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IV.

ジョン・ウェスレーとその伝道活動


第1章

ジョン・ウェスレー ――他の多くの同時代人よりも著名な理由――出生地――その両親の点描――チャーター・ハウスおよびオックスフォードで教育を受ける――初期の信仰生活――1725年聖職に叙任される――オックスフォードに8年間在住---メソジスト・クラブに加入――1736年ジョージアに出帆――1738年帰英――野外説教を開始する――53年間働き続ける――1791年に死去――目的追求の一途さ、勤勉さ、多方面にわたる知的能力――アルミニウス主義


 前世紀、英国で活躍した改革者たちのうち、私が考察しようと思う二番手は、世界的に著名な人物、すなわち、かの有名なジョン・ウェスレーである。おそらくこの偉大な伝道者の名は、百年前に彼とともに活躍したどの人物よりもよく知られているであろう。しかし、その説明は簡単である。彼は88歳という老熟の年まで生き抜いた。65年にわたって公の活動を続け、英国のあらゆる地方で、その主のわざを行なった。彼は1つの新しい教派を創設した。しかもその教派は、今日に至るまでその人数と熱心さと成長率において著しいものがあり、当然のことながらその偉大な創設者を誇りとしている。彼の生涯は、何度も何度も、友人や弟子たちによって伝記とされ、彼の著作集は絶えず版を重ね、彼の訓言や格言は、さながらヨセフの遺骨のようにうやうやしく保存されている。実際、もしも純然たるプロテスタントのキリスト者のうちで、事実上聖人として列されている人物がいるとすれば、ジョン・ウェスレーこそその人である! 彼の名が有名でない方が不思議であろう。

 このような人物について、この限られた紙数で示せるのは、正直云って、ほんの短い評伝にすぎない。その長く、有益に費やされた生涯の主だった事実を挙げること、その独特な性格の際立った特徴を述べること、それだけで、この小伝に盛り込める限度いっぱいであろう。さらによく知りたいという向きは、他の本に当たっていただきたい。

 ジョン・ウェスレーは、1703年6月17日に北リンカンシアのエプワースに生まれた。父親はその教区の司祭であった。彼は、少なくとも男子3人女子10人からなる13人兄弟の第9子であった。女子のうち成年に達した者らは、そろって途方もなく愚かな、不幸な結婚をした。男子のうち、長兄のサミュエルは、数年間ウェストミンスター校で助教師をつとめ、高名なアッタペリー主教と親交を結び、最後にはタイバートン校の校長として死んだ。次男のジョンはメソジスト派の創設者であり、三男のチャールズは、ほぼ一生の間、ジョンの同伴者であり同労者であった。

 ジョン・ウェスレーの父は博学で、かつ非常に活動的な精神の人であった。著述家としての彼は、常に散文か韻文で作品を発表していたが、彼のふところ具合にとっては不幸なことに、読書界の気に入るような著作は1つも生み出したことがなかった。事実その著作は現代においてもたいして評価されていない。政治家としての彼は、英国にオレンジ公ウィリアムを導き入れた革命[名誉革命 1688年]の熱心な支持者であり、彼がメアリー女王からエプワースの主任司祭として推挙されたのはこの理由によっている。聖職者としての彼は、勤勉な司祭であり説教者であったと思われ、神学的にはティロットスン大主教の学派に属していた。しかし世事の管理者としての彼は、最低の失敗者であったようである。現在なら年収1000ポンドは見込める司祭職についていながら、彼は常に経済的に困窮していた。一度などは借金のため投獄されたこともあり、ついに死んだとき、その未亡人と遺児たちはほとんど貧困家庭といってよかった。これに加えて、彼が自分の教区民と折り合いが悪かったこと、またこれほどの貧乏にもかかわらず、毎年ロンドンに上京し、一度に何箇月もの間、全く無益な聖職会議に出席することにこだわり続けたことなどを挙げれば、彼はよくある机上の学問だけの才人で、良識の持ち合わせのない人物であったと述べても、大多数の読者は同意してくれると思う。

 ジョン・ウェスレーの母は、明らかに桁外れの精神力を持った女性であった。彼女はピューリタン神学の読者にはなじみ深いアンズリー博士の娘であった。博士は、モーニング・エクササイズの主唱者のひとりであり、クリップルゲートの聖ギル教会から1662年に追放された人物である。この父親から彼女は、その気質を際立たせている男性的な性格と、果断な判断力を受け継いだと思われる。ジョン・ウェスレーが、その独特な考え方と資質の多くを、幼年期の母親の教育と模範から受けた影響に負っていることに間違いはない。

 彼女がその子供たち全員を教育した方法は、息子ジョン宛の手紙で彼女自身が物語っている。これを読むだけで、彼女が尋常ならざる女性であったこと、また彼女の息子たちが尋常ならざる人物となるであろうことがはっきり見てとれる。彼女はこう語っている。「私は、どの子も5歳になるまでは、読み方を教えませんでした。ケジアだけは別ですが、あの子は特別です。他の子が数ヶ月で覚えることを、あの子は何年もかかりました。教え方はこうです。ある子が勉強を始める前の日には、うち中を片づけて、全員に手伝いの仕事を割り当てます。そして、9時から12時までの間か、2時から5時までの間は、だれも部屋にはいってきてはいけないと云い渡しておきます。それが授業時間というわけです。一日はアルファベットの文字を覚えるために使いましたが、どの子も一日でアルファベットを大文字も小文字も覚えました。モリーとナンシーだけは、アルファベットを完全に覚えるまで一日と半かかりました。この子は何てぐずなんだろうと、そのときは思ったものですが、それは他の子たちの覚え方が早すぎたためでしょう。あなたの兄さんのサミュエルは私が最初に教えた子でしたが、ほんの数時間でアルファベットを覚えてしまいました。あの子が5つになったのは2月10日でした。その次の日から勉強を始め、アルファベットを覚えたらすぐに、創世記第1章の読み方を始めました。まず初めに1節を教え、つっかえずにすらすら読めるようになるまで何度も何度も繰り返して読ませました。それから2節に進みます。これを繰り返して、一日の勉強で10節を読むようにさせましたが、サミュエルはあっというまに覚えてしまいました。その年の復活祭は早いうちにやって来ましたが、聖霊降臨節のころまでには、1つの章をたいへん上手に読めるようになっていました。それというのも、あの子は休みなく読みつづけ、また驚くほど確かな記憶力を持っていたからです。私は同じ言葉を二度と繰り返し教える必要がなかったほどです。それにもまして不思議なのは、あの子は、勉強で覚えた言葉ならどんな言葉でも、聖書であれ他のどんな本であれ、どこにあったか覚えていたということです。これは、あの子が英語で書かれた本を非常に早く読めるようになっていたということです」。

 教区司祭夫人としての彼女の精力的で、果断な行動を如実に証明する手紙が今も残っている。それは、ある一風変わった状況のもとで、彼女と夫との間に交わされた手紙である。事は、おそらくウェスレー氏が聖職大会に出席するため長々と家を空けていた期間中に起こったと思われる。エプワースの町の状態にがまんができなくなったウェスレー夫人は、日曜の夜、司祭館に幾人かの教区民を集めて、聖書と信仰書を読み聞かせる集会を定期的に持つようになったのである。当然予想されたように、出席者の数は急増し、知らせを受けて驚いた夫がこの集会に反対するほどとなった。このときしたためられたウェスレー夫人の数通の手紙は、説得力ある実際的なキリスト者の良識の手本ともすべきもので、現代の小心な信徒の熟読含味に値するものである。彼女は自分の行動を多くの、賢明で、反論しようのない議論で弁護し、もしここで集会を中止したらどのように悪い結果がもたらされるか真剣に考えてほしいと夫に懇願したあとで、次のような瞠目すべき言葉でしめくくっている。「それでも、どうしてもこの集まりをやめることが適当だと思うのでしたら、どうか私に向かって、そうしてほしいという要望は仰しゃらないでください。それでは私の良心が満足しません。どうか一言一句を明確に記した命令を送ってください。やがてあなたと私が主イエス・キリストの大いなる、恐るべきさばきの前に立つとき、善を行なう機会をないがしろにした、すべての咎と罰から私が免除されるような、はっきりとした命令を送ってください」。

 このような気質の母親こそ、まさしく自分の子供たちに深い影響と刻印を残す人物であった。エプワースの老司祭については、おそらく詩才をのぞけば、ジョンのうちにも、チャールズのうちにも、ほとんどその痕跡をたどることができない。しかし、ジョンの全生涯にわたる経歴と性格のうちには、その母親の多大な影響をうかがわせるものがある。

 ジョン・ウェスレーの幼年時代は、そのリンカンシアの自宅の中で静かに過ごされたと思われる。彼の伝記作者たちによって、唯一注目すべき事件として記録されているのは、エプワースの司祭館が全焼したとき、彼が焼死の運命を奇跡的にまぬがれた出来事である。それは1709年、彼が6歳のときに起こり、彼の心に鮮明な印象を刻みつけたらしい。あわやという瞬間、はしごがないため他の男の肩の上に乗った男が、寝室の窓から彼を引きずり出したのである。その瞬間に家の屋根が、幸いなことには内側に倒壊し、少年とその救出者は無傷で脱出した。この出来事をふりかえって彼はこう述べている。「みなが私を父のいた家に連れていったとき、父は大声で云ったそうです。『みなさん、こちらへ来て、ひざまづきましょう! 神に感謝しようではありませんか! 神は私に8人の子供たち全員を返してくださった。家などなくとも、私は十分裕福です』」。

 1714年、11歳の年にジョン・ウェスレーは、ロンドンにあるチャーター・ハウス校へ送られた。少年が初めてパブリック・スクールに入学するという、あの実生活との激突は、彼に何の悪影響も及ぼさなかったようである。彼は、おそらくは父の家で古典教育の基礎をたたき込まれていたため、すぐにその勤勉さと学業の進境いちじるしさで頭角をあらわするようになった。彼が16歳のとき、ウェストミンスター校で助教師をしていた兄は、彼のことを「あの子は、けなげにも猛烈な勢いでヘブル語を勉強している」と語っている。

 1720年、17歳になったジョン・ウェスレーは、クライスト・チャーチに選抜され、大学生としてオックスフォードへ進んだ。大学生活の最初の3、4年については、ほとんど知られていない。ただ堅実かつ勉強熱心で、古典の知識に秀で、作文については天才肌であったということである。しかしながら、彼が大学時代を最大限に活用し、学びとれるだけのものを学びとったことは明らかである。成績優秀者の発表もなく、学業を刺激するようなものがごく少なかった当時としては、これは驚くべきことであった。ほとんどの偉大な聖徒らと同じく、彼は大学教育の恩恵に一生涯あずかることとなった。人は彼の神学を嫌ったかもしれない。しかし、彼を無学な、話を聞く価値もない者と云うことは誰にもできなかったのである。

 1725年の初頭、22歳のジョン・ウェスレーは、進路の選択について非常に思い悩んだらしい。当然、聖職者への道も考えたが、その選択の厳粛さを思えば思うほど、何がなし心がひるむのを覚えるのだった。しかしそのように熟考を重ねたことは、彼にとって非常に有益であったようである。それが彼の思いのうちに、神について、自分の魂について、キリスト教一般について、以前は見られなかったような深い思索を生み出したと思われるからである。彼は神学の学びと、牧師になるための規則的な読書日課をはじめた。おそらくこの時期の彼には、信仰書の選択にあたって、頼りにならない指導者しかいなかったのであろう。彼に最も大きな影響を与えたと思われる書物は、ジェレミー・テイラーの『聖なる生き方』、『聖なる死に方』であり、トマス・ア・ケンピスの『キリストにならいて』であった。著者たちの敬虔さと誠実さは疑えないが、これらは聖書的キリスト教を明確に示し、キリストへの奉仕を朗らかで幸いなものと示すには、たいして役に立ったとは思えない。つまりこれらは、真のキリスト教が真剣な務めであり、心の問題であると彼に感じさせたまではよかったが、明らかに彼の無知と困惑をぬぐいさりはしなかったのである。

 生涯のこの時期におけるジョン・ウェスレーと両親との文通は特に興味深いものがある。それは、父母と息子の双方にとって名誉となるものである。明らかにウェスレーは、何1つ包み隠さずに、あらゆる精神的霊的問題について両親に告げていた。彼の手紙と、父母の返信は今も読まれる価値がある。確かにどの手紙にも、多かれすくなかれ霊的洞察の欠けが見られ、明確な福音理解の欠けが見られる。しかしそこには、無類の正直さと誠実さが一貫して流れている。「これこそ神が祝福される精神である。これこそ、さらに多くの光が与えられるにふさわしい一途さである」、と感ぜずにはいられない。

 「最もすぐれた聖書の注解書は何でしょうか?」との問いに、父親はこう答えている。「答えは、聖書そのものである。正直で、熱心で、勤勉で、へりくだった者にとって、数か国対訳聖書のさまざまな翻訳と意訳を互いに、また原典と照合して比較することは、私の知る限りどんな注解書よりもはるかにまさっている」。

 聖職への道を選ぶことについて、母はこう語っている。「あなたの気持ちが変化したことで、私も色々と考えさせられました。私は楽観的なたちですから、神の聖霊があなたの上に働いてくださるように願っています。ご聖霊が、世の楽しみに対する欲求をあなたから取り去り、そのことによって、あなたの思いをより真剣で、より熱心なものとし、もっと崇高で、もっと霊的な事柄に向けさせてくださるように、と。そうなったとき、そうした思いを大切にする人は幸いです。あなたは今、キリスト教に生涯をかけると、心から決心しなさい。つまるところ、厳密に云えば、それこそなくてはならない唯一のものだからです。この人生の目的にくらべれば、それ以外のものには、比較的小さな意味しかありません。今からあなたには、自分を厳しく吟味しはじめてほしいと心から願います。あなたは、自分がイエス・キリストによって救われていると確信していますか。もし十分確信があることがわかるなら、それはどんな労苦にも豊かに報いることでしょう。もしその確信がなければ、この世で最も嘆く理由があると云うべきでしょう。この問題はどんな人も真剣に考えるべきですが、特に牧会の職務につこうという人はことのほか真剣に考えなくてはなりません。牧師は、まず何よりも、自分自身の召しと選びを確かにしていなくてはならないからです。さもないと、他人には宣べ伝えておきながら、自分自身は失格者となりかねません」。

 歓楽や快楽は、必ずしも罪ではないが、ことごとく無益なものであるというトマス・ア・ケンピスの意見について、母はこう述べている。「ケンピスは正直な人ですが、弱い人だと思います。熱心ではあっても、知識のない人だと思います。すべての歓楽や快楽を罪か無益なものと決めつけるなど、多くの聖句の明々白々な教えに反しているからです。もしあなたが、許される快楽と許されない快楽、罪のない行動と悪い行動の区別をつけたいと思うのなら、1つ規則を教えてあげましょう。あなたの理性を弱くするもの、あなたの良心を鈍感にするもの、神との交わりをあいまいにさせるもの、霊的な事柄に対する関心を奪い去るもの、つまり、あなたの心にまさってからだの力と勢力を増し加えるすべてのものは、それ自体どれほど罪のないものであっても、あなたにとっては罪です」。

 「神が私たちを赦してくださったかどうかは、私たちにはわからない。従って私たちは自分が一度でも罪を犯してしまったことを永遠に悲しんでいよう」、というジェレミー・テイラーの意見について、ジョン・ウェスレー自身はこう述べている。「聖霊の恵みは、それを受けているか受けてないか感じ取れないほどちっぽけなものであるはずがありません。もし私たちがキリストのうちにあり、キリストが私たちのうちにおられるなら、つまりもし私たちが新しく生まれているなら、それははっきり感じ取れるはずです。一度も自分が確実に救われていると感じたことがないという人は、喜びではなく、恐れと身震いのうちに刻一刻を過ごすべきでしょう。そして疑いもなくそういう人は、この世のどんな人よりも哀れな者です。そのような恐るべき事態から神が私たちを救ってくださいますように」。

 このような形の文通は、ジョン・ウェスレーのような魂を持つ若者にとって益をもたらさなかったはずがない。疑いもなく彼は、こうした文通を通して、より真剣に聖書を研究し、より深く自己吟味を行ない、より熱心に祈りをささげるよう導かれたはずである。彼がどのようなためらいを感じていたにせよ、それは最終的には取り除かれた。1725年9月19日、ついに彼は、当時のオックスフォードの主教、後にカンタベリ大主教となったポッター博士から、助祭として任じられたのである。

 1726年、ジョン・ウェスレーは、常ならぬ厳しい選抜考査をへた後にリンカーン学寮のフェローに選ばれた。彼の最近の謹厳な態度や、生活全般にわたる信心深さは、足を引っ張ろうとする競争相手らの格好の口実とされた。しかし彼の高潔な性格がすべての反対を封じて、彼に合格通知をもたらし、父親を非常に喜ばせることとなった。この時期生活上の苦境に陥っていたらしく思われる父は、こう書いている。「秋が来る前にわが家がどうなるかは、神のみぞ知る。だが、たとえどうなろうと、うちのジャックはリンカーンのフェローなのだ」。

 リンカーンのフェローに選ばれてからの8年間――1726年から1734年――は、ジョン・ウェスレーの生涯における注目すべき一時期を画しており、疑いもなく以後の全生涯に深い影響を与えた。この年月の全時期にわたって彼はオックスフォードに在住し、少なくとも一時期は、自分の学寮の中で個人指導教官や講師として働いた。しかしながら、しだいに彼は、ますます多くの時間を、他人に善行を施すことに費やすようになったらしく、ついには、あらゆる時間をそのことに用いるようになった。

 彼の行動の仕方は、この上なく単純で、気取りのないものであった。当時クライスト・チャーチの学生だった弟チャールズの助けを得て、彼は、同じ志を抱く青年たちを集めて、週日の夜にギリシャ語聖書を学ぶための小さな会を創設した。この会のメンバーは当初四人であった。すなわち、ジョン・ウェスレー、チャールズ・ウェスレー、クライスト・チャーチのモーガン氏、マートンのカークマン氏である。しばらく後になってから加入した人々には、クイーンズのインガム氏、エグゼターのブロートン氏、ブレイズノーズのクレイトン氏、かの有名なペンブロークのジョージ・ホイットフィールド、そして著名なリンカーンのジェームズ・ハーヴェイがいた。

 この証し人たちの小さな群れは、ごく自然に予想されるように、すぐに、自分たちが益を受けるだけでなく、他人にも益を施すことをはじめるようになった。1730年の夏、彼らは城塞の囚人や町の貧民に対する訪問を始め、顧みられない子供たちを学校へ送り、病人や窮状にある人々への物質的援助を与え、聖書と祈祷書の配布を始めた。最初、彼らは非常に慎重に事を進め、しばしばジョン・ウェスレーの父親の助言を求めて問い合わせた。その助言に従って彼らは、自分たちの活動をことごとくオックスフォードの主教とその司祭に申し出て、教会の完全な認可なしには何も行なわなかった。

 この青年たちのこのようなふるまいは、今日の私たちの目には慎重すぎて、子どもっぽいとさえ思えるかもしれない。しかし彼らは、当時としては、はるかに時代の先を進んでおり、注目と敵意と反対を受けずにはいられなかった。ウェスレーとその仲間たちは、熱狂主義者、狂信者、イスラエルに災いをもたらす者どもだという、一種の迫害と抗議の声が巻き起こった。彼らは、「メソジスト(規則屋)」とか「ホーリー・クラブ(神聖クラブ)」といったあだ名をつけられ、嘲笑と悪罵の嵐に襲われた。しかしながら、このような中で彼らは雄々しく耐え抜き、一歩も退かなかった。彼らを大いに励ましたのが、エプワースの老司祭から来る手紙であった。その一通には、こう記されている。「わが息子ジョンは、ホーリー・クラブの父と称される栄誉に預かっていると聞く。ならば、私はホーリー・クラブの祖父であるに違いない。云うまでもなく私には、わが子らがそのような威厳と威名を馳せる方が、教皇閣下と称せられるよりも、嬉しく思われる」。

 オックスフォードに在住していたこの8年の間に、ジョン・ウェスレーがどれだけ真の霊的貢献を果たしたかという点は、簡単には決めがたい問題である。彼が敬虔で、禁欲的で、克己に励んだことがどれほど事実であったとしても、この時点の彼が、キリストの純粋な福音についてほとんど何も知らなかったことは覚えておかなくてはならない。信仰の真理に対する彼の観念は、どう控えめに云っても、きわめてあいまいで、ぼんやりとした、不完全で、不明確なものであった。後年のウェスレー自身ほど、この点を自覚していた者、熱をこめてそれを進んで告白した者はなかった。「ウィリアム・ローの敬虔な生涯への真剣な招き」や「ウィリアム・ローのキリスト者の完全」、「ドイツ神学大全」などが、彼の手に入る限りの最上の信仰書であった。しかし、この時期の彼が後になって何の役にも立たない経験しか積んでいなかったのかと思う必要はない。少なくとも彼は、彼が一生の間持ち続けた勤勉さ、時間を無駄にしない用い方、そして自己否定において完全に訓練されたのである。神は、ご自分のみわざのための器を鍛え、その準備を整えるやり方を心得ておられる。そして私たちがどう考えようと、神のなさり方が最善であることは確信してよい。

 1735年にジョン・ウェスレーの父が死に、一家はばらばらになった。ちょうどこの時期、神の摂理はウェスレーの前に新たな義務の道を開き、その道を選択したことが彼の霊的経歴のすべてに最も重要な影響を及ぼすことになった。その道とは、北米のジョージア植民地であった。揺籃期にあるこの居住地の管財人たちは、インディアンに福音を宣べ伝え、植民者たちの礼拝式や聖餐式を司式するために派遣すべき聖職者を、のどから手が出るほど必要としていた。この急場にあたり、ジョン・ウェスレーとその友人たちが彼らの注意を引いた。その日常のふるまいにおける高潔な人格といい、教会の義務にあたる忠実さといい、喜んで艱難辛苦を忍ぶ姿勢といい、これ以上望ましい人材は見つからないのではないかと云う者があったのである。結局、ジョン・ウェスレーに対して招聘がなされた。ウェスレーは、ロー氏や自分の母、長兄、その他の友人たちと相談の上で、管財人たちの申し出を受諾し、弟チャールズと兄弟共通の友人であるインガム氏を伴って、ジョージア向けて出帆した。

 ウェスレーがジョージアに上陸したのは1736年2月6日、長く荒れた、4箇月の航海の後であった。その土地で彼がどのようにふるまったかをくだくだしく述べて読者の時間をとろうとは思わない。彼がなしとげたように見えた善が何かあったにせよ、彼の布教活動がほとんど無益なものであったとだけ云えば十分であろう。1つには、植民地における英国人聖職者の立場が元々困難なものであったこと、1つには、彼の任地となった、できたばかりの居留地が無秩序で混乱していたこと、1つには、人の心と物事を扱うに当たって彼が考えられないほどの不器用さと無神経さを見せたこと、そして何よりも、彼自身が福音についてはきわめて不完全な理解しか得ていなかったことなどにより、ウェスレーのジョージア行は散々な失敗に終わったかに見えた。本国へ立ち去ることを彼は明らかに喜んだ。

 しかし神は人間のようには物事をお運びにはならない。ウェスレーが本国を離れて2年間アメリカで過ごすことには、ピリポがガザの荒れ果てた道へ向かった場合、パウロがカイザリアで虜囚生活を送った場合と同じように、1つの「必然性」があったのである。たとえ彼がジョージアの人々に何1つ益をもたらさなかったとしても、確かに彼自身は多くの益を受けた。他の人々にはほとんど何も教えられなかったとしても、疑いもなく彼自身は多くを学んだ。外地へ向かう航海中、彼は乗船していた何人かのモラビア派の人々と知り合いになり、嵐の中でも彼らが「死の恐怖」から完全に脱却していることに心を深く揺り動かされた。ジョージアに上陸してからも、ウェスレーは彼らとの交際を続け、罪の赦しの個人的な確信というものがあることを知り愕然とした。これらのことは、植民地特有の牧会活動の試練や困難や失望とあいまって、彼の心に非常に大きな働きかけをなし、自分自身の姿と福音をこれまで何から学んだよりもはっきりと彼につきつけた。その結果、1738年2月1日にディールに上陸したときの彼は、これまでになかったほど深くへりくだり、大いに賢い人間になっていた。簡単に云えば、彼は聖霊の働きかけを真に内側に受けつつあったのである。

 ウェスレー自身が物語る、この2年間の霊的経験は非常に興味深いものがある。その一部をここに書き写してみよう。

 1736年2月7日に彼はこう記している。「ジョージアに上陸してから、まずドイツ人牧師のひとりであるシュパンゲンベルグ氏に、私の行動についての忠告を求めた。氏は答えて云った。『ウェスレー兄弟、まず私はあなたに二三質問しなくてはなりません。あなたは、ご自分の内側に証しを持っていますか? 神の御霊は、あなたの霊とともにあなたが神の子であることを証ししておられますか?』 私は驚き、何と答えたものかわからなかった。それを見て取ったシュパンゲンベルグ氏は、尋ねて云った。『あなたはイエス・キリストを知っていますか?』 私は、一呼吸おいてから、『私は、彼が世の救い主であると知っています』。『その通りです。けれども、あなたは彼があなたを救ってくださったと確信していますか?』 私は答えた。『彼は私を救うために死なれたのだと思います』。氏はもう一言述べただけだった。『あなたは自分自身のことがわかっているのですか?』 『わかっています』、と私は答えた。しかし、それは何の意味もないことばだったのではなかろうか」。

 1738年1月24日、帰国途上の船上で、彼は次のように書き記している。「私はインディアンを回心させるためにアメリカに行ったが、おゝ、一体だれが、何が、私を回心させてくれるのか! だれが、何が、この忌まわしい不信仰な心から私を解放してくれるのだろうか。私も、晴れ渡った夏の日の信仰は持っている。言葉たくみに語ることができる。それのみならず、何の危険も身近に迫っていないときは自信満々にして見せることさえできる。しかし、死と直面したとき、私の心は騒ぎ立ち、死ぬことが益であると云うことはできない」。

 1738年2月1日、彼が英国の地を踏んだ日、彼は云う。「私が、ジョージアのインディアンたちにキリスト教の性質について教えるために生国を出てから2年と4箇月近く経とうとしている。しかし、その間、自分については何を学んだろうか。あゝ、それは私が思いもよらなかったこと、他人を回心させるためアメリカに渡った私自身が、実は神へ回心していなかったということなのだ! そのように語るからといって、何も気が狂ったのではない。これは真実であり、まじめな思索による言葉である」。

 「私にも信仰があるではないかと云われるなら――というのも、多くのおためごかしを云う者らからそういうことを聞かされるからだが――、私は答えたい。悪霊たちでもある種の信仰は持っているが、約束の契約とは縁もゆかりもない者どもではないか、と。……私が欲する信仰とは、キリストの功績により私の罪が赦されており、私が神と和解してそのご好意にあずかっているという、確かな、ゆるぐことのない神への信頼なのである。私の欲する信仰は、聖パウロが全世界に勧めているような信仰、特にそのローマ人への手紙で説いているような信仰である。その信仰を持てばだれでも、『もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです』、と叫ばされるような信仰である。私が欲する信仰は、あるかないかわからないようなものではなく、自分がそれを持っていることをいやでも知らざるをえないような信仰である」。

 このような記録は、深い教えに満ちている。ここには、人が会得することの非常に遅い、重要な真理が教えられている。すなわち、私たちはどれほど真面目で、どれほど信心深くても、魂を救い、魂に慰めをもたらすような真の信仰を持たずにいることがありうるということ、どれほど断食や祈祷、儀礼、儀式、主の晩餐の礼典にあずかることにおいて熱心であっても、内側の喜びや平安、神との交わりにおいては全く何も知らないことがありうるということ、そして何よりも、どれほど道徳的な生き方をし、善行に励んでいようと、キリストにある真の信仰者でもなく、死んだのち神に会う備えができた者にもなっていないことがありうるということである。こうした真理の数々が、あらゆる講壇から宣言され、あらゆる会衆に力をこめて語られているとしたら、何と教会にとって幸いなことであろう! このような真理を欠くために、何千何万もの人々が、むなしい影のうちを歩み、自分がまだ罪のうちに死んでいることに全く無知のままでいるのである。人がどれほど外面的な善行に励んでも、なおも真のキリスト者でないことがありうるものか知りたければ、ジョン・ウェスレーの経験を注意深く学んでみるとよい。あえて云うが、これこそまさに現代最も必要とされる真理である。

 このときのウェスレーのように、義を求めて飢え渇く者は、さらに光が与えられるまでに、それほど長くは放っておかれないものである。聖霊が彼の内側に始められた良い働きは、彼が英国の地を踏んでからは急速に進展し、ついに彼の心に陽光が射し、様々な影は消え去ることになった。1つには、ロンドンにいたモラビア派のペーター・ベーラーや他のモラビア派の人々に問題を打ち明けることにより、また1つには聖書の研究により、1つには神の賜物としての、救いをもたらし、義と認めさせる、生きた信仰を求める特別な祈りにより、彼は次第に福音を明確に理解するようになっていき、単純に信ずることにおける喜びと平安の意味を見いだした。さらに、世界にはかり知れない恩義を施してくれた一人の人物を正しく評価するために付け足させてもらえば、この時期の彼を大いに助けてくれたものは、彼自身の告白によると、マルティン・ルターのローマ人への手紙への序文であった。

 この年、1738年は、疑いもなくウェスレーの霊的歴史の転回点であり、その後の彼の人生を方向づけた年であった。それはこの年の春、彼はロンドンのフェッター・レーンにあるモラビア派の教会堂で信仰集会をはじめた。やがてできるメソジストの小会の原型となったものである。この小さな集会の規則は今も現存しており、いくつかの追加、変更、修正をへたあと、今日のメソジスト主義の内規にふくまれるものとなっている。同じくこの時期に、彼は自分の学んだ新しい真理を、ロンドンの多くの講壇から説教しはじめ、ホイットフィールドと同じく、恵みによる救い、信仰による義認を宣教すると、二度と同じ場所で説教することが許されないことを知った。この年の冬、ドイツのモラビア派居住地訪問から帰った彼は、国内の異教主義に対して攻勢に出て、ブリストル近郊で、ホイットフィールドの前例にならい、野外でも室内でも、人を集めることができる場所という場所で説教しはじめた。

 ここで私たちは、ジョン・ウェスレーの生涯において1つの点に達した。これ以後のウェスレーの生涯は、その偉大な同時代人たるホイットフィールドと同じく、彼の死に至るまで、1つの、変転なき、一様な物語となっていくのである。一年一年を克明にたどっても意味はないであろう。彼は常にただ一事に専心していた。常に全国を行き巡って説教し、常に何らかの種類の福音的な手段を用いていた。53年の間――1738年から1791年までの間――彼は1つの道を一心に歩み続けた。常にただ一事にのみ忙しくたち働いていた。すなわち、至るところで罪と無知を攻撃し、至るところで神に対する悔い改めと、主イエス・キリストに対する信仰を説き、厚顔な罪人を覚醒させ、答えを求めて来る者を導き、聖徒たちを建て上げ、決して倦むことなく、決して思い定めた道からそれることなく、そして決して成功を疑わなかった。彼が50年間つけていた日記を読む者以外、彼の成し遂げた働きの量の巨大さについて思いを及ばすことのできる者はあるまい。おそらくジョン・ウェスレーほど多くの鉄をいちどきに火に投じ、なおかつその鉄の多くを熱いまま保つことに成功した者は一人もいないであろう。

 ホイットフィールドと同じく彼は、説教を魂に益をもたらすために神の選ばれた道具であると正しくもみなし、このため、いずこに行こうと彼が最初に行なうことは説教であった。またホイットフィールドと同じく彼も、いついかなる場所でも喜んで説教をした。――早朝であれ、深夜であれ、――国教会の教会内であれ、非国教会の会堂内であれ、――室内であれ、路上であれ、野原であれ、広場であれ、緑草地であれ、彼は喜んで説教した。さらにホイットフィールドと同じく彼も、多かれ少なかれ同じ偉大な諸真理を常に説教した。――罪、キリスト、聖潔について、――滅び、贖い、新生について、――キリストの血潮と御霊のみわざについて、――信仰、悔い改め、回心について、―― 一年中あくことなく説教し続けた。

 しかしながらウェスレーは、1つの重要な点においてホイットフィールドとは非常に異なっていた。彼は、説教するだけでなく、組織することを忘れなかった。彼は地に穀物が実っているのを見たら、それを刈り入れるだけでは満足しなかった。彼は細心の注意を払って、刈り入れた穀物を束ねて集め、納屋に運び込んだ。一説教者としてはホイットフィールドに劣っていたが、管理者として、また組織的手腕の人としては、ウェスレーはホイットフィールドよりもはるかに卓越していた。教会の愚かな権威者たちによって英国国教会から閉め出されてからの彼は、比類ない手際と、人間性の必要に関する類まれな洞察力によって、新しい教派の土台を据えた。彼の信奉者を一団体にまとめること――あらゆる会員に何か仕事を与えること――各人にその隣人を気づかわせ、その徳を建て上げさせること――(彼の奇抜な云い回しを借りれば)「全員全時に事に当たらせる」こと――これらが彼の目当てであり目標であった。彼が存在せしめた組織は、彼の目的を成し遂げるには、見事にうってつけのものであった。彼の説教者たち、信徒説教者たち、組会指導者たち、小会指導者たち、巡回教区、組会、小会、愛餐会、除夜礼拝は、それ相応のものとして、今日まで存続する、ほぼ非の打ち所ない霊的手段となった。メソジスト教会にその有能さと堅実さとを何にもまさって与えたものがあるとしたら、それはその創設者の熟達した組織作りの才能であった。

 キリスト者の読者には云う必要もないことだが、ウェスレーは絶えず反対者たちと戦わなくてはならなかった。この世の君主[サタン]は、自分のとりこたちが救い出されていくのを決しておとなしく許したりはしない。彼は、ウェンズベリやウォルソール、コウンやショアハム、デビーゼスにおいて、なかば異教徒めいた無知な暴徒らにより命を失う危険にさらされたことがあった。時として彼は、主教たちから熱狂主義者、狂信者、不和の種を蒔く者として非難された。また彼はしばしば――あまりにもしばしば――地方の田舎司祭たちから説教の中でこきおろされ、異端者、分派主義者、余計なことをしてイスラエルを悩ます者であると断じられ、嘲られた。しかし、これらのうち何物もこの良き人を動かしはしなかった。平静に、決然と、また揺るがされることなく、彼は自分の行くべき道を歩み続け、時の経過とともに、あらゆる反対の声を消していくのがしばしばだった。自分への攻撃に答えた彼の手紙は、常に気品のある、思慮深いもので、彼の心と頭脳の双方の栄誉となるものである。

 ここまでで私は、読者がジョン・ウェスレーの生涯と事績について、おおよその概念を得るには十分なことを語ってきたと思う。あえてそれ以上語ることはすまい。実のところ、彼の一生のうち最後の五十年間は、あまりにも渾然一体となっているので、これ以上語りだしたらどこでやめればいいかわからないのである。その年月は絶えざる旅行と説教、組織運営と協議会開催、執筆と論述、説諭と勧告、そして罪と世と悪魔に対する戦いの年月であったと述べるなら、あえて云わなくてはならないことはすべて云いおおせたのである。

 1791年、88歳に達し、伝道活動を始めて65年目の年に、ついに彼は死んだ。栄誉と尊敬に包まれ、福音の「完全な平安」のうちにある死であった。ほぼ彼は常に強壮な健康に恵まれており、82歳になるまでほとんど体の疲れや痛みを覚えることはなかった。その疲弊した身体機能もついに停止したが、その死は何の病気でもなく、純粋に老衰によるものであった。

 彼の死に方は、その生涯と美しい調和をなしていた。彼はその死のほんの数日前に説教を行なっており、彼の最後の2つの説教は、いかにもこの人物にふさわしいものであった。最後から二番目の説教は、2月18日にチェルシーで行なわれたもので、主題聖句は、「王の命令は急を要する」、というものであった(Iサム21:8 <英欽定訳>)。生涯最後の説教はレザーヘッドで、23日の水曜日に、「主を求めよ。お会いできる間に」、という聖句からなされた(イザ55:6)。その後彼は次第に衰弱し、29日の火曜日に死んだ。彼は最後まで目も耳も衰えることなく、いまわの際まで意識も言葉もはっきりしていた。

 彼は、その死の前々日に長時間眠り、ほとんどしゃべらなかった。一度彼は低く、しかし明瞭な声音で、「聖所に入るには、イエスの血潮によるほかなし」、と云った。後になって彼は、少し前にハムステッドで説教したときの聖句は何だったかを訊ねた。それが、「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです」(IIコリ8:9)、であったと聞かされて彼は、「それこそ土台だ。唯一の土台だ。他にはない」、と答えた。

 死の前日、彼は突然、「私は起きる」、と云った。人々が彼の衣類の支度をしている間に彼は、その衰弱ぶりを考えれば、その場の全員を驚かせるようなしかたで、歌を歌い出した。――

   「われたたえん つくりぬしを 息の限り
    死期せまり 声音枯るとも
    わがよき力もて たたえ歌わん
    わがほめうたの やむことなし
    いのちと思いと この身の散るまで
    死なき地にては とわからとわへ」

 ほどなくして、ある人が部屋に入ってきたのを見て彼は話そうとしたが、できなかった。自分の言葉が理解されていないのをみてとって、彼はしばらく口を閉ざし、それから残っていた力をふりしぼって叫んだ。「神我らと共にあり。これ最も良き事なり」。その後すぐに彼は、勝利の響きをにじませながら死に行く声音を張り、弱々しい腕を聖なる勝利のうちに差し上げて、心奮い立たせるその言葉を繰り返した。「神我らと共にあり。これ最も良き事なり」。それに続く夜、彼はしばしば上にあげた賛美歌を繰り返そうとしたが、口にできたのはただ歌い出しの箇所だけであった。「われたたえん。われたたえん」。翌朝の10時頃、「さようなら」との言葉をはっきり語るのが聞こえたかと思うと、彼は、うめき声1つあげずにキリストにある眠りと、その労苦からの安息にはいった。まことにこれこそ光栄ある日没である! 「私は正しい人が死ぬように死に、私の終わりが彼らと同じであるように」[民23:10]。

 ウェスレーは一度結婚している。彼の年は48歳、相手はバゼイルという名の未亡人であった。彼女は相応の年齢で、ある程度独立した財産を持ち、法的措置によりその終身受益権を確保した女性であった。この結婚はこの上もなく不幸なものであった。ウェスレー夫人にいかなる美質があったにせよ、それを全く覆いつくし呑み込んでしまっていたのが、彼女の激越きわまりない、愚劣な激情、ねたみであった。彼の伝記作者の一人はこう述べている。「英国中探したとしても、あらゆる重要な点において、これほど彼にふさわしくない女性を見つけることはできなかったであろう」。20年もの間、ありとあらゆることで夫を不愉快にし――私信を開き、彼の評判をだいなしにしてやろうとの下らぬ望みから彼の書類を敵たちの手に渡し、時には夫に向かって肉体的暴力すらふるい――、そのあげくにウェスレー夫人は二度と帰るつもりはないとの言葉を残して出ていった。ウェスレーはその事実を淡々と日記に記し、自分にはその理由がわからないと書いた後で、短くつけ加えている。「私は彼女を捨てはしなかった。追い出しはしなかった。呼び戻しもすまい」。

 ホイットフィールド同様、ジョン・ウェスレーは一人も子どもを残さなかった。しかし彼は、自分の後に巨大な、勢力ある団体を残した。彼はその団体が芽生えるのを目にしただけでなく、それが力強く健全な成熟の域に達するのを見るまで生き抜いた。彼が死んだとき、メソジスト派説教者の数は英国領内で313人を数え、アメリカ合衆国内で198人いた。メソジストの会員は、英国領内で76,968人、合衆国内で57,621人であった。これらの事実に注釈は不要である。キリストの働き人たちのうちウェスレーほどの成功をおさめた者はほとんどおらず、自分の労働の成果をこれほど目にすること許された者は確かに一人もいない。

 前世紀のこの霊的英雄の全体像を考えるにあたっては、彼の性格のうち目立って注意を要するいくつかの点を指摘するのが有益であろう。神がそのしもべらのだれかに特別な栄誉を与えられたときには、彼らの賜物を分析し、それがいかなるものか注意深く観察するのがよい。さてそれでは、いかなる独特の資質が、ジョン・ウェスレーを特徴づけていたのであろうか?

 私が読者の関心を引きたい第一のことは、彼の非凡な目的追求の一途さ、不撓不屈さである。ひとたび福音的な航路へ船出するや、彼は前進し続け、一日たりともひるむことはなかった。「私はこの一事に励んでいます」、こそ彼のモットーであり、やむにやまれぬ動機であったように思える。福音を説教し、善を行ない、魂を救う努力をすること、――これだけが彼の目標となり、彼の人生の支配的な情熱となったように思わわれる。このことの追求のために彼は海を越え陸を渡り、あらゆる安楽や休息を楽しむ考えをふり捨て、地上的なすべての感情を忘れて打ち込んだ。彼以外の何者も、エプワースへ行き、父親の墓の上に立って、「神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです」、との説教を野外の聴衆に語れはしなかったであろう。彼以外の何者も、同労者らが次々と墓に運ばれていき、同世代の中でほとんどたった一人残されるのを見ながらも、いささかも気をくじかれることなく、あたかも周囲に戦友たちがまだ十分残っているかのごとく、説教し続けることのできた者はなかったであろう。しかし彼は、その驚異的な一意専心さによって、そのすべてをやり遂げたのである。「一書の人には警戒せよ」、とは古の哲学者が弟子たちに与えた助言であった。だが「一書」の人こそ、長い目で見たときに、偉大なことを成し遂げ、世界を揺るがした人であった。

 私が読者に注目してほしい第二のことは、彼の非凡な勤勉さ、自己否定、時間の節約である。この良き人の日記を読み、一年のうちに彼がどれほど膨大な量の仕事を詰め込んでいたかに注目してみると、息もとまらんばかりである。いかなる面から見ても、彼は常に働き続け、決して休息することがなかった。彼は云っている。「安逸と私は互いに縁を切った。私は、健康の許す限り、死ぬまで忙しくしていようと思う」。この決意は彼が働き盛りの時に立てられたものだが、これほど厳格に守られた決意はいまだかつてなかった。「主よ。役立たずになるほど長生きさせないでください」。このように彼が祈ったのは、かつては活発に用いられていた旧知の人物が、肉体も精神も衰え、弁舌も頭脳もぼやけて、老醜をさらしているのを見た後のことであった。旅行に費やしていた時間さえ、彼は無駄にはしなかった。彼は云った。「歴史と作詩と哲学については、普通私は馬の背にゆられながら読む。それ以外の時間には、それ以外の仕事があるからだ」。群衆の押し合いへし合いする街路で彼に出会った場合、人々の耳目を集めるのは、その白い垂れ襟や牧師服や銀色の長髪ばかりでなく、その歩調やそぶりであった。それを目にする人には、彼の時間がことごとく用途の決まったものであること、一瞬たりとも無駄にする時間はないことがはっきりわかった。彼は云った。「しかし、私は常に急いではいるが、決してあせってはいない。私は、完璧に平静な精神で行なえるだけの仕事しか、決して引き受けないようにしているからだ」。ここにもまた、偉大に用いられた人の秘訣の1つがある。私たちは無為を忌み嫌わなくてはならない。機会を十分に生かして用いなくてはならない。12時間のうちにどれだけのことができるか、試したことのない人には想像もつかないものである。だれよりも多く働く者こそ、だれよりも多くのことができるのに気づく人にほかならない。

 読者に注目してほしい最後のことは、彼の驚異的な多方面にわたる知的能力である。彼の事績のすべてを記した大部の伝記を読んだことのない人、あるいは彼の素晴らしい日記を読んだことのない人には、おそらくこのことを完全に実感することはできないであろう。全く正反対で似通っていない事柄――取るに足りない些細な事柄――まるで徹底的に世俗的な事柄――全く徹底的に霊的な事柄――、すべてが同じように彼の貪欲な頭脳によって習得されていた。彼は、あらゆることのために時間を見いだし、あらゆることについて指示を与えた。ある日、彼は古い神学を要約し、『キリスト者の書庫』という50巻本の神学書を出版していたかと思うと、別の日には、聖書全巻に対する一巻本の注解書を執筆している。別の日、彼は、賛美歌を作曲しており、それが今日に至るまで多くの会衆の間で歌い継がれている。さらに別の日、彼は配下の説教者たちに詳細な指示を作成しており、怒鳴ったり金切り声をあげたり長すぎる説教をしたりすることを禁じ、説教内容が同じことの繰り返しにならぬよう規則正しく読書することを強く勧め、強い酒を飲まぬよう要求し、早朝に起床することを命じている。また別の日には彼は、当時の最新の文学作品を批評し、あらゆる新刊書を、あたかも他に何もすることのない人ででもあるかのように、冷徹に深い洞察に富んだ筆致で注釈している。ナポレオンと同じく、彼の頭脳にとっては、従事する対象として小さすぎたり大きすぎたりするものが何1つなかったように思える。カルヴァンと同じく彼は、執筆以外することがない人のように執筆し、説教以外することがない人のように説教し、指導以外することがない人のように指導した。このような多方面にわたる造詣の深さこそ、世界に足跡を遺したほとんどの人々の力の強大な秘訣の1つであり、その際だった特徴である。蒸気機関であると同時に小刀であること、望遠鏡であると同時に顕微鏡であることこそ、おそらくは人間の頭脳に到達しうる最高の境地である。

 このウェスレーの素描は、もし彼に対して絶えず唱えられる異議に注目しなければ、完全なものとはいえまい。――その異議とは、彼が教理的にはアルミニウス主義者であったという点である。私はこの異議の深刻さを十分に認めるものである。私は、そうした非難を些細なことであると云い抜けしたり、彼の数々の問題意見を弁護したりするつもりはない。個人的に私は、いやしくも良く教えを受けたキリスト者が、どうして罪なき完全や恵みからの可堕落性などといった教理を奉じたり、選びやキリストの義の転嫁といった教理を否定したりできるものか説明に窮する思いがする。

 しかし、究極のところ、私たちは自分と同じ観点からすべてのことを見ていないといって人々を強く非難しすぎたり、自分たちのシボレテを発音できないからといって人々を破門したり交わりを断ったりしないよう警戒しなくてはならない。神のみことばにはこう書かれている。「なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか」[ロマ14:10]。私たちは自分の意見を持たなくてはならないが、他人にもその意見を持つ権利を認めなくてはならない。私たちは福音の本質に関わる事柄と、福音の完全さに関わる事柄との区別をつけることを学ばなくてはならない。ある人が選びを否定したり、義認とは赦しにすぎないと考えたり、1つの説教では信者がこの世で完全に達しうると語り、別の説教では恵みから完全に墜ちてしまうことがありうると語ったりした場合、私たちは、その人は不完全な福音を説教していると考えてもよいかもしれない。しかし、もし同じ人が、罪を強くまた大胆に暴き出して非難し、キリストを明確にまた十分に高く掲げ、人々に向かってはっきりとまた公然と、悔い改めて信ぜよ、との招きをしている場合、その人は福音を全然語っていないなどと云えるだろうか? その人は全く何の善も行なっていないと云えるだろうか? 少なくとも私には、そのようなことは云えない。もしホイットフィールドの福音とウェスレーの福音のどちらを好むかと問われたならば、ためらうことなく私は、ホイットフィールドの福音を好むと答える。私はカルヴァン主義者であり、アルミニウス主義者ではない。しかしもしさらに問う人があり、ウェスレーは全然福音を説教せず、現実には何の益ももたらさなかったと云えるかどうか聞かれたなら、ためらうことなく私は、そんなことは云えない、と答える。ウェスレーがそのアルミニウス主義を振り捨てていたなら、より大きな益をもたらしただろうことに私はいささかも疑いをいだかない。しかし彼がキリストを説教したこと、キリストを尊んだこと、途方もない善を成し遂げたことは、私の目が黒いうちは絶対に疑うことができない。

 ウェスレーをアルミニウス主義者だといって見くびる人は、ホイットフィールドが死んだときにウェスレーが行なった告別説教を読み、ウェスレー自身の言葉に接してみるがいい。彼は、その偉大な同労者にして兄弟である人物について、こう述べている。――

 「彼の根本的な特質は、人間のうちにある、いかなる良きものについても、あらゆる栄光を神に帰そうとしたことにあった。救いの事柄において彼は、あたう限りキリストを高く掲げ、あたう限り人間を低めた。このような特質に立って、彼と、オックスフォードにおける彼の友人たち――いわゆる最初のメソジストたち――は行動を始めたのである。彼らの大原則は、人間のうちには生来何の力も、何の功績もない、ということにあった。彼らは強く主張した。『すべての恵みは、語る恵みも考える恵みも正しく行動する恵みも、ことごとくキリストの御霊のうちにあり、御霊から発する。また、すべての功績は、いかに高い恵みに達した人であろうと、人間のうちにはなく、ただキリストの血潮のうちにだけ存する』、と。そのように、彼と彼らは教えた。人のうちには、上から与えられるまでは、何の善をも行なう力も、何の良い言葉を語る力も、何の良い願いをいだく力もない。なぜなら、すべての人は罪に病んでいると云うだけでは十分でないからである。しかり、私たちはみな罪過と罪との中に死んでいるのである。

 「また私たちはみな、罪の力という点でも罪の咎目という点でも無力である。なぜなら、汚れたものからきよいものをもたらすことがだれにできようか? 全能者以外の何者にもできない。罪に死んでいる者、霊的に死んでいる者を、だれによみがえらせることができようか? 私たちを地のちりから引き起こしたお方以外にない。しかし、この方はいかなる慮りに立ってこのことをなさるのか? 私たちがなした正しい行ないのためではない。おゝ、主よ。死者は汝をたたえることあたわず、おのれをよみがえらせるべきいかなることをもなしえず。それゆえ、神がなされるいかなることも、ご自分の愛する御子のためだけになされるのである。『彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられた』。したがって、ここにこそ、私たちが受けることのできる、また実際に受け取っているあらゆる祝福を功徳としてかちとる唯一の原因があるのである。特に、私たちが神に赦され、受け入れられ、完全に、かつ無代価で義と認められるという祝福の、唯一の源泉は、ここにこそあるのである。しかし私たちは、いかにしてキリストが行ない、また苦しまれた功績の利益にあずかれるようになるのか? 『行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。それは、ただ信仰によるのです』*。使徒は云う。『人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです』。また、『キリストを受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、人の意欲によってでなく、ただ、神によって生まれたのである』*。

 「このように新しく生まれた者でなければ、神の国に入ることはできない。しかし、このように御霊によって生まれた者はみな、彼らの内側に神の国を有しているのである。キリストは、ご自分の御国を彼らの心の中に建ててくださる――義と平和と聖霊による喜びとを打ち立ててくださる。キリスト・イエスのうちにあるのと同じ心構えが彼らのうちにもあって、彼らをキリストが歩まれたように歩ませる。彼の内住の御霊が、彼らを思いにおいて、また生活習慣のあらゆる面において聖くしてくださる。しかしそれでも、これらすべてがキリストの血潮と義による無償の賜物であることを見るとき、私たちが覚えておくべき、先と同じ永遠の理由がある。――誇る者は主にあって誇れ、と。

 「あなたがたは、これらこそホイットフィールド氏が至るところで力説した根本的教理であることをよく知っているであろう。そしてこれらは、いわば2つの言葉に要約されるのではなかろうか。――『新生、そして信仰による義認』、と。これらを私たちは、あらゆる大胆さをもって、また公私を問わずあらゆる場所で、力説しようではないか。これらの古き良き、昔ながらの教理を私たちは、だれが反駁し、だれが悪口を云おうと、手放さずにいようではないか」。

 これらがアルミニウス主義者のジョン・ウェスレーの言葉であった。これらについて私は何の注釈もしない。ただこのことだけを云っておこう。いかなる人であれ、この偉大な人をアルミニウス主義者であるからといって軽蔑する前に、自分が本当にウェスレーの意見がどのようなものであったか知っているかどうか用心するがいい、と。何にもまして、百年前の英国でウェスレーがどのような種類の教理を説教するのが常であったか、自分が完全に理解しているかどうか用心するがいい、と。

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