として任命されたと告げられたとき、こう答えたのである。「私はイスラエルの部族のうちの最も小さいベニヤミン人ではありませんか。私の家族は、ベニヤミンの部族のどの家族よりも、つまらないものではありませんか。どうしてあなたはこのようなことを私に言われるのですか」。これは、真の聖徒ダビデの言葉と非常に似通っている。「私がいったい何者であり、私の家が何であるからというので、あなたはここまで私を導いてくださったのですか」(IIサム7:18)。このような人が今や、自分の幸いな状況を認めて、ほめそやしてくれる人々とともにいることを喜ぶようになり、自分と、自分の経験したこととを高く評価し、称賛してくれるすべての人々を愛するようになったとしても、何を驚くことがあろうか? 当然彼は、そうしたことを全く何とも思わない人々に対して荒々しい反感をいだき、彼らと公然と袂を分かちたいと思い、自分と同じ側に立たないすべての人々に対して、いわば宣戦布告するであろう。今や彼は、たとえ苦しみを受けてもそれを誇りとし、こうした事がらを疑ったり、承服できないような態度をとるすべての人々を、やたらと糾弾し、とがめだてするようになるであろう。そして、この人は、自分のうちにある種々の感情に燃えているうちは、進んで労苦に耐え、自分を否定し、こうした事がらに味方する側の人々の益を押し進めようとするであろう。あるいは、改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回っていたあのパリサイ人たちのように、自分の仲間の数をふやすことを真剣に願い求めるように見受けられるであろう*2。こうした状況において自然に生ずることなら、他にいくらでも言及していけるはずである。神の力の超自然的な介入が少しでもない限り、このようなしかたでこうした事がらが生ずることはありえない、などと考える人は、人間の性質というものをほとんど考えてみたことがないに違いない。

 真に神から出た愛から、あらゆるキリスト者的な感情が流れ出るように、にせの愛からは、まがいものの感情が流れ出るのが自然である。いずれの場合も、愛が源泉であって、その他の感情はその支流である。人間性に備わる種々の機能、原理、感情は、いわば1つの源泉から生じた多くの水路にほかならない。源泉の水が清浄であれば、こうした種々の水路を流れる水も清浄であろう。しかし源泉の水が有毒であれば、やはり有毒な水がこうしたすべての水路に流れ込むであろう。こういうわけで、水路や流れの仕組みは、どちらも似通ってはいるであろうが、最たる違いは水質のうちにあるのである。あるいは人間の性質は、1つの根から出た、多くの枝を有する木にたとえることもできる。根のうちにある樹液が健全なものであれば、枝全体にもやはり健全な樹液が行きわたり、結ばれる果実も健全で栄養のあるものであろう。しかし根と株のうちにある樹液が有毒であれば、多くの枝の中を流れる樹液もやはり有毒になり、その果実は猛毒の実となるであろう。どちらの場合も、木そのものは似たようなものかもしれない。どちらの木も姿かたちは瓜二つかもしれない。しかし違いは、その実を食べて初めてわかるのである。聖徒と偽善者との間にしばしば見られる関係も、少なくともある程度までは、これと同じである。真の経験とまがいものの経験とは、見かけだけ見ると、また、そうした経験をした人々の話だけ聞いていると、非常に酷似していることがある。両者の違いは、パロの献酌官長と調理官が見た夢の違いに似ている。2つの夢はあまりにもよく似ていたので、ヨセフが献酌官長の夢を解き明かし、彼が釈放されて再び王の好意を得て、宮廷での栄誉ある地位に戻されると聞いた調理官長が、希望と期待をふくらませて自分の夢も語り出したほどであった。しかし彼は痛ましい失望を味わうこととなった。なぜなら、確かに彼の夢は、仲間の見た、めでたく幸先のいい夢と非常に似ていたが、その結末はまるで正反対だったからである。

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*1 出9:27; Iサム24:16、17; 26:21; I列21:27; 民14:39、40[本文に戻る]

*2 「敬虔な人々と交際しているからといって、人が恵みを有している証拠にはならない。アヒトフェルはダビデの友であった。教会の受けている患難を悲しむこと、人々の回心を強く願望していることも、その証拠にはならない。こうした事がらは肉的な人々のうちにも見いだすことができ、恵みの証拠には全くなりえないのである」。ストッダード著『救いに至る回心の性質』、p.82[本文に戻る]



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