第2章 ホイットフィールドの業績の評価----彼の直接的な業績に対する証言----彼の間接的な偉業----ホイットフィールドの説教の独特な特徴----その驚嘆すべき説教力に関する証言----その74編の説教集の内容----他にまさる彼の卓越性----単純さ、単刀直入さ、描写の巧みさ、熱心さ、哀感、ゼスチュア、声量、流暢さ----ホイットフィールドの内的生活、へりくだり、キリストに対する愛、勤勉さ、自己否定、無私の心、陽気さ、おおらかさ----彼の説教の実例
私の判断では、前世紀英国で活躍した改革者の中でも、ジョージ・ホイットフィールドは、ひときわ抜きん出て偉大な人物であった。そこで私は、ここで何のはばかりもなく、もう1章を彼のために設けたい。彼が実際にどれほどの偉業をなしとげたか。彼の説教の独特な特徴は何か。彼は個人的にどのような性格であったか。これらはみな考察に値する点である。しかしまた、ひどく誤解されている点でもある。
こうした誤解は、当然、起こるべくして起こったものであったともいえる。ホイットフィールドのような人物を正しく評価するための資料は、どうしても手薄にならざるをえない。彼は、バンヤンの「天路歴程」のように、百万読者の心をつかむ世界的に有名な本を一冊も書かなかった。彼は、マルチン・ルターのように、国家の後ろ盾と王侯の協力によって、堕落した巨大教会に対する聖戦の先頭に立ったりしなかった。彼は、ジョン・ウェスレーのように、その著書に全幅の信頼を置き、その最上の言行を注意深く記憶にとどめてくれるような教派を創設したりしなかった。ルター派やウェスレー派という人々は今日もいる。しかし、ホイットフィールド派などというものはどこにもない! 前世紀のこの偉大な伝道者は、純粋な、何のけれんもない人物で、ただ一事のために生きていた。そしてその一事とはキリストを宣べ伝えることであった。この一事さえ成れば、その他のことは意に介さなかった。このような人物については、天では膨大な記録が積み上げられているであろうが、地上にはごくわずかな記録しか残らないのである。
これと合わせて忘れてならないのは、どんな時代でもホイットフィールドのような人物は、多くの人々から狂信者・熱狂主義者というレッテルを貼られるということである。多くの人は、信仰上のどんな「熱心さ」をも忌み嫌う。世間に騒ぎを起こす者、旧来の伝統的やり方から離れる者、平穏な世の営みに混乱をもたらす者をいやがる。こうした人々によれば、ホイットフィールドの伝道活動は単に一事的な興奮を引き起こしただけで、その説教は陳腐な大言壮語にすぎず、その性格も特に尊敬すべきものではないと云われるに違いない。こういう人々は、千八百年前にも、ほぼ同じようなことを聖パウロについて述べたのではなかろうか。
「ホイットフィールドはどれほどの偉業をなしとげたか」。この問いに対して私は躊躇することなく答えよう。彼は、直接的には人々の不滅の魂のために巨大な偉業をなしとげた。否、想像も及ばぬ偉業をなしとげたとすら云おう。イングランド、スコットランド、アメリカにおいて、信頼すべき何人もの証人が確信をもって記録に残している。ホイットフィールドは何千何万もの人々に回心をもたらした器であった。彼が説教する場所という場所で、おびただしい数の人々が、ただ単に説教を楽しんだり、興奮したり、興味をもっただけでなく、実際に罪に背を向け、徹底した神のしもべとなっていった。もちろん、いかなる時代であれ「決心者数調べ」が好ましからざる習慣であることは承知している。神おひとりのほか、人々の心の中を知り、麦と毒麦を判別できるお方はいない。しかし、ホイットフィールドが大いに用いられたという私の評価には、確たる根拠があることを知ってほしい。同じ時代の人々が、ホイットフィールドの働きをどのようにみなしていたか見ていただきたい。
アメリカの有名な哲学者フランクリンは、感情に流されることのない、打算的な人物だった。宗派としてはクェーカー教徒で、どんな牧師の活動もあまり高く評価しそうにない人物であった。にもかかわらず彼は告白して云っている。「やがて現われた町[フィラデルフィア]の住民たちの態度の変化には驚くべきものがあった。今まで宗教については考えもせず、まるで無関心であったのが、急に世界じゅうが信心深くなってきたようで……あった」*1。 フランクリン自身、フィラデルフィアで宗教書の出版を扱う一流の印刷業者であったことは述べておくべきであろう。その彼がホイットフィールドの説教や日記を喜んで出版したという事実もまた、アメリカ人に対するホイットフィールドの影響力を彼がどう判断していたかを示している。
マクローリン、ウィルソン、マカロフの三人は、トゥイード川以北では名の通ったスコットランド人牧師である。前二者は、神学者としても一流の部類に入る人物であった。この三人が三人とも繰り返し証言しているのは、ホイットフィールドはスコットランドにおいて途方もない偉業をなしとげる器となったということである。特にウィルソンはこう述べている。「神は彼をして、あらゆる階級、あらゆる宗派の罪人の間で驚異的な成功をおさめしめ給うた」。
あのハッダーズフィールドとイェリングのヘンリー・ヴェンは、偉大な恵みの人であるばかりか、非常にすぐれた良識の持ち主であった。彼の意見は、「もしキリストの子らの偉大さが、なしとげた働きの大きさ、広さ、成功度、そして無私の精神によってはかられるとすれば、ホイットフィールド氏と比肩しうるほど傑出した人物はまずいないと断言してよい」。また彼はこうも云う。「彼はその膨大な働きにおいて、圧倒的な成功をおさめた。私は確信しているが、彼の伝道活動において終始押された証印は、その数がもし確定されうるとしたら、信じがたいほどのものであろう。その驚くばかりの人気は、疑いもなく、彼が用いられた器であったという事実からのみ生じている。彼が説教壇で口を開くやいなや、神は彼のことばによって尋常ならざる祝福をもたらされたからである」。
ジョン・ニュートンは、卓越した福音の教役者であるばかりでなく、俊敏な知性の持ち主であった。彼の証言はこうである。「ホイットフィールド氏の性格に光輝を与え、現在その喜びの冠たるべきもの、それは魂をかちとることにおいて主が彼に与え給うた無類の成功である。彼の説教は、収穫を得ずに終わったことが一度もないように見える。彼は広範な地域を活動して回ったが、霊の父として彼を感謝をもって仰ぎみる者が一人も見あたらないような場所はまずないであろう」。
ジョン・ウェスレーは、いくつかの重要な神学的論点においてホイットフィールドと意見を異にしていた。しかし彼はホイットフィールドの告別説教を行なったとき、こう述べている。「いまだかつて、これほどおびただしい数の罪人を悔改めに至らしめた人物が古今あったであろうか? 何よりも、これほどおびただしい数の罪人を暗闇から光へ、サタンの支配から神へと立ち返らせる祝福の器となった人物が古今あったであろうか?」
これらの証言は疑いもなく貴重なものだが、ここで全くふれられないまま残されている点が1つある。それは、ホイットフィールドが間接的になしとげた偉業の大きさである。彼の働きの直接的な影響がいかに大きいとはいえ、その間接的な影響は、はるかに大きいと私は堅く信じている。彼の伝道活動は、彼を見たことも聞いたこともないおびただしい数の人々に祝福をもたらしたのである。
彼は、プロテスタント宗教改革の源泉となった古の諸真理に対して、18世紀の人々の関心を真っ先に呼び覚ました人々のひとりであった。彼が絶え間なく宗教改革者の教えた教理を主張し、何度となく国教会の信条や公唱説教に言及し、英国最上の神学者たちの神学を引き合いに出すことによって、多くの者が考えさせられ、自分の主義信条を見つめ直す思いをかき立てられた。真相がすべて明らかになれば、英国国教会の中に福音派が勃興したかげには、ジョージ・ホイットフィールドの多大な影響があったことが知れるであろうと思う。
しかしそれだけが、ホイットフィールドの生涯においてなしとげられた間接的な偉業ではない。彼は、不信者や無神論者の攻撃を撃退する正しい方法を真っ先に示した人々のひとりであった。こうした人々に対する最も強力な武器は、血の通わない形而上学的な議論や、無味乾燥な批評的論考ではなく、福音の全体を宣べ伝えること、福音の全体を生き抜くこと、福音の全体を説き広めることにある。そう彼ははっきり見抜いていた。この時代の怒濤のごとき不信心の流れを押し返すにあたっては、リーランドや小シャーロック、ウォータランド、レズリらの著作などは、ホイットフィールドや彼の同労者たちの説教の半分も役に立たなかった。ホイットフィールドたちこそキリスト教の真の擁護者であった。不信者は、単なる抽象的な議論ではめったに動かされない。彼らに対する最も確実な論証は、福音の真理であり、福音に裏打ちされた生活である。
何よりもホイットフィールドは、いみじくもチャーマズ博士が「攻撃的」方式と名づけた伝道方法を徹底的に理解したように思われる最初の英国人であった。彼こそは、キリストの牧師らが漁師の仕事に携わらなくてはならないことを最初に理解した人物であった。人をすなどろうとする者は、自分のところまで魂がやってくるのを待つのではなく、自分から魂を追い求めて出て行き、「無理にでも人々を連れて」来なくてはならない。彼は、雨の日の猫のようにただおとなしく炉端にすわり、悪い時勢を嘆くことなどしなかった。邪神の祭壇に飛び込んで行っては、悪魔に立ち向かった。彼は面と向かって罪と社会悪を攻撃し、罪人たちを一時も安閑とさせておかなかった。彼は罪人を求めてあらゆる所に突進していった。無知と悪徳の見られる所なら、どこまでも追跡していった。つまり彼は、当時までわが国ではほとんど知られていなかった伝道方式に最初に着手したのである。しかし、一度始められるや、今日に至るまでその方式は一度もすたれたことがなかった。大都市伝道、町村伝道、教区世話人会、野外説教、国内伝道、特別礼拝、劇場説教、これらはみな、「攻撃的方式」の価値が今やどの教会でも認められている証拠である。現代の伝道方法は、百年前よりもはるかに多様性に富んでいる。しかし、こうした種類の方法を最初に始めた人物がジョージ・ホイットフィールドであったことは決して忘れないようにしようではないか。そして彼にしかるべき名誉を与えようではないか。
次に考察しなくてはならないのは、ホイットフィールドの説教の独特な性格である。なぜ彼があれほど無比の成功をおさめたのかを知りたいと思うのは人情であろう。この点には、かなり難しい問題が伴っており、正しく判断を下すのは非常に困難である。多くの人々が抱いているイメージ、すなわち、ホイットフィールドはありきたりのメソジストのがなり屋にすぎず、その途方もない雄弁さと、あくの強い教理と、われ鐘のような大声のほかには、たいした人物ではない、といった考え方は、少し調べてみれば全くの誤りであることがわかる。ジョンソン博士は次のような愚論を残している。「彼はわめき、怒鳴り、人々の感情を波立たせはしたが、大道薬売りの方がずっとうまく人々の注目を集めていた。彼が人々の注目を集めたのは、他の人々よりすぐれていたからではなく、奇抜なことを行なったがためにほかならない」。しかしジョンソンがどれほどの人物であれ、彼が牧師や宗教上の問題についての権威者でないことは確かである。このような理論は穴だらけである。否定できない諸事実と矛盾する空論である。
英国には、ホイットフィールドがロンドン周辺で定期的に説教していたときほど多くの大群衆を引き寄せた説教者は、いまだかつてひとりもいない。これは事実である。いまだかつてホイットフィールドのように英国、スコットランド、アメリカの三国を訪れて、全く同じように人気を博した説教者はひとりもいない。いまだかつてホイットフィールドのように34年もの間、聴衆に影響力を及ぼし続けた説教者はひとりもいない。彼の人気は決して衰えたことがなかった。生涯最後の日に至るまで、彼の人気は、最初に説教者として活動をはじめたときと同じくらい高かった。彼が説教する土地という土地で、人々は自分の仕事場も仕事も放り出して彼のもとに集まり、石で打たれたように彼のことばに耳を傾けた。これだけでもすさまじいばかりの事実である。四半世紀にわたって「大衆」の耳目を集め続け、その間たえまなく説教し続けていたということは、並たいていでない力業を証ししている。
もう1つの事実は、ホイットフィールドの説教が世間のあらゆる身分の人々に強力な影響を与えたということである。彼は庶民ばかりでなく高位の人々からも尊敬をかちえていた。貧民階級ばかりでなく富裕階級からも、また無学な人々ばかりでなく学識者からも尊敬された。もし彼の説教が無教養な貧民街の人々の間でだけ人気を博していたとしたら、それが騒々しい熱弁以外の何ものでもなかったとも思えたかもしれない。しかし事実はことごとくそれとは逆で、彼は貴族や上流階級の多くの人々の友人知己に事欠かなかったようである。ロジアン女侯爵、リーヴェン伯爵、バカン伯爵、レイ卿、ダートマス卿、ジェームズ・A・ゴードン卿などを彼の熱烈な崇拝者としてあげることができよう。ハンティンドン伯夫人や多数の貴婦人たちのことは云うまでもない。
ボリングブルック卿やチェスターフィールド卿のように傑出した批評家であり文章家である人々が、しばしばホイットフィールドの説教に喜んで耳を傾けていたことも事実である。冷淡な気取り屋のチェスターフィールドでさえ、ホイットフィールドの雄弁に胸を熱くしたことが知られている。ボリングブルックは云った。「彼[ホイットフィールド]はわれわれの時代における最も桁外れな人物である。私は、いまだかつてこれほど堂々たる雄弁が人の口から発せられるのを聞いたことがない」。哲学者であるフランクリンも、ホイットフィールドの説教力を手放しで絶賛している。歴史家のヒュームも、ホイットフィールドを聞くためなら20マイル遠出する価値はあると断言した。
さて、これらの事実は決して云いのがれできるものではない。こうした事実は、ホイットフィールドの説教が騒々しいがなり声にすぎなかったという説を完璧にくつがえしてしまう。ボリングブルック、チェスターフィールド、ヒューム、フランクリンといった人々は、簡単に欺けるような人物ではない。雄弁術についても彼らはひとかどの見識を持っていた。彼らは当時随一の批評家であったといっていい。彼らの偏見ない率直な意見は、ホイットフィールドの説教に何か桁外れに異常なものがあったに違いない、反駁しようのない証拠であると思われる。しかしそれでも、ホイットフィールドの無比の人気と成功の秘密が、究極的にはどこにあったかという問いに答えが出たことにはならない。私も、判断の材料がこれほど少なくては、その問いに答えることは至難のわざであると率直に認める。
ホイットフィールドの名のもとに出版された75編の説教集を手に取る人は、たぶんひどく失望するであろう。その内容に、透徹した知性や豊かな理解力を見てとることはできない。深い哲学や、驚嘆すべき思想などは全く見られない。しかし公正を期すため云っておけば、これらの説教の大部分は記録者が速記で書き留めたままを、何の修正もなしに出版されたものなのである。この記録者たちは、ひどく無造作な仕事を行なったように見える。また明らかに彼らは、句読点についても、段落の区分についても、文法についても、福音についても無知であった。その結果、これらの74篇の説教は、多くの文章が、さしずめラティマー主教なら「ゴッタ煮ゴタ混ぜ」と云ったであろうような、あるいは現代の私たちなら「シッチャカメッチャカ」と云うであろうような代物となってしまったのである。あわれなホイットフィールドが、その最晩年の手紙の1つ、1769年9月26日付けの手紙で、こう述べているのも当然である。「あなたには、私の最後の説教の公刊に反対するよう通告してほしかったと思います。ある箇所では、文章の「テニヲハ」も整っておらず、まるで筋の通らない文章さえ出てきます。また段落を見境なく切り刻み、文脈も前後関係もめちゃくちゃにされた箇所もあります。全体を見るとき、これは広く一般に配布するには全く不適当な出来のものです」。
しかしあえて云うが、どれほど不出来な仕上がりであっても、公刊されたホイットフィールドの説教集を公正な目で通読する人は大きな報いを受けるであろう。読者は、これがメルヴィルやブラッドレーの講演のように、注意深く校訂を受けたものではないことを思い出すべきである。これらは不器用に記録され、適当に段落分けされ、いいかげんな句読点をつけられたものだということを絶えず頭に置いて読まなくてはならない。さらに、聴衆を前にした話し言葉と書物のための書き言葉は、その組み立てが2つの異なる言語のように違っていることも思い出さなくてはならない。つまり、質の良い「説教」であればあるほど、「読み物」としては質が落ちるということである。ぜひこの2つの点を念頭に置きつつ、それに応じて判断していただきたい。それでもなお、ホイットフィールドの説教集がほとんど賛嘆に値しないとしたら、私をとんまとでもばかとでも云ってもらいたい。私としては、この説教集の価値は、不当に低くみなされていると断言したい。
さて次は、ホイットフィールドの説教において、ひときわ際立った特徴と思えるものをいくつか指摘することにしよう。
まず第一に、ホイットフィールドは他に類を見ないほど純粋な福音を説教した。自分の聴衆に、これほど多くの麦を与えながら、これほど少ししかもみがらを与えなかった人は、まずいないであろう。講壇から彼が語ったのは、自分の支持政党のことでも、主義主張のことでも、趣味のことでも、役職のことでもなかった。彼は、人の罪、人の心、イエス・キリスト、聖霊、悔改めの絶対的な必要性、信仰、聖潔について、聖書がこれらの壮大な主題を述べる通りの仕方で、うむことなく語り続けた。「おお、イエス・キリストの義!」、と彼はしばしば云うのであった。「私の説教には必ずキリストの義が出てくるが、ご寛恕ねがいたい」。こうした種類の説教こそ、神が喜んで誉れをお与えになる説教である。説教とは、何よりもまず第一に真理を明らかに示すことでなくてはならない。
またホイットフィールドの説教は他に類を見ないほど明晰、単純なものであった。聴衆は、教えの内容についてどう思ったにせよ、彼の云わんとすることだけは完璧に理解できた。彼の話のスタイルは堅苦しくなく、くだけた、平易なものであった。まるで彼は、回りくどい複雑な文章を目の敵にしていたかのように見えた。彼は余計な脇道にそれたりせず、云いたいことを単刀直入に述べるのが常だった。難解な議論や、込み入った理屈で聴衆を煙に巻くことはほとんどなかった。聖書の単純な言明、適切な例証、ツボを押さえた例話、こうした武器の方を普通彼は用いた。そのため、彼の聴衆が彼の話を理解できないことは一度もなかった。彼は決して聴衆の理解を越えたことは語らなかった。これもまた説教者として成功するため重要な鍵の1つである。説教者は、話を聴衆に理解させるためには、いかなる努力も惜しんではならない。いみじくもアッシャー主教が云うように、「簡単なことを小難しそうに話すのは誰にでもできるが、難解なことを簡単にしてみせるのが、偉大な説教者というものである」。
またホイットフィールドは、他に類を見ぬほど大胆で率直な説教者であった。彼は、決してあの曖昧模糊な言い回し、「私たち」を使わなかった。英国の講壇説教に特有のものと思われるこの表現は、聴衆の思いをモヤモヤした混乱におとしいれるだけである。しかし彼は人々に面と向かって立ち、あたかも神から直接メッセージを託されてきたかのように云うのだった。「私は、あなたがたに向かって、あなたがたの魂について語るために、ここに来たのである」、と。その結果、彼の説教を聞いた聴衆の多くはしばしば、それが特に自分に向けて語られかのように思うのが常であった。彼は多くの説教者のように、だらだら説教を続けたあとで、申し訳程度に適用の切れ端をくっつけてよしとはしなかった。むしろ逆に、彼の説教はどれをとっても、最初から最後まで適用づくめだった。「これはあなたのことである、そしてこれはあなたのことなのである」、と。彼の聴衆のうち個人的な適用を受けない者はひとりとしてなかった。
ホイットフィールドの説教のもう1つの驚くべき特徴は、その異常なまでに真に迫る描写力であった。アラビアのことわざに、「話の名人は、聞き手の耳を目にすることができる」、と云う。ホイットフィールドには、まさにその特別な才能があったようである。彼は自分の話を劇的に盛り上げ、あたかもそれが聴衆の眼前で生きて歩き出すかのように思わせることができた。その迫真の話術は、聴衆が、まるで実際にそれを目にし、耳にしていると信じるほどであった。ホイットフィールドの伝記作者のひとりがこう述べている。「あるとき、彼の聴衆の中にチェスターフィールド卿がいた。この偉大な説教者は、回心していない罪人の悲惨な状態を説明するのに、盲目の乞食を例にとって語りだした。夜の闇は深く、道は険しかった。そのあわれな乞食は、絶壁のがけっぷちで手を引く犬に見捨てられ、杖一本をたよりに道をさぐるしかないという状況だった。ホイットフィールドはその情景をありありと描き出し、聴衆は、まるでそのあわれな老人の歩みをじかに見守っているかのように、息をつめて聴き入っていた。そしてついに、その男が断崖から最後の一歩を踏み出そうとするときがきた。今やまっさかさまに転落して墜死は確実かというとき、突如チェスターフィールド卿は立ち上がり、『落ちるぞ! やめろ!』、と叫びながら、前へ飛び出した。彼は老人を救おうとしたのである。このやんごとなき殿方は、説教者のことばに全くわれを忘れて、それが真に迫る物語にすぎないことを失念してしまったのである」。
ホイットフィールドの説教の主立った特徴のもう1つは、彼のすさまじいばかりの熱心さである。ある無学な貧しい男は彼について、「まるでライオンのように説教する」、と云ったという。どんな聴衆も、彼が自分の語っていることを一言一句堅く信じていることだけはわかった。「この説教者は、自分の信ずることをわれわれにも信じてほしくて全精力を尽くしているのだ」、そう彼らは感じるのだった。彼の説教は、ポーツマスの朝夕の砲声のように、決まり切ったおつとめとして定期的に打ち出されるようなものではなかった。なれきって誰も驚かないようなものではなかった。彼の説教には、いのちと炎がみなぎっていた。そこから逃れるすべはなかった。居眠りなど不可能に近かった。聞きたかろうと聞きたくなかろうと、彼の説教には耳を傾けずにいられなかった。彼は、嵐のように聴衆の注意を引き寄せる、聖なる猛々しさを身にまとっていた。聴衆は、何をしているかもわからぬうちに、彼のエネルギッシュさにすくわれてしまうのだった。これもまた彼の成功の秘訣の1つに違いない。人に信じてほしければ、自分が心底から真剣であることを相手に納得させなくてはならない。良い説教者と悪い説教者の違いは、しばしばその話す内容にあるのではなく、どのように話したかという点にあるのである。
彼の伝記作者のひとりは、あるアメリカ人の紳士が初めてホイットフィールドの説教を聞いたときのもようを記録している。この紳士は、以前からホイットフィールドの風評を耳にしており、ぜひ彼の話を聞いてみようと出てきたのであった。ところがその日は雨で、聴衆は比較的まばらであった。そして説教の出だしもいくぶん単調であった。このアメリカ人は、「この説教者も結局たいしたことはないな」、と思いはじめた。まわりを見回してみると、他の聴衆も同じように退屈しているのがわかった。ある老人などは、説教檀の真前で眠りこけていた。ところが急にホイットフィールドは説教を中断した。顔色をさっと変えて、突如今までとは違った声で口を切った。「もし私が、自分の名前であなたがたのところへ説教しに来たなら、頬づえをつこうが居眠りしようがかまわない。時々顔をあげて、『このおしゃべりは何を云っているんだ?』、と云っていればいいかもしれない。しかし私は、自分の名前でここに来ているのではない。万軍の主の御名によって来ているのだ」(こう云うと彼は、ものすごい力で両手と両足を講壇の上に打ちおろしたので、会堂全体が震撼した)。「私の説教を聞かずにいることは許さない!」。聴衆は飛び上がった。かの老人はたちまち目を覚ました。「そら、そら!」とホイットフィールドは老人を見すえて、大声で云った。「うまく起こせたようだ。私はわざとそうしたのだ。私は、切り株や石ころ相手に説教しに来たのではない。万軍の主の御名によって来たのだ。それゆえ、私の話を聞かずにいることは許されない」。退屈な雰囲気は、跡形もなく消え去った。その後の説教は、一言一言が深い関心をもって聞かれた。そして、そのアメリカ人の紳士は決してこの出来事を忘れることがなかった。
ホイットフィールドの説教の特質として、もう1つの点に特に注目すべきである。それは、彼の説教には万感迫る哀感の情がこめられていたという点である。彼がとめどなく涙を流しながら説教をすることはまれでなかった。ホイットフィールドの晩年、その伝道旅行にしばしば同行したコーネリアス・ウィンターは、ホイットフィールドが涙を流さずに説教することはほとんどなかったとさえ云っている。明らかに、そこには何の見せかけもてらいもなかった。彼は自分が前にしている魂のことを思って心しめつけられるのを感じ、その感情のはけ口を求めて涙が流れたのである。彼の説教を成功させた要素の中でも、これほど強力なものはなかったであろう。彼の涙は人々の感情を目覚めさせ、彼らの心の琴線に触れた。論理や論証によっては決して動かされない人々も、涙の前には心を動かされたのである。多くの人々が彼に対して抱いていた偏見は、彼の涙によってなだめられた。人は、自分の魂のためにこれほど泣いてくれる人物を憎むことはできなかった。あるとき聴衆のひとりは彼にこう打ち明けた。「私はポケットいっぱいに石をつめてここに来ました。先生の頭をかちわってやろうと思ってたんです。でも先生の説教には負けました。私の心はくじけてしまいました」。人は、相手が自分を愛してくれているのだといったん納得すれば、その人が語ることは何でも喜んで聞くものである。
さて、こうした特徴に加えて知っていただきたいのは、ホイットフィールドには、人をして雄弁家たらしめる希有の才能のいくつかが生来備わっていたということである。彼の身振り手振りの動作は完璧であった。かの名優ギャリックが手放しで絶賛したほどである。彼の声もまたそのゼスチュアに劣らず驚嘆すべきであった。その声量は一度に三万人の人々の耳に届いたといわれる。その快い音楽的な声音は、ある人が評して、「ホイットフィールドは『メソポタミヤ』と一言発するだけで聞く者の目に涙を浮かべさせることができる」と述べたほどであった。講壇に立った彼の様子はこれ以上なく優美な、魅力的なもので、聴衆は説教を聞きはじめて5分もすると彼がやぶにらみであることをきれいさっぱり忘れてしまうと云われるほどであった。また彼の流れるような言葉の巧みさと適切な言葉を駆使する力は比類がなかった。彼は、正しい言葉を常に正しい場所で用いることができた。もう一度云うが、こうした天賦の才を、上に述べたことがらに加えていただきたい。その上で、彼の説教者としての力と人気に十分な説明がつかないかどうかを考えていただきたい。
私自身としては、何の迷いもなく、これら数々の卓越した資質を一身に兼ね備えていた点で、ホイットフィールドは他のいかなる英国人説教者をもはるかに凌駕する存在であったと信じる。疑いもなく、ホイットフィールドの持っていた賜物の1つか2つにおいては、彼にまさる説教者もいたに違いない。それとは別の点でホイットフィールドに匹敵する説教者も、おそらくはいたであろう。しかし、説教者として持ちうる最上の賜物をこれほど均整よく兼ね備え、なおかつ、それに加えて比類ない声、様子、弁舌、ゼスチュア、言葉使いの巧みさを合わせ持っていた人物としては、何度も云うがホイットフィールドは万人に抜きん出た存在である。古今の英国人のうちで、彼に比肩しうる人物はひとりもいないと思う。おそらくどのような説教者であれ、ホイットフィールドが持っていたような、たぐいまれな賜物の組み合わせに近いものを持てば持つほど、クラレンドンが真の雄弁術を定義して云うところの「自分の言葉を人に信じさせる異常な力」をきわめていくのではないかと思う。
前世紀の、この偉大な霊的英雄の内的生活と性格については、長々と述べるつもりはない。実際、その必要もないであろう。ホイットフィールドは、驚くほど裏表のない人物であった。彼の言行には、弁解やなぞ解きを要するものは何1つない。彼は、短所も長所も明けっ放しな人物であった。したがってここでは、彼の性格の中でも特に目立つ部分を、その書簡や同時代人の逸話などから指摘するにとどめ、この小論を閉じることとしたい。
彼は、心底から深くへりくだった人であった。ギリース博士の刊行した彼の1400篇の書簡集を読む人は、このことに否応なく気づくであろう。人気絶頂のただ中にありながら彼は、何度となく自分と自分の働きのことを、この上なく謙遜な言葉で語っている。「神が罪人の私にあわれみをかけてくださるように」、と彼は1753年9月11日に書いている。「どうかその無限の御あわれみのゆえに、へりくだりと感謝に満ちた、従順な心を与えてくださるように。まことに私は、世界で最も汚れた者である。なぜ主がこのように浅ましい者をお用いになるのか驚く以外にない」。また1753年12月27日には、こう書いている。「これほど怠惰で、なまぬるく、役立たずの虫けらを呼び立てるのはよしてほしい。むしろ、むち打ってほしいと思う。『眠っている人よ、目をさませ。おまえの神のために何か働きはじめるがよい』、と」。疑いもなくこの世の人々にとっては、このような言葉は愚かしく、見せかけたっぷりのものと思えるに違いない。しかし、よく教えを受けた聖書の読者にとっては、こうした言葉が全時代の傑出した聖徒たちと同じ、心からの経験であることがわかるであろう。これはバクスターやブレイナード、マクチェーンの言葉である。霊感を受けた使徒パウロのうちにあったのと同じ心である。最も光と恵みを受けた者は、常に最もへりくだっているのである。
彼は私たちの主イエス・キリストに対する愛に燃える人であった。かの「すべての名にまさる名」は、彼のすべての手紙の中で絶え間なく繰り返されている。香り高い軟膏のように、彼の信書のすべてにおいて、イエスの御名は香りを放っている。彼は、イエスについて何かしら語ることに決して飽きたりなかったように思える。ジョージ・ハーバートのいわゆる「わが主なる君」が、彼の心から長い間離れていることはなかった。その愛、その贖い、その尊い血、その義、その豊かに罪人を受け入れる寛容さ、その聖徒たちを取り扱われる忍耐と慈愛、これらはホイットフィールドの目には常に変わらず新鮮に映っていた。少なくともこの点では、彼と、あの誉れも高いスコットランド人牧師サミュエル・ラザフォードの間には奇妙な相似があるといえる。
彼は、その主のわざにおいて疲れを知らぬ勤勉と精励の人であった。長い教会の年代記をひもといても、ホイットフィールドほど主のわざのため身を粉にし、一心に働いた者の名をあげることは困難であろう。バースで行なったホイットフィールドの告別説教の中で、ヘンリー・ヴェンはこう証言している。「この神の人は、その労苦の大きさにおいて、何というしるしと不思議であったことか! 人間の脆弱な肉体が、ほぼ30年にもわたって、何の中断もなく、このような労苦の重荷を負い続けたということに、私たちはただ立ちつくして驚くほかはない。長時間にわたり、続けざまに声を張り上げていることほど、肉体にとって----特に若者の肉体にとって----たえがたいことがあるだろうか? 自分の肉体の限界を少しでもわきまえた人々にとって、成年に達したばかりの青年が、一週間に40時間以上、多くの場合は60時間以上も、何千もの人々の前で、しかも何年間にもわたって語り続けたなどということが可能と思えるだろうか? しかもその労苦の後で、しばしの休息をとるどころか、常々の習慣として、説教後に招かれた家で賛美と霊の歌をもって祈りととりなしをささげていたなどということがありえるだろうか? 実際、労働の量という点では、この尋常ならざる神のしもべは、他のほとんどのしもべが努力しても一年はかかる仕事を、数週間単位で行なっていたのである」。
彼は、最後に至るまで卓越した克己の人であった。彼の生活様式は、これ以上なく質素であった。彼の飲食のつつましさは語り草となるほどであった。一生の間、彼は早起きを励行した。通常の起床時間は夏も冬も四時であった。また自室に引き取る時間も規則正しく十時前後であった。さらに、祈りの人である彼は、しばしば夜を徹してみことばと祈りと瞑想に打ち込んだ。彼と同室で眠ることの多かったコーネリアス・ウィンターによれば、時として彼は夜中に、わざわざそのために起き出すことすらあった。彼は、キリストの事業を助けるもの以外の金銭には、ほとんど執着しなかった。ご自分のために使ってくださいと、いくら押しつけられても、彼は受け取らなかった。あるときなど、700ポンドもの大金を断ったことすらある。蓄財など全くせず、自分の家を富ますこともしなかった。死後彼が残したなけなしの金銭は、ことごとく友人からの(断ることのできない)遺産であった。法王がルターについて述べた粗野な言い回しは、そっくりホイットフィールドにもあてはまるであろう。「あのドイツの畜生めは、黄金を愛さんのだ」。
彼は、驚くほど私心を去った純粋な心の人であった。彼の人生の目的はただ2つしかなかったように思える。それは、神の栄光と魂の救いである。それ以下の隠された目的など全くなかった。彼は、弟子たちを組織して自分の名を冠した団体をつくったりしなかった。彼は、自分の著作を根本的な要素とする教派を建て上げたりしなかった。彼が口ぐせのように云っていた言葉ほど、その人となりを示すものはない。「ジョージ・ホイットフィールドの名よ消え去れ。キリストの御名のみあがめられよ」。
彼は、並外れて幸福で陽気な精神の持ち主であった。彼を見た者で、彼が自分の信仰生活の喜びを満喫していることに疑いを持てる者はひとりもいなかった。その伝道活動を通じて、あれほどの試練を受けながら----ある人々には中傷され、ある人々には蔑まれ、にせ兄弟からはでまかせを云われ、当時の無知な聖職者たちからは絶え間なく反対を受けながら----彼の快活さは決して失われることがなかった。彼はすぐれて喜びに満ちたキリスト者であった。彼の態度そのものが、主に奉仕する幸いを証ししていた。彼の死後、ニューヨークに住むひとりの老貴婦人は、御霊が彼女の魂を神のもとへと導くもととなった力について、このように注目すべき言葉を用いている。「ホイットフィールドさんがあまりに朗らかな方だったので、私もついついキリスト者になろうかという気にさせられたのです」。
最後になったが、これも重要なこととして、彼は桁外れの寛容さ、心の広さ、おおらかさの持ち主であった。彼には、一部の人々のように、自分たちの陣営の外は何も育たぬ不毛の地だ、などと夢想する狭量さがひとかけらもなかった。彼は、自分たちの団体だけが真理と天国を独占しているなどという心の狭さとは無縁だった。彼は、主イエス・キリストを真実愛するすべての人々を愛した。彼が人々をはかるはかりは、あの神の使者たちが用いたものと同じだった。「彼らは、神に対する悔い改めを告白したか。私たちの主イエス・キリストに対する信仰を告白したか。生活の聖さを証ししているか」。もし相手がそうした人なら、その人は彼の兄弟であった。彼の魂はそのような人々とともにあり、彼らが何と呼びならわされているかは関係なかった。小さな相違など、彼にとっては木、草、わらにすぎなかった。主イエスのしるしだけが、彼の重んずるしるしであった。この心の広さは、その時代の風潮を考えるとき、いやまさって驚くべきものである。スコットランドで彼は、あのアースキンらからさえ、自分たち以外の教派、すなわち分離教会以外の教会では説教しないでほしいと云われた。そこで彼は尋ねた。「なぜあなたがたにしか説教してはならないのですか?」 受けた答えは驚きであった。「なぜなら、私たちが主の民だからです」。これにはホイットフィールドもがまんできなかった。「あなたがた以外には主の民がいないというのですか? 他のすべての教派が悪魔の民であるとしたら、そちらの方こそ、説教してもらう必要があるではありませんか!」。そして彼はこうしめくくった。「もしローマ法王そのひとが講壇を貸してくれるというなら、私は喜んでその講壇からキリストの義を宣べ伝えましょう」。この心の広さを彼は生涯守り続けた。他のキリスト者たちが彼についてでたらめを云い立てても、彼は彼らを赦した。彼らが彼とともに働くことを拒んでも、彼は彼らを愛した。彼の心の広さを最も如実に証ししているのは、彼がその最晩年になって、自分の死後、告別説教はジョン・ウェスレーに行なってもらいたいと頼んだという一事である。ウェスレーとホイットフィールドは、いくつかのカルヴァン主義的立場において対立し、一致しようとする試みはとうに放棄されていた。しかしホイットフィールドは、生涯最後の日に至るまで、さして重要でもない相違のことは忘れようと堅く決心していた。あたかもルターに対してカルヴァンがそうしたように、彼はウェスレーを、「イエス・キリストの良きしもべであり、それ以上でもそれ以下でもない」とみなした。またあるとき、ひとりの批判好きな信者が彼に尋ねた。「私たちは、ジョン・ウェスレーと天国で会えると思いますか?」「いいえ」、というのが、彼の驚くべき答えだった。「そうは思いません。天国では、ウェスレー先生は御座の間近におり、私たちははるかに遠いところにいるでしょうから、私たちはその姿を見ることもできないのではないかと思います」。
もちろん私には、ホイットフィールドが完全無欠の人物であったなどと云うつもりは毛頭ない。神のすべての聖徒らと同じく、ホイットフィールドも不完全な被造物であった。彼はしばしば摂理について性急な判断を下し、自分の好みと神の導きを取り違えることがあった。彼は、口でもペンでも、軽率な意見を表わすことが多かった。彼には、「ティロットスン大主教の福音理解は、マホメットのそれと同程度だった」などと云う権利はなかった。時として彼は誤って、ある人々をキリストの敵と、またある人々をキリストの友と、あまりにも軽々しく、あまりにも確信をもって断ずることがあった。彼は、新生の教理を受け入れられないというだけの理由で、多くの聖職者を「字面だけ知ったかぶりのパリサイ人」だと非難したが、これもほめられない態度である。しかし、これらすべてを前にしても、概して彼が比類なく聖く、厳しく自分を律する、裏表のない人物であったことに疑いはない。あるアメリカ人著述家は云う。「彼の性格上の欠点は、太陽の黒点のようであった----冷静な第三者が注意深く観察すれば、造作なく見つけだすことができたが、実際上は、1つの大きな暖かい光と輝きのうちに飲みこまれてしまうのだ」。実際、神が百年前の英国に立ててくださった、この偉大な伝道者のような牧師が、今日の教会にも大勢与えられたなら、どれほど幸いなことであろう!
ホイットフィールドについてさらに詳しく知りたければ、1770年にギリース博士が、彼の書簡とその他の出版物から編纂した7巻本の全集を熟読するのがよいであろう。私がよほど思い違いをしていない限り、この全集の内容は読者に嬉しい驚きをもたらすはずである。この19世紀に幾多の名著が再版される中で、ジョージ・ホイットフィールド全集の完全再版を企画する出版者が現われないのは、まことに驚くべきことである。
最後に、ホイットフィールドがケニングトン広場で行なった説教の結論の部分から短く抜粋してみる。興味深く思う読者もいるであろう。この偉大な説教者が、どのような種類の説教をしていたか、かすかなよすがを伝えてくれると思う。これは、「あなたがたはキリストについて、どう思いますか」という聖句から説教したものである(マタイ22:42)。
「兄弟たち。私の心は、あなたがたに向かって広く開いている。今こうして語っている間も、私は、あの隠れた、しかし力強いキリストの臨在を感じている。これは、まことに甘美な、何ものにもまさって快い臨在である。わけもなく敵対する人々への仕返しとして、私が願うのは、ただその人々が、今の私と同じような体験をしてほしいということだけである。救われる前の状態へなど、私は二度と決して戻りたいとは思わない。しかし、どうか信じていただきたい。もしあなたがたが、信仰によってキリストが心のうちに住んでくださる幸いを少しでも知ることができるのなら、私は喜んで、しばらくの間、お互いの状態をとりかえたいと思う。どうか背を向けないでいただきたい。悪魔の声に負けて急いで立ち去らないでいただきたい。この教えが教会堂の中で語られていないからといって見下さないでいただきたい。私たちの主も、地上におられたときには、山の上で、舟の中で、野の台地で説教されたのである。今この場にも、主の恵みあふれるご臨在を感じている方がきっとおられると思う。実際、私たちは自分が知っていることを語っているのである。それゆえ、神の国をみすみす退けるようなことがないようにしていただきたい。賢い人となり、私たちの証言を受け入れていただきたい。
「このまま、あなたがたを去らせることはできない。私が去らせはしない。もうしばらくここで論じ合おうではないか。たとえあなたがたが、どれほど自分の魂を軽くみなしていようと、私たちの主は、あなたがたの魂に云いつくせぬ値をつけておられる。主は、あなたがたの魂を、ご自分の最も尊い血潮を流す価値があるものと考えられたのである。それゆえ私はお願いしたい。おゝ罪人よ。神と和解しなさい。どうか恐れずに、御子に自分をゆだねていただきたい。見よ、彼はあなたを招いておられる。そのあわれみによって、あなたの道をさえぎり、あなたの後を追い、街道や垣根へしもべたちを遣わし、あなたを連れて来させようとしておられる。
「それゆえ覚えておいていただきたい。この日、この時、この年、この場所で、あなたがたはみな、イエス・キリストについてどう考えるべきかを聞いた。今あなたがたが滅びるとしても、それは無知のためではない。私は、あなたがたの血について何の責任もない。もちろん私は、決してあなたがたが滅びよと語っているのではない。私は、律法的な説教者のように、わらもなしに練瓦を作れと云っているのではない。決して、聖人君子のようになってから神のもとに来るがいい、などと云ってはいない。私は、考えられる限り最も単純な救いを差し出しているのである。キリストの全き知恵、キリストの全き義、キリストの全き聖め、キリストの全き贖いを差し出しているのである。あなたは彼を信じさえすればいい。もし自分は信じることができない、と云う方がおられるなら、それは間違ってはいない。信仰は、他のあらゆる祝福と同じく神の賜物だからである。しかしそれなら、神のもとに来ていただきたい。神があわれみをかけてくださらないと誰に云えるであろう。
「なぜ私たちは、もっとキリストを信用できないのか? なぜキリストは、他の人にはあわれみをかけても、自分にはかけてくださらないと思うのか? あなたは罪人ではないのだろうか? イエス・キリストは罪人を救うために世に来られたのではないだろうか?
「もしあなたが、自分は罪人のかしらだ、と云っても、それは全然救いの妨げにはならない。本当に信仰によってキリストにすがるなら、何のじゃまにもならない。福音書を読んでいただきたい。主が、ご自分を見捨て、否定さえした弟子たちを、どれほど優しく取り扱われたか見ていただきたい。『行って、わたしの兄弟たちに……言いなさい』、と主は云われた。『行って、あの裏切り者どもに言いなさい』、とは云われなかった。『行って、わたしの兄弟たちとペテロに言いなさい』、と云われた。あたかもこう云うかのようである。『行って、わたしの兄弟たち全員に、そして特にペテロに、わたしが復活したことを告げなさい。ペテロの打ちひしがれた心を慰めてやりなさい。私はもうあなたのしたことを赦していると告げなさい。もう激しく泣くのはやめるよう命じなさい。たとえ彼が、三度、のろいと誓いをかけて、わたしを否んだとしても、わたしは彼の罪のために死んだのである。わたしは彼が義と認められるためによみがえったのである。わたしは彼のすべてを赦しているのだ』、と。このように怒るに遅く、大きな優しさにあふれているお方が、私たちのあわれみ深い大祭司なのである。彼は、神の右の御座に高く挙げられた後で、ご性質が変わり、あわれな罪人たちのことを忘れてしまったとでも思うのか? 否、彼は、きのうもきょうも、いつまでも、同じである。彼が神の御座に着かれたのは、そこで私たちのとりなしをするためにほかならない。
「それゆえ、来なさい、遊女たち。来なさい、取税人たち。来なさい、堕落しきった罪人たち。来なさい、そしてイエス・キリストを信じるのだ。たとえ世界中があなたをさげすみ、つまはじきにしても、キリストは、あなたに手を差し出すことを恥とは思われない。おゝ、何と驚くべき、何とへりくだった愛であろう! 彼は、あなたがたをも、ご自分の兄弟と呼ぶことを恥とはなさらない。これほど輝かしい救いの招きを無視するなら、どうやって逃れようというのか? いま地獄にいる魂に、これほど単純にキリストが差し出されたなら、一体何を惜しむだろうか? なぜ私たちは、苦しみの中から目を上げないのか? この大群衆の中に、自分は神のさばきを受けても大丈夫だ、などと云える人がいるだろうか? 他の人々が死によって取り去られていく中で、なぜ私たちはここに生かされているのだろうか? それは神の価なしの恵みを証しする一例ではなかろうか? 私たちに対する神のいつくしみのしるしではなかろうか? 願わくは神が、御恵みにより私たちを悔い改めに導いてくださるように。おゝ、今、ひとりでも多くが悔い改めて、天に喜びの声をわきあがらせようではないか!」
*1 訳注 『フランクリン自伝』松本慎一 西川正身訳(岩波文庫)[本文に戻る]
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