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第14章

古い様式と新しい様式

ロンドンでの働きが始まる――旧来の講壇の模範――「偉大な」説教の特徴――当時の他の教役者たち――「金の握りつき散歩杖の時代」――エヴェレット教授の回想――ロンドンにおける状況――W・フォード氏の思い出――シャフツベリー卿の働き

 スポルジョン氏のロンドンにおける偉大な働きは、この説教者自身も、彼の友人たちも、その事実によく気づいていないうちに開始された。確かにいかなる人も、英国講壇史に新時代が開かれたことをまだ理解してはいなかった。だが、そのうちに、ジョンソン博士[1709-84]の時代以来流行していた、きらびやかな雄弁術の様式は、より自然な形の話術に道を譲ることになり、ウォータービーチ出身の若き説教者は、その主たる模範となるのである。

 むろん、ニューパーク街の若き牧師に、驚嘆するほど新奇なものがあることを、人々はたちまち見てとることができた。だが、無理からぬことながら彼らは、現代に最も大きな影響を及ぼした新機軸の1つが導入されたことを、いきなり悟ったわけではなかった。一部の重箱の隅をつつく類の批評家たちが、そのサザク区の集会所でなされている講話の主要な特徴であると察知したのは、彼らのいわゆる「サクソン語[英語のヤマト言葉]」であり、それは高尚な高みへと舞い上がれない人物においては、1つの利点かもしれなかった。ジョンソンやギボンのラテン語的な様式が、今なお卓越さをはかる彼らの基準だったのである。今日の観察者にとっては相当奇異に思われるであろうが、このような基準こそ、アディソンやゴールドスミスのみならず、マシュー・ヘンリーやクーパーの文章中に存在していた、はるかに優越した模範を尻目に、偏愛されていたものだったのである。様式についてもサクソン語についても、ほとんど、あるいは全く知ることのない一般民衆について云えば、スポルジョン氏の語る言葉遣いは字引を引かなくとも理解できるものだったので、彼らは喜んで彼の話を聞いていた。

 疑いもなく、ほんの若僧でありながら、数世代にわたって行なわれてきた流儀に対して、断固たる反抗を故意に掲げ、自分独自の方式を打ち立てるなどというのは、増上慢に見えたに違いない。実際これが、彼に対して浴びせられた非難の1つであったと思われる。またスポルジョン氏は、そのロンドンにおける経歴のごく初期から、その非難に多少とも答えることが必要だと悟った。彼は、この状況下で考えうる限り最善のことを行なった。新しい説教方式が導入されたことを認めたのである。だが彼は、自分がそのように行動したのは、新方式の方が古い方式よりもすぐれていてると判断したためだと説明した。

 スポルジョン氏を先駆者のひとりとする新機軸の重要性を最もよく理解するには、当時の主要な講壇上の雄弁家たちによって例示されていた説教様式を思い起こすことである。例えば、そこにはジョン・エーンジェル・ジェームズ(1785-1859)がいた。スポルジョン氏自身、非常に称賛していた人物である。ジェームズの小伝において、R・W・デール博士の告げるところ、「1819年5月、ロンドン宣教協会における彼の説教は、長く記憶され、数ある『大いなる労作』の中でも最も非凡なものの1つであると語られた。そうした労作こそ、その当時、サリー会堂における年次説教を、5月の週の主たる魅力としていたものだったのである。……彼の初期の時代に説教された偉大な説教のすべてと同じく、それは memoriter(記憶によって)なされ、草稿を手にして講壇に座っていた彼の弟は、一瞬でも説教者が言葉に詰まったら『せりふを付ける』役目にあったが、形容詞や、接続詞や、前置詞の1つに至るまで、ほとんど何1つ忘れることはなかったと私に告げたものである」*1

 この種の説教は、序論・区分・下位区分・転調・適用・熱弁の結論からなる、入念に彫琢されたものであり、人々が驚嘆と賛嘆の念をもって耳を傾けるだろうものであったが、説教の最大の目的に答えようとするものではなかった。そして私たちには、デール博士が、その若い時代の、尊敬に値するこの同僚について、次のように語っている言葉を信ずべき理由は十分にある。「私が思うに、彼が最高だったのは、偉大な労作を生み出さなくてはならないという義務感に全くとらわれていないときであった」。ストートン博士も、ジェームズの修辞法について、それはホランド卿から熱烈な賛辞を引き出しはしたものの、「装飾過多で、大仰すぎる」と語っている。

 もうひとり、当時の講壇の名士であったのはヘンリー・メルヴィルである。彼について故E・パクストン・フッドはこう評している。――「精妙な説教とは、私たちに云わせれば、メルヴィル氏の説教のことである。また、そのかげには途方もない苦心があったと云われている。彼がロンドンのカムデン会堂で説教していた間、その講話を書き上げるまでにいかに気を遣っていたかについては、おびただしい数の馬鹿げた噂が巷間に伝わっていた。聞くところによると彼は、週日のうち毎日ほぼ8時間は書斎に閉じこもり、ぴったり扉を閉ざして、だれも近づくことを許さなかった。その間、彼は自分の講話が、あたかも二千人の人々に向かって語る説教ではなく、未来永劫にわたり規範となるものであるかのように鏤骨砕心していたという。私たちは、そのすべてを信じたわけではないし、今なお一部の人々は針小棒大に云いふらしていると信じたい気がする。すなわち、彼らが請け合って云うところ、こうした期間に彼は、自分の講話を二度、時には三度も書き直し、その後で彼の夫人がそれを講壇用に明瞭で読み読みやすい字で転記したのだというのである。実際にはこれほどひどくなかったとしても、それでも、福音のご用の意図をこのように誤解するというのは、恐ろしいことではないだろうか?」*2

 より単純で、より自然な様式の説教を導入し始めたのは、スポルジョン氏だけであったわけではない。もちろん、そこにおいて彼の占める割合は主たるものであったに違いないだろうが。エドワード・ホワイト氏の主張によると、ウェイハウス会堂の故牧師も、この働きの一翼を占めていたということである。――「彼は時代を画する人物であった。もっとも彼は、時代を画したのと同じくらい、時代を書いた人物だったかもしれないが。摂理はこの卓越した人を、会衆派の非国教徒たちが、どこか堅苦しいジョージ王朝時代[1714-1830]の慣習の中から引き上げられる必要のあった、まさにその時期に、彼らに影響を及ぼすべく与えたように思われる。……絹とラベンダーの時代、また、婉曲な語句によって探求が抑圧されおおせていた時代は、終わりを迎えつつあった。チャールズ二世の時代以来受け継がれてきた因循な思考様式の多くが過去のものとなることは避けられなかった。そして、いかなるひとりの人物にもまして、この改革を大きく押し進めたのは、ビニー氏であった」*3

 ロンドンに最初に来てから正確に二十年後になされた、自分の卒業生たちへの講演の中で、スポルジョン氏が、古い時代のことを「金の握りつき散歩杖の時代」と描写したのを私は小耳にはさんだことがある。また、彼は時おり、こうしたロンドンの講壇に光彩を添えていた古式ゆかしい人々は、何よりもまず紳士であることを心がけており、それ以外に自分が何であろうとあるまいと、それは二の次にしていた、と云うのだった。そうした言及は、仔細に吟味してみると、一部の人々がえてして思い込むほどに誇張めかしたものではない。

 貧民学校組合のR・J・カーティス氏は、スポルジョン氏と「金の握りつき散歩杖の時代」に関して、以下のように伝えている。――

 「彼が最初に受けた印象は、民衆と講壇との間に接触が欠けているということだった。教役者たちは、一種の王侯か祭司のような威厳をもって民衆を威圧し、民衆は一種の奴隷的な臆病さに縮みあがり、このように威厳ある大人物たちと気安く接するようなことは全く考えてもいなかった。彼はこれを打破しようと決意し、それを巨人の一撃で成し遂げた。それで、こうしたけちな威厳はすぐに息を引き取ったのである。スポルジョン氏を非常に尊敬する私の友人のひとりは、このような話を伝えている。――『スポルジョン氏は、週日の間、確かベクスレーで説教をしていた。礼拝の後には非常に大勢の人々が残って、彼を見よう、そして、できれば彼と握手しようとしていた。これを知らされた彼は、「私は一時頃戻って来て、諸君と握手するよ!」、と云ったものである』」。

 スポルジョン氏がそのロンドンでの経歴の端緒についたばかりの頃、いかなる人物であったか、また彼の前にいかなる種類の世界が開けていたかは、すでに引用したJ・D・エヴェレット教授の回想の中に活写されている。エヴェレット氏は、かつてのニューマーケット時代の同僚がニューパーク街に落ちついた直後に、彼のもとを訪問した。

 「私は彼と半日間一緒に過ごしました」、と彼は云っている。「そして彼は私に、自分の成功について余すところなく、腹蔵なしに打ち明け、有名人たちが絶えず自分の話を聞きにきていること、シェリダン・ノールズ[英国の劇作家(1784-1862)]のような本職の演説家たちが、自分の説教のしかたについて熱烈な賛辞を呈していることを、とうとうと述べるのでした。

 「彼は私に小さな筆記帳を何冊も見せてくれました。そこには、彼の朝の説教が、読みやすい、丸みを帯びた書体で書きつづられていました(彼の夕べの説教は、それほど丁寧に準備されていなかったのです)。そして彼は、このように書き記された説教の1つを私に読んで聞かせました。それは、覚書や控えの羅列ではなく、それ自体完全なもので、読むだけでほぼ15分ほどかかりました。察するに、実際に説教されるときには、それが三倍ほどにふくらまされていたに違いありません。彼は常に自分の意図していたことを、自分の意図した通りの正確な時間で語ることができると云いました。

 「彼の評判は当時、世間一般には知られておらず、私は彼によって初めてそれを知りました。人が自分自身の業績について、あれほど大口を叩くというのは、どこか滑稽なものがありましたが、それは純然たる事実であり、彼はそれを子どものような素朴さで告げていたのです。自分に偉大な力があるということは、彼にとってただの事実でしかなく、それは鳥に飛ぶ力があり、魚に泳ぐ力があるのと同様、彼には何の自慢の種にもならないことでした。

 「彼の最も際立った特徴の1つは、彼がその働きを完全に平然と行なうしかたであり、彼はこの長所を完全に自覚していました。確かに彼は、ロンドンに最初に出た時から、徹底的に自分に自信があったに違いありません。彼は、自分が行なおうとしていることを知っており、それを彼独特のしかたで成し遂げ、反対者の批判など意に介しませんでした。蔑まれても、誤伝されても、悲嘆に暮れたりしませんでした。

 「常に平然としているというこの特徴こそ、彼が不遜であると云われるもととなったものでした。私は、このことに関連して、彼に云ったことを覚えています。すなわち、人は自分の《造り主》の前ではある程度の畏怖を覚え、それを表に出すべきではなかろうか、と彼に云ってみたのです。彼の答えは、畏怖は自分の性分には全くなじみのないものである――自分は、自分の《天のお父様》とともにいるときは完璧なくつろぎを感ずる、というようなものでした」。

 この時期のロンドンは、よほど強靱な精神をした者でない限り、暗鬱な気分にさせられ、ことによると浮き足立たされかねないほど陰惨な様相を呈していた。この町の特定の地区では、実際に恐慌にも似たものがはびこっており、見聞きされる状況は、時代の観察者の一部に十七世紀の悪疫のことを連想させたに違いない。こういうわけで、9月9日の土曜の朝、ゴールデンスクエアの付近で見られた情景は次のように描写されている。――「霊柩車や葬送用馬車が見られない通りはほとんどない。小売商たちは大挙して店を離れて逃げ出し、閉まった鎧戸には、数日の間休業いたしますとの貼り紙がしてある。醸造業者のメサズ・ハギンズでは、窮状にある住民たちに対して、住居洗浄その他の目的のためなら、昼夜を問わず、いくらでも温水を汲んでいってよい旨の通告が発されている」*4

 当時の公式報告は以下の通りであった。――「9月3日から9日にかけての七日間に記録された死者は3,413名、そのうち2,050名の死因は虎列剌であった。この虎列剌は、ロンドン全域で散発的に発生し、九週間の間に発生した死者はそれぞれ、9名、26名、133名、399名、644名、729名、817名、1,287名、2,050名、すなわち、総計にして6,120名の犠牲を出した。この大発生よりも、1849年の大発生の方が始まりが早く、同時期には、すでに十六週間の長きにわたって、10,143名の命を奪っていた。今回の悪疫も同じような惨禍をもたらすのだろうか? 時期などおかまいなしに突如勃発しては、決まった数の犠牲者をいやでも取り立てていくのだろうか? このようなことが、先週の間、公共衛生を監督する人々が極度の不安とともに発していた問いであった」。それから、こう付言されている。「今なお生死の危機に瀕している数千の人々を救うためには、いかなる努力も惜しむべきではない。そして、以前あまりにも顧慮されることの少なかった、かの戦慄すべき教訓を二度と忘れるべきではない。――すなわち、もはや人間は、年々歳々、汚染された水を飲み続け、不潔な空気を吸い続け、衛生手段をないがしろにし続ける限り、しっぺ返しを受けずにはすまない、と」。

 この町の人口密集地域に居住する定めにあった他の人々と同じく、スポルジョン氏は、この恐るべき訪れに心を大きく揺さぶられた。だが、この若き牧師には、1つの励ましとなる経験があった。その件については、ウェストミンスターのW・フォード氏が次のように言及している。――

 「スポルジョン氏のロンドンにおける第一年目である1854年、彼の教会の近辺、および彼の住居の近隣では、虎列剌が猛威を振るっていた。その教区の当局者たちは、貧民層について親身に考えており、街角という街角に、大文字で『虎列剌』と題された通達を積んで置かせ、どこに行けば無料の助言と医薬品が支給されるかを大衆に通知していた。当時私は大ドーヴァー通りに住んでおり、スポルジョン氏は、ほんの少しグリニッジ寄りのヴァージニア台に住んでいた。上述の通達を角々に見た私は、これは人々をすくみあがらせずにはおくまいという強い印象を受けた。ある友人とも意見の一致を見た私は、その通達を一枚手に入れると、その真ん中に次のような言葉を書き記した。――『それはあなたが私の避け所である主を、いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。わざわいは、あなたにふりかからず、えやみも、あなたの天幕に近づかない』[詩91:9-10]。この通達を、私は自分の店の窓に貼り出し、何百人もの人々がそれを読んだが、一言も嘲りの声や不適切な評言は聞かれなかった。――人々は、このすさまじい訪れによって、それほど打ちひしがれ、厳粛な思いにとらわれていたのである。その通達を読んだ人々の中にスポルジョン氏がおり、彼はこの出来事を『ダビデの宝庫』という彼の著作の中でまざまざと叙述している」*5

 詩篇91篇の注解の中で、スポルジョン氏はこの出来事に言及し、このキリスト者商人が店の窓に啓示した、この霊感された言葉を読んで、いかに心をすがすがしくさせられ、強められたかを告げている。

 私たちの見るところ、1854年のバプテスト同盟の諸集会では、スポルジョン氏の名前が全く言及されていない。これは、ことによると、年配の教役者たちが概して彼に対して不信の目を向けていたためかもしれない。同同盟の会員たちによって議決された、以下の一般決議が示しているように、諸教会の見通しは、当時は、大きく励まされるようなものではなかった。――

 「同盟が衷心からの遺憾の意をもって認めるところ、1853年の関連報告書によって示された、諸教会における増加率は、前年までの数を下回り、同盟が記録をとり始めた1834年以来最低の、年間一教会あたり 1.1/3 名となった。また、この数字上の記述によって与えられる印象は、諸教会の減少を引き起こした一時的な諸原因――例えば、移民など――を考慮することで幾分緩和されるかもしれないが(さらに、この記述だけをとって諸教会の霊的状態をはかる十分な根拠とすることはできないが)、同盟の判断では、これは直ちに私たちに、大いなるへりくだりと、一致した活動および祈りとを大きく呼びかけるべき契機となるものである。前者は、あらゆる主のみわざの部門において、後者はその聖霊の恵み深い注ぎ出しのために」。

 先行きが暗澹に見えつつある一方で、有能な説教者が十分に供給されない点に関する不満も見られる。「ローマカトリック教からの宗教改革以来、いかなる時期においても、これほど有能な教役者たちの供給が、国内においても海外奉仕においても、間断なく増し加わるべき必要のある時期はなかった」、とある権威筋は宣言している。「この欠乏については、大英国においても米国においても、非常に大きな抗議の声が寄せられている。述べられているところ、その理由の一端は、国教会の内外における大量の教役者たちの境遇が極度に窮乏したものとなっているため、経済界が、その様々な領域で、有為の青年たちに数々の誘惑を投げかけていることにあるという」*6

 おそらくロンドンそのものが、その社会的状況の推移期にあった。この町は、外的には見ばがよくなり出しつつあったが、貧民学校運動を率いていた、かの熱心なキリスト者たちにとっては、自らの奮い起こしうるあらゆる英雄的資質と、人間性に可能な限りの忍耐力によらなくては、彼らが自らに課した務めに成功をおさめることは不可能であった。故シャフツベリー卿[1801-85]とその同僚のペイン判事は、そうした奉仕を鼓舞することに多大な時間をささげた。貧民学校教師という任務は、危険な奉仕でない試しがなかった。貧民窟は何世代もの間同じような状態であり続け、後に数々の巨大で堂々たる建物を建設するため更地にされた広大な領域は、当時は目障りであるばかりでなく、公共の危険でもあった。シャフツベリー卿は最も悪名高い地区を探査し、自分の見たものによって、絶望に近い感情にかられた。まさにスポルジョン氏がロンドンに出てきたその時期にこそ、この偉大な博愛主義者は、その簡易宿泊所規制法案を可決させたのである。そうした宿泊所は、この時点まで、貧困の inferni(地獄)であり、何万もの惨めな者らが、「人間が住むよりはむしろ豚にふさわしいような巣窟」で苦しい生活を送るか、朽ち果てていたのである。犯罪と貧困は、その領土を拡張しつつあり、子どもたちや青少年の間における法律違反の急増を目にした当局は、より多くの学校か、より多くの監獄かという二者択一を迫られた。一年の間に、「ある報告書によると、ロンドンには、乞食か盗みをして生活している十四歳にも満たない子どもが3,098人いた。そのうち1,782人は宿泊所で暮らしており、1,316人は、報告書の云うところ、『あてどなく、ぶらぶらと』暮らしていた。彼らのうち148人は親がなく、336人の親は彼らを教育し扶養できる生活状態にあると思われ、844人は親から乞食をするように町に出され、少なくとも部分的には自分の稼ぎで暮らしていた。W・ヘイ警視総監の述べるところ、十五歳未満の20,641人の子どもたちが職も教育もなく、明らかに親からないがしろにされたまま暮らしており、そのうちの941人は乞食や盗み以外の罪に問われていた」。要するにロンドンでは、少なくとも十万人の子どもたちが教育を受けずに成人しつつあったに違いない。禁酒運動はまだ搖籃期にあり、毎年おびただしい数の人々が酩酊のために逮捕されていた。

 十九歳の若者にとって、ウォータービーチの快適な土地を離れて、すでに膨れあがりすぎた、またこれまで描写してきたような特徴を有する首都での働きに着手することは、理解の及びうる以上の意味において試練であった。のっけから、自分の教会の教会員の間を虎列剌が荒し回っていたため、若きスポルジョンは、死がその最悪のかたちをとった姿と直面させられた。だが彼は決して義務から尻込みしなかった。時として、自分のロンドンにおける最初の年が最後の年であればいいのにという思いにかられはしたが。


*1 『講壇年代記』、pp.150-151。[本文に戻る]

*2 『雄弁の玉座』、p.466。[本文に戻る]

*3 『講壇年代記』、pp.327-328。[本文に戻る]

*4 『ブリティッシュ・バナー』、1854年9月13日付。[本文に戻る]

*5 W・フォード著、『苦しみのときの最高のとりで』。[本文に戻る]

*6 『ブリティッシュ・バナー』、1854年。[本文に戻る]  


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