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宗教感情論


第1部.
感情の性質、およびキリスト教信仰におけるその重要性について

「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています」 (Iペテ1:8)


第1節 感情に関する序言

 この言葉によって使徒が表わしているのは、その手紙の宛先人たる、迫害下にあったキリスト者たちの心境である。こうした迫害について、彼はすでに、先立つ2つの節で言及していた。彼は、彼らの信仰の試練について語り、彼らがさまざまの試練の中で、悲しまなければならないと語っている[Iペテ1:6-7]。

 こうした試練によって真の信仰は、三重の恩恵をこうむる。----これによって、その信仰の真実さは明白となり、それがまさしく真の信仰であることが現わされる。試練は、他の何物にもまさって、真の信仰と偽の信仰とを峻別し、両者の違いを歴然と示すものである。だからこそ、それは、直前の節[7節]および他の無数の箇所において、試練と呼ばれているのである。それは信仰者であると告白する人々の信仰と真情を試し、さながら金のように見える金属を火で精錬すると本物の金かまがいものかが明らかになるように、それがいかなる種類のものであるかを明らかに示す。そして、真のキリスト者の信仰は、このように試され、真実なものであると見分けられるとき、称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかるのである。

 また、こうした試練は、真の信仰の真実さを明らかにするだけでなく、その美しさおよび気高さをも顕著に示すものである。真の美徳の麗しさが最も如実に示されるのは、それが最も激しい反抗を受けるときにほかならず、真のキリスト教の神聖な卓越性が際立って顕示されるのは、それが苛烈きわまりない試練のもとにさらされるときにほかならない。まさにそのときにこそ、真の信仰は黄金よりもはるかに尊く見え、まさにそれゆえにこそ、称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかるのである。

 さらに、こうした試練が真のキリスト教信仰にもたらすもう1つの恩恵は、それをきよめ増し加えるという働きである。試練は、その信仰が真実なものであることを明らかにするだけでなく、それを精錬し、その妨げとも足枷ともなっている不純物の混在状態から脱させ、真実なものだけを残すようにさせるものである。試練は、真の信仰の気高さを際立って明らかに示すだけでなく、それを確立し、確固たるものとすることにより、その美しさを増し加え、より瑞々しく、より逞しいものとし、その光彩や輝きを鈍らせるものから浄化するものである。火で精錬された金が、不純物や金かすの残滓をことごとく除去され、より美しくなるように、真の信仰は試練を受けると、金が火で精錬されるように、より尊いものとなり、やはりそこから称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかるのである。使徒は、こうした恩恵のそれぞれを念頭に置きつつ、これに先立つ聖句までを記しているように思われる。

 さて、上に掲げた聖句[8節]において使徒が述べているのは、真の信仰が、こうした迫害下にあるキリスト者たちの中で、いかなる作用を及ぼしているか、ということである。あるいは、どのような種類の作用が彼らの信仰を、迫害下にあって、真実な信仰であると明示し、その正真正銘の美しさおよび気高さを如実にし、さらにはそれを増し加えきよめることによって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかるようにさせているのか、ということである。さて、苦しみのうちにある彼らの中で、真の信仰は二種類の作用、あるいは働きを及ぼしていた。それについて使徒はこの聖句で言及しており、その作用の中にこそ、こうした恩恵が現わされていたのである。

 1. キリストへの愛。「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており」。この世が驚き怪しんでやまなかったのは、一体いかなる奇妙奇天烈な主義主張に従えば、人はこれほど激しい苦難に自分から身をさらし、目に見えるものを捨て去り、触れたり味わったりできる楽しみや快楽をことごとく擲てるのか、ということであった。世の人々にとって、まるで彼らは常軌を逸しているとしか思えず、自分自身を憎んでいるかのように行動していた。世の人々の目には、彼らをこれほどの苦しみへと引き寄せるようなもの、これほどの試練の中にあっても彼らを支え、耐え抜かせてくれるようなものは何も見えなかった。しかし、確かに彼らに影響を与え彼らを支えてくれるものは、この世には全く見えず、キリスト者自身も決して肉眼では見ることはなかったが、それでも彼らには、目に見えない何かに対する超自然的な愛の原理があったのである。彼らはイエス・キリストを愛していた。なぜなら彼らは、この世には見えず、彼ら自身の肉眼でも決して見たことのないキリストを、霊的に見ていたからである。

 2. キリストにある喜び。確かに彼らの外側から来る苦しみは非常に苛酷なものではあったが、彼らの内なる霊的喜びはその苦しみにまさっていた。そしてこの喜びが彼らを支え、彼らを朗らかに苦難に耐えさせたのである。

 この喜びについて、使徒がこの聖句で言及していることは2つある。1. この喜びがわき起こる仕方、すなわち、目に見えないキリストがいかにしてその喜びの源となっておられるか。それは、信仰によってであった。信仰こそ目に見えないものを確信させるものである。「あなたがたはイエス・キリストを……いま見てはいないけれども信じており、……喜びにおどっています」。2. この喜びの性質。それは、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びであった。この喜びは、その種類においてことばに尽くすことができない。それは世俗的な喜びや、肉的な楽しみとは全く異なるもの、それよりもはるかにきよく、崇高で、天的な性質の喜びであり、超自然的で、真に神聖で、言語を絶するほどすぐれている! その崇高さと比類ない甘やかさは、いかなる言語を用いても描写できない。さらにそれは、その程度においてもことばに尽くせぬものであった。神はそのみこころによって、迫害を受けつつある彼らに、この聖い喜びをふんだんに与えておられたのである。

 彼らの喜びは栄えに満ちたものであった。確かにこの喜びは言葉に尽くせないもの、いかなる言語も余すところなく描写するには不十分なものではあったが、1つだけ云えることがあった。それは、この喜びが何よりもすぐれていることを云い表わすのに、これ以上ふさわしいものはない言葉であった。すなわち、これは「栄えに満ちた」喜び、あるいは、原語にあるように、「栄化された喜び」だったのである。こうした喜びに胸おどらせているうちに、彼らの思いは、いわば栄光の輝きで満たされ、心は昂揚し、いかなる不満も消散してしまった。それは何よりも気高く、高貴な喜びであって、肉的な喜びの多くとは違い、思いを腐敗させたり卑しめたりせず、むしろ大いに美と威厳で満たすものであった。それは天国の喜びの前味であり、彼らの思いをある程度は天国の至福へと引き上げ、彼らの思いを神の栄光の光で満たし、彼ら自身にも、その栄光を一部分かち与えて輝かすものであった。

 それゆえ、私がこの聖句から引き出したいと思う命題、あるいは教理は、真のキリスト教信仰は、その本質の大きな部分が聖い感情に存している、ということである。

 ここで使徒は、宛先人たるキリスト者たちの内側で、真のキリスト教信仰が作用し、働きつつあると述べている。彼らの信仰が迫害により、金を精錬する火のような苛烈きわまりない試練を受けつつあるとき、----また、それが真実なものと見分けられるだけでなく、金かすや不純物を全く除かれた純粋なものとさせられつつあるとき、----また、それが彼らのうちにおいて、何よりもすぐれた正真正銘の巧まざる美しさを際立って現わし、称賛と光栄と栄誉に至るものであることをわからせつつあるとき、----彼らのキリスト教信仰を、そのように真実できよい栄光あるものであることを明らかにするような作用がなされているのだ、と。そして、そうした作用として彼が抜き出しているのが、喜びという宗教感情なのである。

 ここで、感情とは何か、と問う人もいると思う。----答えよう。感情とは、魂の意向と意志とが行なう、格別に力強く著しい働きにほかならない。

 神は魂に2つの主要な機能をお授けになった。1つは、魂が知覚し、思索できるようにする機能、あるいは物事を識別し判断させる機能であって、これは理性(understanding)と呼ばれる。もう1つは、認識し考察したものに関して魂を何らかのしかたで傾けさせる機能、あるいは、魂に物事を----冷淡で無感動な傍観者のようにではなく----好ましいとか厭わしいとか、快いとか不快であるとか、賛成できるとか受け入れられないとかいうようにみなさせる機能である。この機能はさまざまな名前で呼ばれており、意向(inclination)と呼ばれることもあれば、これがその後の行為を決定し支配することに鑑みて意志(will)と呼ばれることもある。そして、この機能の働きにかかわる精神(mind)のことは、しばしば(heart)と呼ばれる。

 この後者の能力の働きには二種類ある。一方は、認識された物事に賛成する方向へと魂を傾け、それを気に入らせ、心引き寄せようとする働きであり、もう一方は、認識された物事に不賛成な方向へと魂を反対させ、それを不快に思わせ、反発させ、拒否させようとする働きである。----さらに、この意向の働きは、その種類においてさまざまであるように、その程度においては一層千差万別である。ある場合、魂が何かを気に入ったり不快に思ったり、心を寄せたり引き離されたりしても、ほとんど全く冷淡な状態のままということもある。だが、物事を是としたり非としたり、気に入ったり反発したりする程度が、より強い場合もある。そうしたときに、その働きをつのらされていくと、ついに魂は著しく激しい動きを始め、(創造主が魂と肉体とを結びつけられた法則により)血流や血気が著しい変化を生じ出す。これによりしばしば引き起こされるのが、肉体の一部、特に心臓や五臓付近の興奮である。こういうわけで、この機能の働きに関した精神のことを人は、ことによるとあらゆる国々のあらゆる時代で、と呼んできたのである。そしてここで注意しておくべきなのは、こうした、格別に力強く著しい働きのことこそ、感情(affections)と呼ばれているものだ、ということである。

 魂の意志および感情は、別個の機能ではない。感情は本質的に意志から区別されるものではなく、色々な感情が、ただの意志や意向の種々の動きと異なるのは、その働きが活発で、著しいものだという点でしかない。----告白しなくてはならないが、こうした云い方はいささか不完全であって、こうした言葉の慣用語法における意味は、相当に曖昧模糊としており、全く厳密な規定がなされていないものである。ある意味において、魂の感情は、意志や意向と全く何も異なることがないし、意志はいかなる働きをする際にも、感じて動かされる以上のことしか決して行なわない。意志が全くの無関心状態にある場合、それは、何らかの方向に感ずるところがあるのでなければ、絶対に動くものではない。しかしそれにもかかわらず、意志や意向の動きの中には、通常は感情とは呼ばれないものがたくさんある。確かに私たちが何かを自発的に行なう場合は、何をするにしても、そこには必ず意志と意向の働きがある。私たちの意向こそ、実行動において私たちを支配するものである。しかし、意向と意志とのすべての動きが、感情と普通呼ばれているものにはならない。ただし、通常感情と呼ばれているものはそれらと本質的には異ならず、ただ働きの程度ありかたにおいてのみ異なるのである。ありとあらゆる意志行為において、魂は、目の前にあるものを好ましく受け取るか厭わしく受け取るか、心引き寄せられるか離れていくかのどちらかである。これらは、憎しみという感情と、本質的には異なるものではない。あることに対する魂の好みや嗜好は、それが非常に強い程度において力強く活発なものとなるなら、まさしくという感情に等しいものとなる。また嫌悪やいや気が激しい程度で起こるとき、それはまさに憎しみに等しい。手元にない何かを求め欲するあらゆる意志行為において魂は、ある程度、その物事に心傾けさせられている。そして、その意向の程度が相当大きなものである場合、それはまさに願望という感情に等しい。また、魂が手元にある何かに賛成する意志行為においては、それがいかなる程度のものであれ、そこには多少なりとも必ず好意がある。そしてその好意の程度が相当大きなものである場合には、まさに喜び楽しみという感情に等しいものとなる。また、もしも意志が手元にある何かに不賛成であるなら、魂は何らかの程度において不快さをいだき、もしその不快さが大きなものとなると、それはまさに悲しみあるいは嘆きという感情に等しいものとなる。

 思うに人間の性質というものは、また魂と肉体を結合させている法則というものは、魂の中で何らかの意志あるいは意向が活発に力強く働き出すと、いかなる場合にも、必ず何らかの影響を肉体に及ぼし、体液の流れを変えるものであるらしい。特にそれは血気において顕著である。----そしてその一方では、同じ一体性の法則により、体質や、体液の流れが感情の働きを促すこともある。しかしながら、肉体ではなく精神こそが、感情の正当な座にほかならない。人間の肉体は、愛や憎しみ、喜びや悲しみ、恐れや希望の主体とはなれない。このことは、木の幹がそれらの主体となれず、あるいは同じ肉体が、思考能力や理性の主体となれないことに等しい。考えをいだくことのできるのが魂だけであるように、そうした種々の考えを気に入ったり気に入らなかったりするのも魂だけである。考えることのできるのが魂だけであるように、それが考えたことを愛したり憎んだり、喜んだり悲しんだりできるのも魂だけである。さらにまた、そうした血気や体液の動きは、感情の性質に本来的に属するものではない。確かにそれらは、現在の状態においては、常に感情に伴うものだが、それは感情の効果あるいは付き物にすぎず、感情そのものとは全くの別物であって、決して感情の本質ではない。だから肉体を離れた霊も、肉体と結びついたままの霊と同様に、愛や憎しみ、喜びや悲しみ、希望や恐れ、その他の感情を覚えることはできるであろう。

 感情情動(passion)は、しばしば同じものとして語られるが、より一般的な言葉の使い方によると、いささか異なる点がある。感情という言葉は、その通常の語義としては、情動よりも適用範囲が広いように思われ、意志や意向の力強く活発な動き全般に対して用いられている。しかし情動は、そうしたものの中でも、より急激で、より荒々しい効果を血気にもたらし、精神をより圧倒し、より制御を失わせるものである。

 意向や意志の働きはみな、賛成したり好ましく思うか、不賛成だったり拒絶するかのどちらかと関わっているため、感情にも二種類ある。それは、目の前にあるものに対して魂が引きつけられたり、それを追い求めたりするものであるか、それをいやがったり、それに反対したりするものである。最初の方の種類の感情とは、願望希望喜び感謝満足などである。後者の方には、憎しみ恐れ怒り悲しみなどといったものがある。しかし、あえてここで個々の感情の定義をするには及ぶまい。

 また、いくつかの感情には、いま述べたような二種類の意志の動きが合成されたものもある。たとえば、憐憫という感情においては、最初の種類のものが、苦しみにあっている人に対して向けられ、後者の種類のものが、その人を苦しめているものに対して向けられる。それと同じく、熱心においても、そこには何らかの人か物事に対する高い賛意に伴って、その人や物事と正反対であると思われるものに対する、力強い反対が見られるのである。



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