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第2節 真のキリスト教信仰は、その大きな部分が感情に存する

 1. このことは、ここまで感情の性質について語られたことからして明らかであり、これ以上何もつけ加えなくとも、十分この件に疑問の余地はないであろう。というのも、真のキリスト教信仰の大きな部分を、魂の意向意志の力強く激しい動き----あるいは、の熱烈な働き----が占めていることを、だれが否定するであろうか。神が要求し、受け入れてくださる信仰は、決して無関心と紙一重のような、かすかで、鈍く、気の抜けたような望みなどに存してはいない。神がそのみことばにおいて大いに強調しておられること、それは私たちが本気で熱心になり、霊に燃え、全心全霊を傾けて信仰に打ち込むことである。「霊に燃え、主に仕えなさい」(ロマ12:11)。「イスラエルよ。今、あなたの神、主が、あなたに求めておられることは何か。それは、ただ、あなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、主に仕え……ることである」(申10:12)。そして、「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申6:4、5)。このように熱心に、力強く、心から信仰に打ち込むことこそ、真に心に割礼を受けた者、真に新しく生まれた者、そしていのちの約束を得た者が結ぶ実なのである。「あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる」(申30:6)。

 もし私たちが本気で信仰に熱心になることもなく、私たちの意志と意向が力強く働くこともないとしたら、私たちは無価値である。キリスト教信仰にふくまれる事がらの途方もない大きさからして、そうした事がらの性質と重要性に見合うだけ心を働かせようとしたら、それは激しく強いものとならざるをえないのである。信仰という問題ほど私たちの意志の力強い動きが必須とされることはなく、なまぬるさが憎むべきものとなることはない。真のキリスト教信仰は、常に力にあふれたものであって、その力は、まず第一に、心の内側における働きに現われる。心は、もともと信仰の主要な座だからである。それで真の信仰は、敬虔そうな見かけにすぎない外面的な体裁と区別されて、敬虔の力と呼ばれているのである。「敬虔そうな見かけはあっても、その力を否定する者」(IIテモ3:5 <英欽定訳>)。神の御霊は、健全で堅実な信仰を有する者のうちにあるとき、力強く聖い感情の御霊となられる。それゆえ神は、「力と愛と慎みとの霊」を与えてくださったと云われるのである(IIテモ1:7)。また、それでそのような者たちは、神の御霊を受けてその聖めと救いに至る影響力にあずかるとき、「聖霊と火とのバプテスマを授けられる」*と云われるのである[マタ3:11]。なぜなら神の御霊が彼らのうちで奮い立たせる種々の働きには力と熱意が伴っており、それらによって彼らのは、恵みが働くとき、うちに燃えていると云えるからである(ルカ24:32)。

 往々にしてキリスト教信仰の本分は、人が全力をふりしぼって一心に打ち込むのを常とするような働きにたとえられている。たとえば、競走、格闘、偉大な賞や栄冠をつかむための苦闘、自分の命をつけ狙う強敵との戦い、一都市あるいは一王国を激しく攻め落とそうとする包囲戦、などである。確かに、真の恵みの程度は千差万別であり、キリスト者の中にも幼子でしかない者たちがいて、神や天的な物事に向かう彼らの意向や意志の働きは比較的弱いとはいえ、敬虔の力を有する者ならみな、その意向と心が、神や神に関する物事に向かって力強く活発に働いているはずであって、そうした聖い働きは、その人の内側で、いかなる肉的な、また生来の感情をも圧して、事実それらに打ち勝つ力を持つのである。なぜなら、真にキリストの弟子である者はだれでも、「自分の父や母、妻や子、兄弟や姉妹、そのうえ自分のいのちさえ越えてキリストを愛する」*からである[ルカ11:34参照]。ここから当然のこととして、真のキリスト教信仰があるところ常に、神に関する物事に向かって力強く働く意向や意志があることになる。しかし、先にも述べた通り、力強く、活発で、はっきりそれと感じとれるような意志の働きとは、魂の種々の感情にほかならないのである。

 2. 私たちの性質を形造られたお方は、私たちに種々の感情をお与えになっただけでなく、それらを非常に多くの行動の原動力となされた。感情は、単に人間性の一部というだけでなく、その非常に大きな部分を占めている。それと同じく、(人が新生によって全人的に新しい者とされている限り)聖い感情は、単に真のキリスト教信仰の一部というだけでなく、そうした信仰の非常に大きな部分を占めているのである。また、真のキリスト教信仰が実際的なものであることや、種々の感情が、神の形造られた人間の性質上、種々の行動の非常に大きな原動力であることを考え合わせても、真のキリスト教信仰が、どうしても大きく感情に存していることは明らかである。

 人間は、その性質上、憎しみ願望希望恐れなどといった感情による影響を受けていない限り、非常に不活発なものである。私たちの見るところ、こうした種々の感情を動力源として人間は、人生で追求されるあらゆる物事に打ち込んでいるのであり、特にこのことがあてはまるのは、人が熱意をもって打ち込み、精力的に追求する物事の場合にほかならない。どこから見ても人間世界は、この上もなく忙しく、活気に満ちた場所である。だが人間の感情こそ、そうした動きの原動力なのである。もしもそこから、あらゆる憎しみ、あらゆる希望恐れ、あらゆる怒り熱心、そして熱烈な願望がなくなったとしたら、世界はその大方が動きをなくし、死んだようになるであろう。人間界からは、いかなる活動も、何かを熱心に追求することも消え失せるに違いない。感情こそ、強欲な、現世的利益を渇仰する人をとらえて離さないものである。感情があればこそ、野心家は、世俗的栄光を求めて突き進むのである。また感情は、肉欲にふける人をその快楽や官能的な楽しみへと駆り立てるものでもある。世界はいつの時代にも、絶えざる動揺と蠕動を繰り返しながら、こうした事がらを追求し続けているのである。しかし、いったん感情が消え失せてしまえば、こうしたすべての動きの原動力はなくなってしまうであろう。その動きそのものが停止するであろう。そして、世俗的な物事については、世俗的な感情が人間の動きや行動にとって非常に大きな原動力であるように、信仰に関する物事について、人間の行動の非常に大きな原動力となっているのは、信仰的な感情なのである。教理的な知識と思弁だけしか持っておらず、感情の伴っていない人は、決して宗教上の務めに一心に打ち込むことがない。

 3. これは明々白々な事実だが、人の魂がどれだけ信仰的な物事によって支配されるかは、どれだけそれらによって感情が動かされるかで決まる。おびただしい数の人々が、神のみことばをたびたび耳にし、途方もなく大きく、ゆゆしい事がら、自分にとって何よりも切実な問題を聞いているというのに、全く何の痛痒も感じず、その性向やふるまいには何の変わりもないように見える。なぜかと云うと、自分の聞いたことで感情を動かされないからである。多くの人々は、しばしばその耳で、神の輝かしい完全なご性質、すなわち、全能の御力、無尽蔵の知恵、無限の尊厳、そのきよさのあまり悪を見ず、不義に目を留めることもできないとされる聖潔、また、無限のいつくしみやあわれみについて、聞くことは聞いている。こうした完全なご性質の素晴らしい現われたる、数々の、知恵と力といつくしみとから出た偉大なみわざについて聞いている。特に、言葉に尽くすこともできない神とキリストの愛について、またキリストのみわざと御苦しみについて聞いている。後の世の偉大な事がら、永遠の惨めさ、万物の支配者である神の激しい御怒りを招く審き、また神の御前における終わりなき祝福と栄光、神の愛に包まれる至福について聞いている。それに加えて、神の有無をも云わせぬ命令と、恵み深い忠告や警告のことば、また福音の甘やかな招きを聞いている。だが、彼らは以前と全く変わることなく、心にも行動にも、はっきりわかるような変化を何も生じさせない。自分の聞いていることで感情を動かされないためである。あえて大胆に云えば、人は、どれほど信仰的な物事を読んだり聞いたり見たりしていようと、その感情が動かされない限り、決してその思いも生活も、たいして変わりばえがするものではない。いまだかつて、生まれながらの人のうちで、自分の救いを熱心に求めたり、知恵を求めて嘆いたり、悟りを求めて声を上げたり、あわれみを受けるべく祈りにおいて神と組み打ちをしたり、あるいは自分の無価値さや、自分が神の不興に値するという、かつて耳にした言葉や思い描いた想像によってへりくだらされて、神の足許に投げ出されたり、隠れ場を求めてキリストのみもとに飛んで行くようにされた者のうち、その心中の感情が全く動かされていないままだったような者はただのひとりもいない。あるいは、聖徒たちのうちで、冷たく生気のない状態から覚醒されたり、信仰が減衰しつつある状態から回復されたり、嘆くべき神からの離反から連れ戻されたりした者で、その心中の感情が動かされていなかった者はひとりもいない。一言で云えば、キリスト教信仰に関わる物事によって、心や生活が相当な変化をこうむった人々のうち、そうした事がらによって心の感情が深く動かされていなかったような者はひとりもいないのである。

 4. 聖書が至る所でキリスト教信仰のかなめとしているのは、感情である。すなわちそれは、恐れや、希望、愛、憎しみ、願望、喜び、悲しみ、感謝、同情、熱心といった種々の感情にほかならない。

 聖書によればキリスト教信仰は、敬虔な恐れに大きくかかっている。それを感ずることは、真の信仰を持つ人々の性格づけとしてしばしば語られている。彼らは主のことばにおののく者たちであった。彼らは主の前で恐れ、その肉は主への恐れで震え、彼らは主のさばきを恐れ、神の威厳は彼らを震え上がらせ、その恐れが彼らを襲った云々。聖書でごく普通に聖徒たちのことをさす呼び名は、神を恐れる人、または主を恐れる人々である。また、これが真の敬虔の大きな部分を占めているからこそ、真の敬虔は、通常、神への恐れと呼ばれているのである。

 それと同じく、神および神のことばの約束に対する希望もまた、聖書ではしばしば、非常に大きな真のキリスト教信仰の要素として語られている。これは、キリスト教信仰の本質をなす三大要素の1つとして言及されている(Iコリ13:13)。主への希望は、聖徒らの性格としてもしばしば言及されている。「幸いなことよ。ヤコブの神を助けとし、その神、主に望みを置く者は」(詩146:5)。「主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように」(エレ17:7)。「雄々しくあれ。心を強くせよ。すべて主を待ち望む者よ」(詩31:24)。他にもこれに似た多くの箇所がある。信仰的な恐れと希望は、2つ合わせて真の聖徒の性格を成り立たせるものとして、再三にわたり、併記されている。「見よ。主の目は主を恐れる者に注がれる。その恵みを待ち望む者に」(詩33:18)。「主を恐れる者と御恵みを待ち望む者とを主は好まれる」(詩147:11)。希望が、真のキリスト教信仰にとっていかに大きな部分を占めているかは、使徒が、私たちは、この望みによって救われているのです、と云うことからもわかる(ロマ8:24)。またこれは、キリスト者の兵士のかぶととして語られている。「救いの望みをかぶととしてかぶって」(Iテサ5:8)。さらに、魂がこの悪い世の嵐によって漂い流されることがないようにする、確かで堅いとして語られている。「この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たし、またこの望みは幕の内側にはいるのです」(ヘブ6:19)。これは、真の聖徒たちがキリストの復活によって受け取る偉大な恩恵として語られている。「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました」(Iペテ1:3)。

 聖書によれば、キリスト教信仰はという感情に大きくかかっている。神への愛、主イエス・キリストへの愛、神の民への愛、人類に対する愛である。このことを明らかにしている聖句は、新旧両約において、数え切れないほどある。しかし、愛については後ほど詳述したい。これとは逆の感情である憎しみも、罪をその対象とするものは、聖書で、真のキリスト教信仰の決して小さくない要素として語られている。それは、真の信仰が知られ、認められるしるしとして語られている。「主を恐れることは悪を憎むことである」(箴8:13)。それゆえ聖徒たちは、このことによって自分の真摯さの証拠を示すように求められている。「主を愛する者たちよ。悪を憎め」(詩97:10)。そして詩篇作者はしばしばこれを自分の真摯さの証拠として言及している。「私は、正しい心で、自分の家の中を歩みます。私の目の前に卑しいことを置きません。私は曲がったわざを憎みます」(詩101:2、3)。「私は偽りの道をことごとく憎みます」(詩119:104)。「主よ。私は、あなたを憎む者たちを憎まないでしょうか」(詩139:21)。

 同じように、神と聖潔を慕い求め、飢え渇くことでかき立てられる聖い願望も、しばしば聖書では真のキリスト教信仰の重要な要素として語られている。「私たちのたましいは、あなたの御名、あなたの呼び名を慕います」(イザ26:8)。「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために」(詩27:4)。「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか」(詩42:1、2)。「水のない、砂漠の衰え果てた地で、私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。私は、あなたの力と栄光を見るために、こうして聖所で、あなたを仰ぎ見ています」(詩63:1、2)。「万軍の主。あなたのお住まいはなんと、慕わしいことでしょう。私のたましいは、主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです」(詩84:1、2)。「私のたましいは、いつもあなたのさばきを慕い、砕かれています」(詩119:20)*1。このような聖い願望、あるいは魂の渇きこそ、人が真に幸いであるしるしである。「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです」(マタ5:6)。またこの聖い渇きに結びついているのが、永遠のいのちという祝福である。「わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる」(黙21:6)。

 聖書は、聖い喜びのことを真のキリスト教信仰の大きな要素として語っている。この小論の主題聖句ではそのように述べられている。またキリスト教信仰の重大要素として、これはしばしば非常な熱意をもって強調されている。「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」(詩37:4)。「正しい者たち。主にあって喜べ」(詩97:12)。また、「正しい者たち。主にあって、喜び歌え」(詩33:1)。「喜びなさい。喜びおどりなさい」(マタ5:12)。「最後に、私の兄弟たち。主にあって喜びなさい」(ピリ3:1)。「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」(4:4)。「いつも喜んでいなさい」(Iテサ5:16)。「イスラエルは、おのれの造り主にあって喜べ。シオンの子らは、おのれの王にあって楽しめ」(詩149:2)。喜びは、恵みの御霊の主要な結実の1つとして言及されている。「御霊の実は、愛、喜び」、云々(ガラ5:22)。----詩篇作者は、その聖い喜びを、自分の真摯さの証拠として言及している。「私は、あなたのさとしの道を、どんな宝よりも、楽しんでいます」(詩119:14)。

 信仰的な悲しみや嘆き、心砕かれることもまた、しばしばキリスト教信仰の大きな要素として語られている。これらの事がらは、真の聖徒のまぎれもない資質として、また彼らの性格の大きな要素として、たびたび言及されている。「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです」(マタ5:4)。「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる」(詩34:18)。「主はわたしに油をそそぎ……心の傷ついた者をいやすため……すべての悲しむ者を慰め……るためである」(イザ61:1、2)。この敬虔な悲しみと心砕けることとは、単に聖徒のまぎれもない性格を示すものとしてだけでなく、彼らのうちにあって特に神に受け入れられ、神に喜ばれるものとして語られることが少なくない。「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」(詩51:17)。「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。『わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである』」(イザ57:15)。「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ……る者だ」(イザ66:2)。

 真のキリスト教信仰の大きな現われとしてしばしば言及されるもう1つの感情は感謝である。特に、神への感謝と賛美において示される感謝である。このことについては、詩篇や他の聖書箇所で数限りなく語られているため、個々の聖句に言及する必要はあるまい。

 また、聖霊はしばしば同情心、あるいはあわれみを、真のキリスト教信仰の大きな要素、また本質として語っている。あわれみ深い人と良い人とは、聖書では同等の言葉として用いられている。「義人が滅びても心に留める者はなく、あわれみ深い人が取り去られても、心を向ける者もいない」(イザ57:1 <英欽定訳>)。そして聖書は、正しい人を特に描写するためにこの資質を抜き出して用いている。「正しい者は、情け深くて人に施す」(詩37:21)。また、「その人はいつも情け深く人に貸す」(26節)。また、「貧しい者をあわれむ者は造り主を敬う」(箴14:31)。また、「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心……を身に着けなさい」(コロ3:12)。これは、私たちの救い主が真に幸いな者の姿としてあげられた偉大な事がらの1つである。「あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです」(マタ5:7)。またこれは、キリストが、律法の中ではるかに重要なものとしてお語りになったことであった。「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです」(マタ23:23)。同じことはミカ書でも云われている。「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、あわれみを愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか」(ミカ6:8 <英欽定訳>)。そしてまた、「わたしはあわれみを喜ぶが、いけにえは喜ばない」(ホセ6:6 <英欽定訳>)。これは、私たちの救い主がひときわ喜びとされた聖句と見え、主はこれを幾度も引用しておられる(マタ9:13; 12:7)。

 熱心もまた、真の聖徒たちの信仰にとって非常に本質的な要素として語られている。これは、キリストが私たちを贖うためにご自分をおささげになった際に目的としておられた、偉大な事がらであった。「キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした」(テト2:14)。そしてこれこそ、あのなまぬるいラオデキヤ人たちに欠けていた大きな点であった(黙3:15、16、19)。

 私がここまで言及してきたのは、キリスト教信仰のかなめが感情にあるとする無数の聖句のうち、ごく一部にすぎない。しかし、ここまで述べられてきたことだけでも十分明らかなように、それとは逆のことを主張する者たちは、これまで常に聖書として認められてきた書物を投げ捨て、何か別の規範を手に入れてキリスト教信仰の性質を判断するしかないであろう。

 5. 聖書の述べるところによれば、真のキリスト教信仰は、あらゆる感情の首位に立ち、他のあらゆる感情の源泉たる、のうちに凝縮され、包含されている。私たちのほむべき救い主はこれを次のように云い表わしておられる。一番大切な戒めは何か、と問うた律法学者に答えて主は云われた。「そこで、イエスは彼に言われた。『「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」これがたいせつな第一の戒めです。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。』」(マタ22:37-40)。この2つの戒めが、律法と預言者で規定されたあらゆる義務を包含しているというのである。また使徒パウロも、このことを同じように云い表わしている。例えば、「他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです」(ロマ13:8)。また、「愛は律法を全うします」(10節)。また、「律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という一語をもって全うされるのです」(ガラ5:14)。同じように、「この命令は、きよい心……から出て来る愛を、目標としています」(Iテモ1:5)。同じ使徒は、のことをキリスト教信仰において最も大いなるものと語り、その魂であり本質であるとしている。これがなければ、いかに偉大な知識や賜物も、いかに華々しい信仰告白も、そしてキリスト教信仰に属するその他のいかなるものも、むなしく、何の役にも立たない。Iコリ13章全体を見ると彼は、愛はあらゆる良きものを生じさせる源泉であるとも云い表わしている。なぜなら、そこで愛(charity)と訳されている言葉は、原語ではagaphであり、本当に適切な英語の訳語は愛(love)だからである。

 さて、確かにこのように語られている愛には、神および人間に対する、あらゆる真摯な博愛の傾向(propensity)がふくまれてはいるであろうが、ここまで述べてきたことから明らかなように、この魂の傾向また意向は、はっきり感じとれるほど力強く働くときに感情となるのであり、これは感情的なにほかならない。そして確かにこれは、あの、キリストが心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして神を愛し、また自分自身のように隣人を愛せよと語って、すべての信仰の精髄であると云い表わした力強く熱烈な愛なのである。

 むろん、愛というこの感情がキリスト教信仰全体の精髄であると語られているからといって、これによって行為----習慣から出たものではない行為----が、あるいは理性の行使が、除外されているなどと考えられてはならない。それは、筋の通った感情にはみなふくまれているものである。しかし疑いもなく真実であり、また聖書から明らかであるように、あらゆる真のキリスト教信仰の本質は、聖なる愛に存している。そしてこの神聖な感情----そして、この感情を志向する習慣的な性向や、この感情の土台となる知識や、この感情の結実であるさまざまな事がら----こそ、キリスト教信仰の全体をなしているのである。

 ここから明確に立ち現われてくること、それは、真のキリスト教信仰はその大きな部分が感情に存しているということである。なぜなら愛は単に感情の一種というだけでなく、あらゆる感情の首位に立つ第一のもの、また他のあらゆる感情の源泉となるものだからである。から憎しみは生ずる。私たちは、自分の愛するものと反対の物事や、自分が喜びとするものに逆らい、邪魔だてする物事を憎むからである。また、愛や憎しみの対象となる物事の千変万化のありかたに応じて----すなわち、それが目の前にあるかないか、確かか不確かか、ありそうなことか到底ありえなさそうなことかによって----、さまざまな加減の愛や憎しみがいだかれるために、他のあらゆる感情、すなわち、願望、希望、恐れ、喜び、悲しみ、感謝、怒りなどが生じてくるのである。力強く、感情的で、熱烈な神への愛1つから、必然的にそれ以外の種々の信仰的な感情が生ずる。それが、罪に対する強い憎しみや、罪への恐れであり、神のご不興を買うことへの恐怖であり、そのいつくしみ深さゆえの神への感謝であり、神がはっきりと感じとれるような恵み深い臨在を賜わるとき神に感ずる安心喜びであり、神がおられないときの悲しみであり、神を喜ぶ未来を期待する喜びに満ちた希望であり、神の栄光を求める熱烈な熱心である。同じようにして、熱烈な人々に対する愛1つから、人々に対する種々の高潔な感情が生ずることになる。

 6. 聖書に記されている、抜きんでて卓越した聖徒たちのいだいていたキリスト教信仰は、その大きな部分が聖い感情に存していた。----ここでは特に三人の卓越した聖徒に注目したい。いずれも自分の心の持ち方や感ずるところをはっきり表明し、その信仰の内容や、自分が神といかなる交わりをしていたかを書き記していた人々であり、彼らの文章が、やがて聖書の正典の一部となって私たちに残されたのである。

 最初の例はダビデである。この神の心にかなった者は、詩篇の中で、自分の信仰をまざまざと描き出している。こうした聖なる歌は、神を畏れる聖い感情を云い表わし、発露したもの以外の何ものでもない。それはたとえば、神に対するへりくだった熱烈なであり、神の輝かしい完全さや素晴らしいみわざに対する賞賛であり、神を求めて慕いあえぐ魂の熱心な願望であり、神にある楽しみ喜びであり、神の大きないつくしみ深さに対する涙ながらの感謝であり、神の顧みと豊かさと真実さに対する魂の聖い昂揚と勝利感であり、地にあって威厳ある聖徒たちに対するその喜びであり、神のことばと定めに対するその大きな喜びであり、自分や他者のうちに見られる罪への悲しみであり、神のためだけを思い、神および神の教会に敵対する者どもに激昂するその激しい熱心である。そしてこうした種々の聖い感情の吐露は、ダビデの詩篇の至るところに散りばめられているが、私たちの現在の目的にはなおのこと好都合である。なぜなら、こうした詩篇は、卓越した一聖徒の信仰の表明であるだけでなく、聖霊の指図により、当時のみならず後の世においても神の教会の公的礼拝で用いられるべく書き記されたものだからである。それは当然、詩篇作者の信仰だけでなく、あらゆる時代の、あらゆる聖徒たちの信仰を云い表わすためにも適したものであるに違いない。そしてさらに注目されるべきは、ダビデは詩篇において一個人として語っているのではなく、イスラエルのよき歌びと[IIサム23:1 <口語訳>]として、神の下で教会を治める者として、彼らの礼拝と賛美の導き手として語っているということである。さらに多くの詩篇において彼は、キリストの名によって語りつつ、こうした種々の聖い感情の表出においてキリストの代理をつとめている。また他の多くの箇所において彼は、教会の名によって語っている。

 私が注目したいもう1つの例は、使徒パウロである。彼は、多くの点において新約聖書時代のあらゆる教役者のかしらであった。他のすべての者らにまさって、キリストの名を異邦人の前に運ぶ、キリストの選びの器であった。彼は世界にキリスト教会を伝播し設立するための、また福音の輝かしい奥義を明確に啓示し、あらゆる時代の教会を教え導くための、主たる奉仕者であった。また(一部の人がありうべきこととして考えているように)彼は、いまだかつて生を受けた人間の中で最も卓越したしもべであり、その主人の天の御国において最も大きな報いを受けた者であった。聖書が彼について述べるところによれば、彼は感情に満ち満ちていた人物であったように見受けられる。そして明々白々なことであるが、彼がその書簡において表現しているキリスト教信仰は、その大きな部分が種々の聖い感情に存していた。彼が自分について語っていることをすべて考え合わせると、彼の人生は、その栄光ある主への何よりも激しく熱烈なによって燃やされ、突き動かされ、呑み尽くされていたように思われる。それは彼が、主を知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損とみなし、主を得るためならすべてのものをちりあくたとみなすほどであった。彼は、自分がこの聖い感情によって圧倒されていると語り、いわばその強制によって、いかなる困難苦難にも耐えて奉仕に邁進してきたと云う(IIコリ5:14、15)。また、彼の書簡は、キリストの御民に対するあふれんばかりの感情の表出で満ちている。彼は、信徒たちに対する自分の切なる愛について語っている(IIコリ12:19; ピリ4:1、2; IIテモ1:2)。そのあふれるばかりの愛について語っている(IIコリ2:4)。その、母がその子どもたちを養い育てるような優しく慈愛のこもった愛について語っている。「それどころか、あなたがたの間で、母がその子どもたちを養い育てるように、優しくふるまいました。このようにあなたがたを思う心から、ただ神の福音だけではなく、私たち自身のいのちまでも、喜んであなたがたに与えたいと思ったのです。なぜなら、あなたがたは私たちの愛する者となったからです」(Iテサ2:7、8)。また彼は、その愛の心についても語っている。(ピリ1:8; ピレ5、12、20)。その他者に対する熱心な心づかいについて語っている。(IIコリ8:16)。彼らに対するその愛情、またはあわれみについて語っている(ピリ2:1)。その、心の嘆きすら伴う、他者への心づかいについて語っている。「私は大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらに、あなたがたに手紙を書きました。それは、あなたがたを悲しませるためではなく、私があなたがたに対して抱いている、あふれるばかりの愛を知っていただきたいからでした」(IIコリ2:4)。彼らのために自分の魂が味わっている苦闘について語っている(コロ2:1)。ユダヤ人に対する同情ゆえに、そので感じていた大きな、絶えざる痛みについて語っている(ロマ9:2)。キリスト者たちに対して包み隠すことなく語る、その広く開かれた心について語っている。「コリントの人たち。私たちはあなたがたに包み隠すことなく話しました。私たちの心は広く開かれています」(IIコリ6:11)。彼はしばしば、その愛し慕う思いについて語っている(Iテサ2:8; ロマ1:11; ピリ1:8; 4:1、2; IIテモ1:4)。

 この同じ使徒がその書簡の中でしばしば云い表わしているのが、喜びという感情である(IIコリ11:12; 7:7、9、16; ピリ1:4; 2:12; 3:3; コロ1:34; Iテサ3:9)。彼はその大きな喜びをもって喜ぶことについて語っている(ピリ4:10; ピレ1、7)。喜び、喜ぶことについて語っている(ピリ2:17、18)。また、いっそう喜ぶことについて(IIコリ7:13)、慰めに満たされ、喜びに満ちあふれることについて(IIコリ7:4)、いつも喜んでいることについて語っている(IIコリ6:10)。同じく彼は、その魂の勝利感について(IIコリ2:14)、患難さえも喜ぶことについて語っている(IIテサ1:4; ロマ5:3)。ピリ1:20で彼が語っているのは、その切なる願い望みである。同じように彼は、神の熱情を感ずると云い表わしている(IIコリ11:2、3 <口語訳>)。そして、その回心以後の全生涯から明らかなように、熱心という彼の感情は、その主人の大業および主の教会の利益と繁栄とを目ざすものとして、彼のうちでわき立たっていた。それこそ彼の心を絶えず燃やし、大きな絶え間ない労苦に打ち込ませ、他者を教え、勧め、戒めさせ、彼らのために生みの苦しみをさせ、彼に反対してやまない強大な無数の敵たちと争闘させ、主権や力たちと格闘させ、空を打つような拳闘をさせず、前に置かれた競走を走らせ、いかなる困難や苦難が立ちはだかろうと絶えず前進させ続け、周囲の者たちから気が狂っていると思われるほどにさせたものであった。そして、彼がいかに感情に満ちていたかをさらに明らかにしているのは、彼が涙に満ちた人だったということである。IIコリ2:4において彼は、涙ながらに手紙を書いたと語っている。同じように使20:19では、自分が涙をもって仕え、夜も昼も、涙とともに働いてきたと語っている(31節)。

 さて、もしだれかが、この偉大な使徒について聖書が、また彼自身が記しているところを考察して、なおかつ彼の信仰の大きな部分が感情に存していたことを悟れないというのであれば、その人は自分の顔にまっこうから射し込んでくる光を閉め出すという、摩訶不思議な視力の持ち主に違いない。

 私が言及したいもう1つの実例は、主の愛された弟子、使徒ヨハネである。彼は、十二弟子のいかなる者にもまして、その主の間近に親しく接し、彼らのだれよりも大きな特権を許されていた。彼は、変貌山で、またヤイロの娘のよみがえりにおいて、主とともにいることを許された三人のひとり、また主がその御苦しみに伴われた三人のひとり、さらに使徒パウロによってキリスト教会の柱と名指された三人のひとりであっただけでなく、最後の晩餐では主の胸に頭をもたせかけることを許され、世の終わりに至るまでの教会に対する驚異に満ちたご経綸を啓示される弟子として主から選ばれるという、他のいかなる者にもまさって特別扱いされた者であった。彼によって新約聖書、ひいては全聖書の正典が完結された。また彼は他のどの使徒よりもいのち長らえ、彼らの死後、キリスト教会の諸事万端を整えた。

 その彼の残した書物から明白に見てとれるように、彼は著しく感情に満ちた人物であった。彼がその書簡の宛先人らに向けて語る数々の呼びかけは、言葉に尽くせぬほど優しく、感情豊かなものであり、そこに息づいているのは何よりも熱烈なにほかならない。その証拠となる聖句をもれなく十分に示したければ、彼の全書簡を書き写すしかないであろう。

 7. 神がこの世に送り込まれたお方、世の光、全教会のかしら、そして万人がならうべき真の信仰と美徳との完全な模範、すべての群れがいずこへなりともつき従うべき羊飼いとなるべくやって来られたお方、すなわち、主イエス・キリストは、著しく優しく、愛情深い心をしておられた。また主の美徳は、その大きな部分が種々の聖い感情の働きにおいて表わされていた。神と人との双方に対する主の愛は、たぐいないほどに熱く、激しく、力強いものであった。こうした種々の感情こそ、主が苦しみもだえ、いよいよ切に、大きな叫び声と涙とをもって祈られ、涙と血との中で苦悶なさった、あの途方もない感情の相克と葛藤において勝利をおさめたものであった。主の聖い愛の働きには、死よりも強い力があり、あの大きな葛藤の中で主が深く恐れ、悲しみのあまり死ぬほどであったときにも、激しいつきあげてくる恐れと悲しみという自然な感情に打ち勝ったのである。

 また主が感情に満ちておられたことは、そのご生涯の事件をたどっても見てとることができる。主がお示しになったと書かれている激しい熱心は、詩篇69篇の言葉を成就するものであった。「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす」(ヨハ2:17)。聖書は、人々のもろもろの罪に対する主の嘆きについても記している。「イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆きながら」(マコ3:5)。また、不敬虔な人々の罪と惨めさを思い、そうした人々がこぞって居を構えるエルサレムの町を眼前にして主が涙と叫びをほとばしらせたことも記されている。「エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、言われた。『おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている』」(ルカ19:41、42)。「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者、わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった」(13:34)。キリストの熱心な願いについても書かれている。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか」(ルカ22:15)。しばしば書かれているのは、キリストが人々をあわれみ、またかわいそうに思ったという感情や(マタ15:32; 20:34; ルカ7:13)、人々を深くあわれんだということである(マタ9:36; 14:14; マコ6:34)。また、兄弟のことで悲嘆に暮れ、涙をためて恨み言を云いに来たマルタとマリヤに対して、キリストがいかに優しいお心をお示しになったことか! 彼女たちの涙はすぐに主の涙をも誘い、彼女たちの嘆きに心動かされた主は彼女たちとともに涙を流された。その兄弟は死者の中からよみがえらされて、彼女たちの悲しみがたちまち喜びに変わることをご存知でありながら、主は泣かれたのである(ヨハネ11章参照)。また、十字架につけられて死ぬ前の晩に、イエスがその11人の弟子たちに向かってなされた最後の講話の、いかに云い尽くしがたく愛情深いものであったことか。そこで主は彼らに、ご自分が去っていくことを告げ、その後で彼らが世にあって大きな困難と苦難に直面すると予告なさり、ご自分のいとしい愛児たる彼らに慰めと忠告をお与えになった。また、ご自分の聖霊を彼らに賜わることによって、聖霊において自分の平安、ご自分の慰めと喜びを給り、いわばそれをご自分の遺言となさったのである(ヨハネ13〜16章参照)。そして最後のしめくくりとして、彼らのため、またご自分の全教会のために、愛情のこもったとりなしの祈りをおささげになった(17章)。いまだかつて人が書き記すか口にしたあらゆる講話の中でも、これほど愛情深く心動かすものは絶無と思われる。

 8. 天国における信仰は、その大きな部分が感情に存している。----疑いもなく天国には真のキリスト教信仰が、究極的にきよく完全な姿をもって存在しているに違いない。しかし聖書が天国の状態について叙述するところによれば、天国における信仰は、主として聖く大きな喜びとに存しており、それらの現われは、この上もなく熱烈で昂揚した賛美のうちに存している。それで、天国における聖徒たちの信仰は、本質的に、地上にいる聖徒たちの信仰と変わりなく、上に掲げた聖句で語られていること、すなわち、と、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びとに存しているのである。さて、天国にいる聖徒たちは血肉から切り離され、魂の激しい情緒的な動きにより(魂と肉体との結合の法則に従って)動かされるべき何の血気もないのだから、彼らのこの上もない愛と喜びは全く感情などではない、などと云うのはきわめてばかげたことであろう。私たちが語っているのは肉体的な感動ではなく、魂の感動なのであり、その最たるものが愛と喜びなのである。これらが魂のうちにあるとき、魂は肉体のうちにあろうと肉体を離れていようと、影響を受け、感動させられる。そして、これらが魂のうちにあって、天国にいる聖徒たちのそれと同じくらい強くなるとき、魂は非常に強い影響を受け、感動させられ、別の云い方をすれば、感情の高まりを覚えるのである。確かに私たちは、肉体を離れた魂や、栄化された肉体のうちにある魂の内側に、いかなる愛や喜びがあるものか身をもって知ってはいない。すなわち、こうした状態の魂が覚える愛や喜びを体験したわけではない。しかし地にある聖徒たちも、魂の内側に神聖な愛や喜びをいだくとき、それがいかなるものかは知っており、その愛と喜びが、天国で肉体から離れた魂が有する愛と喜びと同じ種類のものであることはわかるのである。地にある聖徒たちの愛や喜びは、天国における光といのちと祝福の発端であり、始まりであり、天国における彼らの愛や喜びのひな形なのである。というよりも、性質においては同じでありながら、程度と状況においてのみ違うものなのである*2。それゆえ、もしだれかが、天国にある聖徒たちの愛や喜びは、地にある聖徒たちの聖い愛や喜びと、程度や状況だけでなく、性質そのものが異なってとおり、彼らには何の感情もないのだ、などと考えるとしたら、それは理にかなわないと云わざるをえない。まして、その根拠が、彼らには種々の感情によって動かされるべき何の血液も血気もないからだ、などというものでしかないような場合にはなおさらである。血液や血気の動きといった、地にある人々の肉体的反応は、精神的な感覚をもたらすことがないわけではないにせよ、本来は種々の感情の本質ではなく結果なのである。人が愛したり、喜んだりするときには、まず精神(mind)に感覚がもたらされ、その後で初めて、物理的な体液に影響がもたらされる。それゆえ、もろもろの感情は、そうした肉体の動きを離れても立派に成り立つのであって、肉体から離れた魂もそれと変わることはない。また精神は、肉体のうちにあろうと肉体を離れていようと、愛や喜びをいだくときにはいつでもそうした感覚を覚えるものであり、その内的な感覚、あるいは一種の霊的感覚こそが、感情と呼ばれるものなのである。魂は、そのように感動させられるときに感情を動かされたと云われるのであり、その最たる場合が、天国にいる聖徒たちと同じくらい際だって強い内的な感覚と動きを生じさせられるときなのである。もしも天国について聖書から何か学べるとしたら、それは、そこにいる聖徒たちにはこの上もなく大きく力強い愛と喜びがあるということである。それらこそ、言葉に尽くせぬ甘美な感覚によって何よりも強く激しい感銘を心に与え、彼らをつき動かし、活性化し、引きつけ、炎のように燃やしているのである。だが、もしそうした愛や喜びが感情でないとしたら、感情という言葉には言語として何の意味もないことになる。---- 一体どこのいかなる人が、天国にいる聖徒たちは、彼らの御父の御顔と彼らの贖い主の栄光を見ても、彼の偉大なみわざを思い巡らしても、特に彼が自分たちのため自らのいのちを投げ出したことを思っても、それらによって全く心を動かされず、全く感動を覚えないなどと云うのだろうか?
 これらを鑑みるとき、聖い愛と喜びに満ちた天国における信仰は、その大きな部分が感情に存しているのである。そして、それゆえにこそ、真のキリスト教信仰は、その大きな部分が感情に存していると云える。あるものの真の性質を見きわめるには、それが真に純粋な形で完成された姿を見るべきである。黄金の性質を真に知りたければ、鉱石の状態ではなく、精錬された状態で見なくてはならない。真のキリスト教信仰について学びたければ、真の信仰があり、真の信仰しかないところ、また真の信仰が何の欠陥も混ぜ物もなしに最高に完璧な状態になったところへ赴かなくてはならない。真のキリスト教信仰をいだく者たちはみなこの世のものではなく、地上では異邦人であり、天国に属している。彼らは上から生まれた者であり、天国こそ彼らの本国であって、この天的な出生により彼らが受けた性質は天的な性質であり、彼らは上からの注ぎの油を受けているのである。彼らのうちにある真のキリスト教信仰の原理は、天国における信仰が伝えられたものである。彼らの恵みは、栄光の黎明である。そして神は、彼らをその原理、恵みにふさわしい者へと変えていくことにより、彼らをその天の世界にふさわしい者としてくださるのである。

 9. このことは、真のキリスト教信仰の手段また表現として神がお定めになった儀式や義務の性格や目的からしても明らかである。

 祈りという義務を例にとってみよう。この義務において私たちが、神の完全さや、神の尊厳、聖さ、いつくしみ深さ、すべてを満ち足らわす豊かさを、また私たち自身の卑しさや、むなしさ、無力さ、無価値さ、私たちの欠けや求めを、はっきり云い表わすように定められているのは、明らかに、そうした事がらを神に知らせたり、神の心を傾けて、私たちにあわれみを示してくださる気持ちになっていただこうとすることにあるのではない。むしろそれは私たちが、自分の表明する事がらによって、ふさわしい感動を心に受け、願った祝福を受ける心備えをすることにある。また、神への礼拝における身振りや外面的なふるまい方、一般の習慣によって謙遜と尊崇の表明とされているようなそぶりの唯一考えられる効用は、それらが私たち自身の心、あるいは他の人々の心を感動させるいくばくかの傾向を有するということにしかない。

 また神への賛美を歌うという義務は、ひたすらに、信仰的な感情を奮い立たせて表明することだけのために定められていると思われる。私たちが散文ではなく韻文で、また音楽を伴って自らの思いを神に向けて表明する理由として考えられるのは、ただ1つ、私たちの性質と成り立ちからして、こうした事がらには私たちの種々の感情を動かすいくばくかの傾向があるから、ということしかない。

 同じことは、神がお定めになった聖礼典の性質および目的においても見られる。神は、私たちの成り立ちをお考えになった上で、単に福音とキリストの贖いとの偉大な諸事実を告げて私たちを教導するみことばという手段をお定めになっただけでなく、それに加えて、それらが感覚的に感じとれるような表現方法を定めて、いわば私たちの眼前でそれらが繰り広げられるようにし、私たちがよりそれらに感動を覚えるようにしてくださったのである。

 また明らかに神は、神の事がらについて人々の心と感情に感銘を与えることを1つの大きな目的として、聖書の中で述べられているみことばを解き明かし、適用し、人々の心に切実に訴えかける手段として説教をお定めになった。それゆえ人は、良い聖書注解や講解書、あるいはその他の良質な神学書を持っているだけでは、神がこの制度をお定めになった目当てを果たすことはできない。なぜなら、確かにこうしたものは説教と同じく、神のことばの正しい教理的、また思弁的理解の役に立つかもしれないが、それらは、説教ほど、人の心と感情にそうした感銘を与えるものではないからである。神は、そのみことばを格別に、また力強く適用する手段として、説教をお定めになった。罪人にキリスト教信仰の重要性と自分の惨めさを、また救済の必要性や、備えられている救済の栄光と十分さとを示して感化するための、また、キリスト教信仰の偉大な事がらを知り、十分教えを受けている聖徒たちにさえも、それらをしばしば思い起こさせ、その真実の姿を示すことで、そのきよい思いをかき立て、感情を活性化させるための、ふさわしい手段となされた(IIペテ1:12、13)。そしてことに、上に掲げた聖句で語られているこの2つの感情、喜びを彼らのうちにはぐくむために、「キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになった。それは、キリストのからだが愛のうちに建てられるためです」*(エペ4:11、12、16)。使徒が、テモテに向かって牧会の務めに関する導きと助言を与えた際の言葉によれば、教役者が宣べ伝えるべきみことばの偉大な目的はであった(Iテモ1:3-5)。また神が説教という手段をお定めになったのは、聖徒たちのうちに喜びをはぐくむためであった。それゆえ教役者たちは、人々の喜びのために働く協力者、と呼ばれているのである(IIコリ1:24)。

 10. 真のキリスト教信仰のかなめが感情にあるというもう1つの証拠は、聖書が心の罪を心のかたくなさに大きくかかっているものとしている、ということである。心のかたくなさこそ、ユダヤ人に対するキリストの嘆きとご不興をかき立てたものであった。「イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆きながら」(マコ3:5)。人々は、このような心を持っていたがために、御怒りを自分のために積み上げたのであった。「あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです」(ロマ2:5)。イスラエルの家が神に従おうとしない理由としてあげられていたのは、彼らの心のかたくなさであった。「しかし、イスラエルの家はあなたの言うことを聞こうとはしない。彼らはわたしの言うことを聞こうとはしないからだ。イスラエルの全家は鉄面皮で、心がかたくなだからだ」(エゼ3:7)。あの荒野における、ひねくれた反抗的な世代のよこしまさは、彼らの心のかたくなさのゆえとされている。「きょう、もし御声を聞くなら、メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。あのとき、あなたがたの先祖たちはすでにわたしのわざを見ておりながら、わたしを試み、わたしをためした。わたしは四十年の間、その世代の者たちを忌みきらい、そして言った。『彼らは、心の迷っている民だ。』」云々(詩95:7-10)。----これこそ、ゼデキヤが主に立ち返るのを妨げたものであると語られている。「彼はうなじのこわい者となり、心を閉ざして、イスラエルの神、主に立ち返らなかった」(II歴36:13)。この原理こそ、人々が神への恐れを持たず、神の道から離れていく根本的な原因である。「主よ。なぜあなたは、私たちをあなたの道から迷い出させ、私たちの心をかたくなにして、あなたを恐れないようにされるのですか」(イザ63:17)。キリストを拒み、キリスト教に反対する人々は、この原理ゆえにとがめられている。「しかし、ある者たちが心をかたくなにして聞き入れず、会衆の前で、この道をののしった」(使19:9)。----神が人間を罪の力と心の腐敗とにまかせなさることは、しばしば彼らの心をかたくなになさることと表現されている。「こういうわけで、神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです」(ロマ9:18)。「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた」(ヨハ12:40)。また使徒は、生ける神から離れる悪い心かたくなな心とを同じものとして語っているように思われる。「……御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない」(ヘブ3:8)。「兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。『きょう。』と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい」(12、13節)。そして回心における神の偉大なみわざは、罪の力から人を解放し、腐敗を抑制することに存するが、それは何度となく、神が「石の心を取り除き、肉の心を与える」*こととして云い表わされている(エゼ11:19; 36:26)。

 さて、かたくなな心によって意味されているのは明らかに、感情を動かされることのない心、あるいは、種々の高潔な感情によっても簡単には感化されることのない心、石のように鈍感で、愚かで、無感動で、簡単には感銘を受けない心ということである。それゆえに、かたくなな心は、感じやすく、柔らかで、感動できる肉の心と対比的に石の心と呼ばれているのである。聖書は、かたくなな心柔らかな心について記している。そして疑いもなくそれらは正反対のものであると理解すべきである。しかし、柔らかな心とは、感化されるべきものによって感銘を受けやすい心でなくて何であろう? 神がヨシヤにおほめの言葉を与えたのは、ヨシヤの心が柔らかなためであった。そして、この柔らかさの表われとして言及されている事がらからして明らかなように、それは、彼の心が信仰的な、また敬虔な感情によって感動しやすいものであった、という意味である。「あなたが、この場所とその住民について、これは恐怖となり、のろいとなると、わたしが言ったのを聞いたとき、あなたは心を痛め[柔らかくし <英欽定訳>]、主の前にへりくだり、自分の衣を裂き、わたしの前で泣いたので、わたしもまた、あなたの願いを聞き入れる。----主の御告げ」(II列22:19)。またこれは、私たちが神の国にはいるため、小さな幼子のようになるべき事がらの1つである。すなわち、幼子はどんな物事にもすぐに感化され、感動しやすいものだが、そのように私たちは、心を柔らかくし、霊的な、また神的な事がらによって感化を受けやすく、感動させられるべきなのである。

 いくつかの箇所で非常にはっきり示されていることだが、心のかたくなさとは、感情の全く欠けた心を意味している。それで聖書は、だちょうがその雛に対する天性の愛情を欠いているとして、こう告げている。「だちょうは自分の子を自分のものでないかのように荒く扱い[心をかたくし <英欽定訳>]」(ヨブ39:16)。同じように聖書では、危機にのぞんで心が何の影響も受けない人は、その心をかたくなにしていると述べられている。「幸いなことよ。いつも主を恐れている人は。しかし心をかたくなにする人はわざわいに陥る」(箴28:14)。

 さて、それゆえ、聖書におけるかたくなな心が、種々の敬虔な感情に欠けた心であることははっきりしており、また聖書がこれほどしばしば心の罪と腐敗とをそのかたくなさに存するものとしているからには、明らかに心の恵みと聖潔とは、それとは逆に、その大きな部分において、心に種々の敬虔な感情がいだいていること、またそうした感情を感じやすい心であることに存しているに違いない。神学者たちが一般に同意しているように、罪とは究極的には、また根本的には、否定的なもの、何らかの欠如を示すものであって、聖潔の欠如または欠乏にこそ、その根幹また土台があるのである。そしてそれゆえ疑いもなく、罪が大きな部分において心のかたくなさに存しており、種々の敬虔な感情の欠如に存している以上、キリスト教信仰はその大きな部分において、そうした敬虔な感情のうちに存しているはずである。

 むろん私はあるゆる感情が柔らかな心の現われであるなどと考えてはいない。憎しみや、怒り、うぬぼれ、その他の自己中心的で利己的な感情は、だれよりもかたくなな心のうちで大いにはびこっていることがありうる。しかしそれでも明らかに、この上なくかたくなな心およびこの上なく柔らかな心とは、心中の種々の感情にまつわる表現であって、種々の特定の感情を感じやすいか、閉め出しているかを意味しているのである。そうした特定の感情の詳細については、後述することにしたい。

 全体を通して見れば、真のキリスト教信仰がその大きな部分において感情に存していることは、はっきりと、また十二分に明らかになったと思う。むろん私も、真に敬虔な人々の心中にあるキリスト教信仰が、常にその精神の感情やその時々の情緒の深さと正確に比例しているなどということまで、これらの議論で証明されたとは考えていない。疑いもなく、真の聖徒たちのうちにも、霊的でない感情は多々あるからである。彼らの宗教感情はしばしば混じり合ったものである。すべてが恵みから出たものではなく、その多くは生来の性質から出ている。また、たとえ感情の座が肉体にないとはいえ、肉体の成り立ちがその時々の内心の情緒に大いに関わっていることもありうる。ある人のキリスト教信仰の深さは、感情において働く習慣の確固さや強さ、すなわち、聖い感情が習慣的なものとなっているかどうかによってはかられるべきであって、その時々の感情がどれだけ激しく働いているかではかられるべきではない。またその習慣は、必ずしも外面的な効果や現われが激しければ大きいというものではなく、それどころか内面的な効果や現われ、すなわち、想念の移り変わりがどれほど急激で、勢いよく、突然のものであろうと、それに応じて強いとは限らない。しかしそれでも、キリスト教信仰が大いに感情に存しており、聖い感情のないところにはいかなる真のキリスト教信仰もありえないことは明らかである。たとえ理性のうちにいかなる知識があろうと、それが心に聖い感情を生み出すのでなければ良いものではない。心のうちにいかなる習慣や原理があろうと、それがそのような働きを伴うのでなければ良いものではない。そして、いかなる外面的な成果が見られようとも、それがそうした働きから発したものでなければ良いものではないのである。

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*1 同様の箇所として、詩73:25; 143:6、7; 雅3:1、2; 6:8 がある。[本文に戻る]

*2 これは次のような多くの聖句から明らかである。箴4:18; ヨハ4:14; 6:40、47、50、51、54、58; Iヨハ3:15; Iコリ13:8-12[本文に戻る]



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