HOME | TOP | 目次 | BACK | NEXT

----

第13章

ウォータービーチにおける最後の日々

ロンドンからの招待――ニューパーク街会堂――衰退する教勢――スポルジョン氏のロンドン最初の夜――彼の心許なさ――その会堂の第一印象――ギル博士の椅子――意見の相違――夕べの説教とその効果――牧師職の申し出と受諾――外部の人々の印象――ウォータービーチ教会簿への記入

  私たちは、今やウォータービーチにおける日々の終幕に近づきつつある。それは、この偉大な説教者が後々ロンドンで、いつまでも懐かしく思い出し続けた日々であった。彼が、首都でのより広範囲に及ぶ働きへと最初に導かれたきっかけは、偶然のように思われるかもしれない。だがスポルジョン氏その人もそれを特別な摂理と呼んだはずである。読者の方もご承知のように、いずれかの重要な教会や会衆の講壇が空席になるとき、その傑出した前任者たちの築いた声望を保てるような、前途有望な村の天才の名は、耳をそばだてて聞かれるものである。概して、すでに名をなしているような人々は、めったに獲得できるものではない。だが、どこかで日の出の勢いを見せつつあり、かつ、心配性の執事たちの目的をも同じくらい見事に果たすであろう希望の星を発見することは常に可能である。スポルジョン氏の場合、彼の非凡な才能と非の打ち所のない教えの報が、たまたまサザクのニューパーク街会堂にあるバプテスト教会のもとに届いたのは、1853年の秋、無牧となっていた同教会が焦眉の急を覚えている時期であった。千二百人を収容できるその聖所――その六分の一もふさがっていなかったが――は、広大であるばかりか端麗なものと考えられていた。教会の由緒は古かったが、会堂そのものは比較的新しかったのである。それはウィリアム四世の治下[1830-37]、現在のロンドン橋へと向かう諸道路の拡張工事のために取り壊された会堂に代わるものとして建てられた。しかるべき箇所でやがて示されるように、十七世紀以来、この人々とは、きわめて卓越した神学者らが連綿と関わってきていた。だが、先に言及した時期の見通しは、全く暗澹とさせられるものであった。教勢を保つことは日増しに困難になりつつあった。周囲はごみごみとした工場地帯で、名のある家の人々は、はるかに閑静で清浄な空気を求めて、郊外に出て行きたがる傾向をますます見せるようになっていた。これが四十年前のニューパーク街会堂の状況だったのである。そして、普通に観察すれば、奇蹟でも起こらない限り、こうした衰退の進行を食い止めることはできないように見えた。

 しかしながら、ただの見かけはあてにならないことがある。実際には何の奇蹟も起こらなくとも、この教勢の退潮を高潮に押し返すことはできた。そこには、特定の賜物と特徴を有する人物がひとりいさえすればよかった。だが、そのような人物はどこで見つかるだろうか? それこそ、この執事たちが答えたいと願っていた問いであった。そして、まさに時宜を得たときに、ひとりの友人が求められていた情報を持ってやって来たのである。求められている人はウォータービーチくんだりにいた。その友人たちのひとりが、この人物の才能にいたく感銘を受けたのは、ケンブリッジにおけるある集会で、自分が真理と判断したものを率直に固守したために彼が、いささか乱暴に叱責されたようすを目にしたときであった。故ウィリアム・オルニーは、その場の状況について耳にしたとき、この若き説教者に向かって、ロンドンの一会衆の前で自分の賜物を一度ためしてみる気はないかという手紙を書こうと決心した。オルニー氏の見地からすると、過去のあらゆる前例は上首尾な結果を約束しているように思われた。彼の属する教会は、何度となく、まだ十代にある、あるいは、ようやく二十代に達したばかりの人物をその牧師に選んで最良の結果を得てきたのである。このためスポルジョン氏が十九歳にすぎないという事実は吉兆であった。それと同じことが、五十年以上も牧師を務めたジョン・ギル博士についても、六十三年にわたってその職を占めたジョン・リッポン博士についても、十二年前に辞職したジョーゼフ・アンガス博士についても云えたからである。

 スポルジョン氏自身は、ロンドンに来ないかという申し出に、全く浮き立つようなことはなかった。彼は首都で暮らした経験がほとんどなかった。だが、『ハウスホールド・ワーズ』紙の定期寄稿欄でしばしば彼を魅了したような、荒々しいロンドンの真に迫る描写の数々は、いやがうえにも、自らのふるさとである英国東部地方の魅力を愛させる役にしか立たなかったであろう。ニューパーク街の重鎮たちには少年説教者の自宅住所が知られていなかったため、この招致の手紙はウォータービーチ会堂宛に送られ、その冬の朝、ケンブリッジから馬車でやって来たスポルジョン氏が、いつものように礼拝を執り行なおうと建物に入ったとき、この謎めいた見かけの信書は聖餐卓の上に置かれていたのである。最初彼は、それを自分宛の手紙ではないと考えた。だが、その場にいた執事のコウ氏にとっては、その申し出が、目指す相手に届いたことはわかりきっていた。別の土地になら、もっと大きな会衆の牧師をしているスポルジョンという別人がいるかもしれないが、それでもその手紙が宛先違いということは全然ありそうもなかった。説教者がその件について考えれば考えるほど、提示されたロンドン行きによって彼の前に開かれた見通しは、好ましいものとは思われなかった。こうした状況がはなはだ奇妙なものであったため、いかなる高慢や出世欲も、彼が決断を下す際に影響を及ぼしたはずはなかった。さして遠からぬ昔に彼は、ミッドサマー広場で魂の奥を貫くような戒めを聞いた気がしたばかりだったのである。「あなたは、自分のために大きなことを求めるのか。求めるな」。最初ロンドンに送られた返事には、どう見ても何かの間違いがあったようだと記されていた。だが、とうとうスポルジョン氏は、首都を訪れることに同意した。

 自分の占めていた活動の場を愛しており、ロンドンに移り住みたい野心など全く持っていなかったスポルジョン氏は、1853年12月の、とある記憶すべき土曜日に、重苦しい心で自宅を出た。実際、この用事は、彼にとって純然たる試練であって、彼の思いの中に絶えず浮かんでいた聖書箇所は、「しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった」[ヨハ4:4]、であった。私たちは、この田舎青年が、東部地方鉄道の上り線で、ショアディッチ[ロンドン中北部の町]の古い終端駅まで旅をしている姿を思い描かなくてはならない。その間ずっと彼は、ケンブリッジに残してきた人々のことを思い浮かべ、一刻も早く彼らのもとに戻りたいと切望していた。ロンドンでは、どこを見ても近づきつつある降誕祭のしるしが目についたであろう。だが、それらすべてをもってしても、彼自身の鬱々とした気分は晴れなかった。

 この若き説教者は、どこで宿をとることになっていただろうか? ロンドンの会衆の前で、一度その賜物を発揮してみるよう彼に依頼する考えに賛成した善良な執事たちは、ひとりとして、彼に宿ともてなしを提供しようとはしなかった。「お代理」には、クイーンスクエアにある下宿屋を供せたし、それが最も手配に面倒がなかった。これは、しごく上等な宿ではあったが、ぽっと出の若者にロンドンへの愛を吹き込むような場所ではなかった。この下宿屋に始終出入りしていたのは、国立教会の福音主義的党派に属する、几帳面な信心家たちであった。彼らの会話はフェンズの沼沢地から出てきたばかりの青年を鼓舞するような類のものではなく、その青年は、この世界の商業と文明の一大中心地に、徒手空拳で新しい道を切り開かなくてはならなかったのである。休憩室にいた上品な人々は、この新来者が彼らの仲間に属していないばかりか、いくつかの点で、まるでお上りさんであることをたちまち見てとったであろう。彼らはみな、彼の衣服がボンド街やリージェント通りで仕立てられたものでないことを一目で見抜いた。また、彼が首に巻いていた、ご大層な見かけの黒繻子織り襟巻は、スタンボーンの先祖からの遺贈品のように見え、そこから時折のぞく赤と白の木綿の手巾は、洗練された洒脱さを理想とする人々を困惑させたとしても無理はない。こうした善良な人々は、この丸顔の少年が翌日、ロンドンの大会堂の1つ、それもこれまで幾多の著名な人々と結びついてきた会堂で、実際に説教をすることになっていると知ったとき、目を白黒させずにはいられなかった。もっとも彼らは、あまりにも礼儀正しかったので、自分たちがどう感じたかをそのまま表わしはしなかったが。

 とはいえ、その頃のロンドン各所の講壇で威を振るっていた、力ある、奇蹟的に雄弁な説教者たちについての信頼の置ける情報で、彼らの若き友を楽しませようという誘惑は、抵抗するにはあまりにも大きすぎた。「そのころは、巨人たちが地上にいた」のであり、こうした国教会の福音主義者たちは、彼らの細かな特徴まで知り合っていることに鼻高々としていた。ある方面で教役者として働いている誰それ氏は思慮深い人々にとって神の託宣ですよ、別の地区にいる何某氏は、人々にとって抗しがたい魅力がありますね、それから、他のもうひとりが及ぼしている影響力は、その話を聞きに都心部の商人たちがいっぺんに一千人も押し寄せるほどなのですよ! 他にも、その力強い声量と雄弁さとで、人間の評価をまるで寄せつけないような人々はいたかもしれない。だが、そのような世界的名声を有する人々と同じ町で寝なくてはならないという考えそのものが、この田舎上がりの伝道者にとっては、気力をなえさせるに十分だった。彼は、もうほんの数時間もしないうちに、リッポン博士の講壇に立たなくてはならないことを予期して縮みあがっていたのである。こうしたすべてに追い打ちをかけたと思われるのは、その下宿屋の主人が、街路側の表戸口のすぐ上の、寝返りもできるかできないかというくらいに小さな場所を、スポルジョン氏の寝室に割り当てたことである。そこでは、表通りの騒音のため安眠など不可能であった。とうとう朝がやって来たとき――それはロンドンの陰鬱な十二月の朝であった――、その下宿屋の休憩室にいた福音派の国教徒たちは、その天才と働きによってまばゆい光輝を首都に添えていた英国講壇の精華たる人々の話を聞きに、三々五々出かけていった。彼らのうちのだれかが、このフェンズあがりの奇妙な風体の来訪者に付き添い、目的地まで出かけてくれることなど、望むべくもなかった。第一おそらく彼らは、バプテスト派の集会所などという異様な場所にはほとんどなじみがなかったであろう。

 ロンドンに全く不案内なこの若き説教者が、その日曜の朝、宿を出てからなすべき最初の仕事は、ニューパーク街までの道を見つけ出すことであった。ホルボーンの非常な大往来に足を踏み入れてから彼は、丘を下り――当時は陸橋のことなどほとんど考えられてもいなかった――、再びファリンドン通りに入り、古いブラックフライアーズ橋、あるいはサザク橋を通り過ぎてから、ついに、あれほど記憶に残る歴史と結びついた会堂に到着した。そこに入る前に彼は、またしても心許ない気分に激しく襲われたように思われる。だが、ロンドン行きが自分から求めたことではなかった以上、彼は大胆に前進し、自分に期待されていることを行なおうと決心した。その集会所は、外側が黒ずみ、人を寄せつけない見かけだったのと同じくらい、内側に入ってみると、鬱陶しく、気をふさがせるものに見えた。だが、これらすべてはスポルジョン氏の精神状態と全く合致していた。彼はまだ、「しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった」、という言葉のことを考えていたのである。

 それと同時に彼は、その建物の中に実際に入ったとき自分を取り巻く物事に関心をいだかざるをえなかった。そこには、暖かな心をした友人たちが彼を出迎えているとともに、卓越した過去の記憶のよすががあちこちに残っていた。ギル博士の椅子に座ってみたいという誘惑には抗しがたいものがあったし、数々の肖像画などもあり、このような訪問者が大いに興味をもって見聞きしたであろうようなものがそこここにあった。その記憶すべき日曜日の朝に、この古い会堂に出席していた人々のうち、何名かはまだ存命している。だが、この折の思い出を最も生き生きと保っていた人物は、私の友人であった故ウィリアム・オルニー氏であり、彼は私に事の次第を事細かに説明してくれた。

 スポルジョン氏が付属室を出て講壇に立ったとき、その眺望は普段よりもずっと心くじけさせるようなものであった。ほんの一握りの人々が建物の中に点在するだけで、全員合わせても、ウォータービーチに集まったはずの会衆よりも、あるいは、その村の近郊で特別礼拝が行なわれる際に集まるであろう人数よりも少なかった。その場所に関わるすべてのものが、過去の繁栄は過ぎ去り、最悪の状態に陥っていることを指し示しているように思われたし、これは説教者の精神に影響を及ぼさずにはいられなかった。

 説教の土台となったのはヤコブ1:17である。「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません」。ことによると、会衆の間にいた古強者のカルヴァン主義者たちは、最初の聖句がこのように《行ないの使徒の書簡》から選ばれたとき、これは良くない兆しだぞと考えたかもしれない。何はともあれ、その場にいた見る目のある人々はみな、この若々しい説教者の独創的な様式と方式に打たれた。彼の声音の異常なほどの明晰さと力強さにも注目された。しかしながら、この説教者を総体的にどう評価するか、という点については意見の相違があった。ある人々はたちまち心を奪われた。別の人々は、より洞察力に富む、慎重な批判者であるという構えで、賛意を表わすことにためらいを見せた。これらはみな非常に自然なことである。もしも偉大な人物以外の何者も、古い時代のしきたりや流行に取って代わらざるをえないような独創的な方式を導入できないとしたら、やはり一般世間を越えた見識を有する人々以外の何者も、そうした新機軸を評価できないであろう。

 しかしスポルジョン氏は、ロンドンの聴衆に福音を宣べ伝える中で実際に行なったこととは別に、自分の聞き手たちに話の種となるものを与えていた。その際、その場にいた二百人の人々は、平均すると、そのサザク区の集会所の六座席あたりひとりしか座っていなかったが、帰宅して正餐をとったばかりでなく、自分たちが聞いたこと見たことについて論じ合ったのである。彼らは新しい経験を味わってきたばかりであった。そして、ある人々が率直に自分たちは陶然とさせられたと告白する一方で、別の人々は、あのような説教は何の役にも立たないと確信していた。覚えておかなくてはならないのは、ロンドンに登場した最初の日曜日において、すでにスポルジョン氏は、来たるべき年月の間、確実に自分のものとなり続けるものの見事な模範であった、ということである。彼が行なったのは、故郷にとどまっていたとしたら、ウォータービーチにいる自分の田舎の群れに対して行なったであろうような、普通の説教の1つであり、それ以上のものでも、それ以下のものでもなかった。牧師職を「横目に」見つつ、入念に準備をした講話を語って、会衆に感銘を与えようなどというつもりは、彼には毛ほどもなかった。彼は、その用事をさっさと済ませて、愛しのケンブリッジに戻ることを切に願っていたので、そのような見込みに誘惑されはしなかった。それと同時に彼は、きびきびとした評言を語り、その様式は単純であった。そして、彼のあふれるような軽妙さが、会堂全体にわたって忍び笑いを引き起こしたであろう一方で――謹厳な執事たちも威厳ある婦人たちもその誘惑には抗しきれなかったのだ――、この若き説教者は、実際に自分でも微笑んでいるように見えたであろう。彼が福音の厳粛な真理を提示するしかたほど印象的なものはありえなかった。だが、それにもかわらず、そこには、この人物が講壇で微笑むことができ、他の人々をも同じように微笑ませることを罪とは考えていなかった、という事実があった。

 午前中その場にいた人々の大半は、晩にもちゃんとやって来たし、彼らがケンブリッジ出身の若者の奇妙な手法について伝えた噂話は、さらに相当多くの人々を引き寄せるに十分な宣伝となった。まだ十九歳でしかない奇矯な説教者は、四十年前のロンドンでは、宗教的な金棒引きたちにとって、強力な魅惑となるに決まっていたのである。夕べの説教の主題は黙示録から取られた。「彼らは御座の前で傷のない者である」[黙14:5 <英欽定訳>]。その題材は快適なものであった。説教者は午前中以来、自信を強めていた。彼は朝よりも意気が上がっていた。それで自分にも慰めをもって語れたばかりでなく、話の聞き手たちに強い印象を与えた。それは異常な機会であり、その場にいた人々も、それを異常な機会であると感じていた。その礼拝が終わった後に、人々はいつものようにおとなしくしてはいなかった。彼らは会堂の内部や周囲にたむろし、興奮状態のまま、なかなか去ろうとしなかった。そして、その大多数は、この若きウォータービーチの牧師がただちにロンドンに移住してくるよう依頼することを切望していたのである。このようにして、結局その日は成功であった。そして、クイーンスクエアの下宿屋にいた人々が、妙な恰好をした田舎者にすぎないと断じた若者は、今後ロンドンの会衆の前で説教するようためされることを恐れる理由が何1つないほど、この難局をものの見事に乗り切ったのである。辛い試練は彼が予期したようなものではなかった。彼は、失敗する見込みがはなはだ高いと考えていたときに、めざましいしかたで成功をおさめていた。そして、友人など見つかるまいと思っていた所で、数多くの友人たちを新しく得ていた。それゆえ、あの宿泊施設で晩の食事をとるのは、その日の早朝の朝食よりも、はるかに快適なことであった。この少年説教者は、もはや自分自身の生来の卑小さと、ロンドンの驚異たる講壇の雄弁家たちとを引き比べることによって、ふさぎこんではいなかった。彼は、ポットー・ブラウンが云ったように、見習い中の小坊主にすぎないかもしれない。だが彼は、人々が喜んで聞くような、語るべき福音の使信を有していたのである。今やすべての物事がより魅力的な様相を呈しているように思われた。そして、この上もなく明らかであったのは、このケンブリッジの若者が、たとい今はロンドンの牧師職を求めていなくとも、もしそのような活動の場に入りたいという気持ちになるとしたら、それから尻込みする必要は全くない、ということである。

 もちろんウォータービーチの善良な人々は、彼らの牧師に関連して持ち上がりつつあった成り行きを残念なものと感じた。だが、その村における彼の奉仕が、遅かれ早かれそのような終結を迎えざるをえないことは、よく知られていたので、彼らはそれを甘んじて受け入れた。当時スポルジョン氏が住んでいた、ケンブリッジ市、アッパー・パーク街六十番地に、ロンドンへの最初の招聘状が届いたのは、1854年1月の後半、彼が再び何度かロンドンで説教をした後のことであった。それに答えて若き牧師は、献身的な愛する人々の間で占めている自分の立場に言及し、彼らから離れるよう自分を動かす唯一の理由は、彼らが教役者を支えるに足るほど十分な俸給を工面できない事実であると云っている。これは、《摂理》の手が、別の方面の働きへの道を指し示しているように思われた。この時期のスポルジョン氏自身は、用心深く行動し、他の人々がその思慮を用いることを高く評価していた。彼は、ウォータービーチへの召しを受け入れたとき、三箇月を越えて奉仕することによって自分を縛ろうとはしなかった。そして、かの執事たちがロンドンの講壇に半年間立ってくれと依頼したときには、彼らの申し出を無条件で受諾することにためらった。彼は、もしも自分の牧会に何か問題が伴っている場合、辞職する権利を保留した。また、その一方で彼は、もし相手側が辞めるようにほのめかさざるをえないと感じ、そのようにほのめかすとしたら、それを無視するつもりもなかった。そのときの彼は、自分自身の能力を全く量ることができなかった。確かにしばらくして、自分に何ができるかを悟った後になると、彼は著しく自信を深めたが。後に人々は、彼は自分自身を信じているのだと考えたであろう。実は彼は、神がその様々な手段を通して成し遂げることができるお方であることを信じていたのである。しかしながら、1854年1月の彼は、ロンドンでの実験が自分の期待に応えなかった場合、フェンズへの退却路を残しておくことに特に熱心であった。彼の考えるところ、人々の熱狂は冷め、そのとき彼の人気は確実に退化するであろう。いずれにせよ、彼はウォータービーチを突然に去ろうとは思わなかった。人々はみな親切で、献身的であったからである。そして彼らは、もしロンドンでの申し合わせが永続的なものにならなかった場合、心から彼を自分たちの真ん中に迎え入れてくれたはずであった。

 サザクの人々が自分たちの選択を悔やむ望みも、スポルジョン氏自身が田舎に退隠することを自分の義務であると見てとるようになる望みも、失望に出会う定めにあった。この説教者の人気は、他に全く類例を見ないようなしかたで増し加わり続けた。ニューパーク街会堂は、千二百人分の座席に二百人が座っている代わりに、扉という扉に群衆が押し寄せ、彼らは座席が確保できなければ立っているだけでも満足するのだった。

 最初のうちは、スポルジョン氏に牧師職を受け入れるよう招くことに不賛成な少数の人々がいたが、最後には彼らも大多数の人々の願いを容れることになり、その招きは実質的に全会一致のものとなった。この牧師職への心からの招聘は、この十九歳の若者に謝意を表明させ、彼がそれを受諾する障害となるものは何も現われなかった。彼は、この友人たちに思い起こさせた。すなわち、自分は一度も彼らの手から昇進を求めたことはなかったし、ロンドンで説教の腕試しをすることについても、心配で心許なさを覚えていた。そして今や、この大きな見通しは自分を驚愕で満さんばかりに思われる。自分の唯一の願いは、神が自分を前進させ、道を開いてくださることである。自分はチェスタトンの郊外で神秘的な戒めを聞いたと思われたとき以来、自分のためにはいかなる野心もあえていだこうとは思わなかった。だが、それと同時に自分は、これほど高貴な歴史を有する人々の牧師となることに、何がしかの満足を感じざるをえない。自分の輝かしい前任者たち――キーチとスティントン、ギルとリッポン――のことを思うとき、自分は、このように未熟な若者が彼らの列の後に続くにふさわしい者となれるように、聖徒たちの祈りを乞い求めるものである。自分が望みとするのは、自分の用いるいかなる不用心な言葉も、自分が陥りかねないいかなる過ちも、大目に見ていただくことである。この大いなる冒険に乗り出す自分は、ただ主が自分を強めてその奉仕に着手させてくださるとの信仰によりそうするものである。これは、いかなるひとりよがりの自信でもなく、むしろ天来の力に全くより頼んでいるにすぎない、と。

 興味深いのは、ニューパーク街会堂に入って自らの目で見、自らの耳で聞こうという気を起こした鋭敏な観察者たちにとって、このフェンズ出の若き説教者がいかに映ったか、ということである。卓越した目利きであるひとりの人はこう書いている。「彼の声音は明瞭で、音楽的であり、言葉遣いは平明で、話しぶりによどみはないが簡潔で、話の流れは明晰かつ整然としており、話の内容は健全で適切で、彼の口調と精神は心情あふれるものであり、彼の評言は常にきびきびとした辛辣なもので、打ち解けた口語的なものとなることもあるが、決して軽薄なものにも、粗野なものにも、いわんや俗悪なものにもなることはない。1つの説教から判断する限り彼は、カルヴァン主義と呼ばれる形の福音を、平易に、忠実に、力強く、情愛こめて宣べ伝える説教者となるだろうと思われる。そして、私たちの判断をより好意的なものとさせることに、彼には、年齢に似合わぬ堅固さがある一方で、ごく年少の説教者に自然とつきものである美辞麗句の羅列がほとんど察知できなかった」。

 最初からクエーカー教徒たちは、スポルジョン氏がその使信を伝える際の力強い率直さを高く評価していたように見受けられる。また、十六世紀にチェルムズフォード監獄に叩き込まれたジョブ・スポルジョンがクエーカー教徒として受難に遭った以上、このエセックスの若者とフレンド派[クエーカー教徒]の人々との間には、それなりの血縁関係があったのである。このように初期の頃においてすら、ニューパーク街の牧師のことは『フレンド』誌上で紹介されている。それは、いかにもこの方面から寄せられるであろうような寸評であった。このように記されている。――

 「彼の伝道活動によってかき立てられた関心、また、彼の資質と有用性に関連して表明された相反する意見の数々は、現代においては全く類例を見ないようなものである。見るも尋常ならざる眺めだが、この丸顔の田舎青年は、このように厳粛かつ至難な責任を伴った立場に配されているにもかかわらず、真剣さと、沈着さと、強壮さをもって、その厄介な義務の数々に心を傾注し、自分の就いた務めに十分適格であることを証明しているのである」。

 ニューパーク街会堂に発生した変貌の様相については、次のように付言されている。――

 「ほんの数週間のうちに、がらがらだった会衆席には人が詰めかけ、会堂内のすべての指定席には借り手がついた。そして十二箇月も経たないうちに、彼の話を聞こうとする人々の熱心さのあまり、安息日ごとに会堂の内側には立錐の余地もなくなり、より収容力のある設備が供されなくてはならないことは、たちまち明白になった」。

 ほぼ六十マイル離れたロンドンでこうしたすべてが生じつつある間、ウォータービーチの執事たちは、彼らの若き友が二度とその小さな牧師職のもとに帰らないであろうことを、はっきり見てとった。そこで彼らは、自分たちの教会簿に歴史に残る一文を記入したのである。――

 「スポルジョン氏は、1854年初頭まで、私たちの間で労し続け、非常に大きな成功をおさめた。その後彼は、ニューパーク街でのより重要な牧師職に召され、同地にて全く現代に比類なき人気と有用性を及ぼし続け、津々浦々の公的な折に、しばしば説教を依頼されている」。

 現在ウォータービーチの牧師であるトムソン氏は、[スポルジョンの死後]1892年2月7日の日曜日に、この一節を自分の会衆に読み上げてから、この上もなく適切な言葉を云い足した。――

 「私たちの愛する友は、私たちのもとから去りましたが、いかなる濁りも後に残しませんでした。万人から非常に愛された人物。彼の抜けた穴は途方もなく大きなものです。彼は大いなる信仰の人で、不動の忠誠を真理にささげ、自分の神に忠実を尽くして献身し、神の前では従順な子どものようで、人々の前では恐れを知りませんでした。彼には、ほとんどの人々に知られていなかったような魂の穏和さがありました。そして、幾多の建物や書物が消え失せるときにも、チャールズ・ハッドン・スポルジョンは生き続け、彼の行ないは彼の後について行くでしょう」。


HOME | TOP | 目次 | BACK | NEXT