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III.

ジョージ・ホイットフィールドとその伝道活動


第1章

ホイットフィールドの出生地と家系----グロスター中等学校に学ぶ----オックスフォード大学ペンブローク学寮に入学----霊的葛藤の時期----彼にとり有益となった書物----ベンソン主教から按手を受ける----最初の説教----ロンドンでの説教----ハンプシア州のダマーの教区牧師となる----渡米---- 一年で帰国する----野外説教----ロンドンの大部分の講壇から締め出される----31年にわたる働きの範囲----1770年、アメリカのニューベリー・ポートにて死す----その死の興味深い情況

 百年前に英国のキリスト教をよみがえらせたのは、どのような人々だったのだろうか。私たちは、何という名の人々をたたえるべきなのだろうか。彼らはどこで生まれ、どのような教育を受けたのか。彼らの生涯にはどのような出来事があったのか。彼らは主にどのような働きをしたのか。以下の章で私は、ざっとこうした疑問に答えていきたいと思う。

 そんなことには何の興味もないという人がいるだろうか。あわれな人だと思う。神が世でみわざをなさるために用いられる器は、よく調べてみる価値がある。エリコの城壁を吹き崩した子羊の角笛や、シセラを刺し殺した槌とくい、ギデオンのたいまつと角笛、ダビデの石投げや石に、てんで関心がないなどという人は、心の冷たい、全く無情な人であるといってよいであろう。しかし、今この本を読んでおられる読者は違うはずである。みな、18世紀英国の伝道者たちについて何か知りたいと願っている方々であると信じたい。

 さて真っ先に名前をあげたいのは、かの有名なジョージ・ホイットフィールドである。生年月日という点でいえば第一ではないが、功績の点からいって、私は何のためらいもなくホイットフィールドを第一におく。百年前の霊的英雄たち全員を見わたしても、ホイットフィールドほど、いち早く時代の求めるメッセージを見抜いた者はなく、ホイットフィールドほどこの霊的侵攻の大偉業において急進的であった者はいない。もしホイットフィールドを誰かの二番手にするなら、私は途方もない不正を働いたというべきである。

 ホイットフィールドは1714年、グロスターに生まれた。彼の出生地となったこの由緒ある田舎町は、プロテスタントの真理を愛する者すべてにとって、格別にしたわしい名前と一再ならず結びついている。最初期の英語聖書の翻訳者の中で、その最も有能なひとりであるティンダルは、グロスター州の人であった。また英国で宗教改革者として立った人々のうち、最も偉大かつ最も高潔なひとりフーパーは、グロスターの主教であり、メアリー女王の治下、自分の大聖堂を目にしながら、キリストの真理のため火あぶりにされた。17世紀にくだると、グロスターの主教マイルス・スミスは、ロードのカトリック化政策に反抗して立った、最も初期の一人となった。当時ロードはグロスターの代理主教であった。マイルス・スミスのプロテスタント的心情の深さば実に並々ならぬもので、1616年にロードが大聖堂の聖餐卓を東端に動かし、それを初めて「祭壇風」に置いたとき、スミス主教は憤慨のあまり、その日以来死ぬまで大聖堂に足をふみいれることを拒んだほどであった。疑いもなく、このグロスターのような土地は、積まれた多くの祈りという豊かな遺産を抱いていたに違いない。あのフーパーが説教し、祈り、あの熱心なマイルス・スミスが抵抗した町こそ、英国史上最大の福音伝道者を生み出した町であった。

 他の多くの偉人たちと同様、ホイットフィールドも生まれは卑しく、栄達につながるような富裕の、あるいは高貴な縁故は何1つ持っていなかった。彼の母親はグロスターで釣鐘亭という旅館を経営していたが、どう見ても、息子を立身出世させるような力は持ち合わせていなかったように思われる。この旅館そのものは今も現存しており、この英国史上最大の説教者ばかりでなく、英国の高位聖職者として名高い、エクセター主教ヘンリー・フィルポットの誕生した場所であるとも云われている。

 ホイットフィールドの幼少時代は、彼自身の語るところによると、全く宗教的なところがなかった。確かに他の多くの少年たちと同じように、時には彼も良心の痛みを覚えて、突発的に信心深い気分になることはあった。しかし、昔も今も、青年子女の性格を誤りなく判断するための唯一のはかりは、当人の習慣および全般的な趣味である。彼が後に告白するところによると、彼は「常習的にうそをつき、下品な話や愚かな冗談にふけるのが常で」、「教会には行かず、芝居小屋に通い、骨牌遊びに耽溺し、俗悪本を読みふけっていた」。これらはみな、彼が15歳になるまで続いたという。

 貧しいながらも彼は、グロスター在住民という恩恵にあずかり、町の無月謝の中等学校で教育を受けた。そこで彼は15歳になるまで通学生として学んだ。彼の成績については何も伝えられていない。しかし、ただのらくらしていたわけでないことは確かである。さもなければ18歳のときに大学に入学できるだけの学力があったはずがない。また彼の手紙を読むと、至るところにラテン語の詩句が引用されており、その方面の彼の知識がうかかがわれる。学校で習い覚えていなければ、こうはいかないものである。ただし、学校時代の彼について知られている興味深い事実が1つだけある。彼はその当時からすでに雄弁と記憶力で傑出しており、グロスター市会による年次参観日には、生徒代表として演説を朗読したというのである。

 15歳になったとき、ホイットフィールドは学校をやめて、一時的にラテン語やギリシャ語の勉強を中断したらしい。十中八九、母親が経済的苦境におちいったため、彼が何らかの形で家計を助け、生計を立てなくてはならなかったのであろう。そこで彼は、釣鐘亭の日常雑務で母を助けるために働き出した。彼は書いている。「私はしまいには、自分の青い前掛けをかけ、食器を洗ったり、客室を掃除したりし、一言で云うと、ほぼ一年半の間、職業的な給仕として働いたのだった」。

 しかし、こうした状況は長くは続かなかった。釣鐘亭の経営は好転せず、ついに母親は旅館業から完全に手を引くことにしたのである。昔の同級生によって彼は、オックスフォード入学への思いを呼び覚まされ、再び中等学校へ戻り、学業を再開した。友人たちが起こされ、彼らはホイットフィールドのためオックスフォードのペンブローク学寮で運動してくれた。グロスターの中等学校は、ペンブロークに二口の奨学金授与資格を持っていたのである。いくつかの摂理的なはからいによって道がならされた後、とうとう彼は、18歳の年にペンブロークの給費生としてオックスフォードに入学した。

 オックスフォードでの生活はホイットフィールドの人生に大きな転機をもたらした。彼の日記によれば、大学に入学する二、三年前の間も、宗教的な確信を覚えないわけではなかった。しかしペンブローク学寮入学以来、そうした確信は見る見るうちに成熟し、明確なキリスト教信仰に達するに至ったのである。彼は手のとどく限りのあらゆる恵みの手段を勤勉に用いた。彼は時間さえあれば市の監獄を訪問し、囚人たちに聖書を読んでやり、善行につとめた。彼は有名なジョン・ウェスレーとその弟チャールズと知り合い、志を同じくする青年たちの小さな群れの一員となった。その中には、後に「セロンとアスパシオ」を著して有名になるジェームズ・ハーヴェイもいた。この熱心な一団の青年たちこそ、「メソジスト」という名前が初めて冠せられた人々であった。それは、彼らが厳格な「規律」(method)に従って生きていたからである。一時ホイットフィールドは、「トマス・ア・ケンピス」や「カスタヌーザの霊的格闘」などといった書物をむさぼるように読みあさり、あやうく半分カトリック教徒か、禁欲主義者か、神秘家になるところであった。ともすれば、自己否定が信仰のすべてであると考えがちな危険があったのである。彼は日記の中で云う。「私は常に最悪の質の食物をとった。週に二度断食した。衣服は粗末だった。悔悟した罪人が髪に髪粉をふるのはふさわしくないと考えた。毛織の手袋をはめ、つぎの当たったガウンを着、汚れた靴をはいた。神の国が飲み食いのことではないとは重々承知していたが、私は断固としてこうした自発的な自己否定の行ないに固執していた。これらが霊的生活を大きく高めてくれるのを知ったからである」。これらもろもろの暗やみの中から彼は、しだいに解放されていった。その助けとなったのは、一、二人の経験豊かなキリスト者の助言であり、スクーガルの「人間の心のうちなる神のいのち」や、ローの「敬虔、神聖な生活への厳粛な招き」、バクスターの「未信者に対する招き」、アリーンの「未回心者への警告」、マシュー・ヘンリーの「注解」などの書物を読んだことによった。彼は云う。「とりわけ、このように心が開かれ広げられてきたときから、私は他の書物をすべてわきに置き、聖書を膝まづいて読むことをはじめた。そして可能な限り、あらゆる言葉、あらゆる節について、1つ1つ祈ることにした。それは私の魂の飢え渇きをいやす本当の食物であることがわかった。私は日ごとに新鮮ないのち、新鮮な光、新鮮な力を上から受けた。私は神の書を一箇月読むことによって、それまで読んだどのような人間の書き物を合わせたよりもずっと多く真の知識を手にした」。キリストの福音の素晴らしい自由をいったん理解したときから、ホイットフィールドは二度と禁欲主義や律法主義、神秘主義、キリスト者の完全に関する奇妙な見解に立ち戻ることはなかった。悲痛な葛藤を通して味わったこの経験は、彼にとって最も大切なものとなった。無代価の恵みの教理は、いったん完全に理解されると、彼の心に深い根を張り、いわぱ彼の骨の骨、肉の肉とまでなった。オックスフォードのメソジストたちの小さな群れの中で、ホイットフィールドほどキリストの福音をいち早く明確に理解した者はなく、ホイットフィールドほどその福音を最後まで揺らぐことなく持ち続けた者もない。

 1736年の三位一体主日に、22歳という若さでホイットフィールドは、グロスターのベンソン主教から聖職の按手を受けた。彼の按手は自分から求めたことではなかった。レディ・セルウィンや他の人々からホイットフィールドの人となりについて耳にしたベンソン主教が、彼を呼び寄せ、書籍代として5ギニーを与え、22歳の青年に向かって、望むときにいつでも自分が按手を授けようと申し出たのである。この予想だにしない申し出がなされたのは、ホイットフィールドが自分は牧師としてふさわしいかという疑念にさいなまれていた、まさにそのときであった。この申し出によって事は決し、決断が下された。彼は云う。「私には、これ以上屈さずにいるのは神に対して反抗することのように思えてきたのである」、と。

 ホイットフィールドの最初の説教は、生まれ育った町グロスターの聖メアリー・ル・クリプト教会で行なわれた。彼自身の記述が、その日の模様を最もよく伝えているであろう。----「今週の日曜日の午後は、聖メアリー・ル・クリプト教会で最初の説教を行なった。かつて私が洗礼を授かり、また初めて主の晩餐の聖礼典を受けた教会である。このときは、物珍しさから、ごく自然におびただしい数の会衆が集まった。初めのうちは私も、その光景に少しすくんでいた。しかし、心の底に神の臨在を感じて慰められた。そしてすぐ気づいたのは、少年のころは中等学校で演説することになれ、大学では囚人や貧しい人々の家を訪れて勧めをしてきたことが、今の私にとって非常に助けとなっているということであった。これらによって私は、さほどひるまずにすんだ。語り進めるにつれ、私は燃やされるのを感じた。ついには、私のように若い者が、幼少時代の自分を知っている大勢の人々の真中に立っているにもかかわらず、ある程度福音の権威をもって語ることができたと思う。馬鹿にする者もいないではなかったが、ほとんどの者は今のところ心を打たれたように見える。後で聞かされたが、私が15名の者を狂人にしてしまった、と主教に苦情を云った者までいたという! かの敬うべき尊師は、次の日曜までにその狂気が忘れられなければよいが、と答えられた」。

 按手後ほとんどすぐに、ホイットフィールドはオックスフォードに向かうこととなり、文学士の学位を取得した。それから彼は、二箇月の間、一時的にロンドンのタワー教会で働くことによって正規の牧会生活を始めた。彼はそこで働く間も、ロンドンの多くの教会で絶えず説教をしていた。それらの教会の中にはイズリントン教会、ビショップゲート教会、聖ダンスタン教会、聖マーガレット教会、ウェストミンスター教会、そしてチープサイドのバウ教会などがあった。ホイットフィールドの人気は、最初から非常に高かった。おそらく彼以前、彼以後のどのような説教者も、これほどの人気を得たことはなかったであろう。週日であろうと聖日であろうと、彼がどこで説教しようと、教会は込み合い、すさまじい興奮が生じた。実のところ当時のロンドンでは、原稿にたよらず思いのまま雄弁に語る説教者や、ずば抜けた声量と巧みな身振り手振りの才をもって語られる、純粋な福音説教などというものは、全く新奇なものだったのである。そのため会衆は驚きに打たれ、たちまち魅了されてしまったのである。

 その後彼は、二箇月の間ロンドンを離れダマーへ移った。ベージンストークに近い、ハンプシア州の小さな田舎教区である。これは、全く新しい活動領域であり、あたかも彼は、貧しく無学な人々の間に埋もれてしまったかのように見えた。しかし、すぐ彼はこの境遇を受け入れ、後には、貧しい人々と語り合うことから大きな益を受けたと述懐することになる。ダマーで彼は、ウェスレー兄弟から矢のように催促されていた招きを引き受けることにした。北アメリカのジョージア植民地を訪れ、入植者の子供たちのためサバンナ近郊に設立された孤児院の運営を助けることにしたのである。グロスター州一帯、特にブリストルおよびストーンハウスで数箇月説教した後、1737年の後半、彼はアメリカへ向けて出帆し、一年間当地にとどまった。この孤児院の運営問題は、それ以来死ぬまで彼の多大な関心を占めるようになった。善意から出たこととしても、これが知恵あるふるまいであったかどうかは非常に疑わしいように思われる。疑いもなくこのことによってホイットフィールドは、一生の間、途方もない心労と責任をかかえこむことになったのである。

 ホイットフィールドがジョージアから帰国したのは、1738年の後半であった。それは、1つには老友ベンソン主教から司祭としての按手を授かるためであり、1つには、孤児院に関する事務のためであった。しかし彼はすぐに、彼の立場がもはや前年ジョージアに向けて出帆したころとは違ってしまっていることに気づいた。大半の聖職者たちはもはや彼に対して好意的ではなく、狂信的な熱狂主義者ではないかと彼を白い眼で見るようになっていた。彼らを特に憤激させたのは、ホイットフィールドが行なった新生の教理に関する説教であった。ホイットフィールドは、新しく生まれることは、すでに洗礼を受けた多くの人々も大いに必要としていることだ、と説教したのである。彼を受け入れる講壇の数は見る間に減少した。泥酔や不潔行為には目をつぶる教区委員たちも、この、いわゆる「秩序の紊乱」に関しては強く憤慨していた。アリウス主義、ソッツィーニ主義、理神論などを大目に見る主教たちも、キリストの贖いと聖霊のみわざをあますところなく宣べ伝える一人の人に対しては激高し、公然と非難を浴びせかけはじめた。一言で云えば、ホイットフィールドの生涯のこの時期から、彼が英国国教会内で用いられる場は、あらゆる面で急速にせばまっていったということである。

 この急場に臨んで彼が取った道は、彼の伝道活動の全方向を大きく転回させることとなった。彼は野外で説教するという手段に訴えたのである。彼は、おびただしい数の人々が礼拝の場に集わず、日曜を無為に、あるいは罪のうちに過ごしているのを至るところで目にしていた。教会内でなされる説教が彼らの耳に届かないのを見たホイットフィールドは、聖なる攻撃精神に燃え、師であるキリストの原則にならい、彼らを追い求めて「街道や垣根のところに出かけて行って……無理にでも人々を連れて来」ようと決意したのである。彼がこれを最初にこころみたのは、1739年の2月、ブリストル近郊のキングズウッドの炭鉱夫たちの間であった。多くの祈りを積んだ後、ある日彼はハナム山へ出かけ、とある丘の上に立ち、百名ほどの炭鉱夫を相手に、マタイ5:1-3から説教しはじめた。この出来事はすぐに広く知られるようになった。聴衆の人数はたちまち増加し、ついには数万の会衆を数えるまでになった。これら、人からかえりみられることのない炭鉱夫たちの示した様子は、ホイットフィールド自身の記述によると、非常に感動的なものである。彼は一友人にあててこう書いている。----「彼らには、捨てなくてはならないような自分自身の義は何1つなかった。だから取税人たちの友であられ、義人を招くためではなく罪人を招いて、悔い改めに至らせるために来られたイエスという方のことを聞いて非常に喜んだようだ。彼らの感動していることが初めてわかったのは、彼らの涙であった。炭鉱から上がってきたままの彼らの黒いほおを涙がとめどもなく流れ、白い縞になっているのである。その場で何百人もの炭鉱夫が深い罪の確信へと至った。その後の経過を見ると、それが幸いにも健全で完全な回心であったことがわかる。その変化は、だれの目にも明らかである。多くの人はそれを神の手のわざと認めようとはせず、別の理由をつけようとしているのだが。私はこれほどの人数を前にした経験がなかったので、しばしばひどく動揺した。二万人もの人々を前にするときなど、神に対しても人に対しても、語る言葉を一言も思いつけなくなるほどであった。しかし私は一度も完全に見捨てられたことはない。むしろしばしば(と云うのも、それを否定するのは神に対して嘘をつくことになるからだが)、私は非常に大きな力で支えられるのを感じ、私たちの主が、『その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる』、と云われたものを味わう幸いな経験にあずかった。広大な天空の下で、隣接する原野の眺望を目にしながら、何千何万もの人々と相対することほど心ゆさぶられる経験は他にない。そこには四輪馬車の中で聞く者がいる。馬上で聞く者がいる。木によじのぼって聞く者もいる。時としてその全員が感動の涙にくれている光景に、私は本当に胸打たれるのを感ずる」。

 それから二箇月後の1739年4月27日、ホイットフィールドはロンドンで野外説教をはじめた。それは、妙な出来事をきっかけに起こったことであった。彼は、友人の副牧師ストーンハウス氏のため、イズリントンへ説教をしに出かけていた。ところが、祈りの途中で教区委員たちがホイットフィールドのもとに来て、ロンドン教区で説教するための免許状を見せてほしいと云うのだった。もちろんホイットフィールドはそんな免許状を持ち合わせていなかった。常々ロンドン教区で奉仕する牧師でもなければ、そうしたものを持っているはずがなかった。結局彼は、教区委員たちから講壇で説教することを禁じられたため、聖餐式のあとで外へ出ていき、教会墓地で説教したのである。彼は云う。「そして神は、説教する私を支えて、聴衆の心を大きく揺り動かしてくださった。私たちは、たとえ監獄へでも、賛美歌を歌いながら入っていけただろうと思う。敵対者には、私が彼らの会堂から出ていったと云わせるまい。むしろ彼らが私を追い出したのである」。

 その日から彼は、天候や季節の許す限り常に野外で説教するようになった。二日後の4月29日の日曜日、彼はこう記している。----「ムアフィールドで、非常におびただしい数の群衆を前に説教した。午前の説教で疲れたため、午後は仮眠をとり体を休めた。5時にケニングトン広場で説教した。そこはロンドンから2マイルばかり離れた郊外にあり、集まった人数はおそらく三万人をくだらなかったと思う」。それ以来ホイットフィールドは、そこがロンドン周辺の広大な空き地であり、不信心で教会に通わぬ大勢の群衆が寄り集まる場所でありさえすれば、ハックニーの野であろうとメアリー・ル・ボンの野であろうと、メイフェアであろうとスミスフィールドであろうと、ブラックヒースであろうとムアフィールドであろうとケニングトン広場であろうと、躊躇することなく出かけていき、大音声でキリストを宣べ伝えた。群衆は、このようにして語られた福音に耳を傾け、それまで教会に行くことなど夢にも思わなかった何千人もの人々が、むさぼるように福音を受け入れた。純粋な信仰の旗印は勇躍前進し、サタンの掌中にあった魂が、火の中の燃えさしのようにもぎとられていった。しかしそれは当時の教会にとって余りにも急進的すぎる運動であった。尊敬すべき数人の例外をのぞいて、聖職者らはことごとくこの異端的な説教者を毛嫌いした。意地汚い根性丸出しにして彼らは、なかば異教徒めいた民衆を自分から追い求めることも、自分らに代わってそうしようとする者に好意を寄せることもしなかった。その結果英国国教会の講壇におけるホイットフィールドの奉仕は、このとき以来ほぼ完全に停止してしまった。ホイットフィールドは自分が按手を受けた国教会を愛していた。その信条を誇りにしていた。その祈祷書を喜んで用いていた。しかし国教会は彼を愛さず、むざむざ彼の奉仕を失ってしまった。ありていに云えば、当時の英国国教会には、ホイットフィールドのような人物を受け入れるだけの器の大きさがなかったのである。国教会は余りにも深く惰眠をむさぼっていたため、彼を理解することができなかった。彼のように絶えず動いてやまず、サタンを攻めたててやまないような人物に困惑するばかりだったのである。

 この時期を境に、ホイットフィールドの生涯はその死の日に至るまで、ほとんど同じような出来事が連ねられていく。ある年は次の年と同じようであり、彼の事績をたどろうとすれば、同じような記述を何度も何度も繰り返すことになる。1739年から彼が死ぬ1770年までの31年の間、彼の生涯はただ1つの事業のために費やされた。彼はいかにも一事の人であり、常に自分の主の働きに従事していた。日曜日の朝から土曜日の夜に至るまで、また1月1日から12月31日に至るまで、病床に伏すときをのぞいて彼は、ほとんど休むことなくキリストを宣べ伝え、世界中をへ巡って、悔い改めてキリストのもとへ来たれと人々に懇願して歩いた。イングランド、スコットランド、ウェールズに点在する大都市の中で、彼が伝道のため訪れなかったような町はほとんどない。彼は、国教会の会堂が使えるときには、喜んで国教会の会堂で説教した。非国教会の会堂しか使えないときには、遠慮なく非国教会の会堂で説教した。国教会の会堂も非国教会の会堂も使えないときや、聴衆がはいりきれないほど小さな会堂の場合には、いつでも喜んで野外で説教した。31年の間、彼はこのように働き続けた。常に同じ栄光の福音を宣べ伝え、常に(人の目で判断する限りは)すさまじい効果をおさめた。ある聖霊降臨節の週に彼は、ムアフィールドで説教したあとで自分の霊的状態について思い悩む人々から一千通の手紙を受け取り、350人の人を聖餐式にあずからせた。34年にわたる彼の伝道活動の中で、彼は公の説教を1800回おこなった。

 当時の道路や交通事情を考えるとき、彼は途方もない旅行家であった。近代人についてもそう云えるとすれば、彼は「荒野の難、海上の難」を知りぬいていた。彼はスコットランドを14回訪れ、この聖書を愛する国で彼は、他のどの国よりも歓迎され、用いられた。彼は、当時の情けないほどのろい帆船に乗って大西洋を7回横断往復し、ボストン、ニューヨーク、フィラデルフィアなどの何万人もの人々の耳目を釘づけにした。彼は二度アイルランドに渡り、一度などはダブリンの無知なカトリック教徒の暴動によって殺されかかったことすらあった。イングランドとウェールズに関しては、ありとあらゆる地方を巡り歩き、ワイト島からベリッカポンツイード、ランズエンド岬からノース岬まで、英国中をくまなく渡り歩いた。

 野外説教も休止せざるをえない冬季には、ロンドンで通常の牧会的な奉仕を行なったが、それは驚異的な働きであった。国教会の講壇が閉ざされたとき、彼のためトテナム・コート通りにタバナクル会堂が建てられたが、そこで行なう彼の毎週の奉仕は次のようなものだった。----毎週、日曜の朝6時半に、数百人の人々に対して聖餐式を執り行なう。その後、祈祷書を朗読し、午前の説教と午後の説教。さらには5時半から夕の説教を行ない、最後に、やもめや、夫婦、青年、独身の婦人など、会堂内で別れて席についている大勢の人々に向かって、それぞれの立場に応じた勧告をしてしめくくるのだった。月曜、火曜、水曜、木曜の朝には、決まって6時に説教。月曜、火曜、水曜、木曜、土曜の夕には聖書の講義。これは週に13回説教を行なったことになる! そしてその間も彼は、ほとんど世界中のおびただしい数の人々と手紙のやりとりを続けていた。

 ホイットフィールドがこのような労働をあれほど長い間行ない続けたということは、実に超人的といってよい。しばしば直面した暴力沙汰によって彼のいのちが縮められなかったこともまた、それに劣らず驚くべきである。しかし彼は、自分の働きをなしとげるまでは不死身であった。彼がついに死んだのは、1770年9月29日の日曜日、北米のニューベリー・ポートという場所で、56歳という比較的若い年であった。彼は一度結婚した。相手はアバゲブニー出身のジェイムズというやもめで、彼より早く死んだ。書簡に彼女のことがほとんど記されていない事実から判断してよければ、結婚はさほど彼の幸福に寄与しなかったように思われる。彼は一人も子供を残さなかったが、どんな息子や娘にもまさる名を残した。ジョージ・ホイットフィールドほどキリストのため心血を注ぎ、キリストのため用いられた人物はかつてなかったと云ってよいであろう。

 この偉大な伝道者の最期にまつわる情況は、非常に興味深いものなので、私は弁解することなくここでそれを詳しく述べることにしたい。それは、彼の人生行路ときわめて調和した最期であった。彼は30年以上そうして生きてきたように、最後の最後まで説教しながら死んだのである。文字通り彼は死ぬまで仕事をやめなかった。彼は常々云っていた。「突然死ぬということは、突然栄光にはいるということである。正しいことかどうかわからないが、私はそのように世を去りたいと願わずにいられない。人々のやっかいになり、友人のあわれみにかこまれて生きるのは、死より悪いことのように思える」。彼の心の願いはかなえられた。友人たちが彼の病んでいることなど気づきもしないうちに、彼は痙攣性の喘息の発作によって一夜のうちに取り去られたのである。

 9月29日の土曜日の朝、すなわち彼の死の前日に、ホイットフィールドはニューハンプシャーのポーツマスへ向けて馬上の人となった。日曜日にニューベリー・ポートで説教するという約束を果たすためであった。その途上、不幸にして彼はエクセターという場所で説教するよう熱心にせがまれ、非常なからだの弱りを覚えていたにもかかわらず、ついに断り切ることができなかった。その説教の前に、友人のひとりは彼に、ふだんよりずっと顔色が悪そうに見えると述べ、「先生。説教なんてとんでもない、今すぐベッドにつくべきです」、と云った。これに対しホイットフィールドは、「全くその通りです」と答えた。そしてわきへ寄ると、両手をにぎりしめ、天を見上げて云った。「主イエスよ。私はあなたのわざに疲れてしまいました。けれども、あなたのわざに飽き果てたのではありません。もし私が走るべき道のりをまだ走りぬいていないのであれば、どうかもう一度出て行かせ、もう一度あなたのために語らせてください。あなたの真理に証印を押させ、それから家へ帰って死なせてください」。それから彼は行って説教した。非常におびただしい数の群衆を前に、彼はIIコリ13:5から、野外で2時間近く説教した。それが彼の最後の説教であり、彼の一生の行路にふさわしいしめくくりとなった。

 その場にいたひとりの人が、このホイットフィールドの生涯の終幕について、次のような驚くべき記録を残している。----「彼は自分の座席から身を起こし、真っすぐに立った。その姿だけで、1つの力強い説教であった。やせた顔、青ざめた顔色、朽ち衰えた身体の中で天来の火花が口を切ろうとして葛藤していることが、ありありと見てとれた。霊は望んでいながら肉体は死にかけていたのである。こうした状態のまま数分のあいだ彼は語ることができないでいた。そのとき彼はこう云った。『恵み深い神の御助けを待ちましょう。神は、もうひとたび私が御名によって語ることを助けてくださると、私は確信しています』。そして彼は、おそらく彼の最良の説教の1つに数えられるだろう説教を行なった。説教の後半には、次のような一節がふくまれていた。『私は去って行く。備えられた安息へ向かって行く。私の太陽は多くの人々に光を与えてきたが、今や沈もうと----否、永遠の栄光の絶頂のうちに昇ろうとしている。私は多くの人より長生きしてきたが、その人たちが天国で私より長生きすることはないであろう。多くの人は地上で私よりも長生きし、この肉体が滅び去ったあとも生き続けるであろう。だが、----おゝ、何と神聖なことか!----私は、時間も、年齢も、病も、悲しみもない世界で生きることになるのである。この肉体は朽ち果てる。しかし魂は伸び広がる。キリストを宣べ伝えるためなら、喜んで永遠にでも生き続けたいと思う。しかし死ねば彼とともに住むのである。やり残した膨大なつとめにくらべれば、何と私の人生はつかの間で----比較的にだが----短かったことか。しかしもし私が今去るなら、たとえいま天のことを心がける人は多くはなくとも、平和の神は確かにあなたがたを訪れてくださるであろう』」。

 説教が終わったあとホイットフィールドは、一人の友人と昼食をともにし、その後、非常に疲労していたにもかかわらず、ニューベリー・ポートへと馬に乗って出かけた。当地に到着してから彼は早めに夕食を取り、ベッドにはいった。言い伝えによると、火のともった燭台を手に二階に上がっていく彼は、思い断ち切りがたく、階段の最上段の上で後ろをふり向き、彼に会おうと集まってきた階下の友人たちに語りはじめたという。語るうちに彼は心が燃やされ、語り終えるころには手に持った燭台のろうそくが差し込み口のところまですっかり燃え尽きてしまっていたという。そして彼は自分の寝室に入り、二度と生きて出てくることがなかった。ベッドに入ってまもなく、激しい痙攣性喘息の発作が彼を襲ったのである。翌朝6時前には、この偉大な説教者は死んでいた。もしこの変化に備えのできていた人がいたとすれば、ホイットフィールドこそその人であった。時がきたとき、彼は死ぬことのほか何もする必要がなかった。彼はその土地に葬られ、遺骸は彼が説教することになっていた教会の講壇の下の地下納骨室におさめられた。彼の埋葬所は今も目にすることができる。そしてジョージ・ホイットフィールドの遺骨がそこにおさめられているという事実こそ、彼の死んだ小さな町の名を最も高からしめていることなのである。

 これらが、百年前の英国で活躍した伝道者の王者の生涯のおもだった事実である。彼の個人的な性格や、彼が実際にどれほど用いられたか、そしてまた彼の説教のスタイルについてあれこれ物語るのは、次章にゆずることにしたい。

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