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第3節 この教理から導き出されるいくつかの推論

 1. ここから私たちは、ある人々の誤りがいかに大きいかを学べるであろう。信仰的な感情など全くあてにならず、まるで中身のないものだとして、すっぱり切り捨てようとする人々のことである。昨今は、こうした考え方をする人々がやたらと多く見受けられる。確かに、最近の異様な情勢において、多くの人々は、はた目には信仰的な感情に大きく揺さぶられているように見えても、まともな精神状態とは思えず、ひとりよがりな熱心にのぼせあがっては数々の誤りに陥った。また確かに、多くの人々の感情的な高まりは、じきに雲散霧消してしまったし、中には、しばらくの間は途方もない喜びと熱心とに圧倒されていたかに見えながら、やがて、犬が自分の吐いた物に帰って来るように、元の生き方に舞い戻ったような者もいる。このため信仰的な感情はおおかたの人の信用を失い、真のキリスト教信仰は、感情などに全く存していないかのように思われているのである。このようにして私たちは、いともたやすく1つの極端からもう1つの極端へと走ってしまう。ほんの少し前まで私たちは、逆の極端に陥っていた。信仰的な感情の高まりさえあれば、その中身や出所や生じ方は一切吟味することなく、それを真の恵みの卓越した働きであるとみなすような考え方が横行していた。もし人が非常な感動と感情的な高まりを覚えているように見え、信仰的なことばかり話すようになり、思いのたけを熱く真剣に語って、いわゆる満ちている、あるいは非常に満ちたようすになりさえすれば、そうした人は、神の御霊に満たされているのだ、並外れた御霊の恵み深い影響を体験したのだ、と、一も二もなく結論づけられるのが通弊であった。こうした極端な立場が、三、四年前までははびこっていたのである。しかし最近は、あらゆる信仰的な感情無差別に尊び、重んずるかわりに、あらゆる感情を無差別にはねつけ切り捨てるという風潮が優勢である。ここにこそ、サタンの奸知を見てとることができる。彼は、感情が人気を集めているのを知ると、大多数の人々がそうしたことに不案内で、種々の偉大な信仰的な感情をほとんど体験しておらず、本物とにせものとを正しく判断して見分けることができないのをいいことに、自分にとって最も得になると知っていた手段をとった。すなわち、麦の中に毒麦を蒔き、神の御霊のみわざの間ににせの感情を混じり込ませた。これが多くの魂を惑わして永遠の滅びへと至らせ、また聖徒たちのうちにあるキリスト教信仰を阻害し、彼らを不毛の荒野に追いやり、やがてキリスト教信仰全体を悪評に陥らせるであろうことを、熟知していたのである。

 しかし今や、こうしたにせの感情の悪影響が目につくようになり、多くの人にもてはやされた華々しい情緒の中には、実はまるで中身のないものがあることがだれの目にも明らかになってくるに従い、悪魔は手口を変えた方が得策であると考えたのである。現在の彼は、全力をあげて、別の信念を人々の間に広め、確立させようとしている。それは、キリスト教信仰に関して人が心にいだくあらゆる感情、心に感じとれるあらゆる情緒には、たいした意味がなく、むしろ避けるべきもの、致命的な傾向を有する、用心と警戒を必要とするものであるとの信念にほかならない。彼はこれが、キリスト教信仰のすべてを、無味乾燥な、ただの因襲にしてしまい、ついには敬虔の力とあらゆる霊的なものとを閉め出してしまう道であることを知っている。なぜなら、真のキリスト教信仰には、確かに感情以外のものもふくまれてはいるが、真の信仰は、その非常に大きな部分が感情に存しているため、感情のない真のキリスト教信仰などありえないからである。信仰的な感情を全く持たない人は霊的に死んだ状態にあり、神の御霊の力強く、いのちを与え、救いに至らせる影響力を、その心に全く欠いているのである。感情しかないところに真のキリスト教信仰が全くないのと同じように、信仰的な感情が全然ないところに真のキリスト教信仰はありえない。一方では、感情を動かされた熱烈な心だけでなく、理性に光がなくてはならない。すなわち、熱ばかりで光がない心には、神から出た天的なものは全くありえない。その一方で、熱のない光ともいうべきもの----冷たくて感情が全く動かされていない心をした、概念や思弁を詰め込んだ頭----がある場合、その光には神から出たものが全くありえず、その知識は、決して神に関する事がらの真の霊的知識ではない。キリスト教信仰の偉大な事がらを正しく理解しさえするなら、それは心に影響を与えるはずである。人々が、これほど無限に偉大で、重大で、輝かしく、素晴らしい事がらを、神のみことばによって何度聞こうと何度読もうと、全く感情を動かされない理由は、疑いもなく、彼らが盲目であるためである。さもなければ、彼らの心は強い感銘を受け、それらの事がらによって非常な感動を覚えていたに違いない。そうせずにはいられないはずであり、それが人間として当然である。

 あらゆる信仰的な感情をこのように軽んずるしかたによって人々は、心をこの上もなくかたくなにされ、愚かで無分別なままでいいのだと思い込み、一生の間、霊的に死んだ状態にとどまり、最後には永遠の死へと至らされてしまう。今日至るところで見られる信仰的な感情に対する偏見には、明らかに、罪人たちの心をかたくなにし、聖徒たちの恵みに冷水を浴びせかけ、神の定めた手段の効果をだいなしにし、私たちを鈍く無感動な状態へと押し込めてしまうという、ぞっとするような効果がある。そして疑いもなくこれは、近年神がこの地で行なってくださった並外れて素晴らしいみわざを卑しめて考えることで、多くの人々が大いに神の御怒りを買うもととなっている。あらゆる信仰的な感情を蔑んだり、けなしたりする人々は、そのことによって、自分自身の心からキリスト教信仰のすべてを閉め出し、自分の魂を徹底的に破滅させつつあるのである。

 他の人々の感情の高まりを非難する人々は、自分自身、感情の高まりなど覚えそうにもない人々に違いない。だが考えてもみてほしい。信仰的な感情をほとんど覚えない人々は、キリスト教信仰もほとんど持っていないのである。そして、信仰的な感情を有するという理由で他者を非難しつつ、自分では全くそうした感情を有していない人々は、キリスト教信仰を全く持っていないのである。世の中には、にせの感情もあれば、本物の感情もある。豊かな感情を持っているからといって、その人に少しでも真のキリスト教信仰がある証拠にはならない。しかし、もし何の感情もないとしたら、それは、その人に真のキリスト教信仰が全くないという証拠である。正しい道は、すべての感情をはねつけることでも、すべてを認めることでもない。種々の感情を区別して、あるものは認め、あるものははねつけることであり、麦と毒麦、黄金と金滓、尊いものと卑しいものとをより分けることである。

 2. もし真のキリスト教信仰が感情に大きくかかっているとしたら、こうも推論できよう。私たちは、感情を動かすのに大きな助けとなるような手段を求めるべきである。書物であれ、みことばの説教であれ、祈りと賛美による神への礼拝であれ、そうした手段に心をとめる人々の心の中で、深く感情を動かすようなものこそ、大いに求められるべきである。

 以前までは、そうした種類の手段こそ、何よりもすぐれて有益なもの、恵みの手段の目的を最もよくかなえられるものとして、大半の人々から認められ、賞賛されたものであった。しかし、最近巷間の好みには奇妙な変化が生じつつあるように見える。かつては賞賛され、ほめそやされていたような、それも、人々の感情を動かす助けになるとの理由でそうされていたような祈り方や説教のしかたが、今では、おびただしい数の人々の胸をたちまちむかつかせ、不快感と軽蔑以外のいかなる感情もかき立てることがないのである。

 ことによると以前は、大半の人々が(少なくとも一般大衆の大多数が)、公的な場において、あまりにも感情を動かすような種類の説教を求めすぎるという極端なあり方をしていたかもしれない。しかし今は、おびただしい数の人々が、それと全く正反対の極端に走っているように見受けられる。実際、考えなしの無知な人々の情動をかき立てるしか能がなく、魂にとって有益な感情を動かす役には全く立たないという手段もあるかもしれない。そうした手段は、感情を奮い立たせることはできるとしても、恵みによる感情を奮い立たせることはほとんど、あるいは全くできないからである。しかし、もしそこで用いられた手段によって、キリスト教信仰に属する事がらが素直に扱われ、真実のまま示され、その正確な理解と正しい判断を伝えられるとしたら、そうした手段は、感情を大きく動かせるに越したことはないに違いない。

 3. もし真のキリスト教信仰が感情に大きくかかっているとしたら、ここからもう1つ学べることは、いかに激しく私たちは、神の前で恥を見、はずかしめを受けなくてはならないか、ということである。なぜ私たちは、キリスト教信仰の偉大な事がらにこれしか感情を動かすことがないのか。その理由は、ここまで語られてきたことからして明らかに、私たちのうちにある真のキリスト教信仰が小さすぎるためにほかならない。

 神が人間に種々の感情をお与えになった目的は、他のあらゆる機能と原理を人の魂にお与えになったのと同じく、それらが人間の主たる目的、また神が人を造られた際に人の本分とされた偉大な務め、すなわち、信仰の務めに役立たせるためである。にもかかわらず、人々の間では、その感情を、キリスト教信仰以外の物事のために働かせ、また打ち込むということが、いかによく見られることか! 人々は、世俗的な利益や、外的な楽しみ、自分の栄誉や評判や、親族友人関係といった方面においては、真剣な願いをいだき、激しく渇望し、暖かく情愛のこもった愛を示し、燃えるような熱心を見せる。こうした事がらにおいては、彼らの心も柔らかく、繊細で、感動しやすく、深い感銘を受け、大きな不安を覚え、非常にはっきりとわかる形で感情を動かされ、一心に打ち込んでいる。世俗的な損失をこうむれば悲嘆に打ちひしがれ、世俗的に成功し繁栄すれば喜びに胸おどらせる。しかし、別の世の大いなる事がらについては、ほとんどの人々の何と無頓着で無感動なことか! その感情の何と鈍いことか! こうした事がらにおいて、彼らの心の何と鈍重で固いことか! こうしたことに対して、彼らの愛は冷えていて、彼らの願望はだれており、彼らの熱心さは乏しく、彼らの感謝は小さい。一体いかにすれば彼らは、キリスト・イエスにある神の愛の無限の高さと深さと長さと広さについて聞き、神が人間の罪のいけにえとしてささげるためにその無限に愛しい御子をお与えになったことを聞き、あの罪なく聖い、神の子羊が、その死の苦悶において、その血の汗において、その大きな苦しみの叫びと張り裂けんばかりの心の痛みとにおいて現わされたたぐいない愛について聞き、このすべてが敵たちのためであること、彼らをその当然の報いたる永遠の炎から贖い出し、言葉に尽くせぬ永遠の喜びと栄光へと至らせるためであったことを聞いて、なおかつ、冷淡で、鈍重で、無頓着で、無関心を決め込んでいられるのか! もしここで私たちがしかるべく感情を働かせないというなら、どこで働かせるというのか? これほど感情を働かせなくてはならないことがあるだろうか? これが、感情を大きく激しく働かせるのにふさわしい機会でないとしたら、いかなる場合がそれにあたるだろうか? これほど偉大で、これほど重要なことを他に何か私たちの眼前に突きつけるものがあるだろうか? これほど素晴らしく驚異に満ちたこと、これほど切実に私たちの利害に関わることが何かあるだろうか? いと賢き創造主が、感情のような原理を私たちの性質に植えつけなされたのは、このような場合におとなしくさせておくためだったなどと考えられるだろうか? こうした事がらが真実であると信ずるキリスト者が、どうしてそのように考えられるだろうか?

 もし私たちが自分の種々の感情を働かせなくてはならないことがあるとしたら、またもし創造主が人間をお造りになる際に、このような原理をあだやおろそかに人の性質に織り込んだのでなかったとしたら、そうした感情は、何よりもそれらにとってふさわしい物事について働かされなくてはならない。しかし、天にも地にも、イエス・キリストの福音において差し出されているものほど、私たちの賞賛と愛に値し、私たちの真剣で熱心な願望と希望と喜びと烈々たる熱心にとってふさわしい対象があるだろうか? それは、最も私たちの感情を動かすのにふさわしいものであると宣言されているばかりか、何にもまして感情を動かすような形で示されているのである。ほむべきエホバの栄光と麗しさ、それ自体で何よりも私たちの賞賛と愛に値するものが、そこには、考えうる限り最も感情を揺り動かすような形で示されている。なぜならそれは、受肉して、無限の愛と柔和さとあわれみをお与えになる、死に行く贖い主の御顔のうちに、そのあらゆる輝きが凝縮されてきらめいているからである。神の子羊のあらゆる美徳、そのへりくだり、忍耐、柔和、服従、従順、愛、同情は、人の心に思い浮かぶいかなるものよりも私たちの感情を動かすようなしかたで、私たちの眼前に示されている。なぜならそれらが、その最大の試練に会い、最大の働きを見せ、最大に輝かしく現われるのは、最も心揺さぶられるような状況に彼が置かれたときだからである。それはすなわち、彼がその御苦しみの最後の時にあたって、あの、云いようも比類もない苦しみを、私たちに対する慈愛とあわれみによって耐え忍んでおられたときにほかならない。そこには、私たちのの憎むべき性質もまた、何にもまして心打つしかたで現わされている。私たちの身代わりになることをお引き受けになった私たちの贖い主が、罪のおぞましい結実によっていかに苦しまれたかが、そこに見られるからである。またそこには、罪に対する神の憎しみと、罪を罰するその御怒りと審きとが、やはり最も心打つ形で現わされている。私たちは神の正義がいかに厳格で、いかに変えられないものか、またご自分にとって無限に愛しく、私たちにとっても愛すべきお方においてすら、神がいかにすさまじく私たちの罪を罰しておられるか、その御怒りがいかに恐るべきものかを見るからである。そのようにして神は、私たちの贖いに関する事がらを、また福音の中で私たちに啓示されている神の輝かしいご経綸に関する事がらを、あたかも意図的に、すべてが私たちの心の深奥の琴線に触れ、すべてが私たちの感情を最もはっきり、最も強く動かす形になるように仕組まれたかのように思われる。それゆえ、これしか感情を動かされていない私たちは、いかに激しくちりに伏してへりくだるべきであろう!



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