HOME | TOP | 目次 | BACK | NEXT

----

第15章

スポルジョン氏の前任者たち

傑出した歴史を有する教会――ストラットフォードと「武断政策」の時代――ブラウン主義者と初期のピューリタンたち――碩学たちの窮乏――初代牧師ウィリアム・ライダー ――ヘンリー・ジェシー ――ベンジャミン・キーチ――昔の「司法の正義」――ベンジャミン・スティントン――彼の死後の分裂――ジョン・ギル――卓越した学者――ロンドン市中の生活――ギルの『注解書』――社交的な時代――倶楽部と珈琲館――カーター通り会堂での歌唱――リッポン博士――長い牧会――新しいロンドン橋とニューパーク街会堂――ジョーゼフ・アンガス博士――ジェームズ・スミス――ウィリアム・ウォルターズ――長期にわたる牧師職

 フェンズの若き巡回説教者の奉仕を確保することに成功した、この教会と会衆は、かの動乱の英共和国時代[1649-1660]にまでさかのぼる、傑出した歴史を誇りにすることができた。クロムウェルが表舞台に登場した長期議会の初期よりも前から、サザク[ロンドンのテムズ川南岸の自治区]のバプテストたちは、やがて戦争で解決するしかなくなる論争において、平民側に同情し、国王に反する態度を示し始めていた。その「武断政策」を張り巡らしつつあったストラットフォードも、その友である「狐のウィリアム」――と、すでに多くの人々から呼ばれていたカンタベリー大主教[ウィリアム・ロード(1573-1645)]――も、ロンドン市中においてと同じくらい、「川向こう」でも不評を買っていた。聞くところ、ブラウン主義者たち[会衆派教会の母体となった]がクリンクで投獄されたのは、彼らが「主教製の」祈りを用いようとしなかったからである。そして、こうした私的判断権への干渉こそ、不当な課税とあいまって、内戦の危機に拍車をかけたものであった。ブラウン主義者たちは、ジェームズ一世の治下[1603-25]、サザクでそれなりに人数を増し加えた。そして、改革を希求する点では、後代のピューリタンたちより大雑把であったとはいえ、こうした熱心な信徒たちは、真実にピューリタンたちの先駆者であった。こうした初期の非国教徒たちの特徴において、ことのほか驚くべきなのは、宗教的な義務に対する彼らの専心と、世俗的な慰めに対する無関心、あるいは良心を満足させる限りにおいての峻別である。それは、碩学と認められた学者たちでさえ、日和見を拒否すれば、粗食と破れ家で満足しなくてはならない時代であった。私たちの見いだすところ、第一級のヘブライ学者エーンズワースは、本屋の運搬夫として働いていた。ロジャー・ウィリアムズは一日数ペンスで糊口をしのぎ、バプテスト派の巡回説教者ジョン・キャンは、英語聖書に初めて欄外注を対照させた人物だが、印刷工として働いたことがあったらしい。

 チャールズ一世[在位1625-49]の危険な時代、南ロンドンのバプテストたちは、密告者の目を逃れるために個々人の家に集まっており、彼らの最初に認められた牧師は、ウィリアム・ライダーであったと思われる。彼については、ほとんどのことが不明で、かろうじて残っている事実は、彼が世間でそこそこ裕福に暮らしていたこと、受洗者に手を置く慣行を主張する書物を刊行したことにとどまる。国の統治権が国王から議会に移ったとはいえ、バプテスト派の見解をいだき、ためらうことなくそれを宣言していた教師にとって、時世は容易なものではなかった。ライダーは良心ゆえに受難した人々のひとりであった。その当時たまたまサザクの殉教者聖ジョージ教会の聖職禄を保持していたヘンリー・ジェシーが、ライダーと同じ見解に転向し、その結果、他の多くの者がそれにならった。浸礼によるバプテスマという問題に関する一般の興奮は、数々の公開討論という形で噴出した。

 この初代牧師がいつ、あるいはどこで死んだかは知られていない。だが彼の後を継いだのは、より有名なベンジャミン・キーチであった。それは1668年、ロンドンが悪疫と大火による惨禍から回復しつつあった時期のことである。1640年に生まれたキーチはバッキンガムシアの人で、ほぼ二百年後の若きスポルジョンと同じく十五歳のときに、それまで教え込まれていた幼児洗礼論を放棄し、バプテスト派の信仰と慣行を受け入れた。キーチは、やはり後代の彼の後継者[スポルジョン]がフェンズで行なったように、若輩ながら自分の生国の至る所を説教して歩いた。違いはと云えば、十七世紀の説教者は、自分の働きを軍隊によって中断させられ、監獄に引っ立てられることがあったということである。しかしながら、迫害は決してこのような人物の熱情を抑え込むことができなかった。あるとき彼は、子どもたちのための小祈祷書を出版したかどで法廷に召喚された。判決を下した判事の言葉遣いは、その時代の特徴について尋常ならざる洞察を示している。「ベンジャミン・キーチ」、と英国の司法的正義の代弁者――と十七世紀には理解されていた――は述べた。「ここにそのほうを、扇動的かつ分離的な書籍を執筆・印刷・出版せし件につき有罪とする。これにより当法廷は、以下の通りの判決し、当法廷はそれを認める。すなわち、そのほうは、これより二週間、いかなる保釈も条件付き釈放もなく監獄に収監されること。次の土曜には、11時から1時まで、エールズベリー[バッキンガムシアの州都]の野外市にあるさらし台の上に立ち、その間、次のごとく記した紙を頭上に掲示すること。『「子どもの教導者、あるいは新版簡易なる小祈祷書」と題する分離的書籍の執筆・印刷・出版のかどにより』。かつ、次の木曜にはウィンズローでも同様の時間に同様にすること。また、そこでそのほうの書籍は、一般刑吏により、そのほうの面前で公開焚書され、そのほうおよびそのほうの教理に恥辱をこうむらせること。その後そのほうは、国王陛下に二十ポンドの罰金を支払い、そのほうの素行改善により身元引受人を見いだすまで、監獄にとどまること。かつ、次回の巡回裁判に出頭し、その場でそのほうの教理を正式に否認し、そのほうに命ぜられる公の服従を表わすこと。では看守、そやつを退廷させよ」。

 こうした類の経験によっても、このような人物の意気をくじくことはできなかった。彼は機会さえあれば説教と教えを行ない続け、田舎の人々は、この伝道者の方を、その迫害者たちよりも尊敬していた。真理は、それを書き記した書物の山を市場で焼くことによって抑圧できるものではない。おそらく、この御仁が説教していたウィンズローの集会所はまだ立っているはずである。

 二十八歳になったとき、キーチはバッキンガムシアを離れ、ウィリアム・ライダーの後任として、サザクの牧師職を引き継いだ。だが、目的地に到着したときの彼は一文無しであった。道中の追い剥ぎに金子を奪われたのである。彼は、バプテストたちから心からの歓迎を受け、彼の損害は補償された。彼が説教した会堂は、当時としては魅力的な建物であった。その鉄門から入った訪問者は、科の木のきれいな並木道を通り抜けることになっていた。そこでキーチは、数多の困難をくぐり抜け、名誉革命[1688-89]が宗教界の雰囲気を一掃するまで働き続けた。その集会は、しばしば法の執行者たちによって妨害を受け、ウィリアム三世[在位1689-1702]の登位によって良心の自由が保障されたときには、別の困難がこの会衆の平和をかき乱した。この牧師は、公の礼拝中に賛美歌を歌う慣行を導入することに前向きだった。だが、他の人々はそれを反キリスト教的な新機軸でしかないと信じて激しく反対するあまり、教会から分離して、競合する別の会衆を創設した。他の人々は、土曜日を真の安息日として遵守することに賛成していた。この後者による扇動こそ、キーチにその著書『ユダヤ教安息日の廃止について』を出版させたものであった。キーチはその教会員から大いに愛され、最後までしみ1つない高潔さを保った。彼は、あまりにも多岐にわたる働きに携わっていたために、1704年の夏に没したときには全く疲弊しきっていた。彼にはイライアスという名の息子がひとりいて、ペンシルヴァニアに2つのバプテスト教会を開拓し、後にはウォッピング[ロンドンのテムズ川北岸の一地区]で説教した。ベンジャミン・キーチの死とともに、教会のピューリタン時代は幕を閉じたと云えよう。彼がいかに真摯に悼まれたかは、当時普通であった慣習に従い、その死に際して片面刷りの紙に印刷して売られた詩に示されている。――

   「彼はもはやあらざるか? 天は彼のともしび引き込めて
    夜闇の深きに われらを嘆かさしめんとすか
    われらが痛手を?
    死はその勝利を誇れり。そは世人の噂サレムの野をば
    かけめぐれば。キーチ死す。愛しきキーチ死すなり、と」。

 総計するとキーチは四十冊の著作を残した。そのうちの一冊、『教区牧師を矯正す』は、彼の論争好きな性格を示してはいるものの、最もよく記憶に残っているのは、彼の『聖書の比喩を解く鍵』である。彼の遺体が葬られた、バプテストたち所有の墓地はサザク区のパークにあった。将来ここから発した名前がニューパーク街であり、そこに設置された会堂こそ、スポルジョン氏がそのロンドンにおける牧会活動を一世紀半の後に開始することになった場所なのである。

 キーチには、ベンジャミン・スティントンという名の義理の息子がおり、今度は彼がその教会の牧師となった。しかしながら、その責任ある職務はきわめて不承不承に受諾された。というのも、スティントンはその当時三十歳であり、教役者職にふさわしい訓練を全く受けたことがなかったからである。彼は、その状況下で自分にできる最善のことを行なった。有能な教師について懸命に勉強し、まもなく自分に求められている義務を、称賛に値する以上のしかたで果たせるようになったのである。古バプテスト派の歴史家トマス・クロスビーは、彼のことを「非常に入念かつ刻苦勉励する、福音の教役者」であると語り、こう云い添えている。「学者的な教育という利便は得ていなかったにもかかわらず、彼は、教役者職を引き受けた後、高名なエーンズワース氏(ラテン語-英語辞書の著者[1660-1743])の助力を仰ぎ、自らの勤勉さによって、言語および他の有益な学問の領域で相当に優秀な知識を獲得し、もともと顕著に見られた種々の天賦の才質に磨きをかけた」。

 スティントン氏は牧師として熱心であり、私たちにはあまり多くのことが知られていないが、彼はアン女王時代[1702-07、1707-14]およびジョージ一世の治世初期におけるサザクで大いに力をふるった。この牧師は時代を先取りしており、プロテスタント王位継承法が王冠をブラウンシュヴァイク家[ハノーヴァー家]に渡すことで凱歌をあげる前から、非国教徒のための慈善学校を設立することができた。彼はまた、教派の年代記作成作業のための史料収集も行ない、こうした史料を大いに用いてクロスビーは彼の『歴史』の編纂にあたったものと思われる。ピューリタン関係の歴史家ニールも、こうした書類を数年間手元においていたが、特にそれらを利用することはなかった。ベンジャミン・スティントンの側における、もう1つの卓越した奉仕は、1717年のバプテスト基金の設立において彼が果たした役割である。この基金は現代に至るまで続いており、スポルジョン氏は、その管財人のひとりとして、この基金の健全な管理に常々それ相応の関心を払っていた。それは、高齢の、あるいは困窮した教役者たちに多額の金額を毎年分配することによって、きわめて有益な働きがなされているためであった。

 ベンジャミン・スティントンの死は、この会衆に分裂を引き起こした。一部の人々がその後継者にウィリアム・アーノルドを望んでいたにもかかわらず、もう一方の人々はケタリングのジョン・ギルに白羽の矢を立てたからである。当時のジョン・ギルは、ウォータービーチを離れた時のスポルジョン氏とほぼ全く同じ年頃の若者であった。会堂はその頃ゴート街にあったが、その後少ししてから、もっと便利な建物がユニコーン広場に建てられた。これがとうとう手放されたのは1757年、以後はトゥーリー街カーター通りに会堂が設けられた。そして、これこそ、ニューパーク街会堂の建築を余儀なくさせた移転が起こるまで用いられた集会所だったのである。この十八世紀の会堂跡地を探してみたいという関心を起こす向きがあるとしたら、それはロンドン橋の南、鉄道駅広場への入口あたりに見られるであろう。

 このとき、五十年以上も保持することになる牧師職を継いだジョン・ギルは、ケタリングの人で、1697年生まれだった。少年時代と青年時代の彼は、その天才児ぶり神童ぶりで名を馳せていた。また、市場の人々の口に膾炙していた1つのことわざは、彼の性格全般をよく示している。――「そりゃ、ジョン・ギルが本屋にいるのと同じくらい確かなこった」。彼が誕生した直後に、たまたま軒先を通りかかった見知らぬ人は、この子はやがて偉い学者になるだろう、と頼まれもしないのに予言したという。彼は1716年に説教を始め、すぐにある程度の注目を集めた。しかしながら、もしかすると彼は、サザクの批判的な聞き手たちの一部にとっては、あまりにも強硬なカルヴァン主義者だったかもしれない。彼らは、ギルの選出に激しい抗議の声を上げ、その不満は、彼らが自分たちの申し分を、当時ハノーヴァー珈琲館に集まっていた教役者たちの coterie(同人会)に提出するまでになった。なすべき唯一のことは、論争者たちのどちらの派も、それぞれ自分の推す人を立てて、意見を異にする人々とは平和に共存することであった。事実を云うと、この若き説教者に反対した人々は、スポルジョン氏を最初軽視した人々が彼の素晴らしい賜物にほとんど気づかなかったのと同じくらい、ジョン・ギルの実力に気づいていなかったのである。彼は、スポルジョン級の人物ではなかったものの、たちまち自分の教派の最上級の人物であるとの折り紙をつけられることになった。その特異な性格は別にしても、彼は当代随一の学者のひとりであり、著述量から判断する限り、その時代中、最も勤勉な著述家であった。ロンドン市中に住むのが一般的であった時代に、彼はグレースチャーチ街に快適な居を構えた。その嗜好と習慣について云えば、彼は十八世紀の人であった。

 ヘブル語学者としてのギル博士に匹敵する人物は、同時代にほとんどいなかった。今なお、多数の青年牧師たちに毎年、書籍を交付していたバプテスト基金に助けられた彼は、貴重なヘブル語著作の数々を購入することができた。そして、タルムード[ユダヤ律法とその解説]やタルグム[旧約聖書のアラム語訳]を原語で読めるほど堪能であったギルは、この長所を思う存分に活用した。彼は聖書講解を目的として組織的な読書を進め、十二年以上の労苦の後で、かの長大な注解書の刊行にとりかかった。それは初版では九冊もの二折判の書物となったものである。この業績により、その著者には、アバディーン大学マーシャル学寮から名誉神学博士号が贈られることになった。さらにこの著作には、かの敬虔なハーヴェイも魅了され、特に彼にとって、『ソロモンの雅歌』の注釈は「天国の楽園」であった。スコットランドの大学[アバディーン大学]から受けた栄誉についてギル博士は、いかにも彼らしい口ぶりでこう評している。「私は決してそれを考えたことも、買ったことも、渇望したこともない」。

 注解者として無類の業績を成し遂げた一方で、ギル博士は熱烈な論争家でもあった。休みを知らぬ彼の勤勉さは、今やロンドン人士の口に膾炙するようになった1つのことわざが、次のようなものだったほどであった。「それは、ギル博士が書斎にいるのと同じくらい確かなことさ」。しかしながら、ある日、彼はその私室にいないことがあった。その一時的な不在は摂理的なものであった。一連の重い組合わせ煙突が、屋根を突き通して落ちてきて、書き物卓子を粉砕したからである。この博士には、ほんの初歩的な社交的資質も持ち合わせがなかったように思われる。彼は、まるで隠遁者のようにその書斎で暮らし、会話能力がほとんど、あるいは全くないかのように思えるほどであった。当時ロンドンで暮らしていたサミュエル・ジョンソン[英国の文人・辞書編集家・座談家(1709-84)]にしてみれば、彼自身は談論を人生の主たる務めと考えていただけに、これは人生そのものに対する深刻な障害と思われたであろう。前世紀[十八世紀]中頃のロンドンは、ロンドン市中で事業を手がける貿易業者や商人たちがそこに住んでいる時代で、振り返って見ると、それなりの魅力を有していたように思われる。そのような街に、いかなる社交的な楽しみをあったに違いないことか。これほど大規模な友人たちの輪が、これほど比較的小さな領域内に全員暮らしていたのである! このようにギル博士がグレースチャーチ街に住んでいる間、彼の義理の息子であり出版者であるジョージ・キースは、その「聖書と王冠」の間近にいた。他の友人たちも、やはり書籍販売業者だったが、リトルブリテンの『キングズヘッド』のウォード氏や、王立取引所付近のキャッスル横町のホワイトリッジ氏などがいる。時代は、現代よりもずっと社交的だったように思われる。それは、人々にずっと多くの余暇があったためかもしれない。少しでも地位のある人々は、いやでも何らかの倶楽部あるいは coterie(同人会)に属さなくてはならなかった。それで、その会話における内気さにもかかわらず、ギル博士の出席は、グロスターシア珈琲館に集まる倶楽部の会員の輪を完璧なものとするには欠かせなかった。当時そこでは、毎週決まって火曜日に、クリップルゲートのトマス・ワトソン氏が、あらゆる教派の非国教会教役者たちに、正餐を供していたのである。教会の会員たちも、降誕祭には大晩餐会を開き、そこでは貧民たちの欠乏に関する話が、会話の適切な話題であった。

 その晩年に、ギル博士はキャンバーウェルに住んだ。だが彼は、その体力をよく保持し、最後まで眼鏡なしにごく微細な活字も読めたにもかかわらず、その長生きがあだになり、自分の仕えてきた会衆が衰微していく姿を目にすることになった。彼の信徒たちは、それまでと変わらず彼の牧会を高く評価していたが、補佐となる教師を雇いたがっていた。だが彼は、そのような手配に頑強に反対した。「キリストは牧師たちを与えたが、副牧師などお与えにならなかった」、と彼は云った。そして、これは、このように不快な主題について以後、何も語ってはならないというしるしであった。

 十八世紀の中頃における非国教徒の会堂における聖詩詠唱は、非常に原始的な状態にあったと思われる。年間四ポンドといえば、信徒席案内人にとっては良い報酬と考えられていたが、ただの前唱者は、年間四十シリングの固定給で満足しなくてはならなかった。そうした場合には無理からぬことだが、音楽的な素養を有する人々にとっては、そうした歌唱のあらが耳につくことがあった。特に、ある立派な婦人は、何らかの改善策を講じてもらいたいと強く感じ、その目的をかなえるため大胆にも、この注解者自身を訪問した。前唱者の問題点について、確たる根拠に基づいた彼女の不平をあれこれ聞き終えた後で、ギル博士は尋ねた。「伺いたいが、あなたのお好みなのは、いかなる歌ですかな?」 「ダビデの歌がとても好きですわ、先生」、とこの老婦人は答えた。「では、もしあなたがダビデの唄い方を調べてきてくださったら、わしらもそう歌ってみるとしましょう」、と博士は答えた。

 牧師として説教者として、この善良な博士は、一世紀後にスポルジョン氏その人にも起こったような数々の経験に直面した。ある男は、説教が終わると、講壇につながる階段の下で牧師を待ち受けていて、「これが説教ですか?」、とか、「これが、かの偉大なギル博士ですかい?」、などと問うのを常にしていた。博士は、こうした不快な云い草に、大して苛立つような人ではなかったが、ある折に彼は、かなりぶっきらぼうに云った。「のぼって行って、もっと上手にやってみせろ!」 それは、バプテスト派の教役者たちでさえ幅広の白襟を着用していた時代であった。それは彼らを非常に聖職者めいた様子に見せるものであった。あるときひとりの婦人が、この博士の胸当ての長さに強い印象を受けたあまり、その後すぐに二丁の鋏を持参して彼の住まいを訪れ、それを切り詰めさせてほしいと申し出た。その同意はすぐに得られたものの、賛成された長さまで白襟が短くされたとき、この博士はこう述べた。「さて、わが善良なる姉妹よ。今度はわしの云うことも聞いてくださらんか」。同意が得られたので、牧師は先を続けた。「あなたには、かなり長すぎる部分がおありだ」。そして好きなように使ってよいと借り受けた二丁の鋏を手にして彼は、にこりともせずに、こう云った。「さてと、では、善良なる姉妹よ。あなたの舌を出しなさい!」

 ギル博士は1771年10月に死んで、バンヒル墓地[非国教徒の共同墓地]に埋葬された。彼の生涯と事跡に関しては多くの葬送説教が出版された。彼の知己であったトップレディは、彼のことを、ただバプテスト派の指導者であるばかりでなく、自分の時代の最大の神学者だとみなした。

 この偉大な注解者の後継者を選出しなくてはならなくなったとき、信徒たちの大多数の選択はジョン・リッポンの上に下った。当時の彼は、ブリストル大学の学生で、二十歳であった。一部の会員たちは脱退したが、その牧師が、総額三百ポンドを彼らの会堂建築の補助として授与するように提議したときには、素晴らしい友愛精神が発揮された。そのうちに脱退者たちは、自分たちの過ちを思い知ったであろう。彼らが後にした教会は、みるみるうちに成長したからである。

 リッポン氏には、その前任者が有していたような才能も学識もなかったが、彼は人の敬慕を集める性格の持ち主で、非常に勤勉な人であった。教会と会衆は、人数も財産も増し加えられた。そして、この牧師が非常に高い地位を占めていると考えられていたため、彼の意見は、あらゆる教派会議の中で非常な重みを持っていた。堕落した時代にあって、戒規はよく維持されていたように見受けられる。観劇や、骨牌遊びや、舞踏などといった気晴らしは、厳格に禁止されていた。教会員たちは、ヴォクソール遊園――当時非常に流行していた娯楽場――のような場所さえ避けることが求められていた。また、熱狂主義者たちが、しかるべき認可も得ず、勝手にキリスト教信仰を教えることもできなかった。富裕な人々のきわめてすぐれた特徴の1つは、貧民に対する彼らの気前の良さにあった。というのも、こうした気前の良さは、単に一般的に扱われただけでなく、1803年にリッポン博士は、何棟かの私設救貧院を設立したからである。後にこの施設は再建され、スポルジョン氏から総額五千ポンドの寄付を受けることになった。1792年には古い会堂を拡張しなくてはならなかったが、その当時、何らかの特別の機会になされる献金額が四十ポンドから五十ポンドに達していたという事実は、この会衆のゆとりある状態を示している。

 第一級の才能の持ち主ではなかったものの、リッポン博士は相当な文学的抱負を表わしていた。彼の編集した賛美歌集は、長きにわたってことのほか人気を集め、その著作権は大荘園を所有しているに等しかった。彼の未完公の著作には、バンヒル墓地の完全な歴史があり、その草稿は今でも保存されている*1

 リッポン博士の牧師職は、記録上は最長のものの1つである。それは1836年に途絶えるまで六十三年の長きに及んだ。彼は、1832年春にニューパーク街会堂の最初の礎石が据えられたとき、八十路を越えていた。長生きのあまり、もはや有用な役には立てないと思われてはいたが。人々が、カーター通りにあった古い聖所から強制的に追い出され、ニューパーク街のようにじめじめした低い土地に安住の地を求めなくてはならなかったのは、まさに大災厄であった。その敷地は、会堂を建てるには、この上もなく辺鄙な場所にあり、それに伴う不都合な点はあまりに多すぎたため、それから二十年後に、その魅力に乏しい現場を最初に訪れたスポルジョン氏が、この会衆は見たところ絶滅に瀕している、と思ったのも無理はない。現在のロンドン橋の建築業者たちが多くの建物を一掃せざるをえなかったとき、そこには自然と、どの敷地に移るかという熾烈な競争があった。そして建築業者たちがニューパーク街を選んだのは、おそらく、その土地が廉価で古い川に近かったためであろう。

 リッポン氏の牧師職の後を継いだのは、現在のリージェンツパーク・カレッジのジョーゼフ・アンガス博士で、当時は二十一歳にしかなっていない若者であった――牧師の選出が必要とされる場合、非常に若年の牧師を選ぶという、この教会の由緒ある慣習は、まだすたれていなかったのである。彼はニューカースルの出で、その町の公立中学校に通った後、ステップニー神学校およびエディンバラ大学で次々に学んだ。このニューパーク街においてこそ、アンガス博士は、その懸賞論文『教会の既成体制』を書き上げたのである。これは、同じ主題に関するチャーマズ博士の見解に対する返答であった。このエディンバラの教授[チャーマズ]は、ロンドンでこの主題について連続講義をしていたのである。アンガス博士は1840年にその職を辞し、バプテスト宣教協会の総裁職を引き受けた。

 1841年から1850年まで牧師職に就いていたのはジェームズ・スミス氏であった。彼は、それ以前はチェルトナムに駐在していて、やがて再びその町に帰っていった。彼は良い説教者であり、多数の刊行物の著者であったが、ロンドンの空気は彼に合わなかった。そして、最終的には医者の勧めに従い、より清浄な空気を求めて転地したにもかかわらず、1861年、51歳という比較的若い年に死んだ。彼の後を継いだのはウィリアム・ウォルターズ氏で、後にバーミンガムに異動した。彼が辞任したのは、スポルジョン氏が講壇の空席を埋めるように招聘された直前のことであった。

 こうした概略から見てとれるように、スポルジョン氏が牧師職を受けるように招かれた教会と会衆は、この若き説教者がウォータービーチを離れたときには、まさに約二百年の古さを数えていたのである。彼は、自分たちの前任者たちのことを誇りにしており、特にその初期の時代には、大きな満足をもってギル博士の時代について言及するのだった。また、注目すべきことに、新しい牧師を選出する必要が生じたときには、ほぼ必ず分裂が引き起こされた。だが、分離者たちはすぐに、彼らの行動を促した種々の恐れがいわれのないものであることを見てとった。さらに奇異なことは、その牧師たちが連続して、かくもしばしば二十歳前後で選ばれ、死ぬまで職にとどまった、ということである。おそらくこの国の他のいかなる会衆といえども、百十七年もの期間中に二回しか牧師が選ばれなかったというような記録を示すことはできなかったであろう。このようにしてギル博士はその牧師職に1719年に就き、彼の後継者リッポン博士は1836年まで在任していたのである。それに次いで長い牧師職は、スポルジョン氏自身のそれであり、それはほとんど三十八年間の長きに及んだ。

 ギル博士がロンドンに到着したとき、非国教徒たちは《三位一体》に関する議論で揺れていた。十八世紀が進むにつれて、多くの会衆は、正統的信仰内容という、彼らの古い係留地から漂い流れていった。だが、サザクのこのバプテストたちは、過ぎ去り行く数々の嵐によっても全く影響を受けずに進んでいったのである。

ギル博士の椅子


*1 この作品は、民法博士会館の紋章院で閲覧できると思うが、二折判の本で十二巻にものぼるものである。[本文に戻る]


HOME | TOP | 目次 | BACK | NEXT