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第16章

ロンドンにおける最初の数箇月

ロンドンでの働きの開始――最初に印刷された説教――スポルジョンとその同労教役者たちとの関係――パクストン・フッドの意見――スポルジョン氏の様式――福音の大衆化――ニューパーク街会堂の建て増しを決議する――アメリカ人牧師による評価――スポルジョン氏とヘレンズバラの牧師

 ロンドンにおけるスポルジョン氏の偉大な働きは、今や見事な滑り出しを示していた。ほんの数週間もすると、合意されていた六箇月間の見習い期間は必要ないことが明らかになったため、牧師職への招聘がなされ、受諾された。むろん、サザクの裏町にひとりの傑出した説教家がいると外部の世間に知れ渡るまでには、ある程度の時間が経たなくてはならなかった。それにもかかわらず、そうした消息は広まっていった。というのも、これほど早い時期にもかかわらず、この若き説教者の説教は、印刷機という手段を通して相当の部数が随所に送られ始めたからである。私の発見した最も古い日付の印刷説教は『一銭講壇』の第2234号で、1854年8月20日にニューパーク街で行なわれた、「刈り入れ時」という題の説教である。こうした印刷説教は、不定期に間隔をおいて出版されたが、たちまち多数の読者を獲得したと思われる。これこそ、1855年の最初の週から、彼の説教が毎週定期的に発行され始めた理由であった。この説教者のやり方に新奇なものを感じとったのは、会衆席の聞き手たちだけではなく、活字となって現われたその説教にも、読者をとりこにする新奇な様式があったのである。人々に少しでも善を施したければ、その心に触れなくてはならないことを、スポルジョン氏は、そもそもの最初からよく理解していた。

 この時期における彼の様式をよく示すものとして、最初期に出版された説教の1つ、「神の栄光の瞥見」から抜粋した以下の箇所を見ていただきたい。――

 「私は、これ以上何も神の善については云えない。しかし、これがモーセの見たすべてではない。今朝の聖句に続く言葉を見ると、神はこう云っておられる。『わたし自身、わたしのあらゆる善をあなたの前に通らせ……よう』[出33:19]。しかし、その先がまだあった。いかなる神の属性も、1つだけで神を完全に説明することはできない。必ずそれ以外のものがある。神は云われた。『わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ』。ここに神のもう1つの属性がある。神の主権がある。神の主権を抜きにして神の善を持ち上げても、神のご性質を完全に述べたことにはならない。私は、ある人のことを思い出す。彼は、まさに死のうというときに私を呼び寄せて云った。『私は天国に行きます』。それで私は答えた。『オヤ、どうして自分がそこに行くなんて思うのです?――前には天国のことなど考えもしなかったでしょうに』。彼は云った。『神は善なるお方です』。私は答えた。『その通りです。だが、神は義しいお方ですよ』。『いいえ。神は、あわれみ深くて善なるお方です』。さて、このあわれな人は死につつあり、永遠に滅びようとしていた。彼には正しい神観がなかったからである。彼は神について1つのことしか考えていなかった。――神は善である、と。だが、それで十分ではない。1つの属性を見てとっても、神の半分でしかない。神は善であるが、主権者でもあり、ご自分のみこころのままに行なわれる。広い慈悲という意味では、すべての者に対して善であられるが、神はいかなる者に対しても善でなくてはならない義務はない。『わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ』。愛する方々。私が主権について宣べ伝えようとするからといって、吃驚してはならない。主権について耳にするとき、ある人々がこう云うことは私も承知している。『おゝ、これから、とんでもない高踏的な教理を聞かされるのか!』 よろしい。もしそれが聖書の中にあるなら、あなたにとってはそれで十分である。それが、あなたの知る必要のあるすべてではないだろうか? 神が、『わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ』、と云っておられる以上、あなたはそれを高踏的な教理だなどと云うべきではない。あなたには、ある教理を高踏的だの低踏的だの云ういかなる権利があるのか? あなたは、高踏的な部分には『コ』、低踏的な部分には『テ』としるしのついた聖書を、私に持っていてほしいとでもいうのだろうか? そして高踏的な教理は抜かして話し、あなたを喜ばせてほしいというのだろうか? 私の聖書には、そうした類の目印は何1つない。そこには、『わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ』、と記されている。そこには神聖な主権があるのである。私の信ずるところ、ある人々は、自分の会衆のだれかをつまづかせるのではないかと、この偉大な教理について一言でも語るのを恐れている。だが、愛する方々。これは真実であって、私はあなたにそれを聞かせなくてはならない。神は主権者である。神はこの世界を造る前から主権者であった。神おひとりが生きておられ、その御思いの中にはこうした考えがあった。『わたしは何かを造ろうか、造るまいか。わたしには被造世界を造る権利もあるし、何も造らない権利もある』。神は、1つの世界を形作る決心をなさった。それをお造りになったとき、神には、それをみこころのままの大きさや形に造る権利があった。また、そのつもりさえあれば、地球に全く何の被造物も住まわせないでおく権利もあった。人間を造る決心をなさったとき、神には、ご自分の好みに合わせて、人間をいかなる種類の生き物にする権利もあった。もし人間を芋虫か蛇に造ろうと思ったら、神にはそうする権利があった。人間をお造りになったとき、神には、人間に対して、みこころのままにいかなる命令を下す権利もあった。そして、神にはアダムに、『あの禁断の木に触れてはならない』、と云う権利があった。そしてアダムが背いたとき、神には、彼と全人類を永遠に底知れぬ穴で罰する権利があった。神には途方もない主権があり、お望みになれば、この会堂にいるすべての人を救う権利があり、この場にいるすべての人を踏み砕く権利もある。みこころならば、私たち全員を天国に連れて行く権利もあり、私たちを滅ぼす権利もある。神には、私たちを完全にみこころの通りに扱う権利がある。極刑に値する罪を犯して断罪された囚人が、全く女王陛下の手中にあるように、私たちは神の手中にある。しかり、私たちは陶器師の手の中にある土のかたまりと同じなのである。これこそ神が、『わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ』、と云われたときに主張されたことにほかならない。これは、あなたの肉的な高慢をかき乱す。そうではないだろうか。人間は、ひとかどの者でありたがる。人間は神の前に平伏することも、神が自分たちを思いのままにできると説教されることも好まない。あゝ! いかにあなたが毛嫌いしようと、これが聖書の告げることなのである。確かに、神がご自分のものを思い通りにできることは自明であるに違いない。私たちはみな、自分の持ち物は自分の思い通りにすることを好む。神は、あなたが御座のもとに行きさえすればあなたの訴えを聞こうと云っておられるが、お望みになれば、そうしない権利もある。神には、みこころの通りに行なう権利がある。もし神があなたを、間違ったしかたで生きるままにしておくことを選ばれたとしたら、それは神の権利である。また、もし神が、実際そうなさったように、『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます』、と仰るとしたら、そうすることは神の権利である。これが、神の主権という、崇高で恐ろしい教理である」*1

 スポルジョン氏は、人間の性質に精通していたので、人間性がまさに何を必要としているかを知っていた。そして彼は、福音を伸び伸びと、余すところなく宣べ伝えた。それは、十八世紀の信仰復興期の説教者たち以来、匹敵する者がなかったような福音宣教であった。それと同時に彼は、その人気を全く別にしても、きわめて尋常ならざる立場にあった。1854年、英国諸島にはいかなるバプテスト派の週刊紙も存在しておらず、そのような機関紙を創刊するなど、絵空事めいた考えとみなされていた。しかしながら、非国教徒による定期刊行物は数誌存在しており、それぞれ非常に有能に切り回されていた。だが、私に調べのついた限り、その編集者たちは、この若き革新者にことさら取り上げる値打ちがあるとは考えなかったらしい。後年スポルジョン氏の友人となる故ジョン・キャンベル氏は、当時『ブリティッシュ・バナー』紙の編集長としてボールトコートに君臨していた。だが、その記憶すべき年の元日から大晦日に至るまで、同紙の紙面にはスポルジョンという名が全く現われないのである。むろん各種の教派集会はしかるべく開かれていた。――独立派のものばかりでなく、バプテスト派のそうした集会も相当詳細に報道されていた。だが、ニューパーク街会堂の牧師の姿は影も形も見当たらない。彼は、本来なら彼を心から歓迎して当然の同労者たちの多くから付き合いを避けられていたのである。そして、そうした際には全く無理からぬことだが、逆に彼も、彼らとの付き合いを避けることになった*2。この当時のスポルジョン氏が、教職にある兄弟たちから受けていた扱いに、故パクストン・フッド氏は異様な感に打たれた。「私たちは、『教職にある兄弟たち』などと云えるだろうか?」と、こうした仕打ちをわがことのように感じられるフッド氏は云っている。彼らが聖書的な意味で真にスポルジョン氏の兄弟であるかどうか、彼は強く疑っていた。というのも、彼はこう付言せざるをえなかったからである。「私たちの理解するところ、彼らはほぼ全員が彼をはみだし者とみなすことで一致していた。彼の性格は善良であった。――非の打ち所がなかった。彼の教理には、いかなる危険な異端も含まれていなかった。それでも彼は村八分にされていた。……しかり。総じて教役者たちは、彼の来訪を評価していなかった。この若者がその強く逞しい福音を宣べ伝えるのを聞きに何万もの人々が群がっていることも、彼らの好意を全く得ることにはならなかった。――ことによると、かえって彼らの悪意をかき立てたかもしれない」*3

 実際、この若き革新者に対する偏見の強さは、これほど時間的に隔たった後では、はかり知れないものがある。それをよく示しているのが、ある田舎で持たれた記念礼拝の痛ましい、しかしどことなく喜劇的な顛末であった。その夕べには、ロンドンでも最も令名高い教役者のひとりが説教することになっていたが、朝の集会をスポルジョン氏が行なうと聞くなり、この大人物は、彼と関わって自分の評判を落とすのをはばかり、すぐさま断りを入れたのである。他者の成功をねたむのは常に卑しい心の兆しだが、それが特に卑しく見えるのは、福音を上首尾に宣べ伝えている人に対するねたみの場合である。しかしながら、もし年長の教役者たちがスポルジョン氏をねたんでいたとしたら、彼らのねたみを刺激するものは山ほどあった。ロンドンにやって来て、自分の選んだ働きで成功をおさめる人々は、他にもいないわけではなかった。だが、原始時代からこのかた何十世紀を経ても、いま姿を現わしたほどの人気は全く前代未聞であった。私たちの見るところ、それは、「狂気じみた熱狂であり、それ自体でも極めて異常だが、その興奮が何に基づいているか容易につかめないことからして、一層に異常である」、と語られるようなものであった。おそらく人々自身の方が、専門の批評家たちよりも、ずっと満足の行く説明ができたであろう。

 パクストン・フッド氏が何にもまして好んでいたのは、ロンドンでも他の地方でも、当世の大説教家たちの話をひとり、またひとりと聞いて歩くことであった。この頃、彼は自然とスポルジョンに惹きつけられ、日曜日は時間のやりくりがつかなったため、木曜の夜にニューパーク街会堂へ向かった。開始時刻は七時だったが、六時半には各扉が開かれることになっており、自分の席を確保しようという聞き手たちは、扉が開かれる前から群れをなして待ち構えていた。これは平日の集会でしかなかったが、人々は建物の周りに群がっており、そのため七時十五分前には、会衆席がびっしり人で埋まったばかりでなく、席をとれなかった人々が通路に立っていた。フッド氏は、さらにこう告げている。「もちろん安息日には、群衆ははるかに大勢であり、――各扉のまわりの押し合いは恐ろしいほどであった」。このように地元で人気を博していたこの説教者は、ロンドンの他の場所、あるいは他の地方では、――そのようなことが可能であるとすれば――いやまさって人気があったように思われた。もし彼が、いまだかつて存在した中でも最大の聖所の1つ、例えば、[ロンドンの]フィンズベリー会堂で説教するとしたら、その入場は整理券によらなくてはならなかった。だがこれは、少し後の時代になってからのことである。地方の町々では、スポルジョンの話を聞こうという人々の願いは、はるかに驚くべきものだった。好奇心にかられた人々は、自分の仕事を放り出し、あるいは、他の不都合な時間に携わることにしてまでも、サザクから来た異彩を放つ説教家を自分の目で見、耳で聞こうとした。一般に報じられたところ、彼が最初にブリストルを訪れたとき、人々は驚嘆とともに耳を傾け、もしこの西部都市の一万人収容可能な建物が確保できていたとしたら、全座席が埋まったはずだという。人々は、何とか彼の人気を説明しようとし始めた。彼の人気の理由は、彼の友人たちばかりでなく、敵たちのおかげでもあると考えられていた。それで、一部では、このように語られているのである。「彼は辛辣な批評や悪口の大嵐によって、実際以上に大きく引き立てられており、ことによるとその人気の相当部分が、こうした一斉の糾弾に負っているのかもしれない」。彼の特徴の1つは、彼が決して屈することなく、時として自分を誹謗する人々にも愉快なしっぺ返しをしたということである。その初期の時代におけるニューパーク街の牧師について素描するフッド氏の筆には相当の明察が見られる。――

 「1つのことは確かである。スポルジョンの背中は広く、彼の面の皮は厚い。彼は途方もない重荷を背負うことができ、それも眉1つ動かさずに背負えると思う。……彼は、今や英国の津々浦々で話題の主となり、一部ではすさまじく酷評されているが、そうした酷評に対しては、しばしば、あっさりと全く心からの善意で報いるのである。疑いもなく、この若者は厚かましい。非常に厚かましい。さもなければ、このような時代に、彼のような立場に立ち、彼のような人物であることはできないであろう。私たちは、彼の会堂の扉付近に立って中に入れるようになるのを待っている間、そこにやって来た彼が私たちを通り過ぎて行くようすを見て、非常に驚いた。付属室に入っていく彼は、繰り返し自分の帽子をあげては、その場で待っている自分の聴衆たちに何度もお辞儀をしたのである。そうした行為自体にも、その行為者の顔の上にも、非常な度胸の良さと、気立ての良い素朴さがあったため、私たちはすぐに心からの微笑を浮かべないわけにはいかなかった。明らかに彼は、相当うやうやしい個人的敬意を払われることに悪い気はしていなかったのである。彼の顔は下品ではなかったが、優雅でもなかった。それは四角かった。額も四角かった。私たちは骨相学者ではないものの、それがもう少し情け深い感じをはっきり示していればよいのにと思った。しかし、その顔には気立ての良さがあった。――これほど若々しい顔つきにさえも、bonhomie(温容さ)に似たものがあった。確かに、それは生真面目には見えなかったし、生真面目さは、その最も高尚な意味においては、彼の個性に属していなかった。彼が真面目であることを私たちは一瞬も疑いはしない。しかし、現時点において私たちは、果たして彼の真面目さが内に深遠な力を秘めたものかどうかを疑うことはできよう。彼はペテロのように説教することはできるだろうが、トマスのように疑ったり苦しんだりすることはできない。また、パウロのように燃え上がることも、ヨハネのように愛することもできない」*4

 スポルジョン氏がロンドンにおけるその経歴を開始したばかりの、ほぼ四十年前に当たる昔の日々は、青年たちの時代と云い表わされてきた。だがそういえば、概して桁外れの才能を有する人々は、その生涯の事業を年若くして始めるものなのである。すでに示されたように、これは牧師職におけるスポルジョン氏の前任者たちに起こったことであった。また、その当時も人々が思い起こしたのは、ジョン・エーンジェル・ジェームズや、リヴァプールのトマス・スペンサーや、ウィリアム・ジェイといった賞賛すべき説教者たちが、いかにして全員、他の人々が普通は大学に行っている年齢で牧師職を受け入れたか、ということである。例外的に若い年頃に働きに就く備えができているということは、例外的な才幹を所有しているしるしであった。そして、一部の人の考えによると、スポルジョン氏の場合、彼の厚かましさだけとってみても、1つの才幹であった。これをよく示す例として、フッド氏は痛快な逸話をあげている。――

 「スポルジョン氏を特徴づけているのは、行動の激烈さというよりも敏捷さであり、――洞察力というよりも頭の回転の速さである。彼はあらゆるものを機敏にとらえ、それらを自分の目的にかなうように適合させ、整える。彼は、受け入れられるものなら、それをよく消化する。ある平日の午前中に彼は、ロンドンの大会堂の1つで自分が説教するのを聞きに来た、とあるロンドンの教役者に向かって、きわめて厚かましい答えを返した。おそらく、彼が語りかけた相手の兄弟の方も、相当厚かましかったのであろう。というのも、教役者というものは厚かましいことがあるし、中には、そうしようと思えば傲岸無礼にもなれる人もいるからである。その教役者はこう云った。『私にはあなたがいつ学びをしておられるのか、わかりませんな、スポルジョン兄弟。いつあなたは説教を作ってるのです?』 『いやあ』、とスポルジョンは答えたという。『私は常に学んでいるのですよ。私は、あらゆることから何かを吸収するようにしています。もしあなたが一緒に正餐をとろうとお頼みになるとしたら、私はあなたから1つ説教を吸収するでしょうよ』」*5

 この若き説教者の手本について語る人々もあった。だが、より目端のきく人々の見るところ、明らかに彼は、あまりにも自由人すぎて、ただの人間的な標準に唯々諾々と従うことなどできそうもなかった。ただし、すぐれた英語の見事な標準である欽定訳聖書は、疑いもなく彼の様式に大いに影響を与えていたに違いないが。ジェイかロバート・ホールが彼の主たる師匠であるなどという考えは馬鹿げていた。パクストン・フッドが気づいたと告白するところ、スポルジョンには、ホール氏が地位を占めていたような「燦爛たる知的天空において輝く資質は全くなかった」。だが、このニューパーク街の若き牧師の方がはるかに偉大な天才であったことを、今や否定しようとするような人がだれかいるだろうか? 彼には、ハーヴェイや、ベリッジや、ロウランド・ヒルの最上の特性の一部があったと云うことは正しいであろう。だが、何にもまして真実だったのは、この人物が、一般の人々に平易な、しかし力強い言葉遣いで語るすべを心得ていた、ということであった。いみじくも云われたことだが、「スポルジョン氏が人気を博した大きな原因は、彼の飾らない態度である。民衆が喜んで見たいと思うのは、本物の態度であって、とってつけたような態度ではない。そしてそこには、とってつけたような態度の、いかに少なかったことか!」 福音が大衆化される必要のある時代が来ていた。そして、スポルジョン氏のうちに、それを行なう人は見いだされたのである。彼は、自分がすたれさせつつあった古い流派の代表者たちがあれほど喜びとしていた、単なる修辞の華麗さなどに、鼻もひっかけなかった。だが、自然界から得られたり、世間と触れあう中で自分のものとした新鮮な例話の数々は、彼にとって素晴らしい魅力を有しており、彼が語りかける群衆にとっては、さらに大きな魅力を有していた。人々は、自分たちの求めるものを見いだしたのであって、スポルジョン氏の類を見ない人気は、いかに彼らが自分たちの見いだしたものを喜んでいたかという最良の証左であった。

 この尋常ならざる成功――あらゆる点から見て前例のない成功――を目の当たりにした人々が、果たしてこれが長続きするだろうか、果たしてこのような人物も何年かしたら衰微するだろうか、と云い交わしたとき、この若き説教者の確固たる信仰と、くつろいだ気取りのない態度とは、いかなる心許なさをも寄せつけなかったであろう。1854年も終わりに近づくにつれて、海外での戦争や、ロンドンですさまじく猛威を振るう悪疫でさえ、ニューパーク街会堂の牧師の伝道活動に対し、日増しに関心が寄せられていくのを防ぐことはできなかった。とうとう新聞各紙は彼に注意し始めた。とはいえ、それよりも決定的に彼の人気を証ししていたのは、彼が数々の風刺漫画に取り上げられるという形になった。彼の行く末をあえて占った人々は、やがて自分たちが誤っていたことを知ることになった。だが、パクストン・フッド氏は、その状況を非常に明敏に読みとっていた。――

 「私たちの説教者の話の内容豊かさと当意即妙さは、私たちの考えでは、彼が衰えることもなく、擦り切れもしないという保証である。むろん現在のように驚異的な人気は、いつまでも続きはしないであろうが、それでも彼は驚くほどの信奉者を保ち続けるであろう。また、今の彼のあり方は、全体としてはそのままあり続けるはずである。そう私たちが予言するのは、磨き抜かれた云い回しを私たちは彼に求めていないからである。長ったらしい勿体ぶった議論を求めていないからである。独創的で深遠な思想を求めていないからである。明瞭で明晰な評論も求めていないからである。だが、福音主義的な真理を大胆に、確信に満ちて言明すること、種々の確信を忠実に取り扱うこと、愉快で当を得た例話を用いること、真に迫る描写をし、心探られる常識を語ることを私たちは求め、私たちの信ずるところ、そうした求めが満たされないことはまずないだろうからである。一言で云うと、彼が説教している相手は、形而上学者でも論理学者でもなく、詩人でも碩学でもなく、博識の大家でも修辞法の達人でもない。彼は人々に説教しているのである。一字一句にこだわる潔癖家は、恐ろしさのあまり両手をあげるであろう。時代の知者は、大きな憤慨を感じるであろう。オックスフォードの大学人が彼のことを小耳にはさんで、わざわざ話を聞きに来てくれたとしたら、彼らは、これはまさしく自分たちがこうしたしろものについて考えていた通りのものですな、と非国教徒に向かってしみじみとお愛想を云うであろう。ロンドン大学の若き文学士は、彼のことをすさまじい出現とみなし、自分の研究室に駈け戻っては、苦心の小論『説教の愚劣さについて』を書き上げて、今流行の、重箱の隅をつつく連中の社交場に持って行くであろう。煙草を吸うこと、酒を飲むこと、また、会堂の会衆席と嘲弄者の椅子との中間に席を占めることさえ許されるなら、キリスト者として認められたいと願う宗教的な伊達男は、パーク街をのぞいてきても、その講話は非常に俗悪だと吐いて捨てるように云うであろう。アルミニウス主義に立つ合理主義者たちが有する、大規模で影響力のある機関誌、『クリスチャン・ワスプ』は、『一銭講壇』に載ったこの説教者の説教を1つ買い求めては、入念な論評を加え、こう証明しようとするであろう。すなわち、太陽を眺めるときと同じく、論理の望遠鏡によって神を眺めることこそ、宗教的ないのちと真理をはかる最良の試験である。人間は望みさえすればいつでも善良になる自由がある以上、スポルジョンはお話にならないほど間違っている。なぜなら彼は、人間が神に向かって飛ぶ自由は、石が太陽に向かって飛ぶ自由と同じくらいしかない、とほのめかしているのだから、と。だがその間も、私たちの説教者は自分の道を歩み続け、彼らの批判を全く歯牙にもかけず、神から口にするように与えられる言葉を、完全な平易さをもって語り続けるであろう」*6

 しかしながら、人々が自分たちの牧師について何と云おうと、また、批評家が痛烈であろうと寛大であろうと、ニューパーク街会堂の善良な執事たちがかかえる困難は、もはや空っぽの会衆席とは関係していなかった。むしろそれは、その会堂内の人いきれを――特に瓦斯灯のともされる夜に――すさまじく重苦しいものにする群衆をどうするか、ということであった。新鮮な空気をだれよりも愛するこの牧師が、自分の散歩杖を窓硝子の一枚に突っ込めば、一時的に苦しさを解消することはできたかもしれない。だが、可能であれば、それ以外のことがなされなくてはならなかったであろう。この会堂の敷地を見ると、部分的な建て増しを行なうことは可能であった。そして、この若き説教者がその新しい牧師職に就いて数箇月もすると、その工事を行なうための基金が集められ始めた。だが、一部の先見の明のある人々の頭には、このように初期の頃さえ、別の考えが浮かんだかもしれない。すなわち、ただ古い会堂を建て増すだけでは、きっと間に合わなくなるに違いない。これまで建てられたことのあるいかなる会堂よりも大きな会堂が供されなくてはならなくなるであろう、と。

 こうした異常な現象が、いやましてわけのわからないものであったのは、目端のきく観察者として通っている一部の人々が、この説教者のうちに、人気を博するため必要な資質とみなせるものを全く見いだせなかったからである。ひとりの米国人著述家は、この時期のスポルジョン氏を描写しようと試みて、こう云っている。――「彼は、雄弁術についても説教術についても修練を積んでおらず、彼の行なってきた公的な活動は、単に日曜学校の前に立って話すことと、ウォータービーチの辺鄙なバプテスト教会の牧師として非常に短期間、しかし上首尾に働いたという程度でしかない。個人的外観においては彼の魅力は乏しく、様式においては平易で、実際的で、単純であり、態度においては粗野で、大胆で、自己中心的、否、頑迷と云っていいほどであり、神学においては、骨の髄までカルヴァン主義者であり、教会との関連においては、妥協を知らないバプテストである。これ以上に大衆に好感をいだかせる見込みのない資質――あるいは失格理由――の一覧は、到底想像もできない」。

 スポルジョン氏の偉大な能力を最初に受け入れ、それを認めた人々の中には、ヘレンズバラにある自由教会の牧師、故ジョン・アンダーソン氏がいたという。彼に敬意を表してこそ、クラパムのナイティンゲール通りにあるスポルジョン氏の自宅は、そのスコットランドの町[ヘレンズバラ]の名前で呼ばれることになったのである。アンダーソン氏の意見によると、いかなる人も、当代随一の説教者であるとの栄誉はスポルジョン氏に譲らなくてはならなかった。やがて示されるように、このふたりの牧師の間には、すぐに暖かな友情が生じた。スコットランド人牧師は、ロンドンにいるこの友人に会うことを楽しみにしていた。またスポルジョン氏は、後年になると時おり、ヘレンズバラの自由教会牧師館前の芝地で礼拝を執り行なう姿が見られるようになった。スコットランドは、常にお気に入りの休暇地であったように思える。また、スコットランドの人々は、性急にその判断を下しはしなかったが、最後には、最も献身的な彼の賞賛者となった。しかしながら、その後何年かすると、北国での休暇と呼ばれたものは、説教旅行とほとんど変わらなくなってしまった。


*1 『土の器』、第10巻、p.279-280 で、『一銭講壇』(1854年)からの引用。[本文に戻る]

*2 1855年10月17日、当時ロンドン組合をなしていた三十三の教会の中の六人の教役者たちが、バプテスト宣教会館で会合した。「あゝ、『美しい黄金が何と曇ってしまったことか』」、と『ブリティッシュ・メッセンジャー』紙は述べている。「人々の間の王者らがこれほど怠惰で無精であるとしたら、諸教会の低劣な状態をだれが異とできるだろうか?」 その後でこう付言されている。「イズリングトンのA・C・ソーアス師は年次説教を行なうように任命され、C・H・スポルジョン師は議長に任命された。カターンズ師およびハーコート師は、ニューパーク街会堂で開かれるはずの組合の年次公式集会で講演することになっている」。――『ブリティッシュ・メッセンジャー』、iii、122。[本文に戻る]

*3 『神殿のともしび』、p.544。[本文に戻る]

*4 『神殿のともしび』、pp.545-546。[本文に戻る]

*5 『神殿のともしび』、p.547。[本文に戻る]

*6 『神殿のともしび』、pp.584-585。[本文に戻る]


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