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V.

ホーワースのウィリアム・グリムショーとその伝道活動


第1章

1708年ブリンドルに生まれる----ケンブリッジのクライスツ学寮で教育を受ける----1731年に叙任される----ロッチデールおよびトドモーデンの副牧師となる----妻の死----1742年ホーワースの教職者となる----ホーワースの描写----彼の伝道活動の流儀----彼の生活様式、勤勉さ、博愛、平和への愛----その伝道活動の成果


 前世紀の霊的英雄たちのうち、私が三番目に読者に紹介したいのは、非常に人に知られていない人物である。それは、ヨークシア州ホーワースの分教区牧師、ウィリアム・グリムショーのことである。

 ホイットフィールドやウェスレーの生涯については詳しく知っていながら、グリムショーについては名前すら聞いたことがないという人は、おびただしい数に上ると云っても過言ではないと思う。それでも彼は力ある神の人であり、教会も世界もふさわしい場所ではない人物であった。もしも偉大さということが、魂のために用いられたか否かではかられるとするなら、私の信ずるところ、百年前の英国には、ウィリアム・グリムショー以上に偉大な人物は三人とはいなかった。

 この善良な人物が、これほど少ししか知られていない理由はすぐ説明がつくであろう。

 1つのこととして、グリムショーは英国国教会の禄付き聖職者という立場から決して身を引かなかった。彼はヨークシアの一小教区の教会牧師として生き、そして死んでいった。彼は、自分が望む限りの自由を禄付き聖職者としての立場の枠内で見いだし、その自由に満足していた。事の性質上、このような人物は、えてして比較的世に知られないで過ごすものである。いかなる党派も、そうした人の行動や運動を熱心に記録に留めはしないであろう。いかなる信奉者たちも、迫害を受けつつ、そうした人の生涯や意見の記事を出版したりしないであろう。列伍の中や、塹壕の背後にとどまる一兵士よりは、単独で遊撃戦を行なう者や、外の平原に突撃していく者の方がはるかに人目に付くものである*1

 別のこととして、グリムショーは一度もロンドンに行ったことがなかった。あるいは、一度もロンドンの講壇で語ったことがなかった。彼は、鉄道や電信や1ペニー郵便制が想像すらされていなかった時代に、純粋に一地方に限定された軌道を回っていたのである。疑いもなく、その軌道内において彼は一等星であった。しかし、その範囲を越えたところでは、彼は決して人の耳目にとまらなかった。彼がその時代と世代においてほとんど無名であったのも不思議ではない。ロンドンで決して説教することがなく、一冊も本を著さなかった教職者について、この世が何も知らないとしても当然である。イスラエルのさばきつかさの何人かのように、彼は自分の地方では偉人であったかもしれないが、彼の名前をほとんど聞くことのない部族もあったであろう。

 つまるところ、有名になるかどうかは、立場や機会によって大きく左右されるものである。賜物と力を持っているだけでは十分ではない。それらを顕示する手段がなくてはならない。機会がなかったために、ことによると最も偉大な人々が世に知られぬまま死んでいったかもしれない。世には一度も診察をしたことのない名医や、一度も一度も依頼を受けなかった名弁護士や、一度も名を挙げる機会が得られなかった大勇士がいるかもしれない。教会がグリムショーの名前にこれほど栄誉を帰すことが少なかった主たる理由は、彼を知る機会が少なすぎたためであろう。

 ウィリアム・グリムショーは、1708年9月3日、ランカシア州ブリンドルに生まれた。ブリンドルは、現在、人口千三百人の農業地区であって、プレストン、チョーリ、ブラックバーンという3つの製造業都市からさほど遠くない所にある。彼の両親の身分や地位については何1つ知られていない。彼の母親がいかなる女性であったか、彼に兄弟か姉妹がいたか、父親の職業は何だったか、これらはみな今では全く不明となってしまった点である。1728年の教区委員のひとりが、ウィリアム・グリムショーという名の人物であったという事実以外には、何事も確かなことはわかっていない*2

 グリムショーの幼少時代や教育についても、読者にはほとんど何も告げることができない。彼がブラックバーンおよびヘスケスの中等学校に進んだこと、18歳の年にケンブリッジ大学クライスツ学寮への入学を認められたこと、やがて文学士の学位を取ったこと、これらが彼の生涯の最初の21年間について私が収集することのできたありったけの事実である。しかし、少年時代、青年時代の彼の性格や、学校および大学における彼の行状といった問題については、ごくわずかな情報すら与えることができない。なぜなら、それが全く存在していないからである。しかしながら、彼が当時の他の青年たちよりもまともな時間の使い方をしていたとか、キリスト教信仰について何らかの関心を示していたと考えるべき根拠は何もない。

 1731年にグリムショーは執事に叙任され、ロッチデールの副牧師として聖職に就くこととなった。この厳粛な職務に携わることになったときの彼は、特に何の霊的な感慨も持っていなかったらしく、キリストの福音に仕える教役者の務めに全く無知であったように思われる。あまりにも多くの若い聖職者たちと同じく彼は、自分自身の魂についても、他者の魂に善を施す方法についても、まともには何も知らないまま叙任を受けたらしい。実際、後年になった彼は、自分が最も卑俗でふさわしからぬ動機----尊敬される職業につき、可能であれば贅沢に暮らしたいという願望----から叙任を求めたことを深く嘆いている。

 グリムショーのロッチデール在任は、現在となっては知りえない何らかの理由によって、非常に短期間であった。1731年9月に彼は、叙任を受けたその年にトドモーデンの副牧師になり、ロッチデールを完全に引き払うことになった。トドモーデンは、ロッチデールとリーズの間の牧歌的な渓谷に横たわる、ランカシア-ヨークシア鉄道で旅行する人ならだれでもよく知っている町である。蒸気機関の発明前には、それは息を呑むほど美しい場所であったに違いない。教会組織上それは、ロッチデール教区牧師の保護下にある礼拝堂管轄区であり、一部は大きなロッチデール教区に属し、もう一部は同じくらい大きなハリファックス教区に属していた。ここにグリムショーは11年も留まっていたのである。

 グリムショーがトドモーデンに居住していた11年間は、疑いもなく、彼の霊的生活の転回点となった。きわめて残念なことに、彼の人生のこの時期については、ごくわずかしか知られていない。しかしながら、彼がいかなる道をたどって、その後半生に見られるような神の人となっていったかについて、いくばくかの光を投ずるだけの情報は存在している。

 さて彼の伝記作者のひとりであるミドルトンによると、トドモーデンに赴任してから三年後の1734年前後にグリムショーは、初めて自分の魂と教区民の魂とについて深刻な懸念を感じ始めたらしい。彼の生活と外面的なふるまいには変化が生じてきた。彼は、それまで大部分の時間を費やしてきたような気晴らし----狩猟や、釣りや、骨牌遊びや、酒宴や、歓楽など----をやめてしまい、教区民の訪問を始め、彼らに向かってキリスト教信仰の重要性を、自分でも本当に信じているかのように、熱心に説くようになった。時を同じくして彼は、密室の祈りを一日に四度持つ習慣を始めた。この習慣を彼は一生の間続けたらしく思われる。

 だが、いかなる点から見ても、この時期の彼がキリスト教についていだいていた見解は、無知で不明瞭なもの以外の何物でもなかった。福音の明確な諸教理について、恵みによる救いについて、信仰による義認について、キリストの血による無代価の赦しについて、回心に至らせる聖霊の力について、おそらく彼は何1つ知らなかった。彼には、非常に律法的な性格の書物しか持ち合わせがなかった。そのほとんどは、ロッチデールの教区牧師ダンスター博士から、グリムショーがその副牧師をしていた際に与えられたものである。彼には、ペテロがコルネリオに対して、アクラとプリスキラがアポロに対してふるまったように、「神の道をもっと正確に説明して」くれる友人がひとりもいなかった。しかし彼は誠実に光を求めており、その光は、すぐにではなくとも、やがて彼のもとを訪れた。彼は、ダマスコのユダの家でサウロがしていたように、大いに祈った。そして多くの日の後で、彼の祈りは聞き届けられた。彼は自分の手に入る限りの手段を用いた。そして、そうした手段を用いる中で神は彼と出会い、彼を助けてくださった。彼には神のみこころを行ないたいという真摯な願いがあったので、主イエスの約束は実現したのである。「その人には、この教えが神から出たものか……がわかります」(ヨハ7:17)。

 グリムショーの精神における光と闇の争闘は、数年間は続いたものと見える。私たちには、この遅れは長く思われるかもしれないが、彼が人からの助けを全く受けていなかったこと、あらゆる霊的問題を何の助けもなしに自分ひとりで解決しなくてはならなかったことを忘れてはならない。しかし、彼の内側におけるみわざは、進み方はゆっくりでも、堅固に、また着実に進んでいった。彼の最初の妻が、四年間の結婚生活の後で病気にかかり、子どもふたりを残して死んだこと、そして彼が孤独なやもめとして残されたことは、彼をより神に近寄せる力強い手段になったと思われる。二冊のすぐれたピューリタン文書、「ブルックスの『サタンの策略に対抗する貴重な治療法』」と「オーウェンの『義認について』」を熟読玩味することが、彼の魂をことのほか安定させる助けとなったようである。そして、ついにグリムショーは、激しい争闘を数年間続けた後で、もはや「やみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つ」者となった(ヨハ8:12)。彼の目のうろこは、完全に落ちた。彼は真理の全体を見てとり、それを知り、真理は彼を自由にした。トドモーデンを去ったときの彼は、そこに赴任してきたときよりも、はるかに賢く、はるかに幸福な人物となっていた。厳しい学び舎ではあったが、彼はそこで学んだ種々の教訓を、生涯の最後に至るまで決して忘れなかった。ことによると、彼ほどこのルターの言葉の真実さを徹底的に立証した人物はいまだかつてなかったかもしれない。「祈りと誘惑、聖書と瞑想によって、福音の真の教役者は生み出される」。

 自分の霊的道程におけるこの危機的時期において、聖書がいかなる力を有していたかを証言するグリムショーの言葉は、非常に驚くべき、また教えに富むものである。他の多くの人々と同じく彼は、自分の精神にとって聖書がほとんど新しい本であることに気づいた。この時までの彼は、単に聖書を文字面だけで知っているにすぎなかったが、今や彼はその霊的な力において聖書に親しむようになった。後に彼は友人にこう告げている。「もし神がご自分の聖書を天に引き上げ、別の本を天から送り返したとしても、これほど聖書が新鮮に見えはしなかったに違いない」。まことに人が新しく造られるとき、「古いものは過ぎ去って、すべてが新しく」なるのである。

 グリムショーのトドモーデンの教区民たちは、自分たちの牧師の精神が一変したことにすぐに気づいた。彼が霊的争闘のただ中にあって、まだ平安を見いだしていなかった頃、ひとりの貧しい女が魂の大きな苦悩を覚えて彼を訪れ、自分が何をしなくてはならないか尋ねた。彼に云えたことはただ、「私はあなたに何と云ってよいかわかりません。スーザン。私も同じ状態にあるのですから。しかし、神のあわれみが得られないと絶望することにまさる悪はないでしょう」。カーフリーズに住むメアリ・スコールフィールドという別の女が、牧会を始めた頃の彼に助言を求めたことがあったが、得られた答えはこのようなものであった。「そんな陰気な考えは捨ててしまうことです。陽気な友だちの仲間入りをしなさい。楽しく気晴らしをしていれぱ、結局何の心配もありませんよ」。後に彼は彼女の家を訪れ、こう云ったという。「おゝ、メアリ。私は何という盲人の手を引く盲人だったことでしょう! あなたの重荷を取りのぞこうとして、快楽に生き、この世のむなしい娯楽にふけるように勧めるなどとは!」 このような数々の事件は、すぐにトドモーデン全域に知れ渡ったと思って間違いはないであろう。真の回心は、キリストの臨在と同じく、決して隠しておくことはできない。

 実際、トドモーデンでの、こうしたきわめて重大な11年間におけるグリムショーの歩みを記した確実な記録が何か残されていたとしたら、非常に興味深いものがあったであろう。しかし神はそれらを私たちに与えずにおくことをよしとされたのである。確かに彼が、同時代の他の偉大な伝道者たちと、全く何の連携もなしに、同じ教理的結論に到達し、同じ行動の指針を採ったのは、非常に奇異なことである。しかし、これは確かに立証された事実であるが、彼は、トドモーデンでの在任中、ホイットフィールドともウェスレーとも一面識もなく、彼らの文章を一行も読んでいなかった。これに劣らず奇異なことは、いかに神が、彼の愛する妻を取り去ることをよしとなさり、世の事がらへの愛着から彼を引き離したかということである。彼女の喪失を彼は何よりも痛切に感じたようである。しかし、よく教えを受けたキリスト者であれば、彼の歩みのこの部分すべてに完全な知恵の御手を見てとることであろう。大建築家が大いに用いようと決めている道具類ほど、しばしば長く火の中にとどめられ、強靱に鍛えられ、役立つものにされるのである。グリムショーがトドモーデンでくぐり抜けた訓練は疑いもなく非常に厳しいものであった。しかし彼がその下で学んだ教訓は、おそらくそれ以外のいかなる学び舎でも学ぶことができなかったであろう。

 1742年5月にグリムショーは、ヨークシアのホーワースの教職者に任命され、死ぬまでの21年間、その地にとどまった。彼がいかにして、またいかなる縁故によってその任命を受けたのか私たちにはわからない。現在、その叙任権を有しているのは、ブラッドフォードの教区牧師および特定の理事たちである。彼の最初の妻の家族が、この件に何か関係していたことも考えられないではない*3。ホーワースは、ブラッドフォード教区に属する礼拝堂管轄区の1つで、キースレーの町から4マイルほど離れた所にある。それは、ヨークシアをランカシアから隔てている丘陵地の上の寒々とした、うらさびしい、寂寥たる荒野地方に立っている。その丘陵地こそ、湖水地方からダービーシアの山頂に至るまで続く、英国の「背骨」をなしているのである。マンチェスターからリーズまでの距離を、ランカシア-ヨークシア鉄道で旅をしたことがある人、あるいはマンチェスターからハッダーズフィールドまでをロンドン-北西部線で、あるいはマンチェスターからシェフィールドまでを大北部線で旅したことがある人でなければ、この地域の荒涼とした、風雨に打たれた、山がちな土地の様子を正しく思い描くことはできないであろう。数ある渓谷は美しく、豊かに耕作され、活気と製造業活動で満ちている。しかし、この地方の高地は、往々にしてスコットランド高地もかくやというばかりの、荒れ果てた、急峻な、未墾の土地である。そうした山岳地域の、最も荒れた土地の1つの頂に位置するのが、グリムショーの伝道活動の主たる舞台となったホーワースの村なのである。

 ことによると百年前のホーワースほど、教職者の赴任先として荒れ果てた、未開の場所はなかったかもしれない。ドゥームズデーブック[ウィリアム一世が1086年に作らせた土地台帳]でさえ、それを特別に「荒れた未開地」と記載しているほどである。それは、褐色砂岩の上に建てられた、細長い村であって、キースレーあるいはヘブドンブリッジからの上り坂で近づくしかない。その大通りはあまりに急坂であるため、ごく近年まで一度も四輪馬車がここに来たことがないというのも理解できる。実際、伝え聞くところによると、ホーワースに最初の馬車がやって来たとき、村人たちは馬車を動物であると考え、えさの干し草を持ってきたという! このような教区こそ、グリムショーが十字架の軍旗を打ち立てた場所であった。これほど望み薄な戦地は、まず想像できないであろう。

 ホーワースでグリムショーは、トドモーデンの場合とは非常に異なったしかたで働き始めた。彼は、その粗野な荒くれた教区民に対して、キリストの福音を、この上もなく平易な、親しみやすいしかたで説教することを開始し、その説教を、それに続く戸別訪問によって徹底させていった。彼が説教するのは、教会堂の中とは限らなかった。人々を集められる所なら、部屋であれ、納屋であれ、畑であれ、石切り場であれ、道端であれ、いつでも喜んで説教した。彼の訪問は、単に家々を巡り歩いて、世間話や、病気や、子どもたちについて無駄話をしてくるようなものではなかった。彼はどこに行こうと、自分の主人を伴って行き、人々に向かってその魂について率直に語った。ホーワースでの彼の全生活は、この種の働きに費やされた。公の場でも個人的にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエス・キリストに対する信仰を、聖パウロのしかたにならって説教することこそ、21年間にわたる彼の伝道活動全体を貫く唯一の目的であった。彼自身が自分の行動のしかたを次の手紙の中でこう述べている。----

 「わが主に仕える牧師たちの中でも最も小さく、最も卑しい者である私は、この教区内で、次のような規則によって働いています。私は福音を----キリストの血に対する信仰のみによる、悔い改めた罪人への救いという良き知らせを----日曜ごとに二回、説教します。そうしないのは、一年を通して、教会の教理問答と三十九信仰箇条を講解するときと、『公定説教集』を読み上げるときだけです。実際、毎年ある時期の主の日の朝には、そのようにすることが私の義務であると考えています。神をほむべきことに、このようにすることによって、私の会衆が云いつくしがたい恩恵をこうむることがわかりました。会衆の人数は、特に夏期には、千人から千二百人を数えますが、ある人々によると、もっと多数にのぼるそうです。毎週、主の日の晩には、祈りと、聖書の一章の講解とを行ないます。私は毎月一回、私の教区の12の異なる場所を訪問します。それぞれの場所で、6家族か、8家族か、10家族ほどを集めて勧めをしますが、隣接する小教区から来たい者があればだれでも集ってかまわないことにしています。これを私は、月例訪問と呼んでいます。これを始めてもう五年目になりますが、主の驚くほどの祝福を受けています。これ以外にしていることは、弔いの説教と勧め、それに毎月月末の三日間のうち一日か二日を使って、教会内の各会を訪問することだけです。これを私は、神の御恵みにより、生きてある限りは、私の教区における絶えざる務めとしていくつもりです」。

 この種の働きを進めていく中で、グリムショーは、志を同じくする人々から助けを得られる場合は、いつでも喜んでそれを役立てた。彼は、かの有名なヨークシアの石工ジョン・ネルソンと知り合うようになった。ネルソンは、ジョン・ウェスレーが各地に派遣していた信徒説教者の中でも、最も尋常ならざる人物のひとりであったが、グリムショーは彼をしばしばホーワースに受け入れた。またグリムショーは、自分と心を同じくする数少ない聖職者たちを歓迎し、あらゆる機会をとらえて、彼らの説教を教区民に聞かせるようにした。ホイットフィールド、ウェスレー兄弟、ロウメイン、ヴェンといった人々であれば、彼はいつでも喜んで自分に代わって講壇に立たせた。そのような場合、集まった群衆の便宜をはかるため、教会を出て隣接した境内で説教することもまれではなかった。そうした時期に主の晩餐が執り行われると、時として最初の陪餐会衆を教会外に出し、次の会衆と入れ替えて、全員が聖餐にあずかるまで、それを繰り返さなくてはならないこともあった。ホイットフィールドを迎えて行なわれたある聖餐式などでは、集まった人数があまりにも多かったために、葡萄酒が35瓶も用いられた!

 この目新しく熱烈な方式の伝道活動によって生み出された効果は、容易に想像がつくように、実際非常に大きなものであった。ホーワース周辺の全域にわたって、キリスト教信仰に関する関心がかき立てられ、そうしたことをそれまで考えたこともなかったおびただしい数の人々が考えを巡らすようになった。グリムショー自身が、『歴史的拾遺集』の著者ギリース博士への手紙で、こう云っている。「人々はみことばによって心動かされ、自分たちが生まれながらに失われた状態であることを見てとっては、イエスの血潮を信ずる信仰による平安を体験しました。私の教会には人が群がり始め、ついには多くの人が扉の外に立っていなくてはならないほどになりました。他の多くの場所でと同じように、ここでも、多くの人々が、激しい涙と呻きと苦悶をもって自分の罪深い状態と神の御怒りに対する恐れにとらわれ、そのようすを見聞きするのは、実に驚くべきことです。しばらくしてから私は、真に求めている人々、あるいは主を見いだした人々同士を会にまとめて、ともに集まり修養させるようにしました。こうした集会は一週間に一度、二時間ほどの間持たれており、それぞれ10人から12人の会員を数える組会と呼ばれています。そうした人々の間では主の臨在が大いに感じられます。こうした集会は、キリスト者の徳を建て上げる非常に大きな助けとなるに違いありません」。

 グリムショーが採り入れた説教の様式は、彼が扱わなくてはならなかった荒くれた、無教養な住民たちに特にふさわしいものであった。彼は抜きんでて平易な説教者であった。疑いもなく彼の第一の目当ては、イエスにあるすべての真理を説き教えることであった。しかし第二は、それを人に理解できるように説き教えることであった。この目的を達成するためとあらば、彼は喜んで多くの犠牲を払った。ケンブリッジ大で教育を受けた聖職者として当然持っていたであろう趣味をも十字架につけた。知識人たちから愚か者と思われることも喜んで忍んだ。むしろ彼は、聴衆の心と良心に達することができさえするなら、何も意に介さなかった。彼をよく知っていたジョン・ニュートンは、グリムショーの説教のこの特徴について、一読に値する所見を残している。「どれほど理解力の乏しい人にも、どれほど教育の恩恵を受けていない人にも益をもたらしたいという彼の願いは、その説教における言葉の選び方を左右していた。演説家としてのすぐれた才能と、豊富な一般知識を備えていた彼であれば、どれほど高位の人々の前にも十分立てたはずだが、彼が常に前にしていたのは、主として貧しく無学な階層にある聴衆であったため、彼は身をへりくだらせ、そうした人々の考えに、また言葉遣いに自分を合わせるようにしていた。使徒たちと同じく彼は、ある種の人々----講壇からは、教えでなく娯楽を得たがるような人々----が賞賛するような、洗練された、優雅な弁舌を軽蔑していた。むしろ彼が自分の思うところを云い表わすのに選んだのは、彼自ら云いならわすところの『町言葉』であった。そして、確かに時として彼は、その熱い心と奔流のような想像力によって、公平に見ても正当化しかねるような言葉でその思想をくるむようなこともありはしたが、たいがいの場合、彼の平易な語り方には耳をそばだてさせるような印象的な効果があり、どれほど頭の鈍い者にも理解でき、どれほど軽佻浮薄な者の注意もしばらくは釘付けにするようなものであった。えてして、お上品な聴衆からは奇抜で野卑な云い回しとみなされるような言葉が、人の耳に重要な真理を入れさせ、それが何年経とうと、その説教のその他の部分や主題が忘れ去られようと、それだけは記憶に残り続けるものである。思慮分別ある聴衆なら、この種の逸脱を容易に聞き流すことができた。また、福音の偉大な真理をいかに頭の鈍い者にもわかる程度に低めることのできる図抜けた才能を有してはいても、彼が決してその品位を落としていないと認めることもできた。彼の挙措の厳粛さ、その精力的な語り方、そして、その眼差しから注がれ、その説教を通じて息づく愛の精神は、彼が自分の教区民を決していいかげんに扱ってはいない確たる証拠であった。この点について私がどう考えているかは、グリムショー自身のしかたにややならって、平易でありふれたことわざを1つ引用することで示せるであろう。すなわち、『一番多く鼠を捕まえられるのが、一番良い猫なのである』。よしんば非難されてもしかたないような不適切な言葉を彼が何か使っていたとしても、そうした言葉は容易に避けられるものである。だが、彼と同じくらい成功をおさめた教職者はほとんどいない。しかし、たとえ言葉遣いは、その垢抜けていない、粗野な聴衆の好みに特にかなうものであったとしても、彼が主題としていたものは、身分の上下や、貧富の差、学識の有無を問わず、すべての人々の心に影響を及ぼすべく考え抜かれたものであった。そして、信じることを拒む者たちは、しばしば震え上がらされたのである」。

 彼がホーワースで公の礼拝を執り行なっていたしかたは、その説教にまさるとも劣らず尋常ならざるものに見えた。そこには、いのちがあり、火があり、実質があり、熱心さがあり、他の教会で行なわれている礼拝とは全くの別物であるかのように思えた。祈祷書はまるで新しい書物に思えた。聖書台は講壇とほとんど同じくらい会衆の心をとらえる場所となった。ミドルトンはそのグリムショー伝でこう云っている。「時として彼が聖なる礼拝、特に聖餐式を執り行なうときには、さながら足は地に着け、魂は天に差し入れているかのように見えた。説教前に祈るとき彼は、実際(自らよく云っていたように)、『祭壇の角そのものをつかむ』ことを欲した。そして彼はそれを、『神が祝福を与えてくださらなければ、離すことはできないし、離しはしない』、と云い足すのだった。そして彼の熱烈さがあまりにも激しく、あまりに心情あふれる哀感がこもっていたため、そのおびただしい会衆の中に目を潤ませていない者はほとんど見られないほどであった」。

 同時代人すべての証言によると、グリムショーが送っていた生活は、その説教と同じくらい尋常ならざるものだったように思われる。彼は最高の意味において福音の教えを飾り、周囲のすべての人々の目にそれを美しくしていたように見える。ある種の聖職者たちは、講壇に立っているときは二度とそこから出てこないでほしいと思われ、講壇に立っていないときは、決してそこに立たないでほしいと思われる、というような憎まれ口が叩かれるが、彼はそうした者たちとは違っていた。講壇で自分が説教していた同じキリストにこそ彼は、日常生活において従おうと努力していたのである。

 彼はまれに見る勤勉と自己否定の人であった。その職務において、彼にまさって激しく働いた者はなく、彼と同じくらい激しく働いた者はほとんどいない。彼はほとんど毎週20回を越える説教を行ない、30回近く説教することもしばしばだった。そのようにするため彼は常に何十マイルも旅をし、どれほど質素な食事にも、どれほど粗末な宿にも満足していた。

 彼はまれに見る博愛と兄弟愛の人であった。彼はキリストを愛するすべての人々を愛しており、彼らがいかなる名前で呼ばれていようと意に介さなかった。また彼は、霊的な事がらにおいてと同様、現世的な事がらにおいてもあらゆる人に親切であった。ミドルトンは云う。「事実、彼の博愛には、懐具合以外に何の限界もなかった。その恵みと忠実さによって彼がすべての人のため用いられたのと同じように、その慈悲深い気前の良さによって彼は、ことに貧しい人々から愛された。彼はよく云うのだった。『もし今日私が死んだとしても、1ペニーも後には残らないよ』、と。だがしかし、彼は借金を負って世を去りはしなかった。彼には恵みだけでなく思慮もあったからである」。

 彼は、人々の間を仲裁することにことのほか長けていた。ミドルトンは云う。「人々の間の憎悪や不和は、彼の愛情深い精神には痛みしかもたらさなかった。人々の和解という報いが得られさえするなら、いかなる労苦も彼はいとわなかった。頑として心を変えようとしない強情な人々を前にしたとき彼は、彼らの前に膝まづき、どうかキリストのために、互いに愛し合ってほしい、和解してくれさえするなら自分の首根を足で踏みつけてもかまわないから、と懇願することで知られていた」。

 彼は、何にもまして、まれに見るへりくだりの人であった。これほど豊かな才幹を有しながら自分のことを卑しく考えていた人、あるいは、これほど栄誉を他人に譲るのを好んだ人はいないかもしれない。「私たちに何が誇れるでしょうか?」、と彼は云った。「私たちには、何か、もらったものでないものがあるでしょうか? 私たちは恵みにより、値なしに救われたのです。死ぬときが来たら、私は最大の悲しみと最大の喜びを味わうでしょう。----最大の悲しみとは、イエスのためにこれほど少ししか奉仕してこなかったことであり、最大の喜びとはイエスが私のためにこれほど多くをなしとげてくださったことです。私は最後にこう云うでしょう。『今、役に立たないしもべがまいります!』、と」。

 グリムショーのような人物がたちまちホーワースで途方もない影響力を有するようになったことは、当然予期できることである。彼がしたように説教し、彼がしたように生活するならば、彼がその粗野な教区民に強烈な印象を与えたとしても何の不思議もない。罪は下火になり、聖日破りはすたれ、不道徳は大いに抑制されるようになった。荒野におけるバプテスマのヨハネのように彼は、自分の置かれたヨークシアの一隅を揺さぶり、人々の心をその根底から揺り動かした。おびただしい数の人々が、たとえ真心から天国を愛するようにはならなくとも、地獄を恐れるようになった。多くの人々が、たとえ神に回心しはしなくとも、罪を抑制されるようになった。

 しかしそれがすべてではなかった。疑いもなくグリムショーは多くの人々を真に回心させた器であった。聖霊は、年々彼の説教を、その多くの聴衆の心と良心に適用し、救われる人々をキリストの真の教会に加えてくださった。ある年など、一年の間に18人の葬儀を行なった彼はこう云った。「そのうち16人は神の国に入ったと私は十分確信しています」。

 彼の伝記作者のひとりは云っている。「彼はその死の少し前に、ジョン・ニュートン師とともに、ホーワース近郊の丘の上に立ち、その牧歌的な眺望を眺め渡した。それから彼は云った。自分が初めてこの地方のあのあたりに来たときには、馬に乗って東西南北どちらの方向に行っても、半日の道のりを過ぎても、真に真剣な思いをいだいた人にはひとりも出会わないどころか、そうした人の噂さえ聞こえてこなかったものでした。しかし今や自分は、自分の働きに及ぼされた神の祝福を通して、自分の集会に出席する者、心から聖餐式に集ってくる陪餐者たちを数百人も見分けることができます。ことに、聖餐式に通ってくる人々のほとんど全員については、その家庭に同居しているかのように、それぞれが個人的にも家庭的にも受けてきた誘惑や、試練や、あわれみについて、告げることができるのです、と」。

 グリムショーが教区外で担った働きや、そうした働きによって彼にふりかかった迫害、その若くしての死、そして彼が残したわずかばかりの遺稿についての説明は、非常に興味深い主題であるため、別の章を設けて、そこで物語らなくてはならない。

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*1 ホイットフィールドもウェスレーも、決して英国国教会の俸給で生活したことがなかったことは、覚えておかなくてはならない。それゆえ、彼らを国教会から分離した人物として語るのは不正確である。彼らは、いかなる聖職禄からも、いかなる公的な地位からも、辞職したことはない。辞職すべきいかなる物も持っていなかったからである。実質的に彼らは、国教会の講壇から締め出されたのである。聖職者たちが一団となって彼らを認めることを拒んだからである。しかし彼らは、決して正式には自分たちが叙任を受けた宗派から離脱しはしなかった。[本文に戻る]

*2 ここで述べておくのがよいと思うが、グリムショーに関して入手しうるほぼ唯一の情報源は、後代になって出版された、スペンス・ハーディ氏による彼の伝記である。これは、著者のメソジスト運動びいきがやや鼻につくものの、興味深い書物であり、読むべき価値がある。[本文に戻る]

*3 ホーワースは現在、あの不幸なシャーロット・ブロンテの出生地および居住地として最もよく知られている。彼女の父親はホーワースの教会牧師であった。[本文に戻る]

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