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第3節 人が種々の感情によって信仰的な話題をよどみなく、熱を込めて、ひっきりなしに語るようになったとしても、それは真に恵みから出た感情か否かを示す何のしるしにもならない

 このような態度に変わった人を見ると、それだけで非常な反感を覚える人々は少なくない。そういう人々にとっては、しゃべりまくること自体、相手がパリサイ人であり、これみよがしな偽善者であるとしてとがめるべき十分な根拠なのである。かと思うと、このような影響を受けた人を見ると、相手は真に神の子であり、救いに至る御霊の影響を受けているのだと一も二もなく決めつけたがり、これは新しく造られた人のまぎれもない証拠なのだと、無知丸出しに軽々しく語る人々も多い。彼らによると、そのような人の口は今や開かれたのだ、という。以前は語るのが遅かったのに、今では言葉が次から次へと出てくる。何のこだわりもなく胸襟を開き、自分の体験を語り、神への賛美を宣言している。さながら、泉から湧き出る水のように出てきているのだ、云々。そして、そうした人が救いへと至らされているとの確信を彼らがいやまさって強くするのは、その人が流暢に、またひっきりなしに語るだけでなく、その語り口が非常に心の込もった熱心なものである場合である。

 しかしこれは、その後の結果がいやというほど明らかにしているように、軽率な判断と未熟な経験から生じたものであって、聖書のかわりに自分の知恵をよりどころとし、自分の考えを自分の法則とする人々がしばしば陥る誤りにほかならない。聖書には、私たちが自分の状態を判断すべき法則も、他の人々をいかに評価すべきかという指針も山ほど示されてはいるが、私たちには、何らかの効果をもとに自分や他人が良い状態にあるかどうか判断できるような法則は何1つない。なぜならこれは、舌先三寸の信仰、聖書が木の葉によって象徴しているものでしかないからである。それは----むろん葉は木になくてはならないものだが----その木が良いものであることを示す何の証拠としてもあげられていない。

 人々がひっきりなしに信仰的な話をしがちになるのは、良い原因からとも、悪い原因からとも考えられる。それは、その人の心が種々の聖い感情であふれんばかりになっているためかもしれない。心に満ちていることを口が話すからである。だがそれは、その人の心が種々の聖くない感情であふれんばかりになっているためかもしれない。なぜなら、やはり、心に満ちていることを口が話すからである。感情というものの大きな性質からして、それがいかなる種類のものであれ、いかなる対象に向けられたものであれ、人は自分の感情を動かしたもののことを、ひっきりなしに語るようになるものである。口数がふえるだけではなく、非常に熱心に、また熱烈に語るようになるものである。それゆえ、人々がキリスト教信仰にかかわることをひっきりなしに、また非常に熱を込めて語っているとしても、それはせいぜい、彼らがキリスト教信仰によって非常に感情を動かされているという証拠にしかならない。しかしこれは、(すでに示されたように)何の恵みもない状態であることもありえる。人々は、自分の感情を大いに動かしたものについては、心打ち震わせるその感情が続く間は熱心に打ち込み、その熱心さをその口振りで、またふるまいで表わすのが普通であろう。それは、ユダヤとガリラヤの大多数のユダヤ人たちが、バプテスマのヨハネの説教とバプテスマについて、しばらくは行なっていたことと変わらない。彼らはしばらくの間、その光の中で楽しむことを願い、この偉大な預言者とその伝道活動について、全国的に、またあらゆる種類の人々の間で、大きな興奮が巻き起こったのである。また、それと同じようにして群衆は、キリストと、その説教と、その奇蹟とに対し、目に見えるあらゆることにおいて、しばしば非常な熱心さと大きな霊の一心さをあらわにし、その教えに驚き、みことばをすぐに喜んで受け入れた。彼らは時として昼夜を問わずキリストにつき従い、食べることも飲むことも眠ることも忘れてキリストの言葉に耳を傾けた。一度など彼らは、彼の話を聞くために空腹のまま三日もへんぴな所をさすらった。時として彼らは、キリストを口をきわめてほめたたえ、「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません」、と熱を込めて熱心に語った。しかし、彼らの大部分にとって、こうしたことは結局何になったであろうか?

 ある人が、自分の体験を話したくてたまらないというようすで、口をついて出てくることといえばそのことばかりで、会う人ごとにそれを云い歩いているかもしれない。だが、そうした場合、それはむしろ良いしるしというよりは、暗いしるしである。葉っぱが繁りすぎている木が、多くの実を結ぶことはめったにない。見かけは雨をたっぷりはらんでいるように見える黒雲も、それが強すぎる風をもたらす場合は、ひからびて乾ききった大地が求めている雨水を降らせることはめったにない。これこそ聖霊が、口先では信仰深そうなことを派手に云い立てておきながら、生活ではそれとそぐわないような実しか結ばない人々のことを記すのに、何度も好んで用いておられる表現である。「贈りもしない贈り物を自慢する者は、雨を降らせない雲や風のようだ」(箴25:14)。また使徒ユダは、初代教会の時代、聖徒たちの間にひそかに忍び込んで来た人々のことを、信仰深そうな見かけは派手で、しばらくの間は疑われることはないが、風に吹き飛ばされる、水のない雲である、と云う(4、12節)。また使徒ペテロは、同じ人々のことを評して云う。「この人たちは、水のない泉、突風に吹き払われる霧です」(IIペテ2:17)。まがいものの感情は、真の感情と同じくらい強く働くとき、真の感情よりもはるかに大がかりに自分のことを云い立てるものである。なぜなら、まがいもののキリスト教信仰は、パリサイ人たちがそうであったように*1、見せかけと、ひけらかしをもっぱらとするからである。

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*1 体験に重きを置く、かの高名な神学者シェパード氏はこう云う。「パリサイ人のらっぱは、町の隅々まで聞こえるが、質朴な信仰は目抜き通りを歩いてもだれの目にもつかない。それで人は時として、こっそり自分で自分をほめるようなことをし(しじゅう私は私はと口をはさみ)、その回心談を長々と、また九分九厘までは尾鰭をつけて語るのである。その言外の意味は、私を賞賛してくれ、にほかならない。それで自分の欠けや弱さがとめどなく語られるのである。私がどんなに心砕かれたキリスト者か見てくれ、と」。----『十人のおとめの例え話』第一部、p.179-180

 また敬虔なフラヴェル氏はこのように云う。「おゝ、読者よ。もしあなたの心が神と正しい状態にあり、口先だけの告白で自分を欺いていないとしたら、あなたは大の親友や最愛の妻にも知らせようとは思わない、神との交渉を頻繁に行なうはずである。Non est religio, uni omnia patent[すべてが開かれたところに、宗教なし]。 キリスト教信仰は、だれの目にもあけっぴろげな、人目につくものではない。人前で神に仕えることは私たちの信用を支えるが、隠れて神に仕えることは私たちのいのちを支えるのである。ある異教徒は、自分と友との秘密の文通についてこう云っている。このことを世間が知る必要などどこにあろうか? 君とぼくだけが互いに観客となっていれば十分だ。キリスト教信仰には他者の踏み込めない楽しみがあり、それを心から理解できるのは新しくされた霊的な魂だけである」。フラヴェルの『真摯さの試金石』、第2章、第2節。[本文に戻る]



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