第2節 感情が肉体に多大な影響を及ぼしているとしても、それが真のキリスト教信仰の性質を有しているかどうかを示すしるしにはならない
あらゆる感情は、多かれ少なかれ、何かしら肉体に影響を及ぼすものである。先にも述べたように、人間の性質からして、また魂と肉体を結び合わせている法則からして、精神が力強く活発に働くときには、決まって何がしかの影響を肉体に及ぼさずにはおかない。人が何かを思い詰めて考えるとき、その影響は表に現われずにはいられない。それほど肉体は精神に従属し、体液----特に血気----は、精神の動きや働きにつられて変化するのである。それどころか、肉体のうちにある魂が、ほんの少しものを考えても、あるいは、ほんの少し心を動かしてすら、それに応じた体液の動きか変化が肉体のどこかに生じないでいられるかどうかさえ疑わしい。しかし、だれしも身をもって知っているように、種々の感情の働きは、特別なしかたで、はっきり感じとれるような影響を肉体に及ぼすものである。そして、もしあらゆる感情が肉体に何らかの影響を及ぼすとしたら、その感情が心を揺さぶるものであればあるほど、またその働きが激しければ激しいほど、(その他の状況が等しい場合)肉体に及ぼされる影響も大きなものとなると考えられよう。こういうわけで、非常に大きな感情が力強く働くとき、肉体にも大きな影響が及ぼされるとしても何の不思議もない。それゆえ、一般的なものであれ霊的なものであれ、感情の中には心を大きく揺さぶるようなのものがある以上、これら双方の種類の感情から肉体に多大な影響が及ぼされるとしても何の不思議もない。その結果こうした影響は、それがどちらの種類の感情から生じているかを示す、何のしるしにもならないのである。
確かに肉体に大きな影響が及ぼされているからといって、感情が霊的なものであるという確固たる証拠には全くならない。なぜなら私たちの見るところ、そうした影響はしばしば、この世的な、キリスト教信仰とは何の関わりもない物事についての感情で心揺さぶられるときにも生ずるからである。そしてもし、純粋に現世的な物事について心揺さぶる感情がそうした影響を及ぼしうるのであれば、キリスト教信仰に関する物事について心打ち震わせる感情もまた、人間生来の性質上同じようなしかたで生ずるからには、同じような影響を及ぼすことがありえないと、一体いかなる法則によって決めつけられるのか、私には見当もつかない。
その一方、恵みによる感情が生来の感情と同じくらい激しく心を震わせ、同じくらい活発に力強く働くとき、肉体に激しい影響を及ぼすことがありえないと決めつける法則があるとも全く思えない。そのような法則を理屈から引き出すことは決してできない。ソロモンの栄光を見た者が息も止まるばかりとなったのに[I列10:5]、神の栄光を目の当たりにして感情を動かされた者が、肉体的に卒倒して悪いという理屈がどこにあるだろうか? また、そのような法則は聖書からも示されたことはない。近年この種の問題に関して起こったいかなる論争の中でも、そのような法則は何1つ見いだされなかった。霊的な感情には非常に激しく心を揺さぶる力がある。聖書には、キリスト者のうちに働く力*1について記されている。また、彼らのうちで働く神の御霊が力の霊であることについて*2、彼らのうちにある神の力の働きについて*3、しかり、彼らのうちにおける神の全能の力の働きについて*4記されている。しかし、人間の性質は弱いものである。聖書の述べるところ、血肉は著しく弱いものである。特に、大いに霊的な、また天的な働きや活動に携わる場合は、そうである(マタ26:41; Iコリ15:43、50)。この論述の冒頭に掲げた聖句は、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びについて語っている。だが、いやしくも人間の性質について考え、種々の感情の性質がいかなるものかを考えたことのある者のうち、そうした言語を絶する輝かしい喜びが、その偉大さ、力強さのあまり、か弱いちりや灰にすぎない者らにとって途方もなく圧倒的なものとなりうることをまともに疑えるような者があるだろうか? 聖書が明白に示しているように、神の栄光が壮烈な顕現を示すとき、精神に及ぼされる影響によって肉体は圧倒されるものである。聖書の教えによると、もしそうした光景が天国で見られるのと同じくらい強烈に現出したなら、肉体の脆弱な構造はその下で存続しえず、いかなる人もそのようなしかたで神を見て、なおも生きることはできない。聖徒たちが神の美と栄光についてこの世で有している知識は、またそこから生じる種々の聖い感情は、天国において聖徒たちを支配する感情と同じ性質、同じ種類のものであって、ただその程度と状況が違うだけである。神が地上で彼らにお与えになるものは、天における幸福の前味であり、彼らが未来に受け継ぐ相続財産の前渡しである。だが、一体どこのだれが、この前渡しをどのくらい与えるか神に制限を設けることなどできようか? あるいは、神は未来における報い全体の前渡しとして、これこれの部分しか与えてはならない、などとだれに云えるだろうか? だが、神のみことばの教えによれば、その報いは一度に全部与えられたなら肉体がたちまち崩壊してしまうほどのものであることを見るとき、私たちごときが至高の神に限界を設けるなど、あまりにも大胆ではなかろうか? あるいは、この報いの前渡しを与える場合、神は決して肉体の力をそぐほどのものを与えるはずがない、などと云うのはあまりにも不遜ではなかろうか? 神はいかなる箇所においても、そのような限定をご自身に課しておられないのである。
詩篇作者は、自分の熱烈な信仰的感情について語り、その魂における影響だけでなく、その肌身で、また肉体において感じとれる影響についても語っているが、その二者の区別をはっきりとつけている。「私のたましいは、主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。私の心も、身も、生ける神に喜びの歌を歌います」(詩84:2)。ここでは心と身がはっきり区別されており、その双方が影響を受けていると云われている。また、「水のない、砂漠の衰え果てた地で、私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです」(詩63:1)。ここでも明白に、魂と肉体は意識的に区別されている。
預言者ハバククは、自分の肉体が神の威光を感じて圧倒されていると語っている。「私は聞き、私のはらわたはわななき、私のくちびるはその音のために震える。腐れは私の骨のうちに入り、私の足もとはぐらつく」(ハバ3:16)。同じように詩篇作者も云う。「私の肉は、あなたへの恐れで、震えています」(詩119:120)。
この世で時として与えられる神の栄光の印象が、肉体を圧倒するものであることは明白である。なぜなら聖書によれば、これこそ神がある聖徒たちに対して、その威光と栄光を印象づけるためにご自分を視覚的に現わされたとき、現実に生じた効果だったからである。ダニエルは、キリストの栄光が視覚的に現わされたようすを伝える際、こう云っている。「私は、うちから力が抜け、顔の輝きもうせ、力を失った」(ダニ10:8)。また使徒ヨハネは、彼に対してなされた同じような現われのようすを記す際、こう云っている。「私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった」(黙1:17)。ここで、これらはキリストの栄光を単に視覚的に現わしたものにすぎないではないか、などと云っても無駄である。なぜなら、たとえそれが正しいとしても、そうした表象が用いられているのは、それらによって表わされているもの、すなわち、キリストの真に神聖な栄光と威光とを印象づけるためだったからである。これらの表象が用いられているのは、この霊的な栄光の象徴とするためにほかならない。またこうした表象は、それを示された者たちが、疑いもなくそのようなものとして受け取り、用いたものであって、そのようなものとして彼らの感情を動かしたのである。神がこうした視覚的な手段をお用いになった目的通りに、彼らはそれらを通して、それらが象徴していた神のご性質の真の栄光と尊厳とを、心揺さぶるような力強いしかたで認識したのである。そして、そのように心揺さぶられ、感情を動かされた彼らは、その印象によって魂が呑み尽くされ、肉体が圧倒されたのである。だが、一部の人々が口にしている意見もまた、不遜きわまりない、向こう見ずな意見であると私は思う。彼らによると神は、同じご自分の性質の真の栄光に関する、同じ感情を動かす認識を、そうした視覚的な映像を用いないでは、ご自分のいかなる聖徒にも与えることができないし、与えるはずがない、と云うのである。
この項目を離れる前にもう一言だけ触れておきたいのは、明らかに聖書は、聖い霊的な感情のことを、肉体に及ぼされた影響によってしばしば表現している、ということである。たとえばそれは、震えること*5、うめくこと*6、病んでいること*7、叫ぶこと*8、あえぐこと*9、絶え入ること*10、などである。さて、たとえこうした表現が単に種々の感情の度合を示す比喩にすぎないと考えられるにせよ、いかなる人もこのことだけは認めるであろう。すなわち、そうした比喩は、霊的感情が心を打ち震わせている度合を示すのに好適なものである、と。だが、もしこうした霊的感情が、まがいものの感情からまともに生ずる影響であったり、その嘆かわしい現われであったり、悪魔から出た迷妄であったとしたら、どうしてそのようなことがありえるだろうか。普通に考えれば神は、聖い天的な感情が心を震わせるようすを美しい比喩として描写するにあたり、まさか霊的感情とはまるで縁のないものや、サタンの手の狡猾なしるしであるものや、底知れぬ穴の臭気紛々たるものなどはお用いにならないであろうと私は思う。
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*1 エペ3:7 [本文に戻る]
*2 IIテモ1:7 [本文に戻る]
*3 エペ3:7、20 [本文に戻る]
*4 エペ1:19 [本文に戻る]
*5 詩119:120; エズ9:4; イザ66:2、5; ハバ3:16 [本文に戻る]
*6 ロマ8:26 [本文に戻る]
*7 雅2:5; 5:8 [本文に戻る]
*8 詩84:2 <英欽定訳> [本文に戻る]
*9 詩38:10; 42:1; 119:131 [本文に戻る]
*10 詩84:2; 119:81 [本文に戻る]