第5節 信仰的な感情が、聖書の章句とともに尋常ならざるしかたで心に生じたとしても、それは真に聖く霊的な感情か否かを示す何のしるしにもならない
種々の感情が、そのように心に浮かんだ聖句によってかき立てられた場合、それは、そうした感情が恵みから出ていないという何のしるしにもならない。ただしこれは、そうした感情のもとになったのが聖書そのもの----あるいは、そのように思い浮かんだ聖句にふくまれ、教えられていた真理----であった場合であって、単に、あるいは主として、心に生じた際の急激で異様なしかたがもとになっている場合はその限りではない。
しかしその一方で、心の中に突如として、また驚くべきしかたで聖句が思い浮かぶと同時に種々の感情が生じた場合、それが恐れであれ希望であれ、喜びであれ悲しみであれ、その他いかなる感情であれ、それが恵みから出たものであるという何のしるしにもならない。ある人々はこれを、自分たちの感情が救いに至る性質を帯びている有望な証拠であるとみなす。特に、そこでかき立てられた感情が、希望や、喜びなど、いかにも心楽しく喜ばしいものであるときには、なおさらである。彼らは、こうしたことを根拠に、何も心配はいらない、自分たちの経験はみことばとともに訪れたのだ、と云うであろう。また、「私には、これこれの甘美な約束が思い浮かんだのだ。それは、まるで耳に語りかけられたように突然やって来たのだ。自分からそんな聖句を思い起こしたわけでは決してない。そんな聖句に思い至るようなことは一切考えていなかった。その聖句が突然私を打って驚かせたのだ。その聖句についてじっくり考えたことなど、それ以前には一度もなかった。初めは、それが聖句であることすらわからなかった。それを読んだことがあったかどうかすらはっきりしていないのだ」、と云うであろう。ことによると彼らは、こう云い足すかもしれない。「聖句が次から次へと流れ込んで来た。聖書のあらゆる箇所から、この上もなく甘やかで麗しいみことばが、また、考えるだに最も適切で、最も時にかなったみことばが、どんどん流れ込んで来て、私をはちきれんばかりに満たしたのだ。私はただ立ち尽くし、賛嘆の念にひたるほかなかった。涙が流れ落ち、私は喜びに満たされ、もはや疑うことなどできなかった」、と。このようにして彼らは、私には自分の感情が神から出た正しい種類のものであり、自分が堅固な状態にあるという疑いようもない証拠があるのだ、と考える。しかし、そこに確かな根拠と云えるようなものは何1つない。一体どこで彼らは、そのような法則を得たというのだろうか? 特に記憶していたのでもない種々の約束や、慰めに満ちた聖句が、説明もつかないしかたで脳裡にもたらされるのと同時に、何らかの感情あるいは体験が生じた場合、----あるいは、次から次へと甘美な聖句が数限りなく連鎖的に思い浮かぶのと同時に感情や体験が生じた場合、そうした感情や体験は救いに至るものである、などという法がどこにあるだろうか? そのような法則が聖書のどこに見出されるだろうか? この種の物事においては、聖書こそ最大にして唯一確かな規範であるというのに。
この件において、あまり物をよく知らない、またあまり思慮深くない人々が欺かれてしまうのは、次のように考えるためと思われる。すなわち、聖書は神のことばであり、その中には誤ったものが何1つなく、きよく完全である。それゆえ、聖書によって出じた体験はどれもみな正しいに違いない、と。しかし、こうした際に考えなくてはならないのは、種々の感情は聖書をきっかけとして引き起こされることがあり、それは必ずしも、聖書の純粋な結実として、聖書から正当に生じたものではなく、聖書の誤用から出てきたものかもしれないということである。神のみことばがどれほどきよく完全であっても、そこから云えるのは、種々の体験に関する限り、せいぜい、神のことばに合致した体験は正しいものであり、誤っているはずがない、ということでしかなく、脳裡に浮かんだ神のことばをきっかけとして起こった感情がみな絶対に正しいとまでは決して云えない。
悪魔には聖句を思い浮かばせることができないとか、聖句を偽って適用し、人を欺くことができない、などという証拠がどこにあるだろうか? サタンなら、それしきのことは軽々と行なえると思われる。人の脳裡に音を鳴りとどろかせたり、文字を思い浮かばせたりするのは、さほど力を要するわざではない。もしサタンが何らかの言葉や音声を少しでも人の脳裡にもたらす力を持っているとしたら、聖書にふくまれた言葉をももたらす力があるであろう。人間にしても、聖句の言葉を声に出して云うのに、他のくだらない本や歌の言葉を声に出すよりも高度な力が必要だ、などということはない。ということは、サタンも、これらのどちらかを脳裡に再生するに足る力があれば、もう一方をも再生できるであろう。言葉の意味の違いは、人間同士の慣習だけに関わることであって、音声や文字を出したり再現したりする能力には、何の影響も及ぼさないのである。それともだれか、聖書の章句は神聖不可侵であって、悪魔にはそれを濫用したり、手を触れたりする度胸はあるまい、などと思う人がいるだろうか? これもまた間違いである。大胆にもキリストご自身にすら手をかけ、荒野へ、高い山へ、神殿の頂へとキリストをあちこち引きずり回した者は、聖書に触れて、それを都合よく悪用することなど恐れはしない。なぜなら彼は、大胆にもキリストとともにいたのと同じそのとき、次々と聖句を繰り出してはキリストを欺き、誘惑しようとしたからである。そしてサタンが、キリストご自身にすら聖句を思い浮かばせ、不敵にもキリストを誘惑しようとし、それを許されたからには、一体いかなる理由で私たちは、サタンがよこしまな人々の脳裏に聖句を思い浮かばせ、彼らを誘惑するような真似はしないとか、そのようなことは許されないとか決めつけることができるのだろうか? そしてもしサタンがこのように1つの聖句を悪用できるとしたら、別の聖句をも悪用できるであろう。その聖句が、聖書においてどれほど卓越した箇所であろうと、どれほど慰めに満ちた尊い約束であろうと、彼の不敵さや能力に関しては、全く事情は変わらない。そしてもし彼が慰めに満ちた聖句を1つ思い浮かばせることができるなら、何千でもそうできるであろう。自分の目的に最も都合のよさそうな聖句を選び出せるであろう。そして、哀れな罪人を惑わしがちな聖書の約束を山と積み上げては、それを歪めて適用するであろう。そのようにして、その罪人の内側にわき起こる疑いを嘘のように取り除き、偽りの喜びと確信を固めさせるであろう。
私たちは悪魔の手先たち、すなわち、腐敗した、異端的な教師たちが、聖書に付け足したり、ねじ曲げたりして、自分自身と他の人々の滅びを招くことがありえるし、実際そうしていることを知っている(IIペテ3:16)。彼らが聖書のどの箇所をも自由自在に用いていることは衆知の事実である。そして、彼らが用いる武器のうち、これほど猛威をふるうものはない。いかなる理屈によっても、このような聖書の悪用が悪魔には許されていないなどと決めつけることはできないし、悪魔の手先たちについても同様である。なぜなら、後者がそれを行なうとき、彼らはそれを彼の手先として、彼からそそのかされつつ、彼の影響を受けつつ行なっているからである。そして疑いもなく悪魔のしもべたちは、主人の手本にならうに決まっており、彼が自ら行なうのと同じわざを行なうはずである。
また悪魔が聖書を悪用して人々を欺いて滅ぼせるのと同じように、人間たち自身の愚かさや腐敗によっても、同じことが起こる場合がある。人間自身の心もまた、悪魔のように欺きに満ちており、同じ手段を用いて人を欺くのである。とすれば明々白々なことだが、人は確かに聖書の章句や、尊い約束が突如、尋常ならざるしかたで思い浮かぶのをきっかけに、希望や喜びといった心震わす感情をわき上らせることがあるかもしれないし、そうした章句が、まるで耳に語りかけられたかのように聞こえたり、驚くようなしかたで次から次へとわき起こってくるのと同時に種々の感情をかき立てられるかもしれないが、しかしそれでも、これらはみな、そうした感情が神から出たものか、サタンの迷妄の産物にほかならぬものでないかを示す、何の論拠にもならないのである。
さらに述べておきたいのは、人々が感じとる種々の喜ばしい感情の高ぶりの中には、神のことばと同時に生じただけでなく、神のことばから出てきたものもあり、サタンから出てきたものでも、自分自身の心の腐敗から出てきたと云い切れるものでもなく、みことばによる神の御霊の何らかの影響から出てきたものである場合もあるが、それでもなお、そこに真の、また救いに至る性質が何1つふくまれていないこともありえる、ということである。それで岩地のような心をした聞き手は、みことばから非常な喜びを感じたのである。事実、それは種から芽が出るようにみことばから生じたものであって、彼らの種々の感情は、はた目には良い地に落ちた種の芽生えと瓜二つの、非常によく似た見かけをしていた----その違いは、試練に遭った後の結果が明らかになるまで現われなかった----が、それでも、そうした感情には救いに至るキリスト教信仰が全くふくまれてはいなかったのである*1。
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*1 ストッダード氏は、その『キリストへの教導書』で、これをよくあることと語っている。人は、生まれながらの状態にあり、まだ真にキリストを受け入れる前であっても、聖書の種々の約束が、非常にあざやかな力をもって心にせまってくるのを感ずることがある。それを彼らは神の愛の証しと受け取り、神が自分を受け入れてくださったものと思い込み、自分が良い状態にあると確信するのである。(p.8、9。1735年刷)[本文に戻る]