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第2章

ヨークシア、ランカシア、チェシアにおける教区外の働き――その働きの性質が説明され弁護される――コーンにおける迫害――ヨーク大主教のホーワース訪問――《信仰箇条》と《公定説教集》への愛――その最後の病、臨終の言葉、死、埋葬


  百年前の英国が陥っていた宗教的な状態は嘆かわしいほど低劣なものであったために、グリムショーのような人物がその働きを自分の教区内だけに限定しておくはずはなかった。様々な状況に促されてグリムショーは、やがて自分の教区境線を越えた外部で説教を始め、ついにホーワースから五十マイル四方の隅々で、「伝道者としての働きを行なうようになった」。

 グリムショーがこのような行動を取るに至った状況については、すぐに説明したい。ホーワースで定期的にその説教を聞いていた何百人もの人々は、この人物の教区民ではなく、遠隔地から集って来ていた。ひとたび神に教えられて福音の価値を知るようになると、地元では見いだせない霊的な食物を得ようとして、自分自身の教区を越えてやって来たのである。ごく自然なこととしてこの人々は、家族や隣人たちに対する同情心をいだくようになり、自分自身のためになった使信を聞かせてやりたいと願うようになった。そこでグリムショーに、自分たちの家々にやって来て説教を行なってほしいと懇願し、自分たちの家族がどれほど無知で霊的に貧しい状態にあるかを口々に訴えた。どうか自分たちのもとにおいでになり、ホーワースで会衆がたに毎週告げているのと同じ事がらを友人や親族たちにお告げくださいと願った。人々が知識に欠けているため滅びつつあること、羊飼いがおらず、世話をも教えをも受けていない状態にあることをこの教役者に告げては、こう約束したのである。もしもご自分の教区境線を「乗り越えて」やって来て、「助け」を与えてくださるなら心から歓迎しますと。このような数々の訴えは、無駄にならなかったと信じて良いであろう。じきに、このような教区外の働きは、定常的に組織だって行なわれる務めになった。ホーワースの教会管理司祭の声は、すぐにその教区教会以外の多くの場所でも聞こえるようになり、この人物は多年にわたりヨークシア、ランカシア、チェシア、北ダービーシア、その地区の使徒また説教者として知られていた。

 グリムショーが伝道者として訪れるのを常としていたあらゆる場所を挙げれば興味深いことであろう。だが、それは不可能である。この人物の働きの範囲については正確な記録が何も残っておらず、この伝道者は一冊も日誌を遺さなかった。しかしながら、ヨークシアでは常々次のような土地で説教していたことが知られている。リーズ、ハリファックス、ブラッドフォード、マニンガム、トドモーデン、バーストール、キースレー、オトリー、ビングリー、ヘプトンストール、ラデンデン、オスマザーリー。ランカシアにおいてこの人は、マンチェスター、ボルトン、ロッチデール、コーン、パジアム、ホーム、ベーカップ、ロッセンデールを訪れるのを常としていた。チェシアにおけるその足跡は、ストックポート、ターヴィン、ロスザーンに見つかり、ダービーシアにおいては、メラーに見つかる。これらの場所は、おそらくグリムショーが訪れていた場所の十分の一にもならないであろうが、この人物の伝記作者たちが特に言及している土地にほかならない。

 これらのすべての場所において、グリムショーのような説教を尊ぶ人々は、それぞれ敬虔の会を結成し、普通はひとりの人の指導を受けるようになった。もちろん、ホーワースのような大教区の教会管理司祭は、ごく僅かな間しか自分自身の働きを手放せず、相当の間隔を置いてしか遠隔の説教所を訪れることはできなかった。そのような訪問と訪問の間、各敬虔の会は必然的に自分たち自身と、自分たちの地元の指導者たちとで事を行なうしかなかった。そのような指導者たちと協議し、それぞれの会の霊的な状態の報告を受け、従来の耕地を耕しつつ新しい耕地を開拓することは、グリムショーが行なっていた教区外の働きの少なからぬ部分を占めていた。各地で敬虔の会を指導するこれらの人々には、説教するための部屋か納屋か都合の良い野外の場を手配する務めと、出費をまかなうための献金を集める務めがゆだねられた。こようにして、ホーワースの教会管理司祭が、あるいは、考えを同じくする友人の誰かが、定期的な訪問を行なうときには、ただ説教を行なうだけでよかった。

 そのような会の管理者あるいは指導者たちは、ヨークシアやランカシア、チェシア一帯に点在していたが、ほとんどの者は中流階級かそれ以下の身分で、多くの場合、教養のある小さな農場主でしかなかった。グリムショーの伝道牧会活動が、上流階級の人々に大きな影響を及ぼしたとか、実際、一度でも上流階級の前に持ち出されたことがあるという証拠は全くない。しかし、だからといってグリムショーの働きを悪く思う者は、無知な人間以外ひとりもいないであろう。社会で中流階級の下層や、下層階級の人々をとらえて、キリストの兵士として奉仕させることは、今日、諸《教会》が解決しなくてはならない最も大きな問題の1つである。もしもグリムショーがその件で成功を収めたのだとしたら、それはグリムショーが並外れた人物であったことを十分に証明している。教会が、いかなる場合にもまして健康な状態にあるのは、一般の「大ぜいの群衆が……喜んで聞いて」[マコ12:37]いる時期にほかならない。

 ハーディの『グリムショー伝』から抜粋した以下の文章により、グリムショーが自分の教区外を巡回して行なっていた働きにおいて、どのような種類の人々をとらえていたかを汲み取ってほしいと思う。――「チェシアのロスザーン教区のブースバンクでグリムショーは、ジョンとアリスのクロス夫妻宅で礼拝式を行なうのを常としていた。アリスは心が広く、勇敢にキリストに仕える女丈夫であった。その夫は物静かで謹厳な男性だったが、妻の回心後もしばらくは古い生き方にとどまっていた。妻アリスは、礼拝に出かけるとき、片手に麦わら帽子、もう片手に閉戸錠を持って夫にこう言うのだった。『ジョン・クロス、あんたは私と一緒に天国に行きたいかい? 行きたくないっていうなら、私はあんたと一緒に地獄に行くつもりはないからね!』 とうとうジョンは折れた。ロスザーンにある二人の家の中で一番大きな部屋に講壇が据えつけられ、何人もの神の使者たちが同家で食事と歓待にあずかった。玄関先に物乞いがやって来ると、アリスはキリスト・イエスにある富について話をし、相手のそばに膝まずいて、神の恵みがあるように祈ってから送り出すのだった。物乞いたちは、この女主人から受けた施しに感謝しながら、自分たちの魂の益を求めるその熱心さに感銘を受けて去っていった。それよりも尊敬に値する土地の有力者たちも、この婦人の叱責を免れるわけにはいかなかった。あるとき夫人は、チェシア狩猟会が自宅の脇を通り過ぎようとしていたとき、一行を止めて、馬上の人々、特にスタムフォード公とハリー・マインウェアリング卿に向かって語りかけた、二人はおとなしく耳を傾けてから、馬を進めていったという。予期されていた説教者がやって来ないときも、講壇に立つ人こそいなかったが、会衆が何も受けずに立ち去ることはなかった。アリス・クロス自らが、その単純で熱心な口調で、いのちのパンを分かち与えたからである」。そのような種類の家庭こそ、グリムショーがその教区外伝道において働きの中核としていた家々であり、ホーワースから五十マイル四方の地区で、その説教の値打ちを証明する存在であった。

 疑いもなく、このようなグリムショーの教区外における働きは、現代の多くの人々の目には心得違いに映るであろう。多数の人々は、教区の秩序をあまりにも愛しすぎているために、教会管理司祭が他人の教区で説教を行なうなどという考え方を不届きだと感じるのである。そのような人々は、グリムショーの時代の英国がどのような時期にあったか思い出した方が良いであろう。英国北部に位置する無数の教区には、常住している聖職者がひとりもおらず、《教会》の礼拝式は、たとい執り行なわれたとしても、冷え冷えとした、ほんの束の間の、全く益にならないものであった。グリムショーは、教区秩序を乱すくらいなら、そのような教区の住民たちが無知のまま滅びるにまかせるべきであったのだと告げるのは、たわ言にほかならない。そのように言うのは、よその家が火事になっていても、家人の知遇を得ていなければ、扉を叩いて中の住人を起こしてはならないと言うも同然である! 英国国教会が教区制度を編み出したのは、人々の魂の益のためであった。福音を告げる声から魂を切り離し、滅ぼすためではない。

 グリムショーが教区外で行なった働きにおいて真に驚くべき事実は、教会組織の上長たちから何の干渉も受けなかったという点である。ホーワースの教会管理司祭が、どのようにして15年から20年もの間ランカシア、ヨークシア、チェシアの全域を説教して回っていながら、主教や大主教から制止されずにいられたのかは、きわめて理解に苦しむ事態である! そのような高位聖職者の多くも、この人物が行なっていたような何らかの伝道が絶対に必要なのだと内心ひそかに感じていたのだろうと、愛によって望みたい。ヨークシアのブラッドフォードやハリファックス――ランカシアのホエイリーやロッチデールやプレストウッチ――チェシアのストックポートやアスベリーやプレストベリーといった諸教区は、あまりにも大きな土地であったために、母教会の聖職者たちがその教区民に恵みの手段を供することは不可能であった。そのように大きすぎて扱いにくい教区でグリムショーが行なっていたような働きを中止させるのは、あまりにも愚かであったために、前世紀の主教や大主教たちでさえ、そのような手を打つことを嫌ったものと信じて良いかもしれない。何が原因であったにせよ、きわめて奇妙なことにグリムショーは、その教区外における伝道牧会活動を一度として完全に中止させられたことはなかった。主の御手がとともにあり、この人物はホーワースにおける定常的な奉仕と同じように、その巡回的な働きを死ぬまで行ない続けた。

 しかし、グリムショーが決して現実には中止させられたことがなかったとはいえ、この伝道者が迫害をまぬかれたと思ってはならない。この世の君は、決して喜んで自分の臣下を手放しはしない。その王国を引き倒そうとするどのような者に対しても反対をかき立てるであろう。ホーワースの教会管理司祭は、現代ではほとんど想像もできないような種類の誹謗中傷や肉体的な暴力にしばしば直面することを余儀なくされた。この人物は、自分が働きを行なっていた地区において、多くの人々から「気違いグリムショー」という名で呼ばれた。中でも誰よりも激しく反対したのは、何人かの聖職者たちである。けちくさい精神の権化であったこの人々は、自分では何の善も行なわず、他の誰かが自分たちに代わって善を行なうことも好まなかった。

 中でも最も猛烈にグリムショーに反対していた人物は、ランカシアはコーンとマーズデンの終身牧師補ジョージ・ホワイト師であった。この御仁は、1748年8月に自分の2つの教会で行なった、反メソジスト的な説教を出版することによって攻撃を開始した。その説教においてホワイトは、グリムショーおよびその同労者たち全員が「混乱を創始し、公然と破壊する者ら」であると非難している。この人々が、「従っているように巧みに見せかけている当の《教会》を無視して行動し、われわれの霊的な統治を脅かす大胆不敵な反乱を数多く引き起こし、《教会》の中でも最上の教会に反逆して分派を生じさせ、われわれの不幸な分裂にさらなる裂け目を作り出し、『六日間、働かなければならない』という偉大な命令を軽蔑し、市民法をも教会法をもことごとく無視し、学識にも教育にも敬意を払わないと公言し、商業と製造業に目に見える損害を与え、つまりは恥知らずにも熱狂主義を煽り立て、他のどのキリスト教領でも類例のないような混乱を巻き起こす」者らだというのである。

 このような愚にもつかない内容を説教するだけで飽き足らず、続いてホワイトは、グリムショーやその仲間たちの説教を力ずくと暴力によってやめさせようとして群集を扇動した。現実に、群集を集めるために次のような言葉の声明を発したのである。「布告。国王陛下の国軍への入隊を希望し、司令官ジョージ・ホワイト師および陸軍中将ジョン・バニスターの命令に従い、ともに今や危機に瀕している英国国教会の守護とコーン近辺の製造業を支持しようとの志ある者は、今こそ十字標の所へ集合せよ。そこで各人には景気付として麦酒一杯およびその他の報奨が支給されるべし」。

 このとんでもない声明の結果生じたのは、まさに予期されるだろう事態であった。「町のならず者」[使17:5]は、聖パウロの時代と同じく常にキリスト教信仰に反する暴動を起こそうと手ぐすね引いている。1748年8月24日、説教を行なうためにコーンに赴いたグリムショーとジョン・ウェスレーは、棍棒で武装し、酒に酔ったおびただしい数の群集による襲撃を受け、盗人や犯罪人のようにホワイトの前に引きずり出された。コーンに説教しに行くのをやめると約束するよう何度強要されても屈さなかった二人は、ホワイトの家を後にすることを許された。二人が外に出てくるや否や、「群集は彼らを取り囲むと、すさまじい勢いで小突き回し、グリムショーを地面に投げ倒してから、二人を泥まみれにした。誰も救い出そうとやって来る者はいなかった。神のことばを聞くために集まっていた人々は、それよりもむごたらしい仕打ちを受けた。女子どもの別なく汚物や石が雨あられと投げつけられる中を、命がけで逃げ出さなくてはならなかった。泥の中で踏みにじられた者もいれば、髪の毛をつかまれて引きずられた者もいた。そして多くの者が情け容赦なく棍棒で殴りつけられた。ある者などは、3、4メートルほどの高さの岩から川に飛び込むしかなかった。さもなければ、頭から投げ込まれるしかなかったのだ。ずぶ濡れになり、傷を負ったこの人が岸に這い上がると、群集はもう一度投げ込んでやれと言いつのり、その脅しの実行をやめさせるのは並大抵のことではなかった。このときホワイトは、自分に従う者らが荒れ狂う姿を大満足で見守っており、その暴虐を抑えるために一言も発さなかった」*1

 この種のどのような事態によっても、ホーワースの勇猛な教会管理司祭はびくともしなかった。それから間もなく、グリムショーはコーンを再び訪れ、やはり辱しめを受けた。――泥や汚物を投げつけられ、荒々しく道路を引きずり回された。翌1749年、この人物は、ホワイトの説教に対して86ページにも上る長い返答を書き、その中でホワイトによる数々の非難を力強く、堂々と論破している*2

 この種の荒々しい迫害は、グリムショーがその教区外伝道を行なった結果、耐え忍ばなくてはならなかった唯一の難儀というわけではない。この人物は一度ならずヨーク大主教から呼び出しを受け、その行ないの申し開きをさせられ、停職や失職の憂き目に会わなかったのは、きわめて驚異的なことだったように思われる。

 ある折に「グリムショーは、リーズの認可集会所で説教を行なったかどで告発を受けた。その告発を裏づける証拠が手近にあったとしたら、その不正行為により牧師職から解任されていたであろう。いかなる過失行為も証明されなかったが、この人物は、非国教徒の礼拝のために<認可された>いかなる場所でも説教を行なわないと、大主教に対して約束させられた。ただし、誰からも顧みられていない魂がある限り、外部で説教を続けるつもりだという決意を繰り返し表明しながらである。別の折に、自分の教会の外で説教を行なったかどで非難されたときにグリムショーは大主教からこう問われた。『そなたが最初にホーワースにやって来たとき、陪餐者は何人いたかの?』 『十二名です、大主教閣下』。『今は何人になるかな?』 『冬季には三百名から四百名です。夏季には千二百名近くになります』。その答えを聞いて大主教は大したものだと言って、こう告げた。『グリムショー氏に咎めはないものとする。主の晩餐にそれほど多くの者らを集める器となっておるのだからな』」*3

 別の折に、「この人物があちこち出歩いて他の者らの囲いを押し入っているという苦情が大主教のもとに届いたとき、大主教はグリムショー氏の教会で堅信礼礼拝を行ない、その折に氏と面談するつもりだと告知した。指定の日に二人はホーワースの会堂付属室で顔を合わせ、大人数の聖職者と平信徒が押しかけつつある間に、次のような会話が交わされた。『そなたのふるまいについては、数多くの異様な報告を受けておるぞ、グリムショー君。そなたは自分の教区内の信徒個人の家々で説教を行なっているだけでなく、そこら中を旅して回っては好き勝手に説教し、そのような出しゃばった働きを行なった先の教区教職や聖職者には一言も相談しないそうじゃな。また、そなたの講話はたいそう締まりがなく、何についても説教することができ、事実、何についても説教しておるそうな。そこで、そなたの教える内容とその述べ方をこの耳で判断できるよう、次のように言い渡すことにしようぞ。わしと、いま出席している聖職者たちの前で、今からわしの告げる聖句から、二時間後に説教するのじゃ』。その聖句を二度告げてから大主教はこう言葉を継いだ。『さて、自分の部屋に引き取って、できる限りの準備をするがよい。その間、わしは若い連中に堅信礼を施しているでな』。――『大主教閣下』とグリムショーは、部屋の扉から教会内をのぞいて言った。「ご覧ください、何と大勢の人々がやって来ていることでしょう! なぜ礼拝式の順序を逆にして、会衆に二時間も説教を聞かせずにおくべきでしょうか?*4 聖職者をひとり立たせて、祈祷書を読み上げさせてください。その後すぐに説教を始めます」。祈祷書朗読が終わるとグリムショー氏は講壇に立ち、原稿なしで祈り始めた。大主教のため、人々のため、今から堅信礼を受けようとしている少年少女のため、そして神の助けと祝福を求めて大いに祈りの格闘を行なったので、ついには会衆も、聖職者たちも、大主教そのひとまでも感動して涙するほどであった。礼拝後、聖職者たちは大主教を取り囲み、この説教者に対してどのような手続きを取るおつもりですかと口々に問いただした。あのように性急で、即興による神のことばの講解を行なわせておくわけにはいかないというわけである。一同を驚かせたことに大主教は、グリムショー氏の手を取ると、感極まった声でこう言った。『願わくは、わが教区内のすべての聖職者が、この立派な人のようであってほしいものじゃ!』 後にグリムショー氏は、その晩一緒にお茶を飲みに集まった友人たちに向かってこう言った。「今度こそは、本当にこの教区から追い出されるものと思っていましたよ。ですが、そうなっていたとしたら、わが友ジョン・ウェスレーの仲間に加わり、鞍袋に物を詰めて、ウェスレーの一番貧乏な区域の1つに向かっていたことでしょうな」*5

 グリムショーの経歴のこのような部分について、義憤を感じずにいることはできない。英国国教会に属するひとりの聖く熱心な教役者が、教会法上のしきたりを踏み越えたというだけで、これほどの迫害を受けたと考えるだけでも憤懣やるかたないものがある。というのもその間、軽蔑するにも足らない生き方と教えを行なっている何百人もの聖職者たちが放置され、安閑としていたのである。英国中のあらゆる州には、狐狩りを行ない、狩猟をし、賭博にふけり、酒を飲み、骨牌遊びに興じ、冒涜を口にする無知な聖職者が満ちており、律法にも福音にも無頓着なまま、自分の教区を全くないがしろにしていた。いざ説教を行なうときには、空っぽの座席に向かって説教するか、さもなければ、「飢えし羊が目を上ぐも、餌も貰へず」[ジョン・ミルトン]にいた。だがしかし、そのような者らは自分たち自身の葡萄や無花果の木の下でのんびり暮らしながら、主教たちから何の咎めだても受けず、地の最も良い物を食べ、《教会》を真に支える人間だと称していたのである! しかし、グリムショーのように《信仰箇条》と《祈祷書》と《公定説教集》を喜びとする人物が立ち上がるや否や、悪漢か犯罪人のような扱いを受け、その名を悪として追放されるのである! まことに百年前の英国国教会に対する神のご忍耐は驚異であった。私たちの燭台が神によって全く取り去られなかったのは驚異であった! 神があのような信仰復興を送り、その教役者たちの間に、あれほど多くの燃えて輝くともしび引き起こしてくださったことは驚異であった!

 グリムショーが《英国国教徒》ではなく、英国国教会の敵だという説は筋の通らない、ばかげた話である。自分の教派が定めた基準や式文集に愛着をいだくことが《英国国教徒》のしるしであるとしたら、グリムショーは真の意味で《英国国教徒》であった。疑いもなく、この人物は心からイエス・キリストを愛するすべての人々を愛していた。疑いもなく、人々が滅びつつあり、他の聖職者たちがその義務をないがしろにしているときには、教区の境など歯牙にもかけなかった。しかし、その死の日までグリムショーは、自分が叙任を受けた《教会》を固く支持しており、その礼拝式を敬虔に規則正しく用い、英国北部のどの聖職者よりもその教会の真の益のために尽くしていた。その伝記作者のひとりが、とりわけ次のように言及している。「この人物は《公定説教集》を大いに賞賛しており、《三十九信仰箇条》を用いず、ないがしろにすることこそ、《教会》に対するあらゆる不行跡を引き起こす元凶だと見なしていた。もしも公式説教集や信仰箇条が絶えず読まれていたとしたら、おそらくメソジスト派など決して現われなかっただろうと信じていたのである」。あるときグリムショーは、こう言ったことがある。自分の知っている老聖職者が、牧師補からこう尋ねられた。先生は、講壇で《公定説教集》をお読みにならないのですか。そのとき老職者はこう答えたという。「否! というのも、そのようなことをしたら全会衆がメソジストになってしまうからじゃ」。別の折にグリムショーは、チャールズ・ウェスレーに次のような並々ならぬ言葉を書き送った。「私は、祈祷書にも《教会》憲法にも、自分の良心を乱したり、離脱を正当化したりするほど内容的に間違ったものは何も見いだしません。そうです。私は自分の欠けた部分を改めるためにどこへ行けるでしょう? 私の信じるところ英国国教会は、この世で最も健全で、最も純粋で、最も使徒的な、国民キリスト教会です。ですから私は良心に省みて(神のみこころであれば、いま決意している通りに)英国国教会の中で生き、その中で死ぬことができるのです」。だのに、一部の人々があえて告げるところ、この人物は決して《英国国教徒》ではなかったというのである!

 グリムショーの聖く有益な経歴が幕を閉じたのは、1763年4月7日のことであった。53歳になり、ホーワースでの牧会21年目に、腐敗性熱病にかかりホーワースの自宅で死んだのである。命取りになった熱病は、その年の最初からグリムショーの教区で猛威を振るっており、すでに住民の多くが死亡していた。ハーディによると、「この熱病が突発的に発生した時からこの人物は、それが家族の誰かの命にかかわるだろうという虫の知らせを感じ、覚悟しておくようにと家族全員に強く注意していた」。ある教区民を訪問したときに、グリムショーはこの疫病にかかり、自分は回復しないだろうと予言した。

 付き添いの医者に向かって、「この人物はきわめて強い口調で、自分の全生涯を回顧すると、へりくだらされるのを感じると表現した。自分の行なった最善の奉仕でさえ、自分が担っていると感じていた責務、また、自分が携わっていた任務の重大に比べると、何と不釣合いで、欠け多く、汚れたものであったことかと言うのである。そして、主がこの寿命を引き延ばし、自分を起き上がらせてくださるなら、ずっと多くを行ない、ずっと勤勉になりたいものだと口にした」。

 友人であり、福音における兄弟であるインガム師に向かって、グリムショーはこう語った。「最後の敵がやって来ました! 死のしるしが私に臨んでいます。しかし私は恐れてはいません。そうです! そうです! 神はほむべきかな、私の望みは確かであり、私は御手の中にあるのです」。後にインガム氏が、友のいのちが長らえて、まだキリストの御国のために用いられるように祈ったとき、この人物は言った。「あゝ! 私の惨めな奉仕がいかなるものであったことでしょう! いま私は、この役に立たない歩みの最後に達して叫ばなくてはならないのです。神さま。こんな罪人の私をあわれんでくださいと!」 別の折にこの人は、胸に手を当ててこう語った。「私は疲れ果ててしまいました。ですが、じきに故郷に行くことでしょう。――永遠に主とともにいるために。――その御血によって贖われた、貧しく惨めな罪人が」。

 その大切な同労者ヘンリー・ヴェン師は、当時ハッダーズフィールドで教区牧師をしていたが、ハッダーズフィールドから友の見舞いにかけつけて、具合はどうかと尋ねた。ヴェンに対してグリムショーはこう答えた。「神を最初に知ったときから、これほどの神の訪れを得たことはありません。私は地上で可能な限り最も幸いであり、すでに中に入ったかのように栄光を確信しています」。その後では、自分の病気がことのほか感染性が高く危険なものであることを思い出して、できる限り見舞いを控えるように友人たちに求めた。しかし、この人物の平安と希望は、最後まで揺るぎなかったと伝えられている。グリムショーは、それまで生きてきたように死を迎え、キリスト・イエスにあって喜び、肉には何の信頼も置いていなかった。

 この人物は、自らの願いによって、ホーワースからさして遠くないコールダー低地はラデンデン教会の内陣に眠る、その最初の妻の傍らに埋葬された。ヨセフのように、「自分の骨について指図し」たのである[ヘブ11:22]。病気にかかるずっと以前からグリムショーは、自分の葬儀について綿密で詳細な指示を書き上げており、人々はそれらの指示をきちんと守った。棺に付き添う者の数は、「信仰上の、あるいは血縁の、さもなければその双方の友人たち」二十名とすべきであった。死装束はただ簡素な貧者用のものでよく、楡の木でできた、ごてごてとしていない貧困者用の棺と、次のみことばを記した覆い布があれば良かった。「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です」[ピリ1:21]。教会へと向かう道では、詩篇23篇、39篇、91篇から選ばれた、様々な拍子と節回しの聖句と、適切な賛美歌を歌いつぐべきであった。付添い人の少なくともひとりは、メソジスト派の説教者とし、そのひとりが自分の棺の上にある聖句(ピリ1:21)から葬送説教を行なうべきであった。その折のために選ばれたメソジスト派説教者は、この人物の年来の友人また同労者であるヘンリー・ヴェンである*6。ラデンデンの教会は、葬儀に集まった膨大な数の会衆を収容する小さすぎ、説教者は墓地に立って語ることを余儀なくされた。ハーディはこう語ったる。「伝えられるところ、ヴェンの声音は、力いっぱい打ち鳴らされた鐘のように響き、今は亡き友の数々の美徳について告げ、この人物がキリストに従ったように、その後に従うよう人々に勧告したという」。実際、これほど栄誉ある形で埋葬された者はいた例がなかった。ステパノのように、「敬虔な人たちはこの人を葬り、彼のために非常に悲しんだ」*[使8:2]。グリムショーは、いみじくもヴェンが述べているように、「厳粛な葬送歌や王族の葬礼といった華やぎを越えて気高い形で葬られた。大群衆がその墓までついて行き、愛情のこもった溜め息や多くの涙とともに、そのなきがらを見送った。その人々は、今なお、この大いに愛された名前を耳にすると、自分たちの魂の導き手を思って涙を浮かべずにはいられずにいるのである」。

 グリムショーは二度結婚し、二度やもめになった。最初の妻はセアラといい、イーウッドホールのジョン・ロックウッドの娘であった。この婦人は、グリムショーに嫁すまで二度結婚したことがあり、最初はスカイトクリフのウィリアム・サトクリフ、二度目はジョン・ラムズデンにとついだが、二人とも子どもを残さずに死んだ。グリムショーは明らかに最初の妻を深く愛しており、1739年11月1日にその妻に死なれたときには、その喪失を骨身に感じた。二人目の妻は、ヘブデンブリッジ近郊はメイロイドのヘンリー・コッククロフトの娘エリザベスである。この婦人が他界した年月日の記録は見つけることができなかった。

 グリムショーには一男一女の二人しか子どもがおらず、どちらも最初の妻から生まれている。娘はブリストル近くのキングズウッドにある学校に通っているとき、ほんの12歳で死んだ。息子も父の死後、3年しか生きていなかった。父の生前は無頓着で不節制な生き方をしており、大きな嘆きの種だった。この息子が臨終の床についている父を見舞ったとき、グリムショーは、まだ死ぬにふさわしくない状態にあるわが子に向かって、自分を大切にするよう告げたという。やはりこの息子に対してグリムショーは次のような並々ならぬ言葉を用いている。「私のからだは、煮立った器のようになっているが、魂は、神によって幸いにされうる限り幸いにされているよ」。ジョン・グリムショーは1766年5年17日にイーウッドで死んだが、神の大きなあわれみのおかげで、その死には希望があった。もしかすると、父の今際の言葉が心にしみじみと感じられていたのかもしれない。いずれにせよ、父が息子のために積んだ多くの祈りは聞き届けられたのである。父の死後、ジョンは亡父のものだった馬に乗るのを常としていたが、ある日、ホーワースに住むひとりの人と出会い、こう声をかけられたそうである。「亡くなった牧師様のお馬に乗っておられるようすね」。――「ああ」とジョンは答えた。「こいつが、こないだまで乗せていたのは途方もない聖徒だったが、今は途方もない罪人さ」。その死のかなり前から小グリムショーは、救いに至る悔い改めの明確な証拠を示しており、キリストにある赦罪と平安を見いだしていた。そして、その死の少し前には、こう大きく声を上げていたという。「ぼくが天国にやって来る姿を見たら、親父のやつ何て言うだろうな」。

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*1 ハーディ著、『グリムショー伝(Life of Grimshaw)』、p. 82参照。[本文に戻る]

*2 ホワイトは、前世紀における無頓着で無価値な聖職者の中でも極端にすぎる例であったに違いない。この人物は、ローマカトリックの司祭になるために仏ドゥエー大学に学んだが、カトリック信仰を撤回した後で、ポッター大主教により、ホエイリー教区牧師という高位に就くよう推薦された。ホワイトは何週間もまとめて自分の教区を不在にすることがたびたびあり、ある折など、その不在中に葬られた遺体のために、一晩で12回以上も葬儀式文を読み上げたことがあったらしい! この人物は1751年にラングロイドで死んだ。そして、こう記せるのは喜ばしいことだが、その臨終の床にグリムショーを呼び寄せ、上で述べたような暴動騒ぎにかかわったことを悲しく思うと表明したとのことである。[本文に戻る]

*3 ハーディ著、『グリムショー伝(Life of Grimshaw)』、p. 230参照。[本文に戻る]

*4 明らかにこの物語で述べられた堅信礼は日曜日に行なわれたに違いない。[本文に戻る]

*5 メソジスト派の教役者である、『G・ロウ師伝(Life of Rev. G. Lowe)』(ストラカン著)より。[本文に戻る]

*6 百年前の英国国教会では、福音主義者の聖職者が「メソジスト派」と呼ばれるのが常であった。[本文に戻る]

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