第2部.
信仰的な感情が真に恵みから出たものか否かを示すしるしとして、あてにならないものは何かもしもだれかが、ここまで語られてきたことを読んで、自分はおとがめなしだと早合点し、「私は信仰的な感情を持ち合わせない輩とは違う。私の場合、キリスト教信仰にかかわる偉大な真理を思っては非常な感動を覚えることがよくあるのだから」、と云うとしたら、安心するには早すぎると云わなくてはならない。なぜなら、確かに私たちは、あらゆる感情をはねつけたりとがめたりして、真のキリスト教信仰がいささかも感情に存していないかのような態度をとってはならないが、逆にその一方で、あらゆる感情を是認し、信仰的な感動を覚えた人ならだれでも真の恵みを持っているとか、救いに至る神の御霊の影響を受けつつあるなどと考えてはならないからである。したがって、とるべき本筋は、種々の信仰的な感情をよく見分けて、互いに区別することにある。そのための第一歩として、ここではまず、種々の感情が恵みから出たものか否かを示すしるしとはならないものをいくつか指摘することにしよう。
第1節 信仰的な感情がどれほど激しく沸き立ち、どれほど心を打ち震わせようと、それは、いずれのしるしでもない
ある人々は、いかなる感情の高揚をも、すぐにとがめだてする。彼らは、人々が信仰的な感情を異様に高ぶらせているように見えると、それだけで反感をいだき、何の吟味もなしに、そうした感情は妄想にすぎないと決めつける。しかしもし、先に証明されたように、真のキリスト教信仰の大きな部分が信仰的な感情に存しているとしたら、必然的に、真のキリスト教信仰が心を大きく占めているところには、多大な量の信仰的な感情があってしかるべきである。もしも人々の心のうちで真のキリスト教信仰が大いに高められるとしたら、神から出た聖い種々の感情も大いに高められるであろう。
愛は感情である。しかし、神やイエス・キリストを熱烈に愛することはまかりならない、などと云うキリスト者がいるだろうか? 私たちが罪を激越に憎むことは許されないとか、罪ゆえに深い悲しみを覚えてはならない、などと云うキリスト者がいるだろうか? あるいは、神から受けているあわれみのゆえに、また神が堕落した人間を救うために成し遂げられた数々の大いなるみわざのゆえに、深甚なる感謝の念をいだくことはまかりならないとか、神と聖潔を慕い求める強い願望をいだいてはならない、などと云うキリスト者がいるだろうか? 一体どこのだれが、キリスト教信仰における自分の感情はこの程度で十分だ、などと公言するだろうか? 「私は、キリスト教信仰にこれしか感情を動かされていませんが、申し訳ないとは全く思いません。神への愛をいだくことも、罪のために悲しむことも、受けたあわれみに対して感謝することも、この程度でしかありませんが、全然恥ずかしくはありません」などと、どこのだれが云うであろうか? 一体どこのだれが、神のもとへ行って神をたたえつつも、私は虫けらや反逆者のためにひとり子を与え、身代わりに死なせてくださったあなたの素晴らしい愛について読み聞きしましたが、もう十分感情を動かされました、なとと云うだろうか? また、どこのだれが、どうか私がそうしたことで少しでも感情を動かされないようにしてください、感情を高ぶらせるのは不適切なこと、キリスト者にとって非常に不体裁なこと、狂信的なこと、真のキリスト教信仰をだいなしにすることなのですから、などと祈るだろうか?
冒頭に掲げた聖句は、心を揺さぶり、打ち震わせる感情の高まりについて語っている。ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどることについて語っている。ここには、言語にとってこれ以上ない最上級の表現が用いられている。聖書はしばしば私たちに、感情を極度に高めることを要求している。それで、律法のたいせつな第一の戒めにおいては、私たちが神を愛さなくてはならない程度を表現するにあたり、どれほど言葉を重ねても足りないかのように、言葉に言葉が連ねられているのである。「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」。同じように聖徒たちは、喜びに心打ち震わせるよう求められている。喜びなさい、とキリストは弟子たちに云われる。喜びおどりなさい(マタ5:12)。また、「正しい者たちは喜び、神の御前で、こおどりせよ。喜びをもって楽しめ」(詩68:3)。詩篇で聖徒たちはしばしば、喜びの声をあげるように求められており、ルカ6:23では、おどり上がって喜びなさい、と云われている。同じように彼らは、至るところで、受けたあわれみに対する感謝に心打ち震わせるよう求められ、心を尽くして神を賛美し、心を主の道に励ませ、たましいをもって主をあがめ、ほめ歌を歌い、その奇しいわざに思いを潜め、みわざを告げ知らせるように求められている。
聖書中の最も卓越した聖徒たちを見ると、彼らはしばしば、感情の高まりを告白している。それで詩篇作者は、自分の愛を言葉に尽くすことなどできないというかのように云うのである。「どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう」!(詩119:97) 同じように彼は、心揺さぶるような罪への憎しみを云い表わしている。「主よ。私は、あなたを憎む者たちを憎まないでしょうか。私は、あなたに立ち向かう者を忌みきらわないでしょうか。私は憎しみの限りを尽くして彼らを憎みます」(詩139:21、22)。彼は、心打ち震わせる罪への悲しみも云い表わしている。彼は、自分の罪が自分の頭を越え、重荷のように、自分には重すぎると語り、一日中、うめいて、自分の骨髄は、夏のひでりでかわききったと語り、悲しみのために自分の骨々が砕かれたかのようであると語っている。同じように彼はしばしば、心揺さぶるような霊的願望を、考えうる限り最も強烈な表現の数々によって云い表わしている。たとえば、気を失うばかりに慕い求めること、水のない、砂漠の衰え果てた地で、魂が渇くこと、慕いあえぐこと、心も身も歌うこと、慕わしさのあまりたましいが砕かれていることなどである。彼は、他の人々の罪に対しても、大きな悲嘆で心を揺さぶられている。「私の目から涙が川のように流れます。彼らがあなたのみおしえを守らないからです」(詩119:136)。また、「あなたのみおしえを捨てる悪者どものために、激しい怒りが私を捕えます」(53節)。彼は、心打ち震わせる喜びを云い表わしている。「王はあなたの御力を、喜びましょう。あなたの御救いをどんなに楽しむことでしょう」!(詩21:1) 「わたしがあなたにむかってほめ歌うとき、わがくちびるは喜び呼ばわ……るでしょう」(詩71:23 <口語訳>)。「あなたの恵みは、いのちにもまさるゆえ、私のくちびるは、あなたを賛美します。それゆえ私は生きているかぎり、あなたをほめたたえ、あなたの御名により、両手を上げて祈ります。私のたましいが脂肪と髄に満ち足りるかのように、私のくちびるは喜びにあふれて賛美します。ああ、私は床の上であなたを思い出し、夜ふけて私はあなたを思います。あなたは私の助けでした。御翼の陰で、私は喜び歌います」(詩63:3-7)。
使徒パウロは、心打ち震わせるような感情を云い表わしている。それで彼は、他の人々へのあわれみと気遣いとで心の嘆きを覚えると述べ、大きく、熱烈な、満ちあふれる愛、熱心な、慕わしい願い、満ちあふれる喜びをいだいていると云い表わしている。彼は、自分の魂の大きな喜びや勝利の喜び、その切なる願いと望み、その涙、あわれみと、悲嘆と、慕わしい願いと、聖いねたみによるその魂の苦闘について、多くの箇所で語っている。そうした箇所はすでに引用したので、ここに繰り返す必要はないであろう。バプテスマのヨハネは、大きな喜びを云い表わしていた(ヨハ3:29)。キリストのからだに油を塗った、かのほむべき女たちは、キリストの復活に臨んで、心揺さぶるような信仰的な感情にとらえられたことが述べられている。「そこで、彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ……た」(マタ28:8)。
神の教会がその未来の幸福な時期に迎える状態として、しばしば予言されているのは、それが喜びあふれるものとなることである。「幸いなことよ、喜びの叫びを知る民は。主よ。彼らは、あなたの御顔の光の中を歩みます。彼らは、あなたの御名をいつも喜び、あなたの義によって、高く上げられます」(詩89:15、16)。「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王が……来られる」云々(ゼカ9:9)。同様のことは、他にも無数の箇所で述べられている。そして、この心打ち震わせるような喜びが、キリストの福音のしかるべき純粋な実であるがゆえにこそ、御使いはこの福音を、この民全体のためのすばらしい喜びの知らせと呼んでいるのである。
天国の聖徒たちおよび御使いたちは、完成の極みに達したキリスト教信仰を有しているはずである。しかし彼らは、神の完全さとみわざを目の当たりにし、思い巡らすとき、非常に大きく感情を動かされている。彼らはみな、その愛において、またその喜びと感謝の大きさ、強さにおいて、きよい天的な炎のようである。彼らの賛美は、大水の音、激しい雷鳴のようなもの、と云い表わされている。さて、彼らの感情が、これほど地上の聖徒たちの聖い感情をはるかに越えて激しく心を揺さぶっている理由は、ただ1つ、彼らが物事をよりその真実に即して見ているからであり、その感情をより物事の性質に即した形で有しているからにほかならない。したがって、もし下界の人々の有する信仰的な感情が、天上の者らと性質と種類を同じくするものであるなら、そうした感情が心を揺さぶれば揺さぶるほど良く、彼らのそれと同じ程度に近づけば近づくほど良いであろう。なぜなら、そうなることでその感情は、天国の聖徒や御使いらのそれと同じく、より真実に即したものとなるからである。
こうしたことから確かに見てとれるように、信仰的な感情が非常に激しく心を打ち震わせているからといって、その感情が真のキリスト教信仰の性質を有していないという証拠にはならない。それゆえ、感情が非常に高揚しているというだけの理由で、他の人々を熱狂主義者であると非難するような人は、たいへんな間違いを犯しているのである。
その一方で、信仰的な感情が心を揺さぶっているからといって、それが霊的な、恵みによる性質から出ているという証拠には全くならない。聖書から明白にわかること、またこの種の事がらにおいて信頼の置ける確実な原則たること、それは、たとえ何らかの信仰的な感情が非常に強く心打ち震わせていても、それが霊的な、救いに至るものであるとは限らない、ということである。使徒パウロの語るガラテヤ人は、激しい感情で心打ち震わされたことがあったが、パウロはそれがむだであったのではないか、何にもなっていなかったのではないか、と恐れている。「それなのに、あなたがたのあの喜びは、今どこにあるのですか。私はあなたがたのためにあかししますが、あなたがたは、もしできれば自分の目をえぐり出して私に与えたいとさえ思ったではありませんか」(ガラ4:15)。そして11節で彼は、自分が彼らのために労したことは、むだだったのではないか、と彼らのことを案じている、と告げている。同じようにイスラエル人たちは、神が紅海で、彼らのためにいかに素晴らしいわざを行なってくださったかを見たとき、その神のあわれみに非常に感情を動かされ、神への賛美を歌った。だが彼らはたちまち神のみわざを忘れてしまった。シナイ山で神の驚異的な顕現を見たときも、彼らは非常に感情を動かされた。そして神からその聖なる契約を差し出されたときには、心を吸い寄せられたかのように、非常な意気込みをもってたちどころに答えた。主の仰せられたことはみな行ない、聞き従います、と。しかし、この盛んな意気込みや感情の高揚がみな、何とあっけなく終わりを迎えたことか! 何と素早く彼らは道をはずれて他の神々へ向かい、その黄金の子牛のまわりで喜び叫んでいたことか! 死人の中からラザロをよみがえらせた奇蹟に感情を動かされた大群衆は、非常に心揺さぶられ感情を高ぶらせ、その後ほどなくイエスがエルサレムに入場なさったときには大騒ぎして、キリストを手放しで賛美した。そして、あたかもこのお方を乗せたろばにただの地面を踏ませるのはもったいないとでもいうかのように、しゅろの木の枝を切って道に敷きつめ、それどころか自分たちの着物をすら脱いで道に広げた。そして大声で叫んで云った。ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。それで都中が沸き立ち、大騒ぎになった。福音書記者ヨハネが告げているように、人々がこのように騒ぎ立てた理由は、彼らがラザロをよみがえらせた奇蹟に感情を動かされていたからであった(ヨハ12:18)。このホサナと叫び立てている大群衆を見てパリサイ人たちは、見なさい。世はあげてあの人のあとについて行ってしまった、と云った(ヨハ12:19)。----しかしキリストはその時、ほんのひとにぎりしか真の弟子を持っておられなかった。そして、何と素早くこの熱情は終わりを告げたことか! このイエスが縛り上げられ、にせの王服といばらの冠をかぶせられ、嘲られ、つばきを吐きかけられ、むち打たれ、有罪宣告を受け、処刑されたときには、すべては火が消えたように失せ果てていた。実のところ、このイエスについては、前と同じくらい大きな叫び声が当時の群衆の中からあがった。しかし、それは非常に異なる種類の叫びであった。それは、ホサナ、ホサナ、ではなく、十字架につけろ、十字架につけろ、であった。---- 一言で云えば、あらゆる正統的な神学者が口をそろえて述べているように、信仰的な感情の中には、非常に大きく心を揺さぶりはしても、真のキリスト教信仰に全く属していないものがありえるのである*1。
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*1 ストッダード氏は述べている。「そうした種々の一般的感情は、時として救いに至る感情よりも強いことがある」。『キリストへの教導書』、p.21