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第2章

ウェスレーの説教――公刊された説教集の序文――オックスフォード大学の前でなされた説教の抜粋――協力者たちへの指図と指針――配下の信徒説教者に対する助言――リンカンの主教にあてた手紙――ウェスレーの功績のおおよその評価

 ジョン・ウェスレーほど百年前の英国に深い印象を与えた人物の場合、その著述の実例を多少とも読者に紹介しなくては、その全体像を正しく伝えたと思ってはなるまい。このメソジスト運動の父から他に目を転ずる前に、彼の思考様式およびその思想の表現形式について、ある程度はっきりした観念をつかんでおくようにしたいと思う。彼の頭脳がどのように働いていたか眺めてみよう。

 ジョン・ウェスレーのように拭い去りがたい感化を同国人の上に及ぼすことのできた人物が平凡な人物だったはずがないということは、だれしも感ずるに違いない。80代の半ばになるまで諸集会を一手に掌握し続け、ホイットフィールド以外のだれにも劣らぬ影響を生み出した人物には、明らかに特異な賜物が備わっていたはずである。彼の説教集とその他の著作から数箇所を抜粋するならば、おそらくそれは、ほとんどのキリスト者の読者にとって興味深く、示唆に富むものと思われよう。

 幸いなことに、この件についての判断材料はふんだんにあり、またたやすく入手できる。いま現在、私の机の上には53編の説教をおさめた一冊の説教集がある。ウェスレー自身の手によって出版の準備がなされ、1771年に初版が出たものである。これは今日概して受けているよりも、はるかにまさる注意を受けてしかるべき書物である。正直なところ、これらの説教のいくつかで説かれている教理は、時として非常に多くの欠陥を伴ったものである。にもかかわらず、この書物には多くの崇高な文章がおさめられている。この書物の少なからぬページに記されているのは、その透徹さといい、簡潔さといい、明晰さといい、力強さといい、純粋なアングロ・サクソン語といい、万人が手本とすべき最上の文体である。

 この説教集に付されたウェスレーのまえがきそのものが、非常に尋常ならざるものである。まず私は、そのまえがきから多少の抜粋をあげることにしたい。彼は云う。――

 「私が志しているのは、平民のための平明な真理である。それゆえここでは、高尚で哲学的な思弁や、混み入った難解な理論の類は一切語るつもりはない。学識を示すことすら、所々で聖書の原語を引用する以外は、可能な限りすまいと思う。私は、理解しにくい言葉――日常生活で使われていないような言葉――はことごとく用いないように努めた。特に、多くの神学書中にやたらと出てくる専門用語の類――読書階級には馴染み深い語法であっても、一般大衆には外国語も同然の言葉づかい――は、これを避けるようにしてきた。だが、もしかすると私も無意識のうちに、そうした言葉づかいに陥ってしまった場合があるかもしれない。人はみな、自分が慣れ親しんでいる言葉は、だれにとっても親しみ深いものだろうと簡単に思い込んでしまうものだからである。

 「否、私の志すところは、ある意味で、自分がこれまでの生涯で読んできたあらゆることを忘れることにある。私は、霊感された人々の著作[聖書]以外は、古今を問わずいかなる人の著作も全く読んだことがないかのように、大づかみに語っていきたい。いま私が確信しているのは、1つには、そうすることで私は、他人の考えに縛られたりせず、ただ自分の考えの流れを追っていくだけでよいため、心の感ずるところをより明確に表現できるだろうということである。もう1つのこととしては、そうすることで私は、思いに余計な重しをつけたり、偏見や先入観にとらわれることなく、福音の真理をあるがままに探り求め、また他人に提示できると思うのである。

 「率直で、道理をわきまえた人が相手であれば、私は心の最奥の考えを打ち明けることも恐れはしない。私はこう考えたのである。『私は、つかのまの存在にすぎず、宙を飛ぶ矢のように人生を過ごしている。私は神から出て神へと帰る霊であり、大いなる深淵の上をほんのつかのまただよっているだけの存在であって、しばらくすればどこからも見えなくなってしまう! そのまま私は不変の永遠へと陥ってしまう! 私が知りたいことはただ1つ――天国への道、――いかにしてその幸いな対岸に無事に上陸できるかということである。恐れおおくも神ご自身がその道を教えてくださった。まさにそのためにこそ、神は天から下ってきてくださった。神はそれを1つの書に書き記してくださった。おゝ、その書をわれに与えたまえ! いかなる代価であれ神の書を与えたまえ! いま私はその書を手にしている。ここには私にとって十分な知識がある。われを一書の人とならせたまえ。今ここに私は、喧噪から逃れて静まっている。私はひとり座している。ただ神だけがここにおられる。御前で私は神の書を開き、それを読む。何のためか――天国への道を見いだすためである。読んだ内容の意味について何か疑問があるだろうか?――私は光の父に向かって自分の心を差し伸べる。主よ、「知恵の欠けた人がいるなら、その人は ……神に願いなさい」、とは汝がことばにはあらんや。汝は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになるお方にはあらんか[ヤコ1:5]。汝は云いたまいぬ。だれでも汝がみこころを行なおうと願うなら、その人は教えがわかる、と[ヨハ7:17]。われは行なわんと願えり。汝がみこころを教えたまえ。そして私は聖書の平行箇所を探り求め、熟考し、霊的な事柄を霊的な事柄と比較する。それについて、自分の知性に可能な限りの熱心さと注意深さをもって瞑想する。もしそれでも疑いが残ったなら、私は神の道に通じた老練な人々の意見を聞く。彼らは死んだが、その書物によって、今もなお語っている。そしてこのようにして学んだことを私は教えるのである』。

 「しかしある人は云うかもしれない。あなたは他人を教える務めを引き受けていながら、自分が道を誤っているのだ、と。おそらくそのように考える人は多いであろうし、そうした意見が正しいという可能性も決して小さくはない。しかし私は、自分がどこで間違っていたとしても、断じて過ちを改めることにやぶさかではないと信ずる。私は誠心誠意、より正しい知識を得たいと願っている。私は、神に対しても人に対してもこう云いたい。『私の知らないことをあなたが私に教えてください』、と。

 「あなたは、私よりも明確に真理を理解しているという確信があるだろうか? それは決してありえないことではない。ならば、あなたには、別の事情のもとでは自分がしてほしいと思うようなしかたで、私に接してほしいと思う。私がまだ知らない、よりすぐれた道を指摘していただきたい。それが真理であることを聖書の平明な証明によって示していただきたい。だがもし私が、それまで踏み慣れてきた道でぐすぐずしており、よそへ移りたがろうとしなくとも、もう少し説得を重ねていただきたい。私の手を取って、私に耐えられるだけの歩調で導いてほしい。早く進めと打ち叩かないでくれと私が願っても、失望しないでいただきたい。私には、せいぜいかすかにゆっくりとしか進めないのである。絶え間なく打ち叩かれたりしたら、一歩も先へは進めまい。さらに私があなたに願いたいのは、私を正道に至らせようとして、私を悪しざまにののしらないでほしい、ということである。私がそれほど大きな過誤に陥っているとしたら、そのようなことで私を正気に返らせるとは到底思えない。むしろそれは、ますます私をあなたのいる方向とは反対へ追い立てて、正しい道からどんどんはずれていくことになるであろう。

 「否! ことによると、あなたが怒りを発するならば、私も怒りを発するかもしれない。そんなことになったら、真理を見出すことなど夢のまた夢となろう。いったん怒りが燃え上がったなら、その煙は私の魂の眼をかすませ、何も明確に見えなくなるであろう。私はぜひともお願いしたい。避けることが可能であれば、互いに怒りを引き起こすようなことはよそうではないか。互いの内側にこの地獄の火をつけ合ったり、いわんやそれを炎と燃え上がらせるようなことはしないようにしようではないか。たとえ、そのようなおぞましい光で真理を見分けることができたとしても、それは収穫であるより損失ではないだろうか? なぜなら愛は、いかに多くの謬見を伴っていようと、愛なき真理などよりも、はるかに好ましいではないか! 私たちは、真理の知識に多くの欠けがあるまま死んでも、アブラハムのふところに連れて行ってもらえるであろう。しかしもし私たちが愛を持たずに死んだなら、知識が何の役に立つだろう? 悪魔とその使いにとってと同じ程度にしか役に立つまい!」

 ジョン・ウェスレーの内面を明らかにする次の実例は、1738年6月18日、オックスフォードの聖メアリー教会で、全学を前にして彼が語った説教からの抜粋である。主題聖句は、「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです」(エペ2:8)であった。そこには以下のような箇所がふくまれている。――

 「今の時、私たちは、常にもまして語りたいと思う。あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです、と。なぜなら今日ほどこの教理を主張することが時宜にかなっていたことはないからである。この教理以外の何をもってしても、私たちの間に蔓延しつつあるローマカトリック的迷妄をすっぱりくいとめることはできない。ローマ教会の過誤のすべてを逐一攻撃していたら切りがないであろう。しかし信仰による救いは、その根幹に一撃を加えるものであって、それさえなされるなら即座にすべてが打ち倒されるのである。この教理、すなわち私たちの教会が正当にもキリスト教の強固な岩にして土台であると呼ぶこの教理こそ、わが国から最初に教皇制を追い出したものであり、この教理によるしか、その再侵入を防ぐことはできない。これ以外の何物をもってしても、この国に氾濫している不道徳を押し止めることはできない。大海原を一滴ずつ汲み出して空にすることができようか? もしできるなら、個々の悪徳を1つ1つ諌めることによって社会を改革することもできよう。しかし信仰による神からの義を差し上げるとき、思い上がった不義の波頭は制止させられるのである。これ以外の何物も、おのれの恥を栄光とし、『自分たちを買い取ってくださった主を否定する』ような者らの口をふさぐことはできない。彼らは、神によって律法を心に記されている人と同じように、荘厳な口調で律法について語ることができる。このことについて彼らが語っているのを聞くと、彼らは神の国から遠くないと思い込みそうになる。しかし彼らを律法の中から福音へと捕らえ移してみるがいい。信仰による義について、また信ずる人みなにとって律法を終わらせられたキリストについて持ち出してみるがいい。そうするとき、それまでは、完全にとは云えぬまでもほとんどキリスト者のように見えていた者たちが、まぎれもなく滅びの子らであることが明白になるのである。彼らがいのちと救いから遠く離れていること(神よ、彼らをあわれみたまえ)、地獄の深みと天国の高みの離れているがごとしである。

 「それゆえ敵[サタン]は、どこで信仰による救いが世に宣言されようと怒り狂うのである。こうしたわけで彼は、地上と地獄を揺るがしてまでも、それを宣べ伝える者たちを滅ぼそうとしてきたのである。また、それと同じく彼は、自分の王国を転覆することができるのは信仰だけだと知っているために、おのれの全軍勢を召集し、そのありとあらゆる虚言と罪人呼ばわりによって主の軍勢の戦士マルティン・ルターを恐れさせ、それを復興させまいとしたのである。そうした脅かしがあることも不思議ではない。なぜなら、かの神の人が語っているように、武装に身を固め鼻高々にしている強い人が、わらしべ一本で立ち向かってきた童子によって押し止められ、手玉に取られてしまったとしたら、いかに激怒することであろうか? 特に、その童子が自分を簡単に投げ飛ばし、その足で踏みにじれることがわかったときには。まさにそれと同じく、主イエスよ! 汝が力は、弱さのうちにこそ完全に現わるなり! では行くがいい、主を信ずる幼子よ。主の右の手は、恐ろしいことをあなたに教える。たとえあなたが数日しか生きない乳飲み子のように無力で弱くとも、その強い人があなたの行く手をさえぎることはできない。あなたは彼を打ち負かし、屈服させ、取りひしぎ、あなたの足で踏みにじるであろう。あなたは、あまたの救いの偉大な指揮官とともに行進し、勝利の上にさらに勝利を得て、ついにはあなたのあらゆる敵が滅ぼされ、死さえも勝利に呑まれるのである」。

 ジョン・ウェスレーの説教から次に私が示したい実例は、信仰による義認について彼が行なった説教の結びの部分である。これは、以下に示すような衝撃的な段落でしめくくられている。主題聖句はロマ書4:5である。――

 「今この言葉を聞くか読むかしている、不敬虔な者であるあなたに云いたい。邪悪で無力で惨めな罪人であるあなたに、私は、すべてを審くお方であられる神の前で命ずる。あなたのありったけの不敬虔さをもって、まっしぐらにイエスのもとへ行くがいい。自分の義をあれこれ申し立てて、あなた自身の魂を滅ぼすことがないように気をつけなくてはならない。全く不敬虔なまま、咎あるまま、失われたまま、滅んだまま、地獄に値し地獄へ堕ちつつあるまま行くがいい。そのようにするときあなたは、彼の目にいつくしみを見いだし、彼が不敬虔な者を義と認めてくださることを知るであろう。望みなく、助けなく、地獄に落ちるしかない罪人、そのような者としてあなたは注ぎかけの血へと近づかなくてなはらない。このようにイエスを見上げよ! そこにあなたの罪を取り除く神の子羊がおられる! 何の行ないも、何の自分自身の義も申し立てはならない! 何の卑下も、何の悔悟も、何の誠意も。いかなることにおいても。それは、まさしく、あなたを買い取ってくださった主を否定する所業にほかならない。否! 申し立てるはただ、契約の血と、あなたの高慢でかたくなで罪深い魂のため払われた贖い代のみとせよ。自分の内側と外側の不敬虔さを今見つつあり、感じつつあるあなたは何者なのか。あなたがその人なのだ! 私はあなたに私の主に向かってほしい。私はあなたを信仰による神の子どもとして命ずる。主はあなたを求めておられる。自分がまさに地獄に入るにふさわしいと感じているあなたこそ、主のご栄光を高め、行ないのない不敬虔な者を義と認める値なしの恵みの栄光を高めるのに最適の者なのである。おゝ、急いで来るがいい! 主イエスを信ぜよ! そのときあなたは、あなたさえも、神と和解できるのである」。

 私が読者の前に持ち出したいジョン・ウェスレーの説教の最後の例は、1744年、オックスフォードの聖メアリー教会で、彼が全学を前に行なった説教の一部である。主題聖句は使徒4:31で、説教題は「聖書的キリスト教」である。「聖書的キリスト教は、どこに存在しているだろうか?」、と問うた後で、彼は聴衆に対して次のようなしかたで語りかけている。――忘れてならないことだが、その聴衆とは、オックスフォード大学の錚々たる学寮長たち、教授たち、フェロー(特別研究員)たち、教官たち、そしてその他の院生たちであった。――

 「兄弟たち。私は神のあわれみのゆえにお願いしたい。もしあなたがたが私を狂人だとか愚か者であると考えるならば、愚か者として私のことを忍んでいただきたい。あなたがたに対しては、だれかがこれ以上ないほど平易な口のきき方をすることが、全く必要なのである。このような時勢では、特にいやまさって必要である。なぜなら、これが最後の機会とならないとだれに云えようか。後どのくらいしたら正しい審判者であるお方がこう云わないと、だれに云えようか。『わたしは、もはやこの民のためのとりなしを聞かない。たとい、この地に、ノアとダニエルとヨブがいても、彼らは自分たちのいのちを救い出すだけだ』、と。そして、このように歯に衣着せない物云いを私がしないとしたら、だれがそうするだろうか? それゆえ私が、この私が、語るのである。さて私は、生ける神にかけて、あなたがたに厳命する。私の手から祝福を受けることに対して心をこわばらせてはならない。心中ひそかに、『non persuadebis etiamsi persuaseris(たとえお前が私を説得できたとしても、お前になど説得されはしない)』、などと云ってはならない。あるいは、云い方を変えれば、『主よ。あなたは、あなたが遣わすような者で遣わしてはならない。この男によって救われるくらいなら、私をわが血の中で滅ぼすがいい』、と。

 「だが兄弟たち。私はこのように語ってはいても、あなたがたについては、もっと良いことを確信している。では、私に尋ねさせてほしい。優しく、愛をこめて、また柔和な霊をもって問わせてほしい。このオックスフォード市はキリスト教市だろうか? ここにはキリスト教が、聖書的キリスト教が見られるだろうか? 私たちは、一団となって聖霊に満たされているだろうか? その御霊の純粋な実を、私たちは心の内側で享受し、生活において示せているだろうか? すべての行政官、すべての学寮長や学部長たち、そしてその個々の学会は、(この町の住民たちのことはさておき)、心と魂を1つにしているだろうか? 神の愛は私たちの心に注がれているだろうか? 私たちは、神のうちにある者と同じような気質をしているだろうか? 私たちの生き方はそのような者にふさわしいものだろうか? 私たちは、私たちを召してくださった聖なる方にならって、自分自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされているだろうか?

 「あなたも私もまもなくその前に立たなくてはならない大いなる神を恐れつつ、その御前で私は、あなたがた、私たちの上に権威を持っている方々に願う(私はあなたがたの役職のゆえに敬意をいだく者である)。どうか神に対して自分を偽るような考え方をしないでいただきたい。あなたは聖霊に満たされているだろうか? あなたは、人々の間で自分が代理を務めるべく任命されているお方の生き写しとなっているだろうか? わたしは言った。『おまえたちは神々だ』。あなたがた、行政官やつかさたち。あなたはその役職によって、天の神にかくも近しい縁にあるのである。あなたの種々の立場や身分において、あなたは私たちの統治者なる神を私たちに示すべきなのである。あなたの心のすべての思い、あなたの気分と願いのすべては、あなたの尊い職務にふさわしいものだろうか? あなたの言葉のすべては、神の御口から出ることばとして似つかわしいだろうか? あなたの行動のすべてにおいて、そこには言葉につくせぬ威厳と愛と偉大さが、神に満たされた心からしかあふれ出ないようなものとして、それにもかかわらず、うじである人間、虫けらの人の子の性格にふさわしいものとして見られるだろうか?

 「あなたがた、尊ぶべき方々。特別な召命を受けて、青年の柔らかな思いを形成し、そこから無知と過誤との翳りを追い散らし、彼らを御国の世継ぎとなるべく訓練をするよう任ぜられている方々。あなたは聖霊の実に満たされているだろうか? あなたの重要な務めがかくも不可欠としている御霊の実に満たされているだろうか? あなたの心は神に対していまもまだ健全だろうか? 地に神の御国を建設しようとする愛と情熱に満ちているだろうか? あなたは絶えず、あなたの配慮の下にある者たちに、私たちのあらゆる研究の唯一の理にかなった目的は、唯一まことの神と神がお遣わしになったイエス・キリストとを知り、愛し、仕えることであると思い起こさせているだろうか? あなたは日々彼らに熱をこめて説き聞かせているだろうか? いつまでも絶えることがないのは愛だけであること、また愛がなければあらゆる学識は華々しい無知であり、壮麗な愚であり、霊の擾乱でしかないということを。あなたの教えることには例外なく、神を愛し、神ゆえに全人類を愛することへと心を実際に傾けさせるものがあるだろうか? あなたは、自分の指図で、彼らの研究の種類や手法や程度にいかなる点で影響を与えるときも、このことを願いつつ努めて目当てとしているだろうか? すなわち、これらの若きキリストの兵士たちの運命がどう転ぼうと、彼らがあらゆることにおいてキリストの福音を飾る、多くの燃えて輝くともしびとなることを。そして、こう尋ねることを許していただきたいが、あなたは自分が引き受けた広大な務めに自分の全力を注ぎ込んでいるだろうか? あなたはここで力を尽くし、魂のあらゆる機能をことごとく費やし、神が貸し与えてくださったあらゆるタラントを用いて励んでいるだろうか、それを力の限り行なっているだろうか?

 「思い違いをしないでほしいが、私は今、何もあなたがたの配慮の下にある者すべてが聖職者になるべきだなどと考えて語っているのではない。そうではない。私はただ、彼らはみなキリスト者となるべきだと語っているのである。しかし彼らにはいかなる模範が示されているだろうか? 先祖たちの恩恵をこうむっている私たちは、また研究員や、学生や、学者や、何よりも特に、何らかの地位と卓越した立場を占めている人々は、いかなる模範を示しているだろうか? 兄弟たち。あなたは御霊の実に満ちあふれているだろうか? 心のへりくだりにおいて、自己否定と罪の抑制において、霊の優しさと平静さにおいて、忍耐と柔和さと節制と節酒において、また、うまずたゆまずあらゆる人に善を行ない、その外的な欠乏を軽減し、その魂を神に対する真の知識と愛とに導くことにおいて、御霊の実に満ちているだろうか? これが各学寮の研究員たちの一般的性格だろうか? 残念ながらそうではないと思う。むしろ高慢と心の思い上がり、短気と気難しさ、怠惰と怠慢、暴飲暴食と好色、それに格言にすらなっている役立たずさこそ、私たちに対する反対意見として、私たちの敵たちばかりからだけでなく、また、あながち根拠なしとはせずに、出されていないだろうか? おゝ、願わくは神がこの非難を私たちから弾き飛ばしてくださるように。この記憶そのものが永遠に滅び失せるように!

 「私たちの多くは神に直接聖別された者たち、聖なる物事に仕えるように召された者たちである。それでは私たちは、言葉において、生活において、愛において、霊において、信仰において、きよさにおいて、その他の人々の模範となっているだろうか? 私たちの額には、私たちの心には、『主への聖なるもの』と記されているだろうか? いかなる動機で私たちはこの職務に入ったのだろうか? それは本当に主に仕えたいという純粋な思いからだっただろうか? 聖霊によって内側から動かされていると確信し、神の栄光をいや増し加え、神の民を建て上げようとして、この聖職についたのだろうか? また私たちは、この務めに完全に献身することを、神の恵みによって明確に決意していただろうか? 私たちは、自分一身にかかわる限りは、世俗的な心配りや努力を捨て去り、わきへやっているだろうか? 私たちはこの一事に完全に専念し、自分の心配りと努力をことごとくこの方向へと引き寄せているだろうか? 私たちには教える資格があるだろうか? 私たちは、他の者をも教えることができるように、神から教えられているだろうか? 私たちは神を知っているだろうか? イエス・キリストを知っているだろうか? 神は私たちのうちに御子を啓示してくださっただろうか? また神は私たちを、新しい契約において力ある仕え人としてくださっただろうか? それでは、私たちの使徒職の証印はどこにあるだろうか? かつては罪過と罪との中に死んでいながら私たちの言葉によって生かされた者はどこにいるだろうか? 私たちには、人々を死から救いたいという熱意、彼らのためならパンを食べるのもしばしば忘れるほどの燃える情熱があるだろうか? 私たちは、平明に語ることで真理を明らかにし、自分自身をすべての人の良心に推薦しているだろうか? 私たちは世と世の物事に対して死に、自分のすべての宝を天に積んでいるだろうか? 私たちは、割り当てられている人たちを支配しているだろうか、それとも一番小さな者として、すべての人の奴隷となっているだろうか? 私たちは、キリストのゆえにそしりを受けるとき、それが重くのしかかるだろうか、それとも喜びとするだろうか? 私たちは右の頬を打たれたとき、それを恨みとするだろうか? 公然たる侮辱に我慢がならないだろうか、それとも左の頬をも差し出し、悪い者に手向かわず、悪に負けず、かえって善をもって悪に打ち勝つだろうか? 私たちには苦々しい熱意しかなく、道をはずれた者らを辛辣に、また激しく叱責するだろうか、それとも私たちの熱意は愛に燃えており、私たちのすべての言葉を快く、へりくだった、柔和な知恵あるものとしているだろうか?

 「もう1つだけ、この場にいる青年たちについて私たちは何と云うべきだろうか?――あなたは、キリスト教的敬虔の形か力を持っているだろうか? あなたはへりくだった、教えられやすく、進んで助言を受け入れる者だろうか? それともかたくなで、依怙地で、強情で、高慢ちきな者だろうか? あなたは自分の長上者に対して、両親に対するかのように従順だろうか、それとも最高度の敬意を払ってしかるべき人々を蔑んでいるだろうか? あなたは自分のあらゆる務めを熱心に果たし、自分の学業を全力を尽くして追求しているだろうか? あなたは時を生かし、一日一日に詰め込めるだけの勉強を詰め込んでいるだろうか? むしろあなたは、自分でも自覚してはいないだろうか? 自分が毎日を無駄に費やし、全くキリスト教のためにならないようなものを読んだり、賭博したり、――あなたが承知しているような物事にふけっていることを。あなたは自分の富の方は、時間よりもましに管理しているだろうか? あなたは、一貫した原則として、だれにも借金をしないように気をつけているだろうか? 安息日を覚えて、これを聖なる日とし、特に神を直接に礼拝するために用いているだろうか? 神の家にいるとき、あなたはそこに神がおられることを考えているだろうか? 見えない方を見るようにしてふるまっているだろうか? あなたは、いかに自分のからだを、聖く、また尊く保つかを知っているだろうか? 酩酊や汚れがあなたがたの間には見られないだろうか? しかり、あなたがたの中のおびただしい数の者たちが自分の恥を栄光としてはいないだろうか? あなたがたの中の多くの者たちは、神の御名をみだりにとなえ、ことによると口癖のように何の呵責も恐れもなしに御名を口にしてはいないだろうか? しかり、あなたがたの間のおびただしい数の者たちは偽証をしてはいないだろうか? 残念だが、そうした者らが急激に増加しつつあるのではないかと思う。驚いてはならない、兄弟たち。神とこの会衆の前で私は自分自身、そうした者のひとりであったことを認める。かつて私は、自分が何も知らなかったすべての慣習を遵守すると、また、その当時もそれから何年かした後になっても一読もしたことのなかった種々の戒めを守り行なうと、厳粛な誓いを立てたのである。これが偽誓でなくて何であろう? しかしもしそうだとするなら、おゝ、何と重い罪を、しかり、何と極悪な罪を私たちは負っていることか! そしていと高き方はそれを見ておられないだろうか?

 「こうしたことの1つの結果として、あなたがたの非常に多くが、いいかげんな考え方の世代となっているのではなかろうか? 神に対していいかげんに考え、互いに対していいかげんにふるまい、自分の魂をいいかげんに扱っているのではなかろうか? というのも、あなたがたのうちのどれだけが、毎週ほんの1時間でも密室の祈りに時間を費やしているだろうか? どれだけが、自分の日々生きていく道において少しでも神のことを考えているだろうか? どれだけの者が、少しでも御霊のみわざを、――自分の魂の内側でなされた超自然的なみわざを知っているだろうか? あなたは、教会の中でちらほら耳にするとき以外に、聖霊のことが話し合われているのを聞くことができるだろうか? もしそうした会話を始めるような者がいたら、頭から偽善者か狂信者だと決めつけられるのが普通ではなかろうか? 全能の主なる神の御名において、私は問う。あなたがたは一体何の宗教を信じているのか? キリスト教について語ることすらあなたがたにはできず、がまんもできない。おゝ、私の兄弟たち。これは何というキリスト教市であろうか! 主よ。今は汝の手を下し置くべき時なり。

 「なぜなら実際、キリスト教が――聖書的キリスト教が――、再びこの場所の宗教となり、私たちの間のあらゆる階級の人々が聖霊に満たされた人々のように生き、語れるようになる見通しは、――あるいは、人間的な云い方をすれば、可能性は――どれだけあるだろうか? だれによってこのキリスト教は回復されるだろうか? あなたがたの中の権威を有する人々によってだろうか? ではあなたは、これが聖書的キリスト教であると確信しているだろうか? あなたはこれが回復されることを願っているだろうか? あなたは、これを回復する器となるためなら、自分の富も、自由も、いのちも惜しくないと思っているだろうか? しかし、たとえあなたにその願いがあったとしても、それを成し遂げるだけの力をだれが持っているだろうか? ことによるとあなたがたの中には、これまでに何度かむなしくそれを試みたことのある者がいるかもしれないが、その成果の何と乏しいことか! それではキリスト教は、いまだ年若い無名無冠の人々によって回復されるだろうか? しかし果たしてあなたがたがそのようなことを許すかどうか。あなたがたの中にはこう叫び立てる者があるのではなかろうか? 「青二才が! それは我々を侮辱することだぞ!」、と。しかし、それが本当かどうかためされる危険は全くあるまい。それほど不義は私たちの間に氾濫している。それでは神はいかなる者を遣わすだろうか? ききんか、疫病か(これらは咎ある土地に対する神の最後の使者である)、それとも剣だろうか? ローマカトリックを奉ずる外国軍がやって来て、私たちを最初の愛に立ち戻らせるのだろうか? 否、主の手に陥ることにしようではないか。人の手には陥らぬようにしよう。

 「主よ、救いたまえ。われらは亡ぶ! 願わくは泥の中よりわれらを助け出だして、沈まざらしめたまえ! おゝ、願わくは助けをわれらに与えて敵に向かわしめたまえ。人の助けは空しければなり。汝には、あたわぬ所なし。汝の大いなる御力により死に定められし者を守りて永らえしめたまえ。汝の目に良しと見るがごとくわれらを守りたまえ。われらが心のままにとはあらず、みこころのままになしたまえ」。

 読者も、これが尋常ならざる説教であり、大学の講壇からはめったに聞かされないような部類の説教であることには同意するであろう。1744年に、この説教を聞いた大学副総長や学寮長たち、学寮の研究員たちや教官たちが何と考えたかは知るすべもない。ウェスレーはその日記にこう記しているだけである。「きょうは、聖メアリー教会における、おそらく最後の説教をした。それならばそれでよい。もはや私は、かの人々の血の責任を問われることはない。私は自分の魂からの使信を宣べ伝えたのだ。後で夕刻になってから総長つき儀官がやってきて、『副総長が説教草稿をお求めです』、と云った。私はすぐさま自分の草稿を送り届けたが、神の賢き摂理をあがめざるをえなかった。ことによると、私が自分で草稿を持たせてやったなら、私の説教を読む人など高位の人の中にはほとんどいなかったかもしれない。しかし、このことによって学内で重きを置くあらゆる人士が、おそらくは一度ならず、それを読むことになったのである」。おそらく多くの人が同意してくれるだろうと思うが、もしもオックスフォードが、過去百二十年の間に、こうした率直な説教をもっと聞いていたとしたら、英国国教会にとって、より良い結果を生んでいたことであろう。

 さてここから私は、ウェスレーの説教から目を転じ、彼の精神を解き明かす非常に異なった種類の見本を記してみたい。ここに挙げるのは、彼がメソジスト運動の伝道活動において、自分の助手たちを指導するために規定した12の規則である。こうした規則は、非常に驚くべきしかたで、この人物の水も漏らさぬ周到さと良識を例示するものであると思う。またこれらは、彼の簡潔で力強い文体の良い実例にもなるであろう。彼は自分の助手たちにこう告げている。――

 「1. 勤勉であること。一瞬も怠惰に過ごしてはならない。決してつまらぬことに時間を用いてはならない。決してだらけて過ごしてはならない。いかなる場合も、決して厳密に必要なだけの時間しか費やしてはならない。

 「2. 真剣であること。『主への聖潔』をあなたがたの合言葉とするがいい。いかなる軽薄さ、冗談、愚かな話も避けなくてはならない。

 「3. 女性との会話は極力控え、用心深く行なうこと。特に若い女性たちと内々に会うことは慎むこと。

 「4. 事前に私に知らせることなく、いかなる結婚話をも進めないこと。

 「5. いかなる人の悪評をも信じないこと。その悪がなされるのを自分で見るまで、他人の悪をどう信ずべきか用心しなくてはならない。あらゆることを善意に解釈するがいい。疑わしきは罰さずである。

 「6. いかなる人の悪口をも口にしないこと。さもないと、あなたがたの言葉は特に癌のように広がるであろう。当人の前に出るまで、自分の考えは胸にしまっておかなくてはならない。

 「7. だれに対しても、あなたがたがその人の欠点と思うところを、できるだけ早く、率直に告げること。さもないと、それはあなたの心をただれさせるであろう。その火は大急ぎで胸の外へ追い出さなくてはならない。

 「8. 紳士気取りの態度を取らないこと。そうした手合いの人格は、舞踏教師の人格と同様、あなたがたとは何の関係もない。福音の説教者はあらゆる人のしもべである。

 「9. 罪のほか何も恥じないこと。(時間があるなら)薪割りや水汲みをすることを恥じてはならない。自分の靴や隣人の靴を磨くことを恥じてはならない。

 「10. 時間に正確であること。すべてのことを時間通りに行なうがいい。また原則として会の規則を変えず、ただ怒りが恐ろしいからでなく、良心のためにも、それを守るべきである。

 「11. 救霊以外の何事も行なわないこと。それゆえ、この働きのために財を費やし、また自分自身をさえ使い尽くさなくてはならない。また、あなたがたを求めている人々のもとへではなく、あなたがたを最も必要とする人々のもとへ行くことを常とすることである。

 「12. 何事においても、あなたがた自身の意志に従ってではなく、福音の息子として行動すること。そのような者として、私たちの命じたようなしかたで時間を用いなくてはならない。――半分は説教することと、家から家へ群れを訪問することに、また半分は読書と、瞑想と、祈りに用いるがいい。何よりも、私たちと主の葡萄畑で労をともにしたければ、私たちが最も主のご栄光のためになると判断する時と場所で、私たちが受け持たせる通りの働きをすることが必要である」。

 これらの規則に注釈は不要である。これらそのものが雄弁に語っている。本来はメソジストの助手たちの必要を特に覚えて作成されたものでありながら、これらにはキリスト者のあらゆる団体にとって有益な知恵がふくまれている。もしも、福音の教役者がみな、今している以上に、こうした規則の精神を実行に移そうとするなら、またそこにふくまれた賢明な示唆を覚えておくなら、キリストのあらゆる教会にとって幸いであろう。

 次に、彼が配下の説教者たち一人一人にどのような助言を与えていたか、その実例をとりあげてみよう。ある説教者が、騒々しくがなり立てる説教者になりかかっていたが、彼はこう書き送っている。――

 「もう金切り声をあげるのはやめなさい。君の魂は危険に陥っている。いま神は、君の監督者としてお立てになった私を通して、君に警告しておられるのだ。あらん限りの熱意を込めて語るのはよい。しかし金切り声をあげてはならない。私たちの主は、『彼は叫ばず』、と云われたお方である。正確に云うと、彼は金切り声をあげず、ということである。だから私がキリストに従う者であるように、君は私に従いなさい。私はしばしば大声を出すし、しばしば激しい語気で語りはする。だが決して金切り声をあげたりしない。決して声をふりしぼることはしないし、しようとも思わない。そうすることが神に対する罪、自分の魂に対する罪となるだろうと知っているからだ」。

 個人的な読書と規則正しい学びの義務を怠っていた者に対して、彼は次のように書いている。――

 「だから君の説教のタラントは増し加わっていないのだ。君の説教は7年前から全く進歩していない。活気はあるが深みがない。何を聞いても同じように聞こえる。思想に広がりが全くない。そうした欠けを補うには、読書と、日ごとに瞑想し、日ごとに祈りを積むしかないのだ。このことをせずにいることで、君は自分自身に多大な害を及ぼしている。このようにしなくては、君は決して深みのある説教者になることができない。せいぜいよくできたキリスト者どまりだろう。だから即座に始めることだ! 毎日の決まった時間を定めて、個人的な修練の時間としなさい。それは、今はそう思えなくとも、しだいに好ましいものとなってくるだろう。最初は大儀だったことが、やがて楽しみとなっていくだろう。好むと好まざるとにかかわらず、毎日読書し祈ることである。これは生死に関わる問題なのだ! それ以外に方法はない。そうしなければ君は、一生を通じて、愚にもつかない、薄っぺらな説教者として終わるだろう。自分の魂を不当に扱ってはならない。魂が成長するための時間と手段をあてがってやることである。これ以上、自分を飢えさせてはならない」。

 ジョン・ウェスレーの内面を示す最後の資料として挙げたいのは、彼がリンカンの主教に宛てた手紙からの抜粋である。これは、リンカンシアのメソジストたちに対して、一部の狭量な判事たちが加えた不名誉な迫害について公式に抗議文として書かれた。これは文体の聖なる大胆さという点からばかりでなく、書き手の年齢ということからしても、興味深い手紙である。彼はこう書いている。――

 「閣下、私はすでに片足を墓場に踏み入れた、死につつある者です。八十歳よりは九十歳の方に近づいておりますから、人間的に云えば、今後はさほど長く地上をよろばうことはできません。しかし私は、このキリスト者的な愛の務めを閣下に向かって果たしてからでなくては、安らかに死ねません。単刀直入に書かせていただきます。私は、閣下も、他のどんな生ある人間も、期待したり恐れてはおりませんから。そして私は、閣下も私もまもなく申し開きをしなくてはならないお方の御名により、またそのお方の御前にあって、うかがいたいのです。なぜ閣下は、この国の中で静かな生活を営み、神を恐れ、義を行なっている者たちを悩ますのでしょうか? 閣下はメソジストがどういう者たちかご存知でしょうか?――数万にも及ぶ彼らが熱心な英国国教会の教会員であること、国王陛下ばかりでなく現政府にも強い親愛の情をいだいている者たちであることをご存知でしょうか? なぜ閣下は、宗教上のことを別にすると、これほど尊敬すべき友人たちの一団をお見捨てになられるのでしょうか? 彼らの宗教的意見のせいでしょうか? あゝ、何たること。閣下、現在は良心上のことで人を迫害するような時でしょうか? 閣下にお願いします。どうかご自分がしてほしいと思うように他人に接してください。閣下は良識ある方です。学識ある方です。否(それより無限に価値あることとして)、私は閣下が敬神の方であると心から信じております。それではお考えになってください。そして他人にも、自分の考えをいだくことをお許しください。願わくは、神が閣下をその最上の祝福で祝福してくださいますように」。

 この手紙をもって私は、ジョン・ウェスレーの精神とその働きの実例を閉じることにする。今ここで、ありあまる原資料の中から抜き出して示した抜粋に、さらに多くをつけ足すことは簡単にできたであろう。そうした原資料は調べたいと思えばだれの手にも届くところにある。しかし、中味を詰め込みすぎ、引用をし過ぎて主題をだいなしにするということもありえる。私はジョン・ウェスレーの精神的才幹について読者が自分で判断を下せるだけの材料は十分に提示したと思う。

 読者の中には、このメソジスト運動の父をただの狂信者であり、凡庸な能力と浅薄な教育の人、大衆の人気を博した説教者、無知な一団の群れの指導者でしかなかった、とみなすのを常としてきた方がいるだろうか? 私はそのような人に、これまで私が挙げてきたようなウェスレーの内面を示す実例を注意深く吟味し、自分の意見をもう一度考え直してみるように願いたい。人は、メソジストの教えを好むと好まざるとにかかわらず、リンカンの老フェローが一個の学者であり、聡明な人物であることは正直認めざるをえないと思う。この世は福音的キリスト教をあざ笑うのが常であるから、百年前に英国を揺り動かした人々を、頭が弱く、激しやすい熱狂主義者であるとか、学問のない無知な人間たちだとか好んで云うかもしれない。先の時代にはユダヤ人も使徒たちについて同じ事を云ったのである。しかしこの世も事実をくつがえすことはできない。メソジスト運動の創始者は、オックスフォードにおいて侮りがたい評価を得た人物であり、その著作に目を通すとき、博識で、論理的思考を貫く、知的な人物であることがわかる。この世の子らにできるものなら、このことを否定してみるがいい。

 最後に、読者の中にはウェスレーを、そのアルミニウス主義的見解のために嫌悪するのを常としてきた方がいるだろうか? 先入観をもって彼の名前から顔を背け、こんな不完全な福音の説教者に何か善がなしうるなど信じられないと考えるのが習い性となっている方がいるだろうか? 私はそのような人には、その意見を改めて、この十字架の老兵士にもう少し親切な目を注いで、彼が受けてしかるべき栄誉を与えるように願いたい。

 たとえジョン・ウェスレーが、私たちの偉大な指揮官が備えてくださった真理の武器のすべてを用いなかったとしても、それが何だろうか? 彼がしばしば口にしたことが、あなたや私には口にできないと思われることだったり、彼が口にしなかったことが、私たちには絶対云わなくてはならないことのように感じられるとしても、それが何だろうか? それでも、こうしたすべてのことにもかかわらず、彼はキリストの側に立つ大胆な闘士であり、罪と世と悪魔に対する恐れを知らぬ戦士であり、非常な暗黒の日にもひるむことなく主イエス・キリストに従って離れなかった勇者だったのである。彼は聖書を敬っていた。罪を激しく非難した。キリストの血潮をあがめた。聖潔を称揚した。悔い改めと信仰と回心の絶対的な必要を説いた。確かにこうしたことを忘れ去ってはならない。確かに私たちの師のこのことばには深い教訓がふくまれている。「やめさせることはありません。わたしの名を唱えて、力あるわざを行ないながら、すぐあとで、わたしを悪く言える者はないのです。わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です」(マコ9:39、40)。

 では、私たちは神に、ジョン・ウェスレーがいかなる人物であったかについて感謝しようではないか。そして彼の欠陥を絶え間なくあげつらったり、彼がいかなる人物でなかったかについてだけ語るということをやめにしようではないか。私たちの好むと好まざるとにかかわらず、ジョン・ウェスレーは、神の御手によって善をなすため用いられた巨大な器であり、ジョージ・ホイットフィールドに次いで、百年前の英国において最も優れた第一等の伝道者であった。

ジョン・ウェスレーとその伝動活動[了]

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