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7. 確 信


「私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです」 (IIテモ4:6-8)

 冒頭に掲げた聖書の言葉で私たちが目にするのは、使徒パウロが3つの方向を眺めている姿である。その方向とは、下方・後方・前方----すなわち、下方にある自分の墓、後方にある自分の伝道生活、そして前方にある、かの大いなる日、すなわち、最後の審判の日である!

 私たちはしばしの間、使徒のかたわらに立ち、彼の用いている言葉に注目してみるのがよいと思う。幸いなのは、パウロが眺めていたのと同じ方向を見つめて、パウロと同じように語ることのできる魂である!

 a. 彼は下方にある墓を眺めているが、恐れなしにそうしている。彼が何と云っているか聞くがいい。「私は今や注ぎの供え物となります」。私は今や、さながら犠牲の場に引き出され、祭壇の四隅の角(つの)に紐で縛りつけられた動物のようである。奉納物につきものの注ぎの供え物はすでに注ぎ出されつつある。必要な儀式はすべて完了した。あらゆる準備が整った。残るはただ、死の一撃だけであり、それですべてが終わるのだ。

 「私が世を去る時はすでに来ました」。私は、さながら今にも抜錨し、出帆しようとしている船のようである。船内のすべては準備万端整っている。私が待つのはただ、これまで私を岸に繋ぎとめていた係留索が解かれることだけであり、それから先は帆を張って、航海を始めるだけなのだ。

 これは、私たちのようなアダムの子の唇から発せられた言葉としては尋常なものではない! 死は厳粛なものであり、特にそれが間近に迫りくるときほど厳粛になることはない。墓場は冷涼たる、心を消沈させる場所であり、恐ろしくないふりをしても無駄である。それなのに、ここにいるひとりの定命の人間は、あの狭苦しい、「すべての生き物の集まる家」[ヨブ30:23]を穏やかに見つめることができ、深淵のふちに立ちながらも、「私はすべて見通しているが、恐ろしくはない」、と云えているのである。

 b. さらに彼に聞いてみよう。彼は後方にある自分の伝道生活を眺めているが、恥じることなしにそうしている。彼が何と云っているか聞くがいい。「私は勇敢に戦い……ました」。ここで彼は兵士として語っている。私は、大勢の人間をひるませ、尻込みさせてきた、この世と肉と悪魔に対する戦いを勇敢に戦ってきた。

 「私は……走るべき道のりを走り終え……ました」。ここで彼は、賞を目指して走る走者として語っている。私は、私のために計画された競走を走り抜いた。私のために定められた走路を、それがいかなる悪路、急坂であっても、走り通した。私は困難さゆえにわきへそれることも、長距離さゆえに心くじかれることもなかった。私にはとうとう決勝点が見えてきた。

 「私は……信仰を守り通しました」。ここで彼はしもべとして語っている。私は、私に任せられた栄光の福音を堅く保ってきた。私はそれに人間の伝統の混ぜ物をしたり、勝手な独創をつけ加えてその単純さを損なったりすることをしなかったし、その純度を落とそうとする者らに対しては、絶えず面と向かって抗議し続けてきた。彼はこう云っているかのようである。「兵士として、走者として、しもべとして、私には恥ずるところがない」、と。

 幸いなキリスト者とは、この世を去るとき、このような証言を後に残していける人のことである。むろん曇りない良心があるからといってだれも救われないし、いかなる罪も洗い落とされはしない。また、私たちが髪の毛一筋でも天国へ近づくわけでもない。それでも、曇りない良心は、私たちが死の床につくときには、愛すべき訪問客となるであろう。『天路歴程』には美しい箇所がある。正直翁が死の川を越えていく場面である。バンヤンは云う。「さて、その川は折しも所によっては両岸に溢れていたが、正直氏は生前良心者にそこへ迎えに来てくれと話しておいたので、彼がやって来て手を貸して渡るのを手伝った」*。確かにこの箇所には、尽きせぬ真理の鉱脈があると確信してよい。

 c. さらにもう一度、使徒に聞いてみよう。彼は前方にある大いなる清算の日を眺めているが、疑いを持たずにそうしている。彼の言葉に注意するがいい。「今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです」。あたかも彼はこう云っているかのようである。「私には、輝かしい報いが用意されている。----義人だけに与えられる栄冠が私のために保管されている。最後の審判の大いなる日に、主はこの栄冠を私に、そして私とともにいるすべての人々に授けてくださるのだ。その人々とは、目に見えない救い主として主を愛してきた人々、顔と顔を合わせて主にお会いすることを待ち望んできた人々である。私の地上における務めは終わった。今の私に残された願いは、ただこの1つだけであり、他には何もない」、と。

 ここで私たちが注目したいのは、使徒が何のためらいも疑念もなしに語っているということである。彼はその栄冠を確実なこと、すでに自分の所有と決まったこととみなしている。彼は揺るぎない自信をもって、正しい審判者がそれを授けてくださるとの堅い確信を云い表わしている。パウロは、自分が言及したその厳粛な日が、いかなる状況のもとで、いかなることとともに到来するかをことごとく知っていた。大いなる白い御座、召集された全世界、開かれた数々の書物、暴かれたあらゆる秘密、耳を傾ける御使いたち、戦慄すべき宣告、失われた人々と救われた人々との永遠の分離、----こうしたことすべてを彼は熟知していた。しかし、こうしたことの何をもってしても、彼を動揺させはしなかった。彼の強い信仰は、これらすべてを跳び越えて、ただイエスだけを見ていた。すべてに打ち勝たれる、彼の「弁護してくださる方、注ぎかけの血、罪の洗い」だけを見ていた。彼は云う。「義の栄冠が私のために用意されている」。「主が、それを私に授けてくださるのです」。彼はまるでこの目でそれを見たかのように語っている。

 こうしたことが、これらの節にふくまれている主な事柄である。私は、その大部分については語るつもりはない。この論考の特別な主題だけに限定して語りたいからである。私が考察しようとしているのは、この箇所のただ一点であって、その点とは、この使徒が最後の審判の日に自分を待ち受けることを思い描くにあたって示している、強い「希望の確信」にほかならない。

 私は、喜んでこのことを行ないたいと思う。なぜなら、この確信という主題には非常な重要性が付随しており、へりくだりをもって云わせてもらうが、今日このことは、しばしば非常におろそかにされていると思わされるからである。

 しかし同時に私は、それを恐れおののきつつ行ないたい。私はこれから、自分が非常に困難な場所に足を踏み入れようとしている気がする。この件について性急なこと、また非聖書的なことを語るのはたやすいことであると感じている。真理と過誤の間を通り抜ける道は、ここでは特に狭い細道になっている。もし私が、ある人々に善を施し、なおかつ別の人々に害を与えずにすませられたならば、非常に感謝なことであろう。

 確信という主題について語るにあたり、私は4つのことを提示したい。ひとまずここで、それを一括して述べておけば、今後の道筋がはっきりするであろう。

 1. まず第一に私が示そうと思うのは、パウロがここで表明しているような確固たる希望を持つのは真実な、聖書的なことだということである。

 2. 第二に私は、1つ大幅な譲歩をしたいと思う。すなわち、人は一度もこの確固たる希望に到達しなくとも、救われていることがありうるということである。

 3. 第三に私が提示しようと思うのは、なぜ確固たる希望をことのほか願い求めるべきかという、いくつかの理由である。

 4. 最後に私が指摘しようと思うのは、なぜ確固たる希望に到達する人がほとんどいないかという、いくつかの原因である。

 私は本書の偉大な主題[聖潔]に関心をいだくあらゆる人々に、ここで特別な注意を払うよう願いたい。私がよほど大きな思い違いをしていない限り、真の聖潔と確信との間には密接なつながりがある。この論考をしめくくるまでには、読者の方々にそのつながりの性質を示したいと思っているが、現在のところは、こう云うだけで満足しておこう。すなわち、最も際立った聖潔の持ち主は、通常、最も強固な確信の持ち主である、と。

1. 確固たる希望を持つのは真実な、聖書的なことである

 さて第一に示そうと思うのは、確固たる希望を持つのは真実な、聖書的なことだということである。

 この論考の冒頭に掲げた節でパウロが表明しているような確固たる希望は、ただの妄想や漠然とした考えではない。神経の高ぶりから生じたものでも、多血質的な気性のなせるわざでもない。それは、人の持って生まれた体質や気質とは関係なしに授けられる、聖霊の明確な賜物であり、キリストにあるあらゆる信仰者が目当てとし、追求すべき賜物である。

 こうした問題において最初に問われなくてはならないのは、「聖書は何と云っているか?」、ということである。私はその問いに、いささかのためらいもなく答える。私の見るところ、神のみことばの明白な教えによれば、信仰者は自分の救いについて、確固たる確信に到達することができると思われる。

 私はこのことを神の完全な真理として、はばかることなく断言する。すなわち、真のキリスト者、回心した人間は、キリストにあって非常に甘美な信仰の段階に達することができる。そこでは通常、自分の魂の赦しと安全について全く力強く確信することができ、疑いに悩まされることはめったにない。恐れで乱されることも、不安な自問自答で惑乱させられることもめったにない。つまりそれは、たとえ罪との多大な内的争闘にいらだつことはあっても、おののくことなく死を待ち望むことができ、うろたえることなく死後の審きを待望できるような段階である*1。私は云う。これこそ聖書の教理である。

 そうしたものが、私の説く確信である。読者の方々は、このことによく注意していてほしい。私が云うのは今ここで主張した通りのことであり、それ以上でも、それ以下でもない。

 さてこのような言明はしばしば異論を唱えられ、否定されるものである。多くの人々はそれが真実であるとは全く悟ることができない。

 ローマ教会は、この確信を口を極めて非難している。トリエント公会議の断定的な宣言によれば、「信仰者が自分の罪の赦しを確信できるなどということは、根拠のない不敬虔な空頼みである」、とされ、ローマカトリック信仰の著名な擁護者であるベラルミーノ枢機卿[1542-1621]は、それを「異端者たちの主要な誤り」と呼んでいる。

 また私たちの間にいる世俗的で無思慮なキリスト者たちも、その非常な大多数は、確信の教理に反対している。この教理を耳にすると彼らは気分を害し、いらだたしく思う。他の人々が甘美な確信に満ちているのが気に入らない。自分たちは一度もそのように感じたことがないからである。彼らに、あなたの罪は赦されているかどうか聞いてみるがいい。おそらく彼らは云うであろう。自分にはわからない、と! 確かに彼らが確信の教理を受け入れないのも不思議ではない。

 しかし真の信仰者の中にも、確信の教理を、危険をはらんだ教理だとして拒否したり、遠ざけたりする人々がいないわけではない。彼らはそれを僭越な増上慢と紙一重だと考えるのである。どうやら彼らは、本当にへりくだった人なら、決して確信を感じず、決して力強い信念を持たず、常に自分の魂についてある程度の疑いと、張りつめた状態の中で生き続けるものだと思っているらしい。これは遺憾なことであり、非常な害悪をもたらしつつあることである。

 私も、世の中には図々しく思い上がった人々がいることは率直に認める。彼らは確信を感ずると公言するが、それには何の聖書的な保証もない。神から悪いと思われているのに自分のことを良いと思う人々、逆に神から良いと思われているのに自分のことを悪いと思っている人々は、いつの時代にもいるものである。そうした人々は常にいる。聖書の教理のうち、濫用されたり、偽造されたりしなかったものは1つもない。神の選び、人間の無力さ、恵みによる救い、----すべてが等しく濫用されている。この世が続く限り、熱狂者や狂信者はいるであろう。しかし、これらすべてにもかかわらず、確信は現実にありえる真実のことである。そして神の子どもたちは、単に真理が濫用されているからといって、その真理を用いることから闇雲に遠ざけられてはならない*2

 私は、真実の、十分な根拠に基づいた確信が存在することを否定するすべての人々に対して、単純にこう答える。「聖書は何と云っているか?」 もしそこに確信がなければ、私は何の二の句も継ぐまい。

 しかしヨブは云ってはいないだろうか。「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る」、と(ヨブ19:25、26)。

 ダビデは云っていないだろうか。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです」(詩23:4)。

 イザヤは云っていないだろうか。「志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです」、と(イザ26:3)。

 また、「義は平和をつくり出し、義はとこしえの平穏と信頼[確信]をもたらす」、と(イザヤ32:17)。

 パウロはローマ人らに云っていないだろうか。「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」、と(ロマ8:38、39)。

 彼はコリント人らに云っていないだろうか。「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です」、と(IIコリ5:1)。

 また、「そういうわけで、私たちはいつも心強い[力強く確信している]のです。ただし、私たちが肉体にいる間は、主から離れているということも知っています」、と(IIコリ5:6)。

 彼はテモテに云っていないだろうか。「私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信しているからです」、と(IIテモ1:12)。

 また彼はコロサイ人らに「理解をもっての豊かな全き確信」*について語り(コロ2:2)、ヘブル人らに向かって「信仰の十分な確信」や「希望についての十分な確信」*について語っていないだろうか(ヘブ10:22 <英欽定訳>; 6:11)。

 ペテロははっきりと云っていないだろうか。「ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい」、と(IIペテ1:10)。

 ヨハネは云っていないだろうか。「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています」、と(Iヨハ3:14)。

 また、「私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです」、と(Iヨハ5:13)。

 さらにまた、「私たちは神からの者であることを知っています」*、と(Iヨハ5:19)。

 こうしたことに対して私たちは何と云うであろうか? 私は、論争の種となっている点について語る際は、衷心からへりくだりつつ語りたいと思う。私も、自分自身が、愚かしく、誤りやすい、アダムの子であると感じている。しかし、私が云わなくてはならないのは、今引用した箇所において見られるのは、今日の多数の信仰者たちを満足させているように見えるただの「期待」や「あてにすること」をはるかに越えた何かである、ということである。私の目に映っているのは、信念と確信と既知の言葉、----否、必然性すら込められた言葉である。そして、もしこれらの聖句をその明らかな額面通りの意味に受けとってよいとしたら、確信の教理は真実である、と少なくとも私には感じられるのである。

 しかしさらに、確信の教理を増上慢と紙一重だとして嫌うすべての人々に対する私の答えは、これである。ペテロやパウロ、ヨブやヨハネの足跡をたどるのは、到底増上慢であるとは云えないであろう。彼らはみな、この世のいかなる人よりも傑出してへりくだった、謙遜な人々であった。それにもかかわらず、彼らはみな自分の状態について、確固たる希望をもって語っている。確かにここから教えられるのは、深いへりくだりと、強い確信とは完璧に両立しうる、ということであり、必ずしも力強い霊的確信と高慢との間につながりはない、ということである*3

 さらに私の答えは、現代においてさえ多くの人々が、上の主題聖句が表現しているような確固たる希望に到達してきた、ということである。私は、これが、使徒時代に限られた特殊な特権だったなどとは一瞬たりとも認めない。わが国においても多くの信仰者が、御父と御子とのほぼ間断なき交わりの中を歩み続けているように思われる。彼らは、自分が神の和解なった御顔の光に浴し続けているという実感をほぼやむことなく覚え続けたと思われ、その体験を記録に残してきた。紙数さえ許せば私は、著名な名前をいくつも挙げることができるであろう。そうした経験はこれまでも、また今現在も存在している----それだけで十分である。

 最後に私の答えは、神が無条件に断定しておられる問題について力強い確信を感じることが誤っているはずがない、ということである。神が断固として約束しておられることを断固として信ずること、決して変わることのないみことばと神の誓いに基づいている赦しと平安について確固たる信念を持つことが、過ちのはずがない。信仰者が確信を感ずるとしたら、それは自分の内側に見られる何かにより頼んでいるのだ、などと考えるのはとんでもない間違いである。彼が頼みにしているのは、新しい契約の仲保者と真理の聖書だけである。彼は、主イエスのおことばがあだやおろそかなものではないと信じ、そのおことばを額面通りに受け取っている。結局のところ確信とは、「成熟した信仰」以外の何物でもない。それは、キリストの約束を雄々しくつかみとる信仰であり、あの善良な百人隊長のように論ずる信仰にほかならない。「ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私は直ります。なぜ疑うことがありましょう」*(マタ8:8)*4

 確かにこの世でパウロほど、自分の何かを頼んで確信しようなどということから遠かった者はないであろう。自分のことを紙上で「罪人のかしら」(Iテモ1:15)とけなすことのできた人物は、自らの咎と腐敗を深く実感していた。しかし、そのとき彼がさらに深く実感していたのは、彼に転嫁されたキリストの義の長さ広さであった。「私は、ほんとうにみじめな人間です」(ロマ7:24)と叫ぶことのできた人物は、自らの心の内側の悪の源泉について明確に認識していた。しかし、そのとき彼がさらに明確に認識していたのは、他の源泉、すなわち「あらゆる罪と汚れ」を取り除くことのできる泉であった。自分を「すべての聖徒たちのうちで一番小さな私」(エペ3:8)と考えていた人物は、自らの弱さをまざまざと、尽きることなく感じていた。しかし、そのとき彼がさらにまざまざと感じていたのは、「わたしの羊は決して滅びることがありません」(ヨハ10:28)というキリストの約束が破られることはありえない、ということであった。自分が嵐の海原に浮かぶ、ちっぽけで、はかない小舟であることを、だれか知っている者がいるとしたら、パウロこそその人であった。逆巻く波とどよめく暴風雨が自分を取り巻いていることを、だれか知っているとしたら、それは彼であった。しかしそのとき、彼は自己から目を離し、イエスに目を注いで、恐れることはなかった。彼は「安全で確かな」錨が幕の内側にあることを覚えていた(ヘブ6:19)。自分を愛し、自分のためにご自身をお捨てになったお方のことばと、みわざと、絶えざるとりなしを覚えていた。そして、他の何物でもないこのことこそ、彼をしてこれほど大胆に、「栄冠が私のために用意されているのです。主が、それを私に授けてくださるのです」、と云わせ、これほど力強い確信をもって、「あなたは私を守られる。私は、決して失望させられることがない」、と結論できるようにさせたものだったのである*5

 私は、これ以上のこの主題のこの部分にかかずらっていることはできない。しかし、私が今なしている主張、すなわち、確信は真実なことである、ということについては、それなりに説得力のある根拠を示すことが許されたと思う。

2. 人は一度もこの確固たる希望に到達しなくとも、救われていることがありうる

 先に語っておいた第二のことに話を進めたい。上で私は、人は一度もこの確固たる希望に到達しなくとも、救われていることがありうる、と云った。

 このことは何の留保もなく認めたい。一瞬たりとも私は異議を唱えはしない。私は、神が悲しませてもおられない、悔いた魂を1つでも悲しませたくはないし、今にも気を失いそうな神の子らの一人をも落胆させたくはない。また、人は確信を感じるまではキリストと何の関係もないし、キリストにあずかることもできないのだ、などという印象を与えたいとも思わない。

 人は、救いに至るキリストへの信仰を持ってはいても、使徒パウロが享受していたような確固たる希望を一度も享受したことがない、ということはありうる。信じて、自分が受け入れられたという、ほのかに光る希望を持つことと、そのように信ずることにおいて「喜びと平安」を有し、希望に満ちあふれることとは全くの別物である。神の子どもたちはみな信仰を持っている。しかし、その全員が確信を持っているわけではない。このことは決して忘れてはならないと思う。

 何人かの偉大で善良な人々が、これとは異なる意見を持っていることは承知している。私が喜んでその足元に座りたいと思うような、福音の傑出した教職者たちの多くが、私が今述べたような区別を許していないと思う。しかし私は、いかなる人をも師とは呼びたくない。私は、良心の傷を手軽に癒すことを、だれにも劣らぬほど恐れている。しかし、私が今主張したのとは異なる考え方は、宣べ伝えるのに最も不快な福音であり、魂をいのちの門から長いこと追い払うようなものであると考える*6

 私は怖じることなくこう云うことができる。すなわち、恵みによって人は、キリストのもとへ逃れて来るに足るだけの信仰を持つことができる----真実にキリストをつかみとり、真実に彼に信頼し、真実に神の子どもとなり、真実に救われることができるだけの信仰を十分持つことができる。だがしかし、その人が一生の間、多くの不安と、疑いと、恐れから、決して自由になれない、ということもありうる、と。

 古の著述家は云う。「手紙には、封印を押されずに書かれた手紙もある。同様に、恵みは心の中に書かれても、御霊がそれに確信の証印を押さないこともありうる」。

 莫大な財産の跡継ぎとして生まれた子どもがいたとしても、その子が決して自分の富について悟ることなく、子どもじみたまま生き、子どもじみたまま死に、決して自分の所有物の大きさを知らないこともありえる。それと同様に、キリストの家族に生まれた人が、たとえ救われていたとしても、ずっと赤子のままで、赤子として考え、赤子として語り、決して生ける望みを享受することも、自分の相続財産の真の特権を知ることもないということもありえる。

 それゆえ、いかなる人も私の意図を取り違えないでほしい。私が確信の現実性と特権と重要性を強調するからと云って、へんな誤解をして、まるで私が、パウロのように「栄冠が私のために用意されているのを、私は知っているし、確信している」、と云えない者以外はだれも救われていないのだ、と教えているのだなどと考えないようにしてほしい。私はそうは云っていない。そんなことは何も教えていない。

 人は救われたければ、主イエス・キリストを信ずる信仰を持たなくてはならない。このことには、いかなる異論もありえない。私は、御父に近づく道をそれ以外に知らない。私の見るところ、キリストを通してでなければ、いかなるあわれみがあるとも示されていない。人は自分の罪と失われた状態を感じなくてはならない。赦しと救いを求めてイエスのもとに来なくてはならない。彼に自分の望みをかけ、彼だけにしかかけてはならない。しかし、もしその人に、こうしたことを行なうだけの信仰がありさえするなら、それがどれほど弱く微かな信仰だったとしても、聖書の数々の保証から、その人が天国へ入れないことはありえないと私は請け合う。

 決して、決して、栄光の福音の自由さを切り詰めたり、その悠然たる広がりを削り取ったりしないようにしよう。決して私たちは、すでに高慢と罪への愛によって狭くなっている門や道を、これ以上狭くしたり、細くしたりしないようにしよう。主イエスは非常にあわれみ深く、優しい慈愛に富んでおられる。主は信仰の量ではなく、をごらんになる。その程度ではなく、その真正さを測られる。主はいかなるいたんだ葦をも折ることがなく、いかなるくすぶる燈心をも消すことがない。主には決して、十字架の下までやってきた者の中に滅びた者がいるなどと云わせるおつもりはない。主は云う。「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」(ヨハ6:37)*7

 しかり! たとえある人の信仰がからし種一粒ほどの大きさしかないとしても、それが彼をキリストのもとに至らせ、彼をキリストの衣のふさにさわらせることができるなら、彼は救われる。----パラダイスにいる最長老の聖徒に劣らないほど確実に、またペテロやヨハネやパウロに劣らないほど完全に、永遠に、救われるのである。確かに私たちの聖潔には程度の差がある。しかし私たちの義認には、何もそのようなものはない。書かれたことは書かれたことであり、決して破られることはない。「彼に信頼する者」、すなわち、何にもびくともしない強い信仰を持つ者ではなく、「彼に信頼する者は、失望させられることがない」(ロマ10:11)。

 しかし、こうしたすべての間にも忘れてならないのは、その哀れな信じる魂は、自分が赦され、神に受け入れられていることについて、十分な確信を全く持たないことがありえる、ということである。彼は恐れにつぐ恐れ、疑いにつぐ疑いに悩まされることがありえる。内心に多くの疑念を抱き、多くの不安、多くの葛藤、多くの心もとなさ、暗雲、暗闇、嵐、暴風を、生涯最後まで持ち続けることがありえる。

 もう一度云うが、キリストに対するむき出しの単純な信仰さえあれば、たとえ決して確信に到達することがなくとも、人は救われる。そう私は請け合う。しかし、その人が強く満ちあふれる慰めとともに天国に至るだろうとは請け合えない。そうした信仰が人を無事に停泊地に入港させることは請け合ってもいいが、その人がその停泊地に、満帆の状態で、力強い確信と喜びを持って入港するというようなことは請け合えない。もし彼が、その望んでいた港に、波にもまれ、暴風雨に翻弄され、わが身の安全などほとんど感じられないまま至って、目を開いたときにそこが栄光であった、ということになるとしても、私は何も驚かない。

 この、信仰と確信との区別を心に留めておくことは非常に重要であると思う。それは、求道者にとって時々理解困難と思われることを説明している。

 忘れないようにしよう。信仰は根であり、確信は花なのである。疑いもなく、根のないところに花はありえない。しかし、それと同じくらい確かなことは、根があっても花がないことはありえる、ということである。

 信仰は、あの押し合いへしあいする群衆の中で、おののきつつ背後からイエスに近づき、彼の衣のふさにさわった哀れな女である(マコ5:25)。確信は、今にも自分を殺そうとする者らの真ん中に平然と立ち、「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます」、と云っているステパノである(使7:56)。

 信仰は、「イエスさま。私を思い出してください」と叫ぶ、悔い改めた強盗である(ルカ23:42)。確信は、ちりの中に座り、できものだらけの体で、「私は知っている。私を贖う方は生きておられる」、「見よ。神が私を殺しても、私は神を待ち望もう」、と云うヨブである(ヨブ19:25; 13:15)。

 信仰は、沈みかけ、おぼれそうになったペテロの挙げた叫びである。「主よ。助けてください!」(マタ14;30)。確信は、同じペテロが後になって議会の前で宣言している姿である。「『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった。』というのはこの方のことです。この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです」(使4:11、12)。

 信仰は不安とおののきに満ちた声である。「信じます。不信仰な私をお助けください」(マコ9:24)。確信は力強い信念に満ちた挑戦である。「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。罪に定めようとするのはだれですか」(ロマ8:33、34)。信仰は、ダマスコのユダの家で、悲しみつつ盲目のまま孤独で祈っているサウロである(使9:11)。確信は、平静に墓を見据えてこう云っている老囚徒パウロである。「私は、自分の信じて来た方をよく知っています。栄冠が私のために用意されているのです」(IIテモ1:12; 4:8)。

 信仰はいのちである。何と大きな祝福であろう! いのちと死との間にある広大な隔たりを誰が云い表わし、悟りえようか? 「生きている犬は死んだ獅子にまさる」(伝9:4)。しかし、いのちは一生の間、弱く、病気がちで、不健康で、痛みに満ち、難儀で、疲れやすく、骨の折れる、喜びなく、笑顔ないものでもありえる。確信は、いのち以上のものである。それは健康であり強壮さであり、強さ、力、活力、活気、精気、雄々しさ、美しさである。

 私たちの前にあるのは、「救われたか救われていないか」の問題ではなく、「特権を受けているか受けていないか」の問題である。それは、平安があるかないかの問題ではなく、大きな平安があるか小さな平安しかないか、の問題である。この世をふらついているか、キリストの学び舎に入っているかの問題ではない。これは、その学び舎に限っての問題であって、幼年生か最上級生かの問題である。

 信仰を持つのは良いことである。もしこの論考を読む人全員が信仰を持っているとしたら、私は嬉しく思う。幸いなことよ。大いに幸いなことよ。信ずる人々は! 彼は安全である。洗われている。義と認められている。地獄の力の届かないところにいる。サタンのありったけの悪意をもってしても、決してキリストの御手から彼らを奪い取ることはできない。しかし、確信を持つ者ははるかに良い。----より多くのことを見、より多くのことを感じ、より多くのことを知り、より多くのことを楽しみ、より多くの日々を持つ、すなわち、申命記で語られている人々のように、「地上における天上の日々」(申11:21 <英欽定訳>)をより多く持つのである*8

3. 確固たる希望をことのほか願い求めるべきいくつかの理由

 先に語った三番目のことに話を移したい。ここでは、なぜ確固たる希望をことのほか願い求めるべきか、いくつか理由をあげようと思う。

 この点には特別に注意を払ってほしい。私は、確信を追い求める人が今よりずっと多く起こされることを心から願う。信じた人々のうち、あまりにも多くが疑い出し、疑い続け、疑いつつ生き、疑いつつ死に、いわば五里霧中のまま天国へ行くからである。

 「期待」や「あてにすること」を軽侮するような口調で語るのは、適切ではないであろう。しかし私が恐れているのは、私たちのあまりにも多くが、そうしたもので満足したまま座り込み、一歩も先に進まないことである。私は主の家族の中に、「私も救われるのでは」、と云うような人々が今よりもっと少なくなり、「私は知っており、確信している」、と云える人々がもっと増えてほしいと思う。おゝ、すべての信仰者が最高の賜物を貪欲に欲し、それ以下のものでは満足できないようになるとしたら、どれほど良いことか! 多くの人々は、福音が与えてくれる祝福のうち、その最高のものを取り逃している。多くの人々が、自分の魂を低次元な、飢えた状態のままにしている。その間も彼らの主はこう云い続けているというのに。「食べよ。飲め。愛する人たちよ。大いに飲め」。「求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです」(雅5:1; ヨハ16:24)。

 1. まず一番目のこととして覚えておきたいのは、確信は、現在における慰めと平安を生み出すがゆえに願い求めるべきだ、ということである。

 疑いと恐れは、真の信仰者がキリストにあって受け取れる幸福をあらかた台無しにしてしまう。不確かさと不安感は、どんな場合にも----問題が私たちの健康であれ、財産であれ、家庭であれ、愛情であれ、職業であれ----それだけでいやなものだが、私たちの魂に関することにおける不確かさと不安感は最悪である。そして明らかに信仰者は、「私はただ期待するだけです」、「あてにしているだけです」、という状態を克服できない限り、大なり小なり自分の霊的状態に関して不確かな気分を感じるであろう。言葉そのものが雄弁に語っている。彼が「期待しています」と云うのは、「私は知っています」、と云う勇気がないからなのである。

 さて確信は、神の子どもをこうした痛ましい隷属状態から自由にするため大いにあずかって力があるものであり、そのようにすることで彼の慰めに力強く寄与する。それは彼に、人生の大いなる務めには決着がついた、と感じさせる。自分の大いなる負債は返済された、大いなる病はいやされた、大いなるわざは完了した、と感じさせることができる。そして、それさえ確実であれば、それ以外のいかなる務めも病も負債もわざも、ことごとく比較的小さなものである。こうして確信は、信仰者を患難の中にあっても忍耐強くし、死別にあっても平静さを保たせ、悲しみにあるときも揺らぐことなく、悪い知らせをも恐れさせず、あらゆる状況にあって満足させる。なぜなら確信が彼に心の確固さを与えるからである。それは彼の苦き杯を甘くする。彼の十字架を軽くする。彼の旅する難路をなだらかにする。死の陰の谷を明るくする。それは彼に、自分の足の下には何か堅固なものがある、自分の手の下には何か確かなものがある----自分の旅の途中には確かな友が、旅の終わりには確かな家があるのだ----と常に感じさせる*9

 確信は、人が貧困や損失を耐え忍ぶのを助ける。それは彼にこう云うことを教えてくれる。「天国には、さらに良い、さらに長続きする財産が私を待っている。それを私は知っている。金銀は私にはないが、恵みと栄光は私のものである。それらは羽根が生えて飛んでいったりしない。たとい、いちじくの木が花を咲かせないとしても、私は主にあって喜ぼう」(ハバ3:17、18)。

 確信は、神の子どもを、いかに親しい人と死別したときも支え、「無事です」、と感じるように助ける。確信を持つ魂は、こう云うことができる。「確かに愛する者たちは私から取り去られはしたが、それでもイエスは変わることなく、永遠に生きておられる。キリストは、墓からよみがえられたお方であり、二度と死にたもうことはない。確かに私の家は血肉が望むようなものではないが、それでも私には永遠の契約、萬具(よろず)備わりて鞏固なる永久の契約があるのだ」(II列4:26; ヘブ13:8; ロマ6:9; IIサム23:5 <文語訳>)。

 確信は、人に、ピリピにおけるパウロやシラスのように、牢獄の中でも神を賛美させ、感謝させることができる。それは最も暗い夜にも信仰者に歌を与え、すべてが逆らい立つように見えるときにも喜びを与えることができる(ヨブ35:10; 詩42:8)*10

 確信は、翌日は確実な死が訪れると知っている人をも、ヘロデの地下牢におけるペテロのように安らかに眠らせることができる。それは彼にこう云うことを教える。「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます」(詩4:8)。

 確信は、エルサレムで投獄されたときの使徒たちのように、キリストのために辱めを受けることをも喜ばせることができる(使5:41)。それは人に、自分が「喜び、喜びおどる」ことのできる者であること(マタ5:12)、天にはすべての償いとなる、測り知れない重い栄光があることを思い出させる(IIコリ4:17)。

 確信は、キリストの教会の初期におけるステパノや、わが国におけるクランマーや、リドリ、ラティマ、ロジャーズ、テイラーのように、暴力による痛ましい死にも信仰者を立ち向うことができるようにする。それは、彼の心に次の聖句を浮かばせる。「からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません」(ルカ12:4)。「主イエスよ。私の霊をお受けください」(使7:59)*11

 確信は、痛みと病の中にある人を支え、その病床をことごとく整え、死にゆく枕をなめらかにする。それは彼にこう云わせることができる。「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物がある」(IIコリ5:1)。「私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです」(ピリ1:23)。「この身とこの心とは尽き果てましょう。しかし神はとこしえに私の心の岩、私の分の土地です」(詩73:26)*12

 死の時にのぞんで、確信が与えることのできる力強い慰めは、非常に重要な点である。請け合ってもいいが、いざ死を迎える時ほど、私たちにとって確信が貴重に思えることは決してない。たとえ死の間際になるまでどのように考えていたとしても、その恐るべき時に、「確固たる希望」の価値と特権を見いださないような信仰者は、ほとんどいない。漠然とした「期待」や「あてにすること」は、太陽が輝き、肉体が強い間は、申し分なく頼りになる支えである。しかし死にのぞむとき私たちには、「私は知っている」、「私は感じている」と云えるようになるものが必要となる。死の川は冷たい流れであり、私たちはそれを一人で渡らなくてはならない。地上のいかなる友も私たちを助けることはできない。最後の敵、恐怖の王は、強大な仇である。私たちの魂が世を去りつつあるとき、確信という強い葡萄酒ほど助けになる強壮剤は他にない。

 祈祷書の中の、病者訪問時の礼拝式次第には、美しい表現がある。「願わくは、全能なる神、望みをかける者すべてにとっていと強きやぐらなる神が、今よりとこしえまで、汝が守りであらんことを。汝に健康と救いを与えうべきは、世にわれらが主イエス・キリストの御名以外になし、と汝に知らせ、感じさせ給わんことを」。この礼拝式を作成した人々は、そこに並外れた知恵を示している。彼らは、人の目がかすみ、脈が弱まり、霊が世を去る間際に来たときには、キリストが私たちのためになしてくださったことを知り、感じるのでなくては、完全な平安がありえないことを知り抜いていた*13

 2. もう1つのこととして覚えておきたいのは、確信は、キリスト者が活発に働くキリスト者となるのを助けるがゆえに願い求めるべきだ、ということである。

 一般的に云って、地上でキリストのために最も多くをなす人とは、自分が何の障害もなく天国に入れるという最高に力強い確信を享受し、自分の行ないにではなくキリストの完了したみわざにより頼んでいる人である。これが信じがたいように聞こえても無理はないかもしれない。だが真実なのである。

 確固たる希望を欠いた信仰者は、自分の状態について内心を探りきわめることに多くの時間を費やす。神経質で心気症を病む人のように、彼は自分の慢性的な病気、自分の疑いや疑問、自分の葛藤や腐敗で手一杯になる。つまり、そうした人は自分の内的戦いにかかずらうあまり、しばしば、他の事柄のために使える暇がほとんどなく、神への奉仕にとれる時間がほとんどないであろう。

 しかし、パウロのような確固たる希望を持つ信仰者は、こうした苛立たしく気を散らすことから自由にされている。そうした人は、自分が赦されているかどうか、受け入れられているかどうかというような疑念で心を悩ましたりはしない。血で証印を押された永遠の契約を見つめ、完了したみわざを見つめ、主なる救い主の決して破られないおことばを見つめ、それゆえ自分の救いは決着のついたことだ、とみなす。そしてそのようにして彼は、主のみわざに一心に注意を向けることができ、そうすることで長期的には余人にまさって多くを行なうのである*14

 このことの例証として、二人の英国人移民のことを考えてみよう。この二人は、ニュージーランドかオーストラリアの隣同士の土地に入植したとしよう。彼らが、それぞれ一区画ずつ土地を与えられ、そこを開墾し耕すことになったとしよう。二人に割り当てられた土地は、広さも質も全く同じである。また彼らの土地は、必要とされるあらゆる法的文書で確保されたものとする。それは彼らの自由保有不動産として譲渡され、永久に彼らのものにされたとする。その譲渡証書を公的に登記し、人知の編み出せる限りの証書と保証書とで、その地所が確実に彼らのものであるようにされたとする。

 さて、彼らのうちの一人は、早速自分の土地を開墾し耕作できるようにする作業にとりかかったとする。毎日毎日、手を抜かず、休みなく働き続けるとする。

 その間、もう一人の方は、絶えず自分の作業を放り出し、何度となく公立登記所に赴いては、あの土地が本当に自分のものなのかどうか、何か間違いはないかどうか、結局のところあの土地を自分に譲渡した法的文書には何か欠陥があったのではないかと問いただしていたとする。

 一方は自分の権利を全然疑わずに、ひたすら働き続ける。もう一方は自分の権利が到底確かなこととは思えず、自分の時間の大半を、シドニーやメルボルンやオークランドに通って、必要もない照会をすることに費やす。

 さて、一年たったとき、この二人のどちらが仕事をはかどらせているだろうか? どちらが、より多くの土地をならし、より広い土壌を耕作し、より良い作物を実らせ、全体としてより豊かになっているだろうか?

 まともに分別のある人なら、だれでもこの問いには答えられるであろう。あえて答えを口にするまでもない。答えは1つしかない。気をそらさず、一心に打ち込む者こそ、常に、最も大きな成功に到達するものである。

 「空の上の住まい」に対する私たちの権利という問題も、ほぼこれと同じである。自分の権利を明確に悟っている信仰者、不信仰な疑いや、疑念や、ためらいで気を散らされない信仰者ほど、自分を買い取ってくださった主のために多くのわざを行なう者はない。主を喜ぶことは人の力である。ダビデは云う。「あなたの救いの喜びを、私に返してください。そうすれば、私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう」(詩51:12 <英欽定訳>)。

 使徒たちほど働いたキリスト者たちはひとりもいない。彼らは、まるで労苦するために生きていたかのようであった。キリストのために働くことは、まことに彼らの食物であり飲み物であった。彼らは自分のいのちを少しも惜しいとは思わなかった。自分の財を費やし、また自分自身をさえ使い尽くした。安逸と健康と世的な安楽さを十字架の下になげうった。しかし私の信ずるところ、こうしたことを可能にした最大の原因は、彼らの確固たる希望であった。彼らは、こう云えた人々だったのである。「私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています」(Iヨハ5:19)。

 3. また別のこととして覚えておきたいのは、確信は、キリスト者が断固たるキリスト者となるのを助けるがゆえに願い求められるべきだ、ということである。

 神の前で自分がいかなる状態にあるかを決めかねたり、疑いを抱いたりすることは、嘆かわしい悪であり、多くの悪徳の母である。それはしばしば、主に従う歩みをふらついた、落ちつきのないものにする。逆に確信は、多くの難局を切り抜ける助けとなり、キリスト者の義務の道を明確で平明なものとする助けとなる。

 多くの人々は、見たところ神の子どもであると思われ、たとい弱くとも真の恵みを有するように見受けられるにもかかわらず、実践面で絶えず種々の疑いに惑わされている。「これこれのことを行なうべきでしょうか? この家族の伝統を断ち切らなくてはならないでしょうか? あの人たちの仲間になるべきでしょうか? 許される訪問と許されない訪問との境界線はどこにあるのでしょうか? 衣服や娯楽については、どのような基準を持つべきでしょうか? 私たちはいかなる状況においても決して舞踏をしたり、決して骨牌に触れたり、決して歓楽的な宴会に出席してはならないのでしょうか?」 こうした種類の疑問が、彼らを絶えず悩ませているように思える。しかし、しばしば、非常にしばしば、彼らの困惑の単純な根源は、彼らが自分を神の子どもであると確信できていないところにある。自分が門のどちら側に立っているかがあいまいなままなのである。自分が箱舟の内側にいるか外側にいるかがわからないのである。

 神の子どもが一定の断固たるしかたで行動しなくてはならないということは、彼らも確かに感じている。しかし大きな問題は、「自分は本当に神の子どもなのか?」、ということである。そう感じられさえするなら、彼らは、断固たる明確な態度をとれるであろう。しかしそのことがあやふやなため、彼らの良心はいつまでもためらいがちで、行き詰まりに達するのである。悪魔が囁くのである。「もしかすると、結局おまえは偽善者にすぎないかもしれないではないか。なぜ、断固たる生き方などする権利があるというのだ? まずは自分が本当にキリスト者になるまで待つがいい」、と。そしてこの囁きこそ、あまりにもしばしば、天秤皿を一方に傾けてしまい、何らかの悲惨な妥協に至らせるか、浅ましいこの世への屈従に至らせるのである!

 ここにこそ、なぜ今日これほど多くの人々が、この世におけるふるまいという点で首尾一貫しない、日和見的で、不満足で、いいかげんな態度をしているのかという、1つの主要な理由があると思われる。彼らの信仰は、いざというときにくじけてしまう。彼らは自分がキリストのものであるという確信を全く感じず、それでこの世とすっぱり縁を切ることにためらいを感ずるのである。彼らは古い人の生き方をことごとく捨て去ることから尻込みする。自分が新しい人を着たかどうかがはっきりしないからである。つまり私の見るところ、彼らが「どっちつかずによろめいている」隠れた原因の1つは、ほぼ疑いなく、確信の欠如にほかならない。人々は、「主こそ神です」、ときっぱり云えるようになって初めて、非常に明確な歩みを始めることができるのである(I列18:39)。

 4. 最後に覚えておきたいのは、確信は、それが最も聖いキリスト者を生み出すのを助けるがゆえに願い求められるべきだ、ということである。

 このこともまた、信じがたいような、奇妙に聞こえることだが、それでも真実である。これは福音の逆説の1つである。一見、理性と常識に反するように見えるが、それでも事実なのである。ベラルミーノ枢機卿の言説の中でも、「確信は無頓着さと怠惰さに通ずる」、という言葉ほど真実から隔たったものはほとんどない。キリストによって無代価で赦された者こそ、常にキリストの栄光のために多くを行なうものであり、この赦しの確信を最も豊かに享受している者こそ、通常は、神と最も近い歩みを保ち続けるものである。次の言葉は真実であり、すべての信仰者によって記憶されるに値するものである。「キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします」(Iヨハ3:3)。人を清くしないような希望は、まがいものであり、迷妄であり、陥穽である*15

 だれよりも自分の心と生き方を用心深く見張り続けるであろう者、それは、だれよりも神との親しい交わりに生きる慰めを知っている者たちにほかならない。彼らは自分たちの特権を感じており、それを失うことを恐れるものである。彼らは、自分とキリストの間を曇らせることによって、その高い境地から転落し、自分の慰めを損なうことに怖じ気を震うものである。たいした所持金を持っていない旅人は危険のことなどほとんど考えず、夜の何時に旅を続けようと大して意に介さないであろう。それとは逆に、黄金や宝石を持ち歩く人は用心深く旅をするものである。彼は道筋によく目を配り、宿屋や旅の道連れに気を遣い、どんな危険も犯さない。非科学的な云い回しかもしれないが、古来より、堅く動かぬ星こそ震えること最も多し、と云う。神の和解なった御顔の光を最も十分に享受している人こそ、そのほむべき慰めを失うと考えただけでも恐れおののき、聖霊を悲しませるようなことは絶対に行なわないよう極端に用心深く汲々と歩む人であろう。

 私はこれらの4つの点を真剣に考察するよう、信仰を告白するすべてのキリスト者に勧めたい。あなたは、永遠の御腕があなたをいだくのを感じたいだろうか? 「わたしはあなたの救いだ」、と告げるイエスの御声が日ごとにあなたの魂に近づいてくるのを聞きたいだろうか? あなたの生きるこの時代において、あなたは役に立つぶどう園の働き手となりたいだろうか? あなたは大胆で、堅固で、断固たる、一途な、妥協することないキリストの弟子であると、あらゆる人から認められたいだろうか? 傑出して霊的な心を持つ清い人になりたいだろうか? まず間違いなく、読者の中にはこう云う方があるであろう。「それこそ私たちの心の望みです。それを私たちは欲しています。私たちはそれを慕いあえいでいます。なのに、それは私たちから遠く離れているのです」、と。

 ではあなたには、こういう思いが浮かんだことはないだろうか? ことによると、自分の生活の主たる敗因は、確信をないがしろにしていることにあるのではなかろうか、と。自分が程度の低い信仰で満足していることが、程度の低い平安しか持てない原因なのではなかろうか、と。あなたの種々の恵みが微かで、しだいに衰えつつあるのも、それらすべての根であり母である信仰が微弱なまま放っておかれているのだとしたら、何の不思議があるだろうか?

 今日のこの日、私の忠告を受けるがいい。信仰の増進を求めるがいい。使徒パウロのような救いの確固たる希望を求めるがいい。神の約束に対する単純で、子どものような信頼を得ることを求めるがいい。パウロとともに、「私は、自分の信じて来た方をよく知っている。私は、彼が私のものであり、私が彼のものであると確信している」、と云えるようになることを求めるがいい。

 おそらくあなたは、他の方法や手法を色々とためしてきたが、完全に失敗してきたことであろう。そうした計画を変えることである。他のやり方に移るがいい。あなたの疑いを打ち捨てるがいい。主の御腕にもっと完全に身を投げかけるがいい。絶対的に信頼することを始めるがいい。不信仰にかられて尻込みすることをやめて、主のみことばを額面通りに受け取るがいい。来て、自分自身も、魂も、罪も、あなたの恵み深い救い主に、まとめておゆだねするがいい。単純に信ずることから始めるがいい。そうすれば他のすべてはじきにあなたに加えられる*16

4. なぜ確固たる希望に到達する人がほとんどいないのか、いくつかの考えられる原因

 先に語っておいた最後のことに話を移したい。先に私が指摘すると約束しておいたのは、なぜ確固たる希望に到達する人がほとんどいないのか、いくつかの考えられる原因である。これはごく短く語ることにする。

 これは非常に真剣な問題であり、私たちがみな大いに心を探らされるべきことである。確かにキリストの民のほとんどは、このほむべき確信の精神に達していないように見える。比較的多くの人々は信じはするが、ほとんどの人は確信していない。比較的多くの人々は救いに至る信仰を持っているが、ほとんどの人はこの聖パウロの言葉に述べられているような、輝かしく力強い確信を持っていない。これが実状であることを私たちはみな認めるだろうと思う。

 では、なぜそうなのか? なぜふたりの使徒が追い求めるよう強く私たちに命じていることが、この終わりの時代には、ほとんどの信仰者が実体験として知ることのないものとなってしまっているのか? なぜ確固たる希望はこれほど見ることまれなのか?

 私はこの点に関して、心からのへりくだりをもって、いくつかの示唆を挙げてみたいと思う。私は、地上においても天においても私が喜んでその足元に座りたいと思うような多くの人々が決して確信に到達しなかったことを承知している。ことによると主は、その子どもたちの何人かには、その生来の気質のうちに、確信が彼らにとって良くないものとなりかねない何かがあるのを見ておられるのかもしれない。ことによると、そうした人が霊的健康のうちに保たれるためには、非常に低い状態にとどめられる必要があるのかもしれない。神だけがご存知である。それでも、あらゆる譲歩をした上でも私は、多くの信仰者が、あまりにもしばしば確固たる希望を持てずにいるのは、以下にあげるような原因からではないかと恐れるものである。

 1. 最もよくある原因の1つは、義認の教理の不完全な理解ではないかと思う。

 私は、多くの信仰者の思いの中で、義認と聖化が知らぬまに混同されているのではないかという気がしてならない。彼らは福音の真理を受け入れている。もし私たちがキリストの真の肢体であるなら、何かが私たちのためになされるだけでなく、何かが私たちの内側でなされなくてはならないことを受け入れている。そこまでは彼らは正しい。しかしその先で、おそらく無意識のうちに彼らは、自分の内側にある何かが、ある程度は自分の義認に影響を及ぼすのではないかという考えに染まっているように見える。彼らは、自分の行ないではなく、キリストのみわざこそが----全体的にも部分的にも、直接的にも間接的にも----神に受け入れられるための唯一の根拠であることを、はっきり悟っていないのである。義認とは、完全に私たちの外側でなされたことであって、私たちの側では単純な信仰以外に何も必要とされていないこと、またこの世で最も弱い信仰者であっても、この世で最も強い信仰者と全く同じくらい十分に、また完全に義とされていることを明確に見てとっていないのである*17

 多くの人々が忘れているように思われるのは、私たちが救われ、義と認められたのは罪人としてであり、罪人以外の何者でもない者としてであったこと、たといメトシェラのごとき長命に達しても決して罪人以上の者にはなりえないのだ、ということである。疑いもなく私たちは、贖われた罪人、義と認められた罪人、そして新しくされた罪人でなくてはならない。----しかし私たちは、最後の最後まで常に罪人であり、罪人であり、罪人なのである。彼らは、私たちの義認と私たちの聖化の間に、広大な違いがあることを把握していないように見受けられる。私たちの義認は、完全な、すでに完了したみわざであり、何の程度の差もありえない。私たちの聖化は、不完全で、いまだ完了しておらず、生涯最後の時まで未完成であり続けるものである。ところが彼らは、信仰者がその人生の何らかの時点で、腐敗からある程度自由にされ、一種の内的完全さに到達しうるものと期待しているように見える。そして、自分の心にこの天使的な状態が見られないため、たちどころに、自分の状態には何か間違ったところがあるに違いないと結論するのである。そしてそのようにして彼らは、悲しみながら一生を過ごし、自分はキリストの救いに全くあずかっていないのではないかという恐れに押しつぶされながら、決して慰められようとしないのである。

 私たちはこの点をよくよく吟味しておこう。もしもどこかに確信を願い求めながらもそれを得ていないという信仰者がいるならば、その人は何よりもまず第一に、自分がその信仰において健全であるかどうか自問してみるがいい。自分が、異なる物事をはっきり区別できているかどうか、義認という問題を完全に明確に理解しているかどうか、自問してみるがいい。単純に信じるとはどういうことか、また信仰によって義と認められるとはどういうことかを知っていなくては、確信を感じられるはずがない。

 他の多くの事柄と同じく、この件においてもあの古きガラテヤ的な異端は、教理と行ないの双方において、何よりもおびただしい数の誤りを生じさせる源泉である。人々は、キリストと、キリストが彼らのためになされたみわざとを、より明確に理解するよう努めなくてはならない。幸いなのは、「律法の行ないによってではなく、ただ信仰によって義と認められる」とはいかなることか本当に理解している人である。

 2. 確信の欠如の原因として、よくあるもう1つのことは、恵みにおける成長において怠惰であることである。

 多くの真の信仰者は、この点において危険で非聖書的な見解を抱いてるのではないかと思う。もちろん私も彼らが意図的にそうしているとは云わないが、彼らがそうした見解を抱いていることは事実である。多くの人々は、いったん回心してしまえば何も熱心に行なわなくてもいいと考えているかのように見受けられる。救われた状態とは、あたかも一種の安楽椅子であり、そこに深々と腰かけて、ぬくぬくと安んじていればいいのだと考えているかのように見える。彼らは、恵みが彼らに与えられたのは、ただそれを楽しむためなのだと夢想しているが、それがタラントと同じように使われ、用いられ、活用されるために与えられたことを忘れているように見える。こうした人々は、さらにますますそうであれ、成長せよ、ますますそのように歩め、信仰に種々の恵みを加えよ、などという、あからさまな命令の多くを見落としているのである。ならばこの、ほとんど何も行なわない状態、じっと動かない心の状態において、彼らが確信を手に入れられないとしても何の不思議もない。

 私の信ずるところ、前進こそ、私たちの絶えざる目当て、願いでなくてはならず、毎年自分の誕生日や元日を迎えるたびに私たちが発すべき合い言葉は、「ますます」(Iテサ4:1)であるべきである。自分がますます知識を加え、ますます信仰に進み、ますます従順になり、ますます愛に満ちていくことである。もし私たちが30倍の実を結ばせたなら、60倍の実を目ざすべきである。もし60倍を実らせたなら、100倍を目ざして努力すべきである。主のみこころは私たちが聖くなることであって、それが私たちの意志でもあるべきである(マタ13:23; Iテサ4:3)。

 いずれにせよ、1つのことだけは請け合ってもよい。----熱心さと確信は分かちがたく結びついている、ということである。ペテロは云う。「ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい」(IIペテ1:10)。パウロは云う。「私たちは、あなたがたひとりひとりが、同じ熱心さを示して、最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します」(ヘブ6:11)。ソロモンは云う。「勤勉な者の心は満たされる」(箴13:4)。ピューリタンらのこの古い格言には多大な真実がある。「同意する信仰は聞くことによってやって来るが、確信する信仰は行なうことなしにはやって来ない」。

 この論考を読む人々の中に、確信を願い求めながらもそれを得ていない人がいるだろうか? 私の言葉に注意するがいい。あなたは、いかにそれを切望したとしても、熱心さと勤勉さなしにそれを手に入れることは決してできない。霊的な事柄も、地上の事柄と同じく、労苦なくして報いなしである。「なまけ者は欲を起こしても心に何もない」(箴13:4)*18

 3. 確信の欠如の原因としてよくある、もう1つのことは、首尾一貫しない生き方である。

 ここで嘆きと悲しみをもって云わなくてはならないと思うのは、私が恐れるに、このことほど、人が確固たる希望に到達することをしばしば妨げるものはない、ということである。きょうのこの日、信仰告白に立つキリスト教の流れは、以前よりもずっと幅広いものとなっており、それと同時に、残念ながら、以前よりもずっと底の浅いものであると認めなくてはならないのではないかと思う。

 首尾一貫していない生活は、良心の平安にとって完全に破壊的なものである。この2つは両立しえない。互いに相手を相容れようとせず、事実、それらは並び立つことができない。もしあなたにからみつく罪があり、それを手放す気持ちになれないのなら、また必要なときに右の手を切り捨て、右の目をえぐり出すことからあなたが後ずさりしているのなら、あなたに確信が得られないことは請け合ってもいい。

 優柔不断に歩み、大胆かつ断固たる態度をとることを尻込みし、この世にはいさんで右ならえし、キリストのために証しすることはためらい、曖昧模糊としたキリスト者生活に終始し、聖潔や霊的生活の高い基準を堅く拒むこと、----これらはみな、あなたの魂の庭に葉枯れ病をもたらす確実な処方箋である。

 自分が神に赦され受け入れられていることを力強く確信したかったら、すべてのことについての、神のすべての戒めを正しいとみなし、大きかろうと小さかろうと、罪をことごとく憎むのでなくてはならない(詩119:128)。あなたの心の陣営にひとりでもアカンがいることを許すなら、あなたの手は弱められ、あなたの慰めはちりの中に這いつくばらされるであろう。日ごとに御霊のために蒔くのでなくては、御霊の証しを刈り取ることはできない。主のすべての道が喜びの道であることを知り、感じたければ、まず自分のすべての道で主を喜ばせるよう努めることである*19

 神をほめたたえるべきことに、私たちの救いは、いかなる意味においても私たち自身の行ないによって左右されはしない。恵みによって私たちは救われる----義を行なうことによってではない----律法の行ないによってではなく、信仰によって救われる。しかしいかなる信仰者にも、一瞬たりとも忘れてほしくないのは、私たちが救われたという感覚は、私たちがどのように生きているかによって大きく左右される、ということである。首尾一貫しない生き方は、私たちの目をかすませ、私たちと太陽の間を雲でさえぎらせる。雲の向こう側にある太陽は変わらないが、あなたはその輝きを見ることもその暖かみを楽しむこともできず、あなたの魂は暗鬱になり、冷たくなるであろう。善を行なう道においてこそ、確信という黎明はあなたを訪れ、あなたの心を照らし出してくれるのである。

 ダビデは云う。「主はご自身を恐れる者と親しくされ、ご自身の契約を彼らにお知らせになる」(詩25:14)。

 「その道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう」(詩50:23)。

 「あなたのみおしえを愛する者には豊かな平和があり、つまずきがありません」(詩119:165)。

 「もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち……ます」(Iヨハ1:7)。

 「私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです」(Iヨハ3:18、19)。

 「もし、私たちが神の命令を守るなら、それによって、私たちは神を知っていることがわかります」(Iヨハ2:3)。

 パウロという人物は、いつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしていた(使24:16)。彼は大胆に、「私は勇敢に戦い、信仰を守り通しました」、と云うことができた。それゆえ主が彼をして、力強い確信とともにこうつけ加えることができるようになさったのも驚くにはあたらない。「今からは、栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、主が、それを私に授けてくださるのです」、と。

 もし主イエスを信じる信仰者が確信を願い求めつつもそれを得ていないとするなら、その人はこの点をもよく考えてみるがいい。自分の心を見つめ、自分の良心を見つめ、自分の生活を見つめ、自分の生き方を見つめ、自分の家庭を見つめてみるがいい。ことによるとその人は、そうし終えた後で、「私には確固たる希望を持てない原因があった」、と云えるようになるかもしれない。

 今述べた3つのことを、私はこの論考を読むあらゆる人が各自思い巡らすのにまかせたい。確かにこれらは熟考に値することがらである。願わくは私たちが、それらを正直に吟味できるように。また願わくは主が、すべてのことにおいて私たちに悟りを与えてくださるように。

 1. さて今、この重要な問いかけのしめくくりにあたり、まず最初に、まだ自分を主に明け渡していない読者の方々に語りかけさせていただきたい。まだこの世から出てきておらず、まだ良いほうを選んでおらず[ルカ11:42]、まだキリストに従っていない方々に私は告げたい。

 そこで私があなたに願いたいのは、この主題からぜひ真のキリスト者の種々の特権と慰めを学びとってほしい、ということである。

 主イエス・キリストを彼の民によって判断してほしくはない。その最良のしもべたちでさえ、その輝かしい主人のかすかなよすがしか伝えることはできない。また私は、キリストの御国に伴う種々の特権を、キリストの民の多くが到達している程度の慰めによって判断してほしくもないと思う。悲しむべきことに私たちの大部分は、愚かしく哀れな生き物である! 私たちは自分が享受できるはずの祝福のごく小さな部分、あまりにも小さな部分しか手に入れていない。しかし、請け合っても良いが、私たちの神の都には輝かしいものがあり、確固たる希望を抱く人々は、その地上における生涯の間にすら、そのいくばくかを味わうことができる。そこには、あなたの心が思い描くこともできないような、長大で広大無辺な平安と慰めとがある。私たちの父の家には、ありあまるほどのパンがある。確かに私たちの多くは、そのごく少量しか口にしておらず、弱いままである。しかしその責めは、私たちの主に帰されてはならず、ことごとく私たちに帰されなくてはならない。

 しかし、結局のところ、神の子どものうちの最も弱い者ですら、そのうちにはあなたが何も知らないような慰めの鉱脈を有しているのである。あなたは、彼の心のうわべをよぎる葛藤や動揺を目にすることはできても、その下の奥深くに秘められた、非常に価値ある真珠は見えない。キリストの肢体のうち、もっとも弱々しい者ですら、自分の立場をあなたと交換しようとは思うまい。最低の確信しか有していない信仰者も、あなたにくらべれば、はるかに豊かである。彼には、どれほど微かでも希望があるが、あなたには何の希望もない。彼には、たとえ現在はどれほど少ししか悟っていないとしても、決して奪い去られることのない相続財産、決して彼を捨てることのない救い主、決して朽ちることのない宝がある。しかし、あなたについては、もしあなたが今のまま死ぬなら、今あなたが望みをかけていることはことごとく滅びうせるのである。おゝ、賢くなるがいい! おゝ、こうしたことがらを悟るがいい! おゝ、自分の自分の終わりをわきまえるがいい!

 いかなるときにもまして私は、世の終わりのこの時代に、あなたのことが非常に気がかりである。その宝がすべて地上にあり、その望みがすべて墓のこちら側にしかないという人々のことが非常に気がかりである。しかり! 今は古い王国や王朝がその土台まで揺さぶられている時代、数年前に私たちがみな目にしたように、王たちや君主たちや富豪たちが命からがら逃げ出して、どこに頭を隠すべきかわからぬほど惑乱する時代、公的信用に基づく財産が春先の残り雪のように溶け去り、公債や国債が紙屑になってしまう時代である。----そうしたすべてを見るとき、私が深く案ずるのは、この世が与えるもの以上の財産を何も有していない人々、取り去られることのない王国に何の地位も占めていない人々のことである*20

 きょうのこの日、キリストに仕える一牧師からの忠告を受けるがいい。あなたが求めなくてはならないのは、永続的な富、奪い去られることのない宝、永遠の土台を持つ都である。使徒パウロがしたように行なうがいい。主イエス・キリストに身をささげ、朽ちることのない栄冠を求めるがいい。キリストは喜んでそれを授けてくださる。キリストのくびきを負い、彼から学ぶがいい。決してあなたを満足させることのないような世から離れ、いつまでもしがみつき続ければ蛇のように噛みつくであろう罪から身を引き離すがいい。卑しい罪人として主イエスのもとに行くがいい。そうすれば彼はあなたを受け入れ、赦し、その更新の御霊をあなたに与え、あなたを平安で満たしてくださるであろう。これこそ、この世がこれまであなたに与えてくれたいかなる慰めにもまさる真の慰めを与えることである。あなたの心の中には、キリストの平安以外の何物も埋めることのできない空洞がある。今、足を踏み出し、私たちと同じ特権にあずかるがいい。私たちとともに来て、私たちのそばに腰をおろすがいい。

 2. 最後に、この論考を読んでいるすべての信仰者に向かって、兄弟としての忠言を二言三言語らせてほしい。

 私たちが主としてあなたに勧めたいのは、このことである。すなわち、もしあなたが、キリストにおいて受け入れられているという確固たる希望をまだ自分のものにしていないとしたら、この日、それを追い求める決意をするがいい。そのために祈るがいい。「私は、自分の信じて来た方をよく知っています」、と云えるようになるまで、主に向かって休みなく訴え続けるがいい。

 実際、今日、神の子らと目されている人々の間における確信の乏しさは、恥ずべきこと、非難すべきことと感じられる。老トレイルは云う。「実に深く嘆くべきは、多くのキリスト者たちがキリストの恵みによって召されてから20年、40年の齢を重ねてきたにもかかわらず、疑いの中を生きているということである」。私たちは、パウロが云い表わしているあの熱心な「切望」を思い起こそうではないか。それはヘブル人たちの「ひとりひとり」が、十分な確信を追い求めることであった(ヘブ6:11)。神の祝福により、私たちは、この非難を除き去るように努力しようではないか。

 信仰を持つ読者の方々に私は云いたい。あなたは、ただの期待を力強い確信に、ただあてにするだけの状態を堅い確信に、不確かさを確実な知識に取り替えたいとは本当に思っていないのだろうか? 弱い信仰でも救われるからといって、それでずっと満足していようというのだろうか? 確信がなくても天国に入れないわけではないからといって、確信のないまま地上で過ごしても満足だというのだろうか? 悲しいかな、それは魂の健全な状態ではない。それは使徒時代の思いではない! すぐさま立ち上がり、前進するがいい。いつまでも信仰の基礎的なことにしがみつき続けるのではなく、成熟を目ざして進むがいい。小さな事の日で満足していてはならない。他の人々の小さな事をさげすんではならないが、決してあなた自身がそれに満足していてはならない。

 嘘ではない。信じてほしい。確信には求める価値があるのである。自分に対するあわれみを捨てたければ、それなしで満足するのもいい。だが私が語っているのは、あなたの平安のためなのである。地上の事柄について迷いのないことが良いことだとするなら、天の事柄において迷いがないことは何といやまさってすぐれていることであろう! あなたの救いは定まった、確かなことである。神はそれを知っておられる。では、あなたもそれを知ることを求めるべきではなかろうか? そのことに非聖書的なことは何もない。パウロは決していのちの書を見たことはなかったが、それでもこう云うのである。「私は知り、また確信している」、と[IIテモ1:12]。

 それでは、あなたは信仰が増し加わるようになることを、日ごとの祈りとするがいい。あなたの信仰に応じて、あなたの平安も増し加わる。その祝福の根を養えば、遅かれ早かれ、神の祝福によって、花が咲くことを期待できよう。あなたは、ことによると一気に十分な確信に到達することはないかもしれない。時として待たされる方がよいこともある。何の苦労もなしに手に入れたものを私たちは尊ばないものである。しかし、たとえ時間がかかろうと、それを待ち望むがいい。求め続け、見出すことを期待するがいい。

 しかしながら、1つ知らずにいてほしくないことがある。あなたが確信を手に入れた後で、時折疑いに襲われることがあっても驚いてはならない。あなたは、自分が地上にいること、まだ天国にいるのではないことを忘れてはならない。あなたはまだ肉体の中にあり、あなたの内側には罪が巣くっている。肉は最後の最後まで御霊に逆らうことを願う。この古い家の壁かららい病が払拭されることは、死がこれを倒壊させる時まで決してありえない。そして、悪魔もいる。強大な悪魔がいる。----主イエスを誘惑し、ペテロを挫折させた悪魔は、あなたにもそのことを忘れさせまいと八方手を尽くすであろう。いささかの疑いは常に伴うものである。決して疑わない人には、何も失うものがないのである。決して恐れない人は、真に価値あるものを何1つ所有していないのである。決してねたまない人は、深い愛を何も知らないのである。しかし落胆してはならない。あなたは、あなたを愛してくださった方によって圧倒的な勝利者となるのである*21

 最後に、忘れてはならないのは、最もすぐれたキリスト者といえども、用心していないと、しばしの間、確信を失うことがある、ということである。

 確信は、非常に繊細な植物である。日ごとに、一時間ごとに見守り、水をやり、手入れをし、はぐくむ必要がある。だから、確信を得たならば、いやまさって油断せずに祈るがいい。ラザフォードが云うように、「確信をいとおしみなさい」。常に用心しているがいい。『天路歴程』の基督者は、あずまやで眠り込んだときに、自分の証明書をなくしてしまったのである。それを心に留めておくがいい。

 ダビデは、そむきの罪に陥ったことによって何箇月もの間、確信を失った。ぺテロも自分の主を否んだとき、それを失った。疑いもなくふたりとも再びそれを見出したが、それは苦い涙を流した後であった。霊的暗黒は騎馬でやって来るが、去って行くときは徒歩である。それは気づかぬうちにいつのまにか私たちの上にのぞんでいる。しかし去っていくときは、ゆっくりと、徐々に、多くの日を経た後のこととなる。下り坂はさっさと降りてゆける。しかし、もう一度登るのは困難である。だから私の警告を覚えておくことである。----主を喜んでいるときには、油断せず祈っているがいい。

 何よりも、御霊を悲しませてはならない。御霊を消してはならない。御霊を悩ませてはならない。小さな悪癖や些細な罪をもてあそぶことで御霊を遠くへ追いやってはならない。夫婦間にちょっとしたいさかいがあっても、家庭は不幸せになる。知りつつ放置されている首尾一貫しない生き方は、あなたと御霊の間をぎくしゃくしたものにする。

 最後に、このことを全体の結論として聞いてほしい。

 キリストにあって神と最も親しく歩む人は普通、最も大きな平安のうちに保たれる。

 最も完全にキリストに従い、最も高い程度の聖潔を目ざす信仰者は、普通、最も確固たる希望を享受し、自分の救いについて最も明確で堅い確信を持つものである。

確信[了]

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*(訳注) ジョン・バニヤン、「天路歴程 続編」 p.243(池谷敏雄訳)、新教出版社、1985[本文に戻る]

*1 「パウロを罪の断罪から解放したような十分な確信、しかり、彼をしてキリストにある感謝と勝利とをほとばしらさせるほど十分で明確な確信は、内側に巣くう罪のからだに起因するみじめな状態に対する不平と叫びと両立しえるし、実際に両立するものである」(ラザフォード:『信仰の試練と勝利』、1645)。[本文に戻る]

*2 「私たちは、『御霊の証し』を受けた、とひとりよがりに主張する者たちを片端から正当化するようなことはしない。その信仰告白が、図々しさとうぬぼれによって駆り立てられた自己推薦でしかないように見える者たちがいることは承知している。しかし私たちは、啓示されたいかなる教理をも、その結果を恐れるあまり排斥したりしないようにしようではないか」。(ロビンスン:『キリスト教の体系』)

 「真の確信は聖書の根拠に基づいている。増上慢には、保証として示せる聖書が何もない。それは証印も証人も欠いた遺言状のようなもので、法的には何の効力も価値もない。増上慢にはみことばの証言も、御霊の証印も欠けている。確信は常に心を慎ましくさせておくが、増上慢は高慢から生まれ出る。羽毛は高々と舞い上がるが、黄金はずっしりと下に落ちる。この黄金の確信を持つ者の心は、へりくだりのうちに低く下るのである」。(トマス・ワトソン:『神学要論』、Banner of Truth Trust、1974)

 「増上慢にはたるんだ生き方がつきものであり、堅い確信には鋭敏な良心がつきものである。それは、もう確かだからといって平気で罪を犯すが、これは、確信を失うことを恐れて罪を犯せない。堅い確信が罪を犯そうとしないのは、自分のために自分の救い主があれほど大きな犠牲を払ってくださったからであり、増上慢が罪を犯すのは、恵みが増し加わるためである。へりくだりは天国へ至る道である。自分が天国へ行けるものと自慢気に一人決めしている人々は、しばしば、自分が地獄に行くのではないかと不安に思っている人々ほどには、そこへ行き着けないものである」。(アダムズ、『ペテロの手紙第二の講解』、1633)[本文に戻る]

*3 「信仰とへりくだりが両立しないと考えるのは全くの誤りである。それらは互いによく調和するばかりか、切り離せないものなのである」。(ロバート・トレイル)[本文に戻る]

*4 「自分の救いを確信することは」、とアウグスティヌスは云う。「ふてぶてしい傲慢などでは全くない。信仰である。高慢ではない。信心である。増上慢ではない。神の約束なのである」。(ジューエル主教:『弁明の擁護』、1570)

 「もし私たちの確信の根拠が私たち自身のうちにあり、私たち自身によるものだとするなら、それは増上慢と呼ばれてしかるべきであろう。しかし、主と主の力強い御力がその根拠である以上、そうした確固たる力強い確信を増上慢とみなす人々は、主の力の強大さを知らないか、それをあまりにも軽くみなしているのである」。(ガウジ:『神のすべての武具』、1647)

 「いかなる根拠の上にこの確かさは基づいているのか? 確かに私たちのうちにあるいかなるものにでもない。私たちの堅忍の確信は全く神に基づいている。もし私たちが自分を見るならば、恐れと疑いのもとしかない。しかし神を仰ぎ見るならば、十分確信を抱くに足るものを見いだすのである」。(ヒルダーサム、「ヨハネ第4章について」、1632)

 「私たちの希望は、『私はそう想像します』とか、『多分そうなると思います』とかいう細糸一本で吊り下げられたものではありません。私たちの錨に堅く結びつけられた錨索、また頑強な綱であるのは、永遠の真実なるお方の誓いであり約束です。私たちの救いが結びつけられているのは、神ご自身の御手であり、キリストご自身の御力であり、神の変わることなきご性質という強固な支柱なのです」。(サミュエル・ラザフォード:『書簡集』、Banner of Truth Trust、1973)[本文に戻る]

*5 「天国への航海途上で死んだり溺れたりした信仰者は一人もいない。彼らは全員、無事に、無傷で、シオンの山の上で子羊とともにいることになる。キリストは彼らの一人をも失うことがない。しかり。ただの一人をも(ヨハ6:39)。戦場に信仰者の骨は一本たりとも見あたらない。彼らは全員、彼らを愛してくださったお方によって、圧倒的な勝利者となるのである(ロマ8:37)」。(ロバート・トレイル)[本文に戻る]

*6 この点についてさらに詳細に聞きたい読者は、本論考の末尾にある注記を参照されたい。そこには、英国における著名な神学者たちの著作から、ここで主張された見解を支持する文章が抜粋してある。抜粋とはいえ、それらは、本ページにおさめるには、あまりに膨大である。[本文に戻る]

*7 「イエスを信ずる者は決して失望させられることがない。いかなる者も決してである。あなたも、信じさえすれば、同じである。ここに挙げるのは、一人の死にゆく人が発した偉大な信仰の言葉であるが、彼は、その有罪判決と処刑の間に回心するという、異常な経験をした人である。彼の最後の言葉は、次のような大きな叫びであった。『キリスト・イエスに顔を向けたまま、滅んだ人は一人もない』」。(ロバート・トレイル:『全集』、Banner of Truth Trust、1975)[本文に戻る]

*8 「私たちに願い求めることのできる最も偉大なことは、神の栄光を除くと、私たち自身の救いである。そして私たちに願い求めることのできる最も甘美なことは、私たちの救いの確信である。この世にあって私たちは、次の世にあって享受することになるものを確証させられることほど高く上がることはできない。すべての聖徒は、地上を去るとき天国を享受することになるが、一部の聖徒は地上にいる間から天国を享受しているのである」。(ジョウゼフ・キャリル、1653)[本文に戻る]

*9 「ラティマー主教からリドリへの言葉はこうであった。『私は、自分の魂の状態について揺るぎない不動の確信のうちに生きているときには、獅子のように豪胆に感じられ、いかなる困難をも笑い飛ばすことができ、いかなる患難にをひるみはしない。しかし、私の慰めが暗く沈んでいくとき、私は心に恐れが満ち、鼠の穴にさえ駆け込みたくなるほどなのだ』」(クリストファー・ラヴによる引用、1653)

 「確信は私たちをすべての義務において助けてくれる。すべての誘惑に対して武装させてくれる。最も悲痛なおりに私たちが陥る、すべての状態において私たちを支えてくれる。『神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう』」。(レノルズ主教、「ホセア第14章について」、1642)

 「確信を持つ人は、何物をもってしても失望させることができない。神が彼のものなのである。彼はだれか友人を失っただろうか?----彼の御父は生きておられる。彼は一人っ子を失っただろうか?----神は彼にご自分のひとり子をお与えになったのである。彼はパンにも事欠いているだろうか?----神は彼に最良の小麦、いのちのパンをお与えになったのである。彼は種々の慰めを失っただろうか?----彼には慰め主がいるのである。彼は嵐に遭っただろうか?----彼はどの港に入港すれば安全か知っているのである。神こそ彼の受ける分であり、天国こそ彼の港である」。(トマス・ワトソン:『神学要論』、Banner of Truth Trust、1974)[本文に戻る]

*10 あのジョン・ブラッドフォードは、その処刑の少し前に、次のような言葉を獄中で語っていた。「私には請願したいことは何もない。もしメアリー女王が私を生かしてくれるなら、私は彼女に感謝しよう。もし彼女が私を追放するなら、私は彼女に感謝しよう。もし彼女が私を火あぶりにするなら、私は彼女に感謝しよう。もし彼女が私に終身刑を申し渡すなら、私は彼女に感謝しよう」。

 ラザフォードは、アバディーンに追放されたとき、こう語っている。「何と私の敵たちの盲目なことよ。私を牢獄や、流刑地にではなく、宴会の家へ送り込むとは」。「私の牢獄は私にとっては宮殿であり、キリストの宴会の家なのである」。(ラザフォード:『書簡集』、Banner of Truth Trust、1973)[本文に戻る]

*11 次の言葉は、1666年にエディンバラで絞首台に上ったヒュー・マッケイルが最後に口にした言葉である。「今から私は、今後二度と打ち切られない、神との交わりを始めるのだ。さらば、父よ母よ。さらば、友よ親族よ。さらば、この世とその一切の喜びよ。さらば、食物よ飲み物よ。さらば、日よ月よ星々よ。ようこそ、御父よ。ようこそ、甘やかな主イエス、新しき契約の仲保者よ。ようこそ、ほむべき恵みの御霊、すべての慰めの神よ。ようこそ、栄光よ。ようこそ、永遠のいのちよ。ようこそ、死よ。おゝ、主よ、あなたの御手にわが霊をゆだねます。あなたこそ、わが魂を贖われた方だからです。おゝ、主よ、まことの神よ!」[本文に戻る]

*12 次に挙げるのは、その死の床におけるラザフォードの言葉である。「おゝ、わが兄弟らすべてに何と知ってほしいことか。私がいかなる主人に仕えてきたか、またこの日私にいかなる平安があるかを! 私はキリストにあって眠りにつく。そして再び目覚めるとき、その御姿を見て満ち足りるのだ」。(1661)

 次に挙げるのは、その死の床におけるバクスターの言葉である。「神はほむべきかな、私は、私の永遠の幸福について、良き土台に基づく確信があり、うちには大きな平安と慰めがある」。臨終間際になって彼は、自分の人生をどう思うか尋ねられて、こう答えた。「まずまずだった」。(1691)[本文に戻る]

*13 「最も程度の小さい信仰でも死のとげを取り去ることはできる。なぜなら、それは罪の咎目を取り去るからである。しかし、信仰の十分な確信は、死の牙や顎そのものを打ち砕く。それが死の恐れや恐怖を取り去ってしまうからである」(フェアクラフ:『モーニング・エクササイズ』中の説教より)[本文に戻る]

*14 「確信は私たちを、神への奉仕に生き生きと励ませるものである。それは祈りを活性化し、従順を奮い起こさせる。信仰は私たちを歩ませるが、確信は私たちを走らせる。----自分がどれほど神に奉仕しても、決して十分ではないように思われてくるのである。確信は、鳥にとっての羽根のようなもの、時計にとっての重りのようなものであって、従順の歯車すべてを作動させる」。(トマス・ワトソン:『神学要論』、Banner of Truth Trust、1974)

 「確信は人を、主のわざに熱心な、うむことない働き人とし、多くの実を結ばせる。確信を持つキリスト者は、務めを1つなし終えると、次の務めを乞い求める。『次は何ですか、主よ』、と確信を抱く魂は云う。『お次は何でしょうか?』、と。確信を持つキリスト者は、いかなる務めにも手を伸ばし、いかなるキリストのくびきにも首を差しのべる。彼は決して自分が十分によくやったなど思わず、常に、何と僅かしか行なえていないことか、と考える。そして、できることをすべてなし終えたときには、膝まづき、『私は役に立たないしもべです』、と云うのである」。(トマス・ブルックス)[本文に戻る]

*15 「神の御霊が心の中に作り出してくださる、救いの真の確信は、この世の何物にもまさって自堕落な生き方を慎ませ、神への愛と従順とに心を固着させることができる。確かに、神の愛を信ずる信仰や確信に欠けがあるか、その確信が偽りの肉的なものであるかすることこそ、この世にはびこるありとあらゆる放縦さの真の原因である」。(ヒルダーサム、「詩篇第51篇について」)

 「だれよりもむらなく神とともに歩むのは、神の愛を確信している人々にほかならない。信仰は従順の母であり、信頼の確かさは生活の厳格さに通ずる。キリストから締まりなく離れている者は、義務という点でも締まりがなく、そうした人々のふらつく信仰は、じきに彼らの首尾一貫しない、浮き沈みの激しい歩みによって明らかになる。私たちは、自分でも成功をあやぶんでいるような物事には、てきぱき取り組めないものである。それゆえ私たちは、神が自分を受け入れてくださるか不安に覚えていたり、信頼と不信の間を行ったり来たりしている限りは、不規則な生き方を続け、衝動的なしかたで神に仕えることになる。確信という教理が怠惰なものだなどというのは、世の中傷である」。(マントン:『ヤコブ書講解』、1660、Banner of Truth Trust、1962)

 「父親と自分が実の親子であること、また父が自分を愛してくれていることを知っている息子と、そうとは思えない理由が多々あるしもべとでは、どちらの方が感謝に満ち、どちらの方が恭順になるべき義務を強く感ずるだろうか? 愛にくらべれば、恐れは弱く無力な原理である。恐怖は人をすくませるかもしれないが、愛は人を生かすものである。恐怖は人を『ほとんど確信させる』かもしれないが、愛は人を大いに確信させる。確かに経験的に云えば、愛するお方が自分のものであり、自分が愛するお方のものである(雅6:3)という信仰者の知識こそ、主イエスに対する忠実さと誠実さにおいて、最も強く強固な義務感を抱かせるものである。というのは、信ずる者にとってキリストは単に尊いお方でしかないが、自分の信仰を確信している者にとってキリストは、いやまさってはるかに尊いお方であり、『万人よりすぐれ』たお方だからである(雅5:10)」。(フェアクラフ:『モーニング・エクササイズ』中の説教より。1660)

 「人は絶えず断罪の恐怖に脅かされていなければ、用心深さを身につけたり、義務に身を入れたりすることができないのだろうか? 良き根拠に基づいた天国への期待の方が、より効果的ではなかろうか? 愛は最も高貴で、最も力強い従順の原理である。また私たちは、自分に対する神の愛を感ずるとき、神をお喜ばせしたいという願いを強くせずにはいられないはずである」(ロビンスン:『キリスト教の体系』)[本文に戻る]

*16 「神の順序を逆さまにすることほど、面倒を引き起こすことはない。ある者は云う。『もしも約束が私のものであり、キリストが私の救い主であると知ることさえできたら、信じられるのだが』、と。これはつまり、まず物を見せてくれたら信じよう、と云うに等しい。しかし本当のやり方は、全くの逆である。ダビデは云う。『ああ、私に……主のいつくしみを見ることが信じられなかったなら[私は気を失っていたことでしょう <英欽定訳>]』。彼は、まず信じた、そして後になってそれを目にしたのである」(レイトン大主教)

 「無根拠かつ無知なことだが、キリスト者らが一般に抱いている考えは、人は天国を待ち望んだり、永遠の栄光に入るためキリストに信頼したりしたければ、まず聖潔と天国にふさわしい者となることにおいて、格段の進歩を遂げなくてはならない、という考え方である。しかし、私たちの性質の最初の聖化が、キリストが私たちを受け入れてくださるという信仰と信頼とから流れ出てくるものであるように、私たちのさらなる聖化と栄光にふさわしい者となる進歩も、キリストに対する信仰を新たにし、繰り返し実践することから流れ出してくるのである」。(ロバート・トレイル:『全集』、Banner of Truth Trust、1975)[本文に戻る]

*17 ウェストミンスター信仰告白は、義認を実に見事に説明している。「神は、有効に召命した人々を、また値なしに義とされる。それは、彼らに義を注入することによってではなく、彼らの罪をゆるし・またその人格を義なるものとして認め受け入れることによってであり、彼らの中で・または彼らによってなされる何事のゆえでもなくて、ただキリストのゆえだけによる。信仰そのもの・信ずる行為・あるいはその他どんな福音的服従を彼ら自身の義として彼らに転嫁することによるのでもなくて、かえってキリストの服従と償いを彼らに転嫁し・彼らが信仰によって彼とその義とを受け・それに寄り頼むことによる」。[日本基督改革派教会/信条翻訳委員会訳『ウェストミンスター信仰告白』、p.42-43、新教出版社、1964]。[本文に戻る]

*18 「一体だれのせいで、キリストの救いにあなたがあずかれるかどうかが、いつまでも疑われているのか? もしキリスト者らがより自己吟味に励み、より神の近くを歩み、より神との近しい交わりにうちに生き、より信仰の実践に励むなら、この恥ずべき暗闇と疑念とはたちまち消え失せるであろうに」。(ロバート・トレイル:『全集』、Banner of Truth Trust、1975)

 「怠慢なキリスト者は常に4つのことに欠けている。すなわち、慰め、満足、力強い信念、確信である。神は、喜びと怠惰さの間を分離し、確信と怠慢さの間を分離しておられる。それゆえ、神がこれほど截然と引き離しておられるものを1つに合わせることは不可能である」。(トマス・ブルックス)

 「あなたは今、失意と疑いの奈落にあり、よろめき惑いながら、自分がどのような状態にあるかも、神からの赦しにあずかる権利があるかどうかも、わからずにいるだろうか? あなたは希望と恐れの間で翻弄されつつあり、平安と慰めと何物にも動じない境地を求めているだろうか? なぜあなたは突っ伏して顔を覆っているのか? 立ち上がるがいい。油断せずに祈り、断食し、瞑想し、自分の情欲と腐敗とを力づくで屈服させるがいい。恐れてはならない。それらが勘弁してくれと泣きわめいても、すくんではならない。祈りと、願いと、しつこい懇願と、休みなき請願によって恵みの御座に突き進むがいい。----これこそ神の御国を奪い取る方法である。こうした事柄は、そのまま平安でも確信でもないが、それらに到達するために神が定められた手段の一部なのである」。(ジョン・オーウェン:「詩篇130篇講解」、『罪の赦し』、Baker Book House、1977)[本文に戻る]

*19 「あなたは自分の希望が強くあってほしいだろうか? ならばあなたの良心を清く保つがいい。良心を汚せば確実に希望を弱めることになるからである。敬虔な人も、その信仰生活が締まりなく軽率なものになると、たちまちその希望が衰えてくる。魂は、いかなる罪をもてあそんでも、恐れおののき、心を震わすようになる」。(ウィリアム・ガーナル)

 「人を悩ませる1つの大きな、またあまりにもありふれた原因は、何らかの罪を自分でも知りながら、秘かに手元に留めておくことにある。……それが魂の目をつぶすか、かすませるか、効かなくするかするために、自分の状態を悟ることも感じとることもできなくなってしまう。しかし、特にそれは神を怒らせるために、神ご自身と、神の慰めと、神の御霊の助けとを引き上げさせてしまうのである」。(リチャード・バクスター:『聖徒の永遠の安息』、Evangelical Press、1979)

 「周路が最短の星々は、天球の極に最も近い。そして心が世にからみ合うことの最も少ない人は、常に神および神の恩顧の確信とに最も近いところにいる。世的なキリスト者よ、このことを覚えておくがいい。あなたと世は袂を分かたなくてはならない。さもないと確信とあなたの魂は決して相会うことがないであろう」。(トマス・ブルックス)[本文に戻る]

*20 「二重に悲惨なのは、天をも地も、一時的な宝も永遠の宝も、時の推移の中で確保されていない人である」(トマス・ブルックス)[本文に戻る]

*21 「いかなる人も常時確信を持つものではない。木立のかげにあって光と影でまだら模様になっている小道のように、ある箇所の道行きは暗闇の中にあり、別の箇所では陽光のもとにある。この世で最も強い確信を持つキリスト者の人生も通常はそのようなものである」。(ホプキンズ主教)

 「ある人が、どんなに幸福であると云うとしても、それが常に同じ心持ちのままであるとしたら、その人が偽善者でないかは非常に疑わしいものがある」。(ロバート・トレイル)[本文に戻る]



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