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第4節 人が自分の努力でかき立てたのでない感情をいだくことがあっても、それは恵みから出たものか否かを示す何のしるしにもならない

 近頃の多くの人々は、人間の性質にもともと備わった機能や原理の自然な結果として生じたとは思えないような感情が見られると、また、自然な状況や自然な手段によって生じたとは思えないような感情が見られると、たちまちそれをとがめだてしようとする。外部の超自然的な力が何か精神に及んだためにかき立てられたような感情は、糾弾されるのである。最近では、人が神の御霊の直接的な力と働きを内的に体験できるとか、はっきりそれとわかるほど感じとれるといった教理が、いかに激しく多くの人々の非難とあざけりの的とされていることか! 彼らは云う。神の御霊が常としておられるなさり方は、静かに、ひそかに、それとなく、用いられた手段および私たち自身の努力に協力することであって、神の御霊の影響と、私たち自身の精神機能の働きとは、感覚によっては全く区別できないのである、と。

 むろん、だれであれ、定められた恵みの手段を勤勉に用いるのを怠るような者が、救いに至る神の御霊の影響を受けられるなどとあてこむのは、無理な注文である。また、神の御霊は、何の副次的な手段を用いなくとも、救いに至る働きを自分の精神に及ぼしてくださるはずだ、などと期待するのは、狂信的なことである。さらに、神の御霊が非常に多種多様なしかたと状況を通してお働きになり、時には、他のときよりもずっとひそかに、ゆっくりと、目につかないようなしかたで徐々にお働きになる、ということはまぎれもなく真実である。

 しかしもし世の中に、私たちとは全く異なる、私たちを越えた力が本当に存在していて----あるいは、あらゆる手段や媒介物の力、また自然の力とは全く異なる、それらを越えた力が本当に存在していて----、わが国で広く告白されているように、心の中に救いに至る恵みを生じさせるためには、その力が不可欠であるとしたらどうだろうか。その場合には、そうした影響が、それとはっきり感じとれるような、あからさまなしかたでもたらされることが数多くあるはずだと考えても、理にかなわないことは全くないに違いない。もし恵みが本当に、外部の作用因----すなわち、私たちの外側におられる神聖な動作主----による力強い、また有効な働きによって生じさせられているとしたら、その働きの対象である者らに、それがそのようにして行なわれているらしいと思わせることが、なぜ理にかなわないことになるのだろうか? 物事が実態に即したように見えるのが奇妙なことだろうか? 心のうちにある恵みが、本当に私たちの力によって生み出されたものでなく、私たち自身の精神機能や、何らかの他の手段や媒介物の力によって自然に発生したものでもなく、全能者の御霊のまぎれもない手のわざであり産出物であるというのなら、その対象となった者たちの目に、真実に即したありかたが見え、真実に反するありかたが見えないということは、奇妙なことだろうか? もし人が、これこれの影響は自分の精神の自然な力や働きから出たとは思えません、何か別な作用因の超自然的な力から出たように思えます、と語っているとしても、それがその原因から生じたように思えるからといって、なぜ彼らが迷妄のもとにある確かな証拠だとみなさなくてはならないのだろうか? なぜなら、これこそ現在なされている反対論だからである。人は、多くの人々がいだいている種々の懸念や感情は、実はそうした原因から出たものではない、と断言しているが、その明白な証拠とされているのは、それらが彼らにはその原因から出たもののように思えるからだ、ということでしかない。もし人が、自分の意識のうちにあるものは、明らかに自分自身から出たものとは思えません、神の御霊の強大な力から生じさせられたように思えます、と云い切っていると、他の人々はその言葉によって彼を非難し、お前が経験したものは神の御霊から出たものではない、それはお前自身から、あるいは悪魔から出たものなのだ、と決めつけるのである。このように現在は、おびただしい数の人々が、隣人たちから、理にかなわない扱いを受けているのである。

 もし、聖書が至る所で教えているように、魂の中の恵みが神の力の結果生み出されたものであり、その働きの適切なたとえとしてあげられているのが、受け手側の力に全く帰因していないような種々の現象----たとえば、産出や、生まれさせられることや、復活や、死者の中からのよみがえりや、創造や、無から有を生じさせることなど----であり、その働きによって神の偉大な御力の栄光が大いに現わされ、そのすぐれた力がどのように偉大なものであるかが明らかにされるのだとしたら*1、一体いかなるわけで、全能者が、それほど大きな御力を働かせる際に、それほど細心の注意を払ってご自分の力を隠し、その力を及ぼされる者らに全くそれと気づかせないようになさるなどということがあるだろうか? あるいは、神がそうしておられると決めつけられるような理屈や啓示をだれが持っているだろうか? 聖書から判断する限り、そのようなことは、神がそのお働きとご経綸を実行するなさり方にはそぐわない。むしろ逆に、神がその力とあわれみの偉大なみわざにおいて常となさるしかたは、その御手を目に見えさせ、その御力を目立たせ、ご自分に頼るしかない人間の無力さを際立たせることによって、ご自分の御前ではだれをも誇らせないようにすること*2、神おひとりだけが高められるようにすること*3、その力の素晴らしさが神のものであって人から出たものではないことが明らかになるようにすること*4、キリストの力を私たちの弱さのうちに現わすこと*5、そしていかなる者にも、「この私の手が私を救ったのだ」、と云えないようにすることである*6。それこそ、あの古のイスラエルのために神が成し遂げられた、ほとんどの現世的な救いが行なわれたしかたであったが、そうした救出は、神の民がその霊的な敵たちから救い出される象徴だったのである。イスラエルがそのエジプトにおける奴隷状態から贖い出されたときがそうであった。神は彼らを強い御手と、伸べた御腕をもって贖い出された。そして神は、ご自分の力がいやまさって明らかにされるように、最初イスラエルを最も望み薄く孤立した状況へと追いやられた。また、ギデオンによる大いなる救済のときもそうであった。神は彼の軍隊をほんの一握りの小勢にすることを望み、彼らの武器としては角笛と、たいまつと、からつぼの他は持たせなさらなかった。イスラエルがゴリアテから救い出されたときもそうであった。その手だてとなったのは、子わっぱと、石投げと、石ころだったのである。あの神の偉大なみわざ、異邦人の召命においても、そうであった。それ以前の世は、その知恵によっては神を知ることなく、世界を改善しようとする哲学者たちのあらゆる努力は水泡に帰しており、世を根本から救うには神の強大な力によるほかないことが白日のもとにさらされていた。また、新約聖書の歴史の中に記されている、ほとんどの個々人の回心においても、それは同じであった。彼らが心を動かされたしかたは、現在かまびすしく主張されているような静かで、ひそかで、漸進的で、感知できないようなものではなく、超自然的な力のあからさまな証拠とともに、驚くべき形で突如として大いなる変化を遂げたのである。それらが、もし現代に起こったならば、迷妄と熱狂主義の確かなしるしとみなされたに違いない。

 使徒はエペ1:18、19で、神がキリスト者らの精神を開き、彼らにキリストを信じさせ、彼らが、信じる者に働く神のすぐれた力の偉大さを知ることができるようにしてくださることについて語っている。その言葉はこうである。「また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように」云々。さて、このように、彼らが神の力を受け、神の啓明と有効召命の対象とされ、信じる者に働く神のすぐれた力の偉大さを知ることができるようになることについて語っているとき、彼が意図していたのはまぎれもなく、彼らがそれを体験によって知るようになることにほかならない。しかしもし聖徒たちがこの力を体験によって知るのだとしたら、その場合、彼らはそれを感じ、それを見分け、それを意識するはずである。自分自身の精神の自然な働きとははっきり区別されたものとして感じとるはずである。しかしこれは、神のお働きはひそかで、見分けのつかないものであるとするような考え方とは相容れない。外側の影響力が何か及ぼされているとは本人には全くわからず、それは聖書の主張から論じるほかはない、とするような観念とは相容れない。これと、その力を体験によって知ることとは全く違う。こういうわけで、種々の感情が、それをいだく者たち自身から出たものであるとはっきり感じとれないからといって、神の御霊の恵み深いお働きから出たものではないと決めつけるのは、まるで理にかなわない非聖書的な考えである。

 その一方で、種々の感情がそれらをいだく者たちによって意図的に生じさせられたものではない、あるいは、彼らに説明がつかないようなしかたで心にわき起こってきたものであるとしても、それが恵みから出た感情であるという何の証拠にもならない。

 一部の人は、これを自分たちに都合のいい議論に仕立て上げ、自分の体験のことをこう語る。「確かに、私はこれを自分で作り出したのではない。これは私の工夫や努力から生じたものではない。これは、思いもよらぬときにやって来た。自分の好きなときにこれをもう一度いだくことなど、逆立ちしてもできない」、と。そしてこれにより彼は、自分たちが経験したものは、神の御霊の力強い影響から出たものであり、救いに至る性質があるに違いない、と断言する。だが、これは無知丸出しの、根も葉もない意見である。確かに彼らが経験したことは、本当に彼ら自身から直接出たものではなく、目に見えない何らかの作用因、私たち自身の外側にある何らかの霊から出たものであるかもしれない。しかし、だからといって、それが神の御霊から出たものであることにはならない。聖霊以外にも、人々の精神に影響を及ぼしている霊は他にいくらでもいるのである。私たちは、あらゆる霊を信用するべきではなく、それが神から出たものかどうかためすように命じられている。世には多くの偽りの霊があり、絶えず人間につきまとっては、しばしば光の御使いに変装し、多くの驚くべきしかたで、また非常な狡猾さと力をもって、神の御霊の働きの真似をしているのである。そして、人間自身の精神が自発的に行なう働きとは非常に際立って区別されるサタンの働きは数多くあるのである。たとえばそれは、恐ろしく、またおぞましい考えの示唆や、冒涜的な想念の投入であって、これらをもってサタンは多くの人々をつけ回している。それはまた、サタンを本家本元とする、無用で、役に立たない怯えや恐怖である。そしてサタンの力は、にせの慰めや喜びにおいても、その恐怖やおぞましい示唆と同じくらい直接的で、あからさまでありえるし、しばしば実際にもそうである。ドイツのアナバプテスト派や、彼らに似たその他多くの支離滅裂な熱狂主義者たちは、人間の力の中にはない力によって、その恍惚状態へと引き上げられたのであった。

 これに加えて考えなくてはならないのは、人は自分自身から生じさせられたのでも、悪い霊から生じさせられたのでもない印象を、神の御霊の一般的な影響によっても精神に感ずることがあるし、そうした印象を受けた者らが、ヘブ6:4、5に記されている者たちの中にはいたであろう、ということである。それは、「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わった」者たち、しかし、「もっと良い、救いにつながること」*については全く無知であったであろう者たちのことである。また、良い霊と悪い霊のいずれも直接手を及ぼしていないところでも、人は----特に、弱く空想的な気質と、たやすく印象を受けやすい頭脳をした者らは----、異様な不安と想像をかき立てられ、それらに伴って種々の強い感情が、わけもなく、また本人が全く意図することもなく生じてくるものである。私たちの見るところ、そうした人々は、世間的な物事についても、このような種々の印象に傾きやすい性質をしている。それで、これと等しい理由によって彼らは、霊的な事がらについても同じことになるのである。あたかも眠っている人が、意図的につむぎだしたのではない夢を見るように、そうした人々は、目覚めているときにも、意図せざる種々の印象を受けとってしまうことがあるのである。

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*1 エペ1:17-20[本文に戻る]
*2 Iコリ1:27-29[本文に戻る]
*3 イザ2:11-17[本文に戻る]
*4 IIコリ4:7[本文に戻る]
*5 IIコリ12:9[本文に戻る]
*6 士7:2[本文に戻る]



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